今でもたまに、走る電車へ飛び込む夢を見ることがある。
伸ばした手がくすんだ銀色の車体に触れるや否や、大質量の鉄の塊は不自然な軌道を描き、脱線して敷石を巻き上げた。割って入った体の一部を車体が掠め、それだけで両足が変な方向に折れ曲がった。今から考えると、よく生きていたものだと思う。
私はなんとか後ろを振り向いて、尻もちをついた少年の無事を確認する。ひどく怯えていたが、奇跡的に無傷だった。
しかし彼は私の顔を見るなり、恐怖に強張った顔を更に歪ませ、悲鳴を上げて逃げていった。それが何故なのか、そして何故こんな夢を見るのか、私はいまだに分からないでいる。
C3ステーション本社ビル・とある応接室。
鷹岡集一郎は設えられた豪奢な意匠の椅子に腰かけ、モニターを注視していた。正にこれから、DSSバトルの決勝戦が行われる。決勝――それは字義通りの、勝てば優勝が確定するという類のものではないが。少なくともこの戦いが、己の好奇心を満たすに足るものであるということはまず間違いない。
「我々も、ご一緒させていただいても?」
背後よりかけられた声は老人のものだった。振り向かずとも、鷹岡にはその正体がわかっている。国際暗黒相撲協会西大関、黒呪殺。
「鍵はかけてたはずなんだけどなぁ」
「グッグッグ……この現(あらわし)は少々特殊な体質の力士でしてな。厳密には異なりますが、空間転移のような能力があるのですよ」
黒呪殺は不気味に喉を鳴らし、鷹岡の背中に語りかける。枯れ木のような体躯の老人と比べれば十分な巨漢であるが、現もまたソップ(※1)型の力士である。
(※ソップ……瘦せ型の力士のこと。オランダ語のスープから転じて、鶏ガラのように痩せていることを指す)
「それで、何の御用です?見ての通り、僕は今忙しい。手短に済ませてもらいたいですね」
「なに、用という程の用でもありませんがな。我が国暗協の大望、その一端が叶う瞬間を共に見届けたいと……そのような所ですな」
「生憎だけど、僕は試合を見る時は集中したいんでね。君たちは君たちで、そちらの横綱殿と一緒にポップコーンでも食べながら観戦されてはどうですか?一階の売店にはグッズも売られてますよ」
こめかみに青筋を浮き立たせて一歩踏み込んだ現を、黒呪殺は片手を上げて制した。
「グッグッグ……連れませんなぁ。我々はいわば同志ではありませんか……グッグッ、DSSバトル。表向きは『Dangerous Short Story』でしたかな?中々に強引な命名だ」
鷹岡は黙したまま、何の反応も示さない。だが黒呪殺の老獪な観察眼は、空気に滲み出すような僅かな苛立ちを見抜いてた。
「我々の横綱のことでしたらご心配は無用。かの方はもっとふさわしい場で戦を見届けますからな。ただ、お邪魔であると仰るならば仕方ない。退散するとしましょうかの。我々は我々で、試合を楽しませてもらいましょう――『どすこいスーパー相撲バトル』、その結末を」
現れた時と同じく、二人の力士は音もなくその姿を消した。
鷹岡は小さく鼻を鳴らす。国暗協の目的になど、彼は一片の興味も抱いていない。鷹岡が求めるものはただただ純粋な、極上の愉悦。己の予想を超えた驚異と波乱を目にする為に、彼は今日ここに居る。
改めてモニターに目を向ける。同時にDSS決勝戦開始の合図が、高らかに宣言された。
「あっはは!」
枯葉使絆は貴乃花のぶちかましを事もなく飛び上がってかわし、無邪気な笑い声を上げた。勢い余った貴乃花の頭が書架に突っ込み、本の雨を降らせる。
間髪入れず放たれた金属の槍による突きを皮一枚で避けると、横綱は素早く距離を取って態勢を立て直した。
