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 爆音が響いた。
 その男、かつて医師仮面と呼ばれた男はどこか意識の遠くで聞いた。
 かつての自分が砕ける音でもあった。

「下がりましょう。次の踊り場まで」
 ミドが静かに指示を伝えてくる。銃声。
 医師仮面は沈黙のまま、彼女の移動に続く。
 それぞれの踊り場ごとに、ちょっとした罠が仕掛けてある。
 致命的なものではないが、進軍をためらわせるくらいの効果はあった。

 作戦はおおむね、うまくいっている。
 医師仮面が隠していた能力、《メモリーズオブユー》。
 彼の素顔を再度隠した瞬間、対象はその素顔に関する記憶を消失させる。

 これにより、彼は糺礼とその部下に、「池松叢雲らしきもの」として、
 注意を惹きつけることができていた。
 最初は英語を警戒させる呼吸と、そこからのメス射撃の奇襲で何人かは倒せた。
 三人を立て続けに仕留め、ミドがまた一人を潰して、すでに四人を沈黙させている。
 さらにうまくいけば、この報告を受けた櫛故もこちらに誘引することができたはずだが――

「なかなかうまくいかないですね」
 ミドは医師仮面の内心を代弁したようにつぶやいた。
 彼女は、何の部品をどう改造したものか、クロスボウに似た武器を手にしていた。
 もとはエレベーターの巻き上げ機構だったと本人は言っていた。
 とても勇者の特技とは思えないが、これと同様の罠をいくつか作っていた。

「罠を仕掛けた踊り場は、あと三つです」
「そうか」
 医師仮面は短く答えた。階下で単発の銃撃音。罠が破壊された。
 まもなく、やってくる。
 糺礼の攻め手は、その振る舞いと逆に極めて堅実であった。
 突撃はしてこない。人数を利用して、歩くような速度で攻めてくる。
 そして、踏みとどまられれば、こちらはただ後退するしかない。

 だとしても、である。
 医師仮面は考える。関係はない。
 やるべきことをやる。

「医師仮面さん。……次、お願いできますか?」
 ミドは、やはりこちらの考えを読んだようだった。
「言われずとも」
 そのつもりであった。
 この状況下での散る順番、ということを、医師仮面は正確に認識していた。
 ミドが頭脳であり、自分と池松叢雲は両腕にすぎない。
 足止めにどちらかを使うというのなら、それは自分が先だ。

「――あの、ちょっと、あんまり関係ない純粋な疑問なんですけど」
 ミドが不意に尋ねてくる。救援を頼んできたのはこの少女である。
 いったいどのようなネットワークを築いているのだろう。
「医師仮面さんはなんでSLGの会に入ろうと思ったんですか?」
「……知らん」

 事実だ。自分でもよくわからない。
 もともと、いままでの人生で、自分で何かを決めたことなどなかった、という気がする。
 組織があり、自分はそれの一部だった。

 だからかもしれない。
 これが初めて、自分の意思で、何かを達成しようと挑む経験であった。
「強いて言うならば、友人の頼みだ」
「友人? それって、セ、セフ……」
「来るぞ」
 医師仮面は発情しかけたミドを黙らせた。
 いくつもの静かな足音。だが、医師仮面はそういった足音を判別することに慣れている。

「――なるほど。お前が医師仮面。それが素顔なのか」
 コツ、コツ、と、糺礼が階段を昇ってくる。
 先行する公安部隊は四人。もう二人が背後を固めている。

「タネは割れたぞ、手品師」
 糺礼。
 彼女について、医師仮面は思考を巡らせる。
 いびつな戦闘意欲と圧倒的な敵意。少々、手に余る相手だ。

「撃て」
 糺礼は片手を伸ばした。銃口。他の六人も、整然とそれに倣った。
 ――つまり、やるしかないのだった。

「Co――」
 医師仮面は、これを《ワンミニット・エクスタシー》と名づけている。
 魔人能力ではない。すでに薬物投与は終えていて、『効いてくる』時間帯であった。
「Cooooooooooo――wooooo!」
 四肢に異常な力のみなぎりを感じた。視界が跳ねる。
 いや、自分が跳躍したのだ、階下の一団に向かって。

