暗い部屋。
幾つものディスプレイばかりが光をたたえるその部屋で、狐薊イナリの管理者――阿久津海斗は次の対戦相手の過去の試合を見ていた。
何度も込み上げて来るような吐き気を抑えつつ、しかし目線は画面から離すことはない。
何故なら。
「支倉……精神汚染系能力者か」
海斗が呟く。
支倉饗子。それが、今回の対戦相手の名。そして――彼女こそ、ミカを敗北させ得たという、『キルイーター』と同じ精神汚染能力者なのだ。
もし、イナリにもあの時と同じことが起こったなら。
今度は――今度こそ、ミカを救う手段がなくなってしまうかもしれない。
「主様ー、そんなに気持ち悪いの、良く見てられるのじゃな……」
「……勝つためだから」
「むむ……わらわなら、万事大丈夫な自信があるのじゃが……」
海斗の携帯端末の画面上で喋りながら、うっぷ、と口に手を当てるイナリ。
そして、それを見るたびに頭を抱える海斗。
この調子では、先が思いやられる――AIに吐き気を感じる機能なんてつけない方が良かったかもしれない、と思う。
「今回ばかりは、この前とは別。遊んでると――死ぬよ」
「死ぬ? VR空間じゃぞ?」
「それは知ってる。普通の魔人相手なら、僕もこんなに言わないさ」
精神汚染。もしイナリがそれを受ければ、結果は全く予想のつかないものになるだろう。そもそも、相手の能力を受ける対象に「人間ではないNPC」が含まれている以上、イナリが対象外であるとは考えられない。かといって、多少ならば汚染されてでも倒せばいいというわけでもない。少しでも汚染されれば、AIであるイナリがどうなるのかなど分かったものではないからだ。
だからこそ。
「……だからこそ、気をつけて。呑まれたら終わりだ」
「うむ、分かっておるのじゃぞ! 一勝して調子づいたわらわに負けはないのじゃっ!」
なははー、とイナリが笑う。
そんな元気な彼女の姿を見ながら、海斗は不安そうに目を細めるのだった。
■ ■
VR空間――世紀末。
核戦争により荒廃した世界という設定であり、基本は砂漠的な単調な地形が続く場所。
その中心とも言える場所に、イナリは立っていた。
目には覚悟のような感情が映り、その周囲の異様な光景が、彼女の心情を明確に表しているかのような、異様な光景。
そう。現在、イナリの周囲にあるのは――数多の武具。刀剣、銃器、兵器。あらゆる種類の兵装が、『無限の剣製』よろしく、所狭しと地面に突き刺さっているのだ。
エクスカリバー。デュランダル。グングニル。ロンギヌス。天叢雲剣。レーヴァテイン。フラガラッハ。妖刀村正。ゲイ・ボルク。ダインスレイヴ。干将・莫耶。カリバーン。フランベルジュ。ブロードソード。イージス。カリバーン――その数は、百をゆうに超え、およそ千。全て、イナリの所持していたデータキューブを具現化したものだ。当然、全て【プログラム:イナライズ】によってイナリ化済みである。
そして、今、イナリの使用しているプログラムは――【プログラム:サテライトウェポン】。イナリ化した全ての兵装を、思うままに操るプログラム。手元に呼び寄せるだけでなく、射出、爆破、防御など、あらゆる動きが可能となる。
そして、そのイナリが見つめる先にいるのは――魔人、支倉饗子。
精神浸食系魔人でありながら、『被食者』である存在だ。
だが、その影は一つではない。イナリと同じくこちらもまた、幾多もの影を持つ。――そう。全て、支倉饗子と化したNPC達だ。
「――そう。それが、貴女の答えなら」
「喰らわせてあげましょう」
「喰らい尽くされてあげましょう」
「私の望みは」
「望みは、ただ食べられること」
「食べられて、貴女と一つになること」
「一つになる」
「さぁ、どちらが先に居なくなるのか」
「勝負の時と行きましょうか」
何人もの支倉饗子が、口々に呟く。統率されているようで、しかし、それは全て個々の思うままに発した言葉だ。
支倉饗子の生まれながらの欲求。被食欲。――それが、現れているだけである。
「……っ!!」
イナリに、急激な食欲が襲いかかる。
支倉饗子の魔人能力、『いっぱい食べる君が好き』。その第一段階である。
――だが、イナリは屈しない。もっと美味しそうなものを、彼女は既に知っている。
