【前回までの取組】
(ナレーション)
大天使ガブリヨルより授かったオスモウドライバーにより、オスモウドライバーとして活動することを運命付けられた野々美つくね。
来たる戦いに備えて相撲稽古に打ち込む中、彼女の元に一枚のカードが届く。それはC3ステーションが主催するVR魔人格闘大会、DSSバトルへの招待状であった!
「なるほど、なるほど。あの適合者をDSSバトルへ誘い出す……というお心積もりで」
「然り。かの運営にも我が手は届く。オスモウドライバーの詳細を一切分析し、再び黒のオスモウドライバーを我が手中に収める。白のオスモウドライバーを奪うのはその後でよい」
「どうだったかね、現役の横綱の実力は」
「……あたし、オスモウドライバーを全然使いこなせてなかったんですね」
「国暗協が……C3ステーションの中に!?」
「十中八九……いや、ほぼ十割の確率で罠だろう。どうする、野々美くん」
「どうやら気持ちは決まっているようだね」
「親方さん……!ありがとうございます!あたし、頑張ります!」
「……熱い!」
戦場に降り立ったつくねの第一声はそれだった。とにかく熱い。やたらと熱い。しかしこの熱さも、つくねの体が現実に体験している現象ではないのだという。しかし、熱いものは熱い。
VR空間であるにも関わらず、身を包む熱気の凄まじさは現実となんら遜色ない。時折沸騰した溶岩がバチバチと爆ぜ、赤い飛沫を散らしていた。
第一回戦の舞台に選ばれたのは溶岩地帯。黒い岩石の大地と、その裂け目から流れ出す赤々と燃えるマグマ以外には何もない。起伏もほぼ皆無で、ぐるりと首を回せば戦場の全体を見渡せた。
つくねが開始地点に選んだのはフィールドの中央部である。真っ向勝負を好む彼女の性質が反映されたポイントと言えよう。
では、戦闘領域境界の10メートルほど手前で所在なさげに立つ青年はどうだろうか。
つくねからはおよそ1キロほど離れているが、その見通しの良さ故、両者はすぐに互いを認識した。その証拠に、相手はこちらへ向けてひらひらと手など振っている。戦闘に赴く者の態度としては、あまりに脱力が過ぎた。
「(親方さんの言ってた通り、一筋縄じゃ行かなそうな相手だなぁ)」
つくねは、実質的なセコンドを務める親方弦一郎と試合直前に交わした会話を思い返した。
稲葉白兎。20歳。『逃走王』の異名を取る指名手配犯。逃げる事にかけては他の追随を許さない、軽佻浮薄な男……それが親方より伝えられた、対戦相手の情報だった。
胸中に一片の不安がよぎる。だが、多少の事では揺らがない自負がそれを打ち消した。つくねとて総合格闘技では20を超える戦績の持ち主である。様々な格闘者と戦ってきた。中には相手の嫌がることを躊躇なく実行する、心理戦に長けた者も居た。
対するつくねのスタイルはいつだって決まっていた。全力を出す。真正面からぶつかる。それが信条。
親方はつくねにこうも伝えていた。
「……だが、彼自身は我々の敵、見え隠れする陰謀とはまったく無関係だろう。だから存分に戦いを楽しむといい」
彼に連れられて選手控室を訪れていた、当真ちはやも言った。
「頑張ってね、つくね。私も応援してるから」
ちはやが日本相撲協会に掛け合い、直接応援に来ると親方から聞かされたのはつい先ほどのことだ。つくねにとって、これほど心強いことはない。
熱い空気を大きく吸い込み、吐き出す。そして腰に巻いたベルト――オスモウドライバーの、バックルに相当する部分に指を当て、ぐいと押し込んだ。桜の花と、その周囲を取り囲む力強い二重線の意匠が僅かに沈み込む。(※参考:
http://www.sumo.or.jp/ )
「ふッ、ん……」
しゅるりと滑らかに、オスモウドライバーのバックル部からもう一本の布が伸び、少女の股下を覆う。
深々と腰を落とし、股を割る。四股の体勢を取ったつくねは、凛と叫んだ。
「――変身ッ!」
トトン!トトトントトン!トトン!トントン!トトン!トントトン!
