テノリライオン

BlueEyes RedSoul 5

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匿名ユーザー

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 今もテーブルの上にある。
 割れずに並ぶ二つのカップ。


  *  *  *


 ヒューイは木の扉にもたれて座り込み、ぼんやりと濃紺色の夜空を仰いでいた。
 丸く昇った月が、空を這う梢を黒く描き出していた。
 薄闇に沈む雑木林が彼を包んでいた。
 遠くで梟の鳴く声がした。

 ほう―――― ほう――――

 森の賢者が奏でる波紋のような鳴き声が、彼の物思いを優しく掻き乱す。

 ほう―――― ほう――――


  *  *  *


 暴徒まがいの二人の商人が、捨て台詞と共にデルフィーナの家を去った後――

「あの――」

 そこに落とされた幾分長い沈黙を破り、口を開いたのはデルフィーナだった。
 ヒューイは戸口近くに立っている。 まるで逃げて行った暴漢達を見送るかのように扉の外に目をやり、静かに立ち尽くしている。
 彼女の消え入るような呼び声に、金色の髪はゆっくりと振り返った。

「――――」
 か細い声の主は、深く俯いていた。 見えない表情の代わりに、まるで固く閉じた貝殻のようにこわばるその細い肩。 弱々しい言葉が滴る。

「申し訳……ありませんでした……。 決して、隠し立てするつもりでは……なくて……」

 自分には、人の心が聞こえる――
 その事実を明らかにする事なく接していた事を詫びようとする彼女の言葉は容易く途切れ、またすぐに沈黙が訪れる。 ヒューイはじっとそこに立ち尽くし、何も言わない。
 しんと冷たいその無音を甘んじて背負うように、デルフィーナは床に視線を落としたまま、今にも泣き出しそうな声で切れ切れに続ける。
「……信じて――頂けないとは、思いますが……。 貴方の、その――お考えを、覗き見ようなどとは、して、おりませんので……どうか、お許しを……」
 そう言って力なく頭を下げる。 そして、助けて頂いて、ありがとうございました――と言おうとした、その時。
「――すみません、考える時間を貰えますか」
 彼女はようやく、ヒューイの声を聞いた。
「……? え?」
 自分の中で全く繋がらない彼の発言に、デルフィーナは思わず伏せていた顔を上げて彼を見た。

 正視できずにいた彼の顔。 そこには――怒りもない。 恐れも怯えもない。 ただ少しだけ曇り、そして何かを苦悩するような、激しく戸惑っているような表情で、ぽつり、と――

「判らないのです」

 と言った。

「わ……からない――?」
 何を言っているのだろう。 デルフィーナは不安げに訊き返した。 それに頷いてヒューイは、静かに語り出す。 こんな一言で。
「あなたの事が心配でした」
 まるで独り言――前置きも何もない。
「こんな人里離れた所に、何故たった一人で住んでいるのか。 理由はどうあれ、いかにも寄る辺ないあなたの有り様が、私にはどうしても納得できなかった。 間違っていると、海辺を歩きながらずっとそう考えていました。 けれど事情も知らない私が何を言った所で、それはただのおせっかいというもので……つまり、流れ着いたのを助けて頂いたのに何のお返しもできない、その後ろめたさから余計な事にまで気を回してあれこれ考えてしまうのだと――そう理由をつけた」

 喋りながら同時に整理しているのか。 ヒューイはその一言一言を噛み締めるように言葉を紡ぐ。
 苛立たしそうなもどかしそうな表情は、まるで難しい問題が解けずに困っている学生のようだった。
 その顔をまた少し歪めて、しかし――と彼は言う。
「しかし、失礼ながら、私は立ち聞きしてしまいました。 あなたがここにいる、その理由(わけ)を。 勿論驚いた。 驚きました。 けれど、そんな事よりも――」

 そんな事――よりも――?
 まるでネジの切れた人形のように、落雷に打たれた機械のように、デルフィーナは彼の紡ぐ言葉に聞き入っていた。 彼女の呼吸が止まる。 時間が止まる。
 そんな中、ただその瞳の蒼だけが、少しずつ――少しずつ、溶けていく。
 溶けていく――