「その程度でわらわは揺るがぬ……お主らより、『すいーつ』の方が百万倍はおいしそうなのじゃ!」
「強情な子。――その表情が歓喜に変わる瞬間を見せて頂戴!」
刹那――支倉たちが、おもいおもいにイナリに向かって走り出す。元が世紀末のモヒカンモブNPCである故か、遠距離兵装だけがなかったのはイナリにとっては救いであろうが――しかし、彼女達の手には、おもいおもいの武具が握られている。斧や剣、はたまた鞭。全て、イナリに向けて振るわれるものたちだ。
だが――この手は愚直だ。
「わらわはこのために……何本もの!アニメを!見てきたのじゃ!多人数でかかってくる敵への対処法くらいおちゃのこさいさいなのじゃぞ!」
そうイナリが言うや否や、刀剣が飛び、次々に支倉化したNPCに突き刺さっていく。
そう言うイナリも手にも既に二本の剣が握られており、刀剣の放射を潜り抜けてきた支倉達を次々と一刀両断していく。
斬るたび、臓物が撒き散らされる。
斬るたび、血が吹き出る。
斬るたび、骨の軋む音が聞こえる。
「……楽しくないのじゃ」
イナリが、思わずポツリと呟く。
少なくとも、今までの2戦は、勝っても負けても楽しかった。
でも、今回は違う。確かに、アニメやゲームのようなシチュエーションで戦っているというのは、普通に考えれば楽しいものなのかもしれない。
だが、彼女にとって、こんなものは楽しくも、幸せでも何ともないのだ。
彼女にとっての幸せ。
それは例えば、海斗との談話であり。
それは例えば、枯葉塚絆との食べ歩きであり。
それは例えば、稲葉白兎との鬼ごっこであった。
全て、普通に出来ること。日常として、人々が当然のように過ごしている時間。
それが、それこそが、本当に楽しいことなのだ。幸福なことなのだ。
だから――終わらせなければならない。
この、楽しくない非日常を、終わらせなければならない。
「どこまで保つかしら。その空腹、その食欲。時間をかければ貴女は――」
「じゃが、否――時間など、かけさせるわけがなかろうということじゃっ!」
イナリが叫び、大きく屈む。
そして――跳んだ。
「【プログラム:――ラピッドラビット】!!」
稲葉白兎の能力、ラピッドラビット。物理法則を超えた超高速移動を可能とする、身体強化系魔人能力。それを、イナリは成長とともに取り込んだのだ。
成長というのは、自分一人で成せることではない。他人と関わり、他人に影響を受け、他人を目標にしながら育つこと。鬼ごっこの如く、先駆者の後ろ姿を追いかけること。それもまた、成長である。
イナリの脳裏に、彼の背中が浮かぶ。
彼もまた、楽しんでいた。
イナリとの、全力の鬼ごっこを。汗を流した、意地と意地のぶつかり合いを。
――そしてイナリは、空中で二本の剣を両手で合わせるようにして、構える。
「まだまだ……【プログラム:――金属曲げ】じゃっ!!」
両手に持った剣がうねり、やがて混ざり合うように一つとなった。およそ百メートルほどもあるかのような刀身が、陽の光を浴びて輝く。
此れもまた、イナリの対戦相手であった人物の能力。枯葉塚絆の、金属曲げ。触れた金属を自由に操る、金属操作系能力。それもまた、イナリは習得していたのだ。
成長というものには、友人というものもまた必要である。時に笑い合い、時にぶつかり合う、心を通わせ合える友。そういうものがいるからこそ、人の心は豊かになっていくのだ。
イナリの脳裏に、彼女の笑顔が浮かぶ。
彼女も、楽しんでいた。
イナリとの、笑いながらのスイーツ食べ歩きを。子供同士の喧嘩のような、微笑ましい意地のぶつかり合いを。
「しまった――!? 早く肉壁を用意して――」
「――遅いと言うておるのじゃあ! わらわの……わらわたちの必殺技を食らうがよい!」
イナリが、全力で、手に持った巨大な剣を振り下ろす。剣の射程は、支倉化したNPCを全て叩き潰してもゆうに足りるだろう。
「お主はわらわに負ける! じゃが、これは力の差ではない! 友の!仲間の!周りにいる全ての人がくれた幸せの結果なのじゃ!」
「――っ!!」
イナリは既に知っていた。――否、わかってしまった、という方が正しいかもしれない。感覚というものは、つまりそういうものであるから。初めに彼女を見た時に、気がついてしまった。
