テノリライオン
BlueEyes RedSoul 7
最終更新:
匿名ユーザー
-
view
夏が笑って、秋が踊る。 冬が眠り、春が歌った。
舞台のように巡る季節は、ふたつめを数える。
暖かく澄み渡る青空の中で、二羽のひばりが戯れている。
楽しそうにさえずりながら、くるくると追って追われて。 流れる雲から雲へと渡り、二羽はやがて軽やかに翼を返すと、自由な大空から大地へと向かう。
その小さな影が仲むつまじげに消えていくのは、豊かに大地を覆って広がる雑木林。 レース模様を思わせる細やかな梢はすっかり木の葉を葺き替えて、そこに暮らす命達を優しく包んでいる。
ひばりは梢の迷路を抜け、その下にあった小さな屋根へころころと降り立った。
石造りの質素な家。 その煙突からは細い煙がふわりとたなびき、晴れた空へと昇っていく。
煉瓦の屋根を、木漏れ日がほのかに暖める。 その上で飛び跳ねながら、ちちち、と鳴き交わす鳥達。
その音色に混ざるのは、小さな家からかすかに漏れ聞こえる明るい笑い声だった。
それは一つ、二つ――そしてもう一つ。 おもちゃのように小さな声が、木立に抱かれた家に響く――
* * *
足を縛った紐をかついで肩から背中に下げる、まるまる太った茶色い兎の体が揺れて、ヒューイの背中をとん、とんと叩いている。
小振りの弓矢を背負い、小脇にはいくらかの薪を抱え。 以前よりも少し長い金色の髪が、彼の歩みにつれて昼の光を照り返している。
まるで散歩でもするような朗らかな面持ちで、彼は静かな雑木林を行く。
やがてそんな彼の行く手に、もうすっかり見慣れた石造りの家の、慎ましやかなたたずまいが姿を見せた。
木立と落ち葉の絨毯に囲まれたその家の傍らに見えるのは、木の揺り椅子。 そこに座る人影を認め、ヒューイはふと目を細めて微笑んだ。
長くウェーブする髪を後ろで軽く束ねて、その女性は揺り椅子に揺られている。 優しく吹き抜けるそよ風を楽しむように軽く顔を上げ、梢の向こうの青空を見上げているようだ。
と、そんな彼女の腕の中で、何かがもそもそと動く。
彼女が見下ろすと、そこからもみじのように小さな手がぴょこんと上がった。 彼女が指を出せば、ぷくぷくと小さなその手はそれを握る。 あうー、と可愛らしい声がした。
「ただいま、フィーナ」
笑顔をたたえたヒューイがそう声をかけると、揺り椅子に座るデルフィーナは顔を上げる。 そして明るい声で、おかえりなさい、と言った。
綿雲の上で、天頂に昇り切ったお日様が一息ついているような、そんな穏やかな昼下がり。
「冷えないかい?」
抱えていた薪と獲物をそっと玄関脇に置くと、ヒューイはそう訊きながら彼女に歩み寄った。
「大丈夫。 風がね、気持ちいいのよ」
微笑んで答える彼女が、腕に抱く白いもの。 笑顔を返しながらヒューイはそれを覗き込み、優しく語りかける。
「ただいま、カイト」
清潔な毛布にくるまれて母親に抱かれる可愛らしい赤子は父親を見上げ、その帰宅を、あー、という声で迎えた。
目尻を下げながら、ヒューイは息子のマシュマロのような頬を撫でる。 幼い笑い声を上げる我が子と、夫がそれを嬉しそうにあやす微笑ましい光景を、デルフィーナはまるで自分があやされているようにくすぐったげな笑顔で見守る――が。
何かが心をよぎったのだろうか。 ほころんでいた彼女の顔がちらりと陰った。 そして憚るような声で、若い母親は小さく呟く。
「……ねえ。 やっぱり、判るのかもしれないわ」
そう言ってかすかに憂うような視線を、彼女は腕の中の赤子に落とした。
きらきらと輝いて二人を見上げている、まるでひとかけらの不純物も含まずに結晶した貴石のような、見る者の目をも洗う小さな二つの瞳。
その貴石に名を見出すならば――アウイン。 アイオライト。 インディコライト。 アクアマリン。 ――サファイア。
そう、デルフィーナは鏡の中以外で初めて、その青い色を見たのだ。 幼い息子の、瞳の中に――
