エウメネス伝

 
 
一 エウメネスの出自と後継者戦争以前の地位
 

 (1)ルディアの人エウメネスは(2)ドゥリスによれば(3)ケルソネソスで貧しさのため馭者をしていた人の子であったが、読み書きや体育において(4)自由市民として教育された。彼がまだ子供だった頃(5)フィリッポスがカルディアに滞在していて、暇な時に青少年(6)パンクラティオンやレスリングの競技を見物したが、その中でエウメネスが好成績を収め知恵と勇気を示したので、フィリッポスの気に入って召抱えられたという。しかし、これよりもっともらしく思われるのは、フィリッポスとの父祖伝来(7)賓客関係によって登用されたという説である。
 フィリッポスの死後、エウメネス(8)アレクサンドロス大王の側近の間で知恵においても信義においても他に劣らないものと見なされ(9)書記官長に任ぜられた。また(10)王の親友(ヘタイロイ)たちと同様の尊敬を受けていたため、一軍を率いる将軍とし(11)インド遠征に従軍した(12)ペルディッカス(13)ヘファイスティオンの死後そ(14)後任に昇進した時には、ペルディッカスの占めてい(15)騎兵隊長の地位を授けられた(16)アレクサンドロスの死後(17)盾兵の隊長であっ(18)ネオプトレモスが、自分は盾と槍を持って、エウメネス(19)書き物板と筆を持って大王に仕えたと豪語していた時に、マケドニアの人々がこれを嘲笑したのは(20)エウメネスの軍功が広く知られていたからである。
 エウメネスはまた姻戚関係によっても大王に引き立てられていた。アレクサンドロスは、アジアで最初に知った女(21)アルタバゾスの(22)バルシネに息子(23)ヘラクレスを生ませたが、この女の姉妹のうちアパメ(24)プトレマイオスに、同名の妹バルシネをエウメネスに与えたのである(25)この時には、他のペルシア人女性も自分の友人たちに娶らせた。

 

 

注釈

 

  1. カルディア ケルソネソス半島西岸の都市国家。ミレトス人とクラゾメナイ人によって建設されたが、後にアテナイのミルティアデス(マラトンの戦いの指揮官ミルティアデスの祖先)によって大規模な植民団が入り、アテナイの植民市として発展する。一時期ペルシアの支配下に置かれるものの、ペルシア戦争後にアテナイの名将キモンによって解放、以後はアテナイのデロス同盟に加えられる。ペロポネソス戦争でアテナイが敗北しデロス同盟が崩壊すると、カルディアはアテナイから独立した都市国家となり、マケドニアと同盟を結ぶことによってアテナイの干渉を退け続けた。パウサニアス『ギリシア案内記』によれば、アレクサンドロス大王死後に起きた後継者戦争の際にディアドコイ(後継者)の一人リュシマコスによって破壊され、替わってリュシマケイアという町が作られたという。『後継者戦争史』(現存しない)を書き残したカルディアのヒエロニュモスがリュシマコスを悪く書いているのもそのためであろう、とパウサニアスは推測している。なお、ヒエロニュモスは『ヒストリエ』ではエウメネスの義兄という設定。
     
  2. ドゥリス アリストテレスの学園(リュケイオン)の後継者となった哲学者テオフラストスの弟子で、サモスの僭主(独裁者)であると同時に、著作の多い歴史家でもあった。その著書はほとんど散逸し、小断片が伝わるのみであるが、ディオドロスやプルタルコスに史料として用いられている。史家としては芝居掛かった悲劇的な記述を主としていたようで、古代において既にその信憑性を批判されている。
     
