第一回戦血の池地獄 静間千景


名前 性別 魔人能力
静間千景 女性 グラスコフィン
早見歩 女性 クレイジートレイン
ラーメン野郎・有村大樹 男性 白虎落とし

採用する幕間SS


本文


――赤水の獄。血の池。

 陰陽寮呪禁庁においてそれは、『激辛』の属性を象徴する地獄であると聞く。
 主に『味噌』属性と複合させて生成する《血の池地獄ラーメン》は、現世では《王龍飯店》《創作中華 パパ厨房》《元祖地獄らーめん》といった古代店舗にわずかに名残を残すのみの、とうの昔に禁儀と化したオリジナルラーメンの筈である。

(なるほど。つまりここは、本物の地獄か)

 失われし『激辛』の属性。地平の果てまで広がる血の大河を目前にして、なお有村大樹の表情が動かない。
 《起源》において示されたトライ・グラマトン――『極』『旨』『男』の三大行を旨とするラーメン野郎は、基本的に自身の司るラーメン属性のみを探求し、他の属性に興味を抱くことはない。
 その味へのこだわりはラーメン野郎の強みであり、同時に弱点でもある事を、有村大樹は自覚している。

 有村大樹のラーメン属性はふたつ。
 物質や空間の連続性を断つ『切断』概念、『魚介』。そして、質量、数量に対する『増殖』概念、『塩』。
 彼自身の能力名は『白虎落とし』――というが、この高速湯切りによる調理能力はあくまで、有村の身につけたラーメン野郎としての技量をサポートするものでしかない。

 それで良い、と有村は思う。
 所詮人の腕はふたつ。ならばふたつで勝負するのがいい。

「……ィィィィ……」

 客を前にしたラーメン野郎のなすべきことはひとつ。常に、その日の仕込みの中で、最高の一杯を提供するのみ。

「ィィァラッスァァァッセェェェェェイイイィィィィッ!」

 魂の振動が空気を揺らす。
 コンロの熱に呼応してスープが湧き立つがごとく……体内厨房の壊滅を経てもなお、この咆哮だけが衰えない。
 沸騰(イグニ)――茹麺(ハルト)、定義(ベースド) 、深化(オプト)――展開(リリース)――――――。

(ラーメン野郎。人魔の領域に手を染めたラーメン野郎は、決して天国には行けない)

 地獄。ラーメン野郎には相応しい末路。
 《ラーメンの鬼》佐野実。《つけ麺の始祖》山岸一雄。ここにいるのか。
 相棒のミル彦は、この運命を辿らずに済んだか。それともやはり、あのラーメン馬鹿はどこかの地獄にいるのか。

「絶対独立……」

 調理は秒単位で完了する。意志持つスープが溢れ、『魚介』と『塩』の概念は、輝く剣の形を成す。

「俺は。やる。やるだけだ。絶、対……独立!!」

 喜多方ラーメンの弾力を彷彿とさせる強くコシのある脚が、地を蹴った。
 製麺された黄金の剣が目指す先はひとつ。距離にして100m、2人の少女の戦闘領域に他ならない。


「うりゃぁぁぁぁぁぁぁ――」

(……!)

「――ッ、りぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 盾として構えたトランクは、蹴りの一撃で無残に潰れた。
 静間千景の体は、一度血の池の水面を跳ね、盛大な飛沫と共に再び着水する。
 あらゆる人間を凌駕して強化された、早見歩の魔人の脚力であった。

 決して反応が遅れたわけではない。
 むしろ、肺の空気をすべてしぼり出す全力の哮りは早見の攻撃のタイミングを知らせており、故にトランク全体をガラス化して盾にする時間もあった。
 それはすなわち、防御に成功してなお、この威力である――という事を意味している。

「……けほっ! くふっ!」

 体が沈む。やられた。と反射の意識が警告を発する。
 強化ガラス化したトランクは、実物同様に細かな破片となって散り、静間の体を傷つけてはいない。
 だが交通事故並の激痛と衝撃が体を襲う今、服に染みこんで身体を沈める赤い湖に抵抗する余力もなかろう。

(……と、素直にそう思ってくれるのなら)

 血の池にあがきつつ……否、そう見せかけつつ。静間千景は思う。

(私もやりやすい、けれど)

