発端は、平河玲に対する、ある不良生徒からの依頼だった。
「レイジの奴が、おかしくなっちまったんだ。急にいい子ちゃんぶって、愛だの何だのと説教かまして来やがる」
あんなに親友だったのに、あまりにも不可解だ。
何があったのか調べてほしい、と。
そこから滑川ぬめ子に辿り着く事は容易だった。
日ごろ、木下は憚らず公言していた。
「俺はぬめちゃんに愛を教わり、生まれ変わったんだ」。
(恋人ができたから、更生する……何ともまあ、分かりやすいエピソードだ)
(……いささか、淫蕩に過ぎるきらいはあるが)
最初は、平河もその程度に思っていた。
滑川が他の男子生徒に対して「愛を教えている」場面を覗き見るまでは。
それも、一人や二人という数ではない。
(……恋人を持つ人はふつう、他の異性と……ああいう事は、しないものだろう)
まともな恋愛経験などない平河にも、それくらいは理解できた。
(……愛。彼らの言う愛とは、何なのか)
改めて考えれば、木下の様子は尋常ではなかったと思う。
可能性を検討する。洗脳、違法薬物……あるいは、精神に作用する魔人能力か。
(……確認する、必要がある)
〇
希望崎学園、ある冬の夜。
部活動をしていた生徒たちも、多くは引き上げた後。
生徒会室には、なおも明かりが点いていた。
ひとり書類仕事を片付けている少女は、副会長の滑川ぬめ子。
体表から溢れ出る粘液が書類を汚してしまうため、ハンドタオルが欠かせず、手元が忙しい。
そして、中庭を挟んだ反対側の部屋──真っ暗な資料室の窓から、平河玲はその様子を観察していた。
生徒会室に備え付けのカーテンは、「色々あって」修理中だ。
今夜に関して、ここからの視界は保証されている。
20時過ぎ。
生徒会室の扉が開いた。入ってきた人影を、滑川が迎え入れる。
背の高いスーツ姿の男。厳格さで知られる教頭先生だ。
「きみ一人かね。木下は?」
「この時間なので……もう、お帰りに」
「そうかい。まあ、何にしても、私の考えは変わらないがね」
二人の会話の声は、この距離では到底、資料室まで届かない。
しかし、平河は読唇術で彼らの言葉を読み取ることができる。
特別な訓練などした事はないが。中学生の時にスパイ映画を見て「できそうな気がする」と思った。実際、できている。
どこにも嘘はない。今現在においては。
パイプ椅子に腰かけた教頭は、鞄から数枚の書類を取り出し、机の上に出す。
「この、ラブマゲドンとかいう企画だが」
「はい……これは、素行不良の生徒さんたちに……」
おずおずと説明を始めようとする滑川を、教頭は「いい。もう読んだ」と制する。
「題目は立派だ。だからといって、こんなものが認められるか。抜け出した生徒の命を奪うというのも、明らかにやりすぎなペナルティだ」
「愛を知ろうともしない人間に、生存の価値はないかな、と……」
「えっ怖……いや、それに3週間も授業を中止して、授業の遅れをどうするつもりだ。先生方は、1年分の予定を計画的にだな……」
「一応、学外の先生方に遠隔授業を行ってもらう事も考えていますが……」
「な、何かもう……色々と本末転倒ではないか!」
「愛は、学業より優先すべきものであると……」
「は、はあ……君といい木下といい、すっかり”愛”が口癖のようになっているな」
興奮のあまり立ち上がっていた教頭。腕を組んで座り直し、息を落ち着ける。
「まあ、いち教育者としてその考え方、強く否定はしない。だが、こんな無茶苦茶な、まっとうに学生生活を送っている生徒たちにまで迷惑をかけるやり方は、断じて認められん」
「そう……ですか。校長先生は認めて下さったんですが……」
滑川は少し消沈した様子で、目元に手を当てて、
「貴方は、やはり本当の愛を知らないんですね」
──瞬間、彼女の周囲の気配が一変した。
数十メートルを隔てた先にいる平河さえ、息を呑む。
一帯の空気が”濁る”ような感覚。そして。
「……え?いや、私はただ……」
ぬちゃ。
「こ、これは……!?あ、なっ、何のつもりで……!?」
にちゃ。ねちゃ。
「あ、ああああっ……!?」
ぬりゅ。ぬちゃ。ぷちゃ。
脳の内側に響く、水音。
未知の感覚が、教頭の意識を呑み込んでいく。
平河にとっては、何度目かになるその光景。
(学園を、封鎖する……逃げ出した者は、殺される……)
彼らの交わしていた言葉の断片が、思考の中で渦巻いている。
(ラブマゲドン……いったい生徒会は、何を企んで……?)
不意に、滑川が振り向いた。
その瞳は、見たこともないような──冷たく、ぞっとするような銀色。
平河は一瞬、それと目線が合った。
(っ────)
背に氷を押し当てられて飛び跳ねるように、窓辺を離れて、床に伏せる。
(まさか、見られたか──?いや、いや)
慌てるな。落ち着け。大丈夫だ。
自分自身を説得するように。
ゆっくりと、言葉を吐き出していく。
「ま……まず、この暗さだ。資料室には、部屋の明かりも点いていない。こちらから見えているからと言って、向こうから見えているとは限らない。いや、見えないだろう」
「目線が合った?いいや、気のせいだ。たまたまだ、たまたま振り向いただけだ」
「ああ、そうだろう……滑川の魔人能力は、粘液の操作。知覚を強化する手段は、ない。事前に調べて、知っている通りだ。そのはずだ」
心拍と呼吸が、徐々に平静の速度へと押し戻っていく。
ハンカチを取り出して、掌に滲んだ汗を拭きとりながら、いつものように青い言葉を紡ぐ。
「……そうだ、滑川には何も見えなかった。振り向いたのは偶然だし、目が合ったのも気のせいだ」
言い聞かせるのは、自分であり、世界に対して。
果たして、その力が正しく作用したか。
今はまだ、自身にも分からない。
不安と同時に、平河の中には一つの迷いがあった。
(……ど、どうする)
(あいつら……生徒会を、止めなくていいのか)
(あるいは、すぐに逃げて……関わらないようにした方が、いいんじゃないか……)
平坂玲は情報屋だ。
良くも悪くも、知りたいと言われたことを調べるだけ。
何かと戦うことも、事件を解決することも、経験がない。
迷いは渦巻く、危機は近く。
ラブマゲドン開始、その前夜のこと。