ちにうえたきがはしりだす
彼のことは、直視するほど見失うだろう。
スマートフォンでSNSの片手間に眺めるような。
そんな視点なら、彼の真実も見出せるかもしれない。
彼女のことは、正面から向き合うべきだろう。
腰を落ち着け、デスクで専用のPCからプロファイリングするような。
そんな視点なら、彼女の物語を読み取れるかもしれない。
どちらも事実。
視点が変われば物語もその味を変える。
願わくは、この二又の枝の果てに、美しい果が実りますように。
chapter0-B 中央府警
「ふけいさん? パパは、おんなのひとになるの?」
「府警の府は、中央府――統一中央府、この世界の中心って意味だ。だから、パパの次の職場は、世界の警察っていうことになる」
父の言うことを、幼い私はよく理解できなかったけれど。
その表情がとても誇らしくて、ただ、こちらまで嬉しくなったのを、覚えている。
「じゃ、わたしもなる! ふけいさん!」
「それじゃあ、なんでも食べて、丈夫な体にならないとな」
「……ピーマンも?」
「ああ。ニンジンもだ」
「たべたら、たまごうどんのおみせいける?」
「ああ、約束だ」
長いエレベーターで、睡魔が襲ったのか。
カチュア=マノ―は、目覚めたまま、そんな、いつかの夢を見た。
chapter1 世界樹の根
それは、世界樹と呼ばれていた。
世界樹。
各地の創生神話において、世界を構成するとされる一本の樹。
その名を冠する、全長30万km超の樹木。
根が天に根差し、そこから大地へと伸びる、さかしまの樹。
その枝の一本に至るまで、人が通ることのできる樹状の迷宮。
「万能の叡智を秘めた水曜の瞳を欲するなら、汝、最優を示せ」
案内者は候補者に告げ、候補者たちは、根へと登りゆく。
万能の叡智が眠るという、天上高き世界樹の根へ。
この話は、四人の候補者の物語だ。
一人目。誤認の特異点、警察官、カチュア=マノー。
目的は、指名手配中の犯罪者を捕らえること。
二人目。矛盾の特異点、研究者、ホリィ=クリスマス。
目的は、死ぬこと。
三人目。隠蔽の特異点、犯罪者、薊野 檻弥。
目的は、失った記憶の奪還。
地の枝より入りて、天の根へと、さかしまの世界樹を遡行する道行。
愚者が世界へ至る、アルカナの道程。
『魔術師』の罠を踏みこえ、『女教皇』を教導した。
『星』に手を伸ばし、『愚者』の鉄槌を耐えた。
『塔』を登り、四人の特異点は、その扉を開いた。
ここより先は、根の果て。
全てが生まれた――『世界』の、話をしよう。
◆ ◆ ◆
チャイムの音と同時にエレベーターのドアが開いた。
全員の表情が、変わる。
敢えて軽口を叩いていたポンコツ婦警までもが、鋭い目で、先を見つめている。
そこにあるのは、これまでと同じ、物々しい扉。
複数の言語で、『世界樹の根』と刻まれている。
――また一つ、記憶が鮮明になる。
案内人とは、かつて『剪定/選定』に挑み、敗北――あるいは勝利した候補者の情報から、世界樹が生み出した自律端末だ。
不必要な情報を今代の候補者に与えないために、不要な記憶にはロックがかけられ、そして、ロックは根に近づくほどに解除される。
思い出した。
生前の自分は、確かに、この場所まで辿り着いた。
異能者の中、ただがむしゃらに体を鍛えただけの男が、最後の試練まで生き延びたのだ。
ただ、譲れない願いがあったから。
そう。願いだ。
オレには叶えたいことがあって、どうしようもならなくて、全知全能の力を求めたのだ。
「……ウォーたん?」
ポンコツ婦警が、オレを摘まみ上げる。
カチュア=マノ―。
初めて聞いたときには、何の感慨もなかった名前。
「いよいよ正念場って奴だな」
首を振って誤魔化す機能もこの体にはない。
だから、オレは、そうとだけ口にした。
「正念場――ですか。……不思議な気がしますね」
そんな適当な言葉に反応したのは、意外な相手だった。
薊野 檻弥 。
ポンコツ府警に手錠をかけられた、記憶喪失の犯罪者だった。
「何です、薊野容疑者? 不思議?」
その失礼な呼びかけに、丸眼鏡の青年は機嫌を損ねることなく答えた。
「世界樹の一番奥には、『万能の英知を秘めた水曜の瞳』があるという話でした。連想するのは北欧神話、オーディンの伝承です。彼の神は、世界樹の根本で、片目を代償に無限の英知を手にしたと」
「水曜ってのは?」
「Odin(オーディン)が Woden(ウォータン)に訛り、「隻眼の神の日(Woden=es=day)」が、ウェンズデイ、水曜の語源です」
薊野はすらすらと語る。
記憶喪失とは言っていたが、知識には影響がないタイプのものだったのだろうか。
『案内人』に施される記憶のロックに近いものなのかもしれない。
「そういう宗教建築だってだけじゃあないですか」
「気になるのは、そこじゃありません」
薊野は手にしたスマートフォンのメモの機能を起動し、カチュアに差し出した。
『魔術師の工房』
『女教皇の教導』
『星の門』
『愚者の地雷原』
『塔の昇降機』
そこには、これまでカチュアたちが潜り抜けてきた『剪定/選定』の試練の名が書き連ねられている。そこに、薊野は、音声入力で最後の一つを追加した。
『世界樹の根』
「これらの試練に共通するのは?」
