「おはようございます、先生」
早朝。まだ薄暗い部屋の中で、少女の声が響いた。
『先生』と呼ばれた女が身体を起こし、声がした方向を見る。
そこには、一糸まとわぬ姿の、小柄な少女の姿があった。
「ええ、おはよう、ユウ」
女も朝の挨拶を返す。彼女もまた全裸だった。
なぜ二人は裸なのか?
何を隠そう、彼女たちは昨晩このベッドの上で『愛し合った』のだ。
そして、そのまま二人とも寝てしまった。ゆえに裸なのだ。
女はシーツを適当に体に巻き付けると、彼女が『ユウ』と呼んだ少女と共に、寝室を後にした。
二人はとりあえず服を着ると、早めの朝食をとることにした。
メニューはスライスした黒パンと、ドライフルーツをすこし。
朝は軽めにするのが、この家での習わしだった。
「そういえばユウ、なにか思い出した?」
パンを齧りながら、白衣を着て、眼鏡をかけた女が尋ねる。
だがその問いに、ユウは首を横に振った。
「いいえ、なにも思い出せません。その、ごめんなさい……」
「謝らなくてもいいのよ、悪い事じゃないんだから」
「はい、でも……」
思い出せない、というのは、彼女自身についてのことだ。
ユウは記憶喪失なのだ。
数週間前。ユウは全裸に布切れ一枚を持った状態で倒れていたところを発見され、医者である目の前の女のもとに届けられた。
幸いにも一命はとりとめたが、しかし目覚めた時、彼女は自分に関する記憶をすべて失っていたのだ。
覚えていたのは『ユウ』という名前だけ。
彼女の扱いに困り果てた町の住人たちは、その世話を医者に押し付けた。
幸運なことに、医者はかなりのお人好しだった。
彼女は二つ返事でユウの世話を引き受け、あれこれと彼女のために手を尽くしたのだ。
そうしていく内に、彼女たちの間で信頼関係が結ばれていった。
いつからかユウは医者の事を『先生』と呼ぶようになっていたし、医者の方もそれを、少しこそばゆく思いながらも受け入れていたのだった。
「んー、それじゃこの話はおしまいにして、今日の予定を話し合いましょうか!」
「はい。先生は今日も回診ですか?」
「うん。そのつもり」
彼女はこの町唯一の医者だ。当然、見るべき患者の数も多い。
その中には家から出ることも出来ない老人なども含まれるため、一週間の半分は回診をする必要があるのだ。
「ユウには今日も留守番を頼むことになるけど、お願いできる?」
「任せてください。不肖ユウ、留守番を務めさせていただきます!」
どん、と胸を叩いて宣言するユウ。その大仰な仕草が空気を和ませる。
「それじゃあ、今日は宅配便があると思うから、受け取りを頼んでいい?」
「……先生、それ、昨日も言いませんでした?」
「昨日は来なかったけど、今日は来そうな気がする」
「はあ、分かりました……?」
ユウは首をかしげつつも、それを請け負う。
そして、二人は朝食を終えた。
「それじゃ、った!?」
椅子から立ち上がろうとした医者が、バランスを崩す。
机に寄り掛かり、かろうじて倒れるのは免れた。
「大丈夫ですか、先生!?」
慌ててユウが駆け寄ると、医者は大丈夫、と手を振って応えた。
「でも先生、倒れそうになって、もしかしてお身体の調子が悪いんじゃ!?」
「なんでもないなんでもない、ちょっと腰、というかまあその辺りが筋肉痛になっただけだから」
「腰回りが、筋肉痛……?」
そこまで聞いて、ユウはその原因に思い当たった。昨晩の『行為』だ。
夜の彼女は、人が変わったように積極的になる。その様子はまるでサキュバスだ
実は、ここ数日は毎晩のようにやっているのだが、その精力は収まるどころか増している。
そして、それを受け止める医者の身体も、だいぶ酷使されているのだった。
「あの、その……すいません……」
ユウが顔を真っ赤にして謝る。言葉も少し尻すぼみだ。
その様子を見て、医者は堪えきれずに笑いだすのだった。