「ごめん」

 対岸に立つ少女の表情が、ふと憂いを帯びる。

「これ、で――終わりッス!」

 次の刹那、早見歩の赤いシルエットは静間の直上、空中にいる。
 魔人の膂力を以って蹴られた水面は、ぱたたた、と連続した波紋を遅れて立てた。

 液面。空気。実体非実体を問わぬあらゆる概念を足場にする。魔人能力の名を『クレイジートレイン』という。
 早見は水面を蹴った反動を殺さず、空中でくるりと回転し、シューズの靴底を直上――地獄の空へと向けて。
 天を『蹴り』、稲妻じみた垂直降下の飛び蹴りを繰り出す。

(終わった)

 静間千景は思う。
 岩すら砕く威力を凝縮したシューズの靴底は、静間千景の直上に閃くギロチンの刃であった。

(これで、終わった――想定通り。)

 そして、会敵わずか5秒のこの時点まで、静間千景の策略であった。
 遠ざかる赤い水面を見据えながら――それを夥しい泡とともに切り裂いて迫る靴底を見据えながら――
 完全に水没した静間はただ、痺れる手先を前方へと伸ばす。

 ……『グラスコフィン』という。
 触れた物体を『ガラス化』する、それが静間千景の魔人能力であった。
 実体を持つものであれば、固体でも液体でも関係なく変換する力である。たとえ血液であろうとも。

 先刻……早見歩の接近を知ってもなお、静間は逃げず、むしろ防御に時間を割いた。自身が蹴り飛ばされるであろう方向。この巨大な血湖の存在を知っていたからだ。
 高台に位置して敵を待ったのは、他ならぬそのためだ。
 水中に追い詰められたと見えたのは彼女の演技に他ならず、本来この地形は、静間の能力媒介に文字通り満ち溢れている。

「潰……れ、る! ッス!!」

 敵の気迫に反応すら返さず、ゆるり、と能力を伝播させる。周囲を取り巻くこの血液すべてがガラスと化し、眼前の少女を樹脂標本の如く練り固めるイメージ。
 水圧抵抗を突破して靴底が到達し、自身の肘先が完全に圧壊するまで、恐らく数秒といったところか。

(問題ない。その数秒で拘束は終わる。溺死……させる)

 利き腕を確実に失うが、同時に敵の一角を落とせる。
 静間の頭脳は鮮明である。それは勝利のための犠牲を一切厭わぬ、怨霊めいた狂気的思考であった。
 そして魔人能力が血水に伝播し、早見の脚を包み込む――


 寸前で。早見の脚は水中から消えた。
 代わりに響いたのは、ぞるるるるっ、という奇音。

(え……)

 水中の静間はただ呆然と、浮かび上がっていく腕を見つめていた。
 細い指。白い肌。
 親指の位置からして、右腕。どこか見覚えのある腕である。

「――絶対。独立」

 厳然たる声。静間千景の右腕を一撃で分断したその音は、思い返せばラーメンのすすり音に似ていただろうか。


 空間の『切断』。例えばA地点からB地点までの過程を切断された空間の間隙は一瞬で閉じる。これは世界の修復作用による。
 そしてA地点とB地点は空間修復の際に接合され――もとA地点にあった物体はB地点へ、プランク時間の速さで移動する。
 『魚介』属性の極地。ラーメン野郎・有村大樹の最も得意とする一杯、《無敵ラーメン(戦)》の調理工程がこれである。

(何なの、あれ……!?)

 早見歩は未だ空中である。
 垂直降下の最中、もう片方の足で空間を蹴り、横へと跳んだ……と言葉にすれば単純な所作に過ぎないが、
 これは早見の突出した脚力と平衡感覚、そして空気すらをも足場にせしめる『クレイジートレイン』あってこその芸当であり、無論人域の技量ではない。

 早見歩は事が起こる直前に危機を察知し、空を蹴って跳び離れていた。
 水中の静間に蹴りを叩きこむ寸前――彼女の眼前数10cmの距離に忽然と出現した黒Tシャツの男が、理由である。

「vopal――」

 短い囁きに振り返った背後では、既に男の斬撃が水面へと撃ち込まれ、ぞるるるるっ、というすすり音を立てた。

「どっちにしろ」

 タン、と軽い音を立てて、自身の脚が岩場に降り立つ感触。
 考えるよりも先に足が出るタイプの魔人ではあるが、それは決して彼女の愚鈍を意味するものではない。
 その頭脳は高速化した肉体の回転を制御するに十分な速度であり、今しがたの思考と知覚は、一瞬の判断で空間を蹴って、数十m離れた盆地の岩場に落着するまで、わずか半秒程の間に行われている。

