第2ラウンドSS・特急列車その2

試合当日の昼。イナリの管理者である阿久津海斗は、とある喫茶店で、とある女性と待ち合わせていた。

「いやはや、久々ですねぇ海斗先輩。調子はおかわりないですか? 元気そうには見えますけれど、病気だとか心労だとかは?」
「御大層な挨拶どうも。おかげさまで、割と元気に過ごせてるよ」
「……そうですか。それは良かったというものです。何と言っても、私にとっても死活問題ですから。収入源となるお得意様が倒れられちゃ困るものですよ、こういう仕事の人間としては」

まあ、病気の看病とかなら、仕事の一環でやってあげなくはないんですけれど――と、薄っぺらい笑みを浮かべる女性。

「まあ、その時はその時。……で、今日は何の要件なの」
「あははー、そんなに怖い目をしないで下さいよー。私が何か企んでいるみたいじゃあないですか。心外だなぁ」
「僕の目はいつもこうだよ……」

まったく人をおちょくっているのか、はたまたこれで普通の会話だと思っているのか。多分、この場合は――三千院三千においては、おそらく後者なのだろう。
三千院(さんぜんいん)三千(みち)
海斗の最も信頼できる協力者であり、簡単な仕事から法律ギリギリの所業まで、金さえあればなんでもこなす「なんでも屋」。それが彼女である。ちなみに、イナリのVRアバターを工面したのも彼女だ、
ついでに言うと、海斗の高校時代の後輩でもある。

「ところで、妹さんの調子はどうです? イナリちゃんがいるということは、つまりそういうことなんでしょうけれど――」
「……うん。まだ、目覚める様子はないよ」

海斗が、目を細めて俯く。
分かっていることとはいえ、自分の口から言うと、まだ悲しみが込み上げてくる。まだ死んだ訳ではないと自分に言い聞かせてはみるが、しかし、落ち込んだ気持ちが戻ることは無い。

「落ち込むのも無理ないことですよ、先輩。なにせ、あの『キルイーター』の最初の被害者が身内だなんて、私の身に起こったらと思うとゾッとします」
「……キル、イーター? って、何だっけ?」
「先輩は覚えていらっしゃらないのですか? DSSバトルの中でも最凶最悪の能力を持つ魔人。人ならざる者……あの『キルイーター』じゃないですか」

覚えて――いない。
何故だろう。記憶にない。間違いなく覚えていなければいけない相手なのに。真っ先に復襲すべき相手の名だと言うのに。
ミカをああした張本人のことを、僕は、何故忘れている?

「ごめん……その話、もっと聞かせてくれないかな」
「えぇ、勿論大歓迎ですとも。先輩の頼みなら、私はなんでもお手伝いしますよ」

では、キルイーターの噂について説明します、と、三千はその口を開く。
その顔に、うっすらと笑みが浮かべられていたことには――誰も、気づかなかった。

■ ■

VR空間、特急列車。
その最後尾に、彼女は――狐薊イナリはいた。

「さあて、前回のおさらい! やたらめったらイナリ化しない! 以上じゃな!」

前回の戦闘の反省を、大声で繰り返すイナリ。相手に聞かれるかもしれない、とかは全く考えていないようである。
そして、その結論は単純明快。「使い過ぎなければいい」のである。
ただ今回は、戦場地形の影響もあって、【プログラム:イナライズ】、通称「イナリ化」を主戦術とするのは多少難があるだろう。なにせ、イナリ化する物が列車以外にないのである。勝つことにこだわるならば、他の戦闘方法を考えておく必要があるだろう。
ちなみに、今回のイナリは前回の反省も踏まえ、常備する武器は少なめにしてある。イナリ化した武器を落としたら終了なのだから、まあ当然な帰結である。
――と。