「――タロットカード、大アルカナ」
これまで黙って聞いていたシルクハットの女性、ホリィ=クリスマスが口を挟んだ。
「ご名答。大アルカナ『吊るされた男』のモチーフは、オーディンとする説もあります。が、世界樹伝説はその中に大アルカナの構造を含みえない」
「……???」
薊野の目は、話についていけていないカチュアを向いていなかった。
ただ、クリスマスだけを見据えている。
「神秘基盤が、めちゃくちゃなんですよ、この『剪定/選定』は。大筋が北欧神話の主神の試練の踏襲でありながら、試練のモチーフはタロット大アルカナ。そして、考証に誤りのある多腕の仏像、地獄篇がモデルの彫像、古代ギリシャ神殿めいた柱、近代極東の舞台喜劇……一つの根に、関係のない様々な別の木の枝を接ぎ木しているようだ。いや、こう言い換えた方がいいですか」
今や、この場は薊野を中心とした劇場になっていた。
言葉の内容で、ではない。その表情、語調、身振り手振り、全てが、人の視線を、注意を引き付けてやまない。そんな天性の煽動者の語りだった。
「――宗教的統一性と無関係に飾りたてる、近代クリスマスツリーのようだ、と」
薊野が口にする理屈の正しさや、整合性については、オレにも判断しかねた。
「ホリィ=クリスマス女史。あなたは、クリスマスツリーの研究者とのことでした。当然、違和感があったはず。それがこの『剪定/選定』の本質を解き明かす鍵であることも、理解していたでしょう。けれど、それを雑談の中ですら言い出さなかった。それは――」
だが、この青年が明確な確信をもって、クリスマスを糾弾をしていることだけは理解できた。
「あなたが、それを解き明かす必要がない……『この儀式がどういうものかを理解している』立場――『剪定/選定』を運営する側だからだ。違いますか?」
最後の言葉の意味するところだけは、咀嚼できたのだろう。
ポンコツ婦警は薊野を下がらせ、構えを取った。
クリスマスを、警戒するように。
「……なるほど。なら、利害が合致する。筋書きを握られて、癪ですが」
「何言ってるの、博士ちゃん? 嘘、だよね?」
いつかのように、クリスマスの正統性を声高に訴えるはずのドンダーも、何も言わない。
それがかえって、薊野のハッタリめいた言いがかりの正統性を示唆していた。
「――説明すると、長くなります」
クリスマスは、薊野の言いがかりを否定しないまま、最後の試練の扉を押し開いた。
その向こうで、『世界樹の根』を守る八本脚の多脚機動戦車――『スレイプニル』が――クリスマスに頭を垂れるようにかしずく。
「ですが、カチュアさん、薊野さん。たしかに私は、この『剪定/選定』の背景を知る側。その意味で、運営側と、言えるでしょう」
オーディンの軍馬の名を冠する戦車の巨体を、飼い犬のように撫でながら、クリスマスは微笑んだ。
chapter2 聖なる贈り物
「こちらを」
クリスマスは、おもむろに壁面へと手を向けた。
呼応するように、部屋が光で満ちた。
照明が絞られた世界に、遮光幕が開かれた窓から新たな光源が飛び込んできたのだ。
「――ぇ」
窓に駆け寄ったポンコツ婦警が言葉を失った。
オレも同じだ。オレの時には、あの多脚機動戦車に撃ち抜かれ、外の光景など見ることはできなかったからだ。
窓に触れると左右にスライドし、生ぬるい外気が吹き込んでくる。
「あまり乗り出さないでくださいね。上へ落ちます」
そこにあったのは、反転した世界だった。
頭上に広がるのは、大地。
世界樹は、天にたゆたう地表に根を下ろしていた。
視界を下へと向ければ、底なしの夜空。
見知った空とは、深さが、透明度が、星の数が違う。
そして、何より見慣れたものと違うのは、世界樹の枝の狭間から覗く、仄黒い闇に空いた純白の孔だった。
「空の底に、穴――?」
「あれは、月。『最初の大地』――惑星、地球の衛星。他の星よりもずっと距離が近いので、均一投影された『第二の大地』の夜空に慣れていると違和感があるのでしょう」
「世界樹は、樹だ。ならば、それが『大地から生えていないはずがない』。――つまり、僕らは、『逆立ちをしたまま、世界樹を伝い、地面を目指して降りてきた』。そういうことでしょうか? ホリィ女史」
薊野の口調が高揚したように熱を帯びる。
「その通りです。この、上に広がる大地こそが、人類種が生まれた最初の大地。『破壊樹』を焼き尽くした代償に死の星と化しましたが」
薊野とは対照的に、静かにクリスマスは語った。
にわかに信じがたい『世界』の真実を。
曰く、人類は、今のオレたちに馴染みのある大地ではなく、この世界樹の生えている『最初の大地』、地球で種として発生し、文明を発展させていたこと。
ある時、異常な生命力の植物が人類の版図を脅かすこととなり、その植物は『破壊樹』と名づけられたこと。
はびこる『破壊樹』によって人類種は食料、エネルギー問題に直面、都市間国家間での戦争が勃発し、その数を大きく減らしたこと。
種としての絶滅寸前に、各国の生存者は、国の枠組みを越えて事態を打開するための組織――『統一中央府』を設立したこと。
統一中央府は、二つの策を以て、『破壊樹』への対処を行ったこと。
一つ目は、多数の異能、技術の粋を集めた『第二の大地』の創造と移住。
