第3ラウンドSS・世紀末その2

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「だから、なんでそうなるんだ!? 違うって言ってるだろ!!!」
「違わないのじゃ! わらわはなんにも間違ったことなど言ってはいないのじゃー!!!」

狭い部屋の中で、ふたつの怒声が響いていた。

「そうやっていつもいつもいつも! その好き勝手の尻ぬぐいをするのが誰だと思ってる!!!」

片方は、若い男の声。
これでもかというほど怒りが込められていたが、しかし怒鳴りなれていないのだろう、既に少し息切れを起こしている。

「尻ぬぐいして欲しいなんてわらわがいつ頼んだのじゃ!? 主様が勝手にやった事で怒られる筋合いなどないわ!!!」

もうは他方はさらに若い、幼い女の声。
その声は怒っているにしては濁りも詰まりもなく、聞く人によっては怒っているフリをしているようにも聞こえるだろう。
だが、彼女は確実に怒っていた。声に淀みがないのは、合成音声だからだった。

「お前はいつだってそうだ! 自分勝手に動き回って、それで起こした問題は全部無視して! 迷惑だってのがわかんないのか!!?」
「それは主様も同じじゃろうが! それに、自分勝手なのは主様がわらわをそう作ったからじゃろ!! 人に責任を押し付けるでない!!!」
「こ、こいつ……ッ!!!」

二人の口論は、元はと言えばとても些細なことから始まった。
口論自体はさほど珍しくもない。これまでだって日常的に言い合ってきたし、それでも大喧嘩になるようなことはなかった。

だが、今回はいつもとは違った。
厳しい戦いが続き、若い男の方にはかなりのフラストレーションが溜まっていたのだ。
そして、電子存在である幼女には、それが理解できていなかった。
結果として、彼女が軽いコミュニケーションのつもりで始めた言い争いは、互いに引くことのできない大喧嘩と化してしまったのだ。

「元はと言えばお前があんなことになるから、だから僕は、お前を……ッ!!」
「なんじゃ、この期に及んでまだ責任転嫁するつもりか!? そんなだから主様はいまだ大成もせず、こんな狭い部屋に閉じこもっているしかないのじゃろうが!!」
「こ、この野郎……ッ!!!」
「へーんのじゃ。言い返せるもんだったら言い返してみるがいいのじゃ!」

男が日頃から気にしている引きこもり同然の生活環境を指摘し、勝利したような余裕の表情をとる幼女。
しかし内心では、彼が言い返してくること、言い返してくれることを期待していた。

「お、お前なんか……」
「お? なんじゃ、言うてみるがよい。わらわが聞いてやるのじゃ」

だが、出てきたのは、彼女が望んだ言葉ではなかった。

「……お前なんか、作らなければよかった」

その言葉を聞いた瞬間、幼女……狐薊イナリの中で、なにかが壊れた。


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「うう、ぐすっ、あるじさまのばか……」

場所はVR空間、時は世紀末。
イナリはひとり、誰もいない荒野を彷徨っていた。

「ばか、あほ、とんちんかん、おたんこなす……ぐずっ」

鼻をすすりながら、世界の終わりの様相を呈した戦場を歩き続ける。
その姿は、まるで親を亡くした孤児のようだった。

数時間前。彼女は生みの親・阿久津海斗との口論の末、例の「あの言葉」を聞いた。

お前なんか作らなければよかった。創造主直々の存在否定。

それを聞いた彼女のメモリーは一瞬でホワイトアウトした。
目の前の出来事が何ひとつ正常に判断できなくなり、海斗が続けて言ったセリフも聞こえず、わけもわからないまま阿久津邸のコンピューターから飛び出していた。

創造主から否定されることは、被創造物にとって死ぬことと同義だ。彼女は無意識化でそれを感じ取り、生命の危機、その原因から離れようとした。
彼女は痕跡を辿られぬよう、ホワイトアウトしたままの状態でインターネットからインターネットへとジャンプを繰り返した。
そして、もはや当人ですら軌跡を追えなくなったところで、DSSバトルの戦場へと呼び出され、ようやく彼女は正気を取り戻したのだった。