「ち――捨て身か」
 糺礼とその部下の銃撃は、寸前で回避している。
 舌打ちとともに、彼女の胸部が蠢く。この能力は医師仮面も知っている。
 タネさえわかってしまえば――この状態の自分には、急所を外して受けることは難しくない。

「うぅッ」
 二つの弾丸が腹を打ち抜き、獣じみた唸り声が医師仮面の喉から漏れた。
 かわしたつもりだったが、三発の弾丸のうち、二発は跳弾した。
 それでも痛みはなく、その運動能力に減退はない。

 医師仮面のてからメスが投擲され、彼女の前衛に立っていた公安部隊が二人、同時に倒れる。
 別のもう一人が、ミドの放ったクロスボウもどきの矢に射抜かれてよろめいた。
 そいつの首をねじりきって、三人目。

「後退しろ。このバカバカしい状態は長続きしない」
 糺礼は医師仮面を銃撃で牽制しながら、すでに下り降りる構えをとっている。
 だが、その銃撃を受けることを前提に、医師仮面はさらに跳躍している。

「あ」
 最後の四人目の前衛が、後退しかけて間の抜けた声をあげた。
 一瞬にして頚動脈を切断され、血が吹き出る。

 医師仮面は迅速に退避していく糺礼と、残りの二人の背を見送りながら、拳をふりあげた。

「Coooooooooooo――」
 バイリンガルではないが、医師仮面はネイティヴスピーカーである。
 そして、池松の英語を受け、気づかされた。
 英語は、力であるということを。
「打ッ(dat)!」
 打ち付けた拳は、階段の一部を破壊した。さらに立て続けに、二度、三度と叩き込む。

「なんだと? くそっ」
 糺礼は振り返り、銃撃によってこちらの意図を阻止しようとした。
 だが、医師仮面の拳は止まらなかった。
 叩きつける拳が加速し、階段を、壁を、破壊していく。あたりが地震のように震える。

(たとえこれで命が尽きるとしても)
 糺礼と、その部下の銃撃が、医師仮面の胴体に食い込んだ。
 頭部への着弾だけは回避している。
 そして足を止めて撃つということは、反撃の機会を許すということだ――
 医師仮面のメスは、糺礼の両隣の公安部隊を同時に射抜いている。

(これで、糺礼のチームは全滅。役割は果たした――
 他の誰かの代替でも、命令でもない、私の役割)

 銃撃を受けながら振り下ろす拳が、階段を完全に破壊した。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「――そうか。わかった」
 フジクロは、暗がりのなかでその報告を聞いた。
 不機嫌な糺礼の声がノイズまじりに響く。

『くそっ。魔人め。SLGだと?
 あんなふざけた手品師に……!』
「あまり気にするな。
 あのレベルの魔人命懸けとなれば、ある程度はどうしようもない。
 それより、想定外の戦力を潰せたことが重要だ」

『しかし、階段を破壊された。ここから攻めるなら、補修が必要だ。
 すぐに、というわけにはいかん』
「仕方ないな。礼君は一旦下がってくれ。
 櫛故君はどうだ? 動ける状態なのか?」

『……戦闘行動に支障はありますが、不可能というレベルではありません』
 かすかに呼吸の乱れた声だった。
 櫛故は階段を転げ落ちながら、爆破の威力を減退したようだった。

 フジクロは残りの戦力を計算する。
 公安部の部隊が十八名。
 外にいるはずの矢塚一夜とは連絡がとれないため、ひとまず戦力からは外す。
 ならば――

「櫛故君は援護だけで構わない。
 あの《鈴》の能力で、池松の英語さえ防御してもらえれば」
『それだけならば、なんとか』
「よし」

 フジクロは、暗い頭上を見上げた。
「こちらの準備はできた」
『おい。フジクロ一佐。私たちを陽動に使ったな?』
「医師仮面がいなければ、片はついていたと思う。
 これで多少は有利になる」

