第4ラウンドSS・病院その2

【 第4回戦 VR戦場地形『7.病院』 】


 ■ ■


「わたしに八百長(やおちょう)をしろってのか……? クソが」

 鳴神(なるかみ)ヒカリは自室にて、一人そう漏らした。
 彼女の座る椅子の前には、パソコンのモニタが一通の電子メールを映し出している。

「はっ――! わたしは自分が信じる道を進むだけだっつーの」

 鳴神はそう口にするが、彼女自身それが中身の無い言葉だとわかっていた。
 彼女はその能力の性質上、他人の影響を受けやすい。
 さまざまな人格と接している副作用だろう。

「何が正しくて、何が正しくないのか――ね」

 人の数ほど正義が存在するのだと、鳴神は理解している。
 鳴神はメールの本文を流し読みながら、眉間にしわを寄せた。

「……ちょいといろいろ、(のぞ)き見てみる必要があるな。でもどこにトラップが仕掛けられているのか、わかったもんじゃねーんだよなぁ……」

 鳴神は頭の後ろで腕を組み、天井を見上げる。

「……こんなとき、ななせならどうするのかな」

 鳴神の親友である恋語(こいがたり)ななせ。
 彼女は鳴神とは対称的な存在だ。
 彼女は一つの信念を信じ、それに向かって突き進む。
 一方の鳴神は周りに影響を受けやすい性質だ。
 以前、ななせの能力である《エンゼル・ジンクス》を鳴神が使ったときにも、その使い方には顕著(けんちょ)な差が出ていた。
 ななせの使い方とは違い、鳴神は叶わぬ願いはすぐさま(あきら)めた。そしてそれと同時に、次々と別の思考を展開して願い事を新たに考え直すという使い方をした。
 それはある意味、鳴神の信念がその能力の性質上、ブレやすいとも言えた。

「……こっくりさん、こっくりさーん。教えてこっくりさーん……」

 鳴神はそうつぶやきながら10円玉を弾くと、それは回転しつつ宙を舞った。

「……わっかんねーや」

 10円はそのまま、鳴神の手の中に落ちてくる。
 今の鳴神にはどうしてか、恋語ななせの思考だけはトレースできないのであった。


 ■ ■


「むむむ、今回はペアバトルじゃと……!?」

 突然のルール変更が書かれた電子メールが、電脳空間に漂う狐薊(きつねあざみ)イナリのもとへと届く。
 ――最終戦を盛り上げるための、関係者の強制参加。
 その電子メールの本文には、彼女の主でもある阿久津(あくつ)海斗(かいと)の出場が名指しで指名されていた。

「……どうやら主様(あるじさま)にも出てもらう必要があるようじゃ」

 おそるおそるといった様子で画面越しに語りかけるイナリに、海斗は微笑(ほほえ)みを浮かべる。

「うん……いいよ」

 いつも通り――いや、いつもより優しい海斗に、イナリは不安を覚える。
 以前、イナリが海斗と喧嘩をして以来、その様子はどこかおかしいのだった。

「……うむ。お願いするのじゃ……」

 しかし、イナリの手元のスキャン結果はいつも通り良好。
 間違いなく、それは阿久津海斗その人なのであった。

「主様……」
「うん?」

 どこか頭に(かすみ)がかかったかのような感覚。
 イナリはそれをごまかすようにして、口を開いた。

「主様は、わらわのこと……」

 イナリはその言葉を躊躇(ちゅうちょ)する。
 そして少し考えた挙句(あげく)、その言葉を()み込むことにした。

「……やっぱり、なんでもないのじゃ!」

 何事もなかったかのように振る舞うイナリの様子に、海斗は満足そうに頷く。

「そう……。じゃあ試合まで、ゆっくりしてね」
「のじゃー」

 そう言ってイナリは彼のモニタから退散する。

「……わらわのこの気持ちは、いったいなんなのじゃろう」

 イナリは電脳の海を泳ぎながら、そう独り言を放つ。
 彼女の不安は電子の放つノイズに乗って、誰にも届くことなく(さび)しげに漂うのであった。


 ■ ■


『さあて本日の対戦は電子の妖精・狐薊イナリ、バーサスゥ! 変幻怪盗、ニャルラトポテトー!』

 朽ち果てた廃病院の廊下の端と端に、鳴神とイナリは立っていた。
 偶然にも、同じ階の同じ廊下に出現ポイントを設定したらしい。
 そしてイナリの隣には阿久津海斗の姿があった。

『本日はペアマッチの特別ルールということで試合が開始されています! しかし……おおっとニャルラトポテト、ペアとなる相棒がいないようですがこれはいったい――!?』

 そんなアナウンスに対して、鳴神は大声で怒鳴った。

「うるせーーーー! わたしの友達は、ななせと(きずな)の二人しかいねーんだよ! どっちも魔人だしDSSバトルの参加者だから、この試合に出て来てもらうわけにもいかねーだろうが!」

『おおっとこれはなんと寂しい事実でしょうか! これは仕方ありません。それでは魔人能力も消去した適当なNPCを用意しておくので、自由に使ってください』

 アナウンスの音声に対して威嚇(いかく)する鳴神とは対称的に、イナリは緊張したような面持(おもも)ちで立っていた。

「……主様。試合が始まったらここはわらわに任せて、すぐに隠れるのじゃ」
「うん、わかった」

 海斗のそんな明快な返答に、人知れずイナリは心をかき回されていた。
 ――主様が、こんなあっさりとした返事をするだろうか?
 いつもの彼であれば、たとえ出来ることが少なくたって、イナリのすぐ近くで自分にできることを探して協力してくれるのではないか。
 しかし今の彼は――。
 そんなイナリの思考を(さえぎ)って、アナウンスの声が響き渡る。

『それでは試合を開始します! レディー……』

 イナリは我に帰り、廊下の先に見据(みす)えた鳴神ヒカリに視線と意識を移す。
 ――勝てば、問題ない。
 きっと、勝てばいつも通り海斗はイナリのことを()めてくれて、そしていつも通りの日常が始まる。
 一緒に美味(おい)しいスイーツを食べたり、二人で楽しくデートしたり……。
 ……あれ?

 イナリは違和感に気付く。
 いや――違和感に気付けない。
 電子生命体である彼女の記憶と矛盾(むじゅん)する、そんな二人で外の世界を楽しく歩いた記憶。
 そんな日常、あるはずはないのに。
 しかし認識の衝突(しょうとつ)は、彼女の思考の中でぶつかり合う。

『――ファイト!』

 アナウンスの声と同時に、海斗は近場の部屋へと無言で退避する。
 イナリは悲しさと孤独感が()い交ぜになったような気持ちを自身の内に感じながら、その背中を見送った。


 ■ ■


「……ってなんじゃこりゃー!」

 開始と同時に声を上げたのは、鳴神だった。

「うむ、よろしく頼む」

 それは運営に用意されたお助けNPCの男が、鳴神のすぐ隣に生成されていたせいだ。

「なんで全裸なんだよ!」

 男は、全裸だった。
 男は(さわ)やかな笑みをそのハンサムな顔に浮かべると、腕を組んで彼女を見据える。

「俺の名は万曲蘿 景(まくまら けい)。見ての通り、フルチン三刀流の使い手だ」
「見てもわからねぇし、説明されてもわからねぇし、何もかもがわからねぇー!」

 鳴神の叫びをよそに廊下の向こうのイナリは、病院のリノリウムの床に落ちていた手術刀(メス)を拾い上げる。

「……そっちから来ないなら、わらわから行かせてもらうのじゃ!」

 イナリはそう言うと、その小さなメスを自身の前に構えた。

「《自己変革アルゴリズム》! 【プログラム:権限改変(イナライズ)】!」

 イナリの声とともにそのメスが巨大化し、両手剣(バスタードソード)へと変化する!

「えくす――かりばー!」

 そんな叫び声を上げながら廊下を駆けるイナリに、そのNPCの男が鳴神をかばうように前に出た。

「くるぞ! ヒカリ!」
「気軽に下の名前で呼び捨てにするんじゃねぇ! メインキャラ(づら)もしてんじゃねぇ! 何者(なにもん)だお前は!」
「話せば長くなるのだが」
「じゃあいいや!」

 鳴神は男を押しのけると、搬送台(はんそうだい)の上に散乱していた針の付いたままの注射器を拾う。

彼葉塚 絆(かれはづか きずな)の思考を展開する! ――インストール、《金属曲げ(クリップアート)》!」

 鳴神はそう言うと、先端の針を操作して数本の注射器を射出した。

 その能力は、鳴神が『心が壊れている』と勘違いしていた彼葉塚絆のもの。
 だがそれは、絆がただ単に何も考えていなかったのを、鳴神が理解できていなかっただけに過ぎない。
 現に彼女と友達になり理解しあった今の鳴神は、その思考を完璧にトレースして能力を発動できていた。

「注射器の中身が何かは知らねぇが、謎の液体が入ってるみたいだぜ!」
「うぇー、きっと強酸だとか猛毒だとか、どうせそんなオチに違いないのじゃ!」

 鳴神の呼びかけにイナリはそう答えると、その体を大きく横に飛び跳ねさせた。

「《自己変革アルゴリズム》! 【プログラム:壁面走行(ウォールダッシュ)】!」

 迫りくるうちの一本の注射器をはたき落として、そして他の注射器をすべて避けつつ、イナリは壁を走り出す。
 壁と天井、すべてが地面となり、イナリは狭い廊下を縦横無尽(じゅうおうむじん)に駆け巡る!

「こんこーん! 狭いところは得意なのじゃー!」

 そう言って笑みを浮かべるイナリに、鳴神は笑った。

「へ……全然甘いな。――そら、出番だぜ!」

 鳴神は隣にいたNPCの男を引き寄せると、彼を前に押し出した。
 イナリはそれに眉をひそめ、声をあげる。

「なんじゃとーっ!? 仲間を盾にする気か! この外道!」

 非難の声をあげるイナリをよそに、鳴神はその男のケツを叩き、「はぁんっ!」高らかに叫んだ!

「――可愛川(えのかわ)ナズナの思考を展開する! インストール、《アトラクションショー》!」

 可愛川の能力が発動し、イナリの視線が誘導される!
 その視線の先には――!

「――見るがいい! フルチン三刀流、奥義! 《豪風暴雨・大車輪(ストーム・ブリンガー)》!」

 ブルンブルンブルンブルン!