二つ目は、全人類が『第二の大地』へ移住した後の、核による『破壊樹』の焼却である。
だが、統一中央府は、地球を諦めたわけではなかった。
自らを滅ぼした『破壊樹』をベースに構築した、半有機リ・テラフォーミングデバイス。これをもって、再び、母なる大地に人類が暮らせる世界を取り戻そうとしたのである。
「――それこそが、『世界樹』です」
この情報は、オレには与えられていない。
生前も、そして『案内者』になってからもだ。
単に、『全知全能の力を得られる謎の樹』という認識しかなかった。
だが、これが、そういうものだとすれば。
人が、その生存圏を確保するための装置だとすれば。
「……『水曜の瞳』、全知全能……世界を変える力としてのリ・テラフォーミングなら、神の権能に準えるというわけですか。ああ、なら! それを手にするというのは――この樹の管理権限を与えられるということ。『剪定/選定』とは、管理者の代替わりの選抜試験。傑作だ! 確かに、世界を変える全知全能の力だ! けれどそれは、人類の版図の回復にしか使えない。僕なんて目じゃない、ひどい詐欺だ!」
オレの思考を、薊野がまくしたてた言葉が代弁する。
最初から、『全知全能』はエサだったのだ。
「世界樹はその高度な情報処理に、生体ユニットを必要とします。世界を改変するほどの処理能力を持つ――異能者の脳を」
限定先着何名様の無料商品というふれこみで頭の軽い客を釣るような、そんな古典的な手口に、生前のオレはやられたということなのだ。
「――そんな」
ぽつり、と。今まで黙っていた、ポンコツ婦警が呟いた。
「地面が、地面じゃないとか。逆さまの地面が本物とか。星を作り変える装置とか。人の脳を、部品にするとか……」
そこで、言葉は止まる。
この体に仕込まれた『案内人』――『世界樹』の一部としてのオレの第六感は、反応しない。以前感じたような『世界樹』を否定する形での『常識強制』は、発動しない。
クリスマスは、その様子を何も言わずに眺めている。
ポンコツ婦警は改め窓の外を見た。
もし、言葉だけの説明なら、ポンコツ婦警は『そんなはずはない』と断じ、『常識強制』で否定したことだろう。
が、クリスマスはまず、この天地逆転の光景を見せた。吹き込む風を感じさせた。
百聞は一見にしかず。
信じざるを得ない。
そんなものはあるはずがないと確信できねば、『常識強制』は発動しないのだ。
「信じて、しまえましたか」
クリスマスには、目論見通りに事が運んだことへの喜びもなかった。
「我が友よ。――準備は、整った」
「ありがとう」
今まで、不自然なほど静かだったドンダーの声。
それを合図に、クリスマスは足元からせり出した銃把を手にする。
最後の試練『世界樹の根』の守護者、多脚戦車『スレイプニル』と同じ意匠の銃を。
これが、ドンダーの言う「準備」。
あの巨大な戦車を分解し、クリスマスが使える形に加工したということか。
ただの一端末にできることではない。
「今代の管理者、ドンダー=ウォルティスに確認済みです。この塔に入った以上、誰かが『水曜の瞳』の管理者に選ばれなければ、外へは出られない。そして、『水曜の瞳』になれば、私は死ぬ機会を永遠に失う」
カチュア=マノ―。
ホリィ=クリスマス。
薊野 檻弥。
試練を全て越えた三人には、資格がある。
このうち誰か一人が、『水曜の瞳』――全知全能の力を手に入れる『管理者』――人類存続、版図拡大のための、人柱になる。
「なんで……」
「――私は「悪い子」ですから。家族全員が事故にあったとき。「自分だけが助かる贈り物」しか願えなかった女ですから。その罰に、死ねなくなってしまった子どもですから。当然に、自分が死ぬために、貴女をこの樹に奉げられるんです」
クリスマスは床から巨大な銃を引き抜き、こちらへ銃口を向けた。
「博士、ちゃん」
ポンコツ婦警は、ホルスターから拳銃を抜いた。
声と裏腹に、体は震えていない。
思考と動作の分割。プロとしての動作だ。
それがオレには、何よりも痛々しかった。
オレは思い出している。
多脚機動戦車『スレイプニル』。
生前、「俺」の命を奪った銃口を向けられて、最後の記憶のロックが解放された。
俺は、「悪い父」だった。
妻が、娘を残して死んだとき。
娘と生きることではなく、妻を取り戻す夢を願ってしまった。
娘を置いて、『全知全能』を求めて、こんなところへ来てしまった。
その果て、愚かな父は死に。
娘は、母に続いて父までも失い。
それで、この喜劇は救いようもない形で幕を引いた。
――そのはずだったのに。
俺は――オレとして、その続きを、見せられている。
クリスマスの動きは、人の限界を越えたものではなかった。
クリスマスの握る武器は、人知を越えたものではなかった。
ただ、正確に、ただ、精密に。
ただ、当然のことのようにそれが致命的であると理解できてしまう。
常識の範囲内で、最強の挙動。
即ち、『常識強制』で補正しえない、最悪の攻撃を繰り返す。
カチュアは後ろ手で手錠の鍵とオレを薊野に放り投げる。
薊野は手慣れた手つきで自由を取り戻すと、オレを摘まみ上げて物陰に隠れた。
「私は、貴女を世界樹に奉げます。普通の人間であれば、それは脳が朽ちる寸前までの奉仕を意味します。私は――カチュアさんを殺そうとしているのですよ」