 多少。
 フジクロの認識に油断はない。
「反撃を開始しよう」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「……無事ですか?」

 ミドは全身に銃創を穿たれた、医師仮面の裸体を興奮とともに眺めた。
 ダメージは致命的であった。
 即座になんらかの処置が必要であったが、医師仮面のその手際は卓抜していた。
 ただし、可能な限り速やかに、輸血は必要であろう。
 《ワンミニット・エクスタシー》の反動もあり、戦闘はおろか、身動きもできない。

「処置は完了……したが、銃弾を喰らいすぎた……な」

 銃撃は、ある程度は防ぐことができていた。
 医師仮面のコートの内側には、デザインにすぐれたいくつかの小さな板が仕込まれていた。

 ――iPhone 4 and 4Sケースである。
 Gショック以上の対衝撃性を持つこの携帯電話とケースは、
 バイクのヘルメット用のモデルとして作成され、
 その構造を軍部でも採用されるほど防弾性をも持ち合わせている。
 言うまでもないが、デザイン性も優れていた。
 これが医師仮面の命を致命傷から救ったのである。

「あの、私、すごく元気になる治療方法を知ってるんですよ。
 つまりセッ」
「sumart night(「すまない 」)。 すぐに病院に運びたいが」
「気にするな……」
 池松と医師仮面はミドが言葉を続けるのを完全に無視した。
 医師仮面は虚ろな呼吸で声を発する。

「それより、ここを……どう乗り切るか……だ。
 時間稼ぎは、まだ十分ではない……だろう」
 池松は無表情にうなずいた。
「向こうがうまくやってくれるまで、
 一分一秒でも長く、こちらにフジクロの目をひきつけたい」

 医師仮面をここまで搬送したのは池松である。
 負傷した彼を放置しなかったのは、単なる感情的なものだけではない。
 池松自身、死者を蘇生させて操る能力者を何人か知っているからだ。

 かつて、上層特別展望台と呼ばれていたフロアであった。
 これより上のフロアは存在しない。
 いまでは、スティーブ・ジョブズの偉業をたたえる、ただホワイトに塗装された、
 なにひとつオブジェクトのないのスペースとなっている。

「でも、これで少しは時間を稼げるはずです!」
 ミドは努めて明るく発言した。
「階段を壊しましたし、無理に飛び越えようとすると罠があります。
 ちょっと次の手を考えさせてください」
 ここまでの展開は、ミドがデザインした通りのものだった。
 彼女の手には、iPadが握られていた。

 その画面にはこのタワーの内部図が展開され、
 ミドのトラップ配置がコメントつきでカラフルかつ見やすく表示されている。
 シンプルで直感的な操作を可能とするこの最新鋭のタブレット端末は、
 使い手のイメージとパフォーマンスを結びつけ、最高水準に引き出してくれるのだ。

「これ以上は上のフロアに逃げられないので、なんとか踏みとどまらないと。
 屋上っていうか、屋外でフジクロ一佐と戦いたくありませんし」
「迎撃の方法か。任せる。俺は無理だ」
 池松はあっさりと断言した。
 ミドは苦笑いを返さざるをえない。
 片手でiPadを操作しながら、思考を進める。

「ですよねー。なんとかしましょう。
 プランはあります。でも、いまひとつフジクロさん相手には通じるかどうか。
 池松さん、たとえば、このフロアを英語で破壊したりできないですか?」
「右の掌底。それが俺の最大の一撃だ。
 あいにく俺は未熟でな。フロアを破壊するには、最低でも、それが必要だ」
「そうですか…… なんとかならないかな。いや、でも――」
「hum...(感嘆詞。特に意味はない)」

