準決勝戦【旧校舎】その2「ダイハチのカイダン:旧校舎跡の学園祭」
「合法先生、休もう。
神星翠の能力でも、食事が不要なわけじゃない」
姫代学園理事会の確保したセーフハウス。
薄暗いその一室で、
合法律子は、震える指で写真を仕分けていた。
まだ脳には、祭りの残滓がこびりついている。
笑顔。破裂。歓声。消滅。楽しい。哄笑。ハレの日。
終わらない。消えない。消えてくれない。囚われている。染められている。
世界の前提が、塗りつぶされている。塗り替えられている。反転している。
それでもなお、彼女の中にかすかに残された何かがその指を動かしていた。
「……学、園祭……生徒……きょう、し……」
やがて、合法律子は、仕分けを終えた。
まずは『神星翠の学園祭』に、参加していた生徒・教師のグループ。
その中から、祭の狂乱で死んだ生徒・教師のグループ。
いまだ会話すらままならない合法律子がかろうじて訴える断片。
山口ミツヤはそれらを繋ぎ合わせて、「参加者」を記載したリストを作る。
尋常ではない記憶力。
かつて六法全書すら軽く暗唱した魔人の、そして今、全てを剥奪された女の、それは、せめてもの抵抗だった。
これからアレに挑む後輩を、危機から守るための、ルールの提示。
「……ありがとう、先生」
姫代学園の上層部から送られてきた、潜入の任を解く旨が書かれた書状。
合法律子は、まだその封すら開けていない。
それは、無気力故の放置ではない。
まだ、彼女が、一度受けた依頼を捨てていないことの矜持の証だ。
合法律子は、ただの怪異の被害者ではない。
法とルールの探究者であろうとする意志は、まだ完全に折れてはいない。
少なくとも、山口ミツヤはそう、彼女の物語を解釈する。
だから、山口ミツヤは、先達に対する敬意をもって、彼女に問うた。
「先生。本当に、『神星翠の学園祭』には、彼がいたのかい?」
合法律子の写真仕分けによって作られた『学園祭』の参加者リスト。
その中に、とある教員の名があった。
久柳天兵。
山口ミツヤは、理事会の資料をめくる。
その教師は、数日前に発狂、周囲を無差別に攻撃。
幸いにして生徒・職員の犠牲者はなし。
その後、制止しようとした教員を振り払って自爆、死亡――と記載されていた。
\ \ \
『あー、テステス、学園祭実行委員長の出飯 此処茸です。えー、本日はお日柄もよく、晴天に恵まれましてええーいめんどくせえええええ祭りじゃおらあああああてめえら全員騒げええええええ!』
「「「「うおおおおおおおおおおおおお!!!」」」」
「「「「祭りじゃああああああああああ!!!」」」」
「「「「ほげええええええええええええ!!!」」」」
「「「「騒げええええええええええええ!!!」」」」
「「「「いぇああああああああああああ!!!」」」」
「「「「無礼講だああああああああああ!!!」」」」
「「「「おびょおおおおおおおおおおお!!!」」」」
今日も今日とて祭りの日。
学園祭は終わらない。
ハレの愉快は止まらない。
楽しい楽しい繰り返し。
地獄の窯は、閉め忘れ。
\ \ \
「ほらほら! ろんさん、なーにぼーっとしてるんですか!! ハリーハリー!」
ぐいぐいと手が引かれる。
そこから、熱い懐炉を押しあてられたような衝撃。
そこから全身に浸透し、感覚を塗り替える。
圧倒的活力。体が軽い。それは、解放。あるいは『反転』。
世界がいろどりを取り戻す。
その衝撃があまりにも鮮烈で――私は、自分が今おかれている状況を理解するのに、少し時間がかかってしまった。
私の手を引いているのは、ルームメイトの、神星翠さんだ。
今日は待ちに待った学園祭。
昨日まで一生懸命に用意してきた出し物と、日々の退屈な学園生活で溜めたうっぷんを一気に解放する、一年で一番「楽しい日」。
「ご、ごめんなさいっ。こういうの初めてで……」
そう、私は口にした。
神星さんは、私の不安げな言葉に、かえってぐいぐいと、手を引く力を強めた。