NHK相撲中継のオープニングでお馴染みの寄せ太鼓の音が、どこからともなく響いてくる。
発光する不可思議な粒子がつくねを包み込み、その肉体と結合していく。
閃光。マグマの熱をも切り裂く白く鋭い輝きが戦場を満たす。
そして次の瞬間には、威風堂々たる横綱が溶岩地帯に降臨していた!
《MODE:UNRYU》《CHIYONOFUJI》
《ちよのぉぉ~~ふぅじぃい~~~》
「まったなしだぜ!」
「へぇ~~、あれがオスモウドライバーかぁ。このクソ暑いのにわざわざ自分から肉ダルマんなってご苦労なこったね」
稲葉はさして驚いた風でもなく、気の抜けた声で呟いた。普通の女子高生が突然横綱に変貌する、それ自体は確かに魔人の域ではあるが。
「でもまぁ、俺っちのやる事ァひとつっきりだかんね。横綱だろうがお子様だろうが関係ないんだよなあ」
横綱はずんずんと近付いてくる。その巨体が岩石を踏みしめるたび、その内の臓腑をどろどろに溶かした足場はぐらぐらと揺れる。だが、その状況下でも千代の富士の体軸は全くブレていない。恐るべきバランス感覚、そして恐るべき足の皮の厚さ。立ち合いに臨む以上、力士は当然素足である。画鋲が刺さっても気付かないとさえ言われる足の皮の厚さは、鉄板めいて高温の熱を帯びた岩石すら意に介さない。
稲葉もまた、横綱に向かい歩を進める。こちらは実に軽やかな、自重を感じさせぬ歩調である。
両者の出現地点よりやや場外寄り、領域線上より約300メートルの地点で、二者の足が止まった。
「よっす」
「こんにちは」
およそ戦場で交わされるものとは思えぬ、軽い挨拶だった。
「野々美つくねちゃん、だっけ?野々美の嬢ちゃんね。俺っちは稲葉白兎。知ってる?ウワサの大泥棒。あ、サインとかいる?メモ帳で良かったらここにあるんだけどさ、なんせこの熱さだからサインペンとかちゃんと書けるかどうか」
「あの」
「俺っちもさー、こんだけ名前が売れてくるとサインの形どうしようかなーとか考えちゃうワケよ。こないだもラーメン屋行ったら有名人のサインとかずらっと飾られててさー、やっべこれサイン求められるパターンじゃん今日何のヤツにするかなってああ俺っちサインの形複数考えてて気分で使い分けんのね、そんでちょっとドキドキしながら待ってたのになーんも言われないワケ!」
「あのですね」
「あったま来たから適当に金目の物盗ってやろうと思ったらなんとビックリVRカードが厨房におきっぱだったのよ、もう盗ってくださいいや盗らなきゃ男がすたるってんでさっさと頂戴してトイレ借りますーなんつって裏口からスタコラサッサしたってワケなのさ、それで今DSSバトルに出られてるんだから不思議なもんだよねー、野々美の嬢ちゃんもそう思うでしょ?思わない?」
《PUT YOUR HANDS》
オスモウドライバーから電子音声が流れ、同時に不可思議な光が投射される。それは輪となり、両者を取り囲むように広がった。野々美つくねは前向きで明るい性格だが、見ず知らずの人間のダベりを長々と聞けるほどに気は長くない。
片手を岩石の足場に付き、稲葉を睨み据える。
「あれ?なんかもう始まる空気?そんな慌てないでさぁ、短気は損気っていうだろ?」
《READY》
有無を言わさず、電子音声が開始を合図を放つ。土俵内において、横綱の技が届かぬ場所はない。4メートル55センチの絶対相撲領域は、対戦相手に取って死の間合いに他ならない。
それでもなお、稲葉の顔から軽薄な笑みが消えることはない。
油断か、慢心か、それとも――
《HAKKI-YOI》
「な……ッ!」
驚愕の声を漏らしたのはつくねであった。ホログラム行司の合図と同時、稲葉は斜め後方へと大跳躍したのである!
