第2ラウンドSS・学校その2

【前回までの取組】

(ナレーション)
オスモウドライバーとして日々悪を討つ女子高生、野々美つくね。
ある時彼女の元へ謎の差出人からDSSバトルへの招待状、VRカードが届く。
国暗協の罠を疑いながらもこれに参加したつくねは、一回戦の相手である稲葉白兎の逃げ足に苦しめられながらもなんとかこれを降す。
次なる相手は精神感応能力を持つ魔人、ミルカ・シュガーポット!
果たしてつくねは、自らの相撲を貫くことができるのか!?


「……熱い!」

「へぇ~~、あれがオスモウドライバーかぁ。このクソ暑いのにわざわざ自分から肉ダルマんなってご苦労なこったね」

「は、反則!ていうか土俵から出てるよ!」
《NO GAME》
「ええっ、そんなあ!?」

「(まさか。あの人は最初からこれを狙って……?)」
「……ま、気付いた所でお相撲さんじゃ俺っちには追い付けないけどね~」

「な、なにをしているんだ野々美くん!自ら足場を壊すなど……!」
「……つくねは自分から勝負を投げるようなことだけは絶対にしません」

「俺っちのもう一つの肩書も、忘れてもらっちゃあ困るんだよなあ」
「な……返して!」
「……残念!俺っちの高貴な知的好奇心は、誰にも止められないのでした!」

「すべては、計画通り順調に進んでいる。順調にな」

「ハァ……やっべえよ……こんな超危険な代物とはなあ……俺っちの手にゃちょいっと余っちまうよなあ」

「――来い!オスモウドライバー!!」
「……変身ッ!」

「ここがお前の土俵際だ!」

「ヤバいヤバいヤバいヤバい!!」
「あ」
「参ったああああああああああああ!!!!!」

「……野々美つくね。君は本当にいつだって、僕の想像を超えていってしまうよ」






「ねえ、蓬莱(よもぎ)

 誰もが知る美少女MCとしての可憐な装いとはうって変わって地味な部屋着のまま、ミルカ・シュガーポットは同居人へと話しかける。

「……私、一人でも大丈夫だよ。もう弱音なんて吐かない。次の試合だって、蓬莱がいなくても、きっとうまくやってみせるから」

 それを聞いた篠原蓬莱は、飲みかけのコーヒーカップを持ったまま、心底何を言っているかわからないといった風に、きょとんとした顔で答えた。

「……冗談ですか?」

 ミルカは腫れ物に触れるような、ある種の危うさを感じながらも続けた。

「冗談なんかじゃないよ。私一人だって十分に戦える。だからもう……」
「いいえ。冗談でしょう。だって……」

 蓬莱は動かなかった。だが、その手の内のカップから這いだすものがあった。黒褐色のコーヒーよりもなお黒く地虫のように細長い影が、鞭を振るように一瞬でミルカの首へと巻き付いた。

「……ミルカさん、こんなに弱いのに」

 呼気が絞り出される。首の肉がきしむ。

「ッ……!」
「これからもっともっと、怖い人といっぱい戦わないといけないんですよ?きっと私よりもずっと強い人。たとえばこの子だったら、ミルカさん相手なら、10秒であとかたもなく殺せちゃいます。そうですね、まずこうやって、全身の……」

 そこで蓬莱は二度瞬きをすると、たった今気づいたかのように影の拘束を解いた。

「……また失敗しちゃうところでした。VRじゃないから、壊したら元に戻りませんね」

 ミルカは尻もちをつき、激しくせき込んだ。そして目の前に座る少女を見た。澄んだ瞳。あどけなく、一切の罪悪感のない顔。まぎれもなく、信頼する友達へと向ける表情である。だがふとすればこの少女はその表情を崩さぬまま、彼女が予告したその行為を一切のためらいなくやってのけてしまうだろう。そして、後悔するだろう。

「……ガ、ゲホッ……」

 そしてそれはミルカにとっても同じだ。彼女は、篠原蓬莱は、友達なのだ。
そしてミルカは今、友達のために戦おうとしている。彼女が「こう」なってしまった原因そのものを、過去から消し去るために。彼女と数日の時を過ごすにつれて、その思いはより強くなっていった。

 本当は、戦いたくはない。だがそれ以上に蓬莱に戦わせたくはなかった。彼女に能力をこれ以上使わせてはいけないという直感があった。蓬莱の精神がこれ以上影よりも暗い闇に塗りつぶされてしまう予感を、ミルカは信じたくなかった。
 蓬莱以外の別の協力者と共に戦うことも考えた。何人か宛てはある。しかし、それが蓬莱の知るところになれば、彼女はその人たちをも殺してしまいかねないだろう。

「……ケホッ、わ、わかった。……ありがとう。一人で行くなんて言ってごめん。一緒に戦おう」
「ええ。一緒にがんばりましょう」

 蓬莱から笑顔で差し出された手をミルカは握った。そしてふと不吉な考えが頭をよぎった。
 もし過去を改竄し、蓬莱の人格を矯正できたとしたら。そのときの蓬莱は、ここでミルカに屈託のない笑顔を向ける蓬莱と同じ人間なのか?
 私は今ここにいる蓬莱を、大切な友達を、消し去ろうとしているのではないか?

