エウメネス伝

 

 

二 エウメネスとヘファイスティオンの確執

 
 しかしながら、エウメネスは度々アレクサンドロスと衝突し、特にヘファイスティオンのことで自身を危地に陥らせた。たとえば(1)エウメネスの従者が彼のために用意しておいた宿所を、ヘファイスティオン(2)笛吹きのエウイウスに与えた時、エウメネスは怒っ(3)メントルと共にアレクサンドロスを訪ね、「武器などは投げ捨てて笛吹きか役者にでもなる方がましだ!」と叫んだ。そこでアレクサンドロスも一緒に憤慨し、ヘファイスティオンを厳しく叱責したのである。だがアレクサンドロスはすぐに心変わりして、エウメネスがむし(4)王その人を非難しようとしたのだと気付き、彼に対して怒りを抱いた。
 次に、アレクサンドロス(5)インド洋の探検航海(6)ネアルコスの艦隊を派遣しようとしていた時(7)王庫に金がないので友人たちから資金を集めようとしたことがあった。エウメネスは三(8)タラントン求められたのに百タラントン出しただけで、しかもこの金は苦心してやっと工面したものだと言った。アレクサンドロスはその金を受け取らず、また非難もせず、内密で奴隷に命じてエウメネスの天幕に火をつけさせ、財物を運び出すところ(9)エウメネスの嘘を突き止めようと試みたが、天幕が燃え尽きる前に王宮日誌まで滅んでしまうことを後悔した。火災のために焼けた金銀は一千タラントンにも上ることが判ったが、アレクサンドロスはそれを取ろうとせず(10)失われた王宮日誌の写しを送るよう各地の総督や将軍に連絡し、それら全てを改めて保存するようエウメネスに言いつけた。
 それからまた、エウメネスはある贈り物をめぐってヘファイスティオンと言い争いになり、悪口雑言をやりとりしたことがあった。その時は無事に済んだのだが、間もなくヘファイスティオンが亡くなる(11)アレクサンドロスは非常に悲しんで(12)生前彼に対して嫉妬を抱きその死を喜んだと思われる全ての人々を厳しく扱うようになった。エウメネスには特に疑いを持ち、先の口論での誹謗と中傷を度々持ち出しては非難した。だ(13)狡猾で言葉巧みなエウメネスは(14)この破滅の種を利用して身の安全を図った。つまり、ヘファイスティオンに対するアレクサンドロスの好意につけこんで、故人をいかにも立派に見せるような名誉を数え立てたり、その墳墓の建立にも惜しみなく金を差し出したりしたのである。

 

  

注釈

 

  1. エウメネスの従者が彼のために用意しておいた宿所 この後のエウメネスの台詞(「武器などは~」)から考えると、これは彼が武官として活躍していた頃、おそらくインドへの出征前後に起きた出来事ということになる。遠征中に敵対する都市や町を屈服させた場合、将官たちはそこに仮の住まいを用意した。先に従者が宿所を占めておいて、後から主人が入居したのだろう。ヘファイスティオンはエウメネスの従者からその家を横取りしたわけである。(「エウメネスの従者が任命されていた軍営付きの仕事を横取りした」とも解せるが、後の台詞に繋がらない)
     
  2. 笛吹きのエウイウス 不詳。エウイウスがどのような人物であったにせよ、書記官長の宿所を笛吹きのために横取りするというのは異常である。エウメネスへの侮辱そのものが目的だったのだろうか。
     