母親の指を放し、その母親譲りの謎めいた碧眼を細めるカイトが、子猫のような声を上げてぐずり出す。 その目元と鼻の形は、幼い頃のヒューイと瓜二つで。 まだ薄い柔らかな若草のような髪も、彼と同じ濃い金色だ。
おくるみを軽くゆすって彼らの子供をあやすデルフィーナのうなじに、ヒューイは静かに尋ねた。
「――不安かい?」
夫の気遣わしげな問いに、彼女はふっと申し訳なさそうな笑顔を見せる。 考え込むような迷うような少しの間を置いて、言葉を選び選びに彼女は語り出した。
「最近、亡くなった両親の事をね……よく思い出すのよ」
デルフィーナの町での思い出。 それは、二人で暮らすようになってからもほんの数えるほどしか聞いたことのない、引き出しの奥深くにしまいこまれた昔話だ。
ヒューイは揺り椅子の傍らにゆっくりと身を沈めると、静かに彼女の言葉に耳を傾ける。
「父も母も言っていたの。 お前は本当にものわかりのいい子だ、って。 それはそうよね。 親の言おうとしている事が、私には直に伝わっているのだもの。 でもその『ものわかりがいい』というのは多分、普通とは少し違う意味を含んでいて――」
そう言ってデルフィーナは、懐かしむような眼差しを雑木林の向こうに送る。 それは彼女の生まれた町のある方角だ。
己の手に余る深い秘密を抱えながらも、両親に愛され護られる普通の少女として暮らしたかつての日々がそこにはあった。 彼女は穏やかに続ける。
「私、赤ん坊の頃はきっと、不気味なぐらい察しのいい子だったと思うの。 両親が嬉しければ一緒に笑う。 両親が怒っていたり、辛い思いをしていれば――たとえそれを表情に出さなくても、すぐに怯えて泣き出していたんじゃないかと――思う」
遠く彼岸にいる両親に問いかけるような、細い細い言葉。 彼らが一人娘の持つ力の存在に最後まで気付かずにいてくれたことは、デルフィーナにとって唯一の救いであり、切なく苦い――幸運だった。
妻の独白を聞きながら、ヒューイは小さな息子にその視線を落とす。 文字通りの無邪気な瞳は、見上げる青空を映したように青い――
「カイトは、とても手がかからない子だわ。 寝付きもいいし、癇癪もめったに起こさないし。 まるで私の思いを聞いてくれているみたい。 この子はまだ言葉を持たないから、私にも何も伝わっては来ないけれど……」
「だいじょうぶ」
デルフィーナの消え入るような言葉の終わりに、ヒューイの声が重なった。
細い彼女の腕から、彼は息子を抱き上げる。 よしよし、と愛おしげにその命を抱きながら、問うように見上げる妻の視線に笑顔を返してヒューイは言い切った。
「大丈夫だよ。 まだそうと決まった訳じゃないさ。 君の瞳の色は不思議だ。 君の力も不思議だ。 でもこの二つに因果があると断言する事は、誰にも出来ないんだよ」
な、とおどけてヒューイは、腕の中の息子に同意を求めてみせる。 鈴を転がすような小さな笑い声が上がった。
その光景に、デルフィーナはわずかに微笑みを取り戻す。 ヒューイは静かな意志をその目に宿して、それに――と言葉を続けた。
「もし万が一。 カイトにも君のその力が……あるいは俺の力が、宿っていたとしてもだ。 この子は大丈夫。 俺達が味わったような孤独や悲しみは、カイトには無縁だ」
――俺達がいるから。
デルフィーナはゆっくりと揺り椅子から立ち上がる。 そうして頷く代わりに彼に寄り添うと、彼女は息子の額をその細い指で優しく撫でた。
「どう生まれたかよりも重要なのは、どう育つかだよ。 意志と経験で、人は出生を超えてどんな存在にもなれるんだと俺は思う。 だから、二人で見守っていこう。 心配しなくていい。 どんな力があっても、この子は俺達の子なんだから。 俺達で教えられる事は教えよう。 人の一員として、この世界で幸せにやっていく為に」
「ええ――ええ、そうね……」
二人の間で、うー、と赤子がぐずる。 この声はそろそろ眠たい声だ。 デルフィーナは微笑んで夫の腕から息子を引き取ると、慣れた手つきで、しかしそこから静かな決意を伝えるように、ぽんぽんと小さな赤子をあやすのだった。