 ……ミルカは首を振ってその考えを虚空に押しやった。ミルカ・シュガーポットは世界一のエンターテイナーで、世界一のMCだ。傍らにいるゲストを最高に輝かせる、その力が自分にはある。篠原蓬莱を、最高に可愛い「ただ普通の」女の子にしてみせる。

「行こう、蓬莱。どんなことをしても、勝とう」

 友達を守るため。友達を壊すため。ミルカ・シュガーポットは友達と共に戦う。






 小学校3年生の、春のことだったと思う。
 ある日先生から、自分の名前の由来について聞いてくる、という宿題が出た。

「おい肉だんご、おまえ、こんどの宿題どうすんだー?」
「……」

 クラスのいじわるな男子の言葉に、あたしはうつむいて黙りこくるしかなかった。
 『つくね』なんて名前を付けられたばかりに、あたしのあだ名はすっかり肉だんごで定着していた。
 体育が好きで、女子より男子と遊ぶことの方が多かった子どもだったけど、自分の名前のことになると、口が貝になったみたいに何の反論も出てこなかった。
 きっと自分でも、この名前を変だと思っていたからだったと思う。

「ちゃんとうちで聞いてこいよ!どうせ寄せ鍋が好きだからとか、そんなこったろうけどさ!」
「ちょっと男子!つくねちゃんいじめるんじゃないわよ!」
「……うるさい!バカ!ちんこもげろ!」
「うわっ……おいやめろって、ごふっ!?」
「せんせー!つくねちゃんがまたケンカしてまーす!」

 こんな調子で、大抵いつも我慢の限界が来てケンカになる。
 本当はみんなと仲良くしたいのに、こんな名前を付けられたばっかりにそれもできない。幼稚園の頃からずっとだ。

 その夜、あたしはうちでビールを飲みながら相撲中継を見ていた父に、積もりに積もった自分の思いの丈をぶつけた。

「父ちゃん!なんであたし、つくねなんて変な名前なの!?」

 父はたぶん、虚を突かれたような顔をしていた。記憶の中の父の顔は、いつもぼんやりと霞がかかっていて輪郭もはっきりとしない。そのことが、なんだか無性に悲しく感じる。

 父はどう答えたものかという様子で頬を掻くと、きっと冗談のつもりでこう言った。

「そうだなぁ、父ちゃん寄せ鍋が好きで、特につくねが好物なんだ。美味しいだろう、あれ」
「父ちゃんのバカ!」

 あたしはとっさに、空になったビール瓶を掴んで父ちゃんに殴りかかっていた。たぶん泣いていたと思う。
 今にしてみれば他愛のない冗談だけれど、当時9歳のあたしには重すぎるジョークだった。
 よりにもよっていじわる男子のからかい文句と同じ言葉が、実の父親の口から出るなんて思ってもみなかった。

「痛った!ごめん!ごめんてつくね!おまえの名前にはちゃんとした……痛っ!ちょっ脛はやめて脛は!」
「うるさい!バカ!きんたまとれろ!」
「女の子がそんなこと言っちゃいけません!」

 こんなすったもんだが続いて、あたしは泣くのと叩くのと叫ぶのですっかり体力を消耗し、父は股間を強打された影響でしばらく動けなくなって、二人がある程度の落ち着きを取り戻した頃だった。
 父は……ちゃんと思い出せないから推測になるけど……真面目な顔であたしの頭を撫でながら、真面目な声で言った。

「いいかつくね、おまえの名前にはちゃんと意味があるんだ。おまえは産まれた時は未熟児……つまりすごく小さくてな、なにか障害が残る可能性があって、難しい漢字より簡単に書ける方がいいと思って平仮名にしたんだ」

 父は卓上のメモを一枚破り、さらさらと文字を書いて見せた。

「これがお前の名前だ。もう学校で習ったか?この漢字の意味はな――」







 なぜ今、急にこんなことを思い出したのだろう。これが噂に聞くVR酔い?いや、きっと今いるこの環境のにおい、手触り、そういったものが意識の深い地層にうずもれていた思い出をいたずらに掘りかえしたのだろう。
 つくねは仮想現実空間に編まれた小学校の校庭から、虚像の校舎を見上げていた。それはつくねが通う高校よりも、そして小学生のころの記憶に残るそれよりもずっと小さかった。まるで自分が小人の国に迷い込んだ巨人になったような錯覚すら覚えた。

「……よし!」

 つくねは気合一閃、己の両頬をはたいた。感傷やノスタルジーなどといったものは自分の性に合うところではない。
 まずはミルカの、そして篠原蓬莱の姿を探そう。近付かなければ相撲は取れない。つくねは迷いのない足取りで、正面入り口のドアを潜った。







 ――その直前。つくねがVR空間にダイブする、およそ5分前のことである。
 親方弦一郎と当真ちはやは、一回戦と同じく隣にある控室に腰を据え、開戦の時を待っていた。
 どちらもやや緊張した面持ちであるが、特にちはやはそわそわと体を動かし、見るからに落ち着きのない様子だ。

