愛はいつかは奪われるもの
恋は自分で捨てたもの
リスク管理は重要だ。
人よりも少しばかりおぞましい能力を持つ自分にとってもそれは変わらない。
だから誰かに穿たれこの身に穴が空く前に、その弱みを切り捨てる。切り捨てた。これで俺には関係ない。
翻って、今回の対戦相手はまったく理解の及ばぬ相手だ。好き好んで自分の傷口を広げているようにしか見えない。
二回戦の様子も全く見るに堪えない極彩色の悪趣味に塗り込められたものだったから、きっとマゾの変態なのだろう。
だがまあそれでも、敵は敵だ。
―――さて。
組み合わせを見たときから予感はしていた。
先の戦いと同じ手が通用するとは思ってはいなかったが、こうもあからさまに何かしてきそうな相手とぶつかることになるとは。
鷹岡あたりが、何か手を回したのだろうか。
「クソが」
毒づく。
事実、挨拶代わりとばかりに前回と同じ手でVR空間そのものに能力を用いてーー発動しないことに気がついた。
既に、何かを仕掛けているということなのだろう。スマートフォンを通して口座を確認しても、動きはない。
発動だけが封じられた形になる。
恋語ななせの能力は基本「なんでもあり」だ。だから何をされたのか、いくつか予測は建てられるが絞りきることはできない。
しかしそれでも分かることがあるし、それ以上に苛立ちが募る。
「クソがーークソが! クソが! クソがぁ!! あの変態女、ぶっ殺してやらァ!」
そう、あの女について、その評価を幾らか修正しなければならないだろう。なにせ―
「だからさァ」
試合開始と同時に目の前に現れた女が、顔をしかめながら口を開いたのだ。
不自然なほどにからりとしたVR太陽の下、プールサイドで男と女が一人ずつ。水面に写った影と合わせて都合四つの人影が差し向かっている。
「なんであんたって、罵倒の語彙がそう貧弱なのよ」
とっくに捨てたはずのものが、目の前で睨みつけてきていた。
その事実が全く神経を逆なでする。そしてそれが有効だなどと思われていたのだとすれば、それこそおぞましい話だ。
恋語ななせ。あれはきっと、サドの変態なのだろう。
「――。」
その評価が正鵠を射ているかどうかはさておき、遠目にその様子を確認した恋語ななせは、にたりと唇の片端だけを持ち上げた。
「――バァカ」
と、せせら笑う。
刈谷融介は、勝てない。
これ以上、自分が何をするまでもなく。
自分が勝てるかどうかはさておき、あの男が勝つことは、きっとないだろう。
◆ ◆ ◆
愛は捧げて、奪われるもの
恋は貫き、勝ち取るもの
自分の恋に刺し貫かれて、心と身体にいくつも空いたその穴に、僕はおまじないを流し込む。
埋めて固めて乾かして、そうすれば、ほら、元通り。
キャロットオレンジのバレッタとスニーカーは僕に勇気をくれるし、雨上がりの街を走れば濡れたアスファルトの匂いが胸のうちの澱を洗い流してくれる。
走って無理やり跳ね上げた鼓動はそれでも一時、あの胸の高鳴りを思い出させてくれるし、一世代前のスマホアプリからはエフエムダンゲロスが戸川純を流している。
だから大丈夫。僕は元通りだから、大丈夫。
「お砂糖、スパイス、ふたつの素敵」
素敵なおまじないと、素敵な恋。
僕はそういうもので、できている。
他にはもう何もないから、奪われるものだって何もない。だからほら、もう大丈夫。
「ちょっとあなた、大丈夫?」
そう声を掛けられたのは、僕が路地裏でえづいていたときの事だった。
大丈夫だって、言っているじゃない。
◆ ◆ ◆
愛は奪われるもの
恋は喪ったもの
ぽっかりと空いた穴の大きさはこの身の丈よりも大きいのではなかろうか。笹原砂羽は考える。
彼女にしてみれば世界というものはなんとも頼りないもので、ひっくり返されたり叩き壊されたりしたという経験は初めてではない。
だから彼女はその経験則を活かして、まず現実を見ないようにした。いま、何が起こっているのか、努めて考えないようにしていつも通りに振る舞ったのだ。