  3. メントル これも不詳。一‐22の注にある傭兵隊長メントルとは別人。おそらくエウメネスの下で書記官を務めたギリシア人(非マケドニア人)であろう。
     
  4. 王その人を非難しようとした アレクサンドロスの東西融合政策は彼の王としての在り方にも東洋的(オリエンタル)な影響を及ぼし、諸将の不満の種になっていた。その最も顕著な例が「跪拝礼」(プロスキュネシス)にまつわる一連の事件である。東征に従軍した哲学者アナクサルコスは、東洋風の宮廷儀礼に惹かれていたアレクサンドロスに諂って、ある宴席で跪拝礼の導入を提案する。跪拝礼とは王に対して跪いて平伏する卑下恭順の意志表現で、ペルシア宮廷ではごく当たり前のことなのだが、神々にすら滅多に跪拝しないギリシア人にとっては受け容れ難い異文化だった。この時、アリストテレスの甥で哲学者のカリステネスが、跪拝礼に断固として反対する旨の長広舌を揮う。当然アレクサンドロスは腹を立てたが、マケドニア人の大半はカリステネスに賛成の様子で、しかも大王の体面を憚ってその場で跪拝礼を行った人々をヘタイロイの一人レオンナトスが「みっともない」と嘲笑し、王と喧嘩にまでなる始末であった。その場はひとまず収まったが、王に憎まれたカリステネスには悲惨な末路が待っていた。しばらくして近習の少年たちによるアレクサンドロス暗殺計画が発覚した時、彼らの教育にも携わっていたカリステネスは教唆の罪を問われ、処刑されてしまうのである。カリステネスが本当に陰謀に関わっていたのか、それとも疑惑にかこつけてアレクサンドロスが先の復讐を遂げただけなのか、真実は判らない。しかし、少年たちが暗殺を企んだ理由の一つに跪拝礼に対する反感があったとも言われているから、どのみちカリステネスは責任を取らざるを得なかったであろう。この事件は、有力な貴族の子弟――しかも年少の者たちを処刑しなければならなかったことによって、また恩師アリストテレスの縁者を殺害したことからも、アレクサンドロスの生涯に暗い影を落とした。以後、アレクサンドロスとヘタイロイたちとの関係はどこか懸隔を感じさせるものになっていくのである。そして、こうした状況下でも一人変わらず寵愛を受け続けたヘファイスティオンは、諸将からすればもはや「王の一番の親友」ではなく、単なる「佞臣」に他ならなかった。プルタルコスによればヘファイスティオンは率先して東洋風に振舞っていたようで、書記官長にして将軍でもあるエウメネスを笛吹きより軽んじるという彼の態度にもその影響があったのかもしれない。また、それを批判するエウメネスにアレクサンドロスのオリエンタリズムを難じる気持ちが無かったとは言えまい。なお、東洋かぶれを最も強く批判していたクラテロスがヘファイスティオンと対立しており、一方エウメネスとは非常に親しかったという事実も、東西融合政策に対するそれぞれの考え方を推量する材料になるだろう。
     
  5. インド洋の探検航海 紀元前三二六年、ネアルコス(注6で詳述)はヒュダスペス川で大艦隊の提督に任じられ、アレクサンドロスと共にインドの川々を下った。そして、抵抗勢力の駆逐に向かう王とは途中から別行動を取り、外洋に乗り出してペルシア湾まで純粋な探検航海を続けたのである。ネアルコスはこの航海で見聞した土地の風土、原住民の習俗、動植物の生態などを詳しく記録しており、その内容はアッリアノス『インド誌』に翻案されている。『ヒストリエ』の冒頭、ヘルミアス(小アジアの都市アタルネウスの宦官僭主で、アリストテレスのパトロンであった)が「世界の形がわかったら……次にする事って何だろう……?」とメムノンに問い掛ける場面がある。その答えは、ネアルコスの探検航海の中に見出すことが出来る。アレクサンドロスの東征には、世界を知るための壮大な冒険旅行という側面があったのである。いや、ネアルコスの艦隊が無事であったと知った際の「アジア全土の征服者となった時よりも遥かに嬉しい」という言葉を思えば、征服欲よりも冒険精神こそがアレクサンドロスの本質であったとさえ言えるかもしれない。
     
  6. ネアルコス ヘタイロイの一人。クレタ人でありながらミエザの学舎に通い、アレクサンドロスが異母兄アリダイオスの結婚問題で父フィリッポス王と対立した時にはプトレマイオスらと共に追放処分を受けている。フィリッポスの死後すぐに呼び戻され、東征の初年に早くもリュキア(現トルコ南沿岸のアンタルヤ県及びムーラ県の地域)の太守に任ぜられるなど、大王の信頼が最も厚い人物の一人であった。ペルシアとの戦いの中でも常に重用され、インド遠征に際して探検航海の使命を一任されたことについては前述の通り。彼自身も大王に深い尊敬の念を抱いていたようで、後に航海の途中カルマニアという土地で偶然アレクサンドロスと再会するくだりは『インド誌』の名場面である。アレクサンドロスがインド中央部への侵攻を断念するとネアルコスも一旦スサに立ち寄り、そこで大王手ずから黄金冠を授けられるという名誉を得た後、ペルシア湾からユーフラテス川を遡ってバビロンに帰還。病床のアレクサンドロスよりアラビア周航を指示されたものの、この壮挙は直後の大王の死と共に立ち消えとなる。しかし、これほどの偉業を成し遂げた重臣であるにも関わらず、ネアルコスは後継者戦争ではまったく活躍しない。エウメネスと同じく外国人であったために蔑ろにされたというのが最大の理由であろうが、帝国の行く末を協議するバビロン会議においてただ一人だけ庶子のヘラクレスを推すといった人の好さ、政治感覚の欠如も、後継者候補から真っ先に外される要因になったのではないかと思われる。ネアルコスの所領はやがてディアドコイの最有力者アンティゴノスに吸収され、彼自身はアンティゴノスの部将となった。そして、紀元前三一二年にアンティゴノスの子デメトリオスの相談役を務めたという記述を最期に、ネアルコスの名は歴史から消える。おそらく天寿をまっとうしたのだろう。ユリウス・カエサルの腹心でありながらその暗殺に関わったデキムス・ブルートゥス(有名でない方のブルートゥス)や、織田信長に仕えて「進むも滝川、退くも滝川」と称された滝川一益のように、主君の死と共に輝きを失ってしまう人間が歴史上には存在する。ネアルコスもその一人であり、大王死後に頭角を現すエウメネスとは対極に位置する人物と言える。
     