「……親方さん、今回の相手、つくねは勝てるでしょうか」
「うむ……難しい戦いになることは間違いないだろう。相手は2人、コンビネーションも隙が無い。だが野々美くんが自分の相撲を取れば、決して遅れを取ることはないと、私は信じているよ」
「……そうですね、そうですよね。私たちがつくねを信じないと」

 ちはやは自分に言い聞かせるように呟いた。奇しくもそれは、一回戦の只中で親方が自戒した文句でもある。
 無理からぬことであろう。一回戦を見る限り、ミルカ・シュガーポット……というより、その相方の篠原蓬莱はつくねと極めて相性の悪い魔人である。複数の敵性存在を使役し、遠距離から一方的にアドバンテージを握れる能力。距離を詰めなければ話にならないつくねにとっては、もっとも避けたい相手の一人だった。

 だが、勝機は必ずある。少なくとも親方はそう信じていた。つくねの稽古量と才能、相撲への情熱を信じていた。ちはやもまた、親友の勝利を願い、両の手をぎゅっと握りしめた。

 高まる緊張の中、不意のノックの音が控室に響いた。親方は咄嗟に時計を見る。試合開始まであと3分。こんな時間に誰が――

「失礼します」

 一拍の間を置き、入室してきたのは一人の少女である。
 黒い帽子に黒縁眼鏡をかけていて、すらりと背が高い。
 整った容姿だが、装いの落ち着きに反して幼い顔つきで、それがかえってアンバランスな魅力を醸している。

「……あら?野々美つくねさんは、こちらにはいらっしゃらないんですか?」
「失礼だが、どちら様かな?」

 親方はそれとなく立ち上がりながら少女に尋ねた。その顔に既視感を覚える。ごく最近、どこかで見たような。
 ちはやは困惑したように親方と少女を交互に見ている。

「ああ……失礼しました。まず名を名乗るべきですよね」

 少女は困ったように笑った。右頬のえくぼがよく目立つ、華やいだ笑顔。それは映像の中で見た、一回戦の。

「君は……」
「篠原蓬莱と申します」

 少女が自己紹介を終えるのと、彼女の身体から出でた影が親方に躍りかかるのは、ほぼ同時であった――










 一階の探索を空振りに終えたつくねが、続いて二階へその足を伸ばした直後から、その攻撃は始まった。
 10メートルほど先のリノリウムの床に、つくねの膝ぐらいの高さの黒い三角錐が突き出ていた。よく観察すると、床との接地面からは影の波紋が広がっている。
 つくねはぐっと腰を落として警戒した。既に変身は完了している。今は、この校舎全体が彼女の土俵だ。
 三角錐が動いた。あたかも床をかき分けるように、しかし影の波紋以外の痕跡は一切残さず、まっすぐこちらへ向かってくる。
 その動きには見覚えがあった。昔に見た、海洋パニック映画の傑作……より分かりやすく言うなら、サメ映画において。

 三角錐が跳ね上がると同時、その下にあった黒い巨体がつくねへと襲いかかった。影で構成された、巨大なサメだ!

「No.9『SHARK』」

 廊下の反対側……ざっと60メートル先に陣取った篠原蓬莱が呟く。
 野々美つくねが小細工を弄するタイプでないことは一回戦で把握していたが、こんな見通しのいい場所にのこのことやって来るとは。よほど横綱の力に自信があるのか、単になにも考えていないのか。

「校舎に入って来ないなら来ないで策を打っていましたが……手間が省けましたね。No.13『WOLF』」

 横綱のぶちかましによって跳ね上げられた巨大サメを眺めながら、蓬莱はまるで動揺することなく次の影を送り込む。この程度は想定内。だからこそ十重二十重に罠を張る。

 吹き飛ばしたサメが再び廊下へ潜ると同時に、今度はその後ろから狼のような影が駆けてくる。かなりの速さ。しかしつくねは前へ進むしかない。『押さば押せ、引かば押せ』――相撲の神髄は前進することにこそある。

《PUT YOUR HANDS》

 ホログラム行司が今日二度目の立ち合いを告げる。手を付き、再びぶちかましを繰り出さんとした瞬間。

「No.6『UNDEAD』」

 窓であった。蓬莱の合図と共に、逆さ吊りになった躯の兵が、影の銃を一斉射撃する。黒い砲火と弾丸が漆黒の銃口から放たれ、窓ガラスを破壊しながら掲示物や教室のドアをハチの巣に変えた。
 つくねは咄嗟の判断で、普段より更に低く踏み込んだ。斜度の関係で、兵たちの射線には一定の死角が存在する。横綱の慧眼は瞬時にしてそれを見切り、弾丸の当たらぬルートを導き出したのである。
 狙い済まされたぶちかましは、狙いあやまたず巨狼のあぎとをかち上げるかに見えた。

   (……やーい、肉だんご!)
         (学校くんな!めーわくなんだよ!)

