バーチャルの世界に初めて降り立った瞬間、。狭岐橋憂は己の判断の安直さを後悔した。
疎らに木が生える山の頂上。
目線を下に向けると、この山を貫通するトンネルに繋がる高速道路が一望できる。
今回の戦場全体を見渡せるここは、スタート地点として最適なのだ。
自分の魔人能力の制約から、人のいる道路上を避けることしか考えていなかった。
判断して選んだその場所の真正面に、DSSバトル初戦の対戦相手、尻手翔がいた。
よりによって。
自分を除く15人の参加者の中で一番当たりたくなかった相手だ。
筋骨隆々の肉体を持ち、何だかよく分からない格闘技らしき大会で全国優勝し、
さらには“スパンキング”翔として裏世界から恐れられているという。
そして何より、男性。
憂には数々の来歴よりも、それが一番痛かった。
2メートルを超える巨体が悠然と憂に歩み寄る。
それは自然と恐怖を喚起し、逃げなきゃ、という気にさせられる。
しかし憂の足は震え、走ることさえままならない。
翔はニイッと笑みを浮かべ……。
「嬢ちゃん、今日はお互い正々堂々と行こうぜ!」
「嬢……私の方が歳上なんだけどっ!」
思わずツッコんでいた。
確かに男性としても大柄な翔と、女性としても小柄な憂を並べてみれば、まさに大人と子供、いやそれ以上の差に見える。
だが、このDSSバトルにおいては事前にプロフィールが公開される。
それを見れば翔が高校生、憂が大学生であり、よって憂の方が先輩であることも一目瞭然であるのだが。
「悪りぃ、それ見てなかった」
清々しいまでの断言。
魔人能力まで書いてあるわけではなくとも、プロフィールから得られるものは皆無というわけではない。
職業や風貌から能力の推測を立てられる可能性もある。
それを端から切って捨てるとは。
これぞ強者の風格か。
翔の堂々とした態度は呆れ掛けていた憂にそう錯覚させた。
もとからできるはずもなかったが、真正面からぶつかるわけにはいかない。
改めて思い、憂は逆方向に駆け出した。
「翔くん、ごめん!」
「あっ、おい!」
憂の魔人能力は『ジレンマインマ』といい、その名の通り淫魔――つまりサキュバスに変身する能力である。
ただしこの能力は憂の性格により厳しい制約が嵌められている。
それは、男性の近くにいると変身できなくなるという制約である。
男性と淫らなことがしたい。でもそんな自分の姿を男性に見られたくない。
そんなジレンマが生んだ奇妙な能力である。
男性と闘うにあたりおおよそ最悪の能力であるが、何もできないというわけではない。
憂は走りながらひとつ大きな息を吐く。
この闘いは全世界に放送される。
能力を使うならば、世界中に――つまり女性だけでなく
今まで自分の能力を見せたことのない男性にまで――淫乱な自分の姿を晒さなければならない。
でも。
亡き親友のことを想えば、そんなこと、気にしているわけにはいかない。
黒縁眼鏡を外し、ポケットから出した赤フレームの伊達眼鏡に掛け替える。
同時に憂の身体が変質していく。
小柄な体が成長していくように伸び始め、女性らしい膨らみが強調されていく。
さらに即頭部からは角が、背中からは羽が、お尻からは尻尾が、それぞれ可愛らしく生えたかと思えば、瞬く間に成長する。
そして、ともに黒かった髪と瞳が、金、赤に染まり、化粧っ気のなかった唇も鮮やかに紅色となる。
変身、できた。
それは、翔が追ってきていない、あるいは振り切ったことを示している。
そう、『男性に近付けば変身できない』という制約は、
裏を返せば『変身できるなら近くに男性はいない』という、一種のセンサーの役目を果たすのだ。
このまま山の中に罠を張りつつ、道路上を目指す。
山頂にいるときにチラッと見えたのだ。
一台の車が不自然に道路脇に止まっているのが。
運営の用意した仕掛けなのだろう。
こんなの魔人に効くんだろうかと疑問に思いつつも、罠を作るのは楽しかった。
蔓に足を引っ掛けると岩が落ちてくる、とか。
草を掻き分けると枝にベチーンと鞭打たれる、とか。
そして相変わらず翔が来る気配はない。
罠の数が十分揃った頃、憂は停車中の車に向かうことを決めた。
その車はごくごく普通のセダンであった。
念のため、不審なものが付いてないか一周ぐるっと確認する。
問題はドアの開け方であるが……ダメ元のつもりであったが通常の方法で開いた。
サキュバスの憂ならいざとなれば強化ガラスでも割ることはできたが、完全な状態で手に入ることに越したことはないだろう。