「へぇえ。なかなかちっこいのが来たもんだ。ま、俺っちも似たようなもんだけどな!」

けらけら、と軽い笑い声――頭上。
イナリがハッとしたように上を向くと、荷物置き場(いわゆる網棚の類である)に腰掛けている黒髪の青年が一人。足をぶらつかせて、ニヤついている。
稲葉白兎。「逃走王」の異名を持つ、エスケープのスペシャリストだ。

「どーもぉ、狐ちゃん。俺っちが今回の対戦相手さんだ。よろしく頼むぜぃ」
「おー、えっと、今回の対戦相手の……なんとか兎じゃったな!」
「……ああ、うん、そんなとこだな!」

あっははは、と二人が笑い声をあげる。
二人とも、ちゃんと相手の名前は把握しよう。動物対決じゃないんだぞ。
――閑話休題。

「さぁて、狐ちゃん。早速で悪いが、俺っちから提案が一つある」

足をぶらぶらさせたまま、白兎が人差し指を立てて「一つ」と念を押す。

「む? 提案……じゃと?」
「あぁ。ま、簡単に言うと今回の勝負――『鬼ごっこ』で勝敗を決めようじゃん、って話よ!」

一瞬の静寂。
画面の前で見ている観客がどう思うかなど御構い無し。「魔人同士の本気の殺し合い」が原型となるルールを根本から変えるお願いである。
だが――イナリには、断る理由はない。

「お――鬼ごっこ!? それは……何と素晴らしい響きなのじゃっ!!」

電脳狐娘、大興奮である。
なにせ、今までそんなことをした経験など彼女にはないのだ。というか、外で元気に運動など、狭苦しい電脳空間で過ごさざるを得なかったイナリには信じられないほどの幸福なのである。

「ってなわけで、まず俺が逃げる。んで、狐ちゃんが追っかける。24時間以内に捕まえられたらそっちの勝ち。ダメなら俺の勝ちだ。まともに戦うよりずっと楽しそうだろ?」
「うむ、わらわがおヌシにこの手でタッチしたら勝ちじゃな!」
「そうそう。ただし、タッチアウトなのは手だけ、な? ズルはダメだぜ?」

一応、そういうことに抜かりはない白兎。――だって、ズルで負けても楽しくないじゃん?

「ま、何しても俺っちが勝つんだけどね~! にっひひひー」
「むー、ぜったいわらわが勝ってぎゃふんと言わせてやるのじゃ……」

足をぶらぶらさせながら嘲るように笑う白兎と、ぷんすこしながら対抗心マシマシのイナリ。とっても楽しそうだが、一応言っておくと、ここは特急列車の中である。当然、それ以外に逃げる場所などなく、落ちたら死ぬ。
しかし、白兎には、それでも勝てる自信があるのだ。

「そんじゃま、時間も時間だし……よーい、スタートっ!」
「えっ、もう――!?」

イナリが口を開くよりも早く、白兎が駆け出す。
軽いステップで狭い列車内を四方八方に飛び回りながら目指すのは、前方。列車の進行方向だ。

「へへっ、こっこまーでおーいでー、っとぉ!」
「むむむ……よーし、すぐに捕まえてやるのじゃぞー! えいえいおー!」

逃げる白兎を、イナリが、とてとてと走って追いかけていく。
こんなので追いつくのだろうか――否、普通の鬼ごっこならば、追いつくわけがない。足が遅い以上、追いつかないのは自明の理である。
しかし、当然、イナリにも策がある。

「ふふふ……自己変革! イナリ、あくせるふぉーむちぇんじじゃぁ!」

イナリが叫ぶ――と同時に、彼女のVRアバターが姿を変えていく。
いつもの和服は、イナリのサイズにフィットした体操服に。
垂れ下がった長い髪は、後ろで縛ってポニーテールに。
つまり……運動用の装いにドレスチェンジである。
――それだけではない。
【プログラム:アクセラレート】、【プログラム:ウォールダッシュ】、【プログラム:オートリペア】、【プログラム:脊髄反射】――ありとあらゆる運動用VRアバター専用プログラムを自身内にインストールしたのだ。
それは即ち、今のイナリはアスリート並み――否。身体強化系魔人並みの身体能力を持つということである!

