テノリライオン
ルルヴァードの息吹 7
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匿名ユーザー
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「――結局、ずっと連絡していなかったのか」
半分独り言のようなヴォルフの問いに、バルトは小さく頷いた。
塔のような造りをしたジュノの中核、緩い螺旋階段を上り切った二人の姿が、その最上階、ル・ルデの庭に現れる。
そこはまさに空中庭園。 頭上も右も左も前後も、そして眼下も空、空、空。
サーキットのようにぐるりと巡る回廊は、外周を一段高く、中央を一段低く。 低くなった小さな庭の中央から針の如くにまっすぐ立つのは、幾何学的な鋭いオブジェ。
二人のエルヴァーンは傾きかけた日の光の中、回廊を反時計回りに進む。 そして二時の位置にある階段を降り、一段低くなった中央の空間へと足を踏み入れた。 先程見えたオブジェの土台が、二人をどっしりと迎えている。
そのオブジェを囲むようにあるのは、サンドリア領事館、バストゥーク領事館、そしてウィンダス領事館。 今バルトが向かうのは、星を実らせる大樹を象った紋章だ。
緑色を基調とした旗に挟まれた、ウィンダス領事館の扉が開く。
* * *
「通信を繋いで頂きたいのですが。 黒魔道士ギルドマスターの、シェリコジェリコ様に。 元ギルドメンバー、バルトルディとその付き添いの者です」
二人の鳴らした呼び鈴に応じて現れた大使館員のタルタルに、ヴォルフはそう告げた。 少々お待ち下さいと言い残し、彼は奥の部屋へと姿を消す。
残された二人の間に訪れた静寂を、バルトのついた大きな息が揺らした。 ヴォルフはそんな彼をちらりと見やったが特に声をかける事はせず、再度領事館員の消えた扉に視線を戻す。
「お待たせしました。 お話をされるそうですので、どうぞこちらへ」
ほどなくその扉が開き、二人は奥の部屋へと招かれる。
「喉を……?」
バルトの代わりに通信に立ったヴォルフがその理由を説明すると、通信機の向こうの声が、一瞬
言葉を失った。
「――暫く」
僅かな沈黙の後、相手は一言そう言ったかと思うとぷつんと回線を切った。 そして次の瞬間。
何事かと訝しむヴォルフと、少なからず緊張した面持ちのバルトの目の前、通信機の上に、一人のタルタルの姿がふわりと浮き上がった。
繊細で謎めいた意匠が凝らされた、黒いローブ、黒いマント。 フードの奥で静かな光をたたえる知性の権化のような瞳を今は薄く曇らせた、黒魔道士ギルドマスター、シェリコジェリコ。 擦りガラスでできたかのようにごく僅か向こう側の色彩を透過させる立体映像は、その魔術による思念体だった。
彼はまず、やや驚きながらも軽く頭を下げるヴォルフに、目で会釈を返す。
そして目の前のバルトに向き直ると、静かに言った。
「――久しいな」
彼の見下ろす視線の先で、バルトは、深く深く頭を下げていた。
* * *
彼がまだ、黒魔道士ギルドに所属していた頃。
ウィンダスの魔道図書館に埋もれていた古い呪文書を見つけたバルトは、その内容に――魅入られた。
そこに記述されていた魔術が行うふるまいは、被術者から五感を奪い去るという、決して世に出てはならない類の危険にして凶悪極まりないものだったのだが。
彼はそれを知りながらなお、その書を手に取ってしまった。
何故なら、そこに記されていたのは――
根源的で致命的な効果を生み出す為に織り成された、めくるめくロジック。 古の賢人達が現代に残した数々の呪文の根底を彩る理論を更に深く理解する手がかりになり得る、原始的な文法で構築されながらも高次にして強力な効果。
意欲的かつ優秀な研究員であったバルトは、その理論にこそ、知的好奇心を鷲掴みにされてしまったのだ。
『効果解除の為の呪文が記述されていません。 人里離れたベドーに篭もりますから、開発と研究の許可を下さい』
呪文書を携え、彼はギルドマスターに訴えた。 扱いによっては暴発しかねない原始的な魔術を敢えて掘り起こし、かつ彼の身を危険に晒させるリスクに躊躇いを見せるマスターに食い下がった。
ついにギルドマスターは、彼の熱意に折れる。 彼自身もまた、学術のしもべである性に逆らい切れなかったのかも知れない。