図書館である。当初つくねは、この戦場において絆が力を発揮することは難しいだろうと考えていた。本は紙、棚は木。金属の類は階段の手すりや扉の蝶番、あるいはネジといった小物ばかり。金属に触れなければ操れない絆に取り、この条件は厳しいと見ていたのだ。
「(……甘かった!)」
その見立てに由来する初動の遅れが致命的だった。手すりもネジも蝶番も、一度彼女が手を触れればその多寡は関係ない。普通であれば工具を用いて外すべき物も、形を変形させれば簡単に回収できる。そして総量が増えるにつれ、彼女はあたかも鞭の如くそれを操り、触手めいて細かな金属まで余さず回収していった。
つくねが絆と邂逅した時には、既に人間一人分を優に超える金属が彼女の元に集まっていた。
黒鉄の絨毯に乗った絆を捉えるのは困難であった。
書架の並ぶ見通しの悪いフロアを、金属を操る絆は恐ろしいほどの機動力で駆ける。自在に変形する金属は攻撃のみならず防御や移動手段としても極めて優秀であった。通常の肉体運用に依らない、思考の速度で放たれる金属の連撃を防ぐことは、横綱の肉体と経験をもってしても至難を極めた。
「それっ!」
絆は手にした金属鞭を一振りする。たったそれだけで、長い鞭が届く広大な範囲で無数の破片に分解された散弾が、四方八方からつくねを襲った。
「ぐっ……!」
全方位から襲い来る散弾は横綱の体積では避けきれない。両腕を顔の前にかざして守るものの、全身の肉に容赦なく弾丸の金属が食い込む。再びつくねが目を開けた時には、絆の姿はすでにかき消えていた。
「さすがにガードがすっごく堅いね!でも、これならどう?」
その声は腹肉の下に隠された足元から聞こえてきた。そして絆はそっと手を伸ばし、横綱の左胸付近の傷口に埋め込まれた金属弾に触れたのだった。
「……!」
「と、わわっ!」
一瞬の交錯があった。傷口の金属は瞬時に細く鋭い針と化し、横綱の分厚い脂肪をえぐり心臓の寸前で先端を止めた。一方不完全な姿勢で反射的に突き出した横綱の張り手は、絆がとっさに変形させた金属盾に強烈な手形を残したのだった。
「うーん、これでも届かないか。それにやっぱり近づいたら怖いなー」
どちらが死んでいてもおかしくない、致命的な応酬。しかしその死線のさなかにありながらも、絆は何も考えていないかのようにへらへらと笑っていた。
「……絆ちゃんは」
「ん、なに?」
「絆ちゃんは、どうして戦っているんですか?」
つくねはこれまでの対戦相手との戦いを思い返し、あえて問いかけた。
稲葉白兎は、逃げて逃げて逃げ続けるという生き方に己の美学を見出していた。
ミルカ・シュガーポットは、大切な友人のために尽くしていた。
そして“スパンキング”翔は、目に入った人々に尻を差し伸べずにはいられないという、一見して愚かな、だが限りなく尊い目標を誓って戦いに身を投じていたのだ。
「えーと……いやわかんないけど、楽しいから?」
やはり異様である。死の恐怖のただなかにありながら、致死の攻撃を容赦なくもたらしつつ、ただ何も考えず戦いが楽しいという彼女の思考は、「キャラが立ってない」あるいは「目的意識が薄い」という次元を超えて何か本質的な欠落を感じさせた。
「戦う目的……うーん……何か引っかかる気もするけど……まあいいや、続けよ!」
絆は再び黒鉄の絨毯を形成し、つくねから飛び離れた。そして先程と同様に手の届かない遠方からの攻撃を再開した。
「(どうしよう、このままじゃジリ貧だ)」
崩れた本棚にその巨体を隠しながら、つくねは懸命に思考していた。絆は金属を蜘蛛の巣のように張り巡らせつつ、高速で変形させながら、攻撃、移動、防御をほぼ同時に行っている。相撲においてはあり得ない動き。自らの頭上に陣取る相手に対し、通用する相撲の技など――
「……あった。一つだけ!」
トトン!トトトントトン!トトン!トントン!トトン!トントトン!