支倉饗子は、自分と同類であるということが。自分と同じ、造られた魔人であるということが。イナリには、感覚ながら、理解出来てしまったのだ。
だからこそ――イナリは、支倉饗子に教えねばならない。
「おヌシも学ぶがよい! 誰も失わない日常の素晴らしさを! 皆が笑顔で過ごせる、何気ないことの幸せを! わらわは――わらわたちは、そういうモノで出来ておるのじゃぁぁあっ!!」
斬撃――地響きとともに、砂煙が舞う。
数秒間の無視界。そして、それが晴れた時、そこに立っていたのは――
「……あっけない幕引きじゃな。次会う時には、もっと楽しい出会いをしたいものじゃ。――支倉饗子。造られた魔人として、わらわと同類たる者よ」
砂煙にまみれた狐薊イナリ、たった一人であった。
■ ■
「ようやくお出ましですか、先輩」
廃工場。既に営業はストップし、錆びついた金属の匂いが充満する其処で、三千院三千は笑う。
「……何か用。こんなところに呼び出す、ってことは――聞かれたくない話か」
そう返すのは、阿久津海斗。じっと三千院三千を見つめ――否、睨みつけている。
彼がここにいる理由は一つ。呼び出されたのだ。『今日の試合後、例の廃工場に来ていただけませんか。イナリちゃんは、寝かせたままにして』と、メールで。
「ご名答――と言いたいところなのですが、しかし残念、不正解です」
ふふふー、とわざとらしく笑う三千。
「私は単に、真実を教えようと思っただけです。いえ、或いは『思い出させようと思った』と言った方が正しいのかもしれませんけれど」
「それはどういう……」
「単純です。私について、私の所業を、包み隠さずお教えしようと言うのですよ」
三千が、ひらひらと手を振る。何の意味もない行動だが、底知れない彼女の企んだような笑みが、そんな何気ない行動でさえも恐怖を醸し出させている。
「えぇと、そうですね。まずは、『キルイーター』のことから話しましょう。魔人にして、生きたウィルス。先輩の妹――ミカちゃんの意識を奪った張本人です」
「……ああ」
海斗が怪訝そうな目で三千を見る。
――何が言いたい。キルイーターのことならばこの間聞いた。何故思い出せなかったかはわからないとはいえ、既に記憶もある。これ以上、何を知っている?
「先輩の知る以上の情報を何故お前が知っている、そう言いたそうな顔をしていますねぇ。まあ、その答えは至極簡単です。――あれは、私が作ったんですから」
瞬間の無音。ピリピリと空気が張り詰め、時が止まったかのようだ。
しかし、そんな雰囲気さえ感じないかのように、三千は続ける。
「いやはや、『キルイーター』は――彼女は実に質の高い完成品でした。初めに実験した時の被害者のミカちゃんが先輩の妹だと知った時は驚きましたけれど、まあ、そのくらいの犠牲はあってしかるべきだなぁ、と納得したというか」
「………それ以上言うな」
「とはいえ、そのせいで“ひとりめ”の『彼女』は居なくなってしまいましたが。自己保存の能力、実に恐ろしいものですねぇ。幸い、”ふたりめ“――今回のイナリちゃんの対戦相手だった『支倉饗子』は無事で済みましたが」
「……やめろ!」
「しかし、先輩にはもっと早く伝えておけば良かったと――」
――刹那。海斗が三千の胸元を掴んで捻じり上げる。
その目にあるのは怒り。ずっと、五年間、腹中に蠢いていた復讐心だ。
「――それ以上言うなら、殺す。……いいや、言わなくても殺す」
「……なーんだ。そんな顔、出来るんじゃないですか。もっと冷めた人かと思っていたのに」
捻じり上げられ、両脚がほぼ地面についていない体勢になってもなお、三千の張りついた笑みは消えない。それどころか、その笑みに嘲笑のような感情さえ浮かんでいるようにも見える。
それが、海斗の怒りを、憤りを、殺意を、ますます加速させるのだ。
「許さない。許さない、許さない……お前は、お前は――――ッ!!」
「……ひとまず落ち着いてください、先輩。話にはまだ続きがあります」
三千はそう言うと表情一つ変えず海斗の手を振り払い、再び海斗の前で笑い続ける。