背を押すようなクリスマスの囁き。
カチュアは拳銃のトリガーを引いた。
倒れ込みながらの射撃にも関わらず、それは正確にクリスマスの額を撃ち抜き――
「――残念です」
その、頭部に空けられた銃痕が、逆回しのように回復していく。
「人は、脳を撃ち抜かれたら、死ぬべきです。カチュアさんの『常識』ではそのはずです。それを――強制してもらえたら、死ねたのに」
クリスマスの傷は、ほんの数秒で完治した。
ホリィ=クリスマスが、「死にたい」といいながら、それを為せずにこんな場所まで来た理由。それが、おそらくはこの不死性。
「私の異能は『贈り物の獲得権』。いい子にしていれば天から授かりものがあるという確信に根差した能力。――それで私は、不死身の体を願ってしまったんです。家族全員が死にそうなときに。自分のことだけを、願ってしまった悪い子なんです」
クリスマスの言う通り、ポンコツ婦警の『常識強制』が発動していれば、クリスマスの不死性は剥奪されていただろう。
だが、そうはならなかった。
おそらく、ポンコツ婦警は、クリスマスを「殺したくない」と思ってしまったのだ。
一緒に試練を越え、短い時間ながらも行動を共にし、友情めいた好意を覚えたのだろう。
そんな気持ちが、『常識強制』の発動を阻んだのだ。
ポンコツ婦警は、善人だ。
本当に、涙が出るほど、真っすぐに育ったのだ。
ポンコツ婦警はクリスマスを殺せない。
クリスマスは、なぜか『世界樹』のバックアップを受けてこちらを攻撃し続ける。
絶対絶命。
もしオレが『案内人』という立場でモノを見ていたならば、今回の『剪定/選定』の結果はこうなったと、状況を受け入れただろう。
けれど。
今のオレは――『俺』の記憶を、取り戻してしまっている。
だから、この状況を許せない。
許せないなら、どうする。
この体は、『世界樹』に組み上げられたもの。
樹の支援を受けているクリスマスに敵対すれば、この体を分解されておしまいだ。
そこに、
「お悩みですか? ウォー■■=■■■さん」
悪魔が、囁いた。
「策があります。この場全員が得をする、最高の案だと保証しますよ」
薊野 檻弥が語った策は、『俺』の過去を知っているとしか思えない提案だった。
逡巡する。
このフロアでの言動で、間違いなくこいつが「悪」だと、オレは直感している。
だが、この策は、間違いなく、今オレが取れる最良。
しかし、本当にそれを選んでいいのか。
おそらく、この男は、オレの選択によって最も自分に都合のいい展開を掴みとる。
それが、ポンコツ婦警を――カチュアを、不幸にすることはないか?
視線をカチュアとクリスマスの攻防に移す。
クリスマスの銃撃は決して必殺ではない。
だが、だからこそ、カチュアは致命傷ではない銃撃に苦しみ続ける。
悩んでいる時間はない。
――思えば、間違いばかりの人生だった。
あのとき、仕事ではなく、家族を選んでいれば。
あのとき、妻を悼み、娘を大切にしていれば。
あのとは、あの芝居がかった大男を庇わなければ。
けれど、全て、自分の選択だ。
少なくとも『俺』の情報を、オレはそう認識している。
きっと、この選択も間違いなのだろう。
けれど。この選択を、オレが否定することは、ないだろう。
「ポンコツ婦警!」
攻防を続けるカチュアに、オレは叫んだ。
「オレは、この世界樹で死んだ人間だ! その残留情報から組み上げられた端末で! 疑似的に人格を再現された存在だ! ――そんな『超常』をおまえは、信じるか?」
これまで、確定させてこなかったこと。
超常の技術で生み出された、オレという存在。
それを今、カチュアによって、再解釈させる。
「――なに、言ってるんですか」
それは、様々なものを冒涜する反則。
悪魔の囁きに乗った、最低の取引。
「そんなはず、あるわけ、ないじゃないですか」
「じゃあ。信じて、くれるか。カチュア」
いつかの、『俺』の願いと。
今の、彼女のルールと。
そして、『世界樹』の『剪定/選定』というシステムを、否定する詐術。
「父さんが、まだ、生きているってこと」
「――なに、言ってるんですか」
そう言って、カチュアは、否定した。
「そんな! 最初から! 信じてたに! 決まってるじゃないですか! この、バカ親父――!」
自分の父が世界樹に挑み、死して、その残留情報から再現されたのが、今叫んでいる狼のぬいぐるみであるという事実を、全力で否定した。
――『常識強制』発動。
その中二力が、世界を改変する。
父と、娘。生前の関係を思い出せず、オレは『案内人』を務めた。
けれど、カチュアは最初から、オレの名を聞いて、俺の事に気付いたのだ。
だから、二度目の名乗りのとき、「自分と同じ姓に何も反応しない」オレに、こいつは最後まで名乗らせなかった。
その名を、他人事のように口にするオレに、耐えられなかったから。
だから、オレのことを、ウォーたんと、あだ名で呼び続けたのだ。
何か理由があって他人のふりをしているのだと。おそらくは、そう祈りながら。
その願いが、今の呼びかけによって確信へと変わり、世界を作り変えていく。
オレの体は、超技術によって死者の残留情報から組み上げられた端末でなく。
ただ「マイクとカメラが仕込まれただけのぬいぐるみ」へと変わる。