「は、反則!ていうか土俵から出てるよ!」
思わず抗議するつくねだが、ホログラム行司は無言で首を振った。
《NO GAME》
「ええっ、そんなあ!?」
然り、これは立ち合い不成立である!そもそも相撲が始まっていない以上、土俵外へ出た所で負けを宣告する(※1)ことはできないのだ!至高の審判者、ホログラム行司たるSHONOSUKEが抱く電子の心臓が仕えるものは神聖たる相撲の法、ただそれだけである!
(※1:DSSバトルの勝敗とは特に関係ありません)
「外ヅラだけ御大層な力士に変身しても、中身はまだまだお子様だね~。なんでわざわざこんな熱い場所で、しかも横綱相手に相撲に付き合わなきゃなんないのさ。俺っちなんか一発でブッ飛ばされるに決まってんじゃん」
跳躍の軌道を赤い曳光がなぞる。『ラピッドラビット』により赤く光った稲葉の目が、呆気に取られた千代の富士の姿を見据える。
横綱の切り替えは素早かった。今度は仕切りの構えから、超高速のぶちかましを繰り出し、一気に距離を詰めにかかる。その速度は逃げの達人たる稲葉をも驚嘆させるものであった。しかし。
「足場が悪いよね~」
正確に言えば、この戦場に地面と呼べる場所はない。地表のすぐ下を轟々と流れる溶岩脈の上を薄くもろい岩々が覆っているだけだ。故に、その安定性とは土俵の上とは比べ物にならぬ。
力士の体重を十全に支える、固く作られた土俵あってこそのぶちかましである。このような不安定な足場では、その威力は常時の半分にも満たない。それでも直撃すれば、戦闘型魔人ではない稲葉なら勝負が付くだろうが、そもそもぶちかましは長距離を移動するものではない。精々土俵内の2,3メートルを突っ切る技なのだ。
見る見るうちに失速し、息をつく横綱。一瞬にすら満たない刹那ののち、稲葉は既に、遥か離れた位置からその様子を悠々と眺めている。
あまりにも速すぎる。
「(……考えろ)」
このままでは到底追い付けない。つくねは一旦足を止め、思考した。
「(稲葉さんの狙いはなんだろう)」
つくねの脳裏に再び数々の戦いの経験がフラッシュバックした。触れさせず、組ませず、躱すことに長けた者とも多く相対してきた。だがそのいずれも、最終的に勝利を収める目的があってこその戦い方だった。
稲葉とて、このまま逃げ続ける訳ではないはずだ。24時間が経過すれば視聴者による判定が行われるが、ただ逃げているだけの稲葉がそこで勝てる保証はない。何らかの策がある、と考えるのが自然である。
冷静さを取り戻したつくねの視界の端で、四畳半ほどの岩島が一つごぽりと音を立ててマグマに呑まれた。
「(……まさか)」
地獄のような熱気の中で、つくねは一筋の冷や汗をかいた。哀れな小島は端を赤黒くとろかせながら、ゆっくりと溶岩の底に消えていく。つくねはそこに自らのイメージを重ねた。
ふと見渡せば、先ほどよりも島の数がやや減っている。岩盤から沸き立つマグマが徐々に嵩を増しているのだ。いずれは、この領域全体が。
「(まさか。あの人は最初からこれを狙って……?)」
そう、すなわちこれこそが稲葉白兎の策。身軽さにかけては右に出る者の居ない逃走の王が選んだ、超消極的戦術!足場が全て溶岩の海に沈むまで逃げ続ける目論見である!