「ぐず……いかん、泣いてない、泣いてない……ううーっ」

べそをかきながら、とぼとぼと歩く。その後ろ姿は孤独だ。

もしこれが真昼のショッピングモールでの出来事であれば、親切な大人が放っておけずに声をかけたりしただろう。
だがしかし、今は世紀末である。そんな優しい人間は、いない。

「ねえ、あなた、大丈夫? どうかしたの?」

いた。
どうやら世紀末でも、人の優しさは途絶えていなかったらしい。

「ふえ……どちらさまのじゃ……?」

イナリは声につられ、伏していた顔をあげる。

すると、そこには白衣を着た、黒髪の女性が立っていた。


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「ちっ、あいつ、どこに行った……!?」

薄暗い部屋の中。先ほどまで口論をしていた若い男、阿久津海斗はひとりごちた。

彼が探しているのは他でもない、彼自身が作り出したサイバー狐娘系のじゃロリAI・狐薊イナリである。
彼女は今、インターネットの彼方へと行方をくらましていた。

原因は海斗の、なにげない一言だった。

お前なんか作らなければよかった。

思わず口をついて出てしまった、被創造物への最大限の罵倒。
もちろん本心ではない。少なくとも海斗自身はそう信じたかった。
だが、それを受けたイナリは違った。彼が止める間もなく、いきなり姿を消してしまったのだ。

あわてた海斗が調べてみると、阿久津邸のコンピューターにはいままで気づかなかったバックドアが存在することが判明。イナリがそこから出て行ったのは明らかだった。

「くそっ、痕跡がめちゃくちゃだ。これじゃあ追いかけられない」

モニターを見つめ、必死でキーボードを叩く。
イナリは確かによくできたプログラムだ。だがしかし、それでも日々進化するコンピュータ・ウイルスに対しては一定の脆弱性を抱えてしまう。
そしてインターネットは一皮剥げば、そういったもので溢れかえった魔境なのだ。
早く回収しなければ、取り返しのつかないことになるかもしれない。そう考えただけで彼の背筋に悪寒が走った。

「ああ、ちくしょう! 必ず手はあるはずだ、必ず……!」

頭を抱え、頭脳を回転させ続ける。
だが、良い手は何も浮かんでこない。

イナリのハッカーとしてのスキルは、既に海斗のそれを上回っている。現に彼はイナリの作った隠しバックドアの存在に今の今まで気が付かなかったのだ。
インターネットというルールの中では、スキルの劣った者が勝つことは不可能だ。
今の彼の能力では、複雑に偽装されたイナリの痕跡から正しい道順を選び取るなど絶対にできない。

自分にできることは何もない。
その事実を受け入れるのは、彼にとって屈辱だった。


その時。薄暗い部屋に、場違いなファンファーレが響いた。

それは、DSSバトルの開始音。出しっぱなしにしていた放送チャンネルのウインドウから流れ出したものだ。

だが、今はそんなものを見ている場合ではない。
海斗はそれを煩わしく思い、消すために画面を切り替えた。

「これは……!」

しかし彼の目は、そこに映し出された文字によって引き留められる。

モニター上には、はっきりと【第3ラウンド第2試合・狐薊イナリvs支倉饗子】の文字が浮かんでいた。


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「んむ、んむ、んむ。にゃはははは!」

狐薊イナリは上機嫌だった。
瓦礫の上に腰を下ろし、小さな口でシュークリームを目いっぱい頬張っている。その姿に先ほどまでの悲壮感はかけらも残っていない。

「どう? おいしい?」
「おいしいのじゃ! ありがとうなのじゃ、はっしー!」
「うふふ、どういたしまして」

彼女の隣には「はっしー」と呼ばれた白衣の女性、支倉饗子が座っていた。
ふたりは廃墟の中で、戦うでもなく並んで談笑していた。

なぜこうなったのか。その理由は、彼女たちが出会った瞬間にまでさかのぼる。

イナリは無人の荒野にて、ひとり泣いていた。まるで迷子のように。
そして、そんなイナリを、支倉は放ってはおかなかった。

彼女はまずしゃがんで目線を合わせ、落ち着いた口調で話しかけた。
イナリがぐずるのを止めるまで待ってから、自己紹介して怪しいものではないと証明。
そして不安を煽らないよう言葉を選びつつ安全な場所まで誘導し、気がまぎれるようにと持っていた手作りシュークリームを手渡した。