「なんとそれはもったいない! お祭りの楽しみ方を知らないルームメイトをエスコートするのも学園祭実行委員の務め! さあさあまずはこれを着ましょう!」
適当な空き教室に強引に連れ込まれて渡されたのは、『学園祭実行委員』と大書されたTシャツだった。
全体がパステルカラーの水色と橙色と黄緑色の模様で、背中には実行委員会全員の手書きと思われるメッセージがひしめいている。
街で着て歩くにはあまりにも能天気なデザインだが、お腹の底から湧き上がるわくわくにはぴったりの色彩で、私はいそいそとそれに袖を通した。
「おおー! よく似合ってるじゃないですかろんさん! ほら、鏡を見てください!」
どくり。
かがみをみては、いけないわ。
何かが耳元で赤く囁く。
けれど――いつか、星名紅子さんが教えてくれた。
赤は危険信号。耳を傾けてはいけない言葉。
なにより、ルームメイトの神星さんが、勧めてくれているのだ。
怖いことなど、あるはずがない。
姿見には、少し大柄な女子高生。
ショートボブの黒髪、大きなたれ目が鏡越しにこちらを見つめている。
Tシャツから伸びた腕は、我ながら無駄のない筋肉がついて、恰好がいい。
これが、私だ。
ちがう。
何をこわがっていたのだろう。
何の変哲もない、少し水泳が好きなだけの、学園祭を楽しみにしていた女子生徒。
それが、私。
「あ、ちょうどいいところに我がクラスのメイク大将! ろんさんに学園祭向けキラキラメイクをお願いできないでしょうか!」
「マジ? チョー唐突なんだけど。アタシがやったらマジ、ラメとグリッターキメキメになるけど、おけ?」
「せっかくのお祭りなんですしギラギラやっちゃいましょう!」
「りょ。翠、今度ヌタバおごりな?」
神星さんにつれてこられたギャルっぽい生徒さんは、手慣れた様子でメイクをはじめた。
私の顔をキャンパスにして絵を描くように、つけまつげ用の接着剤でキラキラとしたネイルホロをちりばめていく。
まるで別人のような顔。
いつもだったら絶対先生に怒られてしまうお祭りメイク。
ほっぺたにちりばめられた、星くずみたいな輝きが、私のわくわくに火をつける。
こんなお化粧、したことがない。
顔が熱くなる。
鏡の中の私は、見たことのない表情で、メイクもはちゃめちゃにかわいくて、最強だった。
「はーい!それじゃあ乙女のおまつり完全武装! いきましょう、ろんさん出陣じゃー! ぶおおおーぶおおー!」
「こら、神星くん、廊下で全力疾走はいけないよ? キミの勢いじゃあけが人が出るからね」
「はーい! 天兵先生! ばっちりぎっちり気をつけて走ります!」
「うん、走らないという選択肢はないのが、君らしい」
空き教室から出たところで出会った久柳天兵先生に釘を刺されるも、神星さんは華麗にスルーして駆けだした。
ぐいぐい引かれる腕。私も小走りで彼女を追いかける。
今日は、一年に一度のお祭りの日。
だから、楽しまないと。
何もかも忘れて、楽しまないと。
/ / /
姫代学園の旧校舎跡地に取り潰されたはずの建物が復活、一部の生徒や教員がその中に閉じこもり、『学園祭』が続くようになってから数日が経過した。
合法律子の生還以降、偵察は誰一人として帰ってこない。
理事会は、合法律子から得た断片的な情報を元に、神星翠によって引き起こされている事態を、乙種事案――学園と提携する魔人組織と連携して対処すべき案件と判断。
暫定的な措置として、旧校舎及び体育館の一帯を封鎖した。
旧校舎に取り込まれていない生徒たちには、「敷地内でガス漏れの疑いあり」として、寮で自主勉強するよう指示がされている。
難を逃れた生徒の一人、山口ミツヤは、理事会の設置した対策本部で待機していた。
教会の断罪者の口利きで、星名愛と共に、事態への対応役を任ぜられたのだ。
ここ数日、ろんの姿を見ていない。
彼女は無事か。手遅れになってはいないか。
焦りはある。
けれど、まだ戻れない。