 池松はかすかに唸り、不意に視線をミドの背後に向けた。
 そこには、直通エレベーターのドアがあった。

「少しは時間を稼いでみるが、一刻も早く頼む」
「え? あの、あれ? マジですか?」
「マジだ」

 池松は立ち上がり、ミドと医師仮面を庇うような自然体に構えた。
「くるぞ」
「ウソ……!」

 ミドが表情を引きつらせたと同時、甲高い電子音とともにドアが開いた。
「エレベーター、巻き上げ機とか動力部とか、ちゃんと壊しておいたのに!」
「伏せろ」
 銃声が、連続して二度響き、それは二人を庇う池松がかかげた右腕に着弾した。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(防いだか)
 フジクロはH&Kの射撃の直後、ドアから転がり出て、池松叢雲の反撃を回避する。

「――疾(shick)!」
 びすっ、と鋭い音が響き、エレベーター内部の壁に金属片が突き刺さる。
 メスだ。
 医師仮面が使っていたものだが、その投擲威力は銃弾にも匹敵しているようだ。

(だが、ここが勝負だ)
 フジクロは呼吸を落ち着けることに全力を注いだ。
 この状況の池松は、一体一のときほど恐るべき相手ではない。
 まずは背後にミドと、医師仮面がいること。彼らを庇わなければならず、動きが制限される。
 あの立ち位置を迂闊に動けないだろう。

 そして右腕。
 手首から先が失われ、さらにいま、二発の弾丸を打ち込んだ。
 《統一躯》によっていくら自身を制御できるとはいっても、
 断裂した筋肉、砕けた骨の分だけ威力は鈍る。
 むろん接近からの直撃は驚異だが、左手でおこなうようなメスの投擲はできまい。

 つまり、遠距離から徹底して削るのが最善だ。
 ――時間を稼ぎながら。 そのためのタネは仕込んである。

「烏の巣作りを見たことがあるか?」
 フジクロは起き上がり、銃を握り直し、池松とミドに声をかける。
 案の定、池松は動かず、追撃してこない。

「彼らは驚くほど器用でね。特に私の烏はきわめて賢い。
 部品さえ代替できるなら、精密な機械の修復も可能だ」
 フジクロはゆっくりと歩く。池松に近づきも、遠ざかりもしない。
 いまはこの間合いだけが、彼の身を守る盾だった。

「とはいえ、限界はある」
 フジクロの背後で、ばきん!と、鋭い破壊音が響いた。
 かなり上のほうから聞こえた音だ。何かが決定的に砕ける音。
「昇り、一回分をもたせる程度の応急処置でね。
 つまりこれできみたちの退路が消えたことになる」
「お前の退路も、だな」
 池松は会話に乗ってきた。やはり英会話者だ。
「いいのか? 一人で俺たちを相手にできる自信はあるか?」
「きみたちは手負いだからな」
 フジクロは意味ありげに、銃を持っていない片手を掲げてみせた。

「――池松さん。あれ」
 ミドがかすかな声をあげている。

「これか?」
 フジクロはH&Kの銃口を池松とミドの間で往復させ、
 左手に掴んだその物体を差し出す。
「池松叢雲の右手首。これは英会話業界の大きな損失だな。
 未来を変えてしまうおそれがあると思っているよ」
 池松の鳥面の奥の目も、それに据えられていた。
 やはり、乗ってくる。あとは引き伸ばす。
「返した方がいいかな?」

「池松さん。私と、医師仮面さんのことは気にしないでください」
 ミドがフジクロの言葉をまったく無視したように告げた。
「全力で。思い切り。やっちゃってください」
「――いいんだな?」
「勇者は指揮官です。指揮官を信用してください」

「――I eye saw(「アイアイサー」「了解」という意味の英語)」

 池松に、火が点いたように思った。
 sing-cat(震脚)である。白い床のタイルに蜘蛛の巣状の亀裂が走り、
 その体が矢のように飛び出してくる。

(前に、出てくるか)
 フジクロは時間稼ぎという目論見が外されたのを感じた。
(だが、そのリスクも)
 フジクロは能力を起動させる。《八咫鴉》。
(想定済み――だ。行け!)
 フジクロが乗ってきたエレベーターの、天井にわだかまる闇が蠢いた。
 そこにいる。十羽の烏が飛び込んでくる。
 彼らの一本足には、みな一様に、軍用ナイフが掴まれていた。