NHK相撲中継のオープニングでお馴染みの寄せ太鼓の音が、どこからともなく響いてくる。
貴乃花フォーム解除。そして……「変身ッ!」
《MODE:SHIRANUI》《TACHIYAMA》
《たぁちぃい~~や~~あぁまあぁ~~~》
「これで決まりだ!」
「んん~?」
絆は訝しげに首を傾げた。新たな姿となったつくねが物陰から現れ、腰を割って手を床についたのだ。
だがいくら姿が変わろうと力士は力士。状況はなんら変わらない筈、であったが。
「……なんだろう?何か……」
こちらを睨み付ける横綱の視線が熱い。一回戦時の絆であれば、特に疑問を持つこともなく攻撃を仕掛けていただろう場面。だが、三度の戦場を踏み越えた絆の経験が警鐘を鳴らしていた。何かがおかしい。
《PUT YOUR HANDS》
《READY》
絆の困惑を他所に、ホログラム行司のSHOTAROUが軍配を返す。
金属とともに宙を舞う少女は、うなじが総毛立つような悪寒を覚えた。
《HAKKI-YOI》
合図と同時、太刀山の双眼が鋭く輝いた。
――1910年6月場所8日目。大関であった太刀山と、前頭の八嶌山との一番でそれは起こった。
記録によれば、太刀山は八嶌山に一触れすらすることなく、土俵を割らせてしまったという。
『にらみ出し』……あまりの例外故、新たに創出された決まり手の名である。
咄嗟に回避行動を取っていなければ、首と胴体が別たれていただろう。
太刀山の両目から放たれた謎の光線は、一瞬前まで絆の首が存在していた地点を穿ち、図書館の天井を貫通して消えた。
「すご……」
絆の感嘆は続く第二射に遮られた。太刀山の眼光が閃き、流動する金属の一部に穴を空ける。
大相撲に飛び道具はない――そのような先入観を一笑に付すかのような、太刀山の連続にらみ出し!図書館は瞬く間にエメンタルチーズの如く穴だらけとなっていく!
更に太刀山は絆の方向を目がけ、無造作に張り手を繰り出した。大気を揺るがす程の衝撃が宙を打つと同時に、烈風が巻き起こった。力士をただの一撃で桟敷席まで吹っ飛ばす太刀山の鉄砲は、誰も二突きと耐えられぬことから一突き半と一月半をかけて四十五日とも称された。
歴代横綱の中でも屈指の破壊力を誇り、最強の呼び声も高い力士……それが太刀山である。
「ひゃあああ!」
横綱が宙を突く。旋風が崩れた本を巻き込み、渦を巻いて絆に襲い掛かる。合間にはにらみ出しによる光線が飛び、金属の鞭を融解させつつなおも攻めを継続させる。
空中を泳ぐような絆の軌跡をにらみ出し光線が追う。突風や巻き込まれた残骸物を金属操作で巧みに防御し続けるが、既に遠距離でのアドバンテージは完全に逆転していた。
今や戦局はつくねの優位に傾いていたが、計算外の出来事があった。図書館の強度が想像以上に脆い。あるいは、太刀山の破壊力が高すぎたのだろうか。
「あ……」
にらみ出しによる全方位破壊が天井の一部を崩落させ、意図せずして絆を直撃したのだ。瓦礫はそのまま激しい戦闘によって痛んでいた床をぶち抜き、金属球に包まれた少女ごと地下へと落下していった。
(どうして、そんなにおびえているの……?)
(どうして、そんな目で私を見るの……?)
(私は、ただ……)
(私は……)
「……あ痛ッ!」
刺すような背中の痛みに、枯葉塚絆は跳ね起きた。
「ここは……」
肌寒く薄暗い、地下の小部屋。天井に穿たれた大穴から様子をうかがうに、階数にしておおよそフロア三階分ほどの高さを落下したのだろう。
書物の山であふれかえるそこは、やはり戦場である図書館の一室には違いなかった。だが、今までいた場所とは明らかに雰囲気が違う。近代的な外観の建築とはうってかわって、まるで古代遺跡のようなひんやりとした石室。崩れた金属質の書庫からこぼれ落ちた書物もまた、優に数百年は経過したであろう風化した紙に綴じられている。
なぜ図書館の奥にこんな部屋が隠されていたのだろうか。いや、違う。絆は直感した。むしろ逆だ。人類先史時代の以前からそこにあった禁断の書架に、まるであとから図書館としての外観を増築して取りつくろったかのような……ただのプログラムされた仮想現実であるはずのVR戦場空間に、なぜ?