「さあ、鬼ごっこスタイル準備万端! 震えて泣いても遅いのじゃぞー!」

うおー!と気合を入れてイナリが走り出し――――その、2歩目で転んだのだった。

■ ■

戦闘――というかVR空間での全力鬼ごっこが始まってから2時間が経った頃。
稲葉白兎は、特急列車の先頭車両、その上に座っていた。
そして、その少し後ろで仁王立ちしているのは、狐耳少女――イナリである。

「んー……そろそろ、潮時かなぁ」
「じゃな! 神妙にお縄につくがよい!」

じり、じり、とイナリが少しずつ距離を詰めていく。
だが、白兎は動く気配がない。

「くふふふ……ようやく観念したようじゃな……これでじ・えんどじゃ!」

イナリが、シュバッと白兎に飛びかかる!間違いなく、途中で何かに引っかかることもない完璧なコースだ!
――だが、イナリの小さな手は、白兎に触れることはなく虚しく宙を切った。

「ざーんねん、油断しちゃダメだよ~、狐ちゃん?」

ふと気付くと、イナリが先程立っていた場所に、白兎がいる。
飛び込んできたイナリの隙をつき、瞬間的な加速を利用して位置を逆転させたのだ。

「むむむむー……おのれ……まだじゃぁ! 次は油断せず捕まえてやるー!」
「頑張れ、頑張れ。さーて、そんじゃ俺っちはお先に失礼しますか~」

ひょいひょい、とイナリが起き上がる前に後ろに向けて駆け出す。
思ったより楽勝かも。――そう思った矢先だった。
白兎の左半身に、何かに追突されたような鈍い痛みが走る。瞬間的な痛みだったが、間違いなくこの痛みは――

「ウッソだろ……そんなんアリかよ!?」

白兎の目線の先にあったのは、宙に浮かぶ巨大な白い手。データキューブを実体化させて作られた、『ますたーはんど』と言われる逸品である。確か、どこかのゲーム会社が無料で配布していたものだ。
今の痛みは、おそらくそれに張り手でもされた痛みだろう。しかし、確かに「捕まえるためなら何してもいい」とは言ったが、これは流石に予想外である。
――いや、そんなことを考えている場合ではない。今、白兎はその手に吹き飛ばされている。
そして、この『特急列車』の戦闘領域は、列車内、及び移動中の車体を中心に周辺1kmまでである。その上、ここは移動しない城塞などではない。毎分毎秒、常時動き続ける移動戦場である。
――即ち、落下は即座に敗北に繋がる。

「――っ!」

電車の端に手を掛け、急激に方向転換することで窓に思い切り足を叩きつけ、その勢いで窓を割って車内に飛び込む白兎。魔人能力、ラピッドラビットの補助あってこその高速反応である。

「ふぃー、意外に脆くて助かったぁ…あっぶねぇなぁ…」

すたり、と軽く着地し、とにかく前方の車両へ前方の車両へと走り出す。
目的はたった一つ。逃走による勝利――即ち、イナリが後部車両に乗った状態で先頭車両以外を破棄し、取り残された彼女を戦闘領域から離脱させることだ。だからこそ先程は、イナリを敢えて後部に送るために誘き寄せたのである。
だが、速度で追いつかれるならば、その成功率は五分五分。能力を使えば多少のリードは保てるものの、【プログラム:ウォールダッシュ】の影響でなんの苦もなく壁を走れるイナリに対して、若干こちらが機動性においては不利と言わざるを得ない。

