恋は誠に影法師。
いくら追っても逃げていく。
こちらが逃げれば追ってきて、
こちらが追えば逃げていく。
〜シェイクスピア〜
◆◆◆◆◆
『どうして裏切ったの?』
僕はまた吐いた。とっくに胃は空っぽで胃液しか出ないんだけど、それでも吐いた。
「違う……」
へなへなとトイレのそばに座り込む。つらい。苦しい……助けてほしい。そう思ったけれど、ここにいるのは僕だけ。
二試合目以降、僕はC3ステーションが用意した宿泊施設にいる。あんなことを泣き叫びながら対戦相手を絞め殺した身としては、どんな顔をして家に帰ればいいのか分からなかった。学校も休みつづけている。
『どうして裏切ったの?』
「違う!」
裏切ったのは君だ!僕は……君が裏切るように仕向けただけだ。
狭岐橋さんへ感じていた嫉妬にも似た怒りは、あれから急速にしぼみつつあった。八つ当たりのような感情と完全に戦況を支配した高揚は、苦痛と違ってそう長く続かなかったのだ。人を騙すことってこんなに苦しいことだったの?そんなの知りたくなかったよ。
いま僕の顔を覆う手。VRだろうと、この手で彼女を殺したんだ。死に際の彼女の顔、苦痛で歪んだ、けれどこちらを最後の一瞬まで見据えていたあの表情が脳裏にこびりついている。
怯えと悲しみと怒りがないまぜになったあの顔。それは僕にとっては悪夢でもあり、瑞夢でもあった。何度も夢に出て、そのたびに僕は飛び起きて眠れなくなってしまう。たまらなくイライラする。
手首には幾重にも赤黒い横線が走っている。リストカットによる痛みと喪失感、退廃的な恍惚だけが僕を落ち着かせていた。
「はは、ははは……」
すえた臭い。あんなに荒く呼吸していたのに、吐瀉物を流していないことにも気づいてなかったみたいだ。
レバーを動かし水を流す。口をゆすぎ、備えつけのタオルで拭く。それだけなのに、なんだかドッと疲れてしまう。
「一番になればいいんだ……そうすれば……」
そうすれば過去を変えられる。この現実は虚構になる。僕、恋語ななせはそれにすがることしかできない。
◆◆◆◆◆
僕だけが持つ強みは、対戦相手をおまじないで決めてしまえるところだ。これを使わない手はない。じゃあ、誰と当たるのが僕にとって都合がいいんだろう?
身もふたもない言い方をしてしまうと、こちらの思惑に乗ってくれる人がいい。そういう点で狭岐橋さんは最高の相手だった。同性で同年代、参加理由も明確。僕にとって最も予想を立てやすい人は彼女だったんだ。……悪意がなかったとは言わないけど。
けど、僕は対戦相手に『騙してもあんまり良心が痛まない』という条件を加えないといけなくなった。自分で思っていたよりも、僕は悪人に向いてなかったんだ。
だからこそ、より冷徹に勝ちを狙えるよう成長しなければならない。
そこで僕が選んだのは、刈谷融介さん。たぶん残り参加者の中では一番さまざまな取引に応じてくれそうな人。怪盗が変身したあの女性という、目に見える弱点がある人。二回戦の結果から、劇的敗北を望む観客が急増している人。
そして経歴上、恐らく最も冷徹に番外戦術を行える人。彼に挑み、そして乗り越えることができれば——そのカタルシスは大きい。クソ外道カス観客どもだって満足しやがるだろう。
それにこれは完全に偏見なんだけど、社長って悪いことしてそうだよね。だから大丈夫。心置きなくやれる。大丈夫ったら大丈夫!それ以上は苦しくなるから考えないことにした。
そんなわけで、準備の一環としてアポイントメントをとったのである。
「ここでホントにあってるのかなぁ……」
前回のように、VRカードを通して直接会うことは確約できた。けれど刈谷さんは場所と日時を指定してきたんだ。こちらから面会をお願いしている以上、その程度の条件は飲まざるを得ない。
夜中に一人で繁華街をうろつくのはなかなかスリリングだったが、今更そんなことでビビっていられない。
「し、失礼しま〜す」
僕は雑居ビルの扉をゆっくりと開けた。まず驚いたのは、その鈍く光る扉が思ったよりもずっと厚かったことだ。そうして扉が開けばワッと音が飛び出してくる。ムーディーなBGMに、男女の絶え間ない嬌声。
中を覗けばいくつものテーブルとそれを囲むソファ。その関係と同じように、男性を取り囲むかたちで女性たちが座っている。間接照明でぼんやりと照らされているのが余計にいかがわしい。
「キャバクラじゃねーか!!」
