Dance With You

(Track 4/559:Knock Knock Knock OKAMOTO‘S)




コンコン



世界を卵の殻だとするならば、ひび割れた殻をこれ以上割らないこと、変化しないことが私の在り方です。



コンコン

だから、私はいません。

コンコンコン

泉崎ここねは、ここにはいません。

コンコンコン

女子便所の個室は無人ですが、使用中です。

コンコンコンコン

だから諦めて別のところへ行ってください。

コンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコン!!!!!!


いや、御構いなしですか。

どれだけ切羽つまっているのですか。

「すまない、急ぎでね。もしかしてそこに、私の左腕が落ちていたりはしないかな?」

私はここに駆け込んだ際、とてもまともに周囲の状況を観られる精神状態ではなかったから。仕方ないと言えば仕方がなかったのだけれど。

あった、左腕が。

「……ありますよ」

「お、それは良かった、左腕が無くては業務に支障が出るからね」

「あの……そんな大事なもの、落とさないで、ください」

カチャリ、鍵を開けて扉を押すと。そこにいたのは、顔に大きな火傷跡があり、学生服の上から法被を纏う、細身で長身の……”男”だった。

私は静かに扉を閉めた。

「え、私の左腕……」

「き、消えて……ください!」

「左腕……」

「通報、しますよ……!」

「えぇ!?」

「男が、入るのは犯罪……だから」

「待って!!私は——————」

「黙って!黙って!!!!」

私は、物事の許容量が人より少ない。だから、一番早くて一番楽な選択肢。色々面倒だったので、迷わず唱えた。能力名『論理否定』は、否定の言葉を聞いた人間の知性を奪う。だからもう言葉を喋ったり、聞き取ったり、読み取ることはできなくなった。おまけに急激に知能が低下した人間は、パニックを起こす。『現状は理解できないけれど、何か悪いことが起きていて怖い』程度を認識できるギリギリのライン、それが二回。


「……?」



おや? おかしい、パニックを起こしたような声も動きも感じられない。



代わりに……ドン、と向かいの壁を蹴る鈍い音がした。


「ぉDぉrおかへて…ごeん……!!!!」

パルクールというのだったか。障害物を鹿のように、ひょいひょいと乗り越えて行くスポーツがあったが。奴はそれの要領で、軽々と個室の仕切りを上から飛び越え、するりと中に侵入してきたではないか。

「え!?」

「dぇも……yぁるゔぇきこtぉがAる!!!!」

「ゔdぇヲ……かぇsぃてくれ……!」

驚いた、並の人間ならまず、舌が回らないどころではないはずなのに。それに、自分の心配ではなく、真っ先に私に謝った。先に攻撃を仕掛けた相手に丁寧に頭を下げて、だ。

なんなんだこの男は、全く理解に苦しむ。私はこの瞬間、ぶん殴られるか、レイプされるかと身構えていたものだから……この世の終わりのような顔をして損した。

「あ、あなたを否定したこと、取り下げる……」

「だから!!————あっ、戻った」

「その……何やら、退っ引きならない事情が、ありそう、だから」

彼は、拾い上げた義手を装着しなおして(ちょっと触りたくなかったので、自分で拾ってもらった)。キチカチと関節部の動作確認を終えると、満足そうな、そして通りの良い声で礼を述べる。私は用が済んだなら出るように、と促した。だが、彼はふと迷ったような顔をして、少し申し訳なさげに切り出す。

「君、どうして泣いていたんだい?」


「……べ、別に」



……あぁ、そりゃあ気づくか。これだけ泣き腫らして真っ赤になった目を見れば、どれだけ平静を装っていようと。

寧ろ、余計に痛々しい。

「た、大切な片腕を落とすようなウッカリ、さんには……関係無い、です」

彼は、義手の方をさすり。くしゃりとした顔で苦笑する。



「そう? 平気だって言うならなら、いいんだけれど」


「大きい男、は嫌い……その、貴方が、嫌いなのではなくて。そういう姿形のものが……です。トラウマなの、嫌なことを思い出すから、あまり見ていたくないの」

数秒の沈黙の後、ハッと何かを思い出したように焦り。あわあわと身振り手振りをして、言葉を探り、並べ、絞り出した。

「そうだ、さっきからずっと誤解を解こうとして、すっかり忘れていたのだけれど……」


「何?」


「私はこんな身なりだけれど……その、戸籍上は”女”だよ」

「……え?」



(Track108/559:Major Tom Peter Schilling)





糸遊兼雲。隻腕、顔に火傷跡、長身、細身、男装、場慣れした雰囲気や立ち振る舞い。そして、生徒会長の暴走による今回の催しを、裏から崩すために送り込まれた理事長の密偵。偶然にも目的が合致していた”彼女”と、泉崎ここねは組むことにした。

「協力してくれるってのはもちろん助かるんだけれど、その、君は……」

「働ける……多分」

「ただし、あなたの助けが、必要。糸う…糸遊蟹きゅ…熊、糸遊蟹熊、さん」

「か、ね、く、も……兼ねるにお空の雲で兼雲」

「…………かねくもさん」

特別滑舌が悪いというわけでもないはずだけれど(と自分では思っている)、このくだりを五回は繰り返しているので、糸遊兼雲の名前は、少なくとも私にとって——

「……言いにくい」

「えぇ」

「糸、を取ってイトーさんって呼んでも、いい?」

「じゃあ、もうそれでいいよ……ここねさん」

「ごめんなさい……私、名前覚えるのって苦手。顔と声は、覚えているのだけれど、その……言い難くて噛みやすいのと、語感が悪い名前は、すぐに忘れてしまって、特に下の名前が、覚えにくい」

「そんなに語感悪いかな!?」

「もっと……そう、ちょんまげ抜刀斎とか……キャッチーで覚えやすい名前にしてもらうべき、だった」

「絶対嫌だよ!?」



ここねさん、冗談とかも言えるんだね。と、イトーはカラカラ笑っていた。

「まぁ、なんだって良いし、どうだって良いけれど」

「それより、本題」



「私は、その、筋金入りの男嫌い……だから。ここから出られずにいたのだけれど。あなたを捕まえられたのは、とても好都合。容姿、能力、今回のイベントにおける立ち位置……どれを取っても百点満点。私が欲しかった、およそ最高スペックの人材、なの」



私というポンコツをサポートできて、尚且つ荒事慣れしているなら、別に誰でもよかったのだけれど。一応、ここは糸遊兼雲を立てておく。気持ちよく仕事してもらわなければ困るし。



「そして、私は……生徒会長、木下礼慈を無力化するに足る能力を、持っている。私にとっては、木下礼慈の前に立つまで……が問題であって、そこから先は、全く問題では、ない。細かい作戦を立てる必要すら、ない」

「つまり?」

「私の……騎士様に、なって」





(Track 370/559:迷い犬と雨のビート ASIAN KUNG-FU GENERATION)





来たる12月24日まで、何処かで息を潜めているのであろう生徒会長を探すための聞き込みは。糸遊兼雲(以下イトー)に任せ、私は金魚の糞のように後ろをついて歩く。糞というのは語感が悪いので、ここでは星砂とする。



金魚の星砂。

便利なもので、彼女を盾にすれば大概の男は目も合わせずに逃げていく。イトーは、はたから見ればかなり近づきがたい雰囲気で武装した長身の優男に見える、特に火傷痕が怖い。これに面と向かって我こそはと勇んで、私を横取りに入ろうとする者は、そうそういないであろう。



イトーはサクサクと聞き込みを進めていく。雑談も交えながらだったので、ペースはそれなりだったが。そうして何人かを見送り、ヘッドホンを耳に当てながら、うつむいてシャカシャカ鳴らしていた私へ振り返った。