  7. 王庫に金がないので友人たちから資金を集めようとした 東征軍はその初期段階では深刻な財政難を抱えていた。資金調達のため富裕なヘタイロイたちに王領地や港湾の収税権を売り払った結果、アレクサンドロス自身が破産状態に陥るほどであったらしい。心配したペルディッカスが「王はご自身のために何を残されたのですか」と問うと、笑って「希望だけだ」と答えたので、ペルディッカスと数人のヘタイロイは土地や権利を返還し、無償で資金を提供したという逸話が残っている。しかしこの財政難はイッソスの戦いまでのことで、会戦後ペルシアの軍用金庫を確保したマケドニア軍は遠征前よりも遥かに豊かになった。ペルシア王国を滅亡させてからは財政もいっそう潤い、ペルセポリスで十二万タラントン(注8参照)、スサでは五万タラントンを接収。後日エクバタナに集められた財貨の総額はディオドロスによれば十八万タラントンという天文学的なものであったというから、インド遠征を前にしたこの時期に王庫が空になるわけがない。もっともアレクサンドロスが艦隊の建造資金を諸将に募ったのは事実であり、アッリアノス『インド誌』にもネアルコスの航海記録をそのまま引用したと思しき資金提供者の一覧がある。『インド誌』では、彼ら資金提供者は「トリエラルコス」と表現されている。トリエラルコスとは、私費を投じて三段櫂船を建造維持し、その船の運用指揮まで務めたアテナイの富裕市民のことで、このトリエラルキアという制度こそが盛期アテナイの海上支配権を支えたとされる。アレクサンドロスが艦隊建造にあたって資金提供を募ったのは金がないからではなく、民主国家アテナイのトリエラルキア制度を模することで、探検航海という彼の最も純粋な夢を友人たちと平等に分かち合いたかったのだろう。なお、アテナイではトリエラルコスに選ばれることは大変な名誉であった。したがって『インド誌』においても全てのトリエラルコスの名が出身地と父親の名を付して顕彰碑文のように記載されており、ここにエウメネスの父「ヒエロニュモス」の名が見られる。岩明均が「ヒエロニュモスの子エウメネス」と「エウメネスと同郷の史家ヒエロニュモス」の関係に想像力を駆り立てられたのも当然であろう。
     
  8. タラントン 古代ギリシア世界の通貨単位。実際に作られた貨幣の名称ではなく、金銀の重さに替えられる計算上の単位であった。一タラントンが今の日本円でいくらぐらいかという考察にはあまり意味がないが、大雑把に言えば五千万円ほどであろうか。ちなみに聖書マタイ伝に「タラントンのたとえ」という話がある。大金持ちの主人からそれぞれ五タラントン、二タラントン、一タラントンの大金をしばらく預けられた三人の召使いがいて、二人はその金を倍に増やしたが、一タラントンを任された者は地中に埋めておいてそのまま返しただけだった。怒った主人は「持てる者はさらに与えられて豊かになるが、持たざる者は持てるものすら取り上げられる」と言って彼をクビにしたという。何が言いたいのかさっぱり解らない話だが、ここから「タレント」(能力)という言葉が生まれたのである。
     