ジロリと沢山の目がこちらに向けられ、思わず扉を閉めてしまった。すいません、ちょっとこっちもパニックなんです。この世に女子高生との合流場所でキャバクラを指定する成人男性が存在するだなんて考えてなかったんです。
「ちょっといい?」
「ひょえっ!?」
驚きすぎて変な声を上げてしまった。見れば、扉を開けて女性が出てきているではないか。スラッとしている美人さんだ。僕でも思わず見とれてしまう。
「恋語ななせさんであってるかしら?」
「は、はい!」
「ふふ。元気ないい子。私は夢。刈谷さんの……そうね、部下みたいなものよ。あなたを案内しにきたの」
◆◆◆◆◆
夢さんは僕を連れて店内をスルスルと進み、奥にある階段まで連れて行ってくれた。なんでも刈谷さんは最上階にいるらしい。
「ごめんねえ。ここから彼の部屋まで階段しかないのよ。ちょっと歩くことになっちゃうけど大丈夫かしら?」
「はい。全然問題ないですよ」
カツコツと音を立てるヒールの後ろについて階段を登る。少しでも上を見るとどうしてもお尻が見えてしまうのだ。そんなことを気にしてしまう自分が無性に気持ち悪い。
「その、こんなお店でごめんなさいね。今日は焦らしプレイデーだから健全な方なんだけれど」
「ジラシプレイデー?」
「そ。ここってキャバクラじゃなくて風俗なの」
「キャバクラジャナクテ・フーゾクナノ?」
聞いたことのない日本語に頭がクラクラしてきた。ふ、風俗?ということはまさか、あんな場所で、みんなして……?なんて破廉恥なんだ!えっちなことはいけないと思います!!
言葉を繰り返すだけの僕を、夢さんはカラカラと笑った。
そして言う。
「私たちには、こういう発散の場が必要なのよ。人間の姿もサキュバスの姿も、どちらも本当の自分。上手に付き合っていくしかないわ」
「っ……」
真っ赤になっていた顔が、途端に青ざめる。サキュバス。僕の殺した相手、その同類。彼女の影は、こんな形でも僕を苦しめるのか。
「さ、着いたわ。あとで軽食を用意するわね」
夢さんは扉の前で振り返り、気負ったところもなく目の前を通り過ぎていく。チラリとこちらを見たような気がする。ところが僕は見られることが恐ろしくて俯いたから、本当のところはよく分からなかった。
ポツンと取り残された僕は、今度こそ薄っぺらい扉を開ける。
その先にいた人物は予想外の姿をしていた。髪はボサボサひげはボーボー、ワイシャツはだらしなく着崩れている。
「よく来たな。まァ座れよ」
しかしそれはまさしく、刈谷融介だった。
◆◆◆◆◆
「本日はお会い頂きありがとうございます、刈谷さん」
「おべんちゃらを」
ソファにだらしなくもたれかかり、足を組んだまま、刈谷さんはギロリとこちらを睨みつけた。もしかしなくても……めちゃめちゃ機嫌悪い?
「さっさと要件を話せ。八百長か?」
「端的に言えば、そうなります」
「プレゼンしてみろ」
「……は?」
プ、プレゼン?確かに説得材料はいくつも用意して来たつもりだけど、そう言われるとなんだか拍子抜けしてしまう。
「正直に言って、俺はもう大会なんざどうでもいい。飽きた。だからお前は、俺をうまいこといい気分にさせてみろ」
いや、違う。甘かった。これは戦いの準備なんかじゃなくて、既に戦いなんだ。
僕は刈谷さんが、効率的に勝ち進みたいから話に乗ってくれたんだと勝手に思っていた。
ところがそうじゃない。どっちでもいいからとりあえず応じただけなんだ。僕は気を引き締める。やるしかない。
「ちなみにお前、今のところマイナス百億万点な。なんで一、二回戦の賞金を情報収集に使わねえんだ。妄想を組み立てて妄想以外のなにかになると思ってんのか?お前、もしかして実は頭が悪いのか?防諜してる俺がバカみてぇだ」
ものすごく貧弱な語彙による罵倒に、思わずイラっときてしまう。決意がくじけそうだ。
「もう飽きたんじゃないんですか」
「一ヶ月の契約なんだよ。で、なに俺のペースに合わせてんだ。頭が悪い上に相手の気持ちになってあげられる子なのか?」
なにが言いたいのかよくわからないが、とにかくバカにされているのは分かった。殴っちゃダメかな。
大きく深呼吸をして、冷静になれるよう努める。机の下で手首をさする。じくじくとうずく切り傷が僕を支えてくれた。
「正直に言います。当初の『賞金をお渡しすることで勝ちを譲ってもらう』という計画は、確かにこの状況では妄想以外の何者でもありません」
「きちんと反省した。五点」
加点すっくな!なんだこいつ!!