「ここねさん、生徒会長は旧校舎の屋内プールに来るってよ」



どうやら、今回運営が想定していた参加者を上回る数がイベントに巻き込まれたようで、10日、17日、24日の三度に分けてジャッジを行うように、ルールを変更するらしい。初回は様子見ということで、大っぴらに情報は公開せず。生徒会役員が目を付けたカップルだけに招待券を渡して招待している……とのことだった。


「でも、そんな運営サイドの、情報……どこで?」

「生徒会の子を捕まえて吐かせた」

ニヤリと笑みを浮かべ、わざとらしくパタパタと綴葉装で扇ぐ、能力を使用して情報を引き出したらしい。

イトーの能力は対多数の作戦行動で真価を発揮する『万藩儿縁起体系・手引足抜繙自在鉄之帳』、綴葉装(てっちょうそう、てつようそう、と読むらしい。というか、それがそういう名前だということも知らなかったので、この前イトーに教えてもらった)に個人情報が書き込まれた相手を、強制的に協力者にして操る能力。つまり、常に単独でありながら、情報戦にも強く。どこにいても第三勢力となり得るわけだ。


それはさておき。


「能力も……言いにくい。読めないでしょう、これ。地の文に入れるために、何回、字引きしたと思っているの」

「万藩儿縁起体系・手引足抜繙自在鉄之帳のこと?」

「これ見よがしに、言わなくていい……言いたいだけでしょ、イトーさん」

「万藩儿縁起体系・手引足抜繙自在鉄之帳って?」

「……」

「……」

「万藩儿縁起体系・手引足抜繙自在鉄之帳」

「怒るよ」

「ごめん」

イトーはふざけだすと止まらない癖がある、いわゆるお調子者というかなんというか。昨今はコピー&ペーストのお陰で、面倒な文字列も一度打てば何度でも使える。現に一回分しか文字を打っていないわけだけれど……だからといって会話の中で何度も『万藩儿縁起体系・手引足抜繙自在鉄之帳』を引用されると読みにくいことこの上ない。


「ああ、でも」



「なに?」



「招待を受けるには、形だけでもカップルじゃあないと招待券は渡せないって」



細かい情報や事情については、あとで改めて説明をしてもらったけれど。ラブマゲドンのルール改訂は、生徒会長だけが権限を持っているから、だそうだ。



「だから、しばらくは私が彼氏役ってことで、よろしくお願いします……」



「へえ……?」





(Track 530/559: Caravan Palace Lone Digger)






当然と言えば当然。生徒会の強制執行と言っても、期間中は普通に授業がある。仕方なしに、まずは一週間待つことになった。初日から二日間は土曜と日曜で、校内はイベントに積極的な人間で溢れかえっていたが、三日目の月曜日からは学校のタイムテーブルに縛られる。自然とイベントの熱も、平熱気味に落ち着いてきているように感じる。



「ここね、またお昼ご飯それだけ?」



「……別に、これで足りる、から」



食堂の一角、私がここに訪れることは滅多に無い。けれど、今は一人になると色々面倒なので、ここ数日はイトーについて回って、一緒に昼食をとっていた。



それから細かい取り決め。ひとまず、付き合っているふりをするため、お互いに“さん”は禁止となった。特にイトーは、誰でも丁寧にさん付けする癖があるので、差別化を図るためにそう決まった。



うどん、少し取り分けてあげようか? という申し出は断り、私はいつも通り、ナッツを齧るハムスターのようにパリパリと板チョコを食む。あとは、ビタミン剤をお茶で流し込んだら終わりだ。一方、イトーは一人大食い選手権でも開いているんじゃあないかという勢いで、すすって、頬張って、咀嚼して、飲み干していく。なるほど、これが鯨飲馬食というものか。



「もうちょっと何か食べたいなぁ……」



「一体、どこに入っていくの、それ」



カレーパンが食べたくなってきた! とパタパタ駆けていくイトーを見送ると、入れ替わるように一人の男子生徒が私の前に座った。ギクリと、嫌な感じが背中に走る。この顔は知っていた、一昨日私に声をかけてきた中の一人だ。



「えっと、泉崎さん覚えてるかな、俺@34#8+>って言うんだけど、この前はいきなりごめんね! ちょっと舞い上がってて、そうだ、廊下でゲロってたけど大丈夫だった!? 3#$‘&99hv“;+:=bh? t#%543……Y798(#!! *::2”い9? ……*::2”い9?」



徐々に言葉が聞き取り難くなって、視野がキリキリと狭まっていく、小さく握られた両手とスカートしか見えなくなり、私はセーターの袖の皺を数え始める。いつもこうなる、私はストレッサーに対してとても過敏で、嫌なことがあればすぐに俯いて、黙り込んで、誰とも目を合わせない。



「なんで、出てくるの……最悪、最悪……!」



「*::2”い9?」



「黙って! 黙ってよ!!!」



本当は使いたくない。聞こえるように大声で喋らないといけないし、目立って注目されるし。何より、使われた相手が一様に同じ反応をするから……あの男を、思い出す。



けれど、非力な私にはこれしかない。こうでもしなければ、私は簡単に壊れてしまうから。



パニックをおこした男子生徒が、喚きながら倒れ込んだところ。ちょうど、カレーパンをくわえたイトーが帰ってきた。



「ここね!? どうしたの、その人!!」



「一昨日、告白してきた人……でも、もう黙らせたから……」



「大丈夫!?」



イトーが血相を変えて駆け寄ったのは、私の方ではなかった。



「ここね、早く解除してあげて! 誤嚥して気管に何か詰まらせてる!」



「ち、違うの、私……」



「早く!」



「あ、あなたを否定したこと、取消します……」



正気に戻った男子生徒は、そのまま保健室へと運ばれていった。私は相変わらず袖の皺を数えている。いきなり大声を上げたイトーの事が怖くて、とても顔は上げられない。食堂がちょっとした騒ぎになり始めた頃、私はイトーに手を引かれ、人通りの少ない体育館前の廊下にいた。



「この学園では、あんなの日常茶飯事だし、一々咎めるつもりも無いんだけれどね……ここね、それは君が思っている以上に危険な加害能力だってこと、わかってほしい」



「……でも、あの人は私に」



「人を殺すことが正当化できる理由なんて無いよ、ここね。それを一度でも自分の中で正当化してしまったら、本当に戻れなくなるからね。大きな力を持っている人間は、その力に不可分無い強い人間でなければ、使うべき時と、そうでない時の区別もつかず、見境なく人を傷つけるようになるから」



「……」



「……あ、ごめんね!? そんな顔させたかったわけじゃあないんだ……でも、あまりむやみやたらに使わないでほしいってこと。ムカついた時とかに、私に使う分には良いけどさ。人って案外、意図せずともコロッと死なせてしまう事があるから、ね」



私を傷つけないように気遣いながら、優しく諭すその目。私はそこに、暖かい陽だまりの中、酷く冷たい、血の滲んだ刃物を包み隠しているのを見た。




(Track 59/559:I think I can The pillows)




12月10日、あれから一週間。私たちはようやく、旧校舎の屋内プールへと赴くことになる。招待券を握りしめて、私たちはイベントらしくしっかり飾り付けられた入場ゲートを潜り抜ける。この悪趣味なデコレーションは生徒会長の趣味だろうか?