「お?ぼちぼち俺っちの大作戦に気付いた頃かな~」
後頭部で手を組んだ稲葉は、ふらふらと体を前後に揺らしながらつくねの様子を観察している。
彼は軽薄でありこそすれ、その胸の内に油断も慢心もない。いかに素早かろうが、綿密なプランニングを計画・実行できぬ者が逃走王などと呼ばれる所以もない。稲葉白兎は絶対の自信に基づいた余裕を表しているだけだ。
「……ま、気付いた所でお相撲さんじゃ俺っちには追い付けないけどね~」
「親方さん、この状況って……マズくないですか?」
「ああ、マズいな……このままだと野々美くんに勝ち目はない」
親方弦一郎と当真ちはやは、予定通り隣室に備え付けられたモニターでつくねたちの戦いを見守っていた。
様々な角度から試合展開を観察できる彼らは、いち早く稲葉の戦略に気付いていた。
しかしそれがわかっていても、展開を打破する妙案は思い浮かばない。そもそも、相撲取りに鬼ごっこという組み合わせが致命的に悪かった。
「だが、どうにかして……む?」
「あ……!」
二人は同時に声を上げた。戦況に変化が訪れたのだ。
モニターの中で、千代の富士が高々と片足を上げ、振り下ろす。重々しい破壊音と共に岩盤が砕け、マグマが飛び散る。おそらくは精妙な力加減によって、足が溶岩に突っ込むことは避けているようだ。
更に横綱は深く腰を落とし、すり足で歩き始めた。岩の足場がさながら掘削機にかけられたようにガリガリと削れていく。横綱の後ろで、砕けた岩が溶岩に沈んでいく。
「な、なにをしているんだ野々美くん!自ら足場を壊すなど……!自棄を起こしたのか!?」
「……あの子が何をしようとしてるのかは分からないけど。つくねは自分から勝負を投げるようなことだけは絶対にしません」
動揺する親方とは裏腹、ちはやは決然とした口調でそう言った。その目はモニターを真っ直ぐに見据えている。自らの想いを、仮想現実へ届けようとしているかのように。
「あの子が世界チャンピオンになった試合……相手はものすごく強くて、当時のつくねじゃ全然かなわないように見えて……見てる方がもう止めてって思うぐらいボロボロになって、それでも諦めなかったんです。それで、最終ラウンドももう終わるってタイミングで、すごいパンチがつくねの顔面に入って……多分、相手の人もそれで勝ったと思ったんです。私も終わったって……でも、つくねはその隙を突いて関節技に持ち込んで、残り2秒で大逆転したんです」
「当真くん……」
「つくねは、絶対に諦めません」
「……そうだな、すまない。私こそが彼女を信頼しなければならないというのに」
親方は再びモニターを見た。破壊行為は粛々と続けられていた。
それは戦場の外周を沿う形で行われており――
「……これは、もしや……そうか、野々美くんの狙いがわかったぞ!」
「本当ですか親方さん!?」
「ああ、私の考えが正しければ――」
おおよそ10分ほど経っただろうか。
稲葉はウエストポーチから取り出したペットボトルの飲料水で喉を潤しながら、延々と破壊活動を続ける横綱の姿を見守っている。
元々マグマの露出した地帯も多いとはいえ、2キロ四方の面積を怒涛の勢いで耕す横綱のパワーとスタミナには驚かされる。が、それが何になるのかという疑問に対しては、稲葉も答えを出せずにいた。ただただ自分の首を絞めているようにしか思えない。
「おっ、と」
立っていた足場が沈みかかり、稲葉は素早く次の足場へ跳躍した。一帯には細かく砕けた岩が残されているが、もうじき全て煮えたぎる赤泥の中に沈むだろう。残っている足場で一番大きいのは、つくねが壊し続けている中央の台地だ。それも今や、直径にして15メートルもない。
円状に残された岩の上で、四股やすり足を繰り返す力士の姿を見ていると、まるでそこが――
「……土俵」
そこで稲葉も、つくねの狙いに気が付いた。大きな足場を残してその他を沈めていけば、必然最後には一対一で向き合うことになる。そこで勝負を賭けようという腹積もりなのだろう。