「吹(foot)ッ!」
 池松の脚がかすむほどの速度で動き、飛翔して攻める烏の一羽を撃ち落とした。
 連携して繰り出される、空中からの刃もかわし、あるいは捌く――
 だが、その全てを完全に防ぐには至らず、一撃か二撃は肩で受け、
 さらには動きを封じられる形になった。

(ここだ)
 フジクロは銃撃を二度。方向は池松叢雲。
 池松が反射的にそれを迎撃しようとした瞬間、一羽の烏が動いた。
 ナイフの角度をわずかに傾け、フジクロの弾丸を弾く。

 跳弾。
 その狙いは池松ではなく、ミドであった。
 最初から、フジクロにとっての撃破優先対象はミドだった。
 厄介な頭脳と、思いもよらぬトリック。あるいはフジクロ以上の。
 読み合いならば恐ろしい――ゆえに、それを発揮できないところで、確実に仕留めたかった。

「で、ですよねー!」
 それでもミドはこれを読んでいたらしい。転がって弾丸を回避する。
 このくらいは想定していた。SLGの魔人は総じて身体能力が高い傾向がある。
 フリースキル、と呼ばれる、魔人能力の威力を高めるための潜在能力に
 ほとんどキャパシティを割いていないためだ。
 そして渡葉美土ほどの判断力があれば、跳弾の狙いくらいは読みきっていただろう。

(だから)
 フジクロは床を蹴って直進する。
 だからこその、接近戦である。
 池松叢雲は烏の群れが抑えている。 このタイミングしかなかった。
「――!」
 弾丸を転がって回避したミドの頭上に、駆け込んだフジクロの踵が振り落とされる。
 単純きわまりない、格闘メソッド。
 ミドはこれを左腕で受けるしかなかった。
 めき、と、確実な破壊の感触が足に伝わる。折った。

「まだ……!」
 痛みに顔をしかめたミドの右腕には、いつのまに持ち替えたのか、
 伝説の剣『まるごし』が握られていた。
 振り回されてくる。
 だが、フジクロはこの剣の間合いと、使い方を見切っていた。
 刃があると見せかけて存在せず、そしてその実、ナイフが握りこまれており――

「一度だけの武器だ。それは」
 そして、その間合いの見極めに気をとられれば、投擲される剣の回避が遅れる。
 フジクロはそれを完全に認識しており、飛来する「まるごし」に隠れたナイフの刃を容易く回避した。

 そして、その次に飛んでくる、死角からの医師仮面のメスの投擲も、H&Kを盾に防御している。

「む……!」
 医師仮面が呻くのが聞こえる。
 まだ動けたのは驚きだが、その奇襲は殺気を隠せず、精彩を欠いていた。
 使えなくなった拳銃はそのまま捨て、武器をすべてなくしたミドへ、再びかかと落としを放つ。
 今度は靴底の刃が、かすかな金属音を響かせて突き出される。

 そのときフジクロは、ミドの肺から漏れる、奇妙な呼吸に気づいた。

「コオオオォォォ――――ォォッ」
 バイリンガルの呼吸であった。

(渡葉 美土――英語検定有段者か? そんな情報は。
 ハッタリ。いや。この少女ならば――!)

 フジクロはその可能性に遅れて気づいた。
 ミドは床を踏み鳴らし、起き上がりながら、フジクロの踵落としを迎撃した。
 右の掌底を、まっすぐ叩きつける一撃。

 ――一撃、である。
 その英語は、ミドの能力《おもいだす》が可能としたもの。
 ミドは、池松の発した英単語を心に刻み込み、己のものとしていた。

 ミドの完全な言語記憶能力。
 英検四十段の池松による発音Lesson。
 そしてi-padによるクリエイティブで斬新な直感の刺激。

 それらが一体となり、ミドに必殺の英語を撃たせる。

「――Masturbation (マスターベーション)!!!」

 フジクロは振り下ろす踵から、鋭い衝撃が走るのを感じた。
 骨が――筋肉が、神経が、焼けるように鋭い英語!