「良かった。助かったッス」

 この低地からは、先の巨大な血池の様子は伺えない。戦闘領域からは離脱できたものと判断する。
 しかし安堵の息は、新手の敵の攻撃に巻き込まれなかった事のみを意味するものではなかった。

 ――高速で回転する早見の思考が不利になる局面がある。
 彼女は手を掛ける寸前、どうしようもなく静間千景の半生を思ってしまっていた。彼女がどのような執着を抱いているのかを知らずとも、なお。同じ年頃の少女……いや、やや年上だろうか。話しかければあるいは、友達になれたかもしれない。
 彼女が迎撃でなく逃走を選択した理由は、ある意味での打算であり、優しさでもあった。

(静間千景は水中。あの斬撃を食らったかもしれない。となると、あの状況……残るのは十中八九有村大樹……ッスね。
 まだ、離れるだけの時間はあるはず)

 2人を同時に巻き込む軌道の、無駄のない斬撃。有村が水中に沈んだ静間の存在を認識していた事は明らかだ。
 だとすれば、静間を始末する時間……少なくともその死を確認するまでの間がある、と判断する。

(仮にさっきの瞬間移動みたいな応用ができる能力だとすれば、あたしの『クレイジートレイン』は不利――)

 しかし岩場の影を把握すべく頭を巡らせると同時。
 重量感のある麺が湯切りされる時のそれのような、バシャリ、という快音が響いていた。

「――spitt.」

 空中を跳躍し、恐るべき速度で強襲する『魂不滅』の黒Tシャツを、視界は捉えている。

 静間千景の確実な始末、または早見歩の追跡。早見は、『有村大樹は前者を選ぶ』と読んだ。
 今しがたの衝撃音は、その読みが外れた事を意味している。


 時刻は、数秒遡る。
 流れこむ血河によって形成された、一際巨大な高台の血の池――その水面上、30cm。
 無駄のない斬撃を振り切って、有村は小さく呟いた。

「客は二人か? 早見歩……」

 奇襲を寸前で察知し逃げ去ったのは、早見歩。鋭敏な反応だ。

(そして、下に静間千景か)

 足先が液面に触れた、瞬間。

 ――ドカモリッ!!

 早見が聞いた湯切りの快音を仮に至近で聞けば、丼から溢れるほどにモヤシの積まれた、ラーメンの秀嶺を幻視した事であろう。
 有村大樹の屈強な巨体はカツオよりも俊敏に、斜め上方へと跳ねた。

「――spitt.」

 振り切った仮想麺を媒介に、自身の足元に『増殖』概念を付与。
 血の池……それを満たす血液の『増殖』による指向衝撃波。反動をカタパルトとして跳んだのだ。
 モンゴル岩塩のまろやかな塩味が舌の上で調和する、ラーメンの名を《無敵ラーメン(姫)》という。

「調理完了だ。《無敵ラーメン(姫)》一丁! オォォォォマッチ……ヤラァァッシタァァァァァ―――ッ!!」

 足先からの水中衝撃波は血中に沈む静間千景に対しても、十分に伝播した筈だ。
 そしてその一撃は同時に、反動で早見への距離を詰めた。

「こいつ……」

 有村の下方、早見は苦々しく呟く。
 『有村大樹は前者を選ぶ』。読みは誤りであった。
 . . . .
「どちらも、選びやがった、って事ッスね……!」

「俺は……俺は!」

 『男なら、ラーメンは湯気と一緒に一気にすすり込むべし』。これは誰の言葉だったか。
 精製した仮想麺は、わずか20秒で賞味期限に達する。その前に決める。

「俺はラーメン魂の次期店長……候補!」

「ラーメン野郎、有村大樹だ!!」

 一撃。
 切り下ろした剣は同時、崩壊した。『魚介』の属性は、メンマを裂くが如く容易く岩盤を裂断している。
 そこに早見の姿はない。

 ガン、と、有村の頭上で音が鳴った。
 さらに、ガン、ガン、と連続する。

 血池の下方。岩で囲まれた盆地。離脱した彼女がこの方向を選んだのは計算である事を。
 この地形は早見歩を敵に回すに最悪の地形である事を、有村大樹はまだ気付いていない。