「ですから僕は、僕自身の話をしようと思います」
「お前の?」
よし、かかった。
「そうです。刈谷さんならきっと、僕のFランクでの試合にも目を通していると思います。そして、それらと直前の第二試合に……ギャップのようなものを感じてらっしゃるかと。
それらを含めて、僕になにがあったのか、どうして戦っているのか。全て、正直にお話しします。その上で、判断していただきたいです」
「あっそ」
いかにも興味なさげに、刈谷さんはこちらを見ている。ポーズだ。彼にとって、この状況は損でも得でもない。どうせ後で断ればいいのだから、今断る理由はない。そのはずだ。
『エンゼル・ジンクス』、八百長が成立するおまじない。今から一時間のうち三十分以上喋っていること。
「……」
いけるか?早く決めてくれ!
そのとき、コンコンとノックの音が聞こえた。ああ、夢さんが軽食を持ってきたのか。もどかしい。一刻も早く話を始めなければならないのに。
「メシを食ってからだな」
ほら、こうなる。部屋に入ってきた夢さんは、バゲットにレタス、たくさんの生ハムを乗せたお皿を机に置いた。
肉。
肉だ。
目の前に肉がある。
「どうした?早く食えよ。俺の出したメシが食えねぇのか?」
僕は吐いた。胃液だけの吐瀉物が床を汚す。そこへ沈み込むように僕は倒れた。
あの一回戦から、僕はご飯を食べられなくなっていた。食事という行為そのものに忌避感を感じるようになってしまったのだ。特に肉。赤くて、ヌラヌラしていて、見ることすらできない。
倒れ込んだ僕を、夢さんが気遣わしげに覗き込む。大胆な胸元が見えて、下腹部に血液が集中していくのが分かった。——だから、やめろ!僕は……女の子なんだぞ!!
意識が薄れていく。ろくに眠れていなかった弊害だ。最後に刈谷さんが、ボソリと呟いた言葉が聞こえた。
「だからお前はマイナス百億万点なんだよ」
まさか。
場所も夢さんも料理もなにもかも全部——わざとか。
◆◆◆◆◆
刈谷融介がC3ステーションに売却した映像作成会社では、『The fact』という番組を販売していた。事実とだけ名付けられたそれは、まさしく事実を放送するドキュメンタリーだった。それも、見て見ぬ振りをした方がよい事実ばかりを。
その折、彼は夢というサキュバス迫害から仲間を守ろうとした人物と出会い、最終的に資金援助と撮影した映像の破棄を確約することになる。
それが高じて、砂羽から逃げた彼が逃げ込む先が風俗になったのだ。そんなところに乗り込む女性など普通はいない、という考えである。
なお、サキュバスに抵抗できる男性とは性機能の重篤な障害を持つ人物ということになる。しかし恋語ななせの物語にとって、彼らの顛末と刈谷が童貞だということは全く関係がない。
◆◆◆◆◆
翌朝。僕は顔も見たくなかったが、刈谷さんと夢さんの二人に見守られながら目を覚ました。どうやらぐっすり眠ってしまったようだ。
「……どうぞ」
おかゆが出される。拒否しようとしたが、そんな元気もなかった。
「夢はなにも知らない。俺がこの店を立てた分の借りがあるから、いうことを聞いていただけだ」
だからこれを食えと?どこから目線なんだ、それは。渋々口を開く。あれ?……おいしい。温かいものを食べたのはいつ以来だろう。
涙が、止まらない。
どうして?