「ふぎゃーっ!!」

 ブルンブルンブルン!
 イナリの視界に迫る、一本しかない三刀流!
 しかし普段イナリが見慣れていないその傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な一本刀から、彼女は目を離すことができない!
 それが! 可愛川ナズナの能力、《アトラクションショー》である!
 なんという地獄の光景だろうか!

 そしてさらに男は、クイックイッと、その腰を突き出し高速で動かす!

「ほっ! はっ! うおおおお! ……秘技! 《鹿威(ししおど)し・ファンタズマ》!」
「いやーーー!」

 イナリの視界を襲う精神攻撃の嵐!
 イナリが進めば進むほどに、その激しいビートを刻む竹筒(たけづつ)が、その顔に近付いてくる!
 壁を走るというトリッキーな動きも同時に行っていたイナリが、そんな攻撃を受けたせいで足をもつれさせて転んでしまうのは、まさに必然の出来事!
 そうしてイナリは廊下のド真ん中で、盛大にすっ転んでしまった。

「いたいっ! のじゃじゃ……!」

 慌てて起き上がろうとするイナリのもとに、鳴神が駆け寄った。

「戦い方は感情的で直線的――いったい今までの3戦、何を学習してきたんだ?」
「くそぅ、バカにしおってぇ……!」

 イナリは体を起こしながら、鳴神を(にら)みつけた。

「主様のためにも、わらわはここで負けるわけにはいかないのじゃ! 《自己変革アルゴリズム》! 【プログラム:超速負荷(アクセラレータ)】!」
「――そんな戦い方じゃあ甘い甘い。どんなに速くなったって――この世界じゃ三番目もいいところだ」

 イナリがそのプログラムを発動すると同時に、鳴神は跳んでいた。

「いくぜ共犯者(マイハニー)。インストール、《天賦の銀才(シルバードロップ)!》」

 声とともに鳴神はイナリの上に覆いかぶさって、小さなその腕を(ひね)り上げる。

「世界で二番目の捕縛術(バリツ)――いくらお前の筋力が高かろうと、この姿勢で抵抗したら自分の腕が折れちまうぜ!」
「ひぎぅうう……!」

 涙目になりつつうめき声をあげるイナリに、鳴神は笑った。

「……へへ。3試合分も観戦できる試合が貯まれば、思考のトレースできる幅は広がっていくのさ」

 身悶(みもだ)えするイナリを無理やり立たせ、鳴神は近くの部屋へと押し込む。

「な、何をするのじゃ!? やめるのじゃー!」

 鳴神は器用にイナリを拘束したまま、その部屋にあった分娩台(ぶんべんだい)へと座らせる。

「大人しくしてな……! 悪いようにはしねぇからよ……!」
「い、いやじゃー! この格好、ちょっと……いやだいぶ恥ずかしいのじゃ!」

 鳴神は分娩台に大股開(おおまたびら)きで彼女を拘束すると、その顔にいやらしい笑みを浮かべた。

「……それでは、緊急オペを始めーる!」
「ひぇっ!? や、やめるのじゃ! わらわお医者さんごっことかエッチなのは、事務所NGなのじゃー! まだママにはなりとうないー!」

 そんな風に騒ぎ立てるイナリ。
 しかしきつく縛られたその拘束は、彼女の筋力を増強された腕でも解くことができない。
 それは視聴者に配慮されたVR拘束具だからである!
 お約束というやつだ。

 だが、誰もが喜び勇んでパンツを脱ぎ始めるであろうその状況に、鳴神は表情を消して静かに口を開いた。


「……お前のこと、調べさせてもらったぜ」
「ふぇ?」

 予想していなかったその言葉に、イナリは首を傾げた。


  ■ ■


「お前が作られた経緯、原理、その背後関係――」

 鳴神は静かに言葉を続ける。

「――そして、阿久津海斗がすでにこの世に存在しないこと」

「……へ?」

 イナリは聞き返す。
 ――そんなわけはない。
 だって、今だって一緒にVRの中に――。

「お前だって気付いてたはずだ。……あいつの不自然さには」

 鳴神の言葉に、イナリは慌てて首を振った。

「そ、そんなことあるわけないのじゃ! 主様のデータをチェックしても、いつもと変わらず――」
「――ウィルス兵器《キル・イーター》」

 鳴神の言葉に、イナリはびくりと反応した。

「お前は知っているはずだ。……いや、同時に気付けないようにも認識を操作されている。それも《キル・イーター(ソイツ)》の能力の一つだった」

 それは思考までをも操作する、感染能力。
 イナリは脳髄(のうずい)の奥が、むず痒く刺激されるような感触を覚えた。

「お前は以前それに感染し、そしてだからこそ――阿久津海斗の不自然さに気が付くことができない」
「何を……! 何を言っておるのじゃ……!」

 鳴神に他方(たほう)から(もたら)された知識と、そして鳴神自身が追加で調べ上げたその情報群。
 イナリは小さく首を振って、それらの情報を否定する。

「知らない……知らない、知らない、知らない知らない知らない! わらわはそんな話なんにも……!」

 鳴神は、彼女の首をつかんだ。

「逃げるんじゃない! お前は――お前の兄貴のために、それを克服(こくふく)する必要がある!」
「あに……?」

 その言葉が、概念が、イナリの中に広がった。

「あ……なん、じゃ……。これ、は……?」

 イナリの頬に、ひとしずくの涙がこぼれる。
 鳴神はそれを見て、奥歯を噛み締めた。

「――ああ。大丈夫だ」

 鳴神は自身の顔に手を当てる。

「すぐに全部思い出させてやる。お前たち兄妹(きょうだい)を不幸のどん底に叩き落とした、至上最悪の物語(ストーリー)を!」

 鳴神は叫んだ。

「――狐薊イナリの思考を展開する! インストール、《自己変革(じこへんかく) 論理進法(アルゴリズム)》!」

 鳴神のVRアバターに狐耳と尻尾が生える。

「……そして!」

 鳴神のその顔には、怒りの表情が浮かんでいた。

「――阿久津ミカの思考を並列展開する! インストール、《自己保存(じこほぞん) 人間保全(ヒューリスティクス)》!」

 その顔に、イナリの表層アバターが被せられる。

「……自己を進化させるのが《自己変革アルゴリズム》。そして自身の現状を保護するのが《自己保存ヒューリスティクス》……。ならそれを統合させた能力は――!」

 鳴神の額に、血管が浮かび上がった。

「《TRPG(ティー・アール・ピー・ジー)》第四段階、並列演算(デュアルコア)!」

 そうして鳴神の中に、コピーした2つの力を統合した魔人能力が誕生する。

「未来に進化する《自己変革アルゴリズム》でもなく……! 現在を保持する《自己保存ヒューリスティクス》でもない……! その力は、現状から過去を予測し進化する、自己回帰の復元能力!」

 鳴神はその手でイナリの額をわしづかみにした。
 鳴神が合成した能力が、イナリの中へと流れ込む。

「《自己回帰(じこかいき) 人理復元(プログラミング)》! ――過去の自分を取り戻せ! 狐薊イナリ!」

「あ、あああ、あああああ……!」

 鳴神の力が、まるでイナリのデータをハッキングするようにその存在を侵食していく。

「わらわは……! 違う、私は! わらわは、私は……!」

 彼女は錯乱(さくらん)したように叫んだ。

「違う、違う、違う違う違う、違う違う違う違う違うっ! こんなの私じゃ、わらわではない! 私は、わらわは――!」

 混乱した様子を見せるイナリに、鳴神が口を開いた。

「――うるせぇー!」
「ひゃいっ!?」

 鳴神は唐突に、イナリの頬をぎゅむっと掴む。
 彼女の唇がすぼまった。

「むご、むぐ……」
「お前の中がどうなってんのかなんて、想像もつかねぇけどよ! ……それでも、自分から逃げるんじゃねぇ!」

 鳴神は手を離し、イナリへと語りかける。

「自己の変革を恐れるな! 他人の影響を恐れるな! 自我なんてものに囚われて、自分の成長を止めるんじゃねぇ!」

 それは《TRPG(ティー・アール・ピー・ジー)》によって数多(あまた)の人格を宿した経験のある、鳴神だからこそ言える言葉。

「どうせ1秒前の自分なんて、赤の他人なんだよ! だから過去を受け入れて、未来のために今を生きるんだ!」

 その言葉を咀嚼(そしゃく)するように、イナリは自身でも繰り返した。

「……過去を……受け入れる」

 イナリは静かに目を閉じる。
 主様との思い出。
 お兄ちゃんとの思い出。
 そんな彼女の記憶が入り混じり、少女の内側にその原風景を構築する。

 そうしてイナリは涙目になりながらも、ゆっくりと目を開けた。

「わらわは……(わらわ)は、もう逃げない!」

 イナリのアバターが変化し、周囲のVR空間に1と0の演算領域が展開された。

「《自己変革アルゴリズム》! 【プログラム:イナライズ】! ……阿久津ミカを、イナリ化する!」

 彼女の言葉とともに、演算領域が彼女を包み込む。
 同時に彼女が座っていた分娩台は拘束具ごと虚数(きょすう)空間に呑み込まれ、激しい光が辺りへと広がった。
 そして全てが収束したとき、そこにはイナリが立ちつくしていた。

「私は……わらわは! 狐薊イナリ! そして、阿久津ミカ!」

 彼女は拳を曲げて、「こーん」と鳴いて見せた。

「阿久津海斗の可愛い妹にして、電子の海のアイドルなのじゃー!」

 そんな彼女のおどけた様子を見て、鳴神は笑う。

「ようし、上出来だ! それでこそお前だよ! ……さて、そろそろ頭はハッキリしたか?」

 鳴神の問いにイナリは笑みを浮かべて、ゆっくりと頷いた。

「……全部思い出したのじゃ。『阿久津ミカ()』のことも、主様(お兄ちゃん)のことも、そして《キル・イーター》のことも……!」

 阿久津ミカとなったイナリの顔には、どこか寂しさが混じっていた。
 《キル・イーター》によって制限されていた思考を遮るジャマーは、もう存在しない。
 その変化によって彼女が理解したのは、今も眠る阿久津ミカの本体のことと、そして――。