それだけでは足りない。
その向こうには当然、父親がいる必要がある。
死者は喋らない。それが常識だ。
ならば、当然に「生きた父親」が、そこに存在する。
そのように、世界が連鎖的に組み変わる。
身体感覚の拡張。
自我境界の変容。
記憶の欠落、想起抑制の撤廃。補完完了。
組みあがる。組み直される。
それは、ifだ。
あの時、もしも俺……カチュアの父が死んでいなかったとしたら。
そんな、ありえざる可能性が、真実であるという確信によって顕現する。
カチュア=マノ―という能力者の異能『常識強制』。
薊野 檻弥の催眠術めいた詐術と話術。
この両者によって、死んだはずの男が、今ここに蘇る。
中年の肉体。
俺がもし、世界樹に挑んでいなかったとしたら。
こんなになるまで、カチュアと、一緒にいられたというのか。
そんな感傷に、一秒だけ浸り。
「大きくなったな。カチュア。母さんに、そっくりだ」
俺――中央府警所属特務捜査官、ウォーキン=マノーは、クリスマスの前に立った。
chapter3 常識強制/一つ目の願い
「――父、さん」
背後から、カチュアの呟きが聞こえる。
振り返れるほど、状況はやさしくなく、また、俺は恥知らずでもなかった。
「私、警察官になった」
「ああ」
「ピーマンも、ニンジンも、食べた」
「ああ」
クリスマスは、なぜか攻撃の手を止め、俺達のとりとめのない会話を聞いていた。
「――そんなことは、ありえない」
そして、クリスマスはおもむろに断言する。
俺は、薊野を一瞥した。
この切り返しは危険だ。
俺は、カチュアの確信による因果歪曲で肉体を取り戻した。
父は生きていた、という認識が揺らげば、この肉体は霧散する。
「世界樹の柱になれるのは一人きり。それ以外の候補者は、生存していれば樹から放逐される。前回の候補者の中で、この樹の中に肉体が格納されているのはドンダーだけ」
続く言葉に、俺の指先の輪郭がぶれた。
カチュアが、動揺している。
「前回の『剪定/選定』、候補者の中で、異能者でないのは、ウォーキン=マノ―氏、一人でした。知恵を、英知を持たぬ男が、逆しまに世界樹の根に至り、片目を失った」
だが、その当然の論駁を押し返すように、薊野が、朗々と語る。
「これはまさしく北欧神話の主神、ウォータン、オーディンの英知と全能の継承の試練である。そう認識した彼は、死の直前に、確信によって世界を歪めたのです。――クリスマスさん、あなたが、『よい子ならば天からクリスマスプレゼントが与えられる』と思い込んだように。彼は――『自分が、全能の英知を手に入れた』という世界律を、世に刻んだ」
その言葉は呪詛だ。
あるいは、無理やりに新たな異能をこの場に作り出そうという、儀式の過程だ。
薊野 檻弥はその魔的な煽動、洗脳技巧と、カチュア=マノ―の『信じた常識を具象化する』という異能、そして、この、世界樹と銘打たれた蠱毒の場を借りて、新たな異能を捏造しようとしている。
本当のウォーキン=マノ―は、全知全能の異能者などではない。
妻の死に向き合えず。残された娘との日々に耐えられず。
逃げ道を探して、全知全能の『水曜の瞳』などというまやかしを求めた最低の男だ。
「――その異能をもって、ウォーキン氏は、この樹の中に潜み続けた。垣間見た未来でこの場に迷い込んだ、己が娘を助けるために」
そうであれば、どれほどよかっただろう。
違う、違うのだ。全ては偶然なんだ。
けれど、その言葉によって、この身に力が流れ込む。
それは即ち、カチュアが、この場で最も世界律に強く干渉しうる能力者が、この荒唐無稽な言葉を、信じてくれているということ。
視界が滲む。
いつか、『オレ』――『案内人』ウォーたんは思った。
一体何が、コイツのトラウマになっているのか。
『常識強制』なんて無茶苦茶な異常の否定を身につけたのかオレは知らない――と。
他でもない。
その原因は、俺だったのだ。
信じても世界は変わらない。
願いを叶える奇跡などない。
そんな風に、娘に思わせてしまった。
世界を変えるほどの確信を持たせてしまった。
ウォーキン=マノーは、そんな、愚かな父親だ。
けれど。
そんな男を、この子は、信じてくれている。
生きているはずだと。これまで自分を助けてくれたのは、生き延びた父であると。
だから、どうか。
何を捧げてもいい。悪魔とだって取引しよう。
「――隻眼の神、か」
その代わり、ここに一つだけ。
この子を守る力を、この、ダメ親父に、与えてくれ――
「カチュア。もう一つ、信じてくれるか? ――父さんが、絶対に、無敵だって」
「……うん」
――『常識強制』。
カチュアのルールに、超常の肯定という軸が追記され。
薊野 檻弥の言葉を核に、一つの異能を作り出す。
「ウォーキン氏の異能に名付けるならば――『一つ目の願い』。身体機能を代償に、全能を為す権能です」
吟遊詩人めいて薊野が宣告する。
それは、嘘から生まれた真が世界に承認された瞬間だった。
万能の能力。だが、所詮は振るうはただの凡人。
ならば、イメージできる権能はシンプルなものがいい。
即ち、消滅。
クリスマスが動く。
――無数の落下物の中から、一つだけ致命の一打を潜ませた『愚者』の鉄槌。
先にクリスマスを消滅させる?
