ハンニバルの時代

 

 

二 第一次ポエニ戦争

 
 第一次ポエニ戦争はシチリア島の支配権を巡って争われた.歴史の常で、この時も実に些細な出来事がポエニ戦争の発端となる.
 
 当時、シチリア島の西半分はカルタゴが押さえ、東半分はギリシア人勢力のシラクサ・メッシーナ領に属していた.ところが、カンパニア人の傭兵部隊マメルティニがメッシーナを不当に占領し、自治都市シラクサの国境まで荒らし回るようになった.これを危惧したシラクサの僭主ヒエロン二世はカルタゴと結んでマメルティニの排除に乗り出す.ローマは、このならず者のマメルティニに泣きつかれたのである.
 非はマメルティニの側にあった.それでもローマがマメルティニの要請に応じたのは、シチリア全島の支配権をカルタゴに譲るわけにはいかなかったからである.シチリア島の東に位置するメッシーナまでがカルタゴの影響下に入ってしまうと、目と鼻の先にあるイタリア半島南部の安全が脅かされる.マメルティニの無法から生じたシチリアの紛争は、ローマにとっても看過すべからざる問題だったのだ.
 しかし、紀元前二六五年のローマ共和国は未だ「羊飼いの村」の延長上にあった.対するカルタゴはローマとは比較にならないほどの経済大国である.ローマとしては、この問題を小競り合いで済ますつもりだったはずだ.それがいつしか、カルタゴとの全面戦争に変わっていく.
 
 その頃、「カルタゴの許しがなければローマ人は海で手も洗えない」と言われていたように、地中海の覇者はカルタゴであった.また、「まっとうなローマ人ならば海を恐れる」というローマ人自身の言葉が示す通り、ローマは決して海洋国家ではなかった.にも関わらず、圧倒的な海軍力を誇るカルタゴは、得意なはずの海戦においてローマに完敗し続ける.
 ローマは「コルウス」と呼ばれる新兵器で海戦を有利に進めていった.「コルウス」とはつまるところカギ爪のついた橋であり、海戦になるとローマ軍はこの兵器で敵船に橋を渡し、精強無比の重装歩兵を直接送り込んで白兵戦を演じたという.なんのことはない、海戦が苦手だから得意な陸戦をそのまま海に持ち込めるようにしただけのことなのだが、その発想の柔軟性はいかにも新興国らしい.
 一方、長らく地中海の覇者であったカルタゴは、覇者であったが故に皮肉にも海戦の経験を持たなかった.軍船は豊富で、操船技術にも優れていたが、海上で戦ったことがないという点ではローマ海軍とカルタゴ海軍の条件は同じだったのである.こういう場合、勝利の女神はいつだって謙虚な新参者の味方をする.
 発展途上国と先進国との違いは、戦術や実戦経験の面だけには留まらない.これがもっとも顕著に表れたのは、膨大な戦費を必要とする海軍の建設維持という問題であった.
 第一次ポエニ戦争を通じて、ローマは少なくとも紀元前二五五年と二五三年の二度、全艦隊を失うという大変な悲劇に見舞われている.海戦の結果ではなく、悪天候による海難事故が原因であった.それでもローマは意気消沈せずに軍船を作り続ける.この戦争までは、まともな軍船など持ったこともなかったというのに.
 これに対し、カルタゴには戦争による私財の損失を嫌う貴族の一派が存在していた.戦争など、始めてしまったからには勝たないことには損も得も無さそうなものだが、海運よりも本国に所有する土地での大規模農業を経済基盤とする貴族たちは最後まで私益に執着し続けた.そして、大地主の貴族である大ハンノがその領袖となると、こともあろうにカルタゴ艦隊を解散させ始めてしまったのだ.
 ローマはその隙をついて艦隊を再建した.しかも、造船のための費用は富裕なローマ市民の寄付によって捻出されたというのだから、カルタゴとの違いは明白である.第一次ポエニ戦争に決着をつけたエーガディ諸島沖の海戦で勝利したローマ艦隊は、国庫からではなくローマ市民の財布から直接生み出されたものだったのだ.
 戦争は知らぬ間に始まる.しかし、知らぬ間に終わることはない.ローマは、この戦争に深入りしてしまったことを自覚した瞬間から、完全な勝利を得るまでは戦争を終らせないという断固たる決意を抱いていた.一方カルタゴはというと、決定的な敗北を喫する瞬間まで、いつの間にか始まった全面戦争がいつの間にか終わることを期待し続けていたのである.
 
 カルタゴがシチリアに送り込んだ将軍ハミルカル・バルカは陸戦において卓越した手腕を発揮し、全島を支配下に治めつつあったが、勝敗は既に海上で決していた.個人としては勝将であったはずのハミルカルは、自ら屈辱的な講和の交渉に立たねばならなかった.
 講和条約はむろんカルタゴにとって厳しいものとなる.カルタゴはローマ兵を無条件で釈放した上に、自分たちの捕虜は重い身代金を払って取り返さなければならなかった.また、十年分割での莫大な賠償金も課せられる.だが、これらはカルタゴの経済力を考えればさほどのことでもなかったかもしれない.最も大きな意味を持っていたのは、シチリアから完全に撤退し、ローマの同盟国に戦いを仕掛けることも固く禁じられたことであった.カルタゴは、数百年をかけて築き上げてきた西地中海での権益を完全に失ったのである.
 
 こうして、第一次ポエニ戦争は終結した.
 この戦争は、ローマに海洋国家としての成長をもたらし、地中海での貿易利権と、シチリアという巨大な穀倉地帯を恵んでくれた.しかし何よりも重要なのは、ローマがこの時はじめてイタリア半島の外に進出し、シチリア島に同盟国ではない「属州」を持ったという事実である.

 ローマは、それまでとは別種の国家に変貌しつつあった.

 

 


最終更新:2010年06月18日 19:10