 イナリが彼女の主のことに思いを巡らせていると、とつぜん「パチ、パチ」とゆっくり手を叩く音がその部屋に聞こえてきた。

「記憶を取り戻したのかな……。それはそれは、良かった良かった」

 その部屋の入り口で鳴神とイナリを見つめながら、手を打っているのは――。

「……阿久津海斗」

 鳴神がその顔を見て呟く。
 そこにはメガネをかけた青年が、うすら笑いを浮かべていた。

「……いや、それともこう言った方がいいのか?」

 鳴神がまっすぐと彼を見据える。

支倉饗子(はせくら きょうこ)――!」

 鳴神の言葉に、男は口を歪めて笑った。


 ■ ■


 鳴神の言葉を受けて、阿久津海斗のアバターが徐々に分解されていく。
 そのアバターの奥から現れたのは、鳴神が二回戦で戦った支倉饗子のアバターだった。
 彼女は鳴神を見つめて、口元にいつものように柔和(にゅうわ)な微笑みを浮かべる。

「なんと呼ぼうが、私の本質は変化しない……。また会えるとは思わなかったよ、ニャルラトホテプちゃん」

 鳴神はその言葉にギリ、と奥歯を噛みしめると、その女性を睨みつけた。

「ああそうかい。こちとら二度と会いたくなかったぜ……《いっぱい食べる君が好き(イート・ライク・ユー)》!」

 二人のやりとりの横で、阿久津ミカの人格と統合されたイナリは、改めてVRステータスのウィンドウを開く。

「……主様(お兄ちゃん)の中に《キル・イーター》の反応を確認したのじゃ。もう、主様(お兄ちゃん)の人格は……」

 《キル・イーター》の呪縛から逃れ、完全にその人格を復元したイナリには、阿久津海斗を襲った現象が理解できてしまっていた。
 今にも泣き出しそうな顔をするイナリの声に、鳴神は視線を伏せる。

「……これはわたしの落ち度だ。《いっぱい食べる君が好き(イート・ライク・ユー)》を見逃したばっかりに、こんなことになっちまった」

 鳴神は言葉を絞り出す。

「あのときわたしがきちんと対処していれば――根本から消し去っていれば、こんなことは起こらなかったはずだ。わたしの甘さが、お前の兄を殺した」

 ――鳴神ヒカリは、相手を殺さない。
 それは彼女がこれまでの戦いで続けてきた、DSSバトルの基本戦術だった。

「……でもよ。過去を消すことはできねえが――イナリ! お前のことは絶対、ハッピーエンドに導いてやる! それがわたしのお前にしてやれる、精一杯の(つぐな)いだ!」

 鳴神は顔を上げ、支倉饗子に指を突きつけた。

「……《いっぱい食べる君が好き(イート・ライク・ユー)》! 今度こそ、てめーをぶったおーす!」

 そんな鳴神の様子に、支倉はクスクスと笑う。

「倒す? どうやって?」

 それはさっきまで阿久津海斗のものだったはずの自身の胸に手を当てて、その瞳を見開いた。

「あははははは! 阿久津海斗くんはぁ……ぜーんぶ 私を食べ(私に食べられ) ちゃったぁ!」

 その言葉にイナリは心をえぐられ、苦しむように地面を見つめる。
 そんな彼女の様子を楽しむように、支倉は言葉を続けた。

「私のこの魂はもう、《いっぱい食べる君が好き(イート・ライク・ユー)》そのもの。この精神には、すでに一辺たりとも阿久津海斗の情報は残っていない!」

 鳴神はそんな彼女の言葉に言い返せず、歯を食いしばる。
 ――しかし。

「……いいや」

 声をあげたのは、イナリだった。

「……主様(お兄ちゃん)の記憶なら、ここにあるのじゃ! たとえお主の構造体に、主様(お兄ちゃん)残滓(ざんし)一欠片(ひとかけら)も残っていなかったとしても……!」

 その顔に迷いはない。

「わらわの、そして私の中には!」

 狐薊イナリは展開する。
 阿久津海斗の人格を。

「たくさんの主様(お兄ちゃん)が、いーっぱいあるのじゃー!」

 力いっぱい叫ぶイナリの言葉に、鳴神は笑みを浮かべた。

「……その通りだ」

 心底楽しそうに、鳴神は《いっぱい食べる君が好き(イート・ライク・ユー)》を睨みつける。

「よく言ったイナリ。それじゃあ見せてやろうじゃないか。……人間の想いが(つづ)る、とびっきりにご都合主義な奇跡の物語って奴をよ!」

 鳴神はそう言うと、自身の顔に手を当てた。

「イナリ! ……わたしに同調しろ!」
「むむ? よくわからんけど、わかったのじゃー!」

 鳴神は空いている手で、イナリと手を繋ぐ。

「へへ……。こいつは三回戦の焼き直しだけどよ。……きっとこれが、わたしの能力の正解だったんだ」

 そう言って鳴神は、目を閉じた。

「――銀天街飛鳥(ぎんてんがい あすか)の知恵、支倉饗子の能力形態からのヒント、そして狐薊イナリの能力で自己変革して無理やりこじ開けた、もう一つの可能性の第五段階への扉――!」

 鳴神は叫んだ。

「《TRPG(ティー・アール・ピー・ジー)》第五段階! ――同期共鳴(ミラーリング)!」

 鳴神の声とともに、その手の先からイナリへと小さなデータキューブがまとわりついていく!

「……鳴神ヒカリの思考を水平展開する! インストール、《S・RPG(シミュレーション・ロールプレイングガール)》!」

 手を繋ぐ二人の表層アバターが、徐々に変幻怪盗ニャルラトポテトの基本スタイルへと変化していく。
 そうして完全に変化し終えると、その外見からは二人の違いは全くわからなくなっていた。

「……行くぜ、わたし!」
「ああ、任せたわたし!」

 二人は双子のようにそう言うと、二手に分かれて支倉饗子へと迫った。
 片方の鳴神が声を上げる。

「《いっぱい食べる君が好き(イート・ライク・ユー)》の概念……その根本から破壊しつくしてやるぜ!」

 その右腕に、(いかづち)が宿る。

「荒川くもりの思考を展開する! インストール! 《全壊(オールディストラクション)》!」

 鳴神が叫んで、その手を支倉饗子に押し当てた。
 破壊の雷が、その体を包む。

「あはっ……あああああんっ……! 壊れちゃう、壊れちゃう……! わたしの体が――あなたに破壊され(食べ)つくされちゃうようっ! ……ふふっ、ふふふふふふ! あははははははは!」

 壊れたような笑い声を上げる支倉饗子に、もう一人の鳴神が抱きついた。

「――ここだ! 《自己変革アルゴリズム》――【プログラム:イナライズ】! 支倉饗子を、イナリ化するのじゃー!」

 破壊の雷により《キル・イーター》が駆除されたタイミングで、消えかけたその構造体へとイナリ因子を埋め込む!
 イナリ属性が支倉饗子のデータを侵食し、融合するようにそのアバターを取り込んでいった。

「注入したイナリ因子から――阿久津海斗を強制復元する! 第四段階、並列演算(デュアルコア)! 《自己回帰プログラミング》!」

 支倉饗子の体が、抱きついた鳴神の体に吸収されていく。
 そしてお互いのアバターが剥がれ、それらはまるで人形のような真っ白な素体となって混じり合っていった。

「イナリ! お前の情報を保て! 自己保存のプログラムを実行しろ!」

 残された鳴神は、空白情報(ブランクデータ)の塊へと変質した二人の体に向かって叫ぶ。

「電子の海から帰ってこい、イナリ! こっちの世界には――お前の望む幸せな世界が、待っているんだから!」

 鳴神の声に反応するように、ピクリとその素体が動き出した。
 白くなった二人を中心として、1と0の演算領域が広がっていく。
 そしてその混ざりあった素体情報に、次第に色が着いていった。
 それは男女二人分の、アバターデータ。

 一方の少女は狐耳のイナリ。
 そしてもう一方は――。

「……イナ、リ……?」

 その男が、口を開いた。
 彼の言葉に反応するように、イナリはギュッとその体を抱きしめる。

主様(お兄ちゃん)……!」

 裸の男女が抱き合い、徐々に二人のデータがVR空間に復元されていく。

「あ……イナリ……? いや、ミカなのか……?」
「……どっちも、(わらわ)なのじゃ!」

 イナリは涙をこぼしつつ、その胸に顔を埋めた。

「僕は……いったい……。長い夢を、見ていたような……」

 阿久津海斗は、イナリを抱きしめながらぼんやりとそう呟く。

「夢の中での僕は、ミカのことも、イナリのことも忘れていて……」

 海斗の言葉に、イナリは首を横に振った。

「大丈夫……! 大丈夫なのじゃ……! (わらわ)はずっと、ここにいるから……! 主様(お兄ちゃん)が私を忘れなかったように、(わらわ)主様(お兄ちゃん) のことを、絶対に忘れないのじゃ……!」

 イナリは涙を流す。
 その涙は、悲しみによるものではなかった。

主様(あるじさま)と過ごした記憶も、お兄ちゃんと過ごした記憶も、(わらわ)にとってどっちもかけがいのない、大切なものなのじゃ……!」

 イナリはそのぬくもりを感じながら、海斗に囁いた。

「……(わらわ)主様(お兄ちゃん) が好き」

 その想いは、押しとどめることが出来ない真実の言葉。

「戦いを通して、そしてイナリとしての眼を通して、(わらわ)はそれを自覚した。――だから、主様(お兄ちゃん)は――」

 イナリは上目遣いで、海斗の目を覗き込んだ。

「――(わらわ)のこと、好き……?」

 それはこの試合の前に、聞こうとしたのに聞けなかった言葉。
 イナリは、不自然な状態の海斗から返ってくる答えが怖かった。
 しかし兄が元通りになった今、彼女はその言葉を彼に伝える。
 勇気を出して言ったイナリの言葉に、海斗は微笑んで答えを返した。

「ああ……僕も好きだよ。どっちも……イナリのことも、ミカのことも。世界で一番、大好きだ」
主様(お兄ちゃん)……!」

 そうして二人はお互いの愛情を確認して、またも強く抱きしめ合う。
 そんな様子を見て、鳴神は笑った。

「……ふう。惚気(のろけ)けられちまったかな」

 鳴神はバツが悪そうに、頬をかく。

「……これにてハッピーエンド――なーんてな」

 冗談めかして、彼女はそう言った。

 ウィルス兵器《キル・イーター》を退治し、見事その人格の復活を果たした阿久津ミカと阿久津海斗。
 そんな二人のことを、鳴神と、視聴者と、そして全裸のフルチン三刀流が暖かく見つめていた……。