  3. ケルソネソス 現在のトルコ領ゲリボル半島。
     
  4. 自由市民 古代ギリシア世界においては、兵士であり政治家でもある自由市民は肉体の鍛錬と教養の習得に日々を過ごし、その中で哲学や科学が発達した。一方、農作業から日常の家事に至るまで全ての労働が奴隷に任されており、アリストテレスも「奴隷は言葉を喋る道具であり、牛馬と同様に人間に貢献する」と言って憚らなかった。もっとも、アリストテレスの感覚は行き過ぎであり、当時の奴隷は後の黒人奴隷のような過酷な境遇の者ばかりではなく、家庭教師や秘書を務めて一家を宰領する奴隷、小規模な自作農家において家族同然に扱われる奴隷など形態は様々だったという。自らを買い取って奴隷身分から解放される者、戦争に負けて奴隷身分に落とされる者も珍しくなく、自由市民と奴隷の階級が流動的なものであったことが窺える。ところで、奴隷でないことと、ある都市国家の市民であることはまた別の問題である。アリストテレスはアテナイで長く青少年の教育に尽力していたが、マケドニア人であるためにアテナイ市民権を得られなかった。また、元々市民権を持っていた者でも政治上の問題から市民権を剥奪され追放処分を受けることがある。こうしたことを考え合わせると、エウメネスの父親はカルディア市民権を剥奪された人物だったのかもしれない。
     
  5. フィリッポス フィリッポス二世。マケドニア王、アレクサンドロス大王の父。幼いころ都市国家テバイに人質として送られ、その才能を見込んだテバイの指導者エパメイノンダスから教育を受けた。帰国後、王位に即いたフィリッポスは革新的な国家改造を推進し、瞬く間にマケドニアを強国に仕立て上げる。まず、領内各地にギリシア式の都市を建設、それまで山野に起居し素朴な牧畜に勤しんでいたマケドニア人たちを「市民」に変貌せしめ、彼らを密集歩兵部隊(ファランクス)の一員として精強な常備軍を形成した。一方で地方の部族長や豪族たちを首都ペラに召集し、地域統治という既得権益を破棄させる代わりに中央での新しい役職と地位を提供することで、彼らを王権を支える官僚貴族に生まれ変わらせている。この一連の改革により、マケドニアは優れた市民兵と有能な軍事官僚を持つ大軍事国家となった。フィリッポスはこの急拵えの軍事力と自らの卓抜した外交能力を駆使して勢力圏拡大を図り、衰退期にあったギリシア諸都市を席捲する。そして最終的にカイロネイアの戦いにテバイ・アテナイ連合軍を破ったことによって、一昔前まで蛮族扱いだった辺境の王国マケドニアはスパルタを除く全ギリシアを支配するに至るのである。皮肉なことに、この戦いでテバイ軍を壊滅させたフィリッポスの戦闘教義「マケドニア式ファランクス」は、かつて人質時代にテバイの英雄エパメイノンダスから学んだ「斜線陣」を改良することで生み出されたものであった。ギリシアの覇権を獲得したフィリッポスはその後、東方の大国ペルシアへの侵攻を画策する。この頃のペルシアにかつての大帝国の面影はなく、紀元前三三六年にはアルセス王が即位後二年足らずで暗殺されるという迷走ぶりで、フィリッポスの遠征はすぐにでも実行に移される予定だったかと思われる。ところが同年、フィリッポス自身が祝宴の席で暗殺されてしまう。元妻でアレクサンドロス大王の生母であるオリュンピアスが黒幕ではないかと言われているが、暗殺の真相は今も謎に包まれたままである。その後、フィリッポスが企図したペルシア遠征は不仲だった嫡子のアレクサンドロスに引き継がれ、華々しく達成されることになる。
     
  6. パンクラティオン 打撃技と組技を組み合わせたエジプト起源の格闘技で、ギリシャ語で「全ての力」を意味する。オリュンピア競技祭(古代オリンピック)の種目にもなっており、ギリシア各都市で広く行われた。プラトンはこれを「不完全なレスリングと不完全なボクシングがひとつとなった競技」と評しており、あまり気に入っていなかった模様。
     
