狐薊 イナリ プロローグSS


0と1の世界。情報のみが存在し、他には何もない。
それこそが、電脳空間。宇宙のようで、しかしそうではない、不思議な場所。人間が生み出しながら、そこに行くことはできない禁域。
そんな場所で、彼女――狐耳の生えた和服の金髪幼女こと狐薊イナリは、いつものようにフワフワと浮いていた。
――そのままの文字通り、浮遊していたのである。
「むー」
胡座をかきながら、眉を潜めて唸っている。耳と尻尾がぴこぴこと微動し、いかにも手持ち無沙汰といった風体だ。
とはいえ、その言動に特に意味はない。ただ、ものすごくヒマなだけなのである。
「むむー」
ぐるぐると横向きに縦向きに、縦横無尽に空間内を転げ回る。時折、付近に浮いているデータキューブに当たっては弾き飛ばし、あたふたと元の位置に戻す、それの繰り返しだ。
――本当にヒマなのである。とっても。
やっていたゲームのスタミナは全消費した。見ていたアニメもだいたい全部見た。小説やらマンガやらは多少のストックもあるだろうが、それが終われば完全にやることがなくなるので読むに読めない。
八方塞がり、完全なる究極的危機なのだ。
「……外でも出るかのぉ。バレなければ問題はない……とも言う……」
保護された電脳空間からの外出。AIにとっては消滅や捕縛の危険を伴う最終手段だが、しかし逆に言えば、未知を知ることは暇つぶしには最適だ。
というか、今までにもイナリは外に出たことはある。一度目はこの空間の「管理者」である海斗にバレたが、それ以降はバレなかったようで、何も言われてはいない。実はバレていて見逃されているのかもしれないが、見逃してくれているのならそれは「出ても良い」ということに違いない。
つまり。
「……わらわはもう我慢できぬ! 出る! 出てやるー!」
緊張の糸が解けたように、ばびゅん、と電脳空間の穴――というか、以前に外に出られるように作った小さな綻びである――へと全力で遊泳を開始、そのままの勢いで外へと飛び出した。
――空間の外は、無限。本当に文字通り、0と1の情報のみが存在する場所。彼女が普段居る空間とも違う、永遠に端のない世界だ。無論、この穴を見失えば、もう彼女はここに戻っては来られない。永遠にはぐれデータとしてネットワークを彷徨うことになる。
そのため、さすがに遠くには行かず、とりあえず手頃な場所――というか、海斗の個人サーバへの侵入を試みることを決定。ふよふよと、イナリなりに穴を見失わないようなスピードでゆるっと移動を開始だ。
「とーりーあーえーずー……見たところがないのはメールボックスじゃろうか?」
行ける場所を指差し確認し、今まで唯一行ったことのない場所で手を止める。
――メールボックス。個人情報の塊のような場所であり、多分バレたら消滅一歩手前まで色々されるに違いない場所だ。だからこそイナリにとっては逆に、禁忌を犯すのが楽しみである場所でもあるのだが。
「さて――物色開始と行くかの!」
ひょい、とメールボックスの電脳空間内に入ると、そこはまるで図書館のように、受信・送信したメール群が様々なテキストファイルとして、本を模した姿で整頓されて保存されていた。その中には、添付されたファイルがその本の形をしたモノから飛び出ているもの、或いはもはや本の体を成していないものすらもあった。