<勝者:変幻怪盗ニャルラトポテト>
<狐薊イナリの消失>

<阿久津海斗――情報復元>
<阿久津ミカ――情報統合>


 ■ ■


「まったく。せっかく面白いところだったのになぁ」

 イナリの事件の黒幕である三千院三千(さんぜんいん みち)は真夜中の路地裏(ろじうら)から、街頭スクリーンに映る試合の様子を(なが)めていた。

「もうちょっと先輩を(いじ)めたかったんだけど、ここらへんが潮時(しおどき)かぁ」

 彼女はそう独り言を呟くと、その場を後にしようと(きびす)を返す。

「さてと。次のオモチャは誰に――」

 カツリ、と。
 暗闇に足音が響く。

「やあ……楽しそうな話をしているじゃないか。俺にも聞かせてくれないかな」

 三千院はその姿に、目を細める。

「……鷹岡集一郎(たかおか しゅういちろう)

 名前を呼ばれ、男は笑った。

「はは。まあ俺はべつに正義の味方ってわけでもなんでもないし、視聴率を取れりゃどんなことしてくれてもいいんだけどね。だから策謀(さくぼう)謀略(ぼうりゃく)悪巧(わるだく)み、なんでも大歓迎。ガンガンやってくれ」

 鷹岡はそう言って、眉をひそめた。

「……でもなぁ。お前さん、ちょっとやり過ぎだよ。表の世界にバレたときのリスクコントロールまでしとかなきゃ、裏の世界の住人としては失格だ」

 その言葉に、三千院は笑う。

「――へぇ、なるほど。つまり私が邪魔になったということですか。スポンサーさんのご意見反映、お疲れ様です」

 三千院の言葉に、鷹岡は溜息をつく。

「いやお前さんには恩があるからね。本当はこんな真似はしたくないんだよ、俺も」

 そして、その鋭い眼を彼女へと向けた。

「――だけどこれが俺のやり方だ」

 彼の言葉に、三千院はその瞳を睨みつける。

「……なるほど、なるほど。あなたが鳴神ヒカリに、阿久津ミカや《キル・イーター》の情報を渡したんですね。そうして私の計画が失敗するよう、画策(かくさく)したと」

 彼女の言葉に、鷹岡は肩をすくめて見せた。

「さあ? ヤツのことだから、自分でたどり着いたのかもしれないよ? 阿久津ミカが出ていた昔のDSSバトルの映像だって、記録されて出回ってるしねぇ」

 鷹岡は口元に手を当てると、白々(しらじら)しく言葉を続ける。

「いやあ、物語っていうやつは、どうなるかわからないもんだ。……キミ、”裸の王様”って知ってるかい? えーと作者は誰だったっけ? シェイクスピアだったか、グリム兄弟だったか……」