  7. 賓客関係 フィロクセニア。fila(親しい)、xenia(外国人)、つまり外国人を手厚くもてなすことで、それを相互に繰り返して同盟関係を深めるという古代ギリシアの習慣である。当然、諸都市の有力者どうしが代々賓客関係を結んでいなければ政治的な意義は薄くなるわけで、フィリッポスとエウメネスの父が賓客関係にあったのなら、エウメネスの家系がマケドニア王家と深い結び付きを持つ名家だったことになる。それほどの家に生まれながらエウメネスの出自が謎に包まれているのは、注3に書いた通り、彼の家がその父の代にカルディア市民権を失ったからではないか。プルタルコスによれば、エウメネスはカルディアの僭主ヘカタイオスを強く憎んでいたという。カルディアがマケドニアと同盟を結んだ頃(紀元前三四六年)にはまだヘカタイオスの名が出てこないので、この人物が独裁者の地位に昇るのはマケドニアとの同盟後、つまりヘカタイオスの僭主政はフィリッポスに承認どころか後押しまでされていたということになる。現実主義者フィリッポスは、同盟国となったカルディアを傀儡ヘカタイオスの僭主政へと導いた。覇権国家にとっては、支配下の小国は僭主政ないし寡頭政である方が操り易いからである。そしてその過程で、同盟成立に尽力してくれたカルディアの名族エウメネス家がヘカタイオスによって没落するのを看過した。ここでエウメネスは、おそらくは父と共に追放され、カルディア市民権を失う。このため、本文においても「読み書きや体育においては自由民として教育された」――すなわちカルディア市民ではないが自由民ではあったというような書かれ方をされているのである。となれば、フィリッポスによるエウメネスの登用は、代々の賓客関係にありながらエウメネス家を見捨てたことについての贖罪であると共に、ヘカタイオスに対する重要な外交カードとしての意味も含んでいたのだろう。つまり、ヘカタイオスがフィリッポスの意に背くようなら、いつでもエウメネスに取って替わらせるという事実上の脅迫である。以上は推論に過ぎないが、フィリッポスがこのような微に入り細を穿つ外交戦術の名人であったことは事実。
     
  8. アレクサンドロス大王 アレクサンドロス三世。マケドニア王、コリントス同盟の盟主、エジプトのファラオを兼ねた人物であり、ペルシア王国を滅ぼしてインドにまで侵攻し、当時の「世界」をほぼ制覇した。左右の目の色が異なるオッドアイであるほか、「決して負けない人」という神託を受けたとか、夜襲作戦の進言を「私は勝利を盗まない」と言って退けたとか、「この結び目を解いたものがアジアの支配者になる」と伝えられていたゴルディオスの結び目を剣でぶった切ったとか、とにかく逸話に事欠かないマンガの主人公のような人でもある。彼の偉業は父フィリッポスの遺産に拠るところが大きいが、彼自身も卓越した戦争指導者であり、カルタゴの名将ハンニバルはアレクサンドロスを史上最高の指揮官としている。アレクサンドロスがフィリッポスの意図を大きく逸脱し世界征服にまで乗り出したことについて、『アレクサンドロス大王東征記』を遺したアッリアノスは「たとえ他に競いあう相手がなくとも、それでもなお彼は、己自身を相手として勝負したのだ」と書いている。悪く言えば国家を顧みない自己中心的な暴挙であり、良く言えば国家の枠組みを超えた壮大な夢を持っていたということになるだろう。アレクサンドロス自身は志半ばで夭折するが、西洋と東洋を融合させるという彼の夢はヘレニズム文化として結実した。遥か極東の日本の法隆寺にまでヘレニズム文化の影響が指摘されていると知れば、アレクサンドロスも満足するに違いない。フィリッポスを政治・軍事の改革者とするなら、アレクサンドロスは文化・文明の改革者であったと言えよう。とはいえ、アレクサンドロスの夢と美学は全世界に迷惑極まりない事態を引き起こしてしまう。彼が死に際して「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言したために、世界各地の総督を任されていた彼の旧臣たちが覇権を争う後継者戦争に突入することになるのである。エウメネスもまた、この後継者戦争に巻き込まれた一人であった。
     
  9. 書記官長 フィリッポスの代から続けられてきた王宮日誌の作成・保管にあたる文官職。エウメネスはそれまでも書記官だったが、アレクサンドロスの即位と共に統括的な役職に就く。なお、エウメネスの遺した王宮日誌の抜粋はその後も広く行われたらしい。
     