それは、見事なまでの、迷子への対応だった。

誤解されがちだが、支倉饗子は基本的には優しい、善人である。
その特異な生態から血も涙もない狂人のように考えられたりもするが、そもそも彼女には人類に対する悪感情はまったくない。
むしろ将来的に自分自身になるであろう人類には、地上の誰よりも優しいのだ。

「ごちそうさまなのじゃー!」
「はい、おそまつさまでした」

イナリは口の周りに就いたクリームをぺろりと舐めとると、ぱんぱん、と両手を打ち合わせて付着した食べかすを払い落した。

「それじゃ、落ち着いたかしら?」
「えっ、あっ……うん、なのじゃ……」

支倉にそう聞かれ、イナリは先ほどの自分の醜態を思い出した。

ひとりぐずぐずと泣きながら、稚拙な罵倒語を吐き出すイナリ。
まるで幼児のように優しくされ、手渡されたシュークリームをひたすら頬張るイナリ。

威厳の欠片もない、みっともない姿。
思い出すだけで恥ずかしくなってくる。イナリの耳に毛が生えていなかったら、真っ赤になっているのが見て取れただろう。

だが、目を背けることはしない。イナリはできる子、これを糧に成長すればいいのだ。

「よかった、安心した」

対する支倉は、ほっと一安心という表情。
やはり色々と気を使ってくれていたのだろう。イナリは自分と体たらくと比べ、とてもありがたく、そしてやっぱり恥ずかしく思った。

「えーと、その……ありがとうなのじゃ、いろいろと」
「いえいえ、そんな大した事してないもの。それで、どうして泣いていたの?」
「う」

イナリの喉がら、呻き声が出た。
それは、できれば思い返したくはないことだ。ずっと忘れてしまいたいことだ。
しかし、ここまでしてもらった恩人に、何も言わないままというのは収まりが悪い。

「もし言いたくないなら、無理に言わなくてもいいのよ?」
「……いや、言う。言わせてほしいのじゃ」

支倉はイナリを気遣って、そんなことを言ってくれる。
だが、そこまで言われてはいそうですかと言わないままで済ませるのは、とても格好悪いことだとイナリは思った。

「あれは、そう……わらわが主様と話していた時のことで……」

幸いなことに、支倉饗子は黙ってその話を聞いていてくれたのだった。


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阿久津海斗は、あるマンションの一室を訪ねていた。

何を隠そう、支倉饗子の部屋である。

彼の目的は支倉の持つVRカードだ。
カードは単なる板のように見えて、その実体は高度に構築された多目的インターフェースである。
参加選手は皆、カードを通じてVR空間に入り、そして戦う。その機能のすべてがあの一枚の板に集約されているのだ。
まさしく現代技術の粋を集めて作られた奇跡のマシン、それがVRカードなのだ。

そして、そのVRカードさえあれば、現在の彼の悩みは簡単に解決する。
正確には、『狐薊イナリの対戦者のVRカード』さえあれば。

他の参加者と違い、イナリは実体としてのVRカードを所持していない。そのため、VR空間には直接データとして乗り込むことになる。
だが通常の参加者は違う。彼らはVRカードを通じて戦場に降り立つ。
つまり、対戦中はカードと戦場が繋がった状態となるのだ。

現在、支倉饗子はイナリと同じ戦場にいる。
であれば、支倉饗子のカードからイナリと接触できる、ということだ。
試合中のイナリは戦場から自発的に離れることはできない。そこを捉えて、カード経由でサルベージできれば、わざわざインターネット内の痕跡を辿る必要はなくなる。