 唐突にそんなことを語り始めた鷹岡に、三千院は眉をひそめた。
 鷹岡は彼女の様子を気にせず、自身の話を続ける。

「まあともかく、あの話の(きも)はね。『とっとと詐欺師(さぎし)の仕立て屋を殺しちまってれば、全てが丸く収まっていた』ってことさ」

 鷹岡は笑う。

「『疑わしきは抹消(まっしょう)せよ』。――俺の好きな言葉だ」

 その言葉に、三千院は鼻で笑った。

「……私を追い詰めたとでも思ってるんですか? 残念ですが、私は魔人で――」

 その言葉を遮って、彼女の右腕が無くなった。
 一瞬それが理解できなかったのか、三千院は呆然(ぼうぜん)と宙を見つめる。
 鷹岡は彼女に、背中を向けた。

「……ああ、《キル・イーター》とかいったっけ? あれね、俺も使ってみたんだよ。もっと扱いやすくするために、知り合いの魔人に改造をお願いしたんだけどさ」

 三千院の右足が千切れる。

「あっ」

 彼女は体を支えきれなくなり、その場に倒れ込んだ。

「でもなんか上手くいかなくてなぁ。ただ喰らうだけの魔人……というか、化物になっちまった」
「あっ、あ」

 グチャリ、と肉が潰れる音が闇に響く。

「俺は戦争に使う優秀な兵器が欲しいわけじゃないんだ。……舞台で踊る、便利なピエロが欲しいんだよ。こんなんじゃあ、見世物にならない」

 バキリ、と骨が砕ける音がした。

「次はもっと、金になるものを作ってくれ」

 そう言い残し、鷹岡はその場を後にする。
 路地裏に、静かな水音だけがこだました。




<第4回戦 第6試合:了>















 ■ ■











 ●

 ●

 ●









~~~~~~~


 1713567502345712750125672345673567


 よう久しぶり。いやついさっきぶりだったっけ?
 まあ挨拶なんて気にしないでおこう。
 俺はこう見えて、礼儀(れいぎ)に対して意外と寛容(かんよう)なんだ。
 だから俺を見習って、お前もそんなに気にしないで欲しい。
 それにしたってこんなところに来るなんて、お前もどうして物好きなもんだ。
 こんな長ったらしい残りカスみたいな物語に()(この)んで付き合うなんて、頭のネジの1つや2つ、いやとうに10かそこらは吹き飛んでいるに違いない。
 先に言うなら、ここから先の話は完全に無駄(むだ)蛇足(だそく)冗長(じょうちょう)な、物語とも言えないただの空虚(くうきょ)な空想だ。
 スペリオール! そう叫んで立ち上がり、手を叩きたくなるような物語は存在しない。
 こんな話の導き手を(にな)うだなんて、俺だって乗り気でやってるわけじゃないんだよ。
 わかったらさっさと引き返して、おうちでママに作ってもらったミートパイでも食べるといい。

 ――しかししかし、だがしかし。
 物語の隙間に取り残されたこんな俺にでも、ほんの少しだけ出来ることはあるのだろう。
 自分自身の物語だって満足に語りきれない俺とはいえ、この天問地文(あまどい じもん)にしか出来ない専任業務を目にしてしまえば、少しぐらい手を伸ばしたくなるのもしょうがないってもんじゃないか。

 それは並行世界の出来事なのか、認識の衝突なのか、はたまたただの与太話か。
 間違っても正史になんてなりえない、まったく評価に値しない、矛盾と妄想の入り混じったただの夢物語の妄想だ。
 だから本物の物好き以外はここで物語を閉じて(ユー)ターンするべきだし、たとえ先へと進むのだとしてもここであった出来事は綺麗さっぱり夢の中の出来事だったと忘れ、さっさと次の物語を楽しみに行くといい。
 だがそんなことはどうでもいい。どうだっていいことなんだ。
 そんな瑣末(さまつ)些細(ささい)塵芥(ちりあくた)(ごと)き理屈なんて、世界で二番目に優秀な探偵にでも推理しておいてもらうことにしよう。

 だけど俺から一つ、お前に向かって言えることがあるとするならば。


 ――そこに忘れ去られたのは、一つの甘い甘い恋物語だったってことだけだ。








【 最終戦(・・・) VR戦場地形『25.出場選手に縁の深い場所、土地』 】


◆ ◆ ◆


「お砂糖、スパイス、ふたつの素敵」

 そんな昔の人の言葉さえ。
 今の僕には、理解できない。

 素敵なおまじないと、素敵な恋。
 僕はそういうもので、できていた。
 できていた、はずだった。

 度重(たびかさ)なる戦いに身を置いて。
 甘さも辛さも、その一欠片の思いすら。
 僕はすべてを失った。

 どうにかして取り返したくて。
 どうしても諦められなくて。
 そうしてあがけばあがくほど。

 僕の心はどんどん闇の底へと沈んでいった。


◆ ◆ ◆


 ――それは少女のささいな願い事から始まった。

 ある日魔人能力に目覚めた恋語ななせは、初めにごく些細な願い事をした。
 当時転校したばかりで友達のいなかったななせは――『友達が欲しい』とその能力に願いをかけた。
 それは少女のささやかな祈り。

 《エンゼル・ジンクス》が彼女に告げたおまじないの内容は、『クリスマスの夜、サッカーボールサイズの水晶ドクロに蝋燭(ろうそく)を立て、火を吹き消す』というなんとも黒魔術めいたものだった。
 それは近くの博物館で巨大水晶ドクロの展示が行われていたという彼女の意識が、おまじないの内容へと影響を与えたのかもしれない。

 しかし当然のことながら、気軽に展示物を博物館から借りることなんてできない。
 かといってインターネットを探し回ったところでそんな巨大な水晶ドクロなど、他に見つけることはできないのであった。
 そしてななせは気付く。

 もしクリスマスの晩を逃したら、一年間そのおまじないを達成するチャンスがないことに。
 季節外れの転校により、まだクラスにも馴染(なじ)めていない彼女は大いに焦った。
 そこで何かに(すが)るようにたどり着いたおまじないサイトで――ななせと彼は出会ったのだった。

 当時はまだ魔人能力にも目覚めていなかった鳴神ヒカリ。
 ニャルラトポテトというハンドルネームを名乗っていた彼は、ななせの話を聞いて博物館から水晶ドクロを盗み取る。
 そして彼は、現実(リアル)で恋語ななせに直接出会わなくてはならなくなった気恥ずかしさも手伝って、変幻怪盗に覚醒(かくせい)した――。


◆ ◆ ◆


「――なんであんなこと、願っちゃったのかな」

 ななせは自室で過去を思い出し、自問自答した。
 その答えはわかりきっている。
 彼女はそのとき、寂しかったのだ。

 転勤したばかりで両親は忙しく、構ってもらえず。
 新たな地では上手く友達もできなくて。
 だから『友達が欲しい』と能力に願った。

 その願いは実を結び、ななせには鳴神ヒカリという友達が出来た。
 そして叶ってしまったその願いは、今度は彼女の心を苦しめ続けることになる。

 ――『友達』。
 おまじないの結果で出来たのは友達だ。
 恋語ななせがどれだけ鳴神ヒカリに思いを寄せても、それは友達でしかない。
 それでも徐々にくすぶっていく恋心は、ななせにその行動を起こさせた。

 ――『この恋が叶いますように』。

 そしてその願いはDSSバトルの一回戦で破られる。
 おまじないを諦めさせられたななせは、その失態を取り返すために裏の報酬(ほうしゅう)――過去の改変を求めて戦っていた。
 元を正せば、そんな最初の願い事がなければ彼女がこうして戦いの場に身を置くことはなかったのだろう。

「――ああでも」

 どうしても。

「諦めるのは、やだな」

 彼女はベットの上でうずくまる。
 不安に自身の体を抱きかかえるその腕は、静かに震えていた。


◆ ◆ ◆


 恋語ななせは、どうしても諦められなかった。
 すべての戦闘行程が終了して、あとは戦いの結果の発表を待つのみ……。
 そんなタイミングで、ななせはVR空間に侵入していた。

 新たにななせが《エンゼル・ジンクス》に祈った、心からの願い事。
 ――それは、DSSバトルのやり直し。
 果たしてそれが叶えられたときには時間逆行が起こるのか、それとも新たなDSSバトルが開催されるのか。
 ななせにとって、その過程はどうでも良い。
 ただただひたすら、心の中にくすぶったままの恋を叶えることだけが、彼女の望みだった。

「何がどうなったってかまわない……」

 その心のなかにある後悔は、たった一つの望みを叶えるために体を動かし続ける。
 《エンゼル・ジンクス》が告げたそのおまじないの内容は、『サッカーボールサイズの水晶ドクロでリフティングを10回行う』というこれまた黒魔術めいたものだった。
 しかしサッカーボールサイズの水晶ドクロなんて、そうそう存在するものでもない。
 それ(ゆえ)にななせは、VR空間に不正アクセスをすることにしたのであった。

 C3ステーションのVR戦場地形の中には、一つだけ特殊なステージが存在する。
 『出場選手に縁の深い場所、土地』。
 この項目は、選手の思考を読み取って半自動的に形成されるオートマッピングステージだ。
 つまりその地形においてなら、過去に彼女が見た『博物館にある水晶ドクロ』を再現できる。
 ななせは期待と高揚(こうよう)にその胸を弾ませながら、VR戦場を駆け抜けた。

「――狭岐橋(さきばし)さんには無理をさせちゃったかな」

 大会が終了してしまったとはいえ、VR戦場地形にアクセスするのにはもう一人の対戦相手が必要だった。
 そこで彼女は狭岐橋憂(さきばし ゆう)に頼み込んで、同時にこの戦場へと不正アクセスしてもらうよう依頼したのだ。
 彼女はななせとの戦いに負けたとはいえ、(こころよ)くそれを了承してくれた。

 博物館の中を駆け抜けながら、『露出亜(ロシュア)出土品コーナー』と書かれた看板を見つけてななせはさらに足を加速させる。

「……この看板……! 僕の記憶が正しければ、この先の広場に……!」

 そして彼女の前に、視界が開けた。

「……なっ……!」

 ななせはそれを見て、思わず息を呑む。

「――無い……!?」

 記憶の中ではたしかにそこに展示されていたはずの水晶ドクロ。
 しかし今はその展示台には何も置かれておらず、『スパンキング世界甲子園、初代チャンピオン頭蓋骨(ずがいこつ)模型』と書かれた水晶ドクロの説明看板だけが(むな)しく飾られていた。

「どうして……どうしてどうしてどうして!」

 ななせは混乱に叫び声をあげる。
 そんな彼女に、後ろから声がかけられた。

「……よう。わたしもここの風景は、少し(なつ)かしいな」

 その声にななせは振り返る。
 そして水晶ドクロを手の中で転がす彼女の姿を見て、ななせはその表情を険しくした。

「――どうして、キミが」

「……なに。お前のことを心配してくれる女の子がいてね。ちょいと教えてもらったのさ」

 そこには水晶ドクロをその手に収めた、変幻怪盗ニャルラトポテトの姿があった。


◆ ◆ ◆


「キミも――キミですらも、僕の願いを邪魔するのか……!」

 ななせはそう声をあげて、鳴神を睨みつける。
 そんなななせの言葉を、鳴神は静かに肯定した。

「……そうだ」

 鳴神の言葉にななせはその表情を引きつらせる。

「なんで……どうして! 誰も彼もこの世界も、そしてキミすらも! なんでみんな僕の邪魔をしようとするんだ! 僕はただ、その願いを取り戻したいだけだっていうのに……!」

 ななせのそんな言葉に、鳴神は(あき)れたように答えた。

「……ななせ。お前、見てらんねーよ」

 ななせは鳴神の言葉に、頭の中が真っ白になった。
 ――見てられない?

 ――こんな(みにく)い僕の姿を。
 ――こんな醜い僕の心を。
 目の前の彼女は――否定した。

 それはまるで、自身のたった一つの恋心を拒否されたかのようで。