何が起きているのかを理解しなければ、合法律子のように――そして『神星翠の学園祭』に取り込まれた生徒たちのように、ハレの日に、飲み込まれる。
ここまで幾つもの怪異と相対して培った直感が、そう告げていた。
気を失うように眠っている合法律子を横目に、山口ミツヤは、受け取ったデータを繰り返し精査する。
彼女が見た『神星翠の学園祭』には、本来、姫代学園にいるはずがないものが、参加している。
正しくは「現在、姫代学園に在籍している人間」と、「かつて姫代学園に関与していて、今はいるはずがない人間」が、混在している。
「学園祭の中で消滅、死亡するものと、そうでないもの――その法則性――」
「もしかすると、ですが」
山口ミツヤの横で資料を眺めていた、赤い服の少女――星名愛が口を開いた。
「神星翠の認識している世界は、『陰陽眼』と似ている――いえ、その先のものかも、しれません」
\ \ \
「ミナサーン! スクールフェスティバルはまだまだはじまったばかりデース! ミーのチアダンスを見てファイトイッパーツ! ソーレ! ワーオ!」
ポンポンを両手に軽やかに踊る陽気な女の子。
なぜか、私はその横――旧校舎講堂の舞台の上に立たされていた。
「なんで!? 明らかにこれチアのパフォーマンスですよね?!」
「チアといえば応援!そして学園祭実行委員の仕事は学園祭を楽しむみんなの応援!楽音祭実行委員シャツを着ているろんさんはもはや学園祭実行委員!よって、ろんさんはチア!Q! U!! I! Z!!!」
「証明完了はQ.E.D.ですっ! 謎増やしてどうするんですかっ!!」
気が付けば、私の手にも、神星さんの手にもポンポンが握られている。
舞台の下から、無責任な歓声が響く。
信じられない。私のことを、こんなにたくさんの人が、見てくれている。
当たり前のように、姿を、見せている。
なぜかわからないけれど、涙が出そうになる。
「さー!シシリーさん! ミュージックースタート!」
「イヤーッ!」
軽快な音楽が響き渡る。
私はヤケになってポンポンを振った。
幸い、エネルギーと勢いならあふれそうなほどだ。
アドリブで体を動かす。リズムに身を任せる。歓声に突き動かされて踊る。
楽しい。楽しい。楽しい。
私は舞台の上から、文化祭の様子を見下ろした。
笑顔の学生。笑顔の教師。みんな笑顔。
講堂の壁から染み出した■■■に半身を抉られた生徒も最後まで笑っていた。熱狂して踊り関節が外れて四肢がちぎれた少女も笑っていた。はじけ飛んだ脳漿を拾って鍋に入れてかきまわす模擬店の店員も笑っていた。次々と死んでいく消えていく生徒たち教員たちはみんな最後まで笑っていた。新たに生まれてくる生徒たち教員たちもすぐに笑顔になった。
たのしい。たのしい。たのしい。
咆哮する三つ首の獣。鏡に映らない少女の哄笑。校内放送で怪談を語る女の子。うねる触手。虹色の液体。残虚の骸。さながら素穢めいた怨増の触手。ミラーボールに輝くピンクの水玉。くるくると回る眼球。鉄の匂い。絹を裂くような嬌声。囀る青い小鳥たち。笑顔。笑顔。笑顔。
鼓動が弾む。私はここにいる。全身で表現する。
覚えていて。忘れないで。■さないで。
ちがう。
曲の盛り上がりはクライマックス。
左右、シシリーさんと神星さんに目くばせをして、私は、舞台で精一杯跳ねた。
重力という、この体を縛るルールを振り払うように。
「「「せーの、ぴょーん!!!」」」
/ / /
「おそらく――彼女が『元気ハツラツ☆さわやかパワー』で共有しているのは、霊の世界に基盤をおいて、人の存在を付加的に知覚する認知。言い換えれば、人と霊とが、『反転』した世界なのではないかと」
『霊感』とは、人の世界に基盤をおいて、霊の存在を知覚できる認知である。
『陰陽眼』は、陰府――霊の世界と、陽世――人の世を共に基盤として認知する。
そして、『神星翠の世界』とは、その延長にあるものだと、星名愛は仮説を述べた。