「今回の試合を見て、思ったんです。イナリちゃんは支倉饗子を超えた。私がずっと『完成品』だと思っていたキルイーター――彼女を超えたんです。なら、私は何をすべきか。答えは簡単です」
「……何が言いたい」
「取引しましょう。先輩の持っているイナリちゃんと、これで。交換条件です」
そう言い、三千が内胸のポケットから取り出したのは――小さな、液体の入った容器。
「『レジ・キルイーター』……ウィルスのワクチンです。元々は私が誤って感染してしまった場合のためのものだったのですけれど――今回ばかりは優先度が低いものですから」
「――ッ!?」
海斗の目が大きく見開かれる。
ワクチン。ミカを目覚めさせる上で、最も簡単で、最も確実なもの。それが、手に入る。――AIを渡せば、至極簡単に。
「……偽物、じゃないという証拠は?」
「安心してください、先輩。私に必要なのは先輩を騙すことではなく、イナリちゃんを手に入れること。先輩に嘘を言って取引が台無しになっては、目的もおじゃん、じゃあないですか。……それがあれば、必ずミカちゃんは目覚めます。嘘だと思うなら、私のことを警察にでも突き出せばいいですよ」
「……そう、か」
嘘は言っていない。少なくとも経験上、三千院三千という女性が取引において虚偽を言ったことはない。おそらく、このワクチンも本物だろう。
――それが手に入るのなら。僕は。
僕は――躊躇なく、自分の子すらも殺すだろう。
「――渡せば、良いんだな?」
「えぇ、勿論です。契約は成立しましたね、先輩」
三千院三千は微笑を浮かべる。
――その日、阿久津海斗の端末から、一つのAIが消えた。
■ ■
白い部屋。幾つもの医療機器が音を立てる、真っ白な病室。
――既に、ワクチンを投与して15分。「ウィルスを消すワクチンではなく、ウィルスの持つ魔人能力を消すワクチンなので、すぐ効くと思います」と三千は言っていた。
五年。五年、眠り続けていた。
その間に、どれだけ周囲が変わったか。世界が変わったか。それを、ミカは知らない。知る由もない。失った時間を取り戻すことは出来ないのだ。
だからこそ、これからは、ずっと妹と過ごすことができる。
あの平和で幸せな日々を、また過ごすことが出来るのだ。
それ以上の幸福はないじゃないか。
――そう。これで良かったのだ。これで、正しいことをしたのだ。犠牲は、幸せのためならば払わなければならない。ただそれだけのことだ。
「……ミカ」
海斗が、優しげな声で呟き、少女の頰に手を当てる。
その瞬間――少女の目が、ゆっくりと開いた。
「ミカ――ミカっ!」
海斗が少女の肩を掴み、抱き抱える。
「良かった――本当に、良かった――」
海斗の頰を涙が流れる。
思えば、この五年間、泣くことはなかったかもしれない。
ミカがああなった時でさえ、復讐心に心が囚われていた故か、涙は流さなかったはずだ。
それが、今は嬉しさで泣いている。それだけ、心の緊張が緩んだのだ。
海斗が、改めて少女の顔をじっと見る。
困惑したような顔だが、まあ仕方がないことだろう。五年間も寝たきりだったのだ。違和感くらいあって当然だろう。
「ミカ……僕が、わかる?」
海斗が、笑みと泣き顔の混ざったような顔で、少女に尋ねる。
少女は、海斗の目をじっと覗き込みながら――怪訝そうな顔で、こう言った。
「貴方は――――誰、ですか?」
■ ■
「……やはり、先輩は愚か者ですねぇ」
三千院三千は笑う。
「イナリちゃんには、彼女から抜き出された記憶データが組み込まれている。そんな簡単な事実すら忘れるとは。いやはや、兄妹愛とはかくも悲しいものです」
笑い続ける。
「さて――この子は、どうしましょうか。感情を取り去って、好奇心だけで動くAIプログラムとしても良いのですけれど――まあ、次に考えましょう」
嗤い続ける。
「とにかく。イナリちゃんと『キルイーター』――支倉饗子をマッチングさせられた今回のことで、マッチング操作が出来ることはもはや確定したと言って過言ではないでしょう。――さぁて、次は誰と戦わせてあげるべきでしょうかねぇ。イナリちゃんの本気、見せてもらいたいものですよ」
三千院三千は、月のない夜を闊歩する。
そして、心の底から、世界を嗤い続ける。
――この夜は、終わりを迎えない。