「……な!?」

 その一瞬、つくねの意識はブラックアウトしていた。
 なにか心の中に澱のように淀んでいた嫌なイメージが、つくねの意識を黒く塗りつぶして縛り付けたような感覚があった。気づいた時には、黒い影の牙はすでに目前にまで迫っていた。

「くぅ……ッ!」

 間一髪、獣の首元を掴んで攻撃を防いだ。鼻先で狂猛な牙がガチガチと嚙み合わされ、黒い涎が飛ぶ。
 つくねは掴んでいる右手を上に、左手を下に捻り、強引に左側へと捻じった。徳利投げ……古くはその手の形から合掌捻りとも呼び称されたこの技は、完全に決まると体重差を無に帰すほどの威力を誇る。

 宙吊りの兵が放とうとしていた第二射は、ぶん投げられた狼の巨体によって防がれた。そのまま兵を巻き込み、狼は地上へ墜落した。
 つくねが前に向き直るが早いか、真下からの殺気。

「う、わああ!」

 ギリギリのタイミングで、跳び箱を跳ぶように下から突き出てきたサメの急襲を躱す。息を付く間もなく、蓬莱は次の手を放っている。

「No.1『SPIDER』。No.2『HORNET』。No.4『BUTTERFLY』。No.5『WORM』」

 廊下の端が暗黒で染まっている。無数の影の軍勢が蓬莱の体から湧き出て、床を、壁を、空間を埋め尽くしている。

      (この暴力女!ゴリラ!てっちゃんにあやまれよ!)
    (おまえほんとに女かー?ちんちん付いてんじゃねーの?)

「ハァ……うっ、ぐ、ハァ……ッ!」

 まただ。またあの負のイメージ。記憶の底に溜まった汚泥を、顔面にぶつけられているような不快感。

      (せんせー、またつくねちゃんが乱暴しましたー)
   (うわ、あっぶねー!近づくと殴られるぞー!)

 つくねは吐き気をこらえた。折れそうな心に喝を入れた。自分の顔は汚れても、横綱の顔を汚す真似だけはできない。
 顔を上げる。前を向く。前へ。いかなる強敵も、絶望も、恥辱も、この足を止める理由にはならない。








「よし、想像以上にうまくいっているみたい……!」

 戦闘が行われている廊下からやや離れた教室の隅で、ミルカ・シュガーポットは二人の戦いを見守りながら呟いた。誰あろう、戦闘中のつくねに負のイメージを押し付けている張本人である。戦闘の状況は、蓬莱に持たせたカメラを経由してリアルタイムで把握できる。
 『公共伝播』。対象の意識をほんの少しだけ上書きする、ささいな能力。しかしミルカが対象に伝えられるのは明確なビジョンを伴う具体的な事象だけではない。とくにこのような「小学校」という舞台装置が与えられていれば、『孤独感』という抽象的な観念でも対象の中で潜在的記憶と結びついてごく個人的なイメージを結実する。その痛みは、ミルカが想定したよりも効果的につくねの意識をむしばみ続けた。

「……」

 そしてその痛みはとりもなおさず、ミルカ本人も共有している。ミルカが『放送』しているその孤独感は、同じく幼少期の篠原蓬莱、彼女自身が育ててきたものである。化物と呼ばれ、疎まれ、そして実の兄からも拒絶された。いままで自分が生きていた中で視た、もっとも暗く悲しいイメージだった。共に時を過ごす中で、彼女の闇を受け止めながら、ミルカはそれを己の武器として昇華するまでに至った。

 ミルカ・シュガーポットは、篠原蓬莱と共に戦っている。彼女のために、彼女を利用しながら。







 野々美つくねは、幼いころ、感情を制御するのが苦手だった。不満があったり、馬鹿にされたりすると、すぐに手が出てしまう。両親や教師はそんなつくねに手を焼いた。同級生からは「暴力女」と呼ばれからかわれた。

  (おれ知ってる!おまえみたいなヤツのことケダモノっていうんだぜ!)
  (ケダモノだ!ケダモノの肉だんご!)

 格闘技を習い始めてから、そのような突発的な衝動は上手に抑えられるようになっていった。しかし、つくねの心中にその孤独感、疎外感、周りから異質だとみなされるあの嫌な感覚はずっと静かに残り続けていた。
 息ができなくなる。目の前が暗くなる。幾度となくよみがえるその感覚が、つくねの動きを阻害する。

 しかしそれでも、いかに緩慢であろうとも、つくねは進むことを止めない。
 影でできた虫が全身を食み、毒針を突き刺し、鱗粉が目を覆い、長虫が足に絡みついても、決して歩みを止めない。たまに跳ねてくるサメを張り手で弾き飛ばす。
 じっと腰を落とし、両腕を畳んで脇を締め、基本に忠実なすり足で彼我の距離を詰める。
 オスモウ粒子で構成されたリキシ体であろうとも、これほどの攻勢に晒されて無傷である道理はない。あちこちが食い破られ、一部では『中身』であるつくね自身の肉体までもが露出する有様であった。

「(……何なんでしょう、この娘は)」

 マネキンのように無表情であった蓬莱の表情が、僅かに曇りつつあった。
 愚行とも言うべき身を賭した前進が、自分自身でも自覚できぬまま、少しずつ少女の心を揺り動かしていた。
 その原因の一つが、蓬莱の守るべき友たるミルカ・シュガーポットの能力にあることも、まだ彼女は気付いていない。蓬莱もまた、ミルカのゲリラ放送に心を揺り動かされているのだ。