「『元気ハツラツ☆さわやかパワー』の影響を受けると、怪異及び『さす☆パワ』の被影響者が、人間として認知される……。仮にそうだとすれば――彼女の『反転』が生徒たちに感染し続けると――学園全体、下手をすれば、この一帯が、永遠の『鬼月』……霊と人とが混在する世界になってしまう」
\ \ \
「うっへー! 踊りましたね! アドリブなのに、ろんさんも最高でしたよ!」
「えへへ、ありがとう、神星さん。まだ心臓ばくばくいってるよっ」
汗でべったりはりつくTシャツにばさばさと空気を送り込みながら、神星さんは満面の笑顔だった。舞台から見下ろしたどの笑顔よりも、彼女の笑顔は眩しくて強い。
まるで、彼女が世界の中心のようだ、と私は思った。
「お疲れ様、神星くんたち。大盛況だったね」
「天兵先生ありがとうございます! うわ差し入れタイミングばっちりじゃないですか最高! キンキンに冷えた鄒翫?逕溘″陦?とか!」
手渡された紙コップの中身は、表面に結露するほどに冷えていて、熱くなった体に心地いい。一口でそれを飲み切ってしまう。いつもの何倍もおいしく感じる。
「お? ちょっと待ってくださいね? なんか校門であったみたいなのでこれは学園祭実行委員会出陣のとき! ちょっくら法螺貝吹きにいってきますんで、ろんちゃんは適当に楽しんでくださいな! 今のパフォーマンスの後ならどこでも人気者のはずですから!」
そう言うと、神星さんは目にもとまらぬ勢いで講堂から飛び出していった。
そうか。神星さんは、私がひとりでもこのお祭りで楽しめるように、「誰もが私を知っている」状態を作るために、チアのステージに立たせてくれたのだ。
「神星さんは、やさしい子だからね。ちょっと、思い込みが強いところはあるけれど。まあ、魔人の生徒なんて、みんなそんなものさ」
差し入れに来てくれた若い男性教師、久柳天兵先生が、涼やかな笑みを浮かべた。
「ここにいる子たちは、寂しがりばかりだから。みんなが笑顔でいられるように、楽しくいられるようにって。神星さんは、いつも全力なんだろうね。聖書曰く『楽しい心は良い薬である』だ。いつ、終わってしまうかわからないから、だから、いつも楽しくいられれば、最期まで、幸せだって」
「そうでしょうか。そこまで考えてないような気もしますけど」
「ははは、そうかもしれないね」
天兵先生は、不定形な「ナニカ」を背の翼で弾き飛ばしながら、校門の側を見た。
「彼女の世界の意味を理解した、今ならわかる。私がそう思えば、私にとってはそういうものなのさ。結局のところ、世界をどう認識するかを選ぶのが、生き方を選択するということだろう」
「……ちょっと、難しいです」
「はは、私は、ここでも、教師でいたいってだけのことさ。世界からはみ出てしまうような能力を持っていても、それが主の意に背く悪意によるものでなければ、私は生徒の味方でいたい。生徒が世界と折り合いをつける手助けをしたいんだよ」
先生の表情は、どこか、全てを悟ったような諦観に満ちていて、私はそれ以上何と言ってよいのか、思い浮かばなかった。
次に口にする言葉をためらっていた、そのとき。
世界が、一度大きく、どん、と揺れた。
いま、いくよ。
魂に忍び寄る危険信号。赤い声が、心に響く。
本能的に私は身を縮こまらせると、周囲を見渡した。
周りにはこれまで通り、笑顔と歓声が響いている。
楽しい、たのしい、タノシイ世界。
こうもんへ、きて。
「うひゃー! ちょっとアクシデント発生! ろんちゃん、天兵先生! こっち!」
講堂に飛び込んできた神星さん。
それから少し遅れて、不定形で巨大な「ナニカ」の群れがなだれこんでくる。
それは、学園祭を楽しんでいるみんなを、縛り、飲み込み、破裂させ、確保していく。
だいじょうぶ。にげないで。
「旧校舎へダッシュです! ほら手を握って! 『さす☆パワ』追加注入です!」
だいにぶたい、とつにゅう。
消滅と新生。均衡していたそれが、崩れていく。
ナニカが、講堂を、平らげていく。