お昼寝タイムを主張する息子を寝かしつけるべく二人並んで家の中へと戻りながら、ヒューイはさらりと言った。
「そうだな、カイトがもう少し大きくなったら、ウィンダスへ行ってみようか」
「ウィンダス? まあ、あなたの生まれ故郷へ?」
ヒューイが開けてくれる玄関の扉をくぐりながら、デルフィーナは驚いたように言った。
「うん、フィーナさえよければ。 あそこは土地柄も人ものんびりしている方だから、君でもそう負担にはならないんじゃないかと思うよ。 弟にも会わせたいんだ、君とカイトを」
「エヴァリオさんね? ええ、私もとても会ってみたいわ。 あなたにそっくりの双子の弟さんに」
嬉しそうに笑いながらデルフィーナは言ったが、ふと思い出したようにその顔を曇らせる。
「でも――いいの? ギルドの魔法使いの人達が、あなたを探してるんでしょう?」
「恐らくね」
戸口に置いておいたララブを取り上げながら妻の問いにそう頷いて、ヒューイはぱたんと扉を閉める。 デルフィーナは不安げな表情を見せるが、ヒューイの顔はどこかさっぱりとして、暗い影は微塵もない。 彼は言う。
「大丈夫、俺はもう彼らに振り回されたりはしないよ。 もし向こうがこちらを探し当てて何か騒ぎ立てたとしても、きっぱり断っておしまいだ。 いつまでも逃げてばっかりじゃ、父親失格だしね」
ほっと安心するようなデルフィーナの顔を見ながら、もっとも、そうして逃げ出してきたから、君に逢えたんだが――とは声に出さず、内心で彼は呟くのだった。
小さく灯って部屋を暖めていた暖炉が、ぱちっと爆ぜる。
人口が一気に三倍になり、すっかり物が増え手狭になったこの家の様子を、デルフィーナは喜んでいた。 増築しないと、と言うヒューイに、いつでも二人の顔が見えるからこのままでいいわと、彼女は笑った。
そういうものかとヒューイは思う。 どれだけ広くしたって、すぐに自分達の声と笑顔でいっぱいになってしまうに決まっているのに。
台所に立つデルフィーナが、鼻歌を歌っている。 意外と音痴だ。
小さなベッドの形をした玉座ですやすやと眠る幼な子は、彼を護る二人によく似ている。
まるでなくならない綿菓子のような、しあわせな、しあわせな時間が、そこに流れていた――
* * *
数日後。
いつものように軒先の揺り椅子で、デルフィーナはカイトと二人、ヒューイの帰りを待っていた。
季節はもうすっかり春で、陽がある間はぽかぽかと暖かい。 彼女は一つあくびをする。
もう家事もできるものは済ませてしまったし、あとは夫が戻ったら夕食の支度を始めるだけだ。 昨晩珍しく長い夜泣きをしたカイトに付き合ったおかげで、今日の彼女は少々寝不足だった。
いつもと変わらずゆっくりと傾き始めるうららかな日差しが、とろとろと彼女の眠気を誘う。 またあくびを一つ。
揺り椅子の動きが止まる。 大人しく眠っているカイトを膝に抱いたまま、優しい木漏れ日の中でデルフィーナはいつしかうたたねを始めていた。
「…………」
どのくらいまどろんでいたのだろうか。
腕の中のカイトがもぞもぞと身動きして、デルフィーナはふと目を覚ます。 そして半ば無意識に、半開きの目で息子を覗き込もうとして――ぴたりとその動きが止まった。
見逃しようがない。
ごく僅かながら感じる、体が芯から冷えるようなその感覚。 心を揺らす音。
これは――と、彼女がその感覚の正体に辿り着くと同時に、脳裏に鮮やかに蘇る声は。
――あんたは、可愛いヴァルキリーだ――
デルフィーナははっと怯えた視線を上げる。 すると、その先に。
この界隈には居るはずのない、ずんぐりとした体と短い手足、横向きに長い耳。 顔全体を覆うマスク、それぞれに背負う荷物。 どれも薄汚れて、およそ友好的とは程遠い姿形。
それが、彼女とその息子をじっと凝視していた。 雑木林の木陰から、一つ。 二つ。 三つ四つ五つ――
「――っ!!」
* * *
「最近、
