おのれゴメス

刈谷融介の逃亡は、果たして何から目を背けたかったが為だろうか?
自分が笹原砂羽のことを好きで特別視していることではない。もちろんそれは認めたくない事実ではあった。

彼は自分のせいで彼女の人生を歪めてはならないと思っていたからだ。少なくとも銀天街飛鳥のときはそういった理由での逃亡だった。

笹原砂羽は、両親、金銭、債権者などの自分ではどうしようもない事柄ばかりから被害を受けていた人物だ。
それでも今こうして毎日生きているというだけで、それは刈谷にとっては素晴らしく尊いことだったのだ。自分ならば自死を選んでいてもおかしくない。

そんな彼女に、どうして自分がまたしても負荷をかけることが許されようか。あのとき確かに彼は、愛と自責の狭間で混乱しながらも行動を選択したのだ。

では、今回は?


◆◆◆◆◆


笹原砂羽は、なにか取り返しのつかない出来事が起きたのを知覚した。彼女は目の前の刈谷が、こんな表情をしているのを見たことがなかった。
いや、正確に言えばある。ただその表情が自分に向けられていることは一度もなかったはずなのだ。

——それは怒り、諦め、そして失望。

「ユ、ユースケ?」

一回戦前にとったホテル。二人はそこで顔を合わせていた。

「はっきり言う。俺たちは今後、二度と会うことはない」

キッパリとした口調だった。彼の鋭くつり上がった瞳が砂羽を射すくめる。恐怖を抑えることはできなかったが、それでも口を開くことはできた。

「な……なんで?私、あのことなら気にしてないよ?」
「銀天街飛鳥が証拠隠滅の為の記憶処理を君に施していなかったのは予想外だった。いや、何かの拍子に記憶が戻ったのか。まあどうでもいいことだ」

刈谷の瞳は砂羽を捉えているようで、どこかもっと遠くを見ているようでもあった。

「あのとき君を見捨てたことは、本当に申し訳と思ってる。ごめん。安全性が保証されていたとはいえな」
「そうなの?」
「彼女なら推理していたはずだ。俺はすぐキレるし、キレたら何をするかわからないってな」

吐き捨てるような言葉だった。砂羽は彼の度を越した自己嫌悪が改善されていないままなことを悲しく思う。

「なあ、砂羽。お前はなぜ三回戦にきた?」
「それは、ななせちゃんが……」
「そそのかされたのか?」
「そんな言い方しないで!私が自分でお願いしたの」
「どうだか」

彼の表情に変化は見られない。怒り、諦め、失望。それは砂羽に向けられたものでもあり、彼自身に向けられたものでもあった。

「今大会最強は力士でも全裸でも俺の能力でもない。『エンゼル・ジンクス』なんだよ。なぜだか分かるか?対策が取れないからだ。砂羽、お前は利用されたんだよ。どうせ奴とは『偶然』出会ったんだろ?そんな都合のいいこと、普通は起こらない」

「それがなんだって言うの?負けたから八つ当たり?」

「仲良くなるのは良いが、利用されていたのを理解しているのか?」

「そんなことわかってる!私は自分の意思で利用されたの、貴方に会いたかったから」

砂羽は刈谷の目をしっかりと見ていた。彼はこちらを見ている。しかしその目に自分は、本当に写っているのだろうか?

「ねえ、ユースケ。私、貴方のことが好きよ」
「俺も……お前のことが好きだったよ」

「どうして?」
「なにが」
「もう私たちは、戻れないの?」
「ああ。もう無理だ。俺たちは決定的に駄目になってしまったんだ」

「ユースケ。私、貴方がいればなにもいらないの。だから、ねえ!お願い、お願い……」
「駄目だ、砂羽。それが駄目なんだよ」

砂羽は見た。あの刈谷融介が涙を流している。全くもって考えられないことだった。

「なあ、砂羽。お前はいつからそうなっちまったんだよ。親に、金に縛られて、クスリで骨の髄までしゃぶられて!それでも立ち直れたじゃないか。ようやく自分の人生を始められる所だっただろ?」

彼の目はしっかりと砂羽を見ていた。いや、本当は最初から見ていたのだ。砂羽が見られたくないと思っていただけで。

「どうしてそこで、俺に人生を委ねるんだ!!お前は俺のものなんかじゃないッ!!自分の命は、人生は!自分だけのものじゃないと駄目じゃないか……あとちょっとだっただろ?もう少しだったのに、なんで」