浮かび続ける絆の疑問はしかし、床に散らばる一冊の古書に目を奪われると同時にかき消された。
リキシノミコン。
気が付くと既に、絆はその書を手に取っていた。まるでこの目的のために人生が与えられていたかのように。震える手で、絆はそのページをめくった。そして中から現れた怒涛の冒涜的な文字列の数々が、嵐のように絆の正気を蹂躙した。
天使。横綱。チャンコ。神々の争い。古の支配者。チャンコ。土俵。異形の存在。語られざるもの。力士。人類種の超越。チャンコ。
――わずか一分にも満たない時間で、絆は最後のページを読み終えた。しかしその目は、もはやかつての絆のものではなかった。
野々美つくねがその一室に降り立ったのは、それから間もなくのことだった。背を向けて立つ枯葉塚絆をその目に見とめたものの、やはり周囲の異様な雰囲気に気押されてどうすべきか戸惑っていると、やがて絆が口を開いた。
「……久しぶりだな、というべきか」
その声は、いかなるときも明るく軽い彼女のそれとは違って、石室に重く響き渡った。つくねは背筋にぞくりとするものを感じた。
「かつて、横綱の力は神の業物であった」
「……絆ちゃん?」
絆の唇がつくねには理解できない言葉を紡ぐ。つくねの疑問に答えず彼女は続けた。
「あの忌々しい敗北を喫してからというもの、その力はあろうことか神ならぬ定命のものどもに奪われたのだ。コンクラーヴェ……いや、横綱審議委員会、だったか。あのような下らぬまがい物の儀式によって選ばれた、人から人へとな」
「絆ちゃん!」
「力士の品格だと? 精進する気迫? 責任感? 生活態度だと? 笑止千万、噴飯ものよ! 横綱の力はすべて神たる儂が振るうべきものとして存在するのだ!」
絆は振り返りつくねへと指を差した。つくねの腰に巻かれたベルト、オスモウドライバーへ向けて。
「返してもらうぞ。その力を」
いまやつくねは悟らざるを得なかった。目の前にいる存在が、もはや枯葉塚絆ではないことを。
「……あなたは誰なの!? 絆ちゃんは……絆ちゃんを、返して!」
「誰? 誰ぞというたか! 儂は貴様のことをこの幾千年もの間、片時も考えずにいたことなどないというのにな……!」
枯葉塚絆の形をしたそれは周囲に倒れ積み重なる書架に手を触れた。金属製の棚がばきばきと音を立てて変形し、冒涜的な禁書を辺りにまき散らしながら絆の周囲を取り囲んでいく。
「この姿を見ても忘れたとは言わさぬぞ、野々美つくね……否、野見宿禰よ!」
いまや絆の身体はすべて滑らかに光沢が輝く金属の肉に覆われようとしていた。形作られた恰幅の良い体格は、身長も横幅もつくねの3倍近くもあるだろうか。古代礼装を纏い、髪に角髪(みずら)を結ったその姿――それはまぎれもなく、神代の力士である。
「国際暗黒相撲協会横綱、当麻蹴速。貴様を滅ぼすものの名だ」
「おお、ついにその時は訪れた……我らが神の御代。その支配の始まりが……!」
稲光差す暗黒の稽古場にて、黒呪殺は感極まって、しわがれた叫び声をあげた。
野見宿禰と、当麻蹴速。日本書紀に記された、相撲の神たる二柱である。互いの国を賭けて争われた神代の戦いは三日三晩も続き、両者互いに蹴り合った末に宿禰が蹴速の腰を踏み折り、決着を迎えたという。
「どすこいスーパー相撲バトルはすべてこの瞬間のためにあったのだ。蹴速様の奪われた御力をその身に宿す、新たな依り代を選び出すために。神の顕現に耐えるだけの能力を持つだけでなく、目的も空っぽで、自我も希薄なあの小娘はなによりもふさわしい」
黒呪殺は土俵の中心へと向かって塵手水を捧げた。そこに鎮座するのは車椅子に腰かけた、半身不随の老人……その身体には、無数の電気的配線が所かまわず繋げられている。
「ああ、もうしばらくの辛抱で御座います。VR仮想空間などではなく、この現世に御身が降臨されるまで、いましばらくのお時間を……」
「……その必要はない」
黒呪殺は己の目と耳を疑った。枯葉のごとく干からびた横綱の唇が、意識をVR空間に移しているはずのそれが動いたのだ。
「VR……お主らにはそのような児戯として説明してあったか。形而上の世界という意味ではおおむね正しくはある。人間どもに作られたものではなく、はじめからそこにあったという点を除けばな」
そして横綱は宣告した。
「すでに門は開かれた。ラッパは吹かれたのだ。天の軍勢は、解き放たれた」
それの意味するところを、黒呪殺を含めすべての暗黒力士は直ちに知ることになった。まぎれもなく己の身体の内から現れた、その異変によって。
「……なんっだよこりゃあ!?」