まあ、なんだって良いし、どうだって良いけれど。

コートのポケットに突っ込んでいても、指先が全然温まらないような寒さの中。日は落ちようとしている夕暮れ時。最後の組となる私たち以外のカップルは、既にジャッジを終えてどこかへ行ったようだ。閑散としたプールには、場に不相応なネオン灯の飾りがギラギラと輝き、ガラス張りの天井は所々割れているのが見える。数年かけて生えた葦は、サラサラと風に吹かれ、泥やゴミを含んで淀んだ水は、トロトロと波打っていた。



そしてその奥、50メートルプールの5番レーンに生徒会長、木下礼慈は待ち構えていた。

「うん? お前は……」

「やぁ生徒会長、いつぞやのハルマゲドンぶりになるかな」

「………俺は過去に一度、会ったことがあったの。そうかそうか……ククククククク、お前も愛を知ったというわけだな? 良いじゃあないか、愛を知ることは良いことだ」

「そうだ、この……」

ガッと強く肩を抱かれて引き寄せられる。

「泉崎ここねさんと、恋に落ちたのさ!!!」

「え?」


イトーが必死にアイコンタクトで合わせろと伝えてきた。それはもう必死に。


「あぁ……そ、そうなの、私バリタチのクソビッチ、だから。うっかり……イトーを食べてしまったの……そう、酔った勢いで、うっかり」

「え!?」

ダメだろう、あなたが驚いたら。


「そう!だからその!責任を取ってもらう形で!いっそこの場で正式に愛を誓ってもらおうって寸法ですよ!合理的でしょう!?」

もう何が何だかって感じだが、作戦としてはこれで万事順調。後は、生徒会長の言葉を否定してやればいい。結果が真だろうと偽だろうと。

「同性愛か……なるほどなるほど。愛の形は人それぞれ、千差万別というわけだな。クククククク……良いだろう、この木下礼慈の前で、愛を誓え!!!」

「愛してる、ここね」

「愛してるよ……イトー」

「その愛の真偽——」



それは、なんだって良いし、どうだって良い。

「——黙って……黙れ、生徒会長」

「ッHぁ!!!!?????」


「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ」

計千回、喉が潰れて頭の中で言葉がゲシュタルト崩壊する寸前まで唱えた。

生徒会長、木下礼慈はその場に崩れ落ち、失禁、脱糞、だらしなく開いた口から泡に混じって吐瀉物の酸っぱい臭いを漂わせている。およそ人間としての尊厳を失ったどころではない。すでに脳は萎縮し、サボテン程度の知能しか持っていないのだから。

文字通りの植物人間というわけだ。

「イトー、終わったよ」

「これ、ちゃんと戻せるんだよね? ここね」



「……多分」



「多分じゃ困る」



イトーのヘラヘラした顔が、急に少し怖い顔になった。この前と同じ顔だ。心臓がキュッと締め上げられるような感覚に耐え切れず私は目を逸らす。威圧的な顔は怖い、どれだけ善性を持った人間だと知っていても。


「あ……ごめん、ごめんよ、怒っているわけじゃあないんだ。もう癖っていうか習慣っていうか……いや、今回は殆ど特例的で正当防衛みたいなもんだし、個人的なしがらみの事でもないし……まあ良いか、こっちで介護だけしてやれば死にはしないし……」



それでも、『殺したり傷つけたりの貸し借りは必ず帰ってくるから』と、少し過敏になりすぎじゃあないかと思うほどに、私に忠告した。



「あぁ、聞き流していいよ。本当、私が安心したいだけだから」



「……戻す方は、大丈夫、何とか頑張る」


さておき、この後は再び『万藩儿縁起体系・手引足抜繙自在鉄之帳』の出番だ。生徒会長をここに書き込み、木下礼慈の中での『ラブマゲドン脱出のルール』を改訂させる。

「なんて書けばいい?」

「木下礼慈の頭、を踏みつけた状態で「くたばれ木下」と唱えた2人の愛を認め、ラブマゲドンからの脱出を、許可、する」

「鬼か」

イトーはさらさらとオーダー通りに書き上げる。そして『万藩儿縁起体系・手引足抜繙自在鉄之帳』による書き込みが終わった木下礼慈を踏みつけて、唱える。

「「くたばれ木下」」



木下礼慈撃破、ラブマゲドン、完。













(Track 100/559:AJIN MAIN THEME Yuugo Kanno)









『愛ッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』

木下礼慈は絶叫し、飛び起きた。

そんな馬鹿な話があるか、私の『論理否定』は脳を自力では再起不能にするまで唱えたはずだ。

「認めない……認めんませんゾぉ……!」


語尾がおかしい? いや、今はそれどころではないんだけれど。


木下礼慈だけではない。葦の分け目からぞろぞろと、身体の穴という穴から酷い腐臭を放つ粘液を垂れ流し、ゾンビのように血の気が引いた顔をした生徒たちが這い出てくるではないか。その中には、私に二回も声をかけてきた男子生徒や、イトーがぶつくさと愚痴を言っていたカップルの姿もあった。



「ひぃ……」



腰を抜かす、などという古臭い表現を使う羽目になるとは思わなんだが。文字通り、ぺたりといってしまった。能力を使った直後で、景気よく悲鳴を上げる気力すらなかったのは、幸いかもしれない。


助けを求めてイトーを振り返る。しかし、およそ私にかまっていられる余裕は、その表情からは感じられず。必死に『万藩儿縁起体系・手引足抜繙自在鉄之帳』のページをめくり『無い』と、諦めたようにそれを閉じる。探していたのは、木下礼慈に関する上書きの条項。それが、どこにもなかった。

今、一体何が起きているのだ?


「どう、しよう……どうしたらいい? ねえ、イトー!?」



「逃げるよ、ここね」

イトーに手を引かれ、プールサイドを走る私の前に、ゾンビたちを巻き込みながら“プール”が襲いかかってきた。意思を持ったように波打ち、流動的な巨大生物に見えるそれは……

「水じゃない、全て粘液、か?」

当然といえば当然、攻撃を仕掛けてくる敵対者を見越して城を築くのは当然の事だ。これは彼らにとっては防衛戦で、私たちはそのトラップハウスに正面からのこのこと突っ込んできた、お利口で優等生な敵対者なのだから。

そしてこの場における城主は、木下礼慈ではない。生徒会、校長、教師陣。必要な人員を洗脳し、組織を築き上げラブマゲドンを開催した黒幕は……

「逃がしませんよ」

「な、滑川ぬめ子!やめて!やめて!!!!」

進行方向に立ちふさがった彼女に、ひるむ様子は全く見られない。その不潔そうな黒髪の隙間から見えた耳元が、粘液で作られたイヤーマフのような物に覆われているのを見た。そこまで対策済みというわけらしい。



挟み撃ちにされた時、すでに私は考えるのを止めていたけれど。イトーは必死に、綴葉装へ何かを書き込んでいた。そして、焦りや恐怖を押し殺した顔で、私の目線まで腰を落とし、聞き取りやすいようにゆっくりと、伝える。

「ここね、私を抱えて飛んで」

「む、無理! そんなこと、できるわけ、ない!」

「できる、私ができるようにした」

「……」

「私を信じて、私に手を貸して」



(Track558 /559: 5% クリープハイプ)




『万藩儿縁起体系・手引足抜繙自在鉄之帳』は、糸遊兼雲以外の書き込まれた人間に限り『協力者当人が本来実行可能な素質を引き出す』といった、一時的な改変が可能らしい。私が頭二つは違う身長差のイトーを抱え、壁のように立ちふさがるゾンビたちを超えて跳躍、人間におよそ不可能な速度で全力疾走して、あの旧校舎から離脱してみせたのは、私の魔人としての『自己の身体能力の向上に関する認識』を上書きした効果らしい(多くの魔人にとって、現実の改変自体は大方出来る範疇で、自分ができるかどうかを想像できるかが問題である)。