「私は、腹立たしかった。 苛立たしかった。 あなたがその力の為に、こんな町の外に追いやられている。 それが、その事実が、どうしようもなく――」

 ヒューイの顔が、くしゃっと歪んだ。 いつの間にか固められていた彼の拳が短く空を切る。
 しかしそれも束の間、彼はふ、と肩の力を抜く。 けれど――と言う。 静かに言葉は続く。

「けれど。 振り返れば私もまた、私の居た社会から弾かれてきた者でした。 そしてそれを、心に苦く思っていた。 本意ではなかった。 自分を追い立てた者を、恨みに――思っていたのです。 ならばこれは、この憤る感情は。 あなたの境遇にただ自分自身を重ね合わせただけの、己の為の怒りなのではないかと……そんな風に思えて」

 彼女は聞いている。 独白と告白の間を彷徨う彼の言葉を、じっと。
 今や俯いているのはヒューイの方で、デルフィーナは顔を上げてそれを見守っていた。 彼女の視線の先で、彼はゆるゆると首を振りながら、絞るように言葉を継ぐ。

「もしそうだとしたら、こんな失礼な事はありません。 安い同情ですらなく、多分に利己的な、八つ当たりにも近い感情で――ひどく未熟で――なのに。 いくらそう自分を制してみても、このどうしようもないやるせなさは、消えてくれないのです――」

 彼は疲れたように口をつぐむ。 小さな部屋に、ゆっくりと沈黙が帰ってきた。
 その場に立ち尽くすデルフィーナは何も言わない。 ただその姿はとても静かだった。 そんな彼女からわずかに顔を逸らして、ヒューイはぽつりと言う。
「……すみません、他愛もないことを」
 デルフィーナは彼を見つめたまま、いいえ――と優しく首を横に振る。 その彼女の表情からこわばりが徐々に消えていくのに気付かない様子で、ヒューイは大きく息を吸うと繕うように言った。
「少し、混乱しています。 ……今日は、この後外に出る用事は何かありますか」
「え? いいえ、特には……?」
 彼の言葉に小さく首をかしげるデルフィーナ。 ヒューイは鞘に収めたっきり手に提げていた細身の剣を腰に戻しながら、何かを振り払うかのようにやや事務的に言った。
「少々荒っぽい追い返し方をしてしまいましたので、さっきの輩がよくない考えを起こして戻って来ないとも限りません。 とりあえず今夜は番をします。 扉の外におりますので、あなたは中からしっかり鍵を掛けてお休み下さい」
 そうしてくるりと背を向け、では、と外に出ようとするヒューイ。 デルフィーナは慌てて言った。
「え、そんな、外で一晩なんて――あの、助けて頂いただけで十分ですわ、私はもう大丈夫ですから――」
「いえ、そうは行きません。 念の為です。 私も少し外で考え事がしたいので、どうぞお気になさらず」

 考え事。 デルフィーナは耳を疑う。 そして思わず叫んだ。
「あのっ!」
 その声に、ヒューイが振り返った。
 ああ、こんな場面は二度目だ。 夕刻この家を去る彼を呼び止めたその時も、この人はこんな風に――そう思いながら、彼女は言う。
「――あの。 考え事、と仰いますが……私が近くにいる状態で、それは――」

 もう自分の思考に入りかけているのだろうか。 ヒューイはどこか上の空のような、妙に無防備な表情でデルフィーナを見る。 そして不思議そうに訊いた。
「余程強い思考でなければ、読もうと思わない限り読む事はない――ではなかったでしたか」
「あ……はい、その通りですが――」
「なら問題ありません。 それでは」

 小さく口を開いたまま言葉を失うデルフィーナの前で、木の扉がぱたんと閉まった。


  *  *  *


『――……さん!』

『兄さん!』

 やがて林に訪れた重い夜の帳にくるまれて、ヒューイの思考は暗闇を漂う。
 膝を立てて沈むようにもたれる木の扉、その脇にあるガラス窓。 そこから漏れる淡い明かりを中心に、細い木立ちの群れが彼の前にぼんやりと浮かび上がっている。

 その先は、漆黒。

 彼を遠巻きに囲む黒い幕が、あるはずの景色と距離感を完全に呑み込んでいる。
 そこにヒューイの細く開いた瞳は、懐かしい弟の声と面影を映し出していた。 再生される遠い記憶の中で、二人は子犬のように小さな少年の姿をしている。