否、俺の脳で同時に消滅させられる概念は一つ。
クリスマスを消しても、繰り出された攻撃を消さねばカチュアが死ぬ。
代償、右耳聴覚。――『愚者』の鉄槌/消去。
――床から、壁面から、天井から、無数の致死の罠を発動させる『魔術師』の工房。
立て続けに繰り出される攻撃。
代償、自己内臓覚。――『魔術師』の工房/消去。
――伸びたマニピュレータから発射される爆破光線、『女教皇』の教導。
代償、味覚。――『女教皇』の教導/消去。
速い。
同じ人類である以上処理能力に大きな差はないはず。
しかし、クリスマスは僅かずつ俺の先を行く。
――『女帝』/消去。
――『皇帝』/消去。
クリスマスは言った。ドンダー=ウォルティスこそ、今代の『水曜の瞳』の管理者だと。ああ、そうだろう。前回の『剪定/選定』の中で、真実を知ってなお人柱に立候補するような人格者はあいつ一人だった。
なら、この処理速度は奴の支援によるものだ。
メイントリガーはクリスマスが握っているが、その過程の演算をドンダーが、世界樹のリソースを振り向け、助けているのだ。
あいつめ。
クリスマスが「死ねない」女なら、脳が劣化しないなら、次期継承者は彼女であるべきだろうが。
けれど、それができないから。
懐に飛び込まれたら、それを守ってしまうような男だから、あいつはこの世界樹の柱になってしまったのだ。
きっと、死ねないという一点において、管理人として長い時を倦んできた自分と彼女とを重ねてしまったのだろう。
――『教皇』/消去。
このままでは、押し切られる。
そうでなくても、支払える身体機能がなくなっておしまいだ。
何か。
ほんの、一瞬だけ、隙が――
「ホリィ=クリスマス」
そんな、願いに答えるように。
また、薊野が囁く。
「今度は、あなたが、家族を引き裂くのですか」
発動しようとしていたアルカナの試練、『恋人』。
そのトリガーを引くべき、クリスマスの指が、震えた。
「こん――のぉぉぉ!!」
カチュアが飛び掛かる。
第二階層で自動迎撃の多腕防衛システムすら掻い潜った体術が、薊野の作り出した好機を手繰り寄せる。
崩し。転。極。
クリスマスの体が、弧を描いて地面に叩きつけられる。
俺は、倒れ伏した彼女の脳に、シルクハット越しに指を突き付けた。
「貴方の全能は、私を殺してくれるのでしょうね」
「ああ」
できる。確信があった。
カチュアは、クリスマスに好意を持っている。
だが、クリスマスの好意と、父親への信頼と。
そのどちらの強度が強いかといえば――自惚れ抜きで、後者であるだろう。
「クリスマス。――なんで、能力を使わなかった?」
俺は、彼女に問うた。
不死の肉体すら手に入れる、彼女の異能。
それを併用すれば、俺は負けていたはずだ。
「全知全能の能力なんて、死ねる可能性、逃がせません。それに、
――悪い子は、プレゼント、もらえないですから」
使わないのではなく、使えなかったのだと、彼女は言った。
それが、彼女の能力の制約。
自分を苛み続けた少女の、己へ架した枷。
だから、星の試練において彼女は、「能力を使えれば……」と口にしたのだ。
「すまぬ、我が友。――吾輩は、貴女に何もできなかった」
シルクハットの中から、今代の管理者の声が響いた。
「……何を言ってるのかしら、ドンダー」
その詫びを、クリスマスは笑い飛ばした。
「あなたこそ、悪い子、には、贅沢すぎる、プレゼントだったんだから」
俺は、能力を起動する。
聖夜の名を負った女は、静かに最後のプレゼント――死を受け入れた。
chapter4 粘土仕掛けの精神
ホリィ=クリスマスが動きを止め、ウォーキン=マノ―もまた、その場へ倒れこんだ。
「父さん――!」
カチュアは父親へと駆け寄った。
脈はある。だが、反応がない。
ウォーキンに発現した異能『一つ目の願い』。
それは、身体機能を代償に全能の力を振るうものだと薊野は宣言した。
ならば、彼は、クリスマスを制するのに、何をどれだけ奉げたというのか。
聴覚は? 触覚は? 生命活動を維持する機能は残されている?
カチュアの焦燥をよそに、軽い拍手が部屋に響いた。
薊野 檻弥だ。
無邪気な笑顔で、彼はこの惨状を眺めていた。
「首謀者と結託していた候補者、ホリィ=クリスマスは、奇跡的に助けに入った、カチュア=マノ―巡査の父親、中央府警所属ウォーキン=マノーと相打ち。ここに残る候補者は二人。どちらかがこの樹の人柱となり、どちらかが外に帰れるわけですが――」
「何をのんきに……」
「――覚えていますか、カチュア=マノ―巡査」
カチュアへの問い。
それは即ち、薊野は覚えているという前提の表明。
「あなた、記憶が――」
彼の記憶喪失が嘘であることの証だった。
「いつか、貴女は僕に言いました。『触れただけで心を作り変える超能力なんてない。それは、言葉で相手の思考を誘導する、マインドコントロールでしかない』と」
言ったような気もする。
しかし、カチュアにとって当然のことを口にしただけの事。
何も特別な記憶ではなかった。
だが、薊野 檻弥にとってはそうでなかったのだ。
その一言一句を繰り返せるほどに。
「そして、貴女の異能――ウォーキンさんは『常識強制』と呼んでいたようですが――によって、その解釈は現実化した」
カチュアはようやく、薊野 檻弥の言わんとすることに、辿り着いた。
父とクリスマスの闘いを目の当たりにし、超常の存在を肯定したことで、理解できてしまった。
「異能者とは――魔人能力者とは、揺ぎ無いエゴで世界法則すら歪める者。この力は、僕そのものと言っていい。それを「あるはずがない」と否定され、奪われた。それがどういうことか理解できないでしょう。無自覚に死者まで蘇らせる、カチュア=マノーという女には」