どうして……。
「お前さ、向いてねえよ。悪いことすんの向いてねえ。もうやめろ。テキトーに済ませて、家帰って寝ればいいじゃねえか。諦めちまえよ。なにをそんなに意地になってんだ?なにかを諦めて逃げたって、死ぬわけじゃねえんだから」
だって……だって!
「僕には、この恋しかないんです!」
あれは、中学一年生の頃でした。
僕は陸上部に入ったばっかりで、初めての競技場での大会でウキウキしていました。それで、転んで怪我をしてしまったんです。
もちろん、単なる擦り傷でした。大会とは関係ないです。ただ、そのとき……通りすがりのお兄さんが、僕にバンソーコーをくれたんです。可愛らしい絵柄でした。「妹に無理やり持たされてるんだ」なんて、聞いてもいないのに言い訳をしながら。はにかみながら——僕にくれたんです。
彼とはそれっきり、ずーっと会っていません。でも、こう思っちゃったんです。「あ、好きになっちゃった」って。そしたらもう、どうしようもないじゃないですか。
だって、好きになっちゃったんですもん。
それから私は、この魔人能力に目覚めました。『恋を叶えるおまじない』と同時に。当時はDSSバトルが何か知らなかったけど、僕はいつ彼と再会してもいいように……勉強も部活も、女の子磨きも頑張ってきました。
けど、あの一回戦で……。
僕はそれきり、また涙を流して喋れなくなってしまった。なんでか夢さんも泣いている。その横で刈谷さんは、なんだか難しそうに眉を潜めていた。
「恋語ななせ。五点とったよな」
仏頂面のまま、彼は言う。
「マイナス百億万点と、五点です」
「口答えすんじゃねーよ、雑魚が。その五点に免じて……普通に戦ってやる。だから準備してこい。ぶっ殺してやるからよ」
◆◆◆◆◆
そして、当日。
「ここに来るのは三度目です」
「そうか、俺は二回目だ」
C3ステーションは、他社と提携して実在の地域をステージにすることがある。盛り上がる戦闘があれば、実地の観光にもつながるからだ。
当然のように銃火器で武装している乗組員ばかりの豪華客船もそう。次回のクルーズは予約が相次ぎ超満員である。
今回のリゾート施設もまた、実在する空間を模していた。
日本有数の大人気遊園地、パチェっと!パーク。中南米の刃物、マチェットを持っているマスコットキャラが大人気なのだ。
「へえ」
バッタリと出くわして驚く演技をするはずの刈谷は、真っ先に地面に手を当てて呟いた。どこか感心したような趣がある声色だ。
「刈谷さん、今なにしました?」
「土地を借りたんだ」
同じくビックリするつもりであらかじめ近くにななせは絶句する。こいつやりやがった。
あの二回戦について運営が発表した解析結果では、
『土地』を借りることで自分以外がその土地に関わる権利を剥奪。すなわち立ち入り禁止区域にすることで、逆説的に対戦相手が土地の外側に弾き出された。
とのことだった。
納得できるような、できないような。「立ち入り禁止なんだから出て行かなきゃダメに決まってんだろ」というクソ真面目な意思をななせは感じた。
そしてその、あまりにも野坊主な能力の使用。刈谷の評価が大きくヒールへと傾いた要因である。
おかげで観客の動員は少ない。誰もこの試合が長続きするとは思っていないのだ。しかし二人は出くわしても会話をするだけ。モニターの向こうで彼らは囁く。
前回とはなんか違うぞ、と。
「流石は鷹岡社長、そしてリアルVRだ。技術力は伊達じゃないようだな」
そう、彼の能力は封殺されたのだ。
どうやって?その貸借契約をさらに『貸借天』で上書きすることで。
誰に?もちろん、システムそのものに。
リアルVRとして能力を再現できるということはすなわち、能力を完全にデータ化できているということだ。ならばそれを再現できぬ道理などない。この電子空間において真に力を持つものは、十六人の戦士ではなく主催なのだ。ただ、その力を振るわぬだけで。
「これならいけそうだな」
「今度はなにをするつもりですか?」
鋭く目を光らせて問いただす。短い付き合いだが、ななせには刈谷という人物が神経質な計画性とそれを投げ出す破滅的思考を併せ持っているとうっすら分かっていた。
「コイツだ」
そう言って、刈谷は財布から一万円札を取り出す。
「運営さんよォ!俺の能力が参照する口座を、本来のものからこの一万円に変えろ。恋語ななせとかいう、ちょっと信じられないくらいのマヌケには、それくらいがちょうどいい」
現実世界ではできない、能力の改ざん。しかし、データ化されたこの世界ならば十分に可能だ。二週間もかければ——特に危険視されていた刈谷の能力は——すでに解析されている。
変化はすぐに現れた。紙幣が緑色の0と1に分解され、消える。直後、パーク中央にある伝説のマチェーテ(高さ二十メートル)の上に『10,000』と表示された。
なるほど、これなら。
(勝てる可能性は、ゼロじゃない!)