「(なんでこの状況で、そんなにも)」

 折り畳まれた両手で、横綱の顔はほとんどが隠れている。黒い嵐の只中、その表情を見極めるのは困難であったが。
 ほんの一瞬、偶然できた嵐の切れ目に、蓬莱は確かに力士の笑みを見た。

「なんで、そんなに楽しそうなんですか」

 野々美つくねが非才であると主張したとして、同意する人間はほとんど皆無だろう。
 史上最年少でUFB王者となった彼女を天才、神童と褒め称える言がありこそすれ、非才などとは。

 然り、彼女は天才と呼ばれるべき人間である。だがそれは、世間が思うほどに簡単な才能ではない。

「腰を落として……脇を締めて……」

 飛来した蜂の一群が、つくねの左耳をもぎ取って行った。横綱はぶつぶつと同じ言葉を繰り返しながら、同じ動作を繰り返す。
 目には闘志の光。口元には歓喜の笑み。それが蓬莱の心を粟立たせる。

 野々美つくねは天才と呼ばれるべき人間である。余人の想像を絶する苦境の最中、笑みさえ浮かべながら一歩の積み重ねを楽しむことができる。それは紛れもない才能だ。

「――ちはやさんって言うんですね、あなたのお友達」

 鈴を転がすような調子で、唐突に蓬莱が言った。

「私、そそっかしいところがあるので。本当は試合が始まる前に、あなたに消えてもらおうと思っていたんですけど、部屋を間違えてしまったんです」

 横綱の顔が僅かに上がる。動揺の兆候を、蓬莱は見逃さなかった。

「なので結局無駄足になってしまったんですけど……そのまま帰るというのも癪だったので、ええ。ちょっと八つ当たりをさせてもらいました」

 つくねの動きが止まった。その内心が、今の蓬莱には手に取るように分かる。もっとぐちゃぐちゃに、元の形に戻らないようにかき混ぜないと。

「親方さん、でしたか。あの年配の方……最期までちはやさんを庇って、立派でしたよ。まあ、丁度私の友達におやつをあげる時間でしたので、ゆっくり食べてもらいましたから、全部無駄でしたね」
『蓬莱!?』

 懐に忍ばせた通信機からミルカの悲鳴に近い声が上がった。そう言えば彼女に話していなかったな――と、蓬莱は特に感慨もなく思った。

『そ、そんなこと私はお願いしてない!どうして……!』
「あの娘、あなたの名前をずっと叫んでましたよ。ふふっ!あなたはずっと隣の部屋に居たのに!隣で親友が食い殺されていたのに、あなたは何をしていたんですか?」
『もう止めて!蓬莱!』
「どうしてですか?」

 篠原蓬莱は、おぞましいまでに完璧な笑みを浮かべて言った。

「参加者は16人も居るのだから、1人ぐらいいいじゃありませんか(・・・・・・・・・・・・・・・)。まして彼らは出場者ではありませんし、きっと大会の運営も喜びますよ。これでドラマチックになる、って」
『よも、ぎ……』

 コンビニの駄菓子も他人の命も、蓬莱にとっては等価である。沢山あるのだから、一つぐらい構わない――それが法に触れると分かっていても、益となるなら躊躇も罪悪感もなく一線を踏み越える。

 この場合の益とは即ち、つくねの動揺を誘うことだ。特定の魔人能力を除けば、怒りでパワーアップするなどフィクションの中にだけ存在する幻想に過ぎない。怒りや悲しみといった大きな感情の振れは、必ず大きな隙を産む。それこそが蓬莱の狙いであった。

 そのつくねは――つくねは、四股を踏んでいた。

「……は?」

 思わず声が漏れた。あの娘は何をしているんだろう。いや、四股を踏んでるのはわかる。その意図がわからない。
 怒りか絶望のあまりに発狂し、自分でも訳のわからぬ内に身に染み込んだルーティンを繰り返しているのだろうか。そうしている間にも、影の虫たちは横綱の体を食い荒らしている。
 つくねは大きく息を吐くと、再び先の体勢に戻った。そしてまたじりじりと前進を始める。

「――」

 その感情をなんと呼び表せばいいのか、蓬莱にはわからなかった。
 これほどの挑発を受け、何事もなかったかのようにこちらへ向かってくる者に対する感情など、まるでわからなかった。

「……なんで」

 影を纏う少女はぽつりとつぶやいた。

「なんで、そうやって何度でも何度でも進み続けられるんですか」

 彼女の心中に溜まった訳のわからない感情が、言葉になって涙と共にぽろぽろと零れ落ちていく。

「ずるい。ずるいじゃないですか。私だって、みんなから嫌われて。ひとりぼっちになって、ケダモノだなんて言われて。それなのに、貴女はいつまでもそうやってへらへらと笑っていられて。そんなのってずるいでしょう」