怒り。恨み。
世界すら捻じ曲げるほどの己の根幹を否定され、奪われたという、本質的な尊厳の剥奪。
その復讐のために、薊野 檻弥はこの機会を待っていたのだ。
どこまでが彼の仕込みであったのかはわからない。
クリスマスと出会ったことは、偶然のはずだ。
ウォーキン=マノ―の思念が案内役としてカチュアと引きあわされたことも、予測しようがないはずだろう。
けれど、この男はそれを成し遂げた。
偶発的な要素を、全てこの事態に収束させるために、筋書きを描いてみせたのだ。
「けれど、貴女は認めた。世界には、異能が存在しうるということを。思いが世界を歪めうることを。つまり、貴女は、こう思ってしまったはずだ。『あの時否定した、薊野 檻弥の異能。あれは、実在したんじゃないか――?』」
ぴしり、と。
何かにヒビが入ったような気がした。
「思い出してください。中央府警から提供された、僕の資料。僕の異能。『粘土仕掛けの精神』。触れたものの精神を加工する、精神操作系能力――」
想起してはいけない。それこそ、薊野の話術のうち。
わかっていても、意識するほどに、その内容がカチュアの頭の中で具現化してしまう。
――がちゃん。
カチュアと薊野、縛る者と縛られる者、両者だけが認識する。
薊野 檻弥という獣を捕え、異能を封じていた、不可視の鎖が、砕け散った事を。
薊野の手が閃き、己の額を突く。
「『粘土仕掛けの精神』。対象:自己/無効化:身体出力抑制」
薊野の姿が、霞んだ。
カチュア=マノーは、武術者として一流の修練を積んでいる。
だからこそそれが、人体としてありえない動きであることを看破した。
ただ速く。ただ強く。
自らの筋肉、腱、骨格、関節、それらに与える負荷を考えない、本来人体が、死の危険に瀕したときに無意識にのみ発揮できる出力を、薊野は発揮していた。
一足で飛び込み、突き出される薊野の両の手。
拳ではない、手刀ではない、明らかに敵を害するには足りない形。
武の術理にはない、ただ「相手に触る」ことだけが目的の、子どもの鬼ごっこのような手つき。
――それは即ち、触れるだけで、相手を無力化しうる効果があるということ。
カチュア=マノ―は、異能超常を信じないことによって世界を捻じ曲げた女である。
だが、無知であっても愚者ではない。
それが「ある」と仮定した以上、それを前提とした推論を弾け出せる武術者でもある。
その構え、動きから、「手で触れる」ことが、薊野の異能の発動条件であると推測する。
間合いを取り、拳銃を抜きかけ、クリスマスとの攻防で全て撃ち尽くしたことを思い出す。
と、薊野が、あらぬ方向に駆けだした。
その先には――倒れ伏す、ウォーキン。
力を使い果たし、意識の有無もわからないが、薊野の能力が「触れたものの洗脳」であるのなら、命に代えた『一つ目の願い』の発動を強要させかねない。
カチュアは拳銃を投擲、薊野の後頭部に命中する。
わずかに怯んだ青年にとびかかり、カチュアはその腕を捻り上げた。
手首から先には触れず、関節可動域の限界まで引き延ばす。
激痛で身動き一つ取れない――そのはずだった。
が、
「『粘土仕掛けの精神』。対象:自己/加工:痛覚減衰」
薊野は、己の指先で己の掌を握り込む。
ぼきり。
薊野の腕から響く鈍い感触に、カチュアの方が顔を歪めた。
あらぬ方向に曲がり、だらりと垂れさがった腕の惨状を意に介さず、薊野は残った腕でカチュアの腹に触れる。
「『粘土仕掛けの精神』。対象:カチュア=マノ―/破壊:普遍世界律への確信」
痛みはない。
だが、その接触点から、自分が、その核となる大きなものが作り変えられていく感覚。
生きてきた前提が覆る。
全身に穴が空いたような、輪郭が曖昧になったような錯覚。
平衡感覚を失ったような違和感の中で、それでもカチュアは、薊野の背後を取り、首筋に渾身の力で肘を振り下ろした。
理解はできない。だが、確信はある。
自分が、とてつもなく大きなものを、失ったということ。
「――これが、貴女がしたことだ」
薊野はそう口にし、抵抗することなく意識を手放した。
それは、間違いなく、彼の勝利宣言だった。
彼の目的は最初から、カチュアを殺すことではなく、その異能――『常識強制』を奪うことだったのだ。
カチュアは、体を引きずるようにして、『世界樹の根』の間を見渡した。
万能の異能、『一つ目の願い』によって絶命した、不死者、ホリィ=クリスマス。
異能の代償によって倒れ伏した、前回の『剪定/選定』の参加者、ウォーキン=マノ―。
カチュアへの復讐のために世界樹という場を選んだ犯罪者、薊野 檻弥。
候補者三人のうち二人が倒れ、残るは一人。
誰かが、『はじまりの大地』の――人類のために人柱にならなければならないのならば、そうしなければ他の者たちがここから出られないのならば、カチュアの選択は決まっていた。
ホリィはもう絶命した。
薊野はこれから司法で正規の裁きを受けるべきだ。だから、
「――ドンダーさん。今代の『水曜の瞳』の継承者。私が、次を引き継ぎます」
そう、宣言した。
部屋が――『世界樹の根』が脈動する。
新たなる主を迎え入れるように。
それ以外の者たちを、この場から放逐するように。
「いいのだな、同士マノ―」
「はい」
「承知した。それでは――リ・テラフォーミングデバイス『世界樹』の管理者権限、『水曜の瞳』を、ドンダー=ウォルティスより――」
そして、カチュア=マノ―は、落ちていく。
世界樹の根元――『はじまりの大地』から、『第二の大地』へと。
「――ウォーキン=マノ―へ継承する」
「え?」