「キミには……僕の気持ちなんて、わかんないよ!」

 ななせは叫び、地面を()る。
 その視線は、水晶ドクロを見つめていた。

(こた)えて――《エンゼル・ジンクス》!」

 ――最初から言葉なんて必要なかったんだ。
 力づくでその水晶ドクロを奪い取れば、願いは叶う!
 ななせはそう考えながら、能力を展開する。

「はっ――! ななせ、お前の能力は発動までの準備が鍵だ。すべての可能性を想定し、それを事前に潰しておく……それがお前がこのDSSバトルで見せた戦闘スタイルで、それがお前の能力の最適解だ」

 鳴神は笑みを浮かべ、彼女を迎え撃つ。

「……だからこうして、わたしがここにいるだなんて不測の自体には――対処できるわけがねぇ!」

 そう言うと鳴神は空いている方の手を自身の顔に当てて、能力を発動する。

「ミルカ・シュガーポットの思考を展開する――! インストール、《公共電波》!」

 鳴神の視線は、周囲にその思考するイメージをバラまく!
 ()い寄る混沌ニャルラトホテプ。
 鳴神の思考によって顕現(けんげん)した無貌(むぼう)の神は、その異形の触手をななせに向かって絡みつかせた。
 しかし――。

「僕の願いは、『少しだけでいいから、キミに触れたい』。おまじないは、『二回転ジャンプの成功』!」

 ななせはそう言って体を捻り、飛び上がった。
 空中で二回転半の回転を加えて着地して、その後まるで”逃走王”のようにその足を加速させる。

「げ……! さすがに幻覚だけじゃ止められないか……! ……傷付けたくなかったんだが」

 ななせの走りに慌てて身を(ひるがえ)す鳴神だが、それよりも一足(ひとあし)速くななせの腕が彼女の手首をつかんだ。

「……キミが二回戦の支倉饗子との戦いで、使い方を教えてくれたんだ。切り替えの早いキミと違って、僕は望んだ願いを簡単に諦めることはできないけれど――」

 ななせのもう一方の手が、鳴神が持つ水晶ドクロへと伸びる。

「――僕にも、心の底から叶えたい願いがたくさんある!」

 鳴神はななせの言葉に舌打ちを一つすると、声をあげた。

「させるか! ……インストール、《高速5センチメートル》!」

 瞬間、鳴神の手から水晶ドクロが5センチだけ離れる。
 ななせの伸ばした手は5センチ位置がズレたドクロを引っ掛けて、横に弾いた。
 そうして床に転がったドクロの行方を追って、鳴神は視線を向ける。
 しかしその隙をついて、ななせは鳴神の腕を取るとそのまま力任せに捻り上げた。

「……いでででで! お前女のくせにそんなバカ(ぢから)しやがって!」
「キミは元々男のくせに、全然力が弱いんだね」

 ななせはそう言うと、鳴神の腕をとって展示台の上に押し倒した。

(いっつ)ぅ……!」

 衝撃にうめき声をあげる鳴神の体を押さえつけて、ななせは自分の体を彼女に押し付ける。

「――僕の試合、見たんでしょう? なら……もうわかってるのかな」

 ななせはその下半身を、鳴神の下腹部へと擦り付けた。

「お前っ! それは……!」

 慌てるような鳴神の声に、ななせは自嘲(じちょう)するように笑う。

「……まだ、戻していないんだ。汚れた僕には、お似合いの身体でしょ?」

 少しだけ息を荒げながら、ななせは鳴神を見下ろした。

「……だけど、これで君を征服できるなら――」

 陵辱(りょうじょく)し、冒涜(ぼうとく)し、蹂躙(じゅうりん)し、鳴神ヒカリを自身の支配下におけるなら。

「――それも、悪くないかな」

 ななせは口を歪めて、嗜虐的(しぎゃくてき)に笑った。

「何、考えてんだよ……!」

 そんな鳴神の声に、苛立(いらだ)たしげにななせは言葉を返す。

「そんなのわかってるんでしょ? 僕の能力をコピーした、キミならさ」
「それは――」

 鳴神は言い(よど)んだ。
 ――そして、静かに口を開く。

「……わからないよ」

 ぽつり、と。
 そう漏らした。

「……こんな弱っちくて、根性もなくて、女々(めめ)しくて、いろんなことから逃げ出して……その果てに女の子にまでなっちまった、そんな気持ち悪い奴のことを――」

 鳴神はななせから目を逸らす。

「――好きだなんて、理解できない……」

 ななせはそれを聞いて、自身の内に湧き上がる怒りや羞恥心に声を震わせながら、無理やり笑ってみせた。

「……ほら、やっぱり知ってるんじゃないか。僕の気持ちを、盗み見たんだ」

 ななせは軽蔑(けいべつ)するような視線を鳴神へと向ける。

「――そしてその上で、僕なんかどうでもいいんでしょ。だからなんでもない風に接して、僕をバカにしている」

 彼女の語気が荒くなっていく。

「だから僕は……誰にでも優しくて、いつも前を向いてて、自分のことが大好きな、そんな輝いて見えるキミのことを――!」

 ななせは鳴神の耳元に顔を近付けて、(ささや)いた。

「――犯して(よご)して(けが)して、屈辱(くつじょく)にまみれさせてあげるよ」

 鳴神の胸元を、ななせはまさぐる。

「キミを最低の目に合わせて壊してあげる。そうすれば誰もキミを欲しがらないし、キミを誰に取られることもなくなる」

 ななせは鳴神の耳に舌を這わせた。
 鳴神が「んっ……!」とくすぐったさに耐えるような声をあげる。

「……こんなことになっちゃって、どうせこの恋はもう叶わない。……そんな恋なら、自分で壊してやる」

 ななせは自分に言い聞かせるように、そう言った。

「キミの心を屈服させ僕に逆らえないようにして、一生僕の(そば)に拘束しておいてあげるよ! あははははは!」

 ななせの笑い声が、誰もいない博物館の中に響いた。


◆ ◆ ◆


 そして。

「お前は――」

 笑うななせに向かって、静かに、それでいてゆっくりと鳴神は(たず)ねる。

「お前は、わたしに何をして欲しいんだ」

 そんな鳴神の言葉に、ななせは眉をひそめた。

「何? 何って……大人しくして欲しいかな。抵抗されるのも、それはそれでそそるけど――」

「――そうじゃない」

 鳴神は押し倒されたまま、まっすぐにななせの目を見つめる。

「お前はわたしとセックスしたいのか? 犯したいのか? キスしたいのか? 手を繋いでデートしたいのか?」

 鳴神の言葉に、ななせは苛立ちを隠さずに溜息をついた。

「……なに? 言うこと聞くから勘弁(かんべん)してくれってこと? 残念だけど――」
「――違う」

 ななせの言葉を遮って、鳴神は言葉を続けた。

「お前はわたしと恋人みたく、イチャイチャしたいのか? 一緒にごはんを食べて、一緒に買い物でもしながら、一緒に笑いたいのか?」

 鳴神の言葉は、ななせの心にチクリと刺さった。
 それはいつかななせが夢見た、自分勝手な空想に近い。

「……そうだよ」

 小さく、ななせはそう答えた。

「でもそれももう、叶わない」

 できるだけ声に感情を込めないようにしながら、ななせは言葉を続ける。

「キミと一緒にいたかった。時間を共有したかった。好きなことを話し合って、嫌なことがあったら相談して、たくさんキミのことが知りたかったし、僕のことを知ってもらいたかった。ずっとキミのことを見ていたかったし、僕のことを見て欲しかった」

 鳴神に訴えかけるように、徐々にその言葉に内なる想いが込められていく。

「……でももうダメなんだ。《エンゼル・ジンクス》は失敗したし、君はいつも別の人ばかり見ている。進道ソラを、刈谷融介(かりや ゆうすけ)を、支倉饗子を、彼葉塚絆を、狐薊イナリを」

 ななせは声を震わせながら、鳴神に言葉をぶつける。

「僕のことだけを見て欲しかった。僕以外の誰も見て欲しくなかった。キミのことが欲しかった。キミに僕だけを求めて欲しかった! でもキミは――!」

「――でもお前は!」

 鳴神はななせの言葉を途中で遮り、叫んだ。

「それを一言も言わなかった!」

 鳴神は続けて咆哮(ほうこう)する。

「そんな大事なこと一言も言わずに腹の底の奥深くにしまいこんで! 勝手におまじないなんてかけて、勝手に失敗して、勝手に諦めて、勝手に恨んで――全部お前の一人相撲(ひとりずもう)だ!」

 鳴神の言葉に、ななせは我慢できずに言い返した。

「そんなの――そんなの僕の勝手だろ!」

「ああ勝手さ! だけど――だけどわたしの気持ちも考えろよ!」

 鳴神の言葉に、ななせは視線を伏せる。

「……そうだよ。そんな自分勝手な僕なんて、普通の方法じゃキミが相手にしてくれるはずは――」

「――そうじゃねぇ!」

 鳴神は声をあげる。

「大切な大切な……たった一人の親友に! 相談もされなかったわたしの気持ちを考えろって言ってんだよ!」

 鳴神の言葉にななせはその目を見開いて、小さくつぶやく。

「そんなの、本人に相談できるわけ、ないじゃん……」

 ななせの言葉に、鳴神は首を振った。

「バカ野郎! ……お前の友人で、お前が()れた、この変幻怪盗ニャルラトポテト様が!」

 鳴神はきっぱりと言い切る。

「お前みたいな女の子一人、受け入れてやれないと思ってんのか!」

 そんな様子に、ななせは戸惑うような視線を送った。

「……さっき自分で弱っちいって言ったくせに、今度は受け入れるだなんて言って――。ズルいよ……」

 そんな彼女の瞳を、鳴神はまっすぐと見据えた。

「ああ。ズルいよ。わたしは弱くて弱くて、一人じゃお前を支えきれない。だからたくさんみんなの力を借りるし、卑怯(ひきょう)なことばっかりしてる」

 鳴神は視線を逸らし、静かに言葉を続ける。

「相手の気持ちや関係なんて考えずに女の気持ちを押し付けたり、相手の存在意義なんて考えずに能力を矯正(きょうせい)させたり、女の子のブラジャー盗んで胸元を公衆の面前に(さら)したり、AIとはいえ女の子相手に三刀流を見せつけたり……」

 鳴神はこれまでの戦いの内容を思い出す。

「……わたしはそんな風に、いつもズルだらけさ。今もこう言ってるけれど、実際に告白でもされてたら、尻込(しりご)みして逃げ出していたかもしれない。矛盾だらけでズルくって、どうしようもないやつなんだ」

 そして、鳴神はもう一度ななせの目を見つめた。

「……でもそうでもしなきゃあ、手が届かない。そうでもしなきゃ、抱えきれない。それでもわたしは、この両手に持てるだけ拾い上げたい。……気に入ったものは何でも手に入れなきゃ気がすまないんだ」

 そして笑う。
 穏やかな、優しい笑みで。

「だってわたしは――怪盗だからな」

 そんな鳴神の言葉を受けて、ななせは泣き出しそうな表情を浮かべた。

「でも――今更遅いよ。もうどうしようもないんだ」

 ななせは鳴神から視線を逸らす。

「《エンゼル・ジンクス》の恋を叶えるおまじないは失敗して、きっと僕は優勝にだって届かない。それにこうして君に嫌われてしまった以上は――」

「――ああん? 誰が誰を嫌ったって?」

 ななせの言葉をまたも遮り、鳴神は口を開いた。

「お前が友達じゃなくなったら、わたしの友達は彼葉塚しかいなくなっちまうだろうが。あのふわふわした不思議ちゃんと二人きりになったら、いったい何を話したらいいんだよ」

 鳴神ヒカリには、友達がいない。

「お前がわたしを罠に()めようが、わたしを犯そうが、わたしを殺そうが――お前は変わらずわたしの友達だ。好きなだけわたしを利用したらいいさ」

 そんな鳴神の言葉に、ななせは少し悲しげにつぶやく。

「友達……か」

 そのつぶやきに、鳴神は片眉を上げた。

「お友達から始めましょう、って言葉を知らねーのかよ」
「……それは断り文句なんじゃないかな」
「えっ!? そうなの!? それならそうと言えばいいのに、なんでそんな迂遠(うえん)な言い回しを……っとまあそれは今は重要じゃない」

 鳴神は友達が少ない理由の一つであろう、その空気の読まなさをどこかに放り捨てて、小さく首を横に振る。