――そしてそれが、バルトとマスターの、そしてギルドとの別れになった。
ベドーで呪文の研究に入ったバルトは、その書を奪いにやってきたルカに屈する。
呪文書を渡したのではない。 他者の感覚をモノのように扱うという研究を思い切り罵られる事で、バルトは理屈と傲慢に溺れていた自分を見つけてしまった。 また改めて呪文の危険性を重く捉え、黒魔道士ギルドに対する離反に繋がる事を承知で、彼はその書を火中に投じた。
そして目の前でシーフギルドに拘引された彼女を追って、姿を消したのだった――
「顔を、上げなさい」
穏やかな声で、マスターは言った。
「過ぎた事はもう言わん。 どういう経緯があったかは知らないが……熱心な学徒であったお前が書を燃すなど、余程の事だったのだろうと思っている」
静かに言葉を進めながら、タルタルの幻影はふっと瞼を伏せた。
「正直に言えば――マリウスの書が破棄されたと知って、私は……あの呪文に出会ってしまった、居ても立ってもいられぬ憂いから――解放された」
たっぷり一分はその白髪を垂れていたバルトが、ゆっくりと身を起こす。
「ギルドからの登録抹消を覆す事はできないが……お前の判断が正解だったのかも知れないと――いや」
ようやく面を上げた彼の、まだどこか心苦しそうな視線を、黒魔道士ギルドマスターは暖かい笑顔で迎えた。
「とにかく、元気そうで良かった――同友よ」
* * *
襟を広げ露わになったバルトの首に残る、今だ生々しい黒い傷跡を見て、マスターの顔は再度曇った。
「……何ということだ……」
「異形のものの刃に負わされた傷です。 星の神子の回復呪文も及びませんでした」
重い吐息とともに姿勢を戻すマスター。 衣服を糺すバルトの横で、ヴォルフが改めて口を開いた。
「マスター。 エルシモ方面に、法外に優れた医師か薬の噂を、ご存知ありませんか」
「む……?」
「我々の仲間であるシーフが、何も告げずに今朝から行方をくらましました。 どうやらシーフギルドの上層部から、その薬か医者かの情報を得て独断で動いている可能性がありまして」
ヴォルフはかいつまんだ説明を始めた。 小さなマスターは険しい表情で彼に耳を傾けている。
「何故か彼女は連絡手段を断っており、何か危険があるのを知ってあえて一人で向かったのではないかと危惧しています。 ウィンダスにいる仲間が、シーフギルドから出て飛空挺に向かったらしき彼女を見かけたのを最後に、行方が判りません。 彼女の足取りを追いたいのですが、その薬か医者、ひいては行き先――いえ、噂そのものがそもそも我々には不確かで、判断をつかねています」
「――それで、私にか」
「はい」
ヴォルフの言葉と同時に、バルトが頷く。 そしてほとんど射るような眼差しで、マスターをひたと見据えた。
「その薬なり医師なりが、地位ある者の独占化に置かれているという噂も耳にしました。 ギルドマスターとして、何かご存知ではありませんでしょうか」
長い問いかけが終わる。 領事館の一室に、静かに張り詰めた沈黙が訪れた。
やがて、バルトの視線を避けるようにじっと目を閉じていたマスターはゆっくりと瞼を上げ、口を開いた。
「聞くまでもないだろうが、そのシーフは、バルトルディの声帯を治そうと……」
「それに向けて動いているとすれば、間違いありません」
きっぱりと答えるヴォルフの言葉に、バルトはやるせなさげな息を吸い込んで俯いた。
「そうか……。 その人は――お前の、大事な人、なのだな?」
彼のその、辛そうな面持ちに。 マスターは今度はバルトに向かい、柔らかく訊いた。
バルトは答えるべく顔を上げる。 が。
ただ頷こうとして、それでは足りない事に彼は気付いた。 ずっとメモを握っていた手がぴくりと動くが、そこに何と記せばよいのか咄嗟に判らず、切ない焦りを吐き出せない痛みに彼の動きが一瞬固まる。
と、そんな彼の隣に立つヴォルフが、ぽつりと言った。
「――彼の、半身です」
意表を突かれたように、バルトはヴォルフを見る。 が、そのたった一言と、その言葉をくれたっきり前に向けたまま静かな赤魔道士の眼差しに、自分の中のもどかしい焦りがすぅっと溶かされていくのを、彼は確かに感じたのだった。
そう、今の二人に、これ以上に相応しい言葉があるだろうか――
バルトもすっと視線を正面に戻す。 そして、瞳で強く頷いた。