  10. 王の親友たち ヘタイロイ。フィリッポスは嫡子のアレクサンドロスをミエザの学舎に通わせ、貴族の子弟たちと共にアリストテレスによる最高の教育を受けさせた。ミエザでの学友たちは後にマケドニアの将軍となってからもアレクサンドロスに対等の友人として扱われ、「ヘタイロイ」(王の仲間)と呼ばれたという。後継者戦争は主にこのヘタイロイたちによって争われることになる。アリストテレスの教えがよほど良かったのか、ヘタイロイたちは一人一人が極めて優秀な軍人・政治家で、『戦略論』で名高い二十世紀最大の戦略思想家リデル・ハートに絶賛されていたりもする。だが、後継者戦争における彼らの遣り口は陰険というか悪辣というか、エリート気質の性格の悪さが滲み出ているようでなかなか後味が悪い。ヒエロニュモスはアンティゴノスとエウメネス以外の後継者たちを悪く書いていたそうだが、それもあながち個人的な事情だけが原因とは言えないだろう。この二人はヘタイロイではないのである。(ヘタイロイという言葉にはもう一つの意味もあるが、それは後述する)
     
  11. インド遠征 ペルシアを征服したアレクサンドロスは続けてインド遠征を志し、紀元前三二六年にインダス川を越えてパンジャブ地方に侵入。ヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族の王ポロスを破り、さらにインド中央部に向かおうとしたが、兵士たちが疲労を理由に従軍を拒否したため、やむなく撤退することとなった。アレクサンドロスはインダス川を南下し、全軍を三つに分割して敵対勢力を駆逐しながら紀元前三二三年ペルシアに帰還。この時点で彼の夢は潰えていたわけで、同年の唐突な死は時宜に適ったものであったと言えなくもない。なお、ギリシア人によるインド遠征は、ディオニュソスとヘラクレスの神話以外に例がない。神話に匹敵する壮大な事業であったと同時に、国益の観点からすれば異常なほど無意味な行為だったと言えるだろう。
     
  12. ペルディッカス ヘタイロイの一人で、フィリッポスの時代から武勲を立てていたやや年長の将軍。アレクサンドロスの東征では密集歩兵部隊の指揮官を務め、目覚しい功績を立てる。後述するヘファイスティオンの死後その後任となり、アレクサンドロスの臨終に際しては印綬の指輪を渡されるなど、大王の信頼が最も厚い人物であった。王の遺児でまだ生まれてもいなかったアレクサンドロス四世の後見人として帝国摂政の地位に就き、後継者戦争初期には最有力者と目されたが、ディアドコイの一人プトレマイオスとの戦いの最中に部下の裏切りによって暗殺された。エウメネスは大雑把に言えばペルディッカスの派閥に属していたため、彼の唐突な死によって極めて不安定な立場に立たされることになる。
     
  13. ヘファイスティオン ヘタイロイの一人で、アレクサンドロスの無二の親友。ペルディッカスやプトレマイオスのような優秀な指揮官ではなかったが、容貌美しく武勇に優れ、彼ら以上の厚遇を受けていた。ペルシアに向かうマケドニア軍がトロイアの遺跡を通過した際、アレクサンドロスはアキレウスの墓に、ヘファイスティオンはアキレウスの親友パトロクロスの墓に花冠を捧げており、英雄譚を好むアレクサンドロスが自分とヘファイスティオンの関係を神話上の不滅の友情になぞらえていたことが窺える。また、このことから二人は男色関係にあったのではないかとも言われている。インド遠征から帰還する途上、ペルシアの都市エクバタナでヘファイスティオンが病死すると、アレクサンドロスは治療を誤ったとして医師を処刑、三日間にわたって食事もとらずに引き篭もり、莫大な金を費やして巨大な火葬壇を築き、彼を神として祀るように命じた。またエジプト総督のクレオメネスにヘファイスティオンを祀るための壮大な神殿や霊廟を建設するよう指示し、「立派に作ってくれたなら、これまでの罪もこれからの罪も一切不問に付す」と常軌を逸した約言まで与えている。こうしたアレクサンドロスの偏愛は多くの史家に批判されているが、むろん同時代の他のヘタイロイたちにとっても受け容れ難いものであり、ヘファイスティオンは大王の寵愛を受けながらも軍中では孤立していたという。なお、『ヒストリエ』ではヘファイスティオンがアレクサンドロスの二重人格という設定になっているが、これはペルシア王ダレイオス三世の母親を捕えた際の逸話を元にしていると思われる。ダレイオスの母シシュガンビスが二人のどちらが王であるか見分けられず、ヘファイスティオンの前に跪いてしまったところ、アレクサンドロスは「気にしないで下さい、この男もまたアレクサンドロスなのだから」と笑って咎めなかったというのである。
      