 ガン、と音を立て、小柄な赤い体躯が壁を蹴る。
 その勢いで次の岩へと跳び、さらに抉るように蹴る。横、斜め、あるいは上下。

「こういうセコい事は……あまり、したくなかったんスけど……ッ!」

 繰り出される蹴りの度に土砂と石礫が舞い散り、遙か上方の早見の姿を覆っていく。
 狙いを定めないようにしているのか。

「『味噌』属性のラーメン野郎が確かそんな技を使った。俺の上を取って、反撃を防ぐつもりか?」

 有村はこの時既に、次の一杯の調理を始めている。
 沸騰(イグニ)。茹麺(ハルト)。定義(ベースド) 。深化(オプト)。展開(リリース)。

 地に降り立たず戦う早見の戦術は、対策に見えて対策ではない。
 距離の概念を無効化する空間切断の一杯に、間合いは無意味であるためだ。それが三次元的な間合いであろうと。
 たとえ客がはるか上方――天を統べるワイバーンであろうとも、その一杯を提供する。そのための《無敵ラーメン(戦)》。

「vopal.」

 狙い違わず剣は空間の連続を断つ。そして仮想麺の射程内に早見の姿が……ない。
 距離が足りない。代わりに有村の眼前には、一際大きい岩の礫だけがある。

「やっぱり……思った通りッスね。有村のおじさん」

 転落。わずか2m程の落下だが、無防備な背がしたたかに打ち付けられる。

「……!!」

「その瞬間移動――いや、斬撃の威力からして空間でも『切断』しているのかな……
 それ、物体の切断と一緒に使うのは無理ッスよね」

 起き上がりつつ、心の中だけで肯定する。
 《起源》に定められし掟の一。ラーメン野郎が味の秘訣を自ら客に明かせば、世界法則により爆裂、死す定めだ。

「もしできるなら最初の移動の時、目の前にいたあたしは切り裂かれていたはずッス……
 そして『空間』を切断しての移動って事なら、直線上にある『物体』を無視して移動はできない。
 ある程度大きな障害物があれば、その直前で停止する――」

「成る程。例えば石の礫か」

 必要以上に岩を抉る移動方法は、先の礫のような障害物を空中に配置するための布石。

 ――ボ、という軽い音と共に、有村大樹の肩を何か小さなものが貫通した。

「……戦略を見直す時間も。与えないッスよ。
 空中に配置した石は『弾丸』ッス。取り囲むための――弾丸」

 細めた有村大樹の目には、地獄の空を埋める土砂の群れが映る。
 天使のように空を舞う早見歩が、それらを流星の如き速度で蹴り落とす様も。

「しゃららららららぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 バスバスバス、と、連続して肉体が抉れた。狙いは荒いが、圧倒的な弾数それ自体が脅威となる。

「……やってくれる」

 『切断』は無効。触れて発動する『増殖』も、あの距離では届かぬだろう。

「だが、俺はやるぜ。早見歩。俺は独立する。半年間で絶対独立する! それが俺の夢だ!」

 頭に巻いたタオル。黒Tシャツに昂然と描かれた『一期一杯』の筆文字。
 その有様を見せつけるかのように。腕を組んで、険しい表情で空の早見を見据える。
 『ラーメン魂』名物――ラーメン第一バトル態勢の構えであった。

 飛来した流星が、また一つ上腕を抉った。口内に湧きだす血は、その負傷によるものではない。
 自身の内臓を『増殖』させているのだ。
 寿命の確実な短縮と引換えに、衝撃防御と致命傷へのバックアップを兼ねる、諸刃のラーメン。

「うりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 さらに一発。ぐらりと体が揺れる。
 ―――『ダイキはいつも、無茶苦茶ばかりやらかすミル~~~!』
 あり得ない筈の幻聴に、ふと笑いを漏らす。

 さらに攻撃が続く。三撃。四撃。
 車軸を流す石礫の猛攻を絶え間なく続けながら、やはり有村は倒れぬ。

「まだ、倒れない……!」

 『増殖』による有村の体内組成の変化は、外からは伺い知る事はできない。
 異常なタフネスが理由か。あるいは精神力のみで立っているのか。その誤認を誘う事が、有村大樹の目論見のひとつである。
 空中からの一方的な攻撃を繰り出しながらも、早見は焦っていた。

「そんなに、までして、独立……が、したいッスか!」

 十二、十三、十四。体に穿たれた傷口からはスープとも血液ともつかないものが溢れ、地を濡らす。
 僅かに油の浮いた黄金色の血液は体内の異形化の果て、ラーメン野郎の末路でもあった。

「そうだ。絶対独立。この世で果たせなかった夢を果たす。それが俺の存在意義……だ!」

「こんなに走り回っても、何も、熱も風も感じない! そんなのは……上手く、言えないけど!
 そんなのはあたしじゃないッス! 大地を走るあたしじゃなあいと……あたしじゃない! だから!」

 ――あたしの望みの方が強い!