それから、走って、走って、走って、島の沿岸まで走り抜けた。



ぽつぽつと、湾岸線に街灯がつき始めたのが見える。私たちがたどり着いた海浜公園は、旧校舎周辺よりもっと寂れた空気を漂わせている。夏の繫盛期に、キャンプの客でごった返していた丸太組みのロッジには、私とイトーの二人きりだ。

「勝手に入っちゃったけど、大丈夫だよね、どうせ敷地内だし……あれ」



「ここね?」



ロッジの備品から使えそうな物を集めて、テキパキと食事と寝床の支度をしているイトーを尻目に、私は隅の方で小さくなっていた。いつも通り、ヘッドホンで耳を塞いで、俯いて誰にも目を合わせず、身体の震えは指を噛んで誤魔化し、呼吸や心拍すら、押し殺すように、静かに、静かに。



「どうしたの? 寒い?」



「……もう、終わり」



「終わりって、まだこうして生きているじゃ——」



「イトーも、見た、でしょう!? こ、このゲームは、最初から“アガリ”なんて、無いの! 全員、滑川に脳みそ弄られて、終わり、なの!!!!!!」



「……」



能力は、粘液の分泌や操作だけではなかった。『滑川ぬめ子による愛の強制的な享受』とは、即ちあのゾンビたちのことを指していたのかもしれない。粘液で人間を操作することすら可能だったのだ、ありえなくはない。少なくともそれはイトーより上位の命令で操ることができて、完全な上位互換。そして、粘液のイヤーマフで私の能力は完全に無力化。加えて顔を見られた、次は近づくことすら難しくなるかもしれない。いや、それ以前に、学内に潜伏している、洗脳済みの手下に襲われるのが先かもしれない。一度でもあれを見たなら誰だって分かる。勝算は、ほとんど無い。



「ここまで、劇的、に状況が、悪くなったの、は……き、木下礼慈の能力、で『偽りの愛』が、看破されて、私たちが不幸になったせい、絶対そう、それ以外考えられない」



「少し落ち着いて、ここね」



「うるさい」



「……ここね、聞いて」



「黙ってよ!!!!」



二度目は唱えられなかった。



イトーは私の口に手を突っ込み、床へ押し倒した。義手の左腕ではなく、生身の右腕を。焦りを含んだ顔に汗がにじむ、およそ正気の沙汰ではない。私は野犬のような唸り声をあげて牙を突き立てる。裂けた皮膚からジワリと鉄の味が広がり、彼女は苦しい表情を浮かべるが、力を抜く様子は見られない。更に顎に力を込め、ギリギリと肉や骨を押し潰す。



「ッ……!!」



お互いに獣のように呼吸が荒くなっていく。私は思い切り腹を蹴り上げ、顔の火傷痕に爪を立て、毟るように髪を何本か引き抜く。



それでも彼女は、離さなかった。



「ここね、私を見て、ゆっくり呼吸を整えて……大丈夫、怖くない」



イトーはやはり、にっこりと微笑んでみせた。





(Track 20/559:今夜だけ 電気グルーヴ)






目を覚ますと、日はすっかり落ちている。見上げると、小さなガスランプに照らされ、うつらうつらと舟をこぐイトーが見えた。どうやら、太ももを枕にしばらく気絶していたらしい。厚手の毛布も、きっと彼女がかけてくれたのだろう。自分だって、寒いだろうに。



火傷でケロイド化し、歪になった頬に手を伸ばす。冷え性の私と違って、イトーはほんのり温かい。先週女子便所にこもっていた時、爪を殆ど齧っていたお陰で、傷はそれほど酷くはなかった。代わりに右手の方は、包帯でグルグル巻き。まだ口の奥で、イトーの血の味がした。包帯の巻かれていない指も手のひらも、ザラザラでゴツゴツで、あまり女性らしくはない。それでも私は、その温もりは尊く思えて、気絶している間も、今も、ずっと握っていた。



きっと、まるで違う世界で生きたのだろう。喚くばかりで、何の役にも立たなかった私とは、何もかもが違っていて、とても強い人だと思った。肉体的にも、精神的にも。



私はいつも、自分を守ることで精一杯だから。糸遊兼雲の在り方は、とても眩しく見えた。



初めて、強くなりたいと思った。せめて、この人の足枷にならないように。できるだけ長く一緒にいられるように。殻を破って前に進まなければ。現状維持に徹するだけじゃあダメだと、変わりたいと思った。



この騒ぎが終わった後も、糸遊兼雲とずっと離れたくないと思った。



ヘッドホンを外す。



潮の音と、彼女の寝息と、私の心臓の鼓動だけ。今この瞬間、世界には確かにそれだけだった。





(Track 29/559:聖者たち People In The Box)






ポコポコと湯が沸く音で目が覚める。いつの間にか、ソファーの上に一人で寝ていた。吐く息は真っ白で、まだ毛布に包まっていたかったが、イトーの姿を探して起き上がった。湯気に混じった紅茶の香りを追っていくと、イトーはウエストポーチから取り出したものを、何やらモソモソと頬張っている。



「何か飲む? って、言っても紅茶しかないけど」



「紅茶、私にも、ちょうだい」



「……アイスティーしかなかったんだけど、いいかな?」



「イトー」



「ごめん」



『イトーの言いたかっただけシリーズ』は、くだらなさが過ぎて、わざわざ地の文に取り上げてはいないが、実はかなりの頻度で出る。私は好きだけれど、恥ずかしいから、あまりほかの人の前でやらないで欲しい(今週だけでも何度か聞いた、特に食事中)。



「そういえば、その、モソモソ食べているのは?」



「行動食、要らないからって、知り合いからよくもらうんだ」



イトーに差し出されたそれは、茶色の包装に包まれた乾パンのようなもので、水気が無いから紅茶と一緒に食べようとしていたらしい。なるほど、物は試しということで、私も一つ戴くことにした。



「……」



「あはは、不味いでしょ」



「化学薬品、機械油……よく分からないけれど、酷い味」



「日持ちして、カロリーが摂取できれば良いだろうって考えで作られているからね、味なんて考えちゃいないさ」



「よく、食べられるね、こんなの」



「向こうじゃ、仕事中はこれしか無かったからなぁ……」



向こう、というのがどこで、どちら側なのかは聞かなかった。聞けなかった。一瞬見せた深く暗い感情の片鱗は、私に静かに語っていた。自分の過去や経歴は、今の糸遊兼雲から切り離されたものだから、あまりジロジロ見ないでやってくれ、と。



「そうだ、何か音楽聞かせてよ、携帯ならスピーカーが付いてるでしょう?」



「イトーが知ってる曲、あるかな」



「ここねに任せるよ、楽しい曲がいいな!」



(Track 211/559:噓をつく唇 東京スカパラダイスオーケストラ)




イトーと紅茶を囲みながら音楽を聞いていたのも束の間(いや、実際には一時間くらい経っていたかもしれない、楽しい時間はあっという間だ)。ロッジで紅茶を囲んでいるのは二人から三人、一人増えた。



「や、どうも糸遊先輩と泉、泉……、そうだ、泉崎先輩」



「平河、その取ってつけたような先輩呼び、やめてくれない?」



「ははははは、高校では上下関係が大事ですから。あ、クソ不味レーションは結構ですよ。食レポは泉崎先輩がやってくれましたからね、二番煎じは紅茶だけで十分です、ははは」



感情のこもっていない乾いた笑い声。ニット帽とマフラーで頭部を覆った中性的な少女(少年?)平河玲はイトーの知り合いで、情報屋らしい……それより、ニット帽が私と被っていて気に入らない。



なんだって良いし、どうだって良いけれど。



「水臭いじゃあないですか先輩、滑川は丁度こっちでもマークしていましたから。言ってくれれば幾らでも、情報提供したんですよ?」



「一々君に“仕事”として頼んでいたら、私のお小遣いじゃ足りないんだよ」



実際にやっている人を初めて見た。指でダブルクオーテーションを作る、いわゆるフィンガークオート。イトーはもしかして、帰国子女だったりするのだろうか?



