【希望崎学園 家庭科室】
キーンコーンカーンコーン…
12時を示す鐘が鳴った。
甘之川グラムは、事前に用意しておいた弁当を広げ、パクパクと食べ始めた。
「ふむ。味のバランスは及第点だ。片手間で作ったにしては結構いいじゃないか、私。」
そこには談話する友人はいない。いや、それどころかこの部屋の周辺にすら誰もいない。ただn1が一人いるだけだ。
当然だ。大抵の生徒は『ラブマゲドン』に巻き込まれないために避難をしている。
そして、哀れな校則違反者たちは、未だ生徒指導室に拘束され、自分の将来を案じていることだろう。
すなわち、今ここにいる彼女は、自分の意志で学園に残った数少ない人物なのだ。
甘之川グラムは天才であった。自分の考えを言語化し、俯瞰して評価できる人間であった。
彼女は恋というものには無頓着で無関心であったが、その内面を評価してから関係を持ちたいと考えていた。
だが…
2か月前。甘之川は日課の散歩をしている最中であった。
一人の男が校舎の玄関で何者かを待っているのを見た。
その時、彼女の頭に衝撃が走った。
本能的に退避欲を感じ、その場を離れたが、あの男の顔を思い浮かべるたびに胸がうずく。
「はぁ…はぁ…!」
それは今までに経験したことのないものであったが、これまで彼女が得てきた知識から、それが何を意味しているのかは理解できた。
(この私が…『一目ぼれ』をしたというのか!?)
そう、これは『一目惚れ』!
恐るべき恋の病に彼女は捕らわれたのだ!
「クソッ!」
そして、彼女はこの感情に至った自分自身に激しい嫌悪と怒りを抱いた!
常に論理的思考を至上とする彼女にとって、このような感情…論理関係が断絶している感情に自らの脳内が支配されるのはただただ不快なことであった!
怒り…!これまでに抱いたことのない怒り…!
今後同じような感情に苛まれることは無いと断言できるほどの怒り…!
(気をしっかり持て私!惚れるならば内面で判断しろ!
なんで『あいつとならどこまでも行ってもいい』なんて考えているんだ!)
それから、彼女の戦いが始まった。
脳科学についての知識はここ2か月でかなり詳しくなった。
愚痴ノロケ恨み言に限らず恋に関してのエッセイは可能な限り読み込んだ。
他に恋の対象を移そうと、アイドル沼にも浸かろうと試みた。
しかし、それでも彼女の『一目惚れ』が消えることは無かった。
今、甘之川はあの男に会うことすら怖い。どんなに悪い性格でも、受け入れてしまいそうな気がするから。
正攻法で解決できないのならば、残る道は荒療治しかない。
そう考えた彼女は、最後の望みをかけて、『ラブマゲドン』に参加したのだ。
もしこの試みが失敗しても、快楽に身をゆだねることはできるだろう。
それは理解不能な感情に身を溶かされるよりは、だいぶまともなオチだろう。
「さて、そろそろ生徒会室に向かおうかな。」
時刻は午後1時。自分からアクションを仕掛けないと、参加した意味がない。
そして参加するならば、なるべく早いほうがいい。
今なら生徒会室側の混乱も大体収まったところだろう。
そう考え、廊下に足を踏み出したその時。
巨大な人影が奥より迫ってきた。
「も、もう駄目だ…絶望だ…」
見た感じ甘之川と同年代の男は、ひどく狼狽した様子だった。
おそらく『ラブマゲドン』に捕らわれた校則違反者の一人だろう。
しまった。もう『自由行動』の時間か。スタートダッシュに乗り遅れた以上、少し不利になるぞ。などと考えていると、その男は急に手を掴み、引いてきた。
「そ、そこの眼鏡!いいところにいたな!俺が彼女になってやる!」
なるほど、と甘之川は思った。彼女の姿を見て、自分の頼みを聞くと思ったのであろう。
確かに今の彼女は、眼鏡はダサいし髪はボサボサ、パートナーを持てる容姿ではないと判断されても不思議ではない。
目の前の男が甘之川に低評価を下し、安パイを狙う感覚で彼女に声をかけたとしてもおかしくはないだろう。
しかし。
「丁重にお断りさせていただくよ。こう見えて、私は結構モテるんだ。」
ラブマゲドンへの参加に当たり、彼女はできるだけ内面を見極めて恋愛したいと考えていた。
目の前のボンクラの様に、外面だけで判断する男は言語道断。そもそも恋愛関係を支配被支配の関係と勘違いしているのは論外だ。
甘之川は掴んできた手を振りほどき、生徒会室の方へ足を向けた。
(ふざけんじゃねぇ!力ずくで惚れさせてやる!)
その後ろから、殴りかかる影に気付くこともなく。
「パスッ…」
男の拳が甘之川に触れ、軽い音が聞こえた。そして、それ以上のことは何も起こらなかった。
「おうおう。私に手を上げるなら、掴みかかったほうが良かったかもしれないな。」
男は少なくとも暴力の面ではn1に勝てると考えていたが、実際、知能の面でも暴力の面でもn1の方が強かったのだ。
「今の君の体重は、せいぜい300gだ。その重さをかけたパンチなど、せいぜい『ちょっと痛い程度』だ。」
そう言いながら、甘之川は足払いを掛け、男を宙に浮かした。
そしてその流れで上方向にアッパー。男は天井に叩きつけられ気絶した。
ニュートンの運動方程式。かかる力が同じならば、物体に加えられる加速度はその質量に反比例する。
魔人とはいえ筋力は下の方の彼女だが、結果として生じる衝撃は平均的な男子魔人と比べても遜色ないものであった。
「しかし、開始して早々こんなことになるとは…ちょっとやる気が削がれてきたぞ。
まあ、参加者全員が全員、こんなやつではないだろう。
一つのサンプルだけを見て全体を判断するのは、賢い思考ではないぞ、私よ。」
自分に言い聞かせるようにして、甘之川は独り言ち、生徒会室に向かうのであった。