 声に詰まった早見の言葉の先を理解して……有村はにい、と深く笑って、賞賛の言葉を呟いた。

「……お前は、大馬鹿野郎だ」

 足を引きずり、文様を描く。自らの流す血で打った捨て身の仕掛けだ。
 ラーメンの丼にも見られる、雷文の文様。陰陽寮呪禁庁独自に発展させた、ルーン発動式である。

 当時呪禁庁において《異端》と称された狂気のラーメン野郎。山岸一雄の提唱した――『つけ麺』なる技術。
 既にスープの準備が整った『場』においては、ラーメンの調理は仮想麺の構築のみで足りる。
 スープを先に用意し、そこに麺をつける。それは即ちラーメンである、という無法の理。
 礫で仕留められぬことに焦れた早見は、いずれ必殺の直蹴りで勝負を決めに来るであろう。恐らくは、有村の調理に1秒程度の間が必要であることを知るが故に。

 仮想麺の構築には、0.2秒も掛からぬ。その時が早見の最後となる。


 攻めながらも、異常高速で流れる早見の思考は、決して停止する事はない。
 地上10m程。この高度からは、先程静間と交戦した広大な血の池が見える。死体が浮かんでいない。
 ならばどこにいる? 血の池の岸まで泳ぎ着いたとでもいうのか?

(恐らく、何かを仕掛けているッス。何かを。直接の蹴りを仕掛けるなら……その時)

 最初に静間に仕掛けた一撃を回想する。構えた物体はトランクに見えた。
 トランク? ……中身が透けるほど、透明のものが? 蹴りの一撃で粉々に砕ける、そんな材質のものが?
 そして気づいた。

 ――池の水位が、上がっている。

(まさか)

 それはおぞましい変化だった。
 どろり、と不気味な表面張力とともに、巨大な血の池が……溢れたのだ。

(『ガラス化』の能力……!!)

 液体までもを『ガラス』にできるのだとすれば。
 呼吸用の管を生成して、今もあの水中に潜むことが可能なのではないか。
 有村の水中衝撃波を、伸ばしかけていたガラスの拘束で防いだのではないか。

 そして。今。

(あたしが戦ってる間、ずっと……ガラスの『ダム』を少しずつ作って……流れこむ血の河を堰き止めた……とでも……!)

 どうする。どちらを警戒する。次の手は。有村大樹はまだ耐え続けるのか。
 繰り返し繰り返し、高速で走り続ける思考。

 流れこむ血の河に気づいた有村が、ふと身構えたように見えた。
 ――今。

 照準は背。猛禽のように降下。
 仮にカウンターを狙っていたとしても、確実に死角となる攻撃角度。

「独」

 が、背中越しに抜き放たれた有村の仮想麺は、彼女の胸を切り裂いた。
 ……ずるりと滑る景色の中、早見歩は、その後頭部に見開いた眼球を見た。

「……立。」

 ――眼球の『増殖』。


 有村はよろめいた。
 狙い違わず放たれた『魚介』は早見の胸を深く裂いたが、それは致命の傷ではない。
 直前で反転し逃れた動きは、最初の遭遇で見せた『空間を蹴る』技か。

 有村の足元に絡みつく生暖かい血の波に混じって、ざくり、ざくりと何かが横切る。
 予想外の負傷が、有村の平衡とラーメンの味を乱していた。

「これは……」

 ざくり、と脛が切り裂かれる。何か異様な悪意が、不可視の力でもって有村大樹の切断を試みている。

「……ガラスの刃。動脈をやられたか」

 足元に流れ来た物体を掴み取る。魚群めいた鋭利なガラスの刃を流して、下流の存在すべてを切り裂く仕掛けだ。
 早見歩の策とも異なる悪辣な仕掛け。静間千景はダムを『そのように』決壊させていた。