「では、刈谷融介という特別アトラクションを楽しむといい」
だからと言って、ここで突っ込んで勝てる相手でもない。間違いなく消耗させる必要がある。それに彼はいま、ある程度は意識的にヒールを演じている節があるではないか。
それは僅かだが、確かな隙だ。この瞬間に殺そうとしなかったことを後悔させてやる。ななせは腹を決め、一目散に逃げ出した。
「お前は五点だ。だから俺が待ってやるのは五秒」
その五秒で、魔人陸上アスリートである彼女は百メートル以上の距離を稼ぐ。しかし、ななせはちっとも安心できなかった。範囲攻撃は刈谷の十八番である。
「それ」
再び地面に手を触れた刈谷が、そのまま地面に陥没する。
するとどうだ。その衝撃が伝わり、彼を中心として蜘蛛の巣状の亀裂が数百メートルにも及んでいくではないか。
それは当然ななせの足元にも及び、彼女は足を取られてしまう。
「地上十センチの地面から、耐久性と質量を奪った。もう返したがな……ちょろちょろ動かれると面倒なんだよ」
(この人の、ここが強い……!)
ななせは歯噛みする。
(口ではああ言っておきながら、僕のことを全くナメてない。条件の中できちんと本気を出してくる!ふ、風俗店でもそうだった。あのときは遅れをとったけど……今度は、準備してきた!)
なんとかバランスをとってななせは走り続ける。粉砕された地面はぐらつきと凹凸で非常に走りづらい。能力がなければ私には足しかないのに、いきなりその足を潰しにかかるのはちょっとガチすぎるだろうと思う。
すると、頭上に影が出来た。
「えっ?」
慌てて避ける。二発、三発、四発。避けきれず肩にぶつかってしまう。五発、六発、七発、八発。どんどん増えていくそれは、瓦礫の豪雨だった。
このままでは削り殺されてしまう。ななせは迷わずカードを切った。
『エンゼル・ジンクス』、明日二十四時までなにか飛んできたものにぶつからないおまじない。
条件は、指パッチン一回。
「やりぃ!」
パチリと指を鳴らし、比較的平坦なところを選んで走る。瓦礫が彼女に落ちてくることはもうない。今は逃げあるのみ。とにかく距離を離し、態勢を立て直す必要がある。
「チッ……」
刈谷は大げさに舌打ちをした。彼が今まで行っていたのは、瓦礫から重力を借りての遠距離攻撃である。蹴り飛ばした足元の破片は重力にとらわれず斜め上へと飛んでいき、彼が任意で能力を解除した瞬間に降り注ぐという寸法だった。
そう、この男……能力の発動条件は参戦時に申告していたものの、解除条件に関しては一部あえて黙っていたのである。だって聞かれなかったし。
二度目に触れたものの貸借契約が全て解除されることは事実。
しかし、借りているものを自由に返せないなんて誰も言っていないのだ。
そうして大雑把な攻撃を行なっていたが、空振りに終わった。どうやら素早く『エンゼル・ジンクス』の条件を満たしたらしい。
「……次」
残り9,908円。希少性がなく、一瞬借りるだけで致命的なものなどいくらでもある。違約金を含めても、そうやすやすと一万円には届かない。
◆◆◆◆◆
おまじない、おまじない、おまじない。ななせは何度も『エンゼル・ジンクス』を発動した。体調を整え、身体能力を強化し、精神に冷静さを与える。今日一日はお腹も減らず、眠くもならない。股間を気にする必要だってない。彼女は何度もなんども『エンゼル・ジンクス』を成功させていた。
ここまで『エンゼル・ジンクス』が成功するのは、戦闘の直前に成立した『明日二十四時まで簡単な条件のおまじないだけになるおまじない』だ。
『あくびが出るほど簡単なおまじない』から始め、およそ上から三つめの簡単さでおまじない難易度の固定に成功した。
これは失敗するとその難易度は全く出なくなる諸刃の剣である。その上『エンゼル・ジンクス』には、『自分の能力そのものに干渉するおまじないをすると、それと全く同じ期間だけのおまじないしかできない』という嫌な法則がある。
それはランダムなおまじないの難易度で観客を楽しませる予定だったななせにとって、報告するまでもない情報だった。
(……来た)
ななせは土産を販売する店内にて息を潜めていた。ズシン、とこの辺りの地面も破壊される音が聞こえる。
それは店内も例外ではない。床に亀裂が走り、衝撃によって破片が浮き沈みする。やはり足場が悪い。相手は毎度なにかしらを借りてスムーズに移動しているのだろうが。
(……来た!)