 教室から飛び出し背後に駆け付けたミルカは、その言葉にはっとした。蓬莱は、本来知りえるはずのない野々美つくねの記憶を語ったのだ。

「……いけない。意識の共振が強くなりすぎてる……!」

 ミルカ・シュガーポットにとって、他人の意識はまるで心拍のリズムで揺れ動く振り子のようなものだ。その周波数にラジオのチューニングを合わせて自らのイメージを放送し共鳴させる、それがミルカの『公共伝播』である。
 いまここに揺れる3つの振り子は『孤独感』という名のラジオ周波数により互いに共振し、ひとつの共通したリズムを刻むに至っていた。互いの感覚は連動し、意識を共有し、記憶は混濁して、ともすれば自分と他人との境目すら混じりあってしまう。そうなる前に、できるだけ早く決着をつけなければいけない。

「……そんなこと。あなただって、わかってるはずでしょう!」

 野々美つくねは答えた。彼女もまた、蓬莱の古き記憶を追体験している。そしてそれが己の物であるかのように共感しているのだ。

「いつもいつもそう……支えてくれる人がいるのに。そのままのあなたを受け止めてくれる人がいるのに。あなたはそれを、見て見ぬふりをしているだけじゃない!……立って。そして答えて。あなたを見ている人へ、あなた自身で!」





 ……そして再びつくねの心中に幼き記憶がよみがえった。父に自分の名の由来を尋ねた時のことだ。父は卓上のメモを一枚破り、さらさらと文字を書いて見せた。

「これがお前の名前だ。もう学校で習ったか?この漢字の意味はな――」


「……あたしの名前は、野々美つくね」

 小さな力士はあらん限りの力で叫んだ。自らの、蓬莱の、ミルカの孤独を振り払うように。
 その名を、世界のすべてに誇るように。

「野々に美しく根付くと書いて、野々美つくね!それが!お父さんからもらった、あたしの名前だ!!」


 その言葉と共に、ミルカの脳内に多量のイメージが逆流した。共振現象である。意識の周波数を合わせる以上、一方通行の放送だけではなく、「放送局」であるミルカ自身へと逆方向に干渉されることも原理的にはあり得る。だがこれほどまでに強烈な揺さぶりを、ミルカは今まで体験したことがなかった。

「……いけない!野々美つくねからのフィードバックが強すぎる!『公共伝播』を解……」

 だがその言葉すらも焼けつくイメージの奔流によって白く塗りつぶされる。ミルカの視覚、聴覚――そして五感のすべてはホワイトアウトした。










 いったいどれだけの時が経過しただろうか。ふと気が付くと――ミルカは、今までいた小学校とはまったく異なる場所に立つ己を見出した。彼女は、両国国技館にいた。

「……!?…………!!?」

 ミルカは両国国技館にいた。

 4メートル55センチ、勝負俵に囲まれた円の中。ミルカは土俵の土を裸足で踏みしめていた。大入り満員の観客が彼女の一挙手一投足を見守る。
 ミルカは目を閉じ、大きく深呼吸をした。

「(…………落ち着いて……ここは現実じゃない。VR空間でもない。ここは野々美つくねの頭の中。彼女の思い描く強すぎるイメージが、共振現象で逆に私に流れ込んでいるだけ)」

 そしてゆっくりと目を開ける。天井から差す白い光の柱をミルカは見た。そしてそこから舞い降りる、三人の天使を。

「……はい!? いったいなんなの!!?」

 国技館の天井から舞い降りる三人の天使を、ミルカは見た。そして今度こそちょっと声が出てしまった。

 中央に浮かぶ恰幅のよい天使が、左右に子供のように小さな姿の天使を伴っている。露払いと太刀持ち。すなわち、あれが横綱に違いない。

「(……いやいやいやいや。ぜったいにおかしい。あの肉だんご娘の脳内お花畑にしては、いくらなんでも異常すぎる。あのオスモウドライバーとやらのせい?なんにしても、ここから逃げないと……)」

 だがミルカの両足はまるで土俵に根付いたかのように動かなかった。天使が地へと舞い降りるさまを、その目でじっと見据えることしかできない。だが、彼らに敵意は感じられなかった。ミルカの心の内を見透かすかのように、厳かで穏やかな瞳が彼女を優しく見つめた。

《定命の子らよ》

 ミルカの心の中に、直接声が響く。

(かく)あれかし》

 そして横綱は純白の衣の袖を振るった。放たれた新雪のように白い光の粒が波を描き、空中に美しい円弧を形どった。

 塩だ。

 土俵の邪気を、そして負の情念を清め祓う神聖なる儀式。

「(――ああ、そうか)」

 暗き闇を打ち払う、白き光の軌跡。それはミルカにとって、あまりにも眩しかった。

「(あの子を信じていなかったのは、私の方だったんだ――)」

 塩はミルカの心にわだかまっていたしがらみをも洗い浄め、一つの真理へと到達せしめた。
 光の粒が輝きを増していく。そして再び世界は白く塗りつぶされた。










 ……再び意識が戻ると、そこは先程までいた戦場、仮想現実内に作られた小学校だった。ミルカのすぐそばに、ふらつきよろめく篠原蓬莱の姿があった。彼女もあのイメージの奔流を真正面から受け止めたのだろう。床に倒れかかる寸前、ミルカは蓬莱に飛びつき、しりもちをつきながら胸の中でその身体を受け止めた。