「……」

 パシャ、と、新たな水音が場に到達する。

「気は進まない。ほんとうに……気は、進まないんだけれど」

 アルトの声に呼応し、ラーメン第一バトル態勢を構える。
 右腕の肘から先を失い、全身の衣服を血に透かした少女のシルエットが、盆地の上から見下ろしていた。

「殺させてもらう。ごめんなさい」

「御託はいい。本日のご注文は?」


「液体をガラスに変えるのが、お前の能力か」

 有村の問いに答えることなく、歩を進める。
 トランクのガラス化を既に見せている以上、能力が看破されている事は織り込み済みだ。
 だから失った右腕の先は、周囲の血液から構成した刃に置換して、止血している。

 有村の放った水中衝撃波は、展開しつつあった『ガラス化』で防壁を形成し防いだ。
 しかしそれでも殺しきれなかった衝撃と……最初の早見の蹴りで受けたダメージは、どうしようもなく静間の体を蝕んでいる。
 可能な限り速やかに決着をつけねばならない。自分の有利な環境を、血で満たされた岩場を作る。そのための策だった。

「私は……卑怯なのかな。あなたと早見さんの戦いを邪魔してしまった……」

「客と店員は常に多対一で勝負をしている。多勢を前に泣き言を言うラーメン野郎に、麺を語る資格はない」

「……そう。そうか。ラーメンなんて、もうどれだけ食べてないんだろう」

 静間千景は陰鬱に笑って、足元の血河に手を差し込んだ。1秒。2秒。3秒。
 それで『武器』の構成を終える。液体を『ガラス化』して作成した、強化ガラスの刀だ。
 有村の体が静間の頭上に躍ったのは、直後であった。

「vopal.」

 空間切断を意味する詠唱。手には山吹に輝く剣。同じく兵装の構成であれば――
 有村大樹の『白虎落とし』。調理工程は1秒を切る。

 回転と共に、静間の刀が有村の『切断』を受けた。空間ごと引き裂く一杯に、静間の髪の端が巻き込まれ消える。
 ごきゅ――と、空気だけがスープを啜る音だけが聞こえた。
 着地と同時、掌底で静間の踏み込みを牽制する。

「ガラスの反射……死角を覗いたか?」

「瞬間移動の能力は分かっていたから。それに私の勝算は」

 剣の先端が、くるくると空を舞う。それが有村の頭上を超えようとする刹那。

「それだけじゃあない。『解除』」

 有村の頭上で、剣先が弾けた。不意に降り注ぐ血液が視界を濡らす。
 間髪入れず、右肘先の刃で刺突。その狙いは、違わず剣を握る有村の肩を貫き……
 しかし有村の左腕は、静間の胸にピタリと押し当てられている。

「spitt.」

 破裂音。狭域指向性衝撃波。

「……っ!」

「受給資格者創業……支援。援助金は200万。俺は、夢を諦めない」

 賞味期限を迎えた仮想麺が崩壊する。
 だが有村は攻撃の手を休めず踏み込み、体当たりで静間の体を弾き飛ばした。
 右肩に突き刺さった刃も折れる。

「絶対に独立する! 俺のラーメンを、世界に認めさせる!」

「……」

 虚ろな意識で、静間は河の外に弾き出された事を知った。武器にできる血液は、もはやない。

「絶対独立」

「絶対、独立……!!」

 新たな仮想麺が形成される。
 無数の弾丸を体に受け、内臓の『増殖』による負荷を背負い、そして斬撃で動脈を断ち切られながら。
 壊滅した体内厨房を限界以上に稼働させながらも。

 ――絶対独立。その言葉だけで、有村大樹という男は前に進むことができる。


 静間千景は顔を上げて、ゆっくりと近づく死を見た。
 それと同時、横合いから差し込まれた蹴りが、有村の左腕を砕いていた。


「……静間千景!」

 有村へ繰り出した蹴りの余韻を殺さぬまま、空中を蹴って方向を転換する。

 この環境における静間の能力の脅威を、早見歩は正確に認識している。
 無限に武器と鎧を作り出すことのできる『ガラス化』の能力。
 自身の負傷も深い。敵に時間を与えれば与えるほど、戦力差は開いていく一方であると。

「あたしは……あたしは、走りたいッス! もう一回、生き返って……!!」

 今でも。死んだ今でも鮮明に、頭に思い浮かべることができる。
 例えば、自分に期待を寄せてくれた、陸上部の先輩たちを。
 ランニングコースでいつも出会った犬の成長を。
 体力はなくても、いつでも自分についてきてくれた……幼馴染の少女の笑顔を。

「だから」

 ふわりと落下する感覚を経て……空を蹴り加速する。
 風も光もない地獄にあって、重力だけは変わらないのだと知った。

「だから――!」

 静間は立ち上がった。河に走り出す。
 遅い。3秒、いや2秒。その前に仕留める。確実に。

 先ほどの一撃で有村の動きを止めた。ガラス化すべき血液は静間の周囲にない。
 そして、早い。
 この高度からなら、自分の蹴りの方が――早い!!