「ま、買ってもらえるならなんでもいいです」



前払いでお願いします。と小切手に目玉が飛び出すような金額が記入され、署名と烙印が終わると、やはり乾いた笑い声と笑顔で、平河玲は仕事を始めた。



「さて、ここからしばらくは、この平河玲が語らせていただきますよ。今回、生徒会主催で開催された『ラブマゲドン』ですが、なんと生徒会長の木下礼慈はただのマリオネット、真の黒幕は——あ、そうだ泉崎先輩」



「な、なんですか」



「なんかカッコイイBGMくださいよ」



「えと、さっき、章変えしたばかり、なのだけど……」



「堅いこと言わないでくださいよ~ほら、ちょっと今回だけオマケつけときますから」





(Track 19/559:MAN HUMAN 電気グルーヴ)






コホン、ではカギかっこも取れて、開放感も出たところで、続きを始めましょうか。今回の黒幕はなんと、生徒会副会長の滑川ぬめ子というオチでした。「あいつ、プロローグ公開された時から怪しいと思ってたんだよなァ、俺」という参加者諸兄は多いでしょう。ま、別に今回はミステリーではないので、どうでもいいのです……いや、「なんだって良いし、どうだって良いけれど」ですかね? ははは。

 で、今回の私の仕事は『解釈の固定』なんですね~ハイ。情報屋としては法外な報酬をいただいての仕事、この『流言私語』は不安定な世界の改変くらい朝飯前ってわけですよ。あ、『wikiのキャラ設定にはそんな大きなことはできませんって書いてあった』って顔をしていますね? ご心配なさらず。『能力による自己改変は、ある程度可能な範疇』と記載があります、セーフです。



ここまでサラサラ読み進めて、ちょっとエモーショナルな雰囲気でいちゃつく先輩方のハイライト、しっかりラブマゲドンの趣旨通りドキドキして頂いたところで「結局、前半何の話だっけ?」「“黙れ”で埋まった原稿しか記憶にない」「あれだけ設定盛って、ちゃんとぬめ子倒せるの?」などなどあるでしょうから。



あやふやな部分は読み返さずともこの章だけ読んでおけばオールオッケーってわけです。



さ、まず滑川ぬめ子の今回の目的、動機づけですけれど。滑川自体はただの“ガワ”で、あれは希望崎学園の生徒ではありません。外部の人間——まあ、言葉が通じるからここでは人間ってことにしておきましょう。魔人もギリギリ人間かどうか怪しい人、よくいますから、ははは。

 あれの中身は『滑川ぬめ子の粘液を苗床として増殖する“何か”』というのがこちらの観察できた情報における見解です。名前が無くて不便なので『ラブマゲドンの魔物』とでも呼びましょうか。ここまで分かれば、人間としてプロファイリングして動機を探すより、シンプルに考えられます。奴の行動原理は先述の通り『増殖』、この一点です。

 操られた生徒会長の木下礼慈や先生方、ゾンビと化した一部の生徒たち、そしてラブマゲドン。全てはラブマゲドンの魔物が増殖して仲間を増やすための行動だったと断定できます。(ところでスナイパーあたるはここまでノータッチですが、今作では『スナイパーあたるは、実はAI搭載の人工衛星だったので、最初に与えられたラブマゲドンのルールに反することは無い』とします。『滑川ぬめ子の命令で、反乱分子への無差別攻撃が可能』なんて解釈への対策ですね)



 ここで少し疑問なのが、増殖活動をゲームとしてラブマゲドンにカモフラージュしたのはなぜなのか、ですが。例えば、こういう仮説はどうでしょう。滑川ぬめ子がラブマゲドンの魔物の苗床となれたこと。これが奇跡的なケースで、殆どが苗床として機能しない、ただのマリオネットにしかならない。そう、本当に求めていたのは『対等な関係の同種』だったのではないでしょうか? 『レジェンダリー木下』の確立操作をゲームに組み込み、苗床としての適性のある人間を引き当てる確率を上げようとしていた、とか。ま、この場合、幸運の方なのか不幸の方なのかは知らないですけど。



そしてもう一つの仮説ですが……あ、いや。これは仮説以下の妄想なので、あまり考慮しなくていいですけど。ラブマゲドンの魔物は純粋に『愛の在り方』を知りたかったのではないか、という……ははは、いやはや、我ながらこれは臭いこと言っていて、黒歴史確定って感じですが。



さ、そろそろ長ったらしいモノローグも飽きたでしょうから、まとめに入りますね。読み飛ばしていても、ここだけ読んでおけばこの章は読んだのも同然です。



 今回の先輩方の勝利条件は『滑川ぬめ子及び、ラブマゲドンの魔物の殺害』です。



手段は問いません、絶命させればその時点で勝ちです。今回のゲームの敗北ペナルティーを破綻させればいいってことですね。



以上になりますが、ご不満、ご不明な点がございましたら、どうぞ。





(Track 311/559:Bali Bali Baahubali Yazin Nizar)




「え? 待って泉崎先輩、なんでバーフバリ? もっとオシャレでスタイリッシュなのありますよね?」



「話長くて、眠かった、あと……バーフバリ、好きだから」



「ダメですダメダメ! 作品の雰囲気を損ねます!!」





(Track 373/559:ブルートレイン ASIAN KUNG-FU GENERATION)






 まったく困りますよ泉崎先輩と、何故か聞いている音楽にケチをつけられた。それより困るのは、第四の壁に穴をボコボコ空けて、メタ発言をしまくるあなたの方だ。



「元は舞台演劇の用語なんですけどね。文芸ではその表現、もしかしてギリギリかも? ま、細かいことはいいです。なんだって良いし、どうだって良いです」



「……マネ、しないで」



「おっと失礼、これは地の文だけって約束でした。ははは、このセリフ好きなんですよね」



「白河、質問をしたいのだけれど」



「ん? ああ、はいはいどうぞ、糸遊先輩」



「君がさっきから大事に抱えている箱は……」



「お、気づきました? ははは、預かって来た先輩の仕事道具ですよ」



 わざとらしい演技をしながら取り出したそれは、スパイ映画なんかでよく見る形状だった。鍵がついていて、黒塗りで、いかにも丈夫そうで……そう、銃火器の保管に使うようなそれを、イトーはとても渋い顔をして受け取った。



「じゃあ仕事も終わったんで帰ります、糸遊先輩。数日中に上から正式に作戦行動の許可が下りると思うので、よろしくお願いしますよ」



「……ああ、“やる”って言っておいて」



 そそくさと出ていった白河玲を見送ると、イトーはテーブルに突っ伏して、深いため息を漏らす。これまでにないほど、深刻そうな顔をしていた。これまでは私を不安にさせまいと、必死に自分を殺して、明るく振舞っていたのであろう。



「ここね」



「な、なに……?」



「遊ぼう、今日から何日か、二人で……そう、楽しいことをして」



「……」



「ねえお願い、ちょっとだけ……付き合って?」



溢れだした感情を手で受け止められず、こぼれてどうしようもなくなっているくせに、一生懸命に、いつもの柔らかな笑顔を作ろうとしたその顔は、酷く歪に見えた。私にそんな、死ぬ前の最後のワガママみたいな言い方、してほしくなかった。



……けれど、糸遊兼雲にとっての仕事の重みや、その一線を踏み越えることへの躊躇いの根源は、私には分かってあげられない。



『人を殺すことが正当化できる理由なんて無い』『殺したり傷つけたりの貸し借りは必ず帰ってくるから』どちらもイトーは、自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。私はまだ人を殺したことがないし、純粋な殺意を向けられたことも、向けたこともない。だからその怯えを、理解してあげられない。