しかしまだ沈み切っていない、小さな足場も沢山残っている。稲葉の見立てでは、それら小さな足場が全て溶け去るのが先か、中央の足場が沈むのが先かは五分五分である。
いずれにせよ、これで決着の時は相当に早まった。このような過酷な環境下で24時間を過ごさなくてもよくなったという点では、幸運と言えるかもしれない。
「んん……?」
稲葉は怪訝な声を漏らした。戦場中央のつくねの様子がおかしい。先ほどまで確かに横綱が稽古していたのが、いつの間にか戦闘開始直後に見た、あの女子高生の姿に戻っている。そしてその手には、腰から外された白いベルトが握られている。オスモウドライバー。
「ああ、なるほどね~」
彼はすぐにその意図を理解した。挑発である。彼女が望む戦いそのものを虚仮にされ続けていたことが、そうとう癪に触っているのだろう。戦闘開始前のあの立ち合いの時点から、もう一度やり直してみせようというのだ。
「誰がそんな挑発に……と言いつつ乗っちゃう俺っちなのでした」
空中に赤い線を引きながら、稲葉は軽やかに浮石を飛び渡り、つくねの待つ中央島に音もなく着地した。離れ小島にいればどちらが先に沈むかはもはや運次第である。だが同じ地点にいれば、灼熱の海に沈むのは重厚な肉を纏った横綱が先だ。
なにより『逃走王』の名は稲葉にとって譲れぬ肩書、プライドである。二人の立つ足場はいまや直径5メートルほどにまで削れていたが、己ならばこの小さな円の中でも逃げ切れるという自負があった。
「やっと来てくれましたね。丁度体があったまってきたところなんです」
「そりゃーよかったねぇ。俺っちもレディを待たせるのは心が痛むっていうか?良心の呵責ってヤツかな?まあそんな感じなんだよね」
「適当だなぁ」
つくねは苦笑した。その緩みが恐らく意図して作られたものであることを、稲葉は直感的に見抜いていた。ホログラム行司が再び戦いの鬨を告げる。
《PUT YOUR……》
だが関係ない。相手が誰であろうと、状況が何であろうと、稲葉白兎は正々堂々逃げ回る。
たん、と軽い音を立て、稲葉が跳躍した。
「上……!?」
思考が思わず声に出た。驚くべきジャンプ力でつくねの上空へ飛んだ稲葉は、そのまま何の工夫もなく落下してくる。
ほとんどの生物に取り、頭上は反撃困難な死角である。しかし、放物線を描いて落ちてくる物体を捉えることは、つくねの技量であれば難しくない。落下地点を予測して対処できるからだ。
「……あれ?」
違和感を覚えた。稲葉の目が、赤くなっていない。あるいはそれに気付くのがもう数瞬早ければ、何らかの反応を取ることができただろうか。
「う、わ」
『ラピッドラビット』は物理法則をもねじ曲げる。ニュートン力学もまた例外ではない。宙空で何の推進力も持たぬまま、稲葉の瞳が赤く輝くと同時、その落下速度が突如加速した。
咄嗟に捕まえに行くつくね。だが稲葉は巧みに体を反転させ、するりとその手を逃れる。天地逆転の体勢から、一瞬の急加速、そして着地寸前に能力解除。地を蹴って間合いを離した時には、再び赤の光がその目に灯っている。
すでにつくねから数歩離れて正面に立つ、その手に握られていたのは、まぎれもなく先ほどまで彼女の手の内にあったはずの……オスモウドライバー。
つくねは驚愕ののち、奪われると同時に代わりに握らされていた小さな紙片に気が付いた。メモ用紙の端に、拙い筆記文字でこう書かれている。
『稲葉白兎』『逃走王』……そして『大泥棒』。
「俺っちのもう一つの肩書も、忘れてもらっちゃあ困るんだよなあ。だから、約束通りそのサインはプレゼントだ!お友達に自慢しちゃっていいぜ」
瞬きひとつでもすれば見逃しかねない、驚天動地の早業であった。こと空中制動において、稲葉はつくねの予想の遥か先を行っていた。
「さて、どうしようかね、これは。VR空間だし、別にマグマの中に放り込んだって惜しくはないんだけど〜」
「な……返して!」
「……残念!俺っちの高貴な知的好奇心は、誰にも止められないのでした!」