ヒューイが所望した肉類を順に量っては紙で包みながら、町の大通りに面した肉屋の店主は世間話をする。
「余所と言うと?」
財布を取り出しながらヒューイは尋ねるが、それに赤ら顔の親父はひょいと肩をすくめて返した。
「いやぁ、あっしにゃ学がないんで、細かい事はわからねぇんですがね。 国の名前とか政治とかはさ。 ただ知り合いが言うにはね、遠い国から色々と人やら物やらがここいらにも流れ込んできたり、逆にこっちからも出て行ったりしてるそうなんで――ええと、ラム肉は五百で?」
「ああ、五百」
「へいへい――いや、今んとこうちみたいな肉屋にゃあ関係のない話ですけど。 女房が遠くに買い物に行くとね、何やら珍しい飾り物を買ってきたりするんですよ」
ほう、というヒューイの相槌に、話し好きの親父はその「珍しい物」を一つ一つ説明し始める。 綺麗な織物、機械仕掛けの人形、なめし革のバッグ。
それぞれを特産とする三つの国を思い浮かべる彼に、肉屋の親父は笑って言った。
「ま、そうそういいモンばかりとは限らねぇよなーと、あっしは思うんですがね。 物騒なモンとか厄介なモンとか、できればそういうのは来ねぇでもらいてぇなって話でさ――はい、おまちどう」
買い出した荷物を抱えて、ヒューイは午後の雑木林を歩く。
――デルフィーナに、ああ言いはしたが。
一向に音沙汰のないギルドの追っ手が、気掛かりでないと言えばそれは嘘になる。
かつてその不自然な魔術詠唱に目を留められ、研究者達につきまとわれた時の嫌悪感は、彼の胸の奥に消しようもなく刻み込まれている。 が、祖国を飛び出し海賊船に紛れ込み、後先も見ずにそこから逃れようとしていたあの衝動はと言えば、それは今はもうほとんど姿を消していて。
肉屋の親父との雑談で、彼のいる場所とウィンダスの交流が近くなっているらしい事を聞いても、不思議と焦りや恐れは浮かばなかった。
それどころか、例えまたあの学者連中とまみえる事になったとしても、むしろそれが自分の力の不思議と向き合い解明する為の糸口になるのならば――などと思うまでになっていたのだ。
この心境の変化の原因は明らかだな、と彼は小さく笑う。
この先、万が一カイトが、自分と同じ境遇に陥ったとしても。 自分をサンプルとして多少なりとその謎を解き明かしておけば、少なくとも息子はそれに怯えたり不安に思ったりしなくて済むのではないだろうか。
そう考えた彼の意識は、約二年前の逃避行、あの嵐の海飛び越え、気付けばゆっくりとウィンダスを振り返っているのだ。
「大した成長だ」
彼は苦笑いを浮かべ、行く手の木立を透かして見る。 そこに見えてくるのはいつもの、石造りの家。
「――――」
とりとめのない物思いから自分を引き上げ、ヒューイはふと眉をひそめた。 妻がいつも座っているはずの、木の揺り椅子が空――いや、倒れている。
不審な光景に引かれるように早足になり、彼は走り出す。 無惨に横倒しになった椅子に急いで駆け寄って見れば、その周囲の落ち葉がまるでかき回したように大きく乱れていた。
ヒューイの顔から血の気が引く。 抱えていた荷物を放り出し、彼は緊張した声で叫んだ。
「フィーナ! デルフィーナ!!」
呼びながらばたんと玄関を開けて中を覗き込む。 いない。
身を翻して周囲を見回す。 足早に家の周囲を回り込み――
「フィーナ!!」
彼は叫ぶと、そこに倒れている妻に駆け寄った。 かがみ込んで細い体を抱き起こす。
体は温かいが、目を閉じた彼女はぐったりとして反応がない。 その額から一筋流れる血に、ヒューイの背筋を戦慄が走り抜ける。
低く切羽詰まった声で繰り返しその名を呼び、体を揺する。 と。
「――、あ――」
ぐっとその白い顔が歪んだかと思うと、デルフィーナはうっすらとまぶたを開けて小さく呟いた。
ほうっと大きく安堵の息を吐き、血の跡を残す彼女の額にそっと手を添えながら、しかしヒューイは緊迫したまま尋ねる。
「どうした、大丈夫か。 何があったんだ。 カイトは――」
「あなたっ! あの子が、カイトが!」