今までも刈谷融介が仕事で幾日か空けることはあったので、その時と同じように過ごせばいい。簡単だ。
つけっぱなしのテレビやラジオで眠れない夜をやり過ごし、スイートルームから覗く街の展望の端が白く照らし出される頃に、気を失うようにひととき眠る。
そうして目覚めたら昼日中は忙しく過ごすのだ。いや、やることややらなければいけないことなんて無いけれど、ひたひたと追いかけてくる現実に追いつかれないよう、とかく何かをして過ごす。
例えば目的もないのに街の中をぶらぶらと歩き回ったり、コンビニで新作のお菓子を物色したり、或いは
「ちょっとあなた、大丈夫?」
蒼い顔をしてふらふらと路地裏に入っては、えづき始めた女の子の身を案じたりだ。
笹原砂羽にとって、今から逃げるためにやることがあるのなら、それは何でも良かった。
◆ ◆ ◆
愛なんて所詮は他人のもの
恋はこの手で盗むもの
能力を使う度に、この胸の奥で穴は広がっていく。
その穴の向こう側からちらりちらりと覗くものの正体を、わたしはまだ知らない。
さりとて止まる気なんてサラサラ無いから、わたしは今日もわたしのしたいことをするだけだ。
「(そのはずだ)」
嘘ではないし確かにそのつもりだ。
変幻怪盗ニャルラトポテト……もとい、今日はオフなわたしこと鳴神ヒカリは首をひねる。
なにがどうしてこうなった。
場所はとあるホテル。
高級、と頭につけて呼んでも差し支えないだろう。
その最上階のスイートルーム。
ラグジュアル的な形容詞をつけるにやぶさかではない。かく言うわたしも忍び込むならともかく正面から堂々と招かれたのは初めてだ。
さてその高級でスイートでラグジュアルな空間に設えられたテーブルを囲っているのは3人。
ひとりはロリータ服で装った美少女。わたしだ。その美貌たるやきらびやかな部屋の内装にまったく映えると言った所か。
ひとりはくたびれたスウェット姿のやせぎすの女性、笹原砂羽。寝不足を示す目の下の隈が、不健康そうな印象に拍車をかけていた。なんとこの部屋の借り主、ということになるらしい。
……そしてわたしは、彼女のことを知っている。誰あろう、わたしの一回戦における対戦相手であった刈谷融介の……
「(刈谷の……なんだろう?)」
能力を用いて彼女の思考や記憶を垣間見たわたしではあったが、しかし刈谷と彼女との関係を表す適切な語句は思い浮かばなかった。
少なくとも恋人という、平易な言葉で表せないものであることはわかる。愛やら恋に一家言ある3人目であれば、何か知見を示すだろうか。
「笹原さんは……」
と、その3人目が声を上げた。
黒のサブリナパンツにグレーのハイネック。普段の彼女からすれば、少々落ち着いた印象のする服装に身を包んだ、わたしの友人。……そういえばリアルで顔を合わせるのはしばらくぶりのような気がする。
彼女、恋語ななせは続ける。
「刈屋さんの、恋人なんですか?」
思わずむせた。
いや、ほぼ無関係のわたしがむせてどうするという話ではあるのだが。
そうだな! 声に出して確認を取る、大事だよな! でもこれに関しては事前に教えたよなわたし!?
と、ツッコミの意志を込めた視線を送ると、軽い笑みで返された。……こいつ、分かってやってやがる。その笑みがどこか歪んでいたのは気のせい、という事にしておくか。
さて、当の笹原砂羽はと言うと、困ったような笑みを浮かべて俯いている。
どうやら、関係をきちんと言語化できていないのは笹原砂羽自身も一緒だった、という事らしい。
「あー、答えにくかったですか? すいません」
「ううん、気にしないで。ちょっと詰まっちゃっただけだから。
そうね……世間一般的に恋人、って言われるような雰囲気になってるかな、とは思うわ」
「世間一般的に……って事は、笹原さんと刈屋さんにとっては違うって事ですか?」
結構聞きにくい事をビシビシ聞いていくスタイル。嫌いじゃないぜ。
わたしの性別見抜いた時もそんな感じだったよな……ななせ、潜在的にSなのか?