そう言い放つと、稲葉は戦利品のベルトを己の腰に装着した。つくねがかつて彼に披露して見せたように。果たしてその目論見通り、エンブレムから伸びた白布が稲葉の股下を「んふッ」くぐると、白い輝きと共に超常の存在への変身プロセスが始まった。
だが、そこから先の光景は、彼が想像していたものとはいくばくか異なっていた。
「……見えたか?」
ぞっとするほど冷ややかな暗闇の中、小柄な影は問いかける。その傍に腰を落とすもう一人、細身の影がそれに答えた。
「ええ、そりゃもう。オスモウレセプターの『拒絶反応』……小ぃさな原子核の素粒子の、そのまた毛穴まで、バッチリ捕らえたわよぉ」
虚空につんざく稲光が、一閃、その者らの奇妙な姿を闇の中に青白く照らした。低く腰を落とした姿勢ながら、尻は力強く中空にある。
そこは土俵である。たとえ深き休息のさなかであろうとも、二本の足以外が触れることを決して許しはしないのだ。
しかし何より奇妙なシルエットをしているのは、無数の配線を縦横無尽につなげられた彼らの頭部である。その網膜には、形而上の距離という概念からすらも遠く離れた仮想空間が映し出されている。すなわち、いままさに行われている野々美つくねと稲葉白兎との戦いのさま――ディスプレイなどという貧弱な装置が切り取る虚像では決して覗き込めない、究極演算された物理現象そのものを、彼らは観測しているのだ。
「あの兎小僧、初戦にしても力不足がすぎるかと思ったが、なかなか役に立ってくれる」
「ええ。DSSバトル……わざわざ潜り込んだ甲斐があったわぁ。オスモウドライバー。人から人へ、肉から肉へ、力を受け継ぐそのプロセス。選ばれし『適合者』の正体。その源を我らが手にする瞬間は、すぐそこに……!」
二つの影の後方。氷のようにひりつく威厳を纏った車椅子の老人は、しわがれた声で誰に言うとでもなく呟いた。
「すべては、計画通り順調に進んでいる。順調にな」
「なん……だこりゃあ!?」
稲葉は驚愕に叫ぶ。その両足が、虚空から生成された肉の粒子によって覆われようとしていた。だがそれは筋骨隆々、脂肪飽満たる力士のものではない。病弱なほど青白い色をした胞子球状の肉片が、沸騰するマグマのように湧いてははじけ、はじけては湧きながら足先から這い上っているのだ。
「おい……やべえだろこれ!なあ!」
《ERROR》《ERROR》《ERROR》《ERROR》《ERROR》
ホログラム行司の答えは無慈悲な悲鳴のみ。
「ちく……しょうッ!!」
一瞬、赤い閃光が鋭くきらめいたのち、そこには蒸発するように形を失っていく奇怪な肉片だけが残されていた。稲葉白兎は、彼の手の内に戻ったオスモウドライバーと共に、数歩ほど離れた地点で荒く息をついていた。
『ラピッドラビット』。素肌に触れていなかったことが幸いした。時間の法則を超越するほどの高速移動が、呪われた肉の鎧とその根源たるベルトを一瞬で脱ぎ捨てることを可能にしたのだ。
「ハァ……やっべえよ……こんな超危険な代物とはなあ……俺っちの手にゃちょいっと余っちまうよなあ」
彼は己が握る白のベルトを憎々しげににらんで言った。そしてためらいなく、それを自身の背後、灼熱の溶岩の海へと投げ捨てたのだ。
「だから、やっぱりこうだ。もうちっとも惜しくなんてないぜ」
つくねはその光景の一部始終を見ていた。稲葉の加速されたスピードとは対照的に、鈍化した時間感覚の中、投げ放たれたベルトがスローモーションのように宙を舞っている姿を見た。
つくねはその神秘のアーティファクトを恐れた。忌まわしい奇怪現象で稲葉を襲ったがゆえに?否、それよりもむしろ――自分が、なにか自分の手にはとても収まりきらない強大な力そのものを握らされているような感覚に襲われたのだ。
だが、この力で大切な人たちを守ると誓った以上、できることはひとつ――信じることだ。父を。母を。友達を。新たな助けを差し伸べてくれた親方を。そして――説明書を!