『兄さん、こっちこっち、ほら!』
 幼い弟が、ひそめた声で彼を手招きしている。 その向こうに広がるのは、南の色をした穏やかな海。
 ウィンダスは港区、口の院の屋上に、兄弟はいた。
 開けた空の下をぱたぱたと駆け寄るヒューイに、屋上の縁にしゃがみ込むエヴァリオは、しーっ、と人差し指を立ててみせる。 慌てて足音を消し、何となく背も丸めてヒューイがゆっくりと側へ寄ると、弟はそこから下を指差して言った。
『見て見て、あれ』

 屋上の淵からそっと顔だけを覗かせて見下ろせば、そこは魔導の鍛錬場。
 ひらひらのローブを纏ったタルタル達が横一列に並び、何やらむにゃむにゃと呪文を唱えている。
 唱え終わると光が広がる。
 すると彼らの前に立てられたカカシのような練習台に、火がつく。 水がかかる。 風が渦巻く。
 それを彼らは一心不乱に繰り返す。 何度も、何度も。

『何やってるんだろうね』
 寄り添うヒューイに、エヴァリオが囁く。 揃って覗き込む小さな二つの金髪を、風のかけらがふわりと乱した。
『魔法の練習だよ。 あれで外にいる魔物を倒すんだって』
 弟の小声につられてひそひそと答えるヒューイ。 エヴァリオはふーん、と鼻を鳴らす。
『変なの。 あんなんでやられる敵がいるのかなぁ。 剣で戦った方が強いよねえ、きっと』

 ちょっと小馬鹿にしたような弟の言葉に、そうかも、と笑いながら、ヒューイは改めて鍛錬場を見下ろした。
 ――うん、よくは判らないけど、あの火とか水とかは何だか弱そうだ。 急にくらったらびっくりするかもしれないけど、あれで逃げ出す魔物はいないんじゃないかな――
 弟の横でそんな事を考えながら、彼の目はじっと一人のタルタルの口元を見ていた。 かすかに聞こえてくる音と、その唇の動き。 何と言っているのかが、少しずつ判ってくる……

『……りと、ふぉれーれ、よる・はいでる……』
 何の気なしに、ほんの何の気なしに。 タルタルの口の動きに合わせて、ヒューイはその言葉を言ってみた。
 唐突な呟きを聞いた弟が、え? という顔で兄を見た、その時。

『きゃぁっ!』
 甲高い悲鳴と共に、ごうっ、という轟音が轟いた。 空気をえぐるような聞いたこともない重たい音。 エヴァリオが驚いて、はっと顔を鍛練場に戻す。
 ヒューイは――小さな目を見開く。

 轟音の正体は炎の雄叫びだった。
 ヒューイが注視していたタルタルが、何かに弾かれるように後ろに吹き飛んだかと思うと、その正面にあったカカシから大きな火の手が上がったのだ。 火炎の熱気が潮の香りを吹き飛ばし、その風は小さな兄弟のいる所まで押し寄せる。
 周囲にいた魔導士が泡を食って駆け寄り、吹き飛んだタルタルを抱き起こす。 燃え上がったカカシに水の魔法を浴びせる。 一瞬で鍛練場は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
『――え? 何だ、どうしたの?』
 おろおろと鍛練場と兄を見交わす弟の声は、石のように固まるヒューイの耳には届いていなかった。

 彼が口真似をしたタルタルの瞳。 ひどく怯え、驚愕し、まるで恐ろしい化け物を見るような瞳。
 それがまっすぐに、ヒューイを射抜いていた。
 一体私に何をしたの、今のは何、あなたは何――と、恐怖に大きく見開かれた二つの目が。

『わ……見てる、なんか見てるよ』
 そう焦りの声を上げたのは弟だ。 仲間達に助け起こされるタルタルが何事かを言うと、鍛練場にいる魔導士達が一斉に二人を見上げ始めたのだ。 それは強烈な――ぎりぎりと縛り付けるような、誰何(すいか)の視線の束。
 ヒューイはすくんだまま。 エヴァリオは気圧されたようにじりっと後ずさりながら、兄の手を強く引いた。
『行こう! 兄さん!』
 一人凍りつくヒューイの手を握り、エヴァリオは無理矢理走り出す。 引きずられるように転がるように、幼いヒューイはその魔法の箱庭から逃れたのだった。
 自分が一体何をしたのか、何が起こったのか、一つも判らないままに――