そんな彼らの様子に――ヴォルフのさりげない言葉に、バルトの揺るぎない首肯に、そして二人を繋ぐ空気に。 マスターの目元が愛しげにほころんだ。
しかしそれも束の間。 その表情はふっと、そしてみるみる厳しく険しくなる。
「――ならば、教えよう」
おぼろに宙に浮かぶ、漆黒のローブのタルタルは、絞り出すように語り始めた。
「そして急ぎなさい。 その噂は半分は正しく、半分は誤っている。 一部の裕福な層や地位ある者がそれによって満足な五体を取り戻しているのは本当だ。 だがあれは、薬でも医者でもなく――――――」
数刻の後。
二人のエルヴァーンを乗せた飛空挺が、重たい夕日を受けながらエルシモ島へと飛び立っていった。
* * *
細い細い絹糸を集めて垂らしたような滝が、遥か頂上に夕日を頂いて涼やかに流れ落ちている。
その冷たい清流のカーテンを、にぎやかな亜熱帯の植物たちが取り囲む。
しかし南国エルシモ島の名産とも言える、頭上から容赦なく叩きつけるレーザーのような陽光がすっかり傾いてしまった今、真っ赤な食虫植物も高々と誇らしげなパームツリーも自慢の鮮やかさを損ねて、少し寂しそうだ。
そんな冷たい絹糸が流れ落ちる池のほとりに、栗毛のミスラが立っている。
与えられた仕事に向かう、機械のような目をして立っている。
しかし、その無機質な佇まいとは裏腹に――
機械と言い切るにはあまりに、彼女の原動力は鮮烈にすぎた。
仕事と言い切るにはあまりに、彼女はその成功を渇望しすぎていた。
そしてそのアンバランスこそが、これから挑む綱渡りの綱に吹く、突風になることを。
彼女は、よく知っていた。
無色透明な彼女の眼差しが僅かに揺らぐ。
上がらない、上げ切れない己の純度に苛立っている。
彼女の頭上で少しずつ落ちていく夕日が、そびえ立つ崖と滝のてっぺんに降り立った。
ゆっくりと、高い水平線の向こうに姿を隠していく光。 それにつれて正面からじわじわと忍び寄っていた薄闇が、ついに彼女のつま先にひたと手をかけた。
その冷気を感じたかのように、彼女はやや俯いていた視線をきっと上げる。
そして後ろを振り向くことなく、決然とした足取りでその日陰に飛び込むと、池を回って滝の向こうへと姿を消した。
海蛇の洞窟の入り口へと、姿を消した。
to be continued
半分独り言のようなヴォルフの問いに、バルトは小さく頷いた。
塔のような造りをしたジュノの中核、緩い螺旋階段を上り切った二人の姿が、その最上階、ル・ルデの庭に現れる。
そこはまさに空中庭園。 頭上も右も左も前後も、そして眼下も空、空、空。
サーキットのようにぐるりと巡る回廊は、外周を一段高く、中央を一段低く。 低くなった小さな庭の中央から針の如くにまっすぐ立つのは、幾何学的な鋭いオブジェ。
二人のエルヴァーンは傾きかけた日の光の中、回廊を反時計回りに進む。 そして二時の位置にある階段を降り、一段低くなった中央の空間へと足を踏み入れた。 先程見えたオブジェの土台が、二人をどっしりと迎えている。
そのオブジェを囲むようにあるのは、サンドリア領事館、バストゥーク領事館、そしてウィンダス領事館。 今バルトが向かうのは、星を実らせる大樹を象った紋章だ。
緑色を基調とした旗に挟まれた、ウィンダス領事館の扉が開く。
* * *
「通信を繋いで頂きたいのですが。 黒魔道士ギルドマスターの、シェリコジェリコ様に。 元ギルドメンバー、バルトルディとその付き添いの者です」
二人の鳴らした呼び鈴に応じて現れた大使館員のタルタルに、ヴォルフはそう告げた。 少々お待ち下さいと言い残し、彼は奥の部屋へと姿を消す。
残された二人の間に訪れた静寂を、バルトのついた大きな息が揺らした。 ヴォルフはそんな彼をちらりと見やったが特に声をかける事はせず、再度領事館員の消えた扉に視線を戻す。
「お待たせしました。 お話をされるそうですので、どうぞこちらへ」
ほどなくその扉が開き、二人は奥の部屋へと招かれる。
「喉を……?」
バルトの代わりに通信に立ったヴォルフがその理由を説明すると、通信機の向こうの声が、一瞬
言葉を失った。
「――暫く」
僅かな沈黙の後、相手は一言そう言ったかと思うとぷつんと回線を切った。 そして次の瞬間。