「……うん、そうね。確かに、この間までホテルのこの部屋に二人で住んでたし、そのちょっと前まではアパートで同棲してたし、夜は二人で手をつないで寝たし、この間なんて遊園地で初デートまでしちゃったんだけど」
思わずマーライオンになりそうだった。ただし口から吐くのは砂糖。
ななせは逆に興味津々といった様子で身を乗り出している。
が、そんなわたし達に冷や水を浴びせるかのように、笹原砂羽は言った。
「だけど、ユースケは私を好きじゃなかった。私はユースケを好きなんだけどね」
◆ ◆ ◆
……笹原さんが話し出す、数時間前。
僕が笹原さんに出会って、数時間後。
僕とニャルちゃんは、電話で連絡を取り合っていた。
「……笹原砂羽と知り合った?」
「うん、偶然なんだけどね。日ごろの行いって奴かな?」
「あー……まあ、そうだな。ななせには少しぐらい良い事あった方がいいよな」
「何さその言い方。ニャルちゃん感じ悪くない?」
「何だとー。わたしぐらい感じのいい女はそうそういないって評判なんだぞ」
「男じゃん」
「ぐふっ」
気心の知れた友人特有の小粋な冗談を挟みつつ、僕はニャルちゃんに続ける。
「それでさ。僕がDSSバトルに参戦してるって言ったら、笹原さん喰いついてきて。
刈谷さんがどんな戦いをしてるかとか、気になってたみたいなんだよね。
簡単なところは教えてあげたんだけど、そしたら聞いてほしい事があるって言いだして。
ついでに、1回戦で刈谷と戦ったニャルちゃんから話も聞きたいってさ。
で、ニャルちゃんどうせ警察から逃げる以外は暇でしょ? 付き合ってよ」
「国家権力から逃げてるのに暇とか割とありえないんだけどな……まあぼちぼち暇だよ。
何より、ななせの頼みだしな。いいぜ、行ってやるよ」
やった。ニャルちゃん頼れる女(男)だなー。
「ただ、そうだな。幾つかいいか?」
「ん? 何かな」
「気にしておいた方がいい事がひとつ、気になる事がひとつ、だ。
まずは気にしておいた方がいいこと……『笹原砂羽は刈谷融介の恋人じゃない』。少なくとも、『恋人』みたいに簡単に呼ぶにはあの二人の心情のもつれは複雑怪奇にすぎる」
「……ふうん?」
「なんて呼んだらいいかはわたしにも分からないけどな。『共犯者』と呼ぶには笹原砂羽の依存が過ぎるし、単なる『依存関係』とも言い難い」
「『共依存』とか?」
「わたしの挙げた二つ合わせた訳だけじゃないか。……いや、そうだな、案外近いかもしれない。近いだけで正解じゃないとは思うが」
まどろっこしいなあ。後で直接聞いちゃおっと。
「まあ、それはひとまず覚えておくとして。気になる事って言うのは?」
「刈谷融介の事だ。笹原砂羽は一人で行動してたんだろう?」
「……あ。そうだね、刈谷さんは一緒にはいなかったみたい」
「それがおかしいんだよ。刈谷融介は笹原砂羽と同棲中のはずだ。
……本人がいる前で、DSSでの戦いぶりを私達に聞こうなんてすると思うか?」
「……」
それって、つまり。ふぅん、そーゆーことするんだ、刈谷さん。
「理由は分からない。だが、刈谷融介はどこかにいなくなったんだ……笹原砂羽を、一人残して」
◆ ◆ ◆
「……ユースケがいなくなった理由は、分かりやすすぎるぐらい簡単なんだよね」
笹原砂羽は淡々と語る。
とてもつらい事だけど、それは過ぎてしまった事なのだ。
こぼれた水はお盆に帰らない、のである。
「私が邪魔になったから。彼の弱みになったから。
定番だもんね。恋人を攫って言う事を聞けー、って。
……ああ、まあ、恋人じゃないんだけど、さ」
笹原砂羽は淡々と語る。
銀天街飛鳥と『共犯者』に、自分が誘拐されたこと。
彼らの狙いは、戦闘内容を自分達の望む方向に仕向ける事だったこと。
……刈谷は、彼らと連絡を取ろうとすらしなかったこと。
そして、銀天街は刈谷に敗れたこと。
彼らから解放され、ホテルへと帰ってきたとき、そこにはもう刈谷はいなかったこと……。
「お金もいっぱい貰っちゃって。手切れ金、って事なんだろうなあ。
まったく、ユースケったら。あ、ごめんね。私ばっかり話しちゃ……」
話しちゃって、と続けるつもりだった言葉は、砂羽の口の中につっかえた。
目の前の二人。ななせとヒカリが、ものすごい形相をしていたからだ。
いや、表情自体はあまり変わっていないかもしれない。ヒカリの方は、人懐こい半笑いを浮かべてさえいる。