  9. エウメネスの嘘 エウメネスを贔屓するわけではないが、プルタルコスのこの記述は信憑性が薄い。本文では、アレクサンドロスは最初の三百タラントンを受け取らず、後に判明した隠し財産にも手を着けなかったことになっている。つまり一銭も出さなかったというわけだが、先述の通り『インド誌』にはエウメネスの名もトリエラルコスの一人として挙げられており、史料に矛盾が生じてしまう。『インド誌』は史料価値が極めて高いので、プルタルコスの方を退けるべきだろう。ところで、アレクサンドロスにまつわる金銭問題としては別に興味深い話がある。インド遠征を断念した大王がスサで合同結婚式を挙げた後のことだが、彼は軍の内部で負債を抱えている者たちのためにそれを皆済してやろうと考えた。そこで全ての将兵に対し、借金の総額を自己申告するように指示したのである。ところが兵士たちの多くは、王が金銭にだらしない連中を暴き出そうとしているのだと勘繰って、なかなか申告して来なかった。この報告を受けたアレクサンドロスは大いに憤り、いやしくも王たる者は臣民に虚偽を語るべきでなく、また臣民たる者は王の誠実を疑ってはならぬと言って兵士たちを詰ったという。結局、アレクサンドロスは陣営内に金貨を山と積み上げ、借金の証文を持って来た者には氏名を確かめもせずにその場で金を支払ってやることにした。ここまでやってようやく兵士たちも王を信じる気になったのだが、それでも彼らは借金が帳消しになったことより自分の借金額が知られずに済んだことの方を喜んだそうである。
     
  10. 失われた王宮日誌 逸話の内容はともかくとして、王宮日誌が遠征中に失われたというのはありそうな話である。エウメネスの王宮日誌は、クレイタルコス系の史料(ディオドロス)やプトレマイオス系の史料(アッリアノス)のようなまとまった影響を後代に与えていない。部分的な写本が各地に点在していたのなら、後に引用されたのはそれら小断片であった可能性がある。なお、アレクサンドロスにはかつてペルシアの首都ペルセポリスを酔った勢いで焼き払ったという壮大な前科がある。
     