何事かと訝しむヴォルフと、少なからず緊張した面持ちのバルトの目の前、通信機の上に、一人のタルタルの姿がふわりと浮き上がった。
繊細で謎めいた意匠が凝らされた、黒いローブ、黒いマント。 フードの奥で静かな光をたたえる知性の権化のような瞳を今は薄く曇らせた、黒魔道士ギルドマスター、シェリコジェリコ。 擦りガラスでできたかのようにごく僅か向こう側の色彩を透過させる立体映像は、その魔術による思念体だった。
彼はまず、やや驚きながらも軽く頭を下げるヴォルフに、目で会釈を返す。
そして目の前のバルトに向き直ると、静かに言った。
「――久しいな」
彼の見下ろす視線の先で、バルトは、深く深く頭を下げていた。
* * *
彼がまだ、黒魔道士ギルドに所属していた頃。
ウィンダスの魔道図書館に埋もれていた古い呪文書を見つけたバルトは、その内容に――魅入られた。
そこに記述されていた魔術が行うふるまいは、被術者から五感を奪い去るという、決して世に出てはならない類の危険にして凶悪極まりないものだったのだが。
彼はそれを知りながらなお、その書を手に取ってしまった。
何故なら、そこに記されていたのは――
根源的で致命的な効果を生み出す為に織り成された、めくるめくロジック。 古の賢人達が現代に残した数々の呪文の根底を彩る理論を更に深く理解する手がかりになり得る、原始的な文法で構築されながらも高次にして強力な効果。
意欲的かつ優秀な研究員であったバルトは、その理論にこそ、知的好奇心を鷲掴みにされてしまったのだ。
『効果解除の為の呪文が記述されていません。 人里離れたベドーに篭もりますから、開発と研究の許可を下さい』
呪文書を携え、彼はギルドマスターに訴えた。 扱いによっては暴発しかねない原始的な魔術を敢えて掘り起こし、かつ彼の身を危険に晒させるリスクに躊躇いを見せるマスターに食い下がった。
ついにギルドマスターは、彼の熱意に折れる。 彼自身もまた、学術のしもべである性に逆らい切れなかったのかも知れない。
――そしてそれが、バルトとマスターの、そしてギルドとの別れになった。
ベドーで呪文の研究に入ったバルトは、その書を奪いにやってきたルカに屈する。
呪文書を渡したのではない。 他者の感覚をモノのように扱うという研究を思い切り罵られる事で、バルトは理屈と傲慢に溺れていた自分を見つけてしまった。 また改めて呪文の危険性を重く捉え、黒魔道士ギルドに対する離反に繋がる事を承知で、彼はその書を火中に投じた。
そして目の前でシーフギルドに拘引された彼女を追って、姿を消したのだった――
「顔を、上げなさい」
穏やかな声で、マスターは言った。
「過ぎた事はもう言わん。 どういう経緯があったかは知らないが……熱心な学徒であったお前が書を燃すなど、余程の事だったのだろうと思っている」
静かに言葉を進めながら、タルタルの幻影はふっと瞼を伏せた。
「正直に言えば――マリウスの書が破棄されたと知って、私は……あの呪文に出会ってしまった、居ても立ってもいられぬ憂いから――解放された」
たっぷり一分はその白髪を垂れていたバルトが、ゆっくりと身を起こす。
「ギルドからの登録抹消を覆す事はできないが……お前の判断が正解だったのかも知れないと――いや」
ようやく面を上げた彼の、まだどこか心苦しそうな視線を、黒魔道士ギルドマスターは暖かい笑顔で迎えた。
「とにかく、元気そうで良かった――同友よ」
* * *
襟を広げ露わになったバルトの首に残る、今だ生々しい黒い傷跡を見て、マスターの顔は再度曇った。
「……何ということだ……」
「異形のものの刃に負わされた傷です。 星の神子の回復呪文も及びませんでした」
重い吐息とともに姿勢を戻すマスター。 衣服を糺すバルトの横で、ヴォルフが改めて口を開いた。
「マスター。 エルシモ方面に、法外に優れた医師か薬の噂を、ご存知ありませんか」
「む……?」
「我々の仲間であるシーフが、何も告げずに今朝から行方をくらましました。 どうやらシーフギルドの上層部から、その薬か医者かの情報を得て独断で動いている可能性がありまして」
ヴォルフはかいつまんだ説明を始めた。 小さなマスターは険しい表情で彼に耳を傾けている。