ただ、その全身から発される気配に、砂羽は気圧された。
殺気とか怒気というものがあるなら、これはきっとそのどちらかなのだろう。
「……笹原さん」
「ひゃ、ひゃいっ」
ななせの言葉に砂羽は半分噛みながら答える。
なんだろう、なんだろう、私は彼女らを怒らせるようなことをしてしまっただろうか、ああごめんなさい怒らないで怒らないで……。
「……笹原さんは、刈谷さんの事が好きなんだよね」
「え? う、うん。そうだけど」
「そうだよね。好きだったじゃなくて好き。現在形。なう。……だったら!」
ななせは声を荒げた。ただし、その対象は砂羽ではなかった。
「刈谷融介ぇ! こんな恋する乙女ほっといて何やってるのー! 野郎ぶっ殺してやる!」
「殺さないで!?」
「大丈夫VRならノーカン!」
「そ、そうなの!?」
「……テンションの上がってるななせはともかくとして、だ」
と、これまで特に喋っていなかったヒカリが口をはさむ。
「確かにそいつは見過ごせない。ななせの信条だけじゃない。わたしの信条としても、だ。
……こりゃ、オフは返上だな。ハッピーエンドのしそこねなんて、変幻怪盗の沽券に係わる」
ヒカリ……いや、変幻怪盗ニャルラトポテトは呟く。その隣ではななせが、うんうん、と頷いていて。
目をしばしばさせる砂羽の顔を、二人がじっと見た。
「……だが、結局最後は彼女の意志だ。そうだろ、ななせ」
「だね。……砂羽ちゃん」
「ちゃ、ちゃん!?」
半周り近く干支が離れている相手にちゃん付けされて砂羽は面食らう。
「そう。恋する乙女はちゃん付けが似合うんです! あ、これ僕の持論だけど」
「そ、そう……なんだ」
そう言われればまんざらでもない。
ななせは続ける。
「砂羽ちゃん。刈谷さんを捕まえたいと思わない?」
「え。……それは、その」
「刈谷さんを捕まえて、よくも私を置いて行ったなこのやろー大好き! って伝えたくない?
あるいは、細かい事を置いといて一発ぶん殴りたい、でもいいけど。
砂羽ちゃんが望むなら、僕はそれのお膳立てをできる」
「……」
砂羽はきっかり3秒、沈黙した。
そして、言葉が溢れだす。さらさらと。やがて、ごうごうと。
「……伝えたい。伝えたいよ。
捕まえて、大好きって、大好きだって伝えたい!
あとそれはそれとして危ないことしないでってぶん殴って止めたい!」
「よーし! なら決まりだね!」
「ああ。……笹原砂羽、安心しろ。準備はななせとわたしが仕上げる」
「うん! 《エンゼル・ジンクス》……【恋語ななせの次の対戦相手が刈谷融介になるおまじない】!」
おまじないが舞い降りる。少女の願うがままに。
「“三人以上でリレー小説を執筆し3周する”……よし、砂羽ちゃん、ニャルちゃん、手伝って!」
「え、ええ!? その……いいんですか!?」
「もっちろん! 恋する乙女が恋をする……。
それは、神様が許可しなくたって僕達が許すんだから!」
◆ ◆ ◆
「てめぇ、誰の許しがあってこんな所にいる」
刈谷は殊更に凄んでみせた。
そんな姿を今までさんざん見せてきた相手だから、大して効きはしないだろうとは思う。どちらかと言えば自分にいつも通りを強いるために、刈谷は砂羽を睨みつけたのだ。
「わっ、…わったっ…しは!私が!」
だが、意外にも砂羽はたじろいだ。
声は上ずり、視線は宙をさまよう。
「わたしが、きき、決めたの! こ、こうするって、じぶんで、決めたの! ああ、アンタになんて、関係ないじゃない!」
仔鹿のように足を震わせながら、びしりと指を突きつけてきた。
誰の信任も意向もなく、笹原砂羽がそうすると決めたのでそうする。それは、彼女の人生の中で初めてのことかもしれなかった。
彼女は刈谷のドスの聞かせた声にたじろいだのではなく、その決断の緊張と高揚に足元を彷徨わせているのだ。
「そうかよ」
なるほど。
そして確かに、自分には関係ないと刈谷は思った。関係がないという事実に少なからず衝撃を受けた自分がまた殊更滑稽で、そして腹立たしかった。
「私は、決めたの! あんたに馬鹿な真似はさせないって、そのために、えーっと」
土気色の肌を精一杯紅潮させて、砂羽は宣言する。
「やっつける!」
もう少し言い方ねえのかよ、と、刈谷は思った。人のことは、言えないのだろうが。