「大丈夫!?蓬莱!」
「……ええ。私は大丈夫だけど……ミルカさんは……」

 蓬莱は夢から覚めたときのように呆けた表情で瞬きをした。彼女も野々美つくねから放たれた神秘的幻視によって、なにか内なる邪を拭い去られたのだろうか。その顔に、ぽつりぽつりと水滴が降り注いだ。

「……ミルカさんは、なぜ泣いているのですか?」
「うぅ……ひ、えぐっ……」

 ミルカは嗚咽した。そして振り絞るように、蓬莱への言葉を一つ一つ綴った。

「……ごめんね。ごめんね蓬莱。私、ほんとうはあなたのことを全然見ていなかった。蓬莱はそのままの蓬莱でいいんだよって、言ってあげられなかったの。それどころか、うう、私、そんなあなたを、消し去ってしまおうだなんて……ぐすっ……友達なのに。友達なのに、ね。本当にごめん、蓬莱……」

 蓬莱は子供の用に泣きじゃくる年上のミルカを見て、微笑みを返した。

「いいんですよ……なんだかよくわからないけど。だって私たち、友達じゃないですか。ほら……」

 蓬莱の影から、どこまでも黒いうごめく触手、かさかさする節足の脚や骨が這いだした。だが、不思議ともうミルカはそれを恐ろしいとは思わなかった。

「ね。この子たちも一緒です。みんな友達ですよ」
「……あはは、そうだね。私もおんなじだ。蓬莱の友達だよ」

 そして二人は助け合って身を起こした。そして眼前のつくねを見据えた。野々美つくねは、大地に根を下ろす大樹のようにしっかりと両の足で立ち、あの天使のような穏やかな瞳で二人を見つめていた。

「なんにせよ、今やるべきことはひとつでしょう?」
「……うん。そうだね蓬莱。勝とう」

 言うや否や、二人が廊下の床に落とす影は、5メートルほどの黒い真円へと広がった。そしてその円は中央から盛り上がり、影の奔流となって地面から這い出て天井を破り、一瞬のうちにミルカと蓬莱を空へと連れ去った。

「…………No.18。『LEVIATHAN』」

 いまや半壊する校舎の屋上を超えて空高く、巨龍と見違うほどの大海蛇の頭の上から二人はつくねを見下ろしていた。

「……すごい」

 怪物の全身は、触れるものを拒む鋭い棘の鱗で覆われていた。見るに恐ろしいその漆黒の姿は、しかし、嫌われ恐れられ、傷付けられてきた蓬莱の心から生み出された自衛の鎧であることを、ミルカは知っていた。この龍は、蓬莱自身なのだ。

「すごいけど、でも蓬莱。この子はちょっと怖すぎるかも。この戦いは、見てるお客さんを楽しませなきゃ。ほら」

 そしてミルカは芝居がかった仕草で指を振り、蓬莱の胸に手を当てた。

「私は世界一のエンターテイナーで、世界一のMC!そばにいる子を最高に輝かせるのが私の役目なんだから!」

『公共伝播』。イメージを伝える。蓬莱が、本当は優しいただの女の子であることを、私だけが知っている。でもそんなのはもったいない。伝えないと。もっと知ってもらわないと。そして何より、蓬莱自身にも教えてあげないと!

 そして影の大蛇に変化が訪れた。どこまでも黒い影の体から、やはり黒い蔦状の草が生え、巨大な全身を覆った。攻撃的な棘だらけだった影のシルエットは、アール・ヌーヴォーを思わせる可憐な装飾様式に包まれていた。

 よもぎ。彼女の名を冠した、柔らかな草。

 蓬莱はその変化に戸惑い、きょとんとして問いかけた。

「何をしたの?」
「んー……大したことはしてないよ。ただちょっと蓬莱の中のイメージを変えただけ。それがこの子の姿に反映されたの。別に攻撃力がパワーアップしたりとかは何もない。私の力、弱いから」

 そして二人は顔を見合わせて小さく笑った。

「……ふふっ」

 校舎をも上回る大怪獣を見上げながら、つくねもまた笑った。
 彼女はおもむろにオスモウドライバーのバックルに手を伸ばし、二重円に囲まれた桜の意匠を強く押すと、変身を解除した。

「ふぅー、いてて」

 つくね自身の肉体もボロボロだ。特に防御を続けていた両腕の損傷がひどい。
 しかし心の中は、先ほどまでとは比べ物にならないほど晴れ晴れとしている。今なら、なんでもできる気がした。例えば、あの怪獣を土俵外へぶん投げることだって。
 少女の瞳に炎が燃える。意を決し、彼女は再び己の腰へオスモウドライバーを……「んッ……」装着した!