「――――」
 ふう、とヒューイは小さな溜息をついた。
 木立を抜けてきた涼しい夜風が頬をなぶる。 顔を伏せると、纏う衣装の紅い色が彼の視界を埋めた。
 座りながら抱くようにして肩口に立て掛けていた剣を、彼はゆっくりと手に取る。 鞘の上端を握り、繊細な彫刻が施された(つば)を親指で押し上げた。
 ちん、と小さな音。 柄を握り、するりとその半分ほどまで引き抜いてみる。
 鏡面のような鋼の刀身が、背後のガラス窓から漏れる明かりに鈍く浮き上がる。 そこに淡く映るのは、どこかぼんやりと漂う己の瞳。

 ――そう、忘れられないのは、あのタルタル達の目なのだ。
 まるで昆虫を手にした好奇心旺盛な幼児のように、あるいはメスを握り使命感に燃える医師のように。
 触れられたが最後、その探求心が満足するまで細かく切り刻まれ、奥の奥まで覗き込まれずには終わらない――そんな肝の冷えるような眼差しの群れに晒された幼い彼は、心の底から戦慄した。
 あの感覚が、あの寒さが、心の隅を染め抜いて離れない。

 十分に成長し、正規の過程を踏んだ赤魔導士として魔術も習得した今、魔導そのものに対する恐怖などとは無縁になった。 火も水も扱う、必要とあらば書物と向かい合って研究もする。 それはもはや彼の手足となった。
 だがしかし。
 院という空間を好きになることは、そして魔導士という人種に好意を抱き自ら歩み寄る事は、ついにできなかったのだ――


  *  *  *


「――――」
 ふう、とデルフィーナは小さな溜息をついた。
 所在なく食卓に座っている彼女は、消せない部屋の明かりをじっと見上げている。

 外で自分を護衛(ガード)してくれている赤魔導士の事を考えれば、とても寝床になどは入れなかった。
 そもそも家の明かりを消す気になれない。 いくら月明かりが照らしてくれた所で側に灯火一つなくなれば、周囲の雑木林の闇がどれだけ深くなるかを、彼女はよく知っていたから。

 窓の外に満ちる薄闇に、溶けるように響く梟の声。 カーテンを引かずにおいたガラス窓の透明な黒が、その家の主を鏡のように映す。 ぽつんと座る自分の姿を眺めながら、デルフィーナはゆっくりと思い出していた。
 この小さな家にやって来た、その日の事を――


『それじゃあね、元気で暮らすんだよ』

 石造りの家の前に立つデルフィーナに、その男性は辛そうな表情で言った。 その横では彼の妻が、目に涙を浮かべている――

 両親を早くに亡くし、その遺産と海辺の町の保護で一人生活していた少女――デルフィーナ。
 誰から受け継いだ訳でもない青い瞳、その不可解の更に裏。 両親にすら隠し通した秘密は、彼女が十六歳の時に露見する。
 凶暴な魔物の集団が町を目指している事を、彼女は町に居ながらにして警告したのだ。

 遙か遠く離れていてもびりびりと痛い程の、殺意と悪意と害意の集合体が津波のように迫るのを感じたその日。 町の人達を見捨て、一人逃げることは彼女には到底できなかった。 デルフィーナは死に物狂いで主張する。
 ――魔物が来ます! お願いだから信じて、逃げて下さい! 町を守って戦える人を、集めて下さい!
 少女はなりふり構わずに叫んだ。 この町の為に。 皆の為に。