言ってのけた砂羽は、えいやーっ、と気の抜けるような声を上げて刈谷に向かってくる。
きっと本人の脳内では、バトル漫画よろしくさっそうと駆け出しては拳を振りかぶっているのだろう。後ろに効果線だって走っているに違いない。
刈谷はそれを無造作に腕を振るうだけで振り払う。砂羽はぎゃん、と声を上げて尻餅をついた。
「………。」
やはり、能力は発動しない。
砂羽の運動エネルギーを借りて動きを止めることもできなければ、VR空間そのものを借りて砂羽やどこかに隠れているであろう恋語を排除することもできなかった。
「(――能力そのものを封じられたと考えるべきか…?)」
ちょっと何するのよ、と喚く砂羽を尻目に刈谷は思考する。いま、彼女は果敢にも猛然とした再突撃をかけては刈谷に額を抑えられ、ぐるぐると両手を回している。
「――教えてあげよっか?」
嘲るような声音が耳障りだ。
果たして、その声が届くが早いか、一本のナイフが飛んできた。
刈谷はそれを、砂羽をひょいと抱え上げては盾にして防ごうとした。
「うわっ」
声の主――恋語ななせは思わず声を上げる。ドン引きであった。
今更カマトトぶるなよ。死ぬわけじゃああるまいし。
果たしてナイフは
「―――!?」
砂羽に命中する直前に急激に軌道を変え、刈谷に襲い掛かってきた。
さしずめ刈谷融介に必ず命中するおまじない、と言った所だろうか。想定できたことではあるので驚きはしない。刈谷が面食らった理由は別にあった。
「(能力が――発動できた)…?」
ナイフを払おうとした手が触れた瞬間、その運動エネルギーを借りることができたのだ。推力を失ったナイフは、容易く地面に落ちた。
能力そのものを封じられたわけではないのだろうか?
「無駄だよ。あなたにはいくら考えてもわからない。いや…」
恋語ななせは、プールサイドのパラソルを引っこ抜いては肩に担ぐ。武器にするつもりだろうか。
……なぜわざわざそんなものを?
頭の中でちりちりと焼け付くような何かが、思考を阻害する。その正体は不明だったが、少なくとも不快な感覚であることに間違いはなかった。
「解ってしまえばあなたは負けるし、解らなければ僕の勝ちだ。あはは、こんな楽な勝負もないねー」
殊更挑発的に、恋語ななせは笑った。
刈谷は顔に険を深めて、思考を阻害する不快な何かから目を逸らした。
関係ない、関係ない。
あの変態女の思惑なんぞ、これっぽちも関係ない。わかっているのはあの女の失策。
「関係ねえ。貸借天がそのまま封じられたわけじゃあねえなら、姿を晒したてめえの負けだ」
結論にまで進みそうになる思考に歯止めをかけて、その途中経過で持って行動を決定する。
「『貸借天・一括返済』」
「―――っ!?」
そう、少なくともコレはできるようだ。
“借りる”ことは出来なくとも、“試合前に予め借りておいた”運動エネルギーを、今この場で解放する。それができる。
相手の意表を突いたのだろう、恋語は一瞬反応が遅れた。
抱えていた砂羽を投げ捨て、文字通り弾丸の速さでこの変態女を貫く。それで決着だ。
「ふぎゅーーーっ!?」
「あ゛!?」
しかして、次に虚を突かれたのは刈谷の方だった。
投げ捨てようとした砂羽が、不細工な声とともに必死の形相でしがみついてくる。もう離すまい、決して離すまいと言う、それは意地や決意の賜物であったか。とにかく彼女はしがみついた。
弾丸の速度の機動において、意図せずかかる人間ひとり分の荷重は、バランスを崩させるのに充分過ぎる。
「砂羽ちゃん、ナイス!」
先んじて立ち直った恋語が声を上げる。
バランスを崩したところに、パラソルが振りぬかれた。
「ガアアアアアッ!!」
胸元をしたたかに打ち据えられた刈谷は、自分が出した速度のあおりを受ける形で砂羽ごと吹き飛ばされる。
プールの水面に、大きな水柱が上がった。
◆ ◆ ◆
「(クソが!クソが!クソがァ!!)」
がぼごぼと空気を水中へと浪費しながら刈谷はもがいていた。
こんな時までも砂羽はぎゅうとしがみついてくる。邪魔くさいことこの上ない。
というかただでさえ呼吸もままならないうえ、恐らくはろっ骨も折れてしまっているので、しがみつかれると単純に痛い。
しかし相も変わらず能力は発動できなかった。
水から酸素分子を借りることも、砂羽から無傷の骨や酸素を借りることも、できなかった。
――なぜか?