 視界が明滅した。 悲鳴さえあげていたかもしれない。
 フジクロは一瞬、自分自身の制御を失い倒れこむ。
 《池松叢雲の右手首》が、その手からこぼれ落ちる。

「池松さん」
 ミドがそれを拾う。池松に放り投げるのが他人ごとのように見える。
 烏の制御もままならず、それを見送るしかない。


(――だが)

 フジクロはこわばる左手を、必死で上着の内側に伸ばした。

(――想定内)

 池松が右手首を受け取り、それを切断面に接合する。
 瞬間。
 フジクロは上着の内側で、起爆の信号を送るスイッチを押した。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 池松叢雲は自分の右腕が爆砕するのを見た。
 半径30センチをふきとばす爆弾。わずかな破片が仮面を砕き、額を、頬を裂いた。

(すでに――右手首の中に仕込んでいたか)
 池松は冷静な思考でその事実を受け止める。
(俺が間抜けか)

「ここまでだ」
 フジクロは床に片膝をつく、ミドのこめかみに銃口を突きつけていた。
「投降は受け付けている、ミスター池松」

「お前がその引き金を引く前に」
 池松叢雲は、自然体を崩さないままであった。
 吹き飛んだ右腕からは、即座に血が止まっている。

「俺の英語が届くかどうか、試してみるか?」
「いいや」
 フジクロは首を振った。
「きみには万が一ということがある。それが怖いから撃たないのさ。
 ――この人質ごっこは単なる時間だ」

 フジクロと、池松の周囲を烏が羽音もなく旋回する。
 チカ、と、窓の外で光がまたたいた。

「制圧完了だ」
 フジクロの言葉と同時、窓ガラスが一斉にくだけた。
 黒衣の公安部隊が、そろって飛び込んでくる。そして糺礼。櫛故。

「階段もエレベーターも、使用不能。
 破壊された階段を迂回して壁を登るのは苦労したが――
 ともあれこれで、本当に言わせてもらおう」
 フジクロはゆっくりとミドから後退する。
「きみたちに逃げ場はない」

「まったく、本当にだ」
 糺礼は不機嫌そうに呻いた。
「このうえ、豚のような悲鳴だけは聞かせてくれるなよ。
 おとなしく投稿するか、速やかに死ね」
「――やれやれ」

 池松は彫りの深い、ローマ人のような素顔に、自嘲的な笑みを浮かべた。
「最悪の方法を思いついたぞ。未熟だな、俺は。
 本当に。一撃を極めるには程遠い」
「おい。何を」
 糺礼がシグ・ザウアーを構えようとした。

「池松さん」
 ミドが声をあげた。立ち上がろうとしている。
 その傍らに、投げ出されたiPadがある。
 その液晶は彼女の手を離れても煌煌と輝き、スケジューラのような画面を表示していた。
 これがiPadの電源保持能力。そして鮮明な表示能力の本領である。

「準備完了、です! 自由にやっちゃってください!」
「I eye saw(「アイアイサー」「了解」という意味の英語)」
 池松はうなずいた。

(まずい)
 フジクロはそのiPadの画面が意味するものを知っていた。
 彼のいる未来でもまだ色あせず愛好されている機能。リアルタイム・マルチスケジューラである。
 複数のメンバーのスケジュールをリアルタイムで同期させる、グループワークのための機能だ。

 これにより、さらにスマートな進捗管理、
 まったく新しいパースペクティブからの統括的なタスク・スケジューリングが可能となる。
 さらにはメンバー以外に対しては、スケジュールに自動的な暗号化がかけられ、
 完全な秘匿性をもったプロジェクト管理が実現されているのだった!

 そしていま、『S』と記されたチームの進捗率が100%に達していた。
 おそるべきはiPadの進捗管理アプリケーショn。
 そしてこのアプリとガジェットを自在に使いこなす、勇者ミドのプロジェクトマネージメント能力!