「ごめんなさい、ちょっと、外の空気、吸ってくる」



「……あぁ、うん、行っておいで」



私はロッジを出ると、ボートが停泊する桟橋に向かってトボトボ歩き出す。暖かかったあの場所が、一瞬嫌な場所になってしまった気がして、そう考えるが怖くて。潮の香りが混じった冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸う。羊の様に着込んでいたけれど、頬と唇はすぐに冷たくなった。桟橋に転がる石ころを意味もなく蹴って遊んでいると、先程出ていった白河玲を見つけた。乗り物も無しに、どうやってここへ来たのだろうと思っていたけれど、なるほど、海路で来ていたのか。



「やや、泉崎先輩、どうされました?」



「別に」



今日初めて会ったばかりだが、私は平河玲が苦手かもしれない……いや、私は平河玲のことが嫌いだ。もちろん協力者として感謝はしているのだけれど。この人の立ち振る舞いから、中身に含まれた邪悪が、透けて見えるようで、怖い。



「見えるってことは、先輩の中にも同じ邪悪が在るってことですよ、ははは。いわゆる、同族嫌悪って奴ですかね。ま、邪悪を飼いならしている分、こちらの方が悪質なのは認めますが」



ははは、とやはり感情のこもっていない、乾いた笑い声で嘲る。



「そんな睨まないでくださいよ、怖いなぁ、糸遊先輩を横取りなんて考えていませんから、ははははは」



「なにが、言いたいの」



「そうそう、すっかり忘れていましたけど、BGMのお礼、仕事のオマケです」



白河玲がマフラーの裏に隠した口元が、隠し切れない邪悪で歪んだのが分かった。私に明確な悪意を向けてドロドロの重い感情を流し込むように。言葉を紡ぐ。





『泉崎ここねさん、あなたは糸遊兼雲のことが好きですよね?』





「……」



「ははは、分かりますよ、糸遊先輩カッコイイもんなぁ、恋愛に奥手なメンヘラ女子がコロッといってしまうのも仕方ないですって、はははははは。サクッと告白して、キスでもセックスでもしてしまえばいいんですよ。あ、それとも『困らせたくないから、この気持ちは仕舞っておこう』ってやつですか? 実際、女の子同士って結構アブノーマルですからね! 『けれど感情は溢れて止まらない』なんてダブルバインド! 良いですねえ! 流石主人公です! 健気だなぁ、実に、実に、泉崎先輩らしい! 小さくて、可愛くて、繊細で、脆くて、儚げで、そしてしたたかでいて、邪悪だ」



「……」



「あっれ~、やらないんですか? いつもの『黙れ!』って奴、なんだ~つまんな~い」



「あなた、私のこと嫌いでしょう」



「はい! とても嫌いです!」



「あなたの事は壊さない、イトーに迷惑がかかるから」



呼吸はあまり乱れていない、気持ちも少し昂ぶりそうになったけれど、抑え込めた。逃げずに向き合って、向けられた邪悪をしっかりと受けとめる。きっと、まずはこれが第一歩。



「…………え、なにそれ、それだけ?」



邪悪にゆがんだ顔は、全ての表情筋を失ったが如くフラットに戻った。



「ははは……なんか本当につまらなく仕上がっちゃったなぁ、泉崎ここねさん。始まる前は、もっとぶっ壊しがいがあるオモチャだと思っていたんですけれど。出遅れたって感じで非常に残念です……が、まあそれは良いです。ぶっ壊れる泉崎ここねさんは他の人のSSで見られれば、こちらとしては満足なので」



「それは、残念……私も、躊躇無くあなたの事ぶっ壊せていたら、最高、だった」



「はぁ~~~~~~(クソデカため息)あ、なんかもういいですよ、泉崎先輩には飽きちゃいましたし、大人しく帰りますんで。あーあ、完全に敵に塩を送っただけになってしまった、この平河玲一生の不覚です」



「塩?」



「もうこの際、金だってダイアモンドだっておまけしておきますよ……良いですか、なんでも忘れる馬鹿な脳みそにきちんと刻み込んでおいてください。この能力は『白河玲が発言すれば、不確定な事柄や情報は言った通りのものが正史、事実となる』って話です、それを踏まえた上で教えてあげますけど」



「ここだけの話『今の憔悴した糸遊兼雲は、心の支えとなる人間を欲していて、泉崎ここねの告白を拒むことは絶対に無い』……かも、しれません、ははははは」



「……そんな、打算的なやり方、嫌」



「はははははははははは、恋愛モノの筋書きとは、得てして打算で構築されるものです。その思いが本物なら、この好機をえいやと掴み取る勇気を持てばよいのです。泉崎先輩、応援していますよ」



「……ありがと」



「礼には及びません、仕事ですから、ははは」





(Track3/559:ハーフムーン OKAMOTO‘S)






「戻ったよ、イトー」



「おかえり、外、寒かったでしょう」



こっちおいで、と暖炉の前で毛布に包まっている彼女は、手招きする。二人羽織のような格好で、私は抱きかかえられていた。見上げた時、もう、彼女はいつもの顔に戻っていたけれど。



「ここねの頬っぺた冷た~い、あはは」



「……イトー」



「何~?」



「私の前では、あまり強がらないで……いいよ」



「え~? 何の話——あれ」



ポロポロと涙が溢れ出す。『論理否定』の一回目は建前や気遣いを壊し、本性を引きずり出す。本当は……あまり使いたくなかったけれど。イトーの弱みに漬け込んで依存させるのは、なんだか卑怯じゃあないか。まるで、平河玲の教えたやり口と同じだ。



「イトーが、私のこと、不安にさせないように、頑張ってくれてるのは、知ってる。ありがとう。でも、イトーだって、一人で頑張り続けるのは、辛い、でしょ?」



「辛く……ないよ、そんなことない」



キュッと、私を抱きしめる腕に力が入る。背中で、イトーの呼吸が徐々に乱れていくのが分かった。そして、震えた声で言葉を続ける。



「……ここね」



「いいんだよ、今は、私の前では」



それでも私は、平河玲の言う通り……糸遊兼雲のことが好きなのだ。たった一週間ぽっちの付き合いで、まだお互い知らないことだってたくさんあるけれど。中学生のあの時以来、私の中から久しく失われていたそれが、自分の中に芽生えているのがはっきりと分かった。



……だから、打算的だって卑怯だって、構うものか。



「イトー、あなたの事……好きになった」



「ずっと傍にいる。あなたが、どんな過去を持っていたって、これから、どんなことをしたって、ずっと、あなたの味方でいる、絶対に一人に、しない、一緒に、いさせて」



「ダメ……ダメだって、私と深く関わっちゃ……私は、人殺しだから……」



「関係ない」



「でも——」



次の言葉までは、言わせなかった。



熱い血が通った唇は触れ合う。首に回した腕の感覚から、イトーのうなじが火照ってじっとりと湿っているのが分かった。吐息は荒くなり、お互いに強く求め合っていく。また血の味がした、さっき突っ伏していた時、唇を噛んでいたのかもしれない。傷から染み出したそれを残らず舐めとる。表情筋が蕩けていく、身体の奥がキュッと絞めつけられる感覚で呼吸が苦しくなる、でも嫌じゃあない。



さっきまで何か色々考えていたはずだったけれど、何だったか。多幸感が脳を支配し、思考力が溶けていく。体勢がきつかったので床に押し倒した。昨日とは逆に、私が彼女に馬乗りになる。仰向けになったイトーは、幼い少女のように涙を浮かべ、混乱と怯えでこわばった顔で、それが、とても……とても愛おしくて。