中に入ると、おあつらえ向きにサンシェードも付いている。
さて、この車を利用するまでは思い付いたが、ここにどんな罠を張るかは考えていなかった。
サンシェードを広げ、車中を見回す。
暗い。
狭い。
その環境が、憂のサキュバスとしての本能を呼び起こす。
一度は頭を振ってその欲望を振り払おうとする。
しかしこうなると『どんな罠を張るか』なんて高度なことはもう思い付かない。
「翔くんも来てないし、頭すっきりさせなきゃだし、ちょっとくらい、いいよね」
誰にともなく言い訳し、憂の手は股間に伸びていった。
「はーがねーーのーケーツいーーをー いーーだーぁーけー おっ!」
翔がトンネルから顔を表した。
実は彼は憂が逃げ出した後を追ってはいたのだが、迷いに迷い、憂とは山を挟んで反対側の道路にたどり着いたのだ。
だがそこで禁止エリアのバリアにぶつかったため、仕方なく引き返し、トンネルを通ってきたのである。
そして彼は気付く。
道路脇に停車してある一台の自動車。
後方にサンシェードが立ててある。
近付いてみると、側面、前面にもサンシェード。
「気になるじゃねぇか」
彼の場合、気になる、というのは文字通りの意味である。
つまり「バトルとは何の関係も無さそうだけど中を見てみたい」という意味だ。
憂の罠を疑うなんて心はこれっぽっちも持っていなかった。
後部座席のドアに手を掛ける。
サンシェードで周到に中を覆い隠していたわりにはあっけなく開いた。
そこで彼は衝撃を受ける。
「なんじゃこりゃあ!?」
そこには衣服を乱し、パンツも下げられ、股間をぐしょぐしょに濡らし、虚ろな表情を浮かべる憂の姿があった。
翔はこれを見たとたん、怒りに燃える。
「おいっ! 嬢ちゃん! どこの淫魔人にやられた!」
憂は声も出せないようだった。
まだ呼吸も荒い。
それにしても……。
翔は考える。
この大会は、観客がVR空間に入り込んでの観戦が認められていた。
通常は遠巻きに眺めるのがマナーだが、プログラムで行動に制限が掛けられているというわけではない。
それに、バトルの最初に憂に聞いたプロフィールの件もある。
一般人にも公開されている、というなら、好みの女の子を狙って襲うこともあり得る話だ。
「くそっ! 俺の目の前でこんなことを!」
翔は背後の山を見据える。
犯人が逃げ込むならあの中に違いない。
「嬢ちゃん、すまねえ!」
翔はおそるおそる憂のパンツの両端を摘まみ、彼女の身体に触れないよう穿かせなおす。
それから、右腕で憂の背を、左腕で憂の膝を支え、立ち上がった。
いわゆるお姫様だっこである。
「バトルは一旦中断だ! 淫魔人め、とっちめてやる!」
そこから彼は憂を抱えたまま、あてもなく山を走る。
途中、蔦に足を引っ掻けた彼に岩が襲い掛かる。
だが彼はそれを尻だけで受け止め、爆砕する。
翔の魔人能力『ラスト・スパンKING』。
尻で攻撃を受けた分だけ自己を強化する能力である。
それに加え、彼は攻撃もまた尻を主体に行う。
自然、迫り来る危機に対して背を向ける格好となり、お姫様だっこした憂を彼のたくましい胴体で守ることができるのだ。
今また草を掻き分けた彼にしなった枝が襲いくるも、これを尻で軽々といなした。
「淫魔人め、どんだけ罠を仕掛けやがるんだ」
言っている間にまたひとつ、罠を尻づくで解除していく。
その間、翔は憂に一切罠に触れさせなかった。
それ、私が作ったのに。
憂の中で罪悪感が大きくなってゆく。
だか、別の感情もあった。
守られている、という安心感。
密着した部分から感じる、ゴツゴツしたいかにもな『男の子の体』。
勘違いなのに、自分のために必死になってくれる眼差し。
もう少しだけこうしていてもいいかな、と憂は自分を甘やかす。
女はズルい生き物なのである。
とうとう翔は、憂の作った罠の全てを解除してしまった。
しかし当然、翔が探していたような人物は現れなかった。
「おい、嬢ちゃん」
「翔くん……」
ようやく出せるようになったか細い声で憂は翔の言葉を遮る。
「淫魔人なんていない……ううん、淫魔人は私なの」
「それって一体どう……」
憂は一度目を閉じる。
名残惜しいけども、サービスタイムはもうおしまい。
再び目を開け、憂ははっきりと宣戦布告する。
「翔くん! 私と、勝負して」
最初からしてたじゃねえか、などと野暮なことは言わなかった。