カチュアが見上げると、そこから、半身を世界樹に飲み込まれつつあるウォーキンがこちらを覗き込んでいた。
「ま、そういうことだ。だから……なんだ、楽しく生きろ。あと……こんな親父を信じてくれて、ありがとうな、カチュア」
そんな口下手な遺言に、返事をする暇すらなく――
カチュア=マノ―と、薊野 檻弥は、30万kmの距離を転移し、世界樹から弾きだされた。
◆ ◆ ◆
世界樹を遡る、一人目の候補者。
警察官、カチュア=マノー。
世界樹より生還。
父、ウォーキン=マノ―の後を継ぎ、中央府及び地方自治体である国府州の治安維持のため、尽力する。
世界樹を遡る、二人目の候補者。
研究者、ホリィ・クリスマス。
靴下に入る物体に限り、心から欲しいと思う者を手に入れる異能『聖なる贈り物』により、靴下には当然「人の脚=体」が入るべき、という強弁で『不死身の体』を手に入れてしまった女性。
家族旅行中に事故に巻き込まれ、一人だけ『贈り物』で生き延びたことを悔いていた。
世界樹を巡る争いの中で、敢えて黒幕であるかのように振舞い、カチュアに敵対することで『常識強制』により『不死身の体』を無効化できないか画策。
結果として、準全知全能の異能であるウォーキン=マノ―の『一つ目の願い』の効果により、死亡する。
世界樹を遡る、三人目の候補者。
犯罪者、薊野 檻弥。
世界樹より生還。
自らの異能を否定、封印したカチュア=マノ―への復讐を果たす。
世界樹を遡る、四人目の候補者。
死者、ウォーキン=マノ―。
前回の『剪定/選定』で、死んだ妻を蘇らせるために世界樹に挑み、死亡した。
その残留情報が『世界樹』により、『案内人』として再利用されたが、それを『常識強制』で逆利用したカチュアにより、肉体と記憶を取り戻す。
現在はリ・テラフォーミングデバイス『世界樹』の核――『水曜の瞳』の管理者として、『破壊樹』と共に荒廃した地球の環境調整を続けている。
◆ ◆ ◆
その道は、選定された。
その根は、剪定された。
この話は、四人の候補者の物語となった。
この節は、貴方の筆を加え、誤認が正されるに至る物語として完成した。
最強であるが故に剪定された可能性があった。
最優であるが故に継がれなかった枝があった。
それでもここに、一つの樹が成った。
根を張り、幹を伸ばし、枝を揺らすこの樹は、存在を誇示し続けるだろう。
己の紡ぐ物語こそが最優であると、世界に訴えかけるために。
chapter5-B 地に植えた木が走り出す
カチュア=マノ―は、行きつけのうどん屋台に腰かけると、一息に冷たい水を呷った。
「カチュアちゃん、久しぶりじゃない」
「ちょっと立て込んでて」
「府警昇進だって? やっと、お父さんに追いついたね」
幼いころから自分を知っている主人に、カチュアはあいまいな笑顔を返した。
この屋台は、彼女が父と、幾度となく通った場所でもある。
「いつものでいいかい?」
「お願いします」
カチュア=マノ―は、世界樹の内部状況の報告及び、重要指名手配犯、薊野 檻弥の逮捕の功績によって、地方警察から、中央府警所属へ異動となった。栄転だ。
世界樹での最後の攻防によって、『常識強制』は失われた。
カチュア自身の感覚からいえば、元から自分は特別な能力など持っていなかったはずであり、むしろ「世の中に不思議な、説明しきれないことがあることを自覚した」に過ぎないのだが。
彼女がまずやったことは、警察内部の異能関連部署と、異能警官たちへの謝罪であった。
彼らは意外なほどあっさりとカチュアの言葉を受け入れた。
むしろ彼らは、カチュアの力を、彼女の自覚がない形で利用してきたらしい。
異能が消えたのは残念だが、理解ある有能な警官が増えたなら足し引きゼロか得なくらいだ、と、彼らは笑った。
世界には、思いが力へと変わる奇跡があった。
それは、いつも万人を平等に救いはしないけれど、何かが噛み合えば、世界を変える。
それが、カチュアが理解した、新たな世界の真実。
誤認という暗闇の洞窟から出て、彼女が知った、不可逆の光だった。
父を思い、空を見上げる。
さかまく世界樹の根差す地で、彼は今でも『はじまりの大地』を、人の住める地へと変え続けているのだろう。
あの『世界樹の根』の窓から見下ろした、本物の夜空を思う。
疑似天井の投影ではない、数光年先で瞬く星々。
父は――世界樹の演算装置としてその身を奉げたウォーキン=マノーは、誰もがあの空を楽しめる世界のために、母なる惑星『はじまりの大地』の、リ・テラフォーミングを続けているのだ。
ならば、カチュア=マノ――彼が『第二の大地』に芽吹かせた木は、父親のように走りだすべきなのだ。
父が『はじまりの大地』を人が住める世界にするならば。
娘である自分は『第二の大地』を人が住みよい世界にするために。
「はい、卵うどん、お待ち」
置かれた丼。
湯気を立てる透き通ったダシに浮かぶ卵の黄身を見て、カチュアは呟いた。
「――月、だ」
連想したのは、世界樹の枝の合間から見えた、夜空に開く白い光の穴。
「通だねえ、カチュアちゃん。大昔は、そいつを『ツキミウドン』って言ったらしいよ。なんでかは、知らないけどね」
月――『はじまりの大地』の衛星。
カチュアの立つ『第二の大地』の足の下にある、ここからは見えない美。
父と食べた、団らんの象徴。
これを頼めば、いつでも月が見られる。
父が世界樹の根から見上げている、あの輝きを、共有できるのだ。
丼の中の月が滲み、遠くで狼の遠吠えが聞こえた。
FIN
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最終更新:2020年08月23日 01:00