「あれ人間的には反則でしょ……あー、俺っちもあーいうの欲しいな~」

そんなことをぶつくさと呟きながらも、白兎は走る。
――と、刹那。目の前に突然、巨大な物体が“刺さった”。

「――っ!?」

咄嗟の急ブレーキ。と同時に、それの全貌が目に入ってくる。
――巨大な、剣。それが屋根の上から突き刺さり、進行方向を完全に塞いでいる。

「これもアリかよぉ~……あの狐ちゃん、ホントになんでも出来んだなぁ」
「そのとおーり! およそわらわに出来ぬものなどないのじゃっ!」

白兎の後ろから声がする。当然、声の主はイナリである。
ふふふー、と嬉しそうな声を漏らしながら、ゆっくり迫って来ているのが目に見えるようだ。

「仕方ない、か……もうちょっと粘りたかったけど」

そう言うと、白兎が先程割った窓に向かって走り出し――全力で、外に飛び出した。

「わぁあっ!? い、一体何を考えておるのじゃ!? 外は――」

慌ててイナリが窓に駆け寄る。
だが、その目に映った風景は――イナリにとって予想外の事実を映していた。

「は、走っておるのじゃ!?」

そう、走っていたのである。
稲葉白兎が、列車と並走していたのである。
無論、自分の身体だけで。

「残念、俺っちに追いつくには百年早いのでした! へへっ、惜しかったな~!」

ぴょんぴょん、と跳ねながら列車の横で嬉しそうに笑っている白兎。
もう、イナリが白兎を捕まえることはできない。何故なら、流石のイナリでも、特急列車の速度と同じレベルでは走れないのである。たしかに基礎能力は上がっているが、無理をするとプログラム回路が焼き切れる可能性があるのだ。
もはや、八方塞がりも同然の状況である。
……だが、こんなことでへこたれるイナリではない。子供のような負けず嫌い、そしてガッツと持ち前の根性は誰にも負けない自信がある!

「むー…………はっ!ひらめいたのじゃ!きゅぴーん!」

きゅぴーん、と頭の上に電球のエフェクトが出る。何故かこういうところは異様に凝られたVRアバターである。ちなみに普通の人にはこんな機能はない。
そして、何を考えたか、先頭車両へと乗り移り、ばん、と電車の床に掌を叩きつけた。
そう、イナリ自身が近づけないなら、方法は一つ。
――列車ごと彼に近づけばよいのだ!

「ゆくぞ、浸食開始!」

イナリが使ったのは、【プログラム:イナライズ-フルヴィークル】。乗り物を乗り物のままイナリ化する、イナリ専用のプログラムである。
列車の外観が、瞬く間に変わっていく。
赤かったボディは茶色がかった金色に。
無機質だったパンタグラフは耳を模したような形状に。
そして何より、先頭車両には、外から見られるようなお立ち台がせり上がる!

「準備完了! それでは電脳特急イナライナー、出発進行じゃあ!」

いつの間に着替えたのか、車掌ルック――JRの車掌服を基調に、少し和風テイストを混ぜたような感じである――のイナリがお立ち台の上でびしりとポーズを決めると、何が起きているのか、列車が白兎の方へと近づいていく。

「嘘だろ……そこに線路はねえんだぞ……?」

いつになく真面目な顔でビビる白兎。
そう、もはや列車は線路の上には乗っていない。完全な脱線状態なのだ。それにもかかわらず走れるということはつまり――イナリ化はすごいのだ。

「ろっくおーん! イナライナー、全速前進じゃー!」
「待て、待って待って待ってっ!? 死ぬ!マジで死ぬぅ!」

相手が轢かれた時のことなど考えもせず、全速力で白兎に列車タックルを試みるイナリ。そして、それを全速力で回避しようと逃げ続ける白兎。
だが、いくら特化型魔人能力とはいえ、「魔人能力によるブースト+元々速い特急列車」のコンボから逃げ切れる訳はない。
1メートル、また1メートルと、距離が縮まっていく。
3メートル。
2メートル。
1メートル――

「今じゃっ! つーかまーえたー!」

白兎がまさに列車に轢き殺される、という瞬間のことだった。
イナリがお立ち台から飛び出し、白兎に飛びつく。――今回は、成功だった。
ぼふん、という音とともにイナリの両手が白兎に優しくタッチする。ここに、列車を脱線させるレベルの大災害を伴う、全力鬼ごっこの勝敗は決まったのだ。
――だが、当然、『電車は急には止まれない』。