  11. アレクサンドロスは非常に悲しんで アレクサンドロスの度を過ぎた悲嘆については一‐13を参照。アッリアノスは「アレクサンドロスにしてみれば、生き長らえてこの不幸を経験するよりはむしろ、彼に先立って世を去りたかったことだろう」と同情的に綴っている。それにしても、アレクサンドロスほど孤独な英雄が他にいるだろうか。フィリッポスは偉大な王であったが、嫡子のアレクサンドロスとは深刻な不和に陥ったまま世を去ったし、実母のオリュンピアスは言わずと知れた悪女で、アレクサンドロス自身その陰謀癖と権勢欲には辟易していたという。ヘファイスティオンとの関係を同性愛と考えるなら、愛妾のバルシネや妻ロクサネたちをどれほど愛していたかも疑わしい。アレクサンドロスは生涯、愛する家族というものを持たなかったのである。岩明均は、愛馬ブーケファラスの死を悼んでブーケファリアという名の町を建設した逸話なども、孤独の一端に思えてくると書いている。確かに、「垓下歌」で愛馬の騅(すい)について歌い上げた項羽のように、英雄が乗馬を愛する話というのはどこか孤独を感じさせるものかもしれない。しかし、アレクサンドロスを真の孤独者たらしめた所以は、彼が「友」の存在を求めてやまなかったところにあるだろう。家族を持たなかったアレクサンドロスは、狂おしいほどに友情を欲した。だが、彼が英雄としての功業を積み重ねる度に、かつての友人たちは遠ざかっていった。グラニコス河畔の戦いでアレクサンドロスの命を救った親友クレイトス。彼は後に宴席での口論の末、酔って自制心を失っていた大王に刺殺されてしまう。クレイトスはかねてからアレクサンドロスの東洋かぶれを非難し、傲慢な態度を取っていたのだ。我に帰った王は自らを友達殺しと罵ってやまず、三日の間は飲食も一切受け付けずに悲嘆に暮れたという。それから、アレクサンドロスのために追放処分を受けたこともある幼少期からの友人ハルパロス。彼はイッソスの戦いを前に敵前逃亡するという醜態を演じたにも関わらず、王の厚情で不問に付され、その後も帝国財政全般を任されるほどの信頼を得ていた。ところがハルパロスは、インドに出征した王が無事生還するなどあり得ないと高を括って、留め置かれたバビロンで享楽の限りを尽すのである。王の帰還を知った彼は結局、処罰を恐れてアテナイへと亡命してしまった。また、アレクサンドロスは時に兵卒にまである種の友情を求めた。注9の借金問題もそうだが、その後アレクサンドロスが老兵や負傷兵をマケドニア本国に復員させようとした時の逸話として次のようなものがある。王はむろん兵士たちを慮って国元に戻そうと考えたのに、当の兵士たちは王に見くびられ、役立たずと思われたと勘違いし、口々に従軍拒否の声を上げた。彼らの怒りの叫びを聞いたアレクサンドロスは、しかし彼ら以上の憤激に駆られる。王は演壇に上ると、父フィリッポスの改革、自らの東方出征、グラウコス河畔の戦いやイッソスの戦い、そしてガウガメラでの決定的勝利やインド遠征の苦難について滔々と語った。彼は言う、「私は君たちと同じものを食べ、夜も同じように眠っている。それどころか自分では、君たちのうちでも口の奢った者が食べる程のものも、口にしてはいないと思うくらいだし、夜は夜で君たちが安眠できるようにと、君たちのためを思っては目覚めがちなことも、余人は知らず、少なくともこの私にはわかっているのだ。」 彼は演説をこう締め括る。「ところでこの度のことだが、私としては諸君のうちでもはや軍務に耐え得ない者たちを、今度は郷党に羨まれる存在として復員させようと考えたのだ。しかし諸君の全員がここを立ち去りたいと言うのなら、皆ひとり残らず立ち去るがよい。そして郷里に帰ってこんな風に報告したらどうだ。『我らが王アレクサンドロスは地上の全てを征服したが、我々はその王を異国の地に放ったらかし、蛮人どもの世話に任せて立ち去ってきたのだ』と。そうすればきっと諸君にも名誉なことなのだろうし、神々の御心にもさぞかし十分にかなおうというものだ。さあ、行ってしまえ!」 これだけ言うとアレクサンドロスは演壇から跳び下り、度肝を抜かれた兵士たちを後に宿舎へと帰ってしまった。そしてそのまま宿舎に引き篭もると、寝食すらなおざりにし、何日も姿を見せなくなった。自らの態度を後悔した兵士たちは、しばらくすると一団となって王の宿舎に駆けつけ、入口に立ち尽くして昼も夜も泣きながら許しを乞うた。その様子が伝えられると、王は取るものも取りあえず表に出て、マケドニア人たちが打ちひしがれた様子で地べたにうずくまり、嗚咽まじりになおも自分の名を呼んでいるのを目の当たりにする。王の目にも涙が溢れた。偉大な英雄と不敗の軍隊は、こうして和解するに至ったのである。兵士たちは王に対してペルシア風に親愛の接吻を捧げると、歓呼の声を上げながら、また軍歌を高らかに歌い上げながら、意気揚々と陣営に帰っていったという。このように、アレクサンドロスはヘタイロイや側近将校はおろか兵卒たちにまで誠心誠意の付き合いを求め、自らもそう振舞おうと心掛けた。いかなる相手に対しても、魂が触れ合うような友情を強要してやまなかったのである。アレクサンドロスのこの異常なメンタリティは、マケドニア軍の無類の強さを生み出す源泉であったと同時に、帝国の内面に致命的な欠陥を作り出す要因ともなってしまう。ヘタイロイたちは王の友情によって才能を最大限に引き出されたが、クレイトスの傲慢やハルパロスの放恣に見られるように、明らかに臣下の矩を越えることも少なくなかった。友として扱われた兵士たちは、まるで自らも一人のアレクサンドロスであるかのごとき活躍を見せたが、やがて反抗や命令拒否を繰り返すようになった。これらの問題は、アレクサンドロスの死後になって本格的に表面化する。ヘタイロイたちによる後継者戦争という事態そのものが既にして王の友情の代価であったと言えるだろうし、エウメネスを散々苦労させた末に非業の死を遂げさせるのも、王の友情を得て指揮権を尊ばなくなったマケドニア兵たちだったのである。後継者戦争の中でヘタイロイたちによって妻子が一人残らず殺され、その血統が完全に断絶することなど、生前のアレクサンドロスに教えてやっても決して認めようとはしないだろう。また、ヘタイロイでないエウメネスだけが王の妻子を重んじ――それは他に頼るものがなかったからであろうが――エウメネスの死後は誰も彼もが王を名乗るようになるなど、それこそ夢にも思わなかったに違いない。彼が友情と信じていたものは、自らの死と共に消えて失せる幻影に過ぎなかったのである。そういえば「最強の者が帝国を継承せよ」という遺言にしても、これを英雄的な言葉としてではなく友人たちに対する信頼の証と捉えてみれば、まるで意味が変わってくる。アレクサンドロスはただ、ヘタイロイのなかで最も優秀な者に妻子を託そうとしただけだったのかもしれない。こうして歴史を俯瞰してみると浮き彫りになる、アレクサンドロスの痛ましいまでの孤独。そんな彼にも真の友情があったとするなら、それはやはりヘファイスティオンとの関係だけである。むろんヘファイスティオンとて、王の死後まで生き延びていれば自ら天下に覇を唱える忘恩の徒となったであろうことは想像に難くない。だが、彼は王よりも先に死んだ。先に死んだというただそれだけのことが、二人の友情にとってどれほど重要であったか。アッリアノスの言うように、アレクサンドロスは自分こそ先に死にたかったに違いないが、しかしヘファイスティオンは王よりも早く死ぬことによって、たったひとつの真の友情を王のために遺し得たとも言えるのである。ヘファイスティオンを佞臣として一蹴せず、むしろ二人の関係に好意すら寄せる史家が少なくないのは、歴史を眺める冷徹な視線ですらアレクサンドロスの孤独を直視するに忍びないという、ある種の情実に所以するのかもしれない。
     