「う……りゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――っ!!」

 しかし高速で走る思考は、そこで気づいた。
 静間千景は走りながら右腕の先端を、早見の方へと向けている。

 ……何故?

 少女の唇が紡いだ解答は、短い一言だった。

「――『解除』」

 右腕の切断面を覆うガラスが消え、勢い良く血液が噴き出した。
 細い血流は次の瞬間、その形状のままガラスへと変じ――


              ――


 早見は墜落した。
 一拍の間をおいて、どさり、と、重いなにかが目の前に落ちた。

「ああ……」

「あなたの能力は」

 落ちたものは早見自身の右脚だった。
 その様を横目で見て、静間は淡々と言葉を紡ぐ。

「もう使えない。私の右腕もぐちゃぐちゃになってしまったけど。
 でも、腕と脚だから……ふふ、価値は同じくらいかな」

 紙一重の危機に対して何の感慨すら感じていない、そんな口調だった。

 早見歩は自分自身の加速力で刃に飛び込んだ。
 周囲のどこにも武器がなくとも、自分の血は武器にできる。
 蹴りの威力は大幅に減じ、よって静間の犠牲は右上腕一本で済んだ。
 そして『グラスコフィン』のような止血手段を持たない以上……早見の命自体も、長くはないだろう。

「……残っているのはあなただけよ。有村大樹」

 虚無的な目を巡らせた先にはまだ、気力を失わずに立ち上がる一人の男の姿がある。


「お前を倒すラーメンについて、考えていた」

「……。その両腕の傷で、剣が握れるの?」

 有村の右肩には、先程の交錯でガラスの刃が突き刺さったままだ。
 加えて早見の蹴りの直撃を受けた左腕は、骨が飛び出し捻れて食い込んでおり、想像以上の酷い有様であった。

(腕がなければ能力は使えない。腕で『剣』を握ることが能力の条件なら、それで間違っていないはず。
 なら、次は何をしてくる……)

「生前の俺なら、腕を『増殖』させる……みたいな、無茶なオリジナルラーメンを作ったのかもな。
 それは間違っていたことを知った。ラーメンの歪んだ行使は、必ずどこかにひずみを生む」

 その時有村の脳裏に去来したのは、店長の……杉田巌の教えであったかもしれない。
 あるいは、相棒のラーメン妖精、ミル彦との日々であっただろうか。

「高い。本当に高い授業料だった」

「……いい思い出があるのね。少し、羨ましいかな」

「お前は随分の間、ラーメンを食べたことがないだろう」

 唐突な一言だった。
 静間は目を丸くして、有村の意図を探った。

「さっき自分でそう言っていた。何かの病気か?
 なら尚更、そんな客に、不出来なオリジナルラーメンを提供する訳にはいかない」

 震える腕を無理矢理に動かして、腕組みらしき体勢で構える。
 ラーメン野郎は、《起源》に連なる《偉大なる知性》――空飛ぶスパゲッティ・モンスターに仕える神官である。
 バンダナを模して頭に巻いたタオルと、腕組みの基本戦闘態勢は、向かい風に向かって立つ海賊の姿を模したものであったという。
 海の属性は『魚介』。そして『塩』。神の力を借り……秘術を行使する。それがラーメン野郎。

「根拠はないが。今ならかつてない一杯を、作ることができる」

 にい、と、無愛想に笑う。
 トライ・グラマトン――『極』『旨』『男』。
 一つの味を『極』めたラーメンは『旨』さの高みに達する。それが『男』のラーメン。
 あの時のような。現世で死したあの時ではない。ミル彦を失ったあの時のようにでは、断じてない。
 かつて無心に――あの渋谷109を切断した、あの時のような。