恋語の言葉の意味、わざわざVR内のパラソルを武器にした理由、あいつが投げたナイフからは借りる事ができた。その意味。
「(クソがクソがクソがクソがクソがクソがくそがぁ!!!)」
答えに至ってしまいそうになるのを、胸中を罵倒で満たすことで阻害する。
「無駄だよ」
もがいてもがいてもう少しで水面という所まで来て、その身体にパラソルの柄が押し付けられた。
再び、水面が遠のく。
「本当は、気づいている癖に。それを受け入れれば、僕なんて簡単に倒してしまえるくせに」
恋語の口ぶりには、憐憫の情が込められていた。忌々しい。
「今何が起きているのか。なんなら、僕が教えてあげてもいい」
やめろ、やめろ。
「あんたが能力を使えない理由。それは――」
「(クソがアアアアアアっ!!!!!)」
答えを待たずして、刈谷融介はVR空間からログアウトをする。
その事実を突きつけられるのを恐れて、逃げ出した。
結局のところ、彼は何にも分かっちゃいなかった。
いいや、それよりたちの悪いことに、本当は分かったうえで、目を逸らしては逃げ出したのだ。
DSSバトル 三回戦第七試合
○恋語ななせ - 刈谷融介●
13分21秒
決まり手:ログアウトによる棄権
◆ ◆ ◆
「―――逃げられちゃった」
「逃げられちゃったね」
溺れていた砂羽ちゃんを引き上げて、プールサイドに腰掛けながら僕は唇を尖らせる。
刈谷融介の様子を思い出しては、むう、と僕は唸った。
「こんなこと言いたくないんですけどね」
「うん」
「あんなんのどこがいいの砂羽ちゃん」
「………えへへ」
ああ、はい。
その顔でもうお腹いっぱいです。
今の僕は、同じ顔ができるだろうか。
「…次こそ、とっつかまえてやるんだから。私が、彼を」
ぐ、と握り拳を作って、彼女は笑った。
それはまったく恋する乙女の顔だ。きっと、彼女はもう無敵なのだろう。
正直言って人の恋にかかずらっている場合じゃないけれど――敵じゃないのなら、だれかの恋はみんなきちんと実ってほしい。
嵯岐橋さんと尻の人だって、あんなことが起きなければ、……いや、あんな事があった今でも、うまくいってほしいとだって思っている。
…なんて、虫のいい話なのかな。
「きっと、できるよ。砂羽ちゃんは、強くて、恋をしているから、無敵だし、綺麗だ」
実際、彼女のガッツが無ければ僕はきっと負けていた。
転じて言えば、彼女こそが刈谷融介に勝利したのだ。
「ななせちゃんだって、強いし、恋してるし、綺麗だよ。肌とかもちもちだし」
もちもち。
なんて言葉にちょっと笑ってしまう。
「………どう、かな。」
―――ぼくは。
「ずいぶん、汚れてしまったし」
「―――そんなことない!!」
不意に大声を上げた砂羽ちゃんに、びくりと僕は肩を震わせてしまう。
「そんなこと、ないよ…。ううん、そんなこと、言わないで」
肩を掴んで告げるその声と瞳は真剣で、そして、とても悲しそうだった。
「そんなこと、ないんだから」
彼女の目の端に浮かんだ涙に誘われるようにして、僕は涙を流す。
声だってあげる。
僕はようやく、人の前で、泣くことができたんだ。
◆ ◆ ◆
「――結局」
変幻怪盗ニャルラトポテト(オフでない)は友人に問いかける。
「刈谷には何を仕掛けたんだ?」
なんらかのおまじないが介在したのは分かる。しかしななせがなにをしたのかはとんと分からなかった。