  14. 後任 ヘファイスティオンの生前の役職はキリアルケス。後述の通り、帝国宰相に相当する地位である。ここは史料に異同があり、アッリアノスによれば、ヘファイスティオンの思い出を偲んだアレクサンドロスはその後任に誰も任命しなかったという。
     
  15. 騎兵隊長 マケドニアは古来より歩兵より騎兵に優れた国であった。フィリッポスの改革によって精強な密集歩兵部隊が形成されてからも、マケドニア騎兵隊はアレクサンドロスの戦術上極めて重要な役割を担い続ける。両翼に騎兵を展開し、密集歩兵が敵を拘束しているうちに騎兵が側面や背後を討つという所謂「鉄床戦術」である。ただしマケドニア騎兵にもいくつかの種類があり、鉄床戦術の中心となるのはヘタイロイ騎兵と呼ばれる重装騎兵隊だった。これは注10のヘタイロイ(アレクサンドロスの親友たち)ではなく広義の、そして本来の意味でのヘタイロイ――すなわちマケドニア貴族のことである。領内に支配地を持つ貴族たちを国王がヘタイロイ(王の仲間)と呼ばねばならなかったところにマケドニアの問題点があり、それを中央集権制に変えたのがフィリッポスの改革だったわけだが、幼少からの馬術の訓練と馬の所有・飼育という経済的理由によって、フィリッポス以後も騎兵は貴族たちの役割であり続けた。東征中のヘタイロイ騎兵の編成および指揮権は様々に変化し、時には複数に分割されたりもしているが、最終的には前出のキリアルケスの下に統括されたらしい。キリアルケスは従軍している全マケドニア貴族の統率者にあたるわけで、事実上の帝国宰相なのである。ヘファイスティオンとペルディッカスがいかに重んじられていたかが窺える。ところで、マケドニア軍においては、ヘタイロイ騎兵隊以外にプロドロモイ騎兵隊というものの存在が知られている。これはサリッソフォロイとも呼ばれ、遊撃を主とする部隊であった。ここで興味深いのは、この部隊のサリッソフォロイ(サリッサ携行兵)という異名である。サリッサはフィリッポスの考案による非常に長い槍で、5~6メートルもあったため、鐙や鞍のない当時の騎兵がこれを振るうのは不可能だったのではないかと古来より疑問が持たれている。ここで現代の実証史学は、実際はサリッサより短い槍を使っていたとか、槍の穂先の反対側に石突きを付けてバランスを取れば使いこなせたかもしれないなどと、常識の範囲内で答えを求めようとする。しかし、物語である『ヒストリエ』はつまらない常識に囚われる必要がない。岩明均は最も単純明快な答え――つまり、歴史に残っていないだけで当時すでに鐙や鞍があったという解釈を提示した。『ヒストリエ』ではスキタイが鐙と鞍を使用する民族であったという仮説が立てられ、実はスキタイ人という設定のエウメネスは幼少期の記憶を掘り起こして馬術に鐙と鞍を用いるようになる。もちろん、作中でメナンドロスが指摘するように、たとえ鐙と鞍が発明されていても、その使用は貴族にとっては容認できなかったであろう。プライドの問題だけでなく、平民が馬術を使いこなせるようになってしまったら、既得権益の侵害にも繋がるからだ。だが、貴族で構成される主力のヘタイロイ騎兵ではなく、平民や外国人を成員とする特殊な別働隊サリッソフォロイならば問題はない。今後の『ヒストリエ』においてはおそらく、エウメネスがサリッソフォロイの指揮官として馬上で長槍を縦横に振るう活躍を見せてくれるだろう。なお、ヘファイスティオン死後にエウメネスが就任したのはヘタイロイ騎兵の分隊長職ではないかと思われる。
     