しばらく物色していると、その中の一つにイナリの目が止まる。キラキラと光り輝いた薄い板のようなものが一枚挟まっている、真っ黒な表紙の、ハードカバーの本。周囲のものとはどう見ても異色の存在であり、手にとってぱらぱらとめくってみると、中はびっしりと読めない言語で埋め尽くされ、巻末の送信者の欄は黒く塗りつぶされていた。
ぴかっと、イナリの目が輝く。
「これは……お宝じゃな? 絶対そうじゃろこれー! なんか挟まってるのもすごい光ってるのじゃが! わーいわーい!」
真っ黒な本を掲げ上げ、嬉しそうな顔でクルクルと回転するイナリ。
本当にお宝かは別として、珍しいものであるのは間違いない。――となれば、することはただ一つ。
「よーし、持って帰って解読してみるのじゃ! わくわく!」
そう言いながらがっしりと両手でホールドし、自分の部屋、マイ電脳空間へと戻ろうと踵を返す。さっさと戻っておかなければ、後々大変だし――と思った時、中に挟まれていた板状のものがするりと抜け、イナリの足元に落ちた。
「おっと、危ない危ない、置いて行くわけにはいかぬ――」
拾い上げようと、片手で板に触れた――刹那。
「――っ!!?」
イナリの脳に――正確には、脳の役割を果たすデータベースの記憶領域に、であるが――瞬間的に、大量の情報が流れ込んでくる。
最強の魔人を決める大会。鷹岡 集一郎。C3ステーション。多大な賞金。過去の改変能力。VRカード。――そして、DSSバトルの存在。
未知の領域の知識が、彼女の思考を侵食していく。数秒経ってからハッと意識を取り戻した時には、もはや既に、情報は記憶領域内に完全に保存されていた。
「……DSS、バトル? 参加者……?」
自分の頭が信じられないとでも言いたげに、ぽつりと呟く。
そんな問いへの答えも、頭の中では既に答えは出ている。
――選ばれたのだ。偶然の偶然ではあるが、自分がカードを得たことで、自分は参加者としての前提を手に入れてしまった。つまりは、そういうことだ。
しかし本来、これは海斗が得るハズだったもの。そう思うと申し訳ない気持ちが半分、しかし、自分の運が引き寄せた結果だと考えれば、楽しみな気持ちも半分だ。
それに――過去の改変。これが最も気になる。
「これは……これは! 本気でチャンスではなかろうか……!?」
イナリの眼に再び光が灯る。
それは、兼ねてからの願望。生まれてからの夢。
「……出生の過去を変えて人間になれば、現実の世界に行ける!つまりついに!パフェとかプリンとかシュークリームとか食べられるのじゃな!これは奇跡という他あるまいて!」
わーいわーい!とすごく嬉しそうな顔で飛び跳ねるイナリ。尻尾が上下に揺れている。
今まで情報のみでしか知ることのなかった『味覚』というものが得られるというのは、それだけで即ち、文字通り人生が変わるレべルの出来事なのである。彼女にとっては。
「……さて」
この希望を自分の手に入れるために――まずは、第一関門を突破しなければ。
第一関門、即ち、管理者の許諾。簡単に言うと、海斗のOKである。
メールボックスに立ち入ったことを隠しながら、これを見せ、また許可をもらう。なかなかの高難易度だ。
――どう攻略すべきか。
「………………ま、まあ、考えても仕方あるまい! 行き当たりばったりでもどうにかなるじゃろ! うん、多分!」
諦めた。考えるのは自分の仕事ではない。合わないことはしない方がいい。
つまりは、いつもの前向きシンキングである。
イナリは首を横に降って不安を頭から消すと、よーし、やるぞ!と意気込みながら、海斗に連絡を取るために自分の電脳空間へと戻っていったのだった。

