私は恋をしました。
相手は支倉饗子さん。長い黒髪が印象的な、素敵な女性です。
女性同士で恋だなんて、と普通の人は思うかもしれないけれど、私は本気。
だって、だって彼女は、あんなにも『美味しそう』なんだもの……!
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彼女が饗子と知り合ったきっかけは、おそらく偶然だったのだろう。
饗子が落とした財布を彼女が拾い、挟まっていた免許証から住所を知りわざわざ届けに家まで来たのが二人の交友関係の始まりだった。
その後日、饗子はお礼にと彼女を食事に誘った。彼女は喜んでその申し出を受けた。
美味しい食事、他愛のない会話。二人の仲は人々が想像するよりも早く縮まっていった。二人とも食べることが好きという共通点があったからかもしれない。
そして食事を終え店を出る時には、二人はすっかり意気投合し、仲良くなっていたのだった。
その後もなにか機会があれば二人は会う事を繰り返した。ある時は二人で商店街を食べ歩きし、ある時は一人では入るのを躊躇われるような高級店に挑戦し、またある時は美味しい名産品を食べに地方まで二人だけで旅行したりした。二人の仲はどんどん深まっていった。
そして今。彼女は、支倉饗子に追われていた。
時は深夜。空気は痛々しいまでに冷えきり、彼女の露出した肌を容赦なく突き刺す。
彼女は人気のない夜道を、息を切らせて走る。街灯は寿命が切れかけているのか頼りなく点滅を繰り返し、そのたびに視界が一瞬真っ暗になった。
後ろを振り返る。誰もいない。彼女は足を止め、そばの電柱に寄り掛かり息を大きく吸う。酸欠気味になった肺に氷のような空気が満ち、胸がすこし痛む。それでも、ぜーはー、ぜーはーと荒い呼吸を繰り返した。
まだだ、まだ駄目だ。こんなところで死にたくない。彼女はそう思った。そして足を二、三回ぺしぺしと叩き気合を入れる。
しかしその時。彼女のすぐ後ろ、暗い影の中でごそり、と物音がした。
「……っ!」
ばっと振り向く。すると、
「にゃーん」
影の中から、影と同じくらい真っ黒な猫が一匹、駆け足で飛び出してきた。
そして黒猫は彼女には一瞥もくれず、そそくさと立ち去って行ったのだった。
「ふう……」
ほっと胸をなでおろす。
だが、こんなところでいつまでも立ち止まっては居られない。彼女はもう一度気合を入れ直すと、ふたたび暗い夜道を走り出した。
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数十分後、彼女はマンションの通路に居た。
目的の部屋はもう目の前。ポケットから鍵を出し、扉のロックを解除しようとする。
しかしその時。通路の端から、『彼女』が現れた。
「ハア……ハア……」
『彼女』は白衣を着ていた。いつもは無造作にまとめてある長い黒髪はばらばらに振り乱され、大量にかいた汗を吸って額や頬に張り付いている。呼吸は荒く乱れ、眼鏡の奥の目は血走っていた。『彼女』は支倉饗子だった。
「ハア……ハア……!」
「……っ!」
彼女は急いでドアノブを引き扉を開けようとした。しかし、扉はガチャガチャと音をたてるだけで開かない。鍵穴に刺さった鍵がまだ半分しか回せていないのだ。それでは扉は開かない。
通路を駆け抜け、饗子が迫る。だが半ばパニックに陥った彼女は鍵が半分かかったままだと気付かないまま、ドアノブを引き続ける。二人の距離はどんどん縮まっていく。
そして饗子があと数歩のところまで迫ったところで、彼女は鍵の状態に気づいた。手を伸ばし、途中で止まっていた鍵を回すと、扉は何の障害もなく開いた。
彼女は開いた扉の中に駆け込んだ。玄関の段差につまずいて転ぶが、もはや何の問題もない。目的地に到着したのだから。
そう、ここは。
支倉饗子の部屋である。