楽しい、楽しい学園祭は、楽しいまま、虫食いに削り取られていく。
せいとは、きずつけるな。
当たり前だった■■による消滅ではない。
明確な意志をもって、ナニカは、学園祭の仲間たちを喰らっている。
こわい。その理不尽がこわい。
かいいは、はらえ。
私たちはただ、楽しくいたいだけなのに。
忘れられたくない、だけなのに。
せいなる、せいなる、せいなるかな。
神星さんに連れられて講堂を出て、渡り廊下から旧校舎本棟へと飛び込む。
その瞬間、私の後ろで、がちゃり、と扉が施錠された。
「天兵先生!?」
「神星くん、裏門から逃げるんだ。おそらく、彼らの狙いはキミだ」
「先生、いくら怪異ハンターでもひとりとか無理ですってば! なんなら『さす☆パワ』で――」
「先生の言うことは、聞くものだよ」
こちらに向けた天兵先生の背中から、無毛のいびつな隻翼が広がる。
「ろんくん、キミは、悔いのない選択ができますように。そして――」
穴だらけで、傷ついて、醜く枯れても折れない翼。
「神星くん。魔人がこんなことを言うなんて、笑い話なんだけれど。
それでも一応、私は教師だからね。説教臭いことをひとつ言わせてくれ。
自分のものの見方を、一方的に人に押し付けては、いけないよ?」
神星さんはわずかに目を見開くと、私の手を引いて、旧校舎の奥へと走り出した。
後ろでは、何か、ひどく不吉な爆発音が響いた。
/ / /
「おまえさんが、誰かを傷つけるなんて、信じられなかったんだが」
神星翠捕縛部隊。
学園理事会との連携を命じられた教会の断罪者ルネ・ロベールは、ひとつの怪異と相対していた。
「やっぱり、最期まで、生徒を守ろうとしてたんだなあ」
地に縛られた強い思念。
この場所で絶命した、元天使の残滓。かつての同僚の、成れの果てだった。
「あの子は間接的におまえさんを殺したのよ? まったくどれだけお人好し......まあ、人じゃないか」
十字架を模した銀の細剣を構え、断罪者は祈る。
「お嬢ちゃん、行きなさいな。話をしたい相手がいるんだろ?」
「……ありがとう」
\ \ \
旧校舎を抜け、裏門へと辿り着いたところで、私は足を止めてしまった。
「どうしたの、ろんちゃん?」
足が動かない。
神星さんは不思議そうにこちらを振り返る。
「大丈夫。今の、ろんちゃんなら、出ていけますよ? フリーダムです!」
まって。
振り返ると、そこでは、「ナニカ」が声をあげていた。
不吉な声。危険信号の赤。
「ここではもうお祭りは続けられなくなっちゃったけど、外に出れば、もっと楽しいことがありますよ!」
ぼくのはなしを、きいてくれ。
講堂になだれこんできた「ナニカ」と違って、それは、こちらに襲い掛かってくることはなかった。
ただ、呼びかけてくる。
「ねえ、ろんちゃん、楽しかったよね」
うん。そうだね、神星さん。
ぼくはね、うれしかったんだ。
いつか、こんなことがあった気がする。
私の姿を見て、それでも、当然のように話しかけてきた相手。
本能が危険を告げる。
けれど、理性が、それを否定する。
これは……危険信号じゃ、ない。
だとすれば、本能が、感覚が、認知が、『反転』している?
「いっぱいおいしいもの食べて」
うん。最高だった。
きみと、ともだちになれたことが。
なにものでもなかった私に、名前と輪郭、役割をくれた人の声がする。
人と怪異、境界をまたぐ意志。
言い換えるならば、発狂信号。
「かわいい服着て、おまつりメイクして」
うん。本当に、本当に、夢みたいに、楽しかった。
きみと、まだいっしょにいたい。
けれど。もし。
仮に、今、私が認知しているものが、人ならざるものの側であるとすれば。
きっと、この声こそが、あるべき場所へと還るための縁。
なにより私は、その声を、覚えている。
「じゃあ、決まりです! 明日も! 明後日も! もっと楽しくなりましょう!」
だから――そろそろ、夢から、覚めないと。
きみは、どうだい、ろん?
