夜半の汽車に頭を預け、肘掛けには頬杖をひとつ。睡魔に身を委ねてしまいたいほどの虚脱に、それでも心は泡立ち、これだけは見てみたいと車窓に、精一杯、目蓋を開ける。
眼下では漆黒に染め上げられた水飛沫が散っている、行き交う中で海を渡りゆく鳥を濡らすのだろうか。規則的な揺れに、心なしか揺らぎが混じるようだった。
手の内、時刻表を放り出す。鉄道派のお株は奪えないし、奪えない。
それに生憎、私に翼は生えていない。歩んでいくにはあまりにも遠い距離だ。だから本州と四国を結ぶ連絡橋から吊り下がるレールに身を委ねるしかなかった。
きっと、かつてはこうではなかった、私はそう信じている。
かつて名を馳せた探偵の年忌法要の案内がやってきたのはついぞ三週間前になる。あの時は追われる身になることなど思ってもみなかっただろうか。
そして、今。私は熱気が増すDSSバトルの最中にあって、逃げるように発った。
故人が亡くなってから幾星霜を経たか、思い出すには外道太郎を失った今の私では偲びないだろう。彼の人となりを語り、宴席では懐かしき人々とお喋りに耽る、そんな時は過ぎ去った。
夜は陰影を濃くする。かつて私が歳若い少女だったころ、よく通ったその建物の輪郭を際立たせた。よく茂った草で足を切らないように、丸い日本庭園にでんと置かれたお池にはまらないように、硝子の格子戸を引いた。軒先から失礼しますと心でいい、彼に詫びた。
12713567
24724712367245713567
幼少期に、はじめて知ったはじまりの暗号を辿って、生前は夜目の利かなかった彼の足跡をたどる。
人目を避け、ただ一人線香を上げようと、享年からすればあまりにも歳若い遺影に触れる。
満天の星だけ、せめてあの月だけよ、目撃者たれ。
「詩人だねっ」
ふとした声、顔を跳ね上げると一人の少女が立っていた。
アッシュグレイ、つまりは灰色の短髪はキャスケット帽によって隠したてられている。だからこそ飾り気のない美しさを演出するかのようだった。
服飾も、いささか子どもじみたサスペンダースカートと素っ気なくこそあった。
闇夜に慣れたこのまなこが映すのは、にこやかに細められたその両眼だった。ぎゅっと閉じられ、なにも映すものなどないはずなのに、すべてを見透かすような雰囲気を放っている。
……知らない名ではなかった。
「伊――」
「おおっと! それは言わない約束だぜ」
貴様は誰か? という問いと対になる答えは遮られた。
「ソレすなわち、我々は君を探偵とは認めてないってことさ。わかりる?」
ひどく挑発的な文言に、言い返す余地は与えられていなかった。
見目は駆け出しの助手に過ぎない、はずなのに言葉をかぶせてくる。
「読んでくれたかな? って言っても行間を読み取るにも限界があるから直接言いに来たよっ」
あー、結論から言うとね。
「銀天街飛鳥、あなたには失望した」
「事件に首を突っ込んだ以上、どんな目に遭おうともそれは探偵が負うべき責務だよ。
汚名も屈辱も罵声も浴び続ける覚悟もなしに、挑んだわけじゃあないだろう。
しかしそれにしたって、焦りすぎたんじゃないかな?
あんな、君らしくもない短慮な行動……。
……まあ、少なくとも。あたしはこれ以上は君の敵に回らないようにしておくよ」
探偵助手は、私の言いたいことを言い立てるだけ言い立てて去っていった。
現れた時と同様、瞬きひとつの暇を挟んでまるで煙のように消え失せてしまう。それはまるで“彼女”が私自身が生み出した幻想であるかのように。
誘拐などという探偵らしからぬ犯罪へ手を染めたことへの糾弾、それは本来己自身の言葉で、行動で、償うべき行為。
公衆の面前にさらけ出した時点で、大勢は庇い立てする意志を失ったか。世界第二位の探偵などと言っても、いや、だからこそ一位と三位以下の合算に勝てると思い上がる理を、私は持てなかった。法廷の場で、弁護人として君とふたり立つには、片割れを含め欠いているモノが多すぎた。
「私も、焼きが回ったとはこのことか。純粋でない銀は誰も愛さない……。鍛え直そうにも熱は、もう生まれない。
ねえ、天問地文。貴方と同じ時代を生きることが叶ったならば、私はずっと世界二位でいられましたか……?」
銀天街飛鳥は泣いた。彼の霊前で弱音を零した。老境に至り、視力をすべて失い、往年の推理力に見る影なくなっても、同時代で世界一位を目された伝説の探偵の名声に陰りはなく。
だから、銀天街が、彼女が、自分自身が情けなくて、くやしくて、それでも、寄る辺を求めるには死んでしまっては無力で、けれどとても大きな大きな影は役に立ってしまった。
皮肉なことに、銀天街が流す大粒の涙はまるで銀の雫のようであったという。
彼女は知らない。
天問地文の本分が探偵ではなく、むしろ助手であることに。だが、それも無理はない。この時点での彼女に知る術はないのだから。