眼差しは真剣だった。
翔はどきりとする。
距離が、近すぎる。
翔は彼女をお姫様だっこしていたのを、この段になって思い出す。
優しく、そっと憂の体を地面へ下ろす。
「準備があるから!」
彼女の方もまた、赤くなった顔を見られないようにか、そそくさとその場を後にする。
手持ち無沙汰になった翔は、彼女の眼差しについて考える。
あれは、同じ眼だった。
翔は、世界一スパンキングされた男としてギネスブックに載ると決めた。
そのきっかけとなる約束をした時の尻馴染の眼。
「あいつ、何してるかな……うおっ!」
友の行方を巡る考えは、しかし異様な光景によって中断された。
先ほど憂が中にいた車が浮いている。
そしてそれはどんどん空高くへと上がってゆく。
そこにしがみつく人影らしきものも見えるが、遠くて何なのかよく分からない。
分からないが、あれがきっと憂の最終手段なんだろう。
彼女は「勝負して」と言った。
それを反故にするはずがない、という眼もしていた。
ならば。
「俺も、全力で受けて立つしかねえな!」
かくして、翔の真上、上空数百メートル。
車が高度を急に落とし始めた。
着地までの時間はわずか数秒。
しかし翔には関係ない。
何があっても尻で受け止めるだけだ。
車に尻を向けながら、着地のタイミングを見計らう。
だが、それは突然起こった。
車が空中で勝手に大破したのである。
四方八方に破片が散らばる。
そんな中、翔の正面、つまり尻の死角から破片の中でも大きなものが飛び込んでくる。
生身の憂の体であった。
『落下』は憂のトラウマのひとつであった。
親友を死に至らしめた原因、そして同時に自身も同じ恐怖を味わった。
だが、人体を破壊するほどの衝撃は、バトルにおいて大きな武器になる。
憂はサキュバスの腕力で直接攻撃できない男性の翔に対して、トラウマと向き合い、この切り札を切ることに決めた。
VRだからこそできる、命懸けの捨て身攻撃。
ただし問題は翔の能力である。
お姫様だっこされている間に『ラスト・スパンKING』の概要はなんとなく掴んでいた。
どんな攻撃でも、尻に与えては意味がない。
そこで彼女は一つの案を思い付く。
尻で受けようと思っていたものが突然無くなったら、そこに隙が生まれるのではないか、と。
そして実際、翔は無防備な方向からの奇襲を受けることとなる。
ここまでは憂の計算通りであった。
計算違いがあったとすればこの後である。
憂は何も本当に捨て身の攻撃に打って出たわけではなかった。
助かる道をちゃんと用意していたのである。
それは、どんな車にもついている安全装置、エアバッグだ。
車を木っ端微塵に砕くために一度手放したハンドルを空中で再び回収し、それで翔を叩き付ける。
そうすれば自分側にはエアバッグが開き、衝撃の99.998%を吸収してくれるという算段だ。
翔が防御態勢を取る前に。
しかし翔が取ったのは防御態勢ではなかった。
(レディにケツを向けるわけにはいかねえだろ!)
翔は尻ではなく両手を広げ、憂を迎え入れる。
その行為に憂は、ハンドルに手を伸ばす動きを遮られた。
(うそ!)
ハンドルの方はもう間に合わない。
無意識に腕は翔の首筋に伸びる。
二人は抱き合う形になり、翔の背から地面に叩きつけられる。
勝負は決まった。
両者、ノックアウト――
「悪りぃな……」
――ではなかった。
土煙の中から二人にして一つの影が姿を現す。
意識の無い憂を再びお姫様だっこした、一回り筋肉の増えた翔の姿だった。
「俺に『尻』餅をつかせちまった」
翔もこうなることを知っていたわけではない。
それは本当に偶然だった。
パンプアップした翔に支えられていたことで、憂の体には傷一つ付いていない。
だが、意識はなかった。
戦闘不能状態。憂の負けである。
翔は地面にそっと憂を寝かせる。
「まったく、このちっちぇえ体のどこにそんな勇気詰めてんだよ」
言いながら、彼は憂の『あの眼』を思い出す。
友との約束を結んだ眼。
きっと彼女にも大切な人がいるのだろう。
「まあこの闘い、勝ち進みゃあいいってもんじゃねえらしいしな」
翔と憂をプリズムカラーの光が包む。
どうやら現実世界に戻る時間が来たようだ。
翔はもう聞こえていないだろう憂に、最後の声を掛ける。
「そっちはそっちの目的のために、精々気張れや、嬢ちゃん、いや――」
歳上の女性への敬意を込めて、彼は言葉を選び直した。
「――姉ちゃん!」