「――変身ッ!」

 トトン!トトトントトン!トトン!トントン!トトン!トントトン!
 NHK相撲中継のオープニングでお馴染みの寄せ太鼓の音が、どこからともなく響いてくる。

《MODE:UNRYU》《TAKANOHANA》
《たかのぉお~~~はぁなああぁ~~~》

「土俵燃やすぜ!」

 白き閃光が止んだ時、崩壊した校舎の中に、平成の大横綱が降臨していた。
 185センチ161キロの堂々たる体格。だが当然、伝説の海竜たるLEVIATHANには及ぶべくもない。

《PUT YOUR HANDS》

 オスモウドライバーから投射された光が土俵を形作る。横綱が土俵に入り手を付くと、LEVIATHANもそれにならって、体格に比べて小さな――それでも貴乃花の胴よりも太い――腕を伸ばし、仕切り線の辺りで手を付いた。
 ホログラム行司が軍配を返す。時間いっぱい、待ったなしである。貴乃花の眼光と、大海蛇の眼光とは、身長差があるので特にぶつかったりはしなかった。

《READY》
《HAKKI-YOI》

 横綱は瞬時に勝負を仕掛けた。千代の富士にも劣らぬ、亜光速に達する切れ味抜群のぶちかまし。
 並の相手であれば胴体を貫通、即座に光の粒子と化して分解される運命を避けられぬであろうそれは、神話の大蛇によって難なく受け止められていた。

 声なき咆哮を上げ、影の大蛇が怒涛の勢いで寄る。踏ん張る貴乃花の足元が摩擦力によって破壊され、さながらシュプールのような二本線の軌跡を描いていく。横綱をも圧倒する信じがたいまでの膂力、これが聖書に記されし最強の魔獣、いかなる者もその鱗を貫くことはできないと伝えられるLEVIATHANの力だというのか――。

「がんばれ!がんばれLEVIATHAN!もうちょっとで場外だよ!」
「がんばってLEVIATHAN!もうひと踏ん張りですよ!LEVIATHAN!!」

 頭上から少女二人の激が飛び、LEVIATHANのパワーが更に増した。
 一方の横綱貴乃花もさる者、一方的に押し込まれながらもその目は死んでいない。
 場外が近づいている。横綱たるもの、その感覚は肌で感じられる。ひりつくような敗北の予兆を、貴乃花は背中に感じている。そして0.5秒後には場外を割るというタイミングで……横綱は動いた。

 体を半身に開き、素早くLEVIATHANの懐へ。何者にも砕けぬ鱗。逆に言えば、どんなに力を込めても剥がれることのない鱗――力士に取って、それは理想のまわしである!

 LEVIATHANの巨体が傾いた。オスモウ粒子でできた、貴乃花の肉体が軋む。天使を超えた神の依り代となるのが横綱。だが、貴乃花においては別の呼び名がある。

「フシューッ!!」

 力みによって貴乃花の全身が紅潮する。十分な位置取りで、横綱としての力を十全に発揮してもなお耐えるLEVIATHAN。だがその長い体躯は、ブレーキをかけた際には強烈な慣性が前方にかかる。そのエネルギーが横綱の投げをもう一次元上の段階へと引き上げた。すなわち、神話の再現――神獣殺しの次元へと!

「「きゃああああああああああ!!!!」」

 少女の悲鳴がユニゾンする。ミルカと蓬莱もろとも、LEVIATHANの巨体が場外へと投げ飛ばされた。
 2001年5月場所千秋楽、武蔵丸との優勝決定戦で見せた伝説の上手投げ……その再現がここに成された。
 一つの伝説が、伝説を上回った瞬間であった。

「カァーーッ!!」

 横綱は吠えた。顔面は真っ赤に染まり、額からは二本の角が雄々しく伸びる。
 正に貴乃花の異名通りの――鬼の形相であった。













「ちーちゃん!……親方さん!」

 試合を終えた直後、血相を変えてつくねは病室へと駆け込んだ。そこに待ち受けていたのは、無残にも変わり果てた二人の姿――

「よっ、つくねくん。いやはや、今回も実に見事だったよ!」
「本当!あんな大きな敵まで倒しちゃうなんて!」

――ではなく。痛々しい包帯姿ではあるものの五体満足でベッドから身を起こす親方弦一郎と、その傍らで見舞いのリンゴの皮を剥く当真ちはやであった。

「う……うあああああ!!うああああああああん!!!!」

 つくねはくずおれ、病室の床へとへたりこんだ。そして堰を切ったように大粒の涙をこぼして泣きじゃくり始めた。

「ど、どうしたの?」
「どこか痛むのか……試合で何か後遺症があったのか!つくねくん!」

 つくねはべそべそと泣きながら、言葉にならない言葉を返す。

「ち、ちが……ちがくて……あたし、二人が死んだって聞かされて、ぜっ、ぜったい、信じなかった、ですけど、でも、もし本当だったら、ぐずっ、それで、二人がこうやって元気でいるって、ずずっ!わかったから。あの、ずびばぜん、なに言ってるか、わからないですよね」
「……そうだな。大丈夫だ。心配をかけてすまなかった」

 泣きじゃくるつくねの肩に、親方は優しく手を置いた。これが、戦場でああまで気丈にふるまっていた戦士と同じものであるとは、到底想像しがたい。

「野々に美しく根付く、か……」

 親方は誰にも聞こえないほど小さな声で、そっとつぶやいた。そしてこれからさらに激しくなるであろう戦いの予兆に意識を馳せた。これから先、今持っているだけの力でどれだけの脅威に対抗できるだろうか。

「やはり手に入れなければなるまいか。伝説のエンシェント・リキシチップを……!」
最終更新:2017年11月05日 01:06