  12. 生前彼に対して嫉妬を抱きその死を喜んだと思われる全ての人々 側近将校のほぼ全員であろう。しかし、ヘファイスティオンと表立って対立していたのはクラテロスとエウメネスだけであり、クラテロスの方は前述の退役将兵を引率してマケドニア本国へと去ったばかりだった。エウメネスもよくよく運の無い男である。
     
  13. 狡猾で言葉巧みなエウメネス 「論理」を人間活動の原理として展開されたペロポネソス戦争は、ギリシア全土を衰退に導いたばかりでなく人心の無惨な荒廃をも招いた。その様子をつぶさに眺めたソクラテスは、執拗な対話を通じて新たな活動原理である「倫理」の確立を模索する。この倫理の確立という知的事業はプラトンやアリストテレスへと引き継がれ、やがて古代知識人にとっての根本思想となるまでに至るのである。帝政期ローマの著述家プルタルコスもまた倫理の人であり、『対比列伝』において歴史上の人物を倫理的に判断しようとした。結果、アレクサンドロスやカエサルのような倫理的価値基準では捉え切れない人物の生涯が、業績よりもゴシップに満ちた矮小なものに成り下がってしまった感は否めない。彼らほどの大人物とは言えないが、エウメネスもプルタルコスの倫理観に裁かれてしまった一人である。本文の「狡猾で言葉巧み」という評言には、著者のイメージするエウメネス像がはっきり表れていると言えよう。『対比列伝』のエウメネス伝は、こうした負のフィルターを通して語られていることを忘れてはならない。もっとも、共和政ローマの史家コルネリウス・ネポスが描く「何の落ち度もないのに外国人というだけで不運な目に遭った悲劇の英雄エウメネス」という人物像よりは、プルタルコスの描くエウメネスの方が遥かに魅力的で真実味を帯びているのも確かなのだが。
     
  14. この破滅の種を利用して身の安全を図った ヘファイスティオンの死後、アレクサンドロスの憎悪を恐れたエウメネスが率先して弔意を表したのは事実であったらしく、アッリアノスも「どの記録でも一致して伝えている」と太鼓判を捺すほどである。半狂乱のアレクサンドロスに目を付けられたエウメネスからすれば故人を持ち上げて危機を脱するのは当然の処世術であったろうが、そういう抜け目の無い態度が後世に好印象を残さないのもまた自明のこと。プルタルコスの「狡猾で言葉巧み」というエウメネス像も、主にこの逸話に基づいた人物評なのではあるまいか。ヘファイスティオンと不仲であるという点では同じ立場であるはずのクラテロスが直言極諫を憚らぬ忠臣とされ、エウメネスはただ仲が悪かっただけと決め付けられてしまうのは、彼がヘファイスティオンを英雄神として祀るなどという愚挙に反対せず、むしろそれを積極的に支持したからに他ならないのである。とはいえ、仮にこの時も今まで通りの諫言を続けていたら、エウメネスは確実に処刑されていた。後継者戦争で活躍することもなかったであろう。
     
     

最終更新:2010年06月27日 03:30