 ただ感謝の『一杯』だけを、この少女に提供するために。

「……っ、私には……」

 目を閉じて、少女は覚悟を決したようであった。

「私にそんなものは、分からない……!」

「分からせてやる」

 走り、そして残る左腕で有村を直接ガラス化する意図であろう。
 間に合うかどうかも分からないが、自分の力でできる限りのラーメンを、無心に作る他ない。
 『味の乱れは宇宙の乱れ』。これは誰の言葉であったか。

 体中の耐え難い激痛を耐えながらも、有村大樹は迎え撃った。
 右腕でも左腕でもない。その口に咥えた剣が、琥珀色に輝き。

「vopal――」

 静間の拳は、有村の右肩に突き刺さった刃に直撃し、体内深くに食い込ませた。
 間に合わぬ――と見えた瞬間。

「うっ……ぐ!?」

 飛来した『脚』が腰部に直撃し、静間の体勢を揺らがせていた。
 それは切断された右脚である。

(……早見歩)

 敵の名が浮かぶ。
 どのような対象でも、どのような状況であっても、脚に触れたものを『蹴る』魔人能力。
 それは仮に、切断された後であっても……地を『蹴った』反動で。

「アァァァァァ………リヤァァァッ、シタァァァァァァァ――――ッ!!!」

 感謝の咆哮と共に繰り出すのは、有村大樹最高の一杯。
 純粋な『切断』概念そのものを極限にまで『増殖』させた《無敵ラーメン(極)》は……
 静間千景の胴を両断し、地平を切り裂き、天空の彼方まで――地獄の世界を、分断した。


「早見」

 恐らく、体内厨房がメルトダウンを起こしているのであろう。
 壊滅した血の池地獄の中。全身に熱を感じながら、有村は早見歩の体に向かって歩いた。

「決着を……つける、ぞ」

 片脚を失った少女の姿は、翼をもぎ取られた鳥に似て無残に見えた。
 呼びかけに答えはない。
 あるいは先刻、静間に片脚を切断された時点で……もはや走ることができなくなった、その時点で。
 早見歩という存在は、死んでいたのかもしれなかった。

「……」

 唐突に、有村は胸を押さえた。
 体が動かない。何かが決壊している、という感覚があった。

 右腕を見ると、すでに有村のそれは冷たい氷像のように変じている。
 ガラス化。

「静間……? どこだ。一体どこで、仕掛けた……?」

 静間がこの体に直接触れることは、1秒たりともなかったはずだ。先程の交錯でも、右肩に突き刺さった刃のみを。
 ……刃?

(そういう事、なのか)

 例えば早見がそうしたように、切り落とされた四肢から有村の肉体に能力が伝播しているとしたら?
 最初に有村が切り落とした、静間の右腕の一部。それをあの折れた刃の中に埋め込んでいたとしたら?
 先の交錯で接触を狙わず、刃を深く埋め込んだのは……有村の体内で継続して『接触』させるためだとしたら?
 右腕自体をもガラス化すれば、それを同じく透明なガラスに塗り込めても、外見からは判別がつかないのではないか?

「……ガラスは電気を通さない」

 切り離された上半身が、言葉を発した。
 切断面をガラス化して止血をしているのだろう。有村にもそれくらいは分かる。

 あと十数秒の余命もないと思われる上半身のみで。
 なお彼女の能力を維持せしめるものは、如何なる執念の力なのだろうか。
           . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
「首の後ろ……脳に繋がる脊髄の痛覚神経を最初からガラス化している。
 最初から私はダメージを感じていない。死ぬまで」

 おそろしく明瞭な声で、言った。

「……これが私の戦い方なんだと思う。
 私には、あなたのようなものはなにもない。経験も、技量も、きっと覚悟すらもないから」

 ――死、すらも。

「ミル彦。俺は。なあ、俺は、絶対に独立するぜ……。絶対に」

「……。あなたは本当に……」

「絶、対……独……立……」

「ラーメン狂いの……大馬鹿野郎なんだね」

 ガシャリ、と音を立てて、冷たい像は地獄に伏した。
 何か言うべきことがあったのかもしれない。と、静間は思う。

 腹の底に感じる、わずかな暖かさ。
 彼の戦いに殺意はなかった。今になって何故か、そう思えた。

「……ラーメン」

 その言葉は、もう有村に届くことはないと知って。


「ラーメン、美味しかった。ごちそう……さま」

 瞳を閉じると、なぜか暖かな涙が溢れた。
 涙の味はほんの少しだけ、魚介と塩のスープに似ていた。


                               <了>


最終更新:2012年06月19日 10:46