「愛してる、イトー」



言葉は論理を介さず漏れ出ていく。強く抱きしめる、非力な私の腕にできる精一杯で。ドクドクと鼓動が響いて、私は彼女の中に沈み込む。嗚咽を漏らした口をもう一度塞ぐ。今度はもっと深く、ずっと奥へ、全てが蕩けて混ざりあう。



血の味が混じった唾液を飲み込み、首筋に指冷えきった指先を這わせる。いきなり冷たいものをあてたものだから、少し驚かせてしまったけれど。抱き起して、鎖骨からうなじにかけて軽く爪を立てて撫でる。骨や太い神経の近くを掠める度に、イトーは初めて聞く甘い声色で鳴く。ビクビクと痙攣して、必死に私にしがみつく姿は、なんだか大きな赤ん坊の様だった。



「あ、あの……うなじはもう許して、ください。そこ、とっても弱いんで……」



「ダメ」



うなじを手で守るので、仕方なく耳をしゃぶって嚙みついて。それから首に、肩に、胸に、腰に、太ももに。キスマーク以上の嚙み痕をつけてマーキングし終わるころには、また日も沈みかけていた。



私がこんな余計な知識や技術を身に着けるようになったきっかけは、やはりあの男との一件のあと。色々思う事があった時期。破滅願望や自殺願望の元、私はクラブやら夜の街で、遊び歩いていた。思えば、その頃から女の子同士で遊ぶことはしばしばあって。同性を好きになること自体に、抵抗はなかった。



回り回って、今日のこの時に繋がっていたのなら。腐った生卵の18年間にも、少しくらいは価値が見いだせるかもしれない。



イトーの身体は、やはり至る所が傷痕だらけで。それを恥ずかしがって、肌の露出が極力無い服を選んでいるらしいのだけれど。もう隅から隅まで見てしまったので、二人きりの時は、もっと可愛らしい服を着てくれるかもしれない。



そうだ、来年の夏は一緒に海に行こう。二人きりになれる砂浜で、日が暮れるまで遊ぼう。そんな約束をして、眠りについた。





(Track 2/559:Beautiful One Day OKAMOTO‘S)






一週間、夢のような時間だった。同じ毛布で目を覚まし、一緒に紅茶と不味い行動食を食べて、平日の学校をサボって色んな所で遊んだ。



イトーのバイク(DUCATIのScrambler Classicという機種なのだと力説されたが、バイクの違いはよく分からない)に乗って海岸線を駆けて、冷たい潮風を浴びる。とても大きいと思っていた学園の敷地が、小一時間もかからず一周できるのだと知った。誰もいない広場でバスケットボールの1on1をしたり、焚き火や野営のやり方を教えてもらったり。星を眺めて音楽を聞きながら、お互いのどうでもいい思い出話をたくさんした。



実に、実に充実していて。私が生きたこれまでのどの時間よりも、素晴らしい日々だった。



そして12月17日、二度目のジャッジの日。



「ここね、それ触っちゃダメ」



法被の下に仕事道具を装着していくのを手伝っていた時のこと。たまたま目に付いた本物の鉄砲が物珍しくて、つい手に取ろうとしてしまって。怒られた。



「ごめん、玩具の鉄砲しか、見たことなかったから」



「あ~、いや、また癖なんだけど。銃は基本、登録した所持者しか触っちゃダメって教えられるからさ」



意味もなく後ろから抱きつく。着替えにくいから、と引き剝がされたので、仕方なく右腕を抱え込む。呆れ気味にため息を付くと、片手で作業を始める。



「それ、意外と小さいね」



「これは特別小さいんだよ、フルサイズの1911はもう少し大きい」



「何の数字?」



「1911はコルト・ファイアアームズの45口径自動拳銃が米軍に正式採用された年で。M1911は名前をそこから取っているんだけど、ガバメントの通称の方が有名かな? 100年も前に設計された銃なのにその堅実な動作性能からまだまだ現役で使われていて、以降多くのカスタムモデルが開発された。それで、その一つがこのデトニクスコンバットマスター、コンシールドキャリー運用を想定して設計されたコンパクトピストルなのさ。小さくたって45口径。これには内部構造を切り詰めるために、エンジニアの設計とガンスミスの卓越した技術が……あれ」



「喋ってないで、早く着替えて」



「……いや違うんだよ、その、仕事道具だから。ちゃんと知っとかないと、ね?」



「心配しなくても、イトーはずっと、オタクっぽいと思ってた」



「酷い!」



特別に、弾倉の弾込めは手伝わせてもらった。事故防止と、スプリングが痛むから、保管するときは弾倉から弾をすべて抜いておくらしい。



「これ、一つ持っていて」



「弾もダメじゃあないの? 人にあげたり、したら」



「うん、見つかったら絶対怒られる」



「イトー……」



「お守り! 一発はポケットに入れて持っておくことにしてる!」



「……そう」



着替え終わったイトーは、別人のような雰囲気を漂わせていた。それが、ずっと押し殺していた、仕事をする時の糸遊兼雲なのだろう。お守りの話を最後に、あまり無駄口を叩かなくなった糸遊兼雲と私は、まだ夜も明けない午前零時。再び、旧校舎に立っていた。



「各国の軍では、一部の特殊部隊を除いて、魔人を特別に贔屓して集めてはいない。訓練課程を終えた軍人とそこそこの加害能力を持った魔人では、前者の方が強いからだけど」



「魔人は不死じゃあないし、銃で撃てば死ぬ。私たちの部隊ではそう教わる」



「よく見ていて、ここね……私は今日」



また、人を殺すから。





(Track 558/559:校庭の隅に二人、風が吹いて今なら言えるかな クリープハイプ)






プールサイドに焼けたプラスチックのような、酷い臭いの煙が立ち込め始めたことに最初に気づいたのは、傀儡となった木下礼慈だった。ラブマゲドンの魔物の眷属たちは、脳の奥でぴちゃぴちゃ、ちゅぱちゅぱと鳴り続ける、遠く深い水音の波紋で会話する。だから無言のまま眷属たちに異変を伝え、母親である滑川ぬめ子の指示を待った。程なくして『校舎内の敵対者を警戒、見つけ次第殺せ』という命令を受け取り、のそのそとプールから出ていった。



一方滑川ぬめ子——ラブマゲドンの魔物は、プールに漬かって、物思いにふけっていた。ただ、本能に従って増殖活動を続けてはいるが、一体自分は何者なのか。ただの下等生物だった自分がこうなったのは、なぜなのか。『愛』とは何なのか。



あまりに高度な知能を得てしまったが故、考えを巡らせることが止まらない。何もしていないと、頭は耐え難い不快感がして、不安に駆られて鬱になる。



バン、と扉を開ける音がした。知らない? いや、あれは見たことがある。耳を粘液で覆い、声を塞ぐ。会話は聞こえなくとも、脳波から大まかな感情は理解している、問題ない。焦りと怯えの混じった感情で、何だか喧しく喚き散らしたかと思うと、大声を上げながら逃げ出そうとしたので追いかける。逃げる者は追うものだ、そう刷り込まれている。



追いかけ、出入口を走り抜けたところで、自分の体がない事に気がつく。



そして、宙を舞う頭部の視野から、別の人間を確認できた。



「いや、首を撥ねられたんなら、死んでよ」



「あ、あなた……私の傀儡の臭いがする、何体か、壊した……?」



「道すがら邪魔だったのでね、残りは相棒がやってくれている」



みんな首を落とせばちゃんと死んだけど、親玉はそうはいかないか、と苦笑する。



「……ふうん」



刃渡り60センチメートルほどの剣鉈を握りしめ、マスクで口元を覆ったそれも、見たことがあった。床に落ちた頭部と首の切断面を接ぎ合わせると。苗床に擬態するために使っていた、偽装人格としての滑川ぬめ子ではなく、本来のラブマゲドンの魔物の私として向き合う。