「何故か彼女は連絡手段を断っており、何か危険があるのを知ってあえて一人で向かったのではないかと危惧しています。 ウィンダスにいる仲間が、シーフギルドから出て飛空挺に向かったらしき彼女を見かけたのを最後に、行方が判りません。 彼女の足取りを追いたいのですが、その薬か医者、ひいては行き先――いえ、噂そのものがそもそも我々には不確かで、判断をつかねています」
「――それで、私にか」
「はい」
ヴォルフの言葉と同時に、バルトが頷く。 そしてほとんど射るような眼差しで、マスターをひたと見据えた。
「その薬なり医師なりが、地位ある者の独占化に置かれているという噂も耳にしました。 ギルドマスターとして、何かご存知ではありませんでしょうか」
長い問いかけが終わる。 領事館の一室に、静かに張り詰めた沈黙が訪れた。
やがて、バルトの視線を避けるようにじっと目を閉じていたマスターはゆっくりと瞼を上げ、口を開いた。
「聞くまでもないだろうが、そのシーフは、バルトルディの声帯を治そうと……」
「それに向けて動いているとすれば、間違いありません」
きっぱりと答えるヴォルフの言葉に、バルトはやるせなさげな息を吸い込んで俯いた。
「そうか……。 その人は――お前の、大事な人、なのだな?」
彼のその、辛そうな面持ちに。 マスターは今度はバルトに向かい、柔らかく訊いた。
バルトは答えるべく顔を上げる。 が。
ただ頷こうとして、それでは足りない事に彼は気付いた。 ずっとメモを握っていた手がぴくりと動くが、そこに何と記せばよいのか咄嗟に判らず、切ない焦りを吐き出せない痛みに彼の動きが一瞬固まる。
と、そんな彼の隣に立つヴォルフが、ぽつりと言った。
「――彼の、半身です」
意表を突かれたように、バルトはヴォルフを見る。 が、そのたった一言と、その言葉をくれたっきり前に向けたまま静かな赤魔道士の眼差しに、自分の中のもどかしい焦りがすぅっと溶かされていくのを、彼は確かに感じたのだった。
そう、今の二人に、これ以上に相応しい言葉があるだろうか――
バルトもすっと視線を正面に戻す。 そして、瞳で強く頷いた。
そんな彼らの様子に――ヴォルフのさりげない言葉に、バルトの揺るぎない首肯に、そして二人を繋ぐ空気に。 マスターの目元が愛しげにほころんだ。
しかしそれも束の間。 その表情はふっと、そしてみるみる厳しく険しくなる。
「――ならば、教えよう」
おぼろに宙に浮かぶ、漆黒のローブのタルタルは、絞り出すように語り始めた。
「そして急ぎなさい。 その噂は半分は正しく、半分は誤っている。 一部の裕福な層や地位ある者がそれによって満足な五体を取り戻しているのは本当だ。 だがあれは、薬でも医者でもなく――――――」
数刻の後。
二人のエルヴァーンを乗せた飛空挺が、重たい夕日を受けながらエルシモ島へと飛び立っていった。
* * *
細い細い絹糸を集めて垂らしたような滝が、遥か頂上に夕日を頂いて涼やかに流れ落ちている。
その冷たい清流のカーテンを、にぎやかな亜熱帯の植物たちが取り囲む。
しかし南国エルシモ島の名産とも言える、頭上から容赦なく叩きつけるレーザーのような陽光がすっかり傾いてしまった今、真っ赤な食虫植物も高々と誇らしげなパームツリーも自慢の鮮やかさを損ねて、少し寂しそうだ。
そんな冷たい絹糸が流れ落ちる池のほとりに、栗毛のミスラが立っている。
与えられた仕事に向かう、機械のような目をして立っている。
しかし、その無機質な佇まいとは裏腹に――
機械と言い切るにはあまりに、彼女の原動力は鮮烈にすぎた。
仕事と言い切るにはあまりに、彼女はその成功を渇望しすぎていた。
そしてそのアンバランスこそが、これから挑む綱渡りの綱に吹く、突風になることを。
彼女は、よく知っていた。
無色透明な彼女の眼差しが僅かに揺らぐ。
上がらない、上げ切れない己の純度に苛立っている。
彼女の頭上で少しずつ落ちていく夕日が、そびえ立つ崖と滝のてっぺんに降り立った。
ゆっくりと、高い水平線の向こうに姿を隠していく光。 それにつれて正面からじわじわと忍び寄っていた薄闇が、ついに彼女のつま先にひたと手をかけた。
その冷気を感じたかのように、彼女はやや俯いていた視線をきっと上げる。
そして後ろを振り向くことなく、決然とした足取りでその日陰に飛び込むと、池を回って滝の向こうへと姿を消した。
海蛇の洞窟の入り口へと、姿を消した。
to be continued