今度は天井が崩落してきた。また建物の耐久性でも奪い、自重で自壊するよう仕向けたのだろう。恐らくすべての建物に行なっているはずだ。しかし、既に『物がぶつかってこないおまじない』を成立させたななせには当たらない。
カウンターの裏手に潜んだまま、じっと機を待つ。まだ見つかっていないはずだ。
瓦礫だらけの地面では、足音がよく聞こえる。まだ見つかっていない……はずだ。
(本当に、まだ見つかってないの?)
チラリと伝説のマチェーテの上へ目を向ける。7,452円。
はた、と気づく。
『物がぶつかってこないおまじない』を成立させた以上、自分の周りは崩落を免れる。それはまぎれもない事実だ。すると、ぽっかりと瓦礫の落ちてこなかった空間が生まれることになる。
(本当に?まだ見つかってないの!?)
ななせがカウンターから飛び出すのと刈谷が上空から飛び込んでくるのは、ほぼ同時であった。
「き、危機一髪!」
気づくのが一瞬遅かったら死んでいた。慌てて走り出すも、刈谷はピタリとついてくる。というか、めちゃめちゃ速い。身体能力や地形への適性を上げたななせより速い。
そう、この男……聞かれなかったから言わなかったことがやっぱりあるのだ。それは、『借りたものは今すぐ使わなければならないのか?』という疑問。
答えはNOだ。運動エネルギーのようなものは一度借りてしまえば、いつ使うかは勝手に決められる。借り続けている間は無論支払いの義務があるし、もう一度触れられたら使えずに終わる。
「死ね」
しかし現状として、刈谷は自らに向けて崩落してきた数々の瓦礫から受けて貯めておいたエネルギーをまとめて使用していた。なんのことはない、自分にぶつかった瓦礫を避ければいいだけなのだ。
身体強化済みのななせすら捉える、運動エネルギーの奔流。
ななせにしっかりと追いつき、
その背に手が触れる。
「初里流忍術ゥ!!」
「……は?」
正確には、ななせの服、その背中の部分に。
『明日二十四時まで初里流忍術の達人になるおまじない』。もう前回おっぱい出しちゃったし背に腹は変えられないのだ。
予想通り、その技術は十全に機能した。彼が触れたのはななせではなく、ななせの服。だって脱いじゃったし。上半身はもうブラだけだし。
接触系の能力を持つ魔人には二種類存在する。服も人間の一部と考える魔人と、考えない魔人だ。たいていの魔人は前者だが、単に全裸になりたい魔人と能力を細かく考えすぎる魔人は後者に属する。
刈谷が触れたのは背中。であれば彼は服も人間としてカウントする側の面倒な魔人である。本来であればあのまま命などを奪われて死んでいたはず。
しかしそこで活躍するのが、露出卿のせいで存在が世間に認知されてしまった『脱ぐと強くなる技術』、初里流忍術だ。完全に服を脱いで自分と分離することで、能力の適応を免れたのである。
「小細工を」
「こうでもしなきゃ負けちゃうでしょーがっ!」
そのまま体をそらし、バックステップで二人の位置を入れ替える。『エンゼル・ジンクス』によるおまじないは、瓦礫だらけの空間でも自由に動ける機動性をななせに与えていた。
そして露わになるのは制服とシャツの間に潜ませていたお土産やさんのマチェーテ!(税込79,800円。銃刀法申請書類付き)。運動エネルギーの放出を止め、方向転換した刈谷へと投げつける。
それは振り返った刈谷の眉間に突き刺さったように見えたが、当然のように傷ひとつつけられずポトリと落ちた。
「アホなのか?」
刈谷は無造作に踏み込む。
しかしその一歩は、致命的な一歩となる。
そこは天井の崩落を免れた、床が平らなほぼ唯一の地点、カウンターの裏。自身の能力によって平静が決定づけられている空間。
触れられれば死んでしまうななせが、そこになんの罠も準備していないなどあり得るだろうか?