  16. アレクサンドロスの死後 インド遠征からの帰還後、アレクサンドロスは旧ペルシア王国の都市バビロンにて三十三歳の若さで急逝する。この時、彼が「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言したせいで後継者戦争が生じるのは前述の通り。ただし、その遺言がなくとも後継者問題が起きるのは当然であった。なんとなれば、王妃ロクサネは妊娠中であり、他には年少の庶子ヘラクレスがいるのみだったのである。
     
  17. 盾兵 盾兵隊(ヒュパスピスタイ)はマケドニア歩兵隊から選抜された精鋭部隊。
     
  18. ネオプトレモス ディアドコイの一人で、エウメネスの人生に大きく関わってくる人物。アレクサンドロスの東征に従軍し、紀元前三三二年のガザ包囲戦では一番乗りを果たすなど、有能な兵士だったようである。後継者戦争初期にはペルディッカスの派閥に属しており、エウメネスの指揮下に配属されていたが、ペルディッカスは彼をまったく信用していなかったようで、エウメネスに対してネオプトレモスを特に警戒するよう指示している。ペルディッカスの予想通りネオプトレモスは真っ先にエウメネスを裏切って、彼の策謀のせいでエウメネスは親友クラテロスと戦う羽目になってしまう。そしてこのことがエウメネスの立場をいっそう危うくしていくのだが、このあたりは本文に詳しく記されているので後に譲る。
     
  19. 書き物板 パピルスは長期の保存や戦場での速記に適さないので、粘土板なども筆記媒体として利用されていた。
     
  20. エウメネスの軍功 アレクサンドロスの東征におけるエウメネスの軍事行動については、ほとんど何も伝わっていない。その理由として考えられるのが、アレクサンドロス研究の最重要史料『アレクサンドロス大王東征記』を書いたアッリアノスが、プトレマイオス(詳細は注24)の従軍記を参考にしているという事実である。ディアドコイの一人プトレマイオスは後継者戦争でペルディッカスやエウメネスと対立した人物であり、このため自らの従軍記においても彼ら旧同僚の功績を故意に無視していたらしい。プトレマイオスの従軍記は現存していないのではっきりとは言えないが、彼が自身の軍功を過大に、また同僚の働きを過小に評価していたであろうということは、『アレクサンドロス大王東征記』からも十分に読み取れる。むろん、歴史家でもないプトレマイオスに公正な従軍記を書く義務などないし、後の後継者戦争についてはエウメネスを殊更に持ち上げていたというヒエロニュモスのような歴史家もいるわけだから、これは仕方のないことである。問題は、おそらく最も公正に記述されていたであろうエウメネスの王宮日誌が散逸してしまったことだろう。
     
  21. アルタバゾス ペルシアの重臣。属州フリュギアの太守であったが、ペルシア王に反乱を起こし、事破れてマケドニアに亡命した。フィリッポスはこの亡命者アルタバゾスからの情報をペルシア遠征計画立案に大いに役立てたと思われる。アルタバゾス自身は後にペルシアへと復帰、アレクサンドロスに敗れて降伏することとなる。
     