■     ■

カタ。
カタカタ。
カタカタ、カタ。
静かな、暗い部屋の中に、キーボードを叩く音だけが響いている。
様々な方向に配置されたディスプレイの薄ぼんやりとした灯が、少年――阿久津海斗の分厚い眼鏡に反射し、しかし本人は何も気にすることなく、鍵盤の様にキーを叩き続ける。

    第二世界。
                         電脳空間。
      ディープ・ダイビング。
                   魂のデータ化。
       禁域の捜索。              自己保存。

様々な文言がディスプレイに映し出されては消えて行く。
「……足りない」
海斗が頭を掻きながら、クマの出来た目を細めて呟く。
「どうして戻らない……もう合致性に問題はないハズなのに……まだ何かあるのか?」
んー、と唸り、卓上に置かれていたコーヒーを一口啜る。作った時はホットだったハズが、冷えに冷えて完全にアイスコーヒーである。冷たい。
――これはこれで悪くないが、でもどうせ冷えてるならコーラがいい。炭酸とかそういうことではなく、あっちの方が、脳により効果的にカロリーを送れるのだ。甘い方が飲みやすい、というのもある。
それはそうと、さて、続きを――と、思った瞬間だった。
「主様ー、主様ー。聞こえておるかー、主様ー!」
その暗い部屋には場違いなほどの明るい声。
海斗が睨むように目を画面上に滑らせると、声の主である狐耳の少女が、ワイワイキャッキャと騒いでいた。
狐薊イナリ。彼が創り出したAIであり、意思を持ち成長する人工知能だ。
「……何。緊急時と頼んだ時以外喋るなって言ったけど」
「むー、じゃからその緊急時なのじゃぞ! きんきゅーきんきゅー!」
しばし画面の中でバタバタと騒いでいるイナリを見つめた後、ハァ、と呆れたような顔で溜息をつく海斗。
――どこで性格のプログラミングを間違えたんだか。これなら無口メイドキャラとかにしておけばよかったかもしれない。とはいえ、そんな事を考えても後の祭りだ。自分の趣味が恨めしい。
「……分かった、聞く……あぁ、概要と結果だけでいいから」
「くっふっふー、それでは主様、これをご覧あれ! じゃーんっ!」
イナリが画面の中で何かを掲げ上げ、ドヤっと偉そうなポーズ。
それは何かピカピカした四角いもの。カードのような、何かだ。
「……VRカード?」
「ご名答、ざっつおーるらいとじゃな!」
「そう、DSSバトル……か……」
海斗の瞳が暗く濁る。
――どこからそんなものを。魔人同士の戦いやC3ステーションに関しての情報は、可能な限りシャットアウトしたハズだが。
「ふーん…………それ、どっから貰ってきたの?」
海斗が感情を押し殺して尋ねた刹那、画面上のイナリの動きが止まる。冷や汗のようなエフェクトが現れ、目線が横にズレていく。その顔に、えへへー、と作り笑いさえ浮かんで来た。
「――ど、どこからも盗んだりしてないのじゃぞー、ほんとじゃぞー?」
半端ない棒読みである。機械音声のようだ。いや、実際に機械音声だが。
――なるほど、そういうことか。まったく。出るなと言ったろうに。
「……まあいいや。それで参加したいってこと?」
「ざっつらいとじゃ、主様! メリットマシマシじゃぞ?」
「…………不許可」
「何故にっ!?」
「理由は言えない……けど、不許可。以上」
はい帰った帰った、と手を振って再びディスプレイの方に向き直る海斗。
それを見ると、イナリはむすっとした顔で、携帯の画面の端の方へ消えて行った。

■     ■

白い部屋。白いベッド。その上に横たわる、白い服の少女。
少女の身体には複数のパイプが無造作に繋がれており、顔には呼吸補助装置が取り付けられている。無論、その身体がピクリとも動く気配はない。
そして傍には、白衣を着た眼鏡の少年――海斗が、じっと少女を見つめている。
「……ミカ、またあそこに行く気なの?」
海斗は少女を見下ろしながら、話しかけるように呟く。もちろん少女からの返答はなく、変化のない部屋の中は、まるで遺体安置所のようにしんと静まり返っている。時折、医療機器の出す電子音が定期的に鳴る以外は、だが。
――当然のことだ。ここに彼女の魂はない。これはただの骸、偽りの匣なのだ。
ふと沸いた怒りで、海斗の歯がぎりりと軋む。どうにもできないと分かりながら、それでもなお、抑えることのできない怒りで。

……それは、5年前のことだった。
海斗の妹である阿久津ミカは当時、DSSバトル内で魔人同士の戦いに身を投じていた。防御においては最強クラスの魔人として君臨していたのだ。
彼女にそれを可能としたのが、「自己保存」の能力。自己の変革を否とし、『何も変わらない』という概念が具現化した魔人特殊能力だ。その効果は精神干渉だけでなく、肉体への傷害さえも無力化する、簡単に言えば……『無敵』の能力だった。
無論、圧倒的防御能力による一方的な蹂躙が人気を勝ち得ることは少なく、大体は持久戦の結果の判定負けというパターンが多かったのだが、相手の能力への強力なメタカードとして機能した場合、一方的に相手を打ち倒す戦闘が人気を集めたこともあった。本人曰く、「他の人たちが3択でじゃんけんしてる中にグチパで入ったら絶対負けないから強いに決まってるじゃん!」ということらしく、戦闘スタイルは一貫してそのままだった。
――だが、悲劇は突然起こるものだ。何事においても、唐突に。

「……ッ!」
海斗が、強く壁に腕を叩きつける。
あるのは偽りない怒り。復讐心。殺意。全ての害なす者への、比類なき暴力。
――あの時から、変わってしまった、心の奥底の害意だ。

海斗の妹は――阿久津ミカの魂は、或る日を境に身体から消滅した。
……否、正確には、行方知れずとなった、という方が正しいかもしれない。
その日は、ミカのDSSバトルの、ほんの経過途中になる日のハズだった。
だが、DSSバトルにおいて名が知られるということはつまり、『対個人に対しての対策が講じられる』ということに他ならないということを、彼女は失念していた。
その日の相手が誰だったのか、もはや海斗も覚えていない。能力も、戦術も、或いは試合展開さえも記憶からは消えている。
だが、行われた事実は変わらない。
ミカの魂は、その名も知らない対戦相手によって、電子の海に囚われたのだ。
身体から魂を取り出され、そのまま彼女の身体に戻らなくなった。そして、彼女の時間はそこから止まったままだ。
自己保存の能力の暴走の結果だったと思われる、と運営からは説明された。事故だ、仕方ない、もう諦めろと周囲からは言われ続けた。
――しかしそれで、はいそうですか、と納得できる訳はない。
海斗はまず、終了した試合のログからミカの魂を回収しようと試みた。
だが、結果は不成功。そこにあったのは、その残照――記憶データのみだった。