(『S』だと? 別働隊がいたのか?
 彼らが待っていたのは――いや、増援――それよりも)
 フジクロの高速の「読み」の進行を、ミドがただ見逃すはずもない。
 ミドの折れているはずの「左腕」が動いた。
 袖口から何かがこぼれ落ちる。

(これは――)
 フジクロは発砲しながら後退する。弾丸は、転がるミドをわずかにはずれた。
 ミドの袖からこぼれたのは、小さな瓶。医師仮面の所持品であったか。
(――毒ガス!)
 瓶は床に激突して破裂し、無職の液体をまきちらした。
 刺激臭――粘膜に激痛。
 それでも一瞬のことで、フジクロは後方に飛んで影響を抑える。

 まだだ。フジクロには烏たちの《視点》がある。
 自然な流れで能力に意識を傾ける。

「ゆくぞ」
 池松が身をかがめた。
 みし、と、その全身が軋むような音を響かせた。

「櫛故くん! 防御を!」
「――了解」
 全身のあちこちに包帯を巻き、血をにじませた櫛故が応じる。
 鈴の音が響き始める。間髪をいれず、フジクロは銃口を池松に向けた。
 糺礼も、公安部隊もそれに倣う。

「射撃開始」
 銃声が連鎖して響いた。 弾丸が池松の体に吸い込まれる。
 が、なにか硬質な――いっそ金属的でもあるような、弾ける音が響いた。

「……すこし……空を飛ぶことについて考えた」
 池松の全身から、凄まじく何かが軋む音が響いていた。
 建物が壊れるような――あるいはまったく別のものに組み変わるような。

「やはり翼が一番だな。参考になった。
 思えばこいつの同類は――鳥取の砂丘で、毎日のように見ていた」
「ち……!」
 フジクロは舌打ちをしながらさらに射撃。やはりはじかれる音。
 彼は池松の伏せた顔に、ウロコ状の何かが浮かび上がったのを見た。

(これは!)
 弾切れがやってきた。フジクロはリロードをするべきかどうか、一瞬だけ逡巡した。

「これは――本当の、最悪の手段だ。
 なにしろ、自分が――何者だか――忘れることになると思う」
 池松の体が膨張した。
 細胞レベルでの身体制御。いや、DNAレベルの制御であっただろうか?

「英語も――SLGの会のことも」

 とにかく、池松の肉体は劇的な変化を遂げていた。
 背中が盛り上がり、翼が突き出した。コウモリの皮膜に似ていた。
 みるみるうちに力強く膨張し、ドラゴンのようなそれになる。

「だからミド、医師仮面、鈴木三流には伝えておいてくれ。
 池松叢雲は行方不明になったと」

「化け物め……!」
 糺礼が銃弾を放つが、当然のことのように、池松の全身に生えたウロコにはじかれた。
 ドラゴンの鱗を破壊できる武装があるとしたら――フジクロは考えた。
 逆鱗弾。矢塚一夜はどこだ? 連絡が途絶えている。

「See you again(「また会いましょう」という意味の英語)」

 それを最後に、池松叢雲は決定的に変化した。
 全身が三倍にも四倍にも膨張し、天井に達するほどの巨躯となる。

『AHHHHHHHHHHHHHHHGRAAAAAAAAA!!!』

 破壊的な英語が響いた。
 もはやそれは英語の体を、文法をなしていなかった。
 ただ、池松叢雲の名残の発音があるのみだ。
 櫛故の能力で防御していなければ、それだけで卒倒していかもしれない。

 それはドラゴンであった。
 深緑色の鱗を、海のような光沢に輝かせる、片腕の竜である。
 もとは池松であった彼は、翼をうち広げて飛んだ。

「――くそ!」
 フジクロはこの局面ではじめて焦った。
 烏を繰り出す。そのうちの何匹かは、体内に爆弾を仕込んである――
 だが、池松はぐるりと丸太のような首を巡らせた。

『GHAAAAAAAAAAAAAAAAA――AAAHHH!』

 視界の眩むような、激しい火炎が池松の顎から吐き出され、
 フジクロの烏と、それらが体内に仕込んだ爆弾を誘爆させた。

(魔人ならともかく……!)
 フジクロは床に伏せ、陽炎と豪火の彼方に池松を見る。
(正真正銘の化け物が相手とは、たまらんな!)