昼過ぎ。太陽は空の中心でさんさんと輝いている。
そんな中、ユウは出かける準備をしていた。
留守番の仕事を放り出し、町へ出ようというのだ。
もちろん、それには理由があった。
それは、彼女の記憶を取り戻すための調査である。
医者は気にしないと言っていたが、しかしユウ自身はそうではない。
自分の過去がない。それに耐えられる人間など、そうはいないのだ。
「……戸締りよし、っと」
玄関のカギを閉める。
留守番を放り出すのは少し心が痛んだが、しかし宅配便は来ないだろうと決めつけて、彼女は歩き出した。
住宅街を抜け、農場を横切る。
目指すは市場だ。各地から商人が集まるそこでなら、彼女の正体を知る者がいるかもしれない。
ユウの手は無意識のうちに、首に巻いたスカーフに触れた。
それは、倒れていた彼女が持っていた唯一のもの。過去とのただ一つの繋がりだった。
「ごめんねえ、分からないわ」
「そうですか……ありがとうございました」
「飲みたくなったら、いつでも来なよ」
「……どうも」
ユウは決まり文句を言う酒場の女主人に感謝の言葉を告げ、その場から立ち去る。
かれこれ数時間は聞き込みをしただろうか。だが、彼女の過去を知る者は誰一人として居なかった。
市場は今日も活気に溢れ、人でごった返している。
だが、そこに居る人々はみなどこか余所余所しく、ユウに対して友好的ではなかった。
非情に映るかもしれないが、田舎の社会などそんなものだ。誰もが余所者に冷たく、そして余所者もまた、田舎者に冷たい。
不干渉の上に成り立つのがここの人間関係なのだ。
「はあ……」
市場の中央、少し開けた場所にユウはへたり込んだ。
あまりにも得るものが無さすぎる。
自分の努力が、すべて徒労に終わりそうな気すらしてしまっていた。
その時。
「お嬢ちゃん、そこをどいてくれないじゃろうか?」
一人の老人が、ユウに声をかけた。
「え……あ、はい。分かりました」
失意のユウには立ち上がるのも億劫だったが、どうにかのろのろとその場から動く。
彼女が腰かけていたのはただの岩ではなく、布を被せられた物体だったのだ。
おそらく老人のものだろう。ユウは無意識でも他人の邪魔をしてしまったのが分かり、なんとなくバツの悪い気持ちを覚えた。
だが、そんな少女の様子は老人の目には入っていないらしい。彼は目を輝かせてそれを見ていた。
周囲の話を聞くに『それ』は何らかの記念モニュメントであり、老人はその出資者とのことらしかった。
(そんなに大事なものなんだろうか?)
ユウはそう思い、その様子をただぼんやりと眺め続ける。
記憶がない彼女には、他人が想う過去というものがどうにも気になっていたのだ。
そんな彼女の思いとは関係なく、老人はは取り巻きの若者に、布を剥がすように命じた。
……そして『それ』は、昼間の市場に姿を現した。
その正体は、二人の男の石像だった。
片方は頭にナスを乗せ、でっぷりと太った半裸の巨漢。
そしてもう片方は……見事なプリケツを持った、筋肉質の大男。
二人の野郎ががっぷりよつと組み合うそれは、誰がどう見てもむさ苦しい像だった。
台座に掘られたタイトルは『ワイバーン討伐の英雄』。
おおよそ五十年前、町を襲おうとしていたワイバーンの群れを駆逐した英雄の像である。
何を隠そう、老人はその時の目撃者であり、行方も知れぬ彼らへの感謝をずっと持ち続けていたのだ。
その像を、正確には像のプリケツを見た瞬間、ユウに衝撃が走った。
失ったと思っていた記憶が、みるみると蘇る。
プリケツ。スパンキング。ハーレム。プレゼント。そして。
「そうか、そういう事だったの」
彼女は気づいた……思い出した。自分の名を。恋するあの人の名を。
「私の名前は、狭岐橋憂……そして」
自らの名前を唱え、そしてスカーフに手を伸ばす。
否。それはスカーフではない。それは……!