だがそれを実行するには、支倉のカードに彼自身のポータブル端末を接続しなければならない。
そのため、彼は支倉のもとを訪れたのだった。

海斗はドアノブに手をかける。
すると、何の抵抗もなくドアは開いた。鍵は掛かっていなかった。

誰にも見られないよう、素早く内部に滑り込む。
おそらく、部屋の中にはVRに没入し意識を失った支倉が一人きり。そこに押し入る様子を見られてしまえば、不法侵入の誹りは避けられない。
もし捕まったら、最悪、婦女暴行未遂もついてくるだろう。それだけは避けたかった。

内部に入った彼が真っ先に気づいたのは、充満する消毒液の匂いだった。
その匂いは、玄関近くの廊下から発せられている。どうやら最近、大掛かりな掃除をしたらしく、まだその匂いが残っているのだ。

顔をしかめつつ、先に進む。
部屋はひとりで住むにしては広く、まだまだ奥に続いている。

居間とキッチンを横切る。
つい先ほどまで料理をしていたのだろうか、調理道具が出されたままのキッチンでは、換気扇がまだ回っていた。
机の上には、大きめのシュークリームがいくつか乗っている。
手作りだろうか。なかなか美味しそうだが、侵入した形跡を残すわけにはいかない。海斗はそれを食べるのを諦め、さらに奥へと進んだ。

道中、トイレや浴室なども一応調べる。だが、そこに彼女の姿はない。

そして、彼はついに、支倉饗子の寝室に到達した。


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「……と、いうわけなのじゃ」
「なるほど……話してくれてありがとうね」
「いやいや、そんな感謝されるほどでもにゃはは……」

イナリの話が終わると、支倉は深く追求するでもなく、ただ微笑んだ。
ただのそれだけだったが、しかし自らの傷を抉ったに等しい今のイナリにとって、その対応はとても優しく、嬉しかった。

「それで、イナリちゃんはこれからどうするの?」
「これから、のじゃ?」

微笑んだままそう聞いてきた支倉に、イナリはまるでインコのように返した。
これから。確かに、まだその問題が残っていた。

「それは、その……戦わなければならん、のじゃろうか……?」

そう、今はDSSバトルの最中である。
そして二人は対戦相手だ。出会ったのならば、戦わなければならない。

「んむむ、でも……」

だが……今のイナリは、どうしても戦う気になれなかった。

支倉が恩人だから、というだけではない。
失意のどん底に居たイナリを慰め、励まし、支えてくれた。
見ず知らずの相手だというのに、こんなにも優しくしてくれた。
そして……その中で、イナリの中でもあり感情が芽生えていた。

つまり、イナリは彼女の事が好きになってしまったのだ。

「やっぱり、戦えないのじゃ」

棄権しよう。イナリがそう決心するのは、難しい事ではなかった。

だが。

「え? いえ、試合の事じゃなくてね。あなたの今後の話なのだけど」
「……のじゃ?」

当の支倉が考えていたのは、もっと別の事だった。

「あなた、話によると家出したんでしょう? これからどうするの?」
「そ、それは、のじゃ……」

彼女が考えていたのは試合の勝敗などではなく、その後のイナリの身の振り方についてだった。
イナリは自らの浅慮を恥じた。こんなにも自分の事を気にかけてくれる人の隣で、自分は試合の事しか考えていなかったのだ。
顔から火が出るほど恥ずかしかった。穴があったら隠れたい。狐だけに。

「私はね、やっぱり親御さんのところに帰ったほうがいいと思うわ」
「あの、それは」
「あるじさまさん、だったかしら。彼もきっと心配してるだろうし。それともイナリちゃんは本当に帰りたくないの?」
「えっと、あっと、そのぅ」
「ひどい事を言われたのは確かに辛いけど、きっと向こうもひどい事言ったって反省してるだろうし、なんだったら私が一緒に家までついて行ってあげる」
「あぅ、あぅあぅ」
「だから、ね? おうちに帰りましょう?」
「うぅ……はい、なのじゃ……」

恥じ入っている間に、なんだかわからないまま、家に帰るよう説き伏せられてしまった。
もはやイナリに分かるのは、支倉がやっぱりいい人で、そして自分がそんな彼女の事が好きだという事だけだった。