「……まあつまり、わたしの中にあるお前への感情が、友情なのか、愛情なのか、性愛なのかだなんて、どうでもいいってことだよ。……問題なのは、お前の気持ちなんだ」
「僕の、気持ち……?」

 ななせは鳴神の言葉を受けて、困惑した。

「そうだ。……お前はいったい――どうしたい?」

 鳴神の言葉に、ななせは考え込む。

「僕は……僕がしたいことは――」

 ななせは顔をうつむかせた。
 彼女の頭に、今までの戦いの記憶が(よみがえ)る。

「――戦って戦って戦い抜いて」

 いくつもの記憶を拾い上げ、そして彼女の頭の中にさまざまな感情が押し寄せる。

(よご)れて(けが)れて()ちきって」

 彼女は声を震わせた。

「……それでも僕はこの恋を、失いたくない。諦めの悪いことかもしれないし、後ろ向きかもしれないけれど……この想いは、僕にとって何よりも大切なものだったんだ……!」

 彼女は言葉を続ける。

「――でも(・・)……!」

 ななせの感情が、(せき)を切ったように溢れ出た。

「もう――やだよぉ……」

 顔を上げた彼女の目から、涙がこぼれ落ちる。

「頑張って頑張って――頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って……! 削れて折れてひしゃげて壊れて! それでも頑張っているのに終わりは見えなくて! もういやだ、頑張りたくない、逃げ出したい……! でも、逃げ出したら、諦めたら何もかもが無くなってしまう! 僕が頑張ったことも、キミを好きだったことも、汚れてしまったことも……全部ぜんぶ無駄になる!」

 彼女が内に抱える、誰にも言えなかった心の重荷(おもに)

「僕は嫌なのに! これ以上戦いたくなんてないのに! でも止まったら、全てが終わっちゃう! 終わってしまう!」

 そんな想いが彼女の口から、一つ一つ(つむ)がれていく。

「だから僕は止まれない! この先に見えるのが絶望だとしても! 地獄が待ち受けているだけなのだとしても! いつか()ちるとわかっていながら、僕はその崖に続く道をひたすら走り続けるしかないんだ!」

 ななせはそう叫んだ。
 たくさんの涙の(しずく)が、鳴神の体の上にこぼれ落ちた。

「そうしないと、僕が僕でいられなくなるから……! だけど――」

 彼女は泣きながら、鳴神を見つめる。

「だけどもう……辛いよ――!」

 彼女の独白をまっすぐに聞いて、鳴神は口を開いた。

「……なら、わたしはお前に何ができる?」

 鳴神は真剣な眼差しで、彼女を見つめる。

「お前はわたしにどうしてほしい。恋人ごっこをして欲しいのか? それとも元の友達のように接して欲しいのか? もしくは奴隷(どれい)のようにかしずいて従って欲しいのか」

 鳴神は問う。
 恋語ななせの心の内を。

「――いいや、そんなことじゃないだろう。お前がわたしに願うことは――わたしだけにしかできないことは」

「……ニャルちゃんにしか、お願いできないこと――?」

 ななせはその言葉に聞き返す。
 鳴神は頷いた。

「そうだ。恋人、友達、奴隷……。――そんなもんにしかなりえないのか、お前の中のわたしは……!」

「……僕の中の、ニャルちゃんは……」

 ななせは考えを巡らせる。

「……違う。僕は……そんなこと、望んでない」

 そして静かにつぶやいた。

「僕がキミに求めるのは、奴隷でも、友達でも……そして恋人でもなくって」

 彼女は思い返す。
 クリスマスの日。
 日付が変わる直前に水晶ドクロを届けてくれた、記憶の中の思い出を。
 そしてゆっくりと、その唇が言葉を紡いだ。

「……お願い」

 彼女は頬に一筋の涙を光らせながら。
 そして心の底から、そう願った。



「――助けて。たった一人の僕のヒーロー」


 初めて出会ったときから。
 ニャルラトポテトは、恋語ななせを助けてくれるヒーローだった。

「ああ――」

 そしてそれは、今も彼女の中で変わっていない。

「――ようやく、頼ってくれたんだな」

 鳴神は穏やかな笑みを浮かべ、彼女に言い切る。

「全部わたしに任せろ、ななせ。……お前だけの、とびっきりのハッピーエンドを用意してやる」

 その言葉を受けて、ななせは鳴神にすがるように泣き崩れた。
 鳴神は涙を抑えられない彼女の背中に腕を回し、二人はしばらく抱き合った。


◆ ◆ ◆


「ななせ、協力してくれ」

 しばらく泣いて気持ちを落ち着かせたななせに向かって、拘束を解かれた鳴神はそう言った。

「わたしのことを考えろ。わたしの思考をトレースするんだ」

 ななせの肩に手を置いて、鳴神は至近距離で彼女を見つめる。

「お前ならできるだろ? なにせ『恋する乙女』なんだからさ」

「え、ええ……? や、やってみるけど」

 ななせは少し照れながら、その瞳に応じる。
 彼女は目を閉じて、いつもの鳴神の真似をするようにつぶやいた。

「――鳴神ヒカリの思考を展開する」

 それは相手の思考をなぞるための、自己暗示のおまじない。
 そしてそれに、鳴神が続く。

「――恋語ななせの思考に同期する」

 同時に互いの思考を展開して、二人の意識は同調していく。
 思考をトレースした相手になりきる《TRPG(ティー・アール・ピー・ジー)》。
 その五段階目は――相手と思考を同期させることで、相手の中にニャルラトポテトを流し込む力。
 そしてその力を利用して、鳴神ヒカリと恋語ななせの思考は混じり合う。

「第五段階・同期共鳴(ミラーリング)、《S・RPG(シミュレーション・ロールプレイングガール)》。――お前の中にお邪魔するぜ、ななせ」

 鳴神の言葉にななせは目を丸くしつつ、少しだけ頬を赤らめた。

「ぼ、僕の中って……いきなりはちょっと、心の準備が……」
「うるせぇ。黙って受け入れろ」

 躊躇(ためら)うななせに、鳴神は溜息をついた。

「――まあこういうとき相手を黙らせる方法ってのは古今東西、相場が決まってるもんなんだよな」
「へ? それはどういう――んんむっ!」

 鳴神は無言でななせの唇へと口を押し付けた。
 いきなりの出来事に驚くななせであったが、ゆっくりと目を閉じる。
 そして彼女の中に、鳴神の思考が流れ込んだ。


◆ ◆ ◆


「……あれ?」

 そうしてななせは、見慣れない空間に立っていた。

「これは――」

 彼女の周囲には青色背景に白いスクウェアのマス目が描かれた、電脳空間が広がっていた。

「ああ。お前の深層意識をVR上に展開したんだ」

 すぐ後ろからかけられた鳴神の声に、ななせは振り向く。
 何もない空間を歩きつつ、鳴神はななせのもとへと近付いた。

「脳だって突き詰めればCPUみたいなもんだからな。ここはお前の心の中の風景ってことさ。ちょいと事前に阿久津ミカ(イナリ)に手伝いをお願いしてたんだけどよ」
「……また女の子と仲良くなってるんだね」
「そ、それぐらい許してくれよ……。――っと、アレがそうか」

 鳴神が頭上を見上げた。
 その視線の先にいるのは、羽を生やした金色の天使の彫像。

「いたぜ――あれがお前の《エンゼル・ジンクス》の姿だ」

 大人(おとな)数人分はあろうかと思えるほどの巨大な天使像。
 それはどっしりとした、背中に弓矢を背負ったキューピッドの姿をしていた。

「あれはイナリの力で擬人化された存在さ」

 その肥大化した赤子のような金色の存在は、ゆっくりと下降し二人の前へと降り立つ。
 そしてそれは口を動かさず、くぐもがかった抑揚(よくよう)のない電子音で喋った。

『叶えられなかった願いは、その程度の願い。もとより価値が無いものである』

 そんな天使の言葉に、鳴神は言い返す。

「なーにが価値だ。元から願いに優劣(ゆうれつ)なんてあるかよ。呑まれるんじゃねーぞ、ななせ」

 鳴神は隣にいるななせに声をかけた。

「あれはお前の能力で、お前の抱く認識そのものだ」

 鳴神はまっすぐにその天使像を見据えた。

「お前が(ひざ)をつけば、あの能力に屈することと同じだ。そんなん、わたしが認めねー」

 そう言ってななせをかばうように前に出る鳴神に、天使の像は言葉を放つ。

『どのような犠牲(ぎせい)を払ってでも心の底から叶えたい願いのみを叶える。平等に理不尽(りふじん)裁定(さいてい)は、どこまでも公正である。――それが《天使の契約(エンゼル・ジンクス)》』

 その言葉を聞いて、鳴神はシニカルな笑みを浮かべた。

「――ハッ。たかがお(まじな)いが大層な名乗り上げをするもんだ」

 鳴神は(ふところ)から10円玉を取り出すと、それを天高く弾いた。

「今やお前はななせを縛る(のろ)いになってやがる。なにが制約だ。何が魔人能力だ。――ななせを不幸にするようなやつは、このわたしが存在を認めねぇ!」

 落ちてきた10円玉を掴み取ると、鳴神はその右腕を突き出し人差し指を天使に向けた。

「――《エンゼル・ジンクス》! わたしがお前という概念を……ぶったおーす!」

 鳴神はそう言うと、自身の顔に手を当てる。

「《TRPG(ティー・アール・ピー・ジー)並列演算(デュアルコア)! 狐薊イナリの思考を展開する! ――インストール、《自己変革アルゴリズム》!」

 鳴神の周囲に、1と0のデジタル空間が展開された。
 続けて鳴神は吠える。

「そして……荒川くもりの思考を並列展開する! インストール! 《全壊(オールディストラクション)》!」

 その腕に電子の(いかづち)が宿り、鳴神はそれを《エンゼル・ジンクス》に向けた。
 パリパリと音を立てる概念破壊の雷は、周囲の空間を呑み込み分解していく!

「《エンゼル・ジンクス》! てめぇの概念、破壊(クラッキング)してやるよ!」

 ここは擬似的な心象(しんしょう)VR空間。
 鳴神とななせのVRアバターは、座標軸としては今も常に触れ合っている。
 そのため鳴神の《全壊(オールディストラクション)》は、《エンゼル・ジンクス》に触れずともその概念を侵略することができた。
 しかし――。

『――我が力は、未だ(しゅ)に望まれている』

 分解の雷に対抗するように、《エンゼル・ジンクス》から(こんじき)金色{}に輝く幾本もの光線が射出される。
 それは鳴神の放つ雷を打払い、その足元を焼き焦がした。

「――これは……!」

 鳴神は声をあげた。
 《全壊(オールディストラクション)》は、今はVR心象空間にて具現化されているとはいえ、概念破壊の能力である。
 その能力に対しての抵抗する力――つまりそれは、魔人能力の概念衝突でおこった反発を意味していた。

「ななせ!」

 鳴神は彼女へと声をかける。
 概念破壊の力が効かないことが、意味する事とは――。

「……ごめん、ニャルちゃん」

 ななせは一言そう漏らした。
 《エンゼル・ジンクス》が破壊されないということは――それを守る、概念破壊以外のもう一つの能力が介在していたということ!

「《エンゼル・ジンクス》は、事前におまじないで保護してあるんだ」

 ななせは事前にその能力によって、その能力を保護していた――!
 それはおまじないを失敗して叶わなくなったとしてもリスクが少ない、保険のおまじないだ。
 荒川くもりの能力を使われ能力破壊をされないよう、ななせは事前に対策を打っていたのだった。

「だって――」

 ななせはうつむきながら、声を絞り出す。

「――だっておまじないがあったから、今まで僕はなんでもできたんだ」

 鳴神が《エンゼル・ジンクス》から放たれる光線を()けている様子を見ながら、ななせは言葉を続ける。

「それはキミと出会ったのだって、そう」

 概念能力と概念能力の衝突(コンフリクト)
 それがどのような原理によって世界への矛盾を解消しているのかは、この世界では未だ解明されていない。