息子の名前を耳にするや、デルフィーナはがばと身を起こしてヒューイにすがりついた。
「連れて、連れて行かれて――ゴブリンが! 何匹も来たの、こんな所にどうして居るのか……」
「何――!?」
取り乱す彼女は言葉が定まらない。 ヒューイの服をぎゅっと握って、デルフィーナは訴える。
「私、私、カイトを連れて逃げようとしたんだけれど、間に合わなくて――ああ、どうしてあの子が――あなた!」
「どっちへ行った」
がくがくと震え出すデルフィーナの体を家の壁にもたせかけると、ヒューイは素早く立ち上がって訊く。 彼女はうろたえる視線を彷徨わせて言った。
「どっち――ああ、ごめんなさい、カイトを取り上げられて、そのまま殴り倒されてしまったから判らないの! どうしましょう――!」
それを聞き終わらないうちに、ヒューイは踵を返すと家に走り込む。 そして十秒もしないうちに戻ってくると早口でデルフィーナに言った。 その手には細身の、しかし鍛え込まれた鋼の剣。
「探してくる。 君は家に入って、鍵を掛けて待っているんだ。 額もちゃんと手当てを。 残党がいないとも限らないから、十分注意して」
「は、はい――お願い、気をつけて――!」
「心配しないで。 すぐ戻る」
肩越しに彼はそう言って頷くとざっと周囲を見渡し、特に地面が乱れている方向を見定めて猛然と走り出す。
みるみる遠ざかり、かき消えるように木立の向こうへと走り去っていく背中。 それを見送りながら、デルフィーナは自分の手足が氷のように冷えていくのを感じていた。 立ち上がって家に入ろうとするが、四肢に力が入らずにぺたんと崩れてしまう。
「う――」
座り込んだまま、ぼろぼろと涙が溢れ出る。 両手で顔を覆い、のしかかる不安にうずくまってデルフィーナはか細い嗚咽を漏らす。
* * *
落ち葉を蹴散らし、ヒューイは森を駆け抜ける。
頭から浴びせられた熱湯に、体を覆っていた薄膜を乱暴に押し流されたようだった。
その下から剥き出しになって現れるのは、かつて魔境に身を置いていた赤魔道士としての自分だ。
走る一歩ごとに、体が思い出していく。 平穏な日々に眠っていた身体機能が次々と蘇る。 自分の目つきが豹変しているのが判る。 右手の剣が、もうないと諦めていた出番に跳ね回る。
そんな中で、怒りに理性を失わないよう己を繋ぎ止めるのに彼は必死だった。 命の次に――いや、命よりも大切なものを奪われ、こんな形で久方ぶりに目を覚ましてしまった
暴走してはいけない。 振るう剣の先には幼な子がいるのだ。
入れ替わり立ち替わりに燃え上がっては自分を突き動かす燃料――怒りと焦りに翻弄されそうになりながら、その裏で狂ったように回る頭脳が魔物の足跡を追う。 気配を探る。
風が吹いて、木立がざわめいた。
ヒューイは駆け続けていた足をぴたりと止める。 荒い息の中、森の風が運んできたかすかな匂いをその研ぎ澄まされた五感が捉えたのだ。 彼は首をめぐらせ、その匂いの来た方向に目を凝らす。
遠い茂みの向こうで何かが動いた。 弾かれたように地面を蹴り、彼はそこを目指す。 聞こえた。 いくつもの足音と、かすかな――赤子の泣き声。
怒声を迸らせそうになる喉を、かろうじて理性が押し止めた。 ヒューイは全速力で駆けると、不審な影がちらついたその茂みを一気に突き抜ける。
「――!」
一体どこへ向かっているのか。 落ち葉を踏み締めがさがさと移動する薄汚れたゴブリンの群れが、不意を突いて現れた赤魔道士を一斉に振り返った。
先頭の一匹が白いものを抱えている。 火がついたように泣き叫ぶ小さな息子の声が、彼の耳を鋭く突き、その胸を激しく灼いた。
父親は眉を吊り上げ、思い切り剣を抜き放つ。 じゃりんと火花のような音が響いた。 それを見た数匹のゴブリン達が応じるように得物を抜くと、彼の行く手を阻んで一斉に躍りかかる。
獣人の濁った声が火蓋を切る。 ヒューイはそれを、それよりも更に大きな怒号でなぎ払っていた。
「どけぇっ!!」
to be continued