枯葉塚絆の控室にて。サポーターの獅子中以蔵(※絆にプロローグで勝ったやつ)は人目もはばからず絶叫した。観戦モニターにてパートナーたる絆の異変を食い入るように見ていた彼であったが、いまやその余裕はなかった。彼自身の体が悲鳴を上げているのだ。
以蔵は己の手を見た。肉体の内から、泡が沸き立つように新たな肉が生まれていく。沸騰する肉は際限なく膨張し、末端から徐々に本来の肉体を飲み込んでいく。その手はもはや水をため込んだゴム手袋のように5倍ほどにも膨れ上がっている。
以蔵の脳裏に、野々美つくねの第一試合の録画映像が蘇った。オスモウドライバーを装着した稲葉白兎が青白い肉の粒子に飲み込まれていく様を。だが彼には理解しえなかった。なぜ試合を観戦しているだけの自分に、同じ現象が発生しているのか。
「おい! なんか知ってるんだろ旦那ァ! オイ!」
そこに立つのは鷹岡集一郎、どすこいスーパー相撲バトルの総合プロデューサーその人である。だが彼もまた同様に胸から下をほぼ球体となった異形の肉塊に覆われてしまっている。
「……はは、やられたなあ、こりゃあ」
鷹岡はにやけた笑顔を保ったままひとりごとのように呟いた。
「『スーパー・相撲・チャンピオン』……美樹ちゃんの、現実を上書きする力。少し酷使しすぎてしまったか。どうもそのしわ寄せを利用されているようだ」
「つまり何なんだよ、何が起こっているんだ! ちゃんと説明しろ旦那! 鷹岡ァ! 鷹岡野郎ォ!」
鷹岡はこの状況下にあっても、いかにも満足げな愉悦をたたえて答えた。己の予想を上回られたことが楽しくて仕方がないという風に。
「文字通りだよ。神話が現実を上書きし始めているんだ」
「ひどい……! 一体何が起こっているの! 答えてよ!」
その惨憺たるカタストロフの光景は、書架の壁穴となって穿たれた現実と虚構の境目のほころびを通じて、つくねの目にも届けられていた。戦いを閲覧していた無数の視聴者を、つくねはいま回線を逆に辿って見ている。その姿が次々と、物言わぬ肉片へと変わっていく。
「オスモウ粒子。天界にのみ存在し得る、肉の根源たるもののもっとも純粋な姿よ。よいか、肉には二種類ある。横綱と、チャンコだ」
金属で構成された疑似オスモウ肉体を手に入れた暗黒横綱こと当麻蹴速は、書物の山の上でつくねに語り掛けた。
「横綱たる神が、チャンコたる人どもを食らう。それが世界の摂理のすべてである」
あの肉塊の中に、母や、当真ちはや、そして親方弦一郎がいるのか。神話横綱の圧倒的なプレッシャーに押されつつも、つくねは吠えた。
「……みんなを元に戻して!」
「ほう? この期に及んでも餌なぞに情けをかけるか、野見宿禰!」
当麻蹴速の呼びかけに、つくねは反目する。
「あたしは、野々美つくねだ! その、えーと、ノミのナントカなんて名前じゃない!」
それを聞くと蹴速は、さもおかしくてたまらないという風に引きつりながら笑った。
「ハ! 天使どもは何も説明しておらなんだか! よいか、なぜ貴様がオスモウドライバーを扱えるのか。考えて見たことはなかったか。継承が途絶えて久しい神たる横綱の力が、なぜ何の縁もない小娘へと渡されたのか」
そしてその唇は語られざる真実を告げた。
「それは貴様が彼奴の落胤であるからだ。我が宿敵、野見宿禰の末裔にして、野見宿禰の生まれ変わりよ……だが、もう興味は失せた」
蹴速は蹲踞の姿勢からひとつ拍手を打った。たったそれだけの動作で、手のひらから発せられた衝撃波はつくねを壁へと吹き飛ばすと同時に、纏った力士肉体を泡のごとく雲散霧消させた。
「ぐ……ああっ!」
衝撃で舞い上がった紙吹雪が、嵐のように宙を舞った。床に倒れ伏すつくねの傍らに、白いオスモウドライバーが転がる。
「返してもらおう。人の世はここで終わりを告げ、再び神の世が始まるのだ」
暗黒横綱は処刑の時を刻むかのようにゆっくりと近づく。つくねは打ちひしがれていた。全身の痛み。告げられた自身のルーツ。そして何より、大切な人たちを守れなかった自分の不甲斐なさに。だが。
「……負けない」
つくねは亡くなった父のことを思い出した。そして、自分をここまで育ててくれた母のことを。いつも温かい心で触れてくれた親友、ちはやのことを。そして襲い来る敵から盾となって守ってくれた親方源一郎のことを。
つくねはまだ、彼らに何もその恩を返していない。ここであきらめるわけにはいかない。彼らに対し、いまのつくねにできることはなんだろうか。
「絶対に、負けない」
信じることだ。父を。母を。ちはやを。親方を。自分自身を。
そして――説明書を!