「――来い!オスモウドライバー!!」
その一言を契機に、宙を舞うオスモウドライバーから一本の光が射出される。光はつくねとオスモウドライバーとを一本に繋ぎ、互いに引き寄せられるように一体となった!そしてベルトのエンブレムから伸びた布がつくねの股下を潜り……「んぅッ……」まわしが完成する!
「……変身ッ!」
トトン!トトトントトン!トトン!トントン!トトン!トントトン!
NHK相撲中継のオープニングでお馴染みの寄せ太鼓の音が、どこからともなく響いてくる。
発光する不可思議な粒子がつくねを包み込み、その肉体と結合していく。
閃光。マグマの熱をも切り裂く白く鋭い輝きが戦場を満たす。
そして次の瞬間には、威風堂々たる横綱が溶岩地帯に降臨していた!
《MODE:SHIRANUI》《HARUMAFUJI》
《はるまぁあ~~ふぅじぃい~~~》
「ここがお前の土俵際だ!」
「あれは……日馬富士!」
控室で見守る親方が吠えた。
「新たなリキシフォーム……この土壇場で、ものにしてみせたのか!」
「ええっ……新たな?って、また、さっきと同じ、お相撲さんになったみたいですけど」
ちはやは、やや困惑しながら問いかけた。親方は首を振った。
「何を言うんだ、ぜんぜん違うじゃないか。まず、どう見ても土俵入りの型が違うだろう?千代の富士は左手を胸に置いて右手を空に掲げる雲龍型で、それに対し日馬富士は両手を伸ばす不知火型だ。ぜんぜん違う」
「なるほど~」
ちはやは曖昧にうなずいた。
「日馬富士は幕内の中でも一二を争う、軽量級の横綱なんだ。流石だ、野々美つくね。君はいつだって、僕の想像を軽々と越えてくれる――」
《PUT YOUR HANDS》
オスモウドライバーから電子音声が流れ、同時に不可思議な光が投射される。それは輪となり、両者を取り囲むように広がった。
「やっべ」
構えを取った日馬富士は、千代の富士とはまた異なるプレッシャーを放っていた。じわりと広がり、押し潰すような圧力の千代の富士に対し、日馬富士は抜き身の刀を首元に突きつけられているような、剣呑な闘気である。
稲葉は先ほど見たぶちかましの速度を脳内で再生した。跳んでかわす時間は?その前に、着地すべき足場を探す時間はあるか?
……ある。稲葉白兎なら、逃走王ならそれができる。一瞬で足場の確認を終え、『ラピッドラビット』を発動。反応させる間も無く跳
「え?」
足を掴まれていた。
一瞬横綱の体が音もなく消え、気付いた時にはもう間合いの内だった。あたかも瞬間移動の如き、異次元の立ち会い速度。
それこそが日馬富士最大の武器であった。幕内力士の平均体重が約165キロであるのに対し、日馬富士の体重はおよそ137キロ。30キロ近い体重差をものともせず、日馬富士はその強靭な足腰と優れた敏捷性、そして何にも負けぬ強い気持ちで勝ち星の山を築き、都合九度賜杯を手にした。
この軽量故に、日馬富士は溶岩の足場でもほとんど力をロスすることなく、瞬間移動めいた踏み込みを実現したのである。それこそが刹那の支配者たる『逃走王』稲葉白兎から希少な一瞬を奪い取ったのだ。
「ヤバいヤバいヤバいヤバい!!」
最早焦りを自らの内に留めることもできず、稲葉はやたらめったらに叫びながら全力の抵抗を試みた。しかし、日馬富士の握力は稲葉の足首を万力のように掴んで離さない。
そも、空中に居るところを腰を抱えられるように捕まえられた為に、地面に足すら着いていない。ただでさえ圧倒的な膂力と体重の差があるというのに、この体勢そのものが死の宣告にも等しかった。