「しまっ――!?」
「のじゃぁ――!?」

飛びついた衝撃でもんどりうって倒れた2人は、そのまま列車の下敷きになったのであった――。

第2ラウンド:第7試合結果

●稲葉白兎-狐薊イナリ○
勝因:稲葉白兎の、自身による特殊変更ルール内での敗北に伴う降参判定

■ ■

「――それで、君は阿久津海斗、つまりは狐薊イナリの管理者と会ってきたワケだ」
「ええ、そういうことになりますか。まあ私も、出来る限り接触は控える必要があるとは思ったんですよねぇ。けれど、しかしご贔屓にして下さるお得意様に距離を置かれるようになっては困るというものなので」
「そう。……いやぁ、本来は文句でも言いたいところなんだけど。さすがに協力者、しかもその中でもかなり上位に位置する人にとなると気が引けるものだねえ」

困ったものだ、と鷹岡 集一郎が首を横に振る。
実際、立場としては鷹岡よりも彼女の方が上――年齢的にも、社会的地位でも――なのだが、今回のDSSバトルの大規模大会を開くにあたって、彼女の手をかなり借りてしまったのである。多様な魔人とのコネクションを持つ「何でも屋」だからこそ、今回のサポート枠としては必須だったのだ。

「えー、私は別に構わないですよー? 悪いことしちゃったなー、とは思っていますから」

そう言いながら、少女の眼が、じっと鷹岡を見つめ続ける。
だが鷹岡はその眼から感じる威圧感に気圧され、慌てて眼を窓の方に向ける。
――まだ年端もいかぬ子供だというのに、食えない人間だ。……いや、もしかしたら、人間ですらないのかもしれない。この真っ暗な瞳の少女の心が読める人間がもし居るとしたならば、一体どんな反応をするのだろう。少女の心の虚無を見て、発狂でもしてしまうのではあるまいか。……そう思うと、心が読めない僕は幸せなのかもしれない。あるいは、こう思っている事自体が不幸せなのかもしれないが。

「……まったく、困った子だ」
「心外ですねぇ。私にはただ目的があるというだけなのですけれど――まあ、この話はこのくらいで収めておきましょう。これ以上話しても平行線、或いは限りなく近づきながら接しないという点で考えれば、漸近線のようなものでしょうから」

微笑を浮かべる少女――三千院三千は、その張り付いたような笑みを崩さない。
否、時折崩してはいるのだが、その不気味な風体が変わったように感じさせない異様さを醸し出しているのだ。人の皮を被った人形、そう呼称されてもおかしくないレベルで。

「それはそれとして。あの例の魔人の様子はどうですか?」
「例の? いや。今のところはさして問題は起きていないハズだけど……」
「へぇ、そうですかー。アレで問題が起きない方が不思議な気はするんですけれど。いやはや、これはまあそういうものだ、なんて観客も思っているんでしょうかねー」

いやはや、魔人の能力の多岐化にも困ったものです、まったく。と三千は首を横に振る。

「……そうか、そういえば彼女も君が情報をくれたんだっけね。なかなか引っ張ってくるのに苦労があったのに、すっかり忘れていたよ」
「苦労、ですか。まあ、彼女は気分屋ですからねぇ。私も、彼女には苦労させられましたよ。なにせ、直接接触するわけにいかなかったわけですから」

三千はにやにやと笑い続ける。
その顔は、先程から殆ど変わった様子がない。まるでロボットのように、薄気味悪い笑みを表示しているだけだ。感情の表現方法たる顔、というよりはむしろ、最低限の個を認識させるための仮面、という呼称こそ相応しいだろう。
気味が悪いな、と鷹岡は思う。ただの企みある悪人であれば、これまででも多少、あしらってきた経験はある。しかし、彼女はそれとはまた違う。目的があるように見せながら、しかしそれが何なのか察させない。企みのためにこちらを揺さぶるのではなく、こちらの反応を面白がるためだけに、企みを心中に潜めているかのようだ。