「これは……ふんどしだッッッ!!!」
パシーーーンッッッ!!!
ふんどしが、勢いよく憂の下半身に装着された!
老人が、商人が、市場全体がざわめきたつ!
英雄の像だけが、どこか嬉しそうにその様子を見ていたのだった。
「ただいまー、あー疲れた」
夜。医者が自宅に帰ってくると、部屋の中は真っ暗だった。
「あれー? ユウー、いないのー?」
「……ここにいますよ」
声は部屋の隅、暗闇の中から返ってきた。それを聞き、彼女は安心したような顔を作る。
だが。
「よかった、居たんだ。どうして明かりをつけないの?」
「私も、質問があります……支倉饗子さん」
その名前。支倉饗子という名を耳にした瞬間、表情が凍り付いた。
「……なにかな、狭岐橋憂ちゃん」
医者は……支倉饗子は、ゆっくりとした口調で憂に問い返す。
その声には、以前のような優しさは、感じられない。
「ここは、VR空間なんですか?」
「ええ、そうよ。設定は異世界だったかしら」
そう、ここはVR空間内。DSSバトルの戦場のひとつだった。
住人たちが余所余所しかったのは、NPCが参加者に強く干渉する権利を持たないからだったのだろう。
「……どうして、私の記憶を奪ったんですか?」
「奪ってないわ。あれは事故だったの」
「事故?」
「ええ、そう。ルールへの干渉実験の過程で起こった、不幸な事故。記憶が飛んじゃうなんて思ってもみなかった」
ルールへの干渉。
DSSバトルのルールへ鑑賞すること自体は、荒川くもりによって可能だと示されている。
だが、それが支倉饗子に可能なのか?
その秘密は、彼女が手に入れた『自己変革アルゴリズム』にある。
世紀末での戦いの後、彼女はVR空間に取り残された状態で何ができるのかを試して回った。
そしてその結果、VR空間、ひいてはDSSバトルのルールを少しなら改変できることに気づいたのだ。
「ルール干渉って、いったい何を」
「そんなに大それたことはまだ出来ないの。やったのは試合時間の無期限化とか」
それを聞いて、憂はこれまでの事を思い返す。
ここで暮らした時間は一ヶ月近い。最初からDSSバトルだったとすれば、とうに制限時間が来てもおかしくはない。
だが、そうなっていないという事は、支倉が言ったことは真実なのだろう。
「そんなこと、いったい何のために……?」
だが、疑問が残る。なぜ、彼女はそんなことをしたのか?
その答えは、とても単純な事だった。
「だって、ひとりきりじゃ寂しいじゃない?」
寂しい。支倉が言ったのは、たったそれだけの理由だった。
考えてみれば当然のことだ。支倉饗子は、これまで人の中で生きてきたのだから。
それが食物連鎖という歪な形であったとしても、彼女はずっと他者と共に歩いてきたし、彼女自身も人間が好きだった。
だが、今は違う。
彼女は電脳空間でひとりきりだ。食物連鎖から外れ、自由になった対価として、彼女は人とのつながりを失った。
そして、それに耐えられなった。
孤独はつらい。だから、他のDSSバトル参加者とずっと遊べるよう、ルール改変にまで手をだした。
それが全ての真相だった。
憂にも、その気持ちは十分理解できた。
魔人に覚醒してからは、大学に入るまでずっと友達がいなかった。
気を許せると思った人も、彼女の能力を知ると離れていった。
そしてようやくできた友人すらも、彼女自身のせいで失ってしまった。
だから、孤独の辛さは誰よりもわかる。
だが。
「理由は分かりました……でも、私はずっとここに居るわけにはいかないんです」
だが、憂は今、孤独ではない。
現実で待ってくれている、彼がいるのだから……!