「そうだ、説明書!」
その時ふとちはやに舞い訪れた天啓は、あの天使から渡された古びた説明書のことだった。そのページの終わりは不自然に途切れていた。もしあの続きがあるならば。それがある場所は神代の情報集積所たるこの書架をおいて他にない。
「……これだ!」
周囲に舞い散る幾千はあろうかという無数の紙片の中、つくねの目にはその一枚だけが光輝いて見えた。果たしてそこに書かれていたのは、まさしく失われた最終フォームへの変身手順……!
「む、何を……」
「――変身」
つくねは再び立ち上がり、一挙手一投足を噛みしめるように、身体を動かした。ベルトを体に巻き付け、そして、その中央に刻まれた桜の紋章(※)を、裏返す。この意匠が生まれる以前。人の世の始まりの、さらにその前へと時を遡る。つくねの体は、迸る光の渦に飲み込まれた。
(※参考:
http://www.sumo.or.jp/ )
《MODE:UNKNOWN》《NOMINOSUKUNE》
《――――――》
光の奔流が納まった時、そこに立っていたのは筋骨隆々たる一人の男であった。いわゆる力士体型ではない、現在の価値観に照らせばソップ型。だが、その体から放たれる威圧感たるや、巨山が意志を獲得したかの如く。
すぅ、と男が片手を上げると、対峙する二人を取り囲むように四本の柱が地から生え出た。
柱と柱の間に光の線が走り、ボクシングリングめいた古代土俵が完成する。
相撲の語源は相撲(あいなぐ)る、すなわち殴り合うこと。日本書紀にも記されたこの古代土俵内では、打撃や関節技を含めた全ての攻撃が許可される。その性質は今日の相撲より、総合格闘技に近しいものである。
「……当麻蹴速」
噛み締めるように、つくねはその名を口にした。不思議な感覚だった。オスモウドライバーとなった時から……いや、野々美つくねとして世に生まれ落ちた時から戦うことを宿命づけられた相手。
「野見……宿禰!!」
行司不在の土俵上で、戦いは唐突に始まった。
空を裂く音すら置き去りに、首を狙った蹴速の蹴りが放たれる。雷光の如きそれを前腕で受けると、異質な音が響いた。衝撃が大気を震わせ、舞い飛ぶ塵を吹き飛ばす。
「(反応が)」
続く前蹴りをやはり前腕で叩き落す。神代の肉体が震える。人間の体であれば攻撃されたことすら認識できず死に至るであろうそれを、つくねは的確に捌いていく。
「(野見宿禰に引っ張られてる……!)」
瞬き一つ分の隙を晒せば、確実に首を飛ばされるだろう。その極限を、つくねは確かに楽しんでいた。
閃光の速度に、悪鬼の如き殺意に、体が対応していく。野見宿禰の魂とつくねの意識が融合する。
武御雷にメタモルリキシした際には成し得なかった、真の意味での神々の領域へと押し上げられる。
「っあああああ!!」
背足蹴りを鼻先でかわして生じた僅かな隙を狙い、つくねは雄叫びを上げて突っ込んだ。蹴速は一瞬虚を突かれたように目を見開く。
史実における野見宿禰と当麻蹴速の戦いは、蹴りの応酬であったという。まだ格闘技が体系化されていなかった時代、人々は単純な技を絶対の域にまで昇華したのだろう。まして自ら『蹴速』とまで名乗った彼の、己の技への自負はいかほどであったろうか。
その意識の間隙を突いた片足タックルは、ものの見事に蹴速からテイクダウンを奪取せしめた。
「ぬうう!!」
怒りに満ちた呻き声。地に背中をつけられたことへの屈辱、そして自らを殺害した者がこのように泥臭い戦法を取った事への憤怒であろうか。だがどちらも野々美つくねの知る所ではない。グラウンドの攻防は、総合格闘家たるつくねのお家芸である。
テイクダウンから膝を押さえて自分の膝を間にねじ込む。苦し紛れに振り回された拳を避け、馬乗り(マウント)へ。すかさず蹴速の顔面目がけ、鉄槌を振り下ろす。金属で覆われた面が硬質な音を響かせ、宿禰の拳から血が飛び散るが、意に介することなく更に打撃を加え続ける。