海斗は問う。
きっと、彼等には分からない。
大切な人間が抜け殻と化したという絶望が。
唯一の家族を奪われたという怒りが。
自分の心がひっくり返ったような復讐心が。
だからこそ。
だからこそ――信じるべきなのではないか。
「……自己変革、か」
イナリに宿った自己変革の力。ミカの自己保存と対をなす能力。
変革の先に、ミカの魂を救う術があるのなら。それは、彼にとっての希望としては充分だ。

海斗は、諦めなかった。
記憶データを元に、彼女の足りない部分を補い、魂を復元しようとしたのだ。
その結果生まれたのが――魔人能力を持つAI。現在、狐薊イナリと呼称されるものだ。
其れは、海斗の理想とは程遠いシロモノだった。埋め込んだはずの記憶データは奥底で眠ったまま、意識も完全に別物、当然身体に戻すことも出来ない……失敗作。
だが、海斗が目をつけたのはその魔人能力だった。
自らを常に変革し、進化し、成長する。それが自己変革。もし、その自己変革の先に、ミカの魂として復活する未来があるのなら――と、海斗は考えた。
そして彼は、その記憶データが目覚めるまで、ミカについての全ての情報を、イナリから遮断したのだ。――いつか、自らの出自を、彼女が自分で知る時まで。

海斗は、ミカの身体が横たわるベッドの方に向き直る。
ベッドの横には、大量の医療機器。イナリがこの部屋に入り込めないよう、全てオフラインで機能するものを集めている。
結果を急ぐ気はない。だが、このままのペースでは間に合わない。
「……ミカ。信じて、いいの?」
まだ、迷っている。
ハイリスク・ハイリターンな大博打。これでまたイナリが同様の事に巻き込まれれば、次こそ絶対に終わりだ。
怒りと不安に震える手で、海斗がミカの顔に触れる。
その白い肌は柔らかく、血の気も充分にある。これで動かないというのが信じられないくらいだ。
――こんな自分の選択が、彼女が再び生きた人間となれるかどうかを決めるのか。
胃がきりきりと痛む。
すう、はあ、と深呼吸をしながら、目を閉じる海斗。
海斗が数分の思考の――もしかしたら数十秒だったかもしれないが――後、決意したような表情で、眼をゆっくり開く。
そして、達観したように、目の前の少女に笑いかけた。
――心は決まった。
海斗は携帯を取り出しながら部屋から飛び出すと、ある番号に電話をかけ始めた。
「……僕だ。AI用のVRアバターを工面して欲しいんだけど――」

■     ■

「いやーしかし、やっぱりわらわの主様は『つんでれ』じゃなー、まったくー」
――電脳空間。
沢山のデータキューブが浮かぶそこで、イナリがニマニマしながら浮かんでいる。
「不許可を取り消す、なんて、やはり言うと思った通りじゃな! にゃはは!」
愉快愉快、とバンバン床を叩くような仕草。
それだけ参加が嬉しいのか、はたまた海斗が自分の思った通りの答えを出したのが愉快なのだろうか。
「……さて、戦法とかもきめておかねばなるまい。武器は……」
少し周囲をキョロキョロと見回した後、選び出すようにひょい、と一つのデータキューブを掴み取る。
「読み込み――形成――構築! えくすかりばー!」
イナリが叫ぶと同時に、手の中の四面体がうねうねと動きだし――派手な西洋剣の形になる。
――これが、データキューブ。物体データを内包した、緑色の立方体型電脳記憶媒体。いわゆる3Dプリンター用に作り出された、物体の情報を保存する電脳メモリーだが、イナリのような電脳空間内の存在にとっては、その場所でそのまま形を形成する事も可能なのだ。
「……武器はこの辺から場合によって選べば良かろう。槍とか弓とか、デンドロビウムとかなんでもありそうじゃし」
キョロキョロ、とまた周りを見回すイナリ。データキューブは、触れてみなければ何が入っているかはわからないのだ。
つまりは。
「……よーし、みなぎってきた! とりあえず、全確認作業じゃ! えいえいおー!」
わーい!と叫び、周囲のデータキューブを漁り出すイナリ。
数分後、様子を確認しようとした海斗にデータキューブの無駄使いを怒られるのは――また、別のお話。
最終更新:2017年10月14日 19:48