「(ヤバいヤバい考えろ俺っち!何かあるどうにかできる逃走王なら何とかできる!保険に用意してた岩石入りのペットボトルで殴る!?絶対止まんねえよコレ背中しか殴れねえし!溶岩に放り投げて足場にでも…ムリ!そもそも掴まれてるからジャンプできねぇ!できても二人分の体重じゃ絶対沈む!クソおい何する気だよ止めろバカおい止せっておい死ぬ気かバカバカバカ!」
最後の方は言葉に出ていた。日馬富士は稲葉を抱えたまま、土俵外へ……溶岩の海へと倒れこもうとしている。仮想現実といえど感覚は本物同然。勝利の為ならば火の海にも平然と身を投げ出す、狂気の寄り倒し――稲葉の時間が鈍化する。一秒が極限まで圧縮され、死の危険を現実のものと認識した脳髄がかつてない勢いで超回転する。
「(考えろ考えろ考えろ俺っちは逃走王だいつだってどこだって誰からだって逃げてきた!これまでもこれからも俺っちは永遠に逃げ続ける!今日この場だってそうだ!絶対逃げ場はあるどこかにある考えろ考えろ考えろ――)」
……『逃走王』の名は伊達ではなかった。逃げることだけの為に半生を費やした彼の頭脳は、絶体絶命のピンチにあっても無数の逃走経路の可能性を探っていた。そして灼熱のマグマに彼の背が飲み込まれる寸前――
「あ」
稲葉は、その逃亡先に思い当たった。間髪入れず、思い切り息を吸い込む。
高熱の空気が肺を焦がすが、そんなことはどうでもいい。その声が、誰の耳にも届くように。あらん限りの力で叫ぶ。
「参ったああああああああああああ!!!!!」
……圧縮された時間は限界点を迎え、その瞬間、時が止まった。試合を観ていた誰もが――野々美つくねまでもが――例外なく凍り付いた。
戦場の二者に取り、これは比喩ではなかった。稲葉とつくねは、空中で停止している。
つくねには知る由もないが、C3ステーションの運営に詳しい者であれば、棄権の意志を示したことで空間上の時間が止まり、勝負の判定を行っていることに気付くだろう。そして。
『稲葉白兎選手の降参を確認しました。よって第1ラウンド第8試合は、野々美つくね選手の勝利となります』
無機質な電子音声が、淡々とつくねの勝利を宣言した。
即座に現実世界への転送が始まる。仮想肉体が黄金の泡に分解されゆく中、つくねは最後に、稲葉のどうだと言わんばかりの満面の笑顔を見た。
「すっごーい!初勝利おめでとう、つくね!」
「いやはや、ひやりとする場面はあったが、さすがだ!野々美くん、君は……」
無事に意識を取り戻したつくねは、応援の二人に盛大な称賛を受けていた。ここはまぎれもなく現実の、選手控室だ。
だがその顔には、本来あるべき勝利を掴んだことによる興奮や安堵といった感情は欠片も見出せなかった。むしろ眉間に皺を寄せて唇を結んだ表情は、ひどく悔しがっているように見える。親方とちはやは互いに顔を見合わせた。
「あー!もおー!くーやーしーいー!結局最後まで逃げられたあー!」
「……何?」
呆気に取られる親方に、つくねは詰め寄った。
「親方さん!あたしぜんぜん満足してないです!もっとちゃんと戦いたい!!」
「ね、親方さん。バカでしょこの子」
「あー!バカって言う方がバカなんですぅー!」
「はは……」
親方は、ずれたサングラスの位置を直しながら、乾いた笑いを浮かべた。あれほどの強敵とあれほどの死闘を演じておきながら、彼女の闘争心を満たすにはまだ足りないというのか。
稲葉白兎はまぎれもなく大泥棒だ。最後の最後に、彼女にとっての大切な宝物、勝利の喜びを奪い去ってしまったのだから。
「……野々美つくね。君は本当にいつだって、僕の想像を超えていってしまうよ」
第1ラウンド第8試合結果
●稲葉白兎-野々美つくね○
決まり手:稲葉白兎の棄権