「んー?簡単だよー。いくつかやり方はあったけど、おまじないも手伝って貰えればすぐできるものだったし」
「ふむ」
確かに妙な頼まれごとをした覚えはある。
頷いて、続きを促した。
「VR空間を丸ごと、所有権を刈谷さんのものにしたんだ。今回僕が仕掛けたのは、ナイフのやつとそれだけ。実際、それで十分だったしね」
「はー……」
なるほど。
刈谷の能力は他人のものを借りる力。
転じて、"自分のもの"は借りられない。そういうロジックだろう。
だから刈谷はあの空間において、水も空気も、パラソルが持つ運動エネルギーも借りる事が出来なかった。
上手いこと考えたものだ。借りる事が出来たのは、外から持ち込まれた道具や人間――ん?
「…って、いやいやいや、それだけじゃ説明がつかないだろ。それにあいつも馬鹿じゃない。すぐに気づかれそうなもんだけどな」
看破されてしまえば簡単だ。
刈谷がVR空間の所有権を放棄してしまえば、改めての刈谷無双といった所だろう。
なにより、笹原砂羽から借りる事が出来なかった説明がつかない。
「うん。だからバカだったんだよ」
「はぁ?」
「バカだったの」
したり顔で、ななせは笑う。
「刈谷さんは"砂羽ちゃんから借りる事が出来なかった"
――――だから、VR空間が自分のものになった可能性を考えなかった。考えたくなかった。その意味を、知りたくなかったから」
「……どういう意味だよ」
「わからない?本気で?」
ドヤ顔を見せるななせ。思わずチョップしてしまった。
「あいてっ。 つまりさあ、簡単なんだよ、本当に」
「砂羽ちゃんは、"身も心も刈谷融介のものだった"――だから、借りられない。何も奪えない」
………。
えっ。
「…マジで?」
そんな理屈で?通るの?
「マジだよ」
何を当たり前のことを、と、恋語ななせは人差し指を立てる。
彼女にとっては、当然すぎる宇宙の真理なのだろう。
「だって恋する乙女だよ?」
――お、おう。
恋って、すげえなあ。
◆ ◆ ◆
勝利を祝して拳を合わせ、ニャルちゃんは笑って去って行った。
「―――ああ」
じんと手の甲に熱が籠る。
そこにそっと、唇を落とした。
――やっぱり。
地の底で這いずり回って
屍肉を食って裏切って裏切られて尊厳も矜持も擲って
そんな地獄の底の底でも、まだ更に落ちる先がある。
――――やっぱり、好きだなあ。
それが、恋だ。
隣に立って声を聴いて、同じものを見て笑って怒って
そうして時折触れるだけで。
どうしようもなく嬉しくなってしまう。
あの子が私の仮面をかぶった時に、気づいただろうか。気づかれてしまっただろうか。
私はその先を、目指してしまっていいだろうか。
あの子の為に、何かを捧げられるだろうか。
私の為に、何かを奪ってしまえるだろうか。
◆ ◆ ◆
愛はいつかは奪われるもの
恋は自分で捨てたもの
刈谷融介は相変わらずで、何もわかっちゃいなかった。
けれど相変わらずの男を置いて、世界は少し変わっていく。
愛は捧げて、取り戻すもの
恋は貫き、勝ち取るもの
少しだけ前を向いた少女がいた。
愛なんて所詮は他人の物
恋は容易く盗めないもの
舌を巻いて、友を見直した少年がいた。
愛はこれまで受け取ったもの
恋はこれから返すもの
自分の足で、歩き始めた女がいた。
恋物語の、決着は近い。
<恋語ななせ3回戦:了>
<勝者:恋語ななせ>
<ななせの恋物語:喪失 そして決着間近>