  22. バルシネ 前出のアルタバゾスの娘。アルタバゾスはロドス島出身のギリシア人傭兵隊長メントル、メムノン兄弟を召抱え、トロイアス地方(有名なトロイを含む)を所領として与えるばかりでなく、メントルに娘のバルシネを嫁がせて姻戚関係まで結んでいる。当時、長く続いた諸都市国家間の戦争によりギリシア文化は衰退していたが、度重なる実戦経験は高度な戦闘教養を育む土壌ともなり、数千の傭兵を率いてバルバロイ(非ギリシア人)に仕える有能なギリシア人傭兵隊長は珍しい存在ではなくなっていた。メントルの死後、メムノンは兄の妻であったバルシネを娶り、引き続きトロアス太守と小アジア沿岸部一帯の指揮権を任される。アレクサンドロスの東征に際しては、まず名将パルメニオン率いる先遣隊を相手に善戦、そしてアレクサンドロスの本隊が侵攻してくると焦土戦術を主張している。必勝を期していたアレクサンドロスはこの遠征のために数か月分の糧食・戦費しか備えておらず、もしメムノンの作戦が採用されていたなら苦戦に陥ったであろうことは想像に難くないが、ペルシア貴族たちは自らの所領が荒廃するのを好まず、これを退けてしまった。結局、正面からの会戦を挑んだペルシア軍はグラニコス河畔の戦いで大敗、メムノンは戦場を脱してハリカルナッソスの守備に着くことになる。ハリカルナッソス攻城戦はメムノンが固く守備したため長期化し、アレクサンドロスはこの都市の攻略を放棄してペルシア本土への進軍を決断。ハリカルナッソス防衛に成功したメムノンは次の作戦として、アレクサンドロスが膨大な維持費を理由に海軍を解散させたことに目をつけ、ペルシア艦隊を率いてエーゲ海を暴れ回る。これは東征の継続を危ぶませるほどの優れた戦略であったが、メムノンはこの活動を開始した紀元前三三三年の夏に病死した。同年秋、ペルシア軍はイッソスの戦いで致命的な大敗を喫し、多くの貴族たちと共にペルシア王ダレイオス三世の母と妻子までがマケドニアの捕虜となってしまう。この時、忠誠の証としてダレイオス王のもとに送られていたメムノンの妻バルシネも捕えられ、アレクサンドロスに見初められて、大王の愛妾になるのである。メムノンはアレクサンドロスにとっては宿敵と言うべき人物であり、彼の妻がアレクサンドロスに愛されるというのも、いかにも因縁の深いことであった。
     
  23. ヘラクレス アレクサンドロスの長男だが、庶子であったため真っ先に後継者候補から外される。後継者戦争では外交カードとして扱われ、最後にはディアドコイの一人ポリュペルコンの手で暗殺されてしまう。
     
  24. プトレマイオス プトレマイオス一世救済王(ソテル)。ヘタイロイの一人であり、大王の死後は自らが総督の任にあたっていたエジプトに割拠。権謀術数を尽くして後継者戦争を戦い抜く。軍才もさることながら為政者として極めて有能で、古代エジプトの繁栄を取り戻し、救済王(ソテル)と呼ばれた。アレクサンドリア図書館や世界七不思議の一つアレクサンドリアの大灯台の建設はプトレマイオスの事業である。彼を祖とするプトレマイオス王朝は長く続き、ローマ時代の有名なエジプト女王クレオパトラも彼の子孫にあたる。
     
  25. この時 紀元前三二四年、アレクサンドロスはペルシアの都市スサにおいてダレイオス三世の娘スタテイラを娶り、また部下たちにもペルシア人女性との集団結婚を奨励した。彼の理想が東西文明の融合であったことを如実に表す逸話だが、多くのマケドニア人にとっては、王との合同結婚式こそ誇らしく思われたものの、ペルシア人を妻とするのは必ずしも喜ばしいことではなかったようである。この結婚式では、ヘファイスティオンにダレイオス王の娘でスタテイラの妹ドリュペティス、クラテロスにダレイオスの姪アマストリス、ペルディッカスにはメディア総督アトロパテスの娘が与えられている。彼女らは旧ペルシア王国の最高貴顕に属する家柄の娘たちで、プトレイマイオスとエウメネスに与えられた大王の側室バルシネの二人の妹は、アレクサンドロスとの血縁関係が生じるという意味でこれに次ぐものだった。エウメネスはヘタイロイどころかマケドニア人ですらないというのに、破格の厚遇を受けているのである。
     
     

 


最終更新:2010年06月27日 12:00