開けっ放しの扉から饗子が侵入してくる。否、帰ってきたのだ、彼女の自宅へ。そして玄関に横たわる彼女を見ると、その身体に飛びついた。
血しぶきが上がり、壁を赤く汚す。饗子は彼女の首元に噛みつくと、動脈ごと喉の肉を食いちぎった。口の中は鉄臭い味に満ち、流れる血は乾いた喉を潤した。
むぐむぐ、と噛みちぎったばかりの肉を咀嚼する饗子の頬を彼女は優しく撫でた。その顔は自分の血で赤く染まっていたが、そこに浮かぶ表情は穏やかな笑みだった。
「おいしいかしら……おいしいわよね、体調管理には気を使ってきたのだし」
血だまりの中で、彼女は微笑む。まるで食べ盛りの子供を見る母親のように。
「私のこと、おいしく食べてね、『次の私』……」
横たわる彼女の喉に再び噛り付いた饗子に話しかける。その声は囁くように小さく、とても弱々しい。だが、どこか嬉しそうでもあった。
「それと……『次の次の私』に、おいしく食べられて、ね……?」
そうして、彼女は息を引き取った。自分が恋した『自分』に貪られながら。
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「ああ、美味しかった。ごちそうさまでした」
数時間後、自らの部屋にて支倉饗子はそう言った。
目の前には大量の血だまりの跡と、人骨の欠片が少し。その他には何も残っていなかった。
饗子の様子はというと平穏そのもの。先ほどまでの凶暴性が嘘のようのように落ち着いて、まるで人が変わったかのように自然体だった。全身が血塗れであることを除けば、であるが。
実際、彼女は人が変わっていた。人格そのものが変わったのだ。
これが食物連鎖能力『イート・ライク・ユー』の結果だった。先ほどまでの支倉饗子の人格は消え、そして新しい人格が動き出したのである。
彼女自身は今回の事、今回の『食事』には何の疑問も抱かない。食物連鎖は今回が初めてではないのだ。饗子が食べた『彼女』以前にも『食事』は何度も行われてきているし、今の饗子からすれば当たり前のことだった。
「さて、後片付けをしないとね。片付けまでが食事です!」
軽口を叩きつつ、彼女は腰を上げる。だが立ち上がったところで少しよろめいた。何か違和感がある。体が重い。
「うん?……ああ、なるほど」
見れば、着ていた白衣が血を吸って真っ赤に染まり、そして吸った分だけ重くなっていた。
これでは違和感を感じるはずだ、と饗子は納得した。これはもう着れないし捨てるしかないかな、とも考える。饗子はすっかり赤くなった白衣を脱いで床に放り投げると、着替えるためにクローゼットへと向かった。
その時。かちゃり、と硬質な音が部屋の中に響いた。
音がした方を見る。すると、白衣のポケットから一枚のカードが飛び出していた。彼女はかがんでそれを拾う。それは輝くような緑色で、なにやら異様な雰囲気を漂わせていた。
「なんだったっけ、これ」
血まみれの指で摘まんだそれをじっと睨みつけると、饗子は自分の記憶、数時間前まで自分だった『彼女』の記憶を探った。
なにか大切な物だっただろうか。誰かに貰った物だったかもしれない。なにか催し物に関係があったような気もする。だがいまいち自分が関係あるという実感がない。思い出せない。
そして数分ほど考え続けたのち、彼女はこう結論付けた。
「まあ、どうでもいいか。食べられなさそうだし」
そうとだけ言うと、彼女はそのカードをクローゼットの中に放り投げた。カードは彼女の狙いどおり予備の白衣のポケットにすっぽりと入る。
彼女はそれを見届けると、血で汚れた衣服を脱ぎ始め、そして着替えが終わるころには既にカードの事などきれいさっぱり忘れてしまった。
こうして、かつて支倉饗子だった彼女、もしくはかつて彼女だった支倉饗子は、本人の意思とはほとんど関係なくDDSバトルに参加することになったのだった。