そう。この声は、人の側。安息の青。
いつの間にか、「ナニカ」は、日本人形めいた、制服の女子生徒の姿になっていた。
「さあ、広い世界へダイブトゥ……」
私は普通の女の子で、普通に楽しく学園祭を騒いで、明日からの退屈な日常を寂しく思うような、そんな、幸せな夢は、おしまいにしないと。
「神星さん」
私は最後に、彼女の瞳にうつる、ショートボブの女の子の姿を目に焼き付けた。
「ありがとう。楽しかったよ」
過去形の言葉。
神星さんは一瞬だけきょとんとした顔をして。
それから、にっこりと、笑って返してくれた。
「そっかあ。……じゃあ、またね! ろんちゃん!!」
それが、私が神星翠さんのことを、この学園で見た、最後の姿だった。
\ \ \
幽世 旧校舎にて
「あ、先輩! ごぶさたですー!」
「ああ、君か……」
相変わらずの神星翠と、蓮柄円はいつも通りに出会った。
少しいつもと違うことがあるとすれば、この出会いが、一週間ぶり――これまで彼女が幽世を訪れる頻度としてはずいぶんと間が開いたことくらいだ。
「もう来ないかと思ったよ」
「いやー大変でしたよ! プリズンブレイクシーズンミドリ! SASUKEもびっくりのハイパー過酷アスレチックだったんですから!」
彼女がこの一週間何をしてきたのか、円はあえて聞かなかった。
「それで、これからどうするんだい?」
「そうですねえ。そろそろ、ここともお別れかなあと」
「そうかい。少し、寂しくなるね」
「ところがどすこい国技館! 私、見つけたんです! 学園祭より、もっと、いろんな人と「楽しい」を共有できる方法! 転校しても、円さんたちと繋がれます!」
そう言って、神星翠は円に、スマートフォンを差し出した。
その画面に表示されているのは、動画配信サイト、youtube。
「――『ミドリのカムカム☆チャンネル』――?」
円は、言葉を失った。
神星翠の『楽しい』が、学園祭で共有された結果起きたこと。
それがもし仮に、webを通じて、世界中に拡散されたとしたら――
「ね! 円さんも、チャンネル登録! 高評価! メンバー登録よろしくです!!」
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『旧校舎の学園祭』から解放された私は、おミツさんからおおむねの事情を聞いた。
神星さんの能力の影響を受けた存在は、霊や怪異が人間と区別なく見えるようになること。
神星さんの世界で日常的に繰り広げられていた生徒や教員の『捕食』や『消滅』は、人間の忘却による怪異の消滅の様子であったこと。
虚空から『発生』していた生徒たちは、新たに生まれた『怪談』や『怪異』であったこと。
「人はたやすく忘却によって怪異を殺す。そして、すぐに別の怪異を生み出してまた消費する。気付けば隣にいたはずのものが消えて、新しい別物に入れ替わっている。
彼らの視点から見れば、噂のサイクルの早い女子校という空間は、理不尽でおそろしい地獄なのかもしれないね」
『学園祭』に取り込まれた生徒や教師たちは、星名愛さんの作ったのだという『閉眼請符』……『陰陽眼』を封じるための道術だそうだ……によって元の認知を取り戻し、カウンセリングと記憶操作を受けていること。
神星さんの行方を、教会はまだ掴めていないこと。
「神星翠が学園に戻ることはないだろうが……他所で似たようなことが起きることは、警戒した方がいいかもしれない」
声をひそめたおミツさんの言葉に、私は少し俯いた。
たしかに。
彼女は危険、なのだろう。
それでも、一日だけだけど友達でいてくれた彼女が、世界と相容れない存在だなんて、私は思いたくなかった。
彼女はきっと、好奇心で生み出されながら、すぐに人間から忘れられて、いつ消えるかわからない怪異にも、楽しくいてほしかっただけなのだ。
……それは、人間でないものとしての、観点なのかもしれないけれど。
ああ、そうか。
ここまで考えて、私はふと気がついた。
あの、最後まで私たちに寄り添っていたお人好しの先生が、神星さんに向けた最後の言葉。
『自分のものの見方を、人に押し付けては、いけないよ?』
きっと、あの先生も願っていたのだ。
だってこうも言っていた。
『生徒が世界と折り合いをつける手助けをしたいんだよ』
はなむけの言葉をかけられた時の、神星さんの表情を思い出す。
不意をつかれて見開かれた目。
はたして、神星さんは理解しただろうか。
はたして、神星さんはあの言葉を受け入れるだろうか。
人の体を持ちながら、人ならざるものの眼差しの彼女は。
そんな、人ならざる身で、人のような心配をする。
ああ、そうだ。
今まで曖昧にしてきたことに、向き合わないと。
姿見に映った、ショートボブの女子生徒の姿を思い出す。
あれは、神星さんの世界、反転した認知での私の姿。
ならば、今の私は――
私は、初めて、おミツさんの瞳を真正面から覗き込んだ。
おミツさんは、微笑むと、まっすぐに私を見つめ返してくれた。
そこに映る姿は、
くちゅり
大きな口を開いた
ぞぶり
これが、私だ。
最終更新:2022年11月13日 21:19