 飛翔する池松は片腕で勇者ミドと、医師仮面を抱え上げた。
 咆哮が轟き、その炎をこぼす口元の自嘲気味な歪みが、
 かろうじて池松叢雲のようにみえた。
 もしかすると、ほんの少しでも理性はあるのかもしれない。

 それを証明するように、勇者ミドと医師仮面を抱えた池松は、
 むしろ穏やかに翼を動かし、窓ガラスを砕いて、東京タワーから飛び出していく。
 東京タワーの敷地から抜け出る瞬間、その全身が虹色に輝き、ゆがんだ気がした。


 もはや英語の体をなさぬ、意味不明の咆哮が長く尾を引いていた。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



「――ドラゴンか」
 路地の暗がりで、その男、闇裂練道はそれを見上げていた。
「珍しいな。こんな都会に」

 彼の足元には、十人余りの黒服の男たちが倒れている。
 公安部の制服であった。
 そして、一本足の烏の死体も一羽。

「まあ、なんというか、あれや」
 矢塚一夜は倒れた男たちの上に腰掛け、ごく軽い調子で話しかける。
「これだけ豪勢なイベントだったわけやし、
 花火的なもんと違うかな。運営側のサービスで」
「さて……どうかな」
 闇裂練道は一夜の気楽な物言いに、首を振った。
 片手でiPhoneを握っているが、その画面に表示されているタスクスケジューラでは、
 「M」と記されたチームの進捗率がちょうど100%になったところであった。

「俺はそろそろ行く。やつらも脱出に成功したようだからな。
 義理立てもこれで十分だろう。――が、お前はどうする?
 公安部からは違約金を請求されてもおかしくないな」
「そんなん踏み倒すわ」
 一夜は明るく笑った。
 公安部からの依頼を裏切ったことなど、気にも止めていない素振りだった。

 買収。
 それがこの男を降す、もっとも手っ取り早い手段であると、闇裂練道は知っていた。
 より正確に言えば、それはミドからの依頼であった。

「前金はもらっとったし、あんたから報酬もいただいて、
 まあこっちは大黒字ってとこやな。
 あとは、そう――まあ、また関西や未来や過去にでも帰郷してもええ」
 関西はいまもって滅亡から立ち直ろうとしているところであり、
 なおも中央政府の目の届かぬ暗黒地域であり続けている。
 そこに潜れば、容易には捜索されぬであろう。

「いずれにせよ、これでイベントは終了というわけか。
 だが――」
 闇裂練道は矢塚一夜に背を向け、歩き出す。

「この件は、ほんの始まりというところだな。
 二十年代において、SLGの連中がどうなっているのか興味はあるが――」
 一瞬だけ、練道は視線だけで一夜を振り返った。
 彼はすでにそこにいない。空間転移で去ったか、あるいは時間転移か。

「それは、俺たちが進めなければならない話か」



【フジクロ陸軍一佐:烏を全損。未来へ生還。】
【糺礼:翌日から現場復帰。沖縄にて別任務を開始。】
櫛故救世:入院。その後、沖縄旅行へ。】

【勇者ミド:生還。成功報酬で沖縄旅行へ。】
【医師仮面:半日の入院と応急処置の後、行方不明。
 沖縄でその姿を見かけたという情報あり。】
【池松叢雲:行方不明。
 沖縄上空を飛ぶドラゴンの目撃証言あり。】

【闇裂練道:行方不明。沖縄で目撃?】
【矢塚一夜:行方不明。沖縄?】
日谷創面:沖縄に行きたい?】



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