そのワイヤーは自ら踏み込んできた刈谷の足を切り裂くどころか、骨さえ含めて完全なる切断を果たした。
「これも、そしてこれも」
そしてななせは見つからないよう隠していた、スカートの中、ふとももに着けたホルスターから銃器を取り出す。
射出。撃ち出されるのは弾丸ではなく導線。それはテイザーガン。運動エネルギーを奪われようとも、接触するだけで機能する武器。
「銀天街さんにお願いして、譲ってもらったものだッ!!」
電撃がほとばしる。
「準備をしてきた……マイナス百億万点は、撤回してもらう!!」
「なるほど」
肉の焼ける音がした。その匂いに思わず吐きそうになる。
(熱を借りて、切断面の止血に利用した!?少しは動揺してよね……!)
「まだ侮りがあったか。警戒レベルを引き上げよう……この先俺は、触れたもの全てから『俺を害する権利』を借りると思え」
◆◆◆◆◆
時刻は午後を過ぎ、もはや夕暮れに近い。ななせはあの後素早く逃走し、当初の予定通り消耗戦に出た。刈谷は彼女とは違って腹も減るし疲れもする。疲労は蓄積し、足の痛みは引かないはずだ。
そして、『自身に害をなす権利』を借りる行為。わざわざなにかを限定しては、希少性が高まってしまう。ななせの作戦は身を結びつつあった。
日没の直前、刈谷はとあるアトラクションの前で座り込む。足元にはどこかから引っこ抜いてきた鉄パイプと、とあるひと組の道具があった。
「決着をつけようぜ」
「分かりました」
放り投げられたソレを、ななせは迷わず受け取った。司会の端に、伝説のマチェーテの上にある644円という文字が見える。
正面に刈谷を見据える。彼の表情は夕日に照らされてよく見えない。
「ここのアトラクションの名を知っているか?『火吹きドラゴンの歯磨き体験会』だ。盾で炎を防ぎ、剣で歯垢をとる」
ななせの手には剣と呼ぶのもおこがましい、形だけはそれなりの模造剣。プラスチックか何かだろう、振りやすい重さだ。
刈谷の足元には盾。彼はそれをガチャガチャと持ち上げる。今なら殺せた。しかし、まだ早い。
「知ってる。一回乗ったことあるもん」
次はあの人と。そんなことを思っていた。他の施設はことごとく破壊されているにも関わらず、なぜかここだけは被害を免れている。
「最後だ。俺が盾で、お前が剣。今から『あるもの』を借りる。残金がゼロになるまでに、お前が俺に剣をぶつけたら勝ち。盾に防がれたりして一度も当たらなかったら負け」
「その勝負——
——受けるッ!!」
このままじわじわ殺しても、評価は得られない。ななせは返事と同時に突きを入れた。
ところがそれは不思議なことに、盾の表面をつるりと滑った。思わぬ挙動にななせは転んでしまう。
「盾の摩擦を借りた。さあ、片足の俺に剣を当ててみせろ」
『明日二十四時まで剣の達人になるおまじない』。条件はその場で足踏み三回。
ところがそんな暇はない。刈谷は隙をみてガチャガチャと盾の側面で殴りかかってくる。その反撃に剣を振るえば、もう片方の手が持つ鉄パイプで受け止められる。
軸足をうまく使っていた。
ここだけアトラクションも、そして地面も無事だった。
摩擦を奪ったことが機能していた。
そして何より。
「俺はコレに、三回乗った。全部盾だ。一回だけのお前に負ける道理はない」
時間が過ぎる。過ぎる……過ぎる。
そうしてななせが剣の達人もなれず、剣を当てることもできないうちに、一万円はその価値を完全に消失させた。
「俺の勝ちだ」
◆◆◆◆◆
いいや、ここだ!
