ハンニバルの時代

 

 

三 第二次ポエニ戦争 アルプスを越えた男

 
 第二次ポエニ戦争は「ハンニバル戦争」とも称される.ローマ人の方が、この戦争をハンニバルという一人の天才との戦いであると捉え、そう呼んだのである.
 
 第一次ポエニ戦争の末期にシチリアで無敗を誇ったハミルカルは、経済大国であるが故に長期的な国家戦略を望み得ないカルタゴ本国に見切りをつけた.彼は祖国を離れてヒスパニア(スペイン)に植民都市を築くと、それをほとんど自分の王国のように育て上げる.そして九歳になる長男を神殿に連れて行き、生涯ローマを敵とすることを誓わせたという.
 ハミルカルのローマに対する敵愾心は、自身の能力と祖国の在り方との齟齬によって屈辱を味わった男の、単なる私怨に過ぎなかったのだろうか.彼もまた彼なりに、大ハンノらとは異なった方向で「私」に執着したのであろうか.
 おそらくそうではない.ハミルカルは物事の「流れ」というものを見通せる人物だったのだ.国家規模では優位であったはずの海戦に敗れ続けたという現実は、ハミルカルにカルタゴの衰亡を予見させた.彼の透徹とした瞳には、ローマによってカルタゴが滅ぼされるという歴史の「流れ」がはっきりと映ったのである.この「流れ」に逆らうことが出来るのは、国家とは別次元にある個人の力量に他ならなかった.そして、個人の力量で「流れ」を押し留めるには、個人の力量が最大限に発揮される環境を作り上げなければならないということを、ハミルカルは悟ったのである.
 「流れ」からすれば確実に敗北するであろうカルタゴをローマに勝たせるためには、たった一人の人間が全体の勝敗を決し得るような戦争を挑む必要があった.すなわち、かつてアレクサンドロス大王が行ったような「天才の戦争」である.しかし、ハミルカルの仕事は「天才の戦争」それ自体ではなく、その下拵えをすることだった.祖国カルタゴの援助がなくとも戦い続けることが出来る忠誠無比の軍団を作り、それを率いて勝ち続けることが出来るたった一人の天才を育てることが、名将ハミルカルの生涯の事業となった.
 八年間の遠征を経てヒスパニアでの支配をほぼ確立し、拠点となるカルタゴ・ノヴァ(新カルタゴ)を建設中であったハミルカルは、その完成を見ぬままに戦死する.だが、志半ばの死ではなかったであろう.「天才の戦争」を遂行するという使命は、紛うことなき天才の手にしっかりと託された.幼い日にローマとの戦いを誓ったハミルカルの息子、ハンニバル・バルカである.
 
 紀元前二一八年、父の後を継いだハンニバルは、僅か二十九歳にして「天才の戦争」を開始する.彼は五万の兵と三十七頭の戦象を率いてアルプス山脈を越え、イタリアに進軍した.前人未踏のアルプス越えは恐ろしく困難な行軍となり、一万四千の兵士と殆どの戦象が脱落したが、それを果たした時、ハンニバルの下には最強の兵士たちが誕生していた.ハンニバルは、父が遺せなかった「天才の戦争」に相応しい軍団を、この一事でもって創設したのである.
 ハンニバルの動きをまったく予想出来なかったローマは後手後手に回り、ティキヌスの戦いで最初の敗北を喫する.この時、総司令官であった執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオまでが負傷したが、彼は十八歳になる同名の息子に助けられたという.
 ハンニバルは続くトレビアの戦いで、もう一人の執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスをも破る.この戦いの結果、ローマと敵対するガリア(フランス)の諸部族がハンニバル支持を表明し、その合流によって二万六千のハンニバル軍は五万に膨れ上がった.
 翌年、北イタリアでの地盤を固めたハンニバルはエトルリアに侵入した.これを阻むべく新たな執政官グナエウス・セルウィリウスとガイウス・フラミニウスを派遣したローマだったが、トラシメヌス湖畔の戦いでまたしても惨敗し、一万五千名ものローマ兵と共に両執政官までが戦死する羽目になる.一方、ハンニバル側の損害は二千名程度で、しかもその殆どがガリア人の兵士たちであったという.
 
 ハンニバルは勝ち続けていた.だが、戦闘に勝つだけでは戦争に勝つことは出来ない.
 ハンニバルの戦略は、ローマとの戦闘に勝利し続けることでイタリア半島におけるローマの同盟都市を次々と離反させるというものであった.そのため、彼は同盟都市の捕虜を厚遇し、故国でローマからの離反を促すように説いてすぐに釈放している.
 しかし、彼の戦略には二つの欠陥があった.一つは、ハンニバル自身が絶対に勝ち続けなければならないこと.そしてもう一つは、たとえ彼が勝ち続けてもローマの同盟都市が離反するかどうかは判らないということである.
 前者については、天才ハンニバルは何の不安も抱いていなかったであろう.また後者に関しても、カルタゴ人の感覚からすれば問題はない.ローマの支配下に置かれている諸都市が、独立の好機を見逃すわけはないからである.ところが、ハンニバルがローマ軍に甚大な被害を与え続けているにも関わらず、ローマの同盟都市は一つとして寝返らなかった.
 プルタルコスは『対比列伝』の中で「ローマ興隆の要因は、敗者でさえも自分たちと同化する彼らの生き方にあった」と記述している.敗北せしめたサビニ族にもローマ市民権を与え、部族の長老たちにはローマ元老院の議席まで用意した建国の王ロムルスの時代から、ローマは敗者を根絶せず、強制的に支配もせず、地方自治権を認めて同等の立場で自らに同化させるという方針を取り続けてきた.なにしろローマ人自身が、同盟諸都市との連合形態を「ファミリア」(家族)と呼んでいたのである.損得勘定に長けたカルタゴ人であり、それ以上に孤独な天才でもあったハンニバルには、このことが理解出来なかった.
 ローマを小さな都市国家に戻すという戦略目標がなかなか達成できずにいたハンニバルは、これまで以上の圧倒的な勝利を収めれば同盟諸都市も離反するに違いないと考える.そして、結果はともかくその過程――つまり圧倒的に勝利するという一事に限って言えば、ハンニバルは疑いもなくそれを達成できるはずであった.

 ところが、彼の目算を狂わせる一人の将軍がローマに登場する.

 

 


最終更新:2010年06月18日 19:08