「そう、残念ね……それで?」
「降参してください」
「いやよ」
出口に向かって駆け出す支倉。
だが、彼女の手がドアノブに触れるよりも早く、手首から先が切り落とされた。
「……っ!?」
「ハアッ!!!」
「……ぁ、があッ!!?」
さらに胸に衝撃。部屋の反対側まで吹き飛ばされる。
「……ぁーあ、強いなあ」
なかば泣きそうな声で、支倉がそう呟く。
その視線の先には、月明かりに照らされる、ふんどし一丁のサキュバスの姿があった。
「チェックメイトです、支倉さん」
「そうみたい、ね……ねえ、最後に一つ、お願いをしていいかしら」
「……なんですか?」
虫の息の支倉が、それでも声を絞り出し、言った。
「私を、食べてほしいの」
「……お断りします」
「……あはは、そうよね。今のあなたじゃ、食べてくれないか」
『イート・ライク・ユー』は憂には効いていない。
欲求がすべて性欲になるサキュバスの前では、いくら食欲増進しても意味がないのだ。
これまでの生活の中で『行為』が多かったのも、増えた食欲を性欲として発散していたからだった。
ふんどしサキュバスが、倒れた食人鬼を見つめる。
……だが、とどめを刺すことはしなかった。
この一カ月弱、全ての元凶とはいえ彼女から受けた優しさは本物だった。その事実が、憂の手を止めていた。
「それで、降参してくれますか」
最後の望みをかけるように、憂は問うた。
そして。
「……やだ」
食人鬼は、最後まで強情だった。
【勝者・
酒場にて。
「おや、いらっしゃい……あらアンタ、昼間のお嬢ちゃん?」
「ええ、その……一杯もらえます?」
「ええ、どうぞ。しっかしまあ、あんた着痩せするタイプだったんだねえ」
「よく言われます」
「そんじゃ、ほら、一杯」
「ありがとうございます。えと、お金は……」
「いいよ、オゴリさ。あんたいいもん見せてくれたからねえ」
「いいもの……?」
「ほら、あのすぱーん!っていうの。見事だったよ」
「えっと、その……それはどうも」
「ささ、飲みな」
「はい……んく、ぷはー……」
「それで、今度はなんでそんな浮かない顔してるんだい」
「えっ、あっ……顔、出てます?」
「隠してるつもりなら、あんた詐欺師には向いてないよ」
「あはは……その、聞いてもらって、いいですか?」
「いいよ。話してみな? お姉さん、これでも包容力ってあるつもりなんだ」
「……」
「……」
「……恩人を、殺してしまったんです」
「……ふうん」
「いやでも、正確には恩人じゃあないのかもしれないんですけどね」
「……でも、あんたは恩人だと思ってる。だろ?」
「……はい」
「で? それだけかい」
「それだけじゃなくって。殺したのに、結果がないというか」
「結果が?」
「はい、なにか、こう、劇的に変わると思っていたんです、けど……」
「あー、なるほど。つまりあれか。あれあれ。うん」
「本当にわかってます?」
「分かってるよ。つまり、現実に帰れないってんだろ?」
「はい、そうで……え?」
「そりゃあそうだよ。あんた勝ってないんだもん」
「え? それって」
「気づいてなかったの? 今誰と話しているのか」
「え、え?」
「ねえ、思い返してみて? 『イート・ライク・ユー』は何ができる?」
「あ、え」
「NPCを支配下におけるのに、それをしない理由があるの?」
「う、」
「一ヶ月もあれば、一戦場のNPCくらい全部『私』にできるって、思わなかった?」
「あ、」
「それに、サイバーゴーストに、本体なんてあるのかしらね?」
「お、」
「あと……あなたが飲んだそれ、なんだと思う?」
「
狭岐橋憂が、目を覚ました。
彼女はDSSバトル最終戦において、対戦相手がいないままVR空間に入り、そして一ヶ月あまり昏睡していたのだ。
憂は目覚めた後しばらくぼんやりとしていたが、ふと自分のやせ細った手を掲げて、じっと眺めた。
そして。
「うーん、美味しくない、かな?」
【勝者・なし】(対戦相手不在のため無効試合)