マウントポジションからの打撃は、一見すれば子供同士の喧嘩のようにも見えるが、有利な体勢を維持し続けるには強靭な体幹とバランス感覚、相手の動きを先読みする洞察力、そして練習と経験が必要だ。蹴速ほどの相手に一方的な攻撃を続けられるのは、取りも直さずつくねと宿禰の融和が一定の域を突破したことを意味していた。
つくねの攻撃が止んだ。拳の痛みに耐えかねたのではない。蹴速が、耳を掴んでいた。
試合であれば反則だが、これは古代相撲。己が肉体による攻撃の全てが認められる、殺し合いである。
耳を掴んで引きつつ繰り出された頭突きがつくねの視界を揺らす。次いで逆側の耳を狙った掌底は辛うじて防いだが、浮いた腰に足を差し込まれた。
むん、と野太い気合と共に、宿禰の体が宙に浮いた。蹴速は片足の力だけでその体を蹴り上げたのである。
「やばっ」
地に倒れた状態から攻撃動作に移る過程は、宿禰の目をもってしても見えなかった。旋風のごとき勢いで繰り出されたのは、存分に遠心力を乗せた後ろ回し蹴り。ほぼ勘で脇腹を庇った右腕が嫌な音を立ててひしゃげた。
「ぐ、ぶ」
衝撃から0.02秒後、宿禰の巨体は光のロープに叩きつけられた。鉄の味が喉元からせり上がってくる。その場でのたうち回りたい衝動を抑えつけ、つくねは眼前に迫った蹴りをかわす。ロープと爪先の衝突音は、死を予感させるのに十分なものだった。
蹴速は攻撃を緩めない。右腕は死んだ。衝撃が臓腑の深くに残っている。次に同じ蹴りの直撃を受ければ、恐らくもう立ち上がれない。
この状態で蹴速の猛攻をかい潜り、勝機を見出さねばならない。
「そうだ、その顔よ」
当麻蹴速が邪悪に笑った。蹴り足はなお鋭く、宿禰のガードの隙を的確に突いてくる。一蹴りごとに死が近づいてくる。
この現実と虚構の境が曖昧となった世界で死ねばどうなる?つくねには分からない。どうしようもない不安と絶望が心を押し潰そうとしている。
「儂が恐ろしいか!死が恐ろしいか!では存分に味わうがよいぞ!遠慮なく醜態を晒すがよい!儂が末期の一瞬まで看取ってやる故!」
「……なら」
「む……?」
「横綱、なら……諦めない」
それは譫言めいた、つくね自身も意識していなかった言葉であったが。
「土俵の怪我は……土俵の砂で……治すんだ……!」
「戯言を!」
蹴りの嵐の中、つくねは耐えた。ギリギリの所で急所を庇いながら、一片の勝機を見出す為に。
腰が落ちる。股を割った四股の体勢に。相撲取りの基本の型に立ち返る。
「痴れ者がァーッ!!」
がら空きとなった股間を蹴り潰さんと放たれた蹴りが、つくねの左腕によって阻まれた。
奇しくもその姿勢は、雲竜型の土俵入りに酷似している。彼女が一番初めに変身したオスモウドライバー、千代の富士の姿に。
「(まだある。右腕が使えなくたって、出せる技はある!)」
頭部を狙った蹴りを身を沈めてかわしたつくねは、土俵に手をついた。ほんの一瞬、野見宿禰と当麻蹴速の視線が交錯する。
《HAKKI-YOI》
つくねはその時、今はもう居ないSHONOSUKEの掛け声を確かに聞いた。
全身の筋肉がバネの如く躍動する。弛緩から緊張へ。その振り幅が、人智を超えた速度を産み出す。亜光速へ。超光速へ。周囲の景色が極限まで鈍化する。
そうして悟った。このぶちかましは失敗する。蹴速の膝が、どう足掻いても避けられないタイミングで突き出されている。
もうぶちかましは止められない。膝を避けた所で、全力の一撃を外せば大きな隙を晒す。それを見逃す蹴速ではない。
「(この技に殉じよう)」
つくねは心を決めた。捨て身ではない。極限まで研ぎ澄まされた技の冴えが、自身の予測をも超えた結果を示すことに賭けたのである。横綱として、一点の穢れもない心で、そう決めた。
鈍化していた時間が戻る。一筋の光となった力士が、その宿命に突っ込んだ。