◆◆◆◆◆
——僕は迷わず踏み込み、背後に回る。そして剣を……
……あれ?
「なにをどう言おうが、ルールを与えればそれを裏切るのは分かっていた。お前は俺と違って、意思が強いからな」
——あたまが、いたいよ。
ななせの頭をかち割ったそれは、お土産やさんのマチェーテ(税込79,800円。銃刀法申請書類付き)。
盾の裏に隠されていた、ななせが目くらましに用意していた中南米の剣。彼はそれを拾っていたのである。
剣と同じプラスチック製ならば、あのようにガチャガチャ音を立てることはない。
「気づけよ。やっぱお前、悪党むいてねーよ……」
——まだ、『致命傷を受けても少しの間生き延びるおまじない』がある。
——もう一人、『変幻怪盗ニャルラトポテト』から、教えてもらったこと……。
——笹原砂羽さん。恋人。ずるい。貴方は僕を悪党に向いてないと言うけど……悪党でなくても、カッとなった勢いで悪いことをしてしまうのです。僕の嫉妬は醜いんです。
『明日の二十四時までに、恋人と決定的に通じ合えるおまじない』。ななせは最後に、それを唱えた。
しかし。ななせは驚きのあまりシパシパと瞬きを繰り返した。
条件、目を閉じること。
——おまじないを簡単にしたから……!!
刈谷は倒れぬななせに対して、鉄パイプを叩き込んだ。マチェーテがより深くめり込む。
勝者、刈谷祐介。
「ところでこれ、どうしてマチェットじゃなくてマチェーテなんだ」
彼はそうぼやき、眠るように目を閉じた。
◆◆◆◆◆
『VRカードで、音声データを送信できることが分かった。おそらくこれ自体が端末として機能するようになっている。現在地もC3ステーションにバレてるだろうな。そういうわけで一方的に喋らせてもらう』
『恋語ななせ。幾つか伝えておくことがある』
『お前の好きな人に関してだが……そのまま「奴ら」に協力してもらえ。記憶を怪盗に確認させて、世界二位の技術で絵に起こさせるんだ。そうしたら、探し出せ。そして連れてこい』
『俺が、「エンゼル・ジンクス」に影響される権利を借りてやる。根本的解決ではないし、お前は能力を使えなくなるが……俺から振り込まれる金を、定期的に俺に振り込み直せ。それなら「貸借天」が切れることはない』
『子供を助けるのが大人の仕事だ。俺は本当にそう思っている……真実だ。別に悪党ごっこを続けても構わない。絶対向いてないけど』
『それと、これはお前と関係ないことだが——記録に残すこと自体に意味があるから言っておく。
鷹岡集一郎の目的が予測できた。「オスモウ・シンギュラリティ」だ』
『狂ったと思うか?まあ聞け。リアルVRを使うことで真に効果が検討できるのは、未知の物質・エネルギーだ。魔人能力さえ正確に再現できるなら、オスモウ粒子だって正確に再現してデータを取れる。実験だっていくらでもできる』
『仮に、力士が無限にこのエネルギーを生み出せるなら……革命だ。力士発電所が出来る。人々はどんなスポーツより相撲を優先するだろう。想像してみろ。俺はちょっと笑っちゃった。いや、蒸気から電気に変わったような変化が、今度は力士によって起こるんだ。尋常のものではない』
『いまやそのデータを一番多く握っているのは……鷹岡だ。誰にデータをチラつかせれば一番面白くなるか考えているに違いない。恐らくどんな奴が相手でも、面白くなるなら迷わず裏切る』
『だから、奴の手によって社会に混乱が生まれることを良しとしないならば——興味を持たせろ。プレゼンだ。マイナス百億万点では、面倒なことになる』
『事件を解決するのは、それこそフィクションの「怪盗」や「探偵」だろう。だが、好きにやれ。俺も好きにやる』
『これで音声データは終了だ。最後に言っておくが——』
「だって、好きになっちゃったんですもん、か。よく分かる。好きになっちまったんだから、しょうがねえよなあ。俺もそう思うよ」
刈谷融介は、音声をそう締めくくった。
結局、彼は誰よりも自分のことを分かっていなかっただけなのだ。
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恋は誠に影法師。
いくら追っても逃げていく。
こちらが逃げれば追ってきて、
こちらが追えば逃げていく。
〜シェイクスピア〜