 日々の平和にどっぷりと浸り切った町民は、少女の気でも違ったかと訝るばかりだった。 その不審げな視線にも負けず続く彼女の必死の訴えに、最初に立ち上がってくれたのは、流れ者の冒険者達。
 即座に斥候を飛ばし、遠い仲間と連絡を取り、戦乱を住み処とする彼らは揃ってデルフィーナの言葉を裏付けた。
 途端に町民は蜘蛛の子を散らすように逃げる。 残った冒険者達から瞬く間に伝令が飛び、血気盛んな戦士達が町に駆け付ける。
 そうして町は守られた。 一晩の後、恐る恐る町に戻った人々が見たのは、最小限に食い止められた破壊と、敵が落とした希少な戦利品の山。
 冒険者達はこぞってデルフィーナを称えた。 戦利品を片手にご機嫌で、可愛いヴァルキリーだ――と彼女の肩を抱く。 町の人々も、戸惑いながらも少女に詫び、礼を言う。
 これで良かった、もう大丈夫だ――と、彼女は安堵した。

 が。 流れ者は、時が来れば流れていく。
 戻る平穏。 水が染み込むように、日常の色がゆっくりと町を包み直す。
 しかしデルフィーナは、しかしデルフィーナだけは。 その色に混ざることを、許されなかった。

 ――魔物の心が判るんだってな。
 ――なら……人の心も?
 ――ああ、そうらしいぜ。

 まるでコインが裏返るように。
 まるで虫が食うように。
 暖かかったはずの彼女の周りの「町」は、少しずつ、その色を変えていく。

 表を歩くと、自分の周囲の温度が下がった。 人の話し声が消えた。 遠巻きに観察するような怯えるような、肌を刺す視線が絶えずつきまとった。
 じわじわと広がっていくその哀しい変化から、もはや逃れる術はない。 デルフィーナがそれを受け容れるまでに、大した時間はかからなかった。
 勝手に伝わってくるのは特別に強い感情だけで、それ以外の思考を読んだりはしない――そう説明しても、町民の視線は変わることはない。 彼らにとって、そんな些末な条件はどうでもいいのだ。

 ヴァルキリーは、人間(ひと)ではないのだから。

 そんな中でもどうにか懇意にしてくれていた近所の夫婦に、ある日デルフィーナは打ち明けた。
 ――町を出ようと思います。 私がいると、みんなを怯えさせてしまうから。
 夫婦は嘆き悲しんだ。 けれど彼女を止められるだけの、止めてやれるだけの力も、彼らにはなかった。 彼らは彼らで、この町で暮らして行かねばならないのだ。
 猟師だった夫は、町から少し離れた雑木林にある小さな空き家を整えた。 そして彼女に、食用になる草花の種類や生活に役立つ森の知恵を教えた。
 機織り職人だった妻は、彼女に機織り機を贈り、その扱いを教えた。 肉類や生活用品の為に、現金収入は必要だ。
 そうして彼女は、魔物の襲来から一年も経たないうちに、ひっそりとそこに移り住む事となる。

『ごめんなさいね、あんまりよね――あなたは何も悪くないのに……本当に』
 言って妻は涙をこぼす。 いいえ、と微笑んで首を横に振るデルフィーナは、彼女の心の迸りを聞いた。
 悲嘆に暮れている。 憤りを感じている。 デルフィーナの存在を許容できない、身勝手な町民の迫害と――結局はその総仕上げをしてしまう、弱く卑怯な自分達に。
 デルフィーナは責めなかった。 側に自分の心を読める存在がいると知ってしまって、人はそうそう平静でいられるものではないだろうと、彼女は理解していたから。
 だから。 その不安と恐怖を押さえ込み、自責の念と戦いながらも最後まで彼女の身を案じてくれた二人に対し、感謝こそすれ怒りや恨みなど抱けるはずもなかった。

 振り返り振り返り、落ち葉舞い散る雑木林の合間へと消えていく夫婦。
 力の限り浮かべる笑顔でそれを見送りながら、彼らの後ろ髪引かれるようなその様子がひどく愛おしかったのを、彼女はよく覚えている――


  *  *  *


 ちっ、ちっ、ちっ、ちっ――

 壁に掛かった時計が、小さく時を刻む。 デルフィーナは部屋の明かりに照らされる白い文字盤を見上げ、胸の中で呟いた。
 ――もう真夜中だ。
 そのままつと視線を下ろす。 テーブルの上、二つ並んだ白いカップ。

 彼女の中に、一つの確信が生まれていた。
 希望と言い換えてもいい。 あるいは衝動と。

 目を閉じる。 開く。
 そしてゆっくりと立ち上がると、彼女は木の扉へと歩み寄る――


to be continued
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