「よかった、分かってくれて。それじゃあ……」

イナリの返答を聞いた支倉は、嬉しそうな顔で立ち上がろうとし。

「それじゃあ、あれ……?」

そして、倒れた。

「え、え? どうしたのじゃ?」

慌てて駆け寄るイナリ。
倒れ伏す支倉の白衣が、どんどん赤く染まっていく。

「な、なにが怒ったのじゃ? わらわは、なにも」

そうして戸惑っている間にも、支倉の身体からは血が流出していく。

「どうすれば、どうすれば」

イナリは混乱した頭で、それでも必死に考えた。
人間は大量の失血をおこしたら死ぬ。では、どうすればそれを防げるか。

輸血。駄目だ。イナリに血は流れていない。
病院。無理だ。世紀末にそんなものはない。
治療。不可能だ。イナリにその機能はないし、技術をインストールしようにも拡張用のデータキューブは持っていない。家を出る時に置いてきてしまった。

「こうなったら、いちかばちか、なのじゃ……!」

もう、残された手段は一つしかなかった。


 ■ ■


肉を刺し、切り、落す。咀嚼し、嚥下する。

血が流れる。手のひらで掬って、飲む。

抉られた腹から、内臓がまろび出る。引きずり出して、齧る。

刻まれた肉の合間から、白い骨が顔を出す。噛み砕く。

目玉を摘み、口に放り込む。ころころと舌で弄び、潰す。

鼻を削ぎ落す。歯ごたえが良い。飲み込む。

舌を噛み、千切る。ああ、なんて、美味しい。

頭蓋を割って、脳を掬う。口の中で、とろりと溶けた。


 ■ ■


「……ううん、あれ? 私……?」
「おお、起きたか! やったのじゃ! 大成功なのじゃ!」

支倉が目を覚ますと、目の前で狐耳の少女が飛び跳ねていた。

「うーん……何か、夢を見ていたような……」
「もう起きても大丈夫なのじゃ! わらわがしっかりと治したゆえな!」
「治した……?」

イナリの言を聞き、自らの身体を確かめる。
どこにも変わった様子はない。怪我一つないし、白衣は白いままだ。
記憶を探るが、覚えているのは急に眩暈がして倒れたことだけ。

「……もしかして、介抱してくれたの?」
「そうなのじゃ! 感謝してほしいのじゃー!」
「ええ、ありがとう」
「えへへそんなにゃはははは!」

誇らしがるように、恥ずかしがるようにイナリが笑う。それにつられて支倉も笑った。

瀕死の重傷を負った支倉が、どのようにして助かったのか?
その種は【プログラム:イナライズ】……通称・イナリ化である。
イナリは死にかけた支倉のVRアバターをイナリ化し、そのプログラムを内側から改革することによって傷を修復、さらに失われた血液をも補充したのである。
生きている相手へのイナリ化は彼女にとっても初の試みだったが、しかしその類まれな集中力と、そして支倉への思いによって見事成功させたのだ。

「本当にありがとうね、なんてお礼をしたらいいか」
「お礼なんてそんな、にゃはははは! はっしーが無事ならわらわは良いのじゃ!」
「そうはいっても……ああ、そうだ。じゃあこうしましょう」

支倉はぽん、と手を合わせて、その言葉を言った。

「この試合、私は降参するわ」
「にゃんと!?」

それは、敗北宣言。
たしかに試合である以上、イナリにとって最も価値のあるお礼だろう。

「よ、よいのか? それだと負けちゃうのじゃぞ?」
「ええ、そもそも勝ちたかったわけじゃあないし。あなたにあげるわ」
「そう? それじゃあ……やったのじゃー! 勝ったのじゃー!」
「おめでとうイナリちゃん、わーぱちぱち」

