ハンニバルの時代

 

 

五 第二次ポエニ戦争 カンナエの戦い(1)

 
 元老院は迷っていた.ファビウスの後任となる執政官の選出をめぐって、ローマの国論は完全に分裂していたのである.
 ファビウスが提唱する持久戦法は有効かもしれないが、ハンニバルが自滅する前にローマの覇権が崩壊してしまう可能性があった.一方の積極戦法は、かつてその代表者であったミヌキウスが証明したように、事態を一瞬で悪化させる危険性を孕んでいた.そして、ローマの民衆は圧倒的に積極戦法を支持している.
 結局、元老院は折衷案を採用した.この年の執政官に任命されたのは、持久戦法派のルキウス・アエミリウス・パウルスと、積極戦法派のガイウス・テレンティウス・ウァロの両名であった.ウァロは平民出身で民衆の人気が高く、彼が市民集会でハンニバル打倒を宣言すると、熱狂したローマ市民たちはかつてないほどの大軍の召集を可決したという.これに対し貴族出身のパウルスは、ファビウスに諭されてウァロの軽率を押し留めることを約束したものの、あまり衆望のない人物であったらしい.この対照的な二人に率いられて、総勢八万七千のローマ軍団はハンニバル軍へと迫っていった.
 
 冬営中のハンニバルは、待ち望んだ圧倒的勝利の好機が訪れたことを知った.どうやってか彼は、増強されたローマ軍の規模から両執政官の性格に至るまで、自陣にいながらにして敵情の全てを把握していたのである.
 彼はまず、ローマの食糧貯蔵基地であったカンナエの村を攻略する.自らの居場所を明らかにすると共に、間近に迫った大会戦に備えて兵糧を補給したのである.そして村の背後に立つ丘に陣営を築き、ローマ軍の到着を待った.
 カンナエ襲撃の報告を受けて急行したローマ軍は、ハンニバルから十キロほど離れた平野に陣営地を建設する.ハンニバルが平地での会戦を望んでいることは判っていたが、それでも敢えて平原に陣取ったのは、自軍の戦力に自信があったからだろう.ウァロの呼び掛けで大幅に増員されたローマ軍の歩兵戦力は、カルタゴ歩兵の二倍にも上るのである.
 カンナエの平野を埋め尽くすローマ軍に、側近の一人ギスコーが怖気づいて言った.
「将軍、敵の数は驚くべきもののようですが」
 ハンニバルは眉間に皺を寄せてこう応じた.
「それよりも驚くべきことがあるだろう.あれほど多くの人間がひしめいているというのに、あの中にギスコーは一人もいないんだ」
 思いもかけない冗談に、周囲の人々は恐怖を忘れて笑いあった.指揮官たちの楽しげな様子を見た兵士たちも安堵し、大いに士気を上げた.
 アルベール・カミュは『シーシュポスの神話』のなかで、「軽蔑によって乗り越えられぬ運命はない」と書いている.軽蔑の効用を知り、かつそれを数万の群集に伝染させる術まで心得ていたハンニバルは、まだ三十一歳の若さであった.
 
 天才にとって、凡人との勝負はイカサマ賭博のようなものである.必ず勝つと初めから判っているわけだ.しかし、それでボロ儲けできるとは限らない.絶対に勝てないと判り切っている相手には誰も張り込んでくれないからだ.熟練の博徒であるファビウスは、イカサマ師ハンニバルとの勝負には常に小銭しか賭けていない.
 ところが、この年のローマ軍は財布をいっぱいに膨らませて賭場に乗り込んできてくれた.おまけに、賽を振りたくて仕方がないという様子の執政官ウァロは、実戦経験が皆無の素人なのである.打てば勝つ、とハンニバルは確信していた.問題は、財布の中身をそっくり投げ出してくれるかどうかであった.
 カンナエに布陣した両軍は二ヶ月のあいだ睨み合いを続ける.ミヌキウスの教訓は流石にまったく忘れ去られたわけではなかったし、持久戦法の堅持をファビウスから託されたパウルスも努力していたのだろう.とはいえ、互いに二千人程度を繰り出しての小競り合いは度々演じられていた.そして、その結果は次第にローマの優勢で終わるようになっていたのである.時には、ローマ軍の犠牲者百人に対してハンニバル軍は千七百名を失うということもあった.これなら勝てる、とローマは思った.いや、思わされた.
 ハンニバルの損失の大半はイタリアに侵入してから参加したガリア兵だった.子飼いの精鋭には殆ど傷を付けられていない.ハンニバルは相手が大勝負に乗ってくれるように芝居を打ったのである.そして、ローマ軍は見事に騙された.これではミヌキウスの時と同じではないかと思われるかもしれないが、この時より百五十年後に帝政ローマを設計するユリウス・カエサルの箴言は、こうした人間の愚かさに一つの答えを与えてくれるだろう.
 
――およそ人間というものは、自らが望んでいることならば喜んで信じ込んでしまう。
                                     (カエサル『ガリア戦記』)
 
 ローマ軍では両執政官が一日交替で指揮を取るのが決まりだったが、その日はウァロが総司令官となる日にあたっていた.彼は遂に、ハンニバルに対して決戦を挑む.
 夜明けと共に、ウァロは総戦力をカンナエの平原に集結させる.中央の前面に軽装歩兵一万、その背後にローマ軍の主力である重装歩兵五万五千.歩兵団の指揮は前執政官グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスに託される.また、右翼にアエミリウス・パウルス指揮のローマ騎兵隊二千四百、左翼にはウァロ指揮下の同盟国騎兵四千八百が陣取った.後背の野営地に一万の守備隊を残しても、総勢七万を超える大軍である.
 狙い通り決戦を仕掛けてきたローマ軍の正面に、ハンニバルも全軍を布陣する.中央前面はガリアの軽装歩兵八千、その背後に精鋭の重装歩兵三万二千.右翼には騎兵の産地として知られるヌミディア出身の騎兵五千、左翼にスペインとガリア出身の騎兵五千.両翼の騎兵団を甥と弟に任せ、ハンニバル自身は歩兵を指揮する.カルタゴ軍、総勢五万.

 紀元前二一六年八月二日、戦史上に名高いカンナエの戦いが始まろうとしていた.

 

 


最終更新:2010年06月18日 19:16