それきり刈谷は泣き崩れる。砂羽は狼狽した。自分にはこういうとき、出来ることがない。お互いに甘えていたのだ。砂羽は常に被害者だった。彼女は自分より弱っている人物への接し方が分からない。
彼が暴力的態度を取るのは、そういった理由もあった。そしてお互いに、そういった悪癖は少しずつなりを潜めていたのだ。遊園地に行ったときはそれが出来ていた。

しかし時は巻き戻らない。とあるたったひとりを除き、時間は不可逆である。

「ごめんね、ごめんね……」

謝り続ける。砂羽は大人になりきれなかった子供で、刈谷は大人の真似が上手な子供だった。二人で少しずつ大人になりたかった。

だが、もうその願いが叶うことはない。

「なあ、砂羽。二人で生きることと、二人でしか生きていけないのは違うんだ。違うんだよ……」
「うん、そうだね、ごめんね……」

砂羽もまた涙した。二人は折り重なるように抱きしめあい、傷を舐め合った。刈谷融介は童貞を失った。砂羽は自分の女性を受け入れることができた。

「ねえ、本当にもう駄目なの?私、頑張るから……」

このとき砂羽の認識は確かに改められていた。すなわち自分は彼のものではないと。

「駄目だ」

『貸借天』その効果。借りたものはふたつ。ひとつは意識。砂羽は気絶し、コトリと刈谷の胸の中に倒れる。

もうひとつは——

——刈谷融介と関わる権利。

砂羽は知らぬことであったが、DSSバトルでの彼の行いは積み重ねてきていた社会的信用を徹底的に破壊していた。

いままで社会で胃をねじ切られるようなストレスに晒されながら舌戦を繰り広げた彼が、その破滅性をあっさりと発露した理由は分からない。疑似的とはいえ、命のやり取り出会ったことが災いしたのだろうか。

とにかく確かなことは、彼はもはや社会人として生きていくことが不可能だということだ。危険性の高い魔人能力に加え、自分をコントロールできない人物としての評価が決定づけられてしまっている。魔人警察も既にマークを始めた。

刈谷融介は自覚していたのだ。もう、彼女のそばにはいられないと。

砂羽が刈谷への権利を失った以上、彼女は彼に関する記憶を失う。思い出すこともない。偶然出会うこともない。ましてや偶然手が触れて能力が解けるなど、そんな奇跡は起こり得ない。

その結果、目覚めたあとの砂羽は記憶喪失に似た状態になっていた。彼女にとっての刈谷融介は、そういう存在だったのだ。

恐らく、彼にとっての彼女も。

◆◆◆◆◆


七年後。砂羽は記憶喪失にもめげず力強く生活していた。出会いにも子宝にも恵まれ、今は会社を辞して子育てに励んでいる。

今日は三人で遊園地に遊びにきていた。息子がどうしても行きたいとねだったのである。

「おとーさん!おかーさん!俺これ乗りたい!『火吹きドラゴンの歯磨き体験会』!!」

パタパタと走り回る息子。砂羽はそれを見て、自分でも幸せになれるものなのだなと思う。そして夫と目を合わせ、微笑んだ。

直後、頭に割れるような痛みが走る。

そうだ、自分は不可解な増え続ける預金残高にさえ疑問を持つ権利を奪われていた。とある人物の記憶が、彼にまつわる権利が全て帰ってくる。

なぜ今、記憶が帰ってきたのか。
簡単だ。刈谷融介は、死んだのだ。

果たしてこの七年間、彼はどう過ごしていたのだろう。妻はできたのだろうか?子は生まれただろうか?幸せに……生きて、死ねただろうか。自分の人生を。

分からない。もはや彼女にそれを知るすべはない。二人はあの時と違い、別の時間を生きてきたのだから。

「どーしたのおかーさん、泣いてるの?」

息子が自分を見上げている。悔やんでも彼を見取り戻せはしないし、今の生活を捨てることもできない。彼女は今の生活も愛していた。

夫もまた、気遣わしげにこちらを見ていた。顔を見られたくなくて、膝をついて子を抱きしめる。

「なんでもないわ……大好きよ、大好き……」

彼女にできることはこれまで同じ。ただ懸命に生きることのみである。


◆◆◆◆◆


これは余談ではあるが。とある男は死ぬまで、肌身離さずキャラクターがあしらわれたネクタイをつけ続けていたという。


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ところでよぉ~~、幕間SSは参照してもしなくてもいいんだよなぁ~ッ!?俺には参照しない自由がある……多分これは平行世界的なアレでしょう。
最終更新:2017年11月18日 19:49