 しかしこのVR心象空間においては、ななせの心理状態が大きく影響していた。

「……《エンゼル・ジンクス》がなければ、僕はキミと出会うことすらできなかった――!」

 その叫びはななせの《エンゼル・ジンクス》への信仰心。
 ななせが《エンゼル・ジンクス》を必要とする限り、その天使の力が(おとろ)えることはない――!
 激しい天使の攻撃が、幾重ものレーザーとなって鳴神を襲う!

 しかし、そんなななせの言葉を聞いた鳴神は――穏やかな笑みをその顔に浮かべた。

「――いいや、きっと出会えていたさ」

 破壊の雷をその腕に(まと)いながら。

「たとえおまじないなんて、なかったとしても」

 迫りくる天使の光線を打ち払いつつ。

「何度やりなおしたって」

 鳴神ヒカリは、恋語ななせに語りかける。

「お前とわたしが魔人じゃなかったとしても」

 力強く。
 ななせの背中を押すように。

「……わたしたちは、何度だって出会う運命だった!」

 鳴神はその手から破壊の雷を放電しつつ、笑顔で叫ぶ。

「だってそっちのほうが――わたしたちの人生(ストーリー)は、何倍も面白くなるんだから!」

 鳴神の雷が、辺りを覆った。

「それは世界が望んだ、恋物語なんだ!」

 雷が天を貫き、辺りに雷撃の円を描いた。
 鳴神は自身の手を、その顔に当てる。

「狐薊イナリ、荒川くもり……そして――!」

 鳴神は頭の中に、DSSバトルのあの猛者(もさ)の姿を思い浮かべた。
 巨体を自在に操るその戦闘スタイルは、まさに神域(しんいき)御業(みわざ)

「――野々美(ののみ)つくねの思考を多重展開する!」

 鳴神の声に応えるように、天から祝福するような光が降り注いだ。

「インストール! ……来い! 《オスモウドライバー》!」

 その声とともに、天空の彼方(かなた)より光輝く桜の花のエンブレムがついた白いベルトが降臨(こうりん)する。
 そしてそれはゆっくりと降り立つと、鳴神の腰へしゅるりと巻き付いた。
 ベルトのエンブレムから伸びた白い布が、鳴神の股をくぐって……「んぁうぅ……!」まわしが完成する!

「……変、身!」

 トトン、トトトントトン! トトン、トントントトン、トントトン!
 相撲(すもう)の開始を()げる()太鼓(だいこ)音色(ねいろ)が、鳴神を祝福(しゅくふく)するかのように(あた)りへと鳴り響く。
 彼女の体の周りにオスモウ粒子(りゅうし)が集まり、その肉体を形成していった。
 エンシェントチップのコピーが装填(そうてん)されたそのベルトは、神話時代の横綱(よこづな)を再現する!

MODE(モード)UNKNOWN(アンノウン)
URIEL(ウリエル)

 鳴神の体が、身の(たけ)3メートルは越えるであろう筋肉質な男の姿に変化する!
 その背中には、一対の純白の翼が生えていた。

「相手が天使(エンジェル)だって言うのなら――!」

 鳴神と《エンゼル・ジンクス》を囲むように、周囲に破壊の雷の柱が展開される。

「同じ天使であるガブリヨルにもたらされた、オスモウドライバーの力……そして、神話にてヤコブと相撲を取ったとされる大天使ウリエルの力を借りることができれば――!」

 それは4メートル55センチの雷の輪の中で(ささ)げられる、神への奉納(ほうのう)試合(じあい)

「――《エンゼル・ジンクス( おまえ )》をななせの中から、突き出すことだってできるはず!」

PUT(プット) YOUR(ユア) HANDS(ハンズ)

 破壊の雷によって形成された円形の土俵の中、ホログラム行事がその合図を行った。
 鳴神と《エンゼル・ジンクス》は地面にその拳を付く。

READY(レディ)
HAKKI(ハッキ)-YOI(ヨイ)

 ――そして、試合は始まった。
 鳴神は初っ端から勢い良くぶちかましを放ち、相手の天使の腰を取りにいく。

「――ななせ!」

 そして鳴神は取っ組み合いながら、ななせに向かって呼びかけた。

「おまじないがあれば何でもできるだなんて――そんなことなかっただろ!」

 鳴神は全力でぶつかりながらも、その声を絞り出す。

(げん)にお前は今……身体(からだ)も心もボロボロじゃないか!」

 《エンゼル・ジンクス》と鳴神は互いに()り合う。

「おまじないなんて、なくったっていいんだ!」

 鳴神は相手に(すが)るよう、重心を低くして押し切るために力を込めた。

「――だってお前には……わたしがいるだろ!!」

 その顔を歪ませて、鳴神は叫んだ。

「お前とわたしが協力したとき――わたしたちのバトルは負け無しだった!」

 第三回戦。恋語ななせVS刈谷融介。
 ななせは鳴神に協力を求めた。

「お互いの力を使って協力した試合は――勝利の女神が微笑んでくれた!」

 第二回戦。変幻怪盗ニャルラトポテトVS支倉饗子。
 鳴神はななせに情報を聞き、相手の正体を看破(かんぱ)した。

「おまじないなんてなくても――わたしとお前が力をあわせれば、なんだって出来るんだよ!」

「……ニャルちゃん」

 鳴神はその手でしっかりと《エンゼル・ジンクス》の腰を(つか)んだ。
 そんな二人の様子をみて、ななせは顔を上げる。

「……ごめんね、《エンゼル・ジンクス》」

 その声は、とても穏やかなものだった。

「僕が間違ってた。……僕はもう、キミがいなくても大丈夫」

 それはDSSバトルが始まって以来、彼女が見せたことがないほどの晴れやかな笑顔。

「――だから、お願い」

 彼女は願う。

「もう、休んで」

 《エンゼル・ジンクス》の消失を。

『……願いを受理』

 ななせの心からの願いに、天使は答える。

『その願いを叶えるおまじないは――』

 相対する鳴神が、全身に力を込めた。

『――恋語ななせが本当に欲しいものを手に入れること』

 その言葉に、ななせは笑う。

「……もう、持ってるよ。わたしには――大切なヒーローがいるから」

「――うおおおお!」

 鳴神は叫ぶ。
 そしてその声ともに《エンゼル・ジンクス》は力を失い、場外へと押し切られた。
 天使の体は土俵を覆う破壊の雷に分解され、粒子となって虚数空間へと消え失せていく。
 その様子を見送って、ななせは笑った。

「……今までありがとう、《エンゼル・ジンクス》」

 そうして彼女は心から笑って、魔人としての能力を……そしてずっと苦しめられていたその制約を、失った。



◆ ◆ ◆





<エピローグ>


『それではC3ステーションDSSバトル、優勝者は――!』

 鷹岡の声が響くモニタを、病室から進道ソラが見つめていた。
 優勝者が決まり、優勝賞金が手渡される。
 その後優勝者は控室(ひかえしつ)へと戻り、ひっそりと優勝者による過去の改変が行われるのがこの試合の裏ルールだった。

 ――今回もまた、(ひど)い味の戦いだった。
 ソラがそんなことを考えていると、唐突に病室の扉が開いた。

「――よう。元気してたか」
「あなたは……!」

 直接その人に会ったのは、いつぶりだろうか。
 そこには変幻怪盗ニャルラトポテトこと、鳴神ヒカリの姿があった。

「……約束どおり、最高の芸術品を盗みに来たんだ。――お前のことをな!」

 鳴神はそう言うと、その腕を広げて能力を発動させる。

「――進道美樹(しんどう みき)の思考を展開する! インストール、《S・S・C(エス・エス・シー)》!」

「姉さんの能力――!?」

 驚きの声をあげるソラに、鳴神は笑った。

「優勝者が決まり、まだ過去の改変が実行されていない今この瞬間のみにおいて――『過去改変の権利』をコピーする!」

 その鳴神の言葉に、ソラは小さく首を振る。

「そんなことできるわけ……! いえ、たとえできたとしても、一度決まった私の過去は……」

 狼狽(ろうばい)するソラに、鳴神は口の端を上げて笑った。

「同じ能力でも、発動者が別人なら通用するかもしれないだろ?」
「そんな無茶な理屈――!」
「無茶かどうかは、やってみなきゃわかんねぇよ!」

 鳴神はそう言うと、その手をソラの顔に当てて叫んだ。

「過去改変、開始――!」


◆ ◆ ◆


 進道ソラは病院のベッドで目を覚ます。

「……これ、は」

 あたりを見回す。
 そこはいつも通りの病室。
 病室で寝転がる彼女の姿は、いつもとなんら代わりはなかった。

「――夢」

 そうだ。
 あんな都合の良いことがあるはずがない。
 それに同じ能力を二重に発動したところで、制約を回避できるはずもない。

 きっとあれは――あの戦いは私が見た幻想。
 あんな出来事が起こって欲しいという、誰かに助けて欲しいという、自分勝手な願い。
 そもそも私のために過去改変を行う人がいるだなんて、わたしに都合が良過ぎる話だ。
 そんな戦いが、現実にありえるはずは――。


「――ストップ、ストップー!」

「……え?」

 ガシャン! と病室の窓を割って、二人の少女がその部屋の中へと転がり込んできた。
 ソラはその姿を見て、目を丸くする。
 ――この二人は。
 ソラには二人の顔に見覚えがあった。
 さきほどまで見ていた長い長い夢の登場人物で、その名前はたしか――。

「……ってて。口切っちまった。血の味が懐かしいな……。……それにしても、やっぱり《金属曲げ(クリップアート)》は空飛ぶのには向かないんじゃねーかな」

 長髪の彼女の横で、もう一人の少女も胸を撫で下ろす。

「あー、死ぬかと思った……。と、それよりニャルちゃん、ちゃんと目を逸らしててね」

「へいへい。……ソラのことを認識したらまた同じことが起こっちまうかもしれないからな。成長した《TRPG(ティー・アール・ピー・ジー)》で過去改変権の増殖チートまでは上手くできたんだ。――あとは頼んだぜ、ななせ」

 鳴神がそう言うと、ななせと呼ばれた少女はにっこり笑ってソラを見つめた。

「この時間軸ではまだ、僕の力は残ってるからね。……さあ、僕の最後のお願い――聞いて、《エンゼル・ジンクス》」

 ななせはその両手を組んで、祈りを捧げた。

「――進道ソラちゃんの体を、元通りの健康な体にしてあげて」

 その願いを叶えるおまじないは、ななせの頭の中にすぐに思い浮かんだ。
 果たしてそれはご都合主義の物語によるものか。
 それとも、ただの偶然か。
 非常に簡易なそのおまじないを認識して、ななせは鳴神へと振り返る。

「おまじないの内容は『愛する人に愛を囁かれること』だってさ! ……ということで、よろしくねニャルちゃん」
「……お前それ、絶対嘘だろ」
「へへ、バレたかー」

 ななせは照れ笑いを見せたあと、進道ソラにお辞儀(じぎ)をして、にっこりと笑った。

「――僕たちの物語は、これでおしまい。……そしてきっとまた、いくつもの新たな物語が始まっていく」

 ななせは頭に浮かんだおまじないを実行していく。

「そんな物語の中には、辛いものも、悲しいものもあるかもしれない」

 そのおまじないの内容は――『お別れの挨拶をする』こと。

「でも僕たちは歩き続ける。どんな現実にぶつかって、ときには心が(くじ)けそうになったとしても――」

 恋語ななせは、物語(ものがた)る。

「――そこには必ず、素敵なハッピーエンドが待っていると信じて!」

 ななせが言い終わると同時に、進道ソラの傷が()えていった。
 彼女の様子を見て、鳴神ヒカリと恋語ななせは仲良く笑う。

「よし! それじゃあ、未来で会おうぜ。……またな、ソラ!」

 そう言って二人はまた、彼女を残して月夜の下へと躍り出る。

 闇が打ち払われたその世界で。
 (ヒカリ)(ソラ)を明るく照らし、恋する少女とともに未来へ向かって飛んでいった。




<変幻怪盗ニャルラトポテト最終戦:了>
<恋語ななせの恋物語:――再開>
最終更新:2017年11月19日 16:42