勝利を喜ぶイナリ。拍手喝采で讃える支倉。
こうして、DSSバトル第3ラウンド第2試合の勝者が決まったのだった。





【勝者・狐薊イナリ】





「た、ただいまなのじゃー……」

試合後、阿久津邸。
おそるおそる、と言った感じで、イナリはスピーカーから帰還報告の声を発した。

きっと海斗は怒っているだろう。だが、支倉に約束してしまった以上、返ってこない訳にもいかなかった。
それに、イナリ自身も、出来る事なら海斗と仲直りしたかったのだ。

きっと怒鳴られるだろう。どこへ行ってただのなんだのかんだの質問攻めにされるだろう。
だが、今回はちゃんと話を聞こう、とイナリは覚悟を決めていた。

だが。

「ああ、うん。おかえり」

海斗は、怒らなかった。

「あの、えっと、その……怒らない、のじゃ?」
「なんで怒る必要があるの?」

あっけからんと言い放つ海斗。まるで数時間前の剣幕が『まるで他人事のように』落ち着いていた。

なにか、おかしい。
イナリはすぐさま、室内のセンサー類を駆使して海斗をスキャンした。

顔認証システム。問題なし。
声紋分析。問題なし。
血液型。問題なし。
身長。問題なし。
体重。問題なし。
血圧。問題なし。
その他いろいろ。問題なし。

検査の結果……確かに、彼は阿久津海斗だった。

「気のせいだったのじゃな、ならよし」

イナリはその結果を、疑うことなく受け入れた。
……否。受け入れるしかできないのだ。機械には、自分自身を疑うことは不可能なのだから。

「主様主様、わらわはまたもや! 勝利してきたのじゃー!」
「へえ、それはすごい」
「そうじゃろうそうじゃろう! もっと褒めてもいいんじゃぞ?」
「すごいすごい、わーぱちぱち」
「にゃはは、にゃははははは! にゃーーっはっはっはっはっは!!!」


夜は更けていく。違和感を残したまま。


 ■ ■


「あれ? 戻れないや」

VR空間内。支倉饗子はひとりごちた。
既に試合は終わっている。だというのに、彼女は現実に戻れなかった。

「なんでかなー、うーん……」

顎に手をあて、しばらく考え続ける。
そして、彼女は答えに思い当たった。

「ああ、そっか。私の体、食べられたのか」

戻る身体がなければ、戻ることが出来なくなる。当たり前のことだ。
そして今、支倉饗子の身体は肉片一つ残っていなかった。

誰に食べられたのか。支倉は知りえないが、それは阿久津海斗である。

彼は支倉の寝室に侵入したあと、『イート・ライク・ユー』にかかった。
当たり前である。日々支倉が生活している空間には当然、彼女の痕跡が残る。それらは海斗が自覚するよりもずっと前から、彼の精神を蝕み続けた。
そして、眠る支倉饗子の身体を目にしたことで、無意識化に溜まった食欲が彼の自我を押し流した。
あとに残ったのは、食べることだけだった。

だが、本来であれば肉体が死亡した時点でVR内の支倉の人格も消えるはずだったのだ。
VR内で支倉が倒れたあの瞬間、現実の支倉は確実に死んだ。
そして、現実の傷がVR内にフィードバックしVR支倉も死ぬはずだったのだが、しかしそうはならなかった。イナリ化である。
イナリ化された物体はイナリと同様の性質を持つ。そして現在、VR空間内に残った支倉饗子にも、イナリの性質が付与されている。

自己変革アルゴリズム。
環境に適応し、自己進化する性質。それが彼女をVR内で生存たらしめた。

そういった複数の事象が重なり、支倉饗子は電子的幽霊(サイバーゴースト)と成り果てたのだった。

「うーむ……まあ、なるようにしかならないか」

あっけからんと言い放つ支倉。
それもそのはず、彼女にとって今の状態はたいした問題ではない。
『イート・ライク・ユー』にとって大事なのは『食物連鎖を続けること』だけだ。
それが果たされた以上、もはや彼女に存在意義はなく……ゆえに、自由である。

「まずは、何ができるか試してみよう。それと」

支倉饗子は電子の荒野にむかって歩き出す。

「お腹が空いたかな」

もはや、彼女を縛るものなど何もなかった。



【つづく】

GK注:このSSの執筆者のキャラクター「支倉 饗子」
最終更新:2017年11月12日 00:45