「……まあ、この話はこのくらいにしておこうか。仕事の話をプライベートな場でするのは少々気が引けるからね。何か、他に面白い話とか無いかな?」
「ふむ、特にこれといって私自身に面白い話はないのですけれど――そうだ、丁度いいタイミングです。王の話をしましょうか」
「王の……話?」
「ええ。ただし王とは言っても滅びたブリテンの王こと、アーサー王の話ではありません。――みんなが知っている御伽噺の登場人物、愚かで可笑しな裸の王様のお話ですよ」

裸の王様。即ち、「THE EMPEROR'S NEW SUIT」――童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセンが1837年に発表した、スペインの伝承を元にした物語。
物語の主軸は実に簡単で、「王様が、布の仕立て屋を名乗る詐欺師に騙されて大恥をかいた」というものである。いくらか出版形式や対象の年齢層によって改稿されたりはしているが、しかし根本となる部分はほぼ変わっていない。王様が騙されて終わり。そこで話は終了である。

「どうして突然、裸の王様の話を?」
「まあ、聞いていれば分かる話なのです。……そうですね、ではまず手始めに、『裸の王様』という物語のうち、愚者でありながら最も賢者である人物。つまりは話を終わらせる役目である少年。彼の話を始めましょうか」

とは言っても、少年だったり黒人だったり奴隷だったり、書物によって差はあるみたいですけれど。そう言って、彼女は笑った。
――感情など、欠片も感じさせないような笑顔で。

■ ■

「主様主様ー! 勝ったのじゃぞ! わーい!」
「……うん、そりゃ良かった」

いつもの海斗の部屋の中、イナリが、画面の中でどったんばったんと喜んでいる。
――だが、当の管理者である海斗は、浮かない顔で生返事を繰り返している。

「そういえば、主様の方は昼、確か待ち合わせがあったと言っておったハズじゃが?」
「ああ、うん。三千さんと会ってきたよ。元気にしてるかって伝えてくれってさ」

ぎこちなく笑う海斗。
だが、表面上は会話していても、その脳内にはイナリとの会話は入っていない。
頭の中は、昼間の――『キルイーター』の話で一杯だった。
――『キルイーター』。別称:魔人ウィルスK。三千院三千が言うには、〈魔人能力を持ったウィルス〉だとのことだ。その能力は、『感染した人物を、根本から浸食して乗っ取る』というもの。文字通り、ウィルスらしい能力だ。

(つまり――ミカを治す方法は、まだあるかもしれない)

相手が何か分からないからこそ、今まで対処法がなかったのだ。相手がウィルスだと分かったなら――ワクチンを作れば良いだけである。

(よし……まずはサンプルを手に入れなければ。そうすれば、きっと――)

きっと、治せる。そう信じ、海斗は小さくガッツポーズをするのであった。
――ずっと話し続けている、イナリを忘れて。

「それでじゃな……って、聞いておるのかー、主様ー。主様ー!!」

■ ■

「いやはや、やはり彼もイナリちゃんを壊すことは不可能でしたか。仕方ありません、次に期待しましょう」

闇夜の中で、三千院三千が笑う。

「それにしても、海斗先輩の記憶を戻したのは少し早計でしたかねぇ……まあ、きっと『キルイーター』なら上手くやってくれるのでしょうけれど」

笑う。
微笑う。
嗤い続ける。

「さて……次の戦いは、どうなることでしょうねぇ」

“魔人”、三千院三千は、世界を嗤う。
「人ならざる者を魔人に目覚めさせる」能力を与えた、この世界を嗤い続ける。
この世に闇あれ。この世に終わりあれ。
――夜は、まだ終わらない。
最終更新:2017年11月05日 02:16