「馬鹿め」
当麻蹴速は勝利を確信し、残酷な笑みを形作った。
仇敵の頭を膝頭で粉と砕く、鮮明な勝利の絵図がその脳裏に浮かんでいる。
「肉の一片までも消し飛ばしてくれよう――」
しかし。その時である。
現実空間。国際暗黒相撲協会本部にて。
「……黒星は、お前に輝く」
雷電爲右エ門。伝説の大関を駆る黒のオスモウドライバー、御武かなたの張り手が、かつて暗黒力士だった肉塊が転がる稽古場を急襲していた。
そして傍らにもう一人。銃口から煙を上げるツッパリガンを構えた、親方源一郎である。
「VR空間とこの現実との連結を絶たせてもらった。これでもう彼方にいるお前が人々からチャンコを吸い上げることはできない」
土俵の中心に鎮座する現実世界の当麻蹴速は、切断されたコードから漏れ出す火花に包まれながら、干からびた老人の声で弱々しく抗った。
「なぜだ。なぜオスモウカタストロフの嵐の中、人の身でありながらチャンコにならぬ。神の血を引くものでなければ――」
老人は目を見開いた。
「……まさか、貴様は。死んだはずの」
「僕かい。僕は……」
親方はそこで言葉を区切ると、芝居がかった調子で胸元からティアドロップのサングラスを取り出し、装着した。
「いいや。私は親方弦一郎。野々美つくねの、ただの保護者さ」
不吉な鼓動ひとつと同時に、蹴速の体に異変が起こった。無策の突進を受け止めるべく神の力をこの肉体に漲らせる手筈であった。しかし、その力が、まるで源泉が枯れたかのように失われている。
「(馬鹿な)」
野見宿禰の額が迫る。逃れようのない、二度目の死が。
「(こんな――)」
衝突。衝撃。
当麻蹴速は、相撲の全てを我が手に収めんとした男は、自らの体を見下ろした。
腹に空いた巨大な穴から、オスモウ粒子がとめどなく流れ出していた。
「お――おお、おおオおおおオオオおおオオオオオオオ!!!!」
命と感情の全てをふり絞った断末魔が、地下空間にこだました。
野見宿禰は――野々美つくねは、唇を結んでその様を見ている。土俵の上では相手に敬意を評し、決して歯を見せることはない。
やがて絶叫が止んだ。泉のごときオスモウ粒子の噴出は、辺り一面を雪景色のように白く染め上げていた。
霧散した力士の立っていた場所に、茶髪の少女が横たわっている。
その胸が微かに上下していることを認めると、つくねは初めて安堵の笑みを零した。
(どうして、そんなにおびえているの……?)
(どうして、そんな目で私を見るの……?)
「……気が付いた?」
枯葉塚絆が目を覚ますと、その頭上から野々美つくねの顔が覗き込んでいた。
「VR空間との接続も、もう普通に復旧したみたい。しばらくしたら帰れると思う」
絆はゆっくりと手を握っては開き、まぎれもなく自分の手である感覚を確かめた。そしてつくねの目を見返すと、そこにあの少年の顔が重なった。だが記憶のそれとは違い、表情は穏やかに絆を見つめている。
(あの目――)
失望。それで合点がいった。彼女はそこで初めて、自分が抱いていた感情の正体に気が付いたのだ。
「ああ、そうか、私。ずっと何でもない私じゃなくて、何かになりたかったんだ。あのとき、みんなのヒーローになりたくって、でもあの子のヒーローになることはできなくって……ずっと空っぽのまま。それで、気が付いたら古代の神様になっちゃうなんて。バカだよねえ、私」
つくねは首を振る。
「ううん。絆ちゃんは絆ちゃんだよ。空っぽなんかじゃない。だって、こんなに変わった子なんて、キャラが立ってないどころかむしろなかなか見つからないんじゃない?」
「ひどっ!」
つくねは笑いながら、絆へと手を差し出した。
「あたしも同じ。あたしはあたしだし、ご先祖様の野見宿禰じゃない」
絆も微笑み、その手を握り返す。
「あたしは野々美つくね。野々に美しく根付くと書いて、野々美つくねだよ」