「ずっと探していたんですよ、あなたのこと。本来アメーバの群体から偶発的に発生した、集合的知性程度の曖昧な概念が、急に『ラブマゲドンの魔物』なんていう一つの存在として定義されて人格を獲得したものですから……ふふふ、ひょんなこともあるものね」



彼女から、疑いと驚きの混じった脳波を感じる。



「じゃあ君は、ただシステムとして機械的に『増殖活動』だけを行っていた概念的存在から……人間になったとでも?」



「ええ、この通り。人の肉を被り、対話可能な程度の知能を持った人格が中に入っているので、人間と同等とまではいかずとも、立派に知的生命体です」



「……滑川ぬめ子は、やはりもう死んでいるのか」



「死をどう定義するかによりますが。以前あなた方の前で話していた私は、私が操作する苗床の人格のコピーで、滑川ぬめ子の人格はすでに崩壊していますので、死んでいる、とも言えますね」



「そうか……教えてくれてありがとう」



「どういたしまして」



「……首を撥ねたのは謝るよ。まだ遅くないとは思うんだけれど、私たちと共存するって道は無いかな?」



「無い」



「だろうね」



「なら聞かないで」



はははははは、と笑いあった。奇妙だ、彼女は私を殺すべき敵ではなく、あくまで一人の人間として交渉しようとしているのが分かる。きっと、良い人なのだろう。私がきちんと、人間として生を受けていたならば、友達というやつにもなれたかもしれない。



私は、それに強い憧れを抱いていた。対等に言葉を交わし、共に歩める存在を、本能で求めていた。結局、仲間を作ることに、ことごとく失敗した私は、従順な子供たちを増やすばかりで。やはり愛を知らないまま、孤独だった。



ホラーにおける怪物の三原則。一つ、怪物は言葉を発してはなけない。一つ、怪物は正体不明でなければならない。一つ、怪物は不死身でなければならない。生まれたばかりの私は、これを忠実に守っていた。



だからこそ、ラブマゲドンの魔物として誕生したのだけれど。



怪物としての私と、人間のような自我が芽生えた私。本能では増殖活動を妨げる彼女を排除しようとする反面、彼女ともっと話をしてみたいと思う私もいる。二律背反、私の原理的欲求は『愛を知りたい』だが、根底から矛盾しているのだ。怪物としての私は、愛を求めるにはあまりにも不格好。



分かっている。私は怪物で、彼女は人間。



釣り合いが取れないのは、秤にかけるまでもない。



だから、これから私が彼女と戦うのは、ただの八つ当たりでしかない。12月10日、あの時から一緒にいた、あの小さくて可愛らしい少女と、穏やかで暖かい絆で結ばれていることを示す脳波を聞いてしまったから。そして、それに手が届かないということも理解してしまったから。目の前で見せつけられてなお、概念を理解してなお——



——やはり、私に愛を手に入れることは、叶わないのだから。



「陸上自衛隊普通科魔人中隊所属、糸遊兼雲一等陸士、今から君を殺す者の名だ」



「ラブマゲドンの魔物、愛を知らない獣の名です」





(Track 559/559:Prayer X King Gnu)






そう私が言い終わるか終わらないかのうちに、カンッと金属製の物が床で跳ねる音がすると、鋭い音と閃光が走った。反射的に首を守る。肉が削がれ骨が砕ける鈍い衝撃。右腕が引きちぎられ、割れた窓から屋外の回収出来ない距離まで放り投げられたのが、細胞同士の交信が切れたことで分かる。



片腕と聴覚と視覚は奪われたが、振動を感じる触覚と、体臭を嗅ぎ分ける嗅覚、脳波を聞く感覚は生きている、十分だ。



右腕の断面から細く長く伸ばした触手の感覚を頼りに視覚を補うのは、遠い昔の記憶、私がアメーバだったころのそれと近くてなんだか懐かしかった。走る彼女を指先に感じる、私はそれを追う。ただそれだけ、そのはずなのに、これは初めての感覚だ。人間の言葉でいうところの『楽しい』や『嬉しい』が、確かに私の中にある。



思えば、対等に誰かと言葉を交わせたのはこれが初めてだったかもしれない。



しかし、ふっと彼女は消えてしまった。建物の中に戻ると、煙のせいで彼女の臭いは見失ってしまう。何処かに身を潜めているのか、足音も聞こえない。



ただ、彼女の脳波だけを確かに感じる。乱れの無い張りつめた糸の様に静かで、穏やかだ。



「糸遊兼雲、どこにいるのです、隠れても無駄ですよ」



探す、ひび割れたタイル。探す、生い茂った葦。探す、風化したガラス片。探す、どこだ、どこに行ってしまったんだ。私を置いてどこかに行ってしまったのか?



「糸遊兼雲、私を殺すのでしょう? 私はここですよ」



探す、探す、探す。どこにもいない、何故だ、どうして私を殺しに来ない。私を一人にしないでくれ、もっと話をしよう、傷つけあって殺しあおう。対等になれたかもしれないあなたと、最後のこの瞬間を少しでも長く感じていたいのに。どうして出てこないんだ。



「糸遊兼雲……」



心がかき乱される。不安、焦り、恐怖。発達し過ぎた知性は凄まじい速度で、あらゆる仮定や仮説を立て始め、脳をギリギリと圧迫していく。苦しい、頭に不快感が満ちる。



「……私を、一人にしないで」



「ああ、ここにいるよ」



プールの水面が揺れ、続いてタァン!と乾いた破裂音がプールに響き渡り、支えを失ってぐらりとよろめいた。どうやら苗床の膝関節の骨が砕けたようだ。私が再生できるのは、骨を覆っている皮膚や筋線維などの柔らかい部位だけ。骨の形は再現できても、自重を支えられるほどの強度は無い。



糸遊兼雲も私から探っている。一度目の攻撃で通常攻撃の有効性。二度目の攻撃から切断部位の再生方法。観察し、予測し、三度目で決定した。



私の骨を削りに来ている。



「でもそこは私の体の中ですよ!!」



「織り込み済みさ」



ドゴン、と地響きのような爆発音。プールに貯蓄してある私の肉体が重力に負けて落ちていく、流出していく、水に混じり、太い管から遠く、遠くへ。傀儡たちと粘液は、その圧倒的物量によって切り札足りえたが。ここにあった傀儡は身体の損傷が激しく、粘液につけておかなければ長くは持たないし。粘液は鈍重で軟らかく、プールなどの入れ物に入れておかなければ、容易に水に溶けだし、地面にしみこんでしまう。



悪あがきだが、残った粘液や傀儡をまとわりつかせて溺れさせることを試みる。しかし、プールサイドに体が安全帯で繋がれているのか、奥までは引き込めない。穴から一緒に流してやれば溺死も狙えたが失敗。それから脳への侵入、耳、鼻、口、どこも栓で塞がれている。彼女が窒息するのと、彼女を包み込んでいた一部も含めて私の体が流れ出し尽くすこと、どちらが早かったかは言うまでもない。



「……あは、正気とは思えませんわ、あなた」



咽ながら安全帯を外した彼女は、濡れてベトベトにへばりついた前髪をかき上げた。



「運には恵まれている方でね」



プールに空いた大穴から吹き込む風で、煙が晴れていく。もう一度はっきりと彼女を視認し、今度こそ正面から向かい合う。今度は逃げも隠れもできない。



彼女は構える、剣鉈と拳銃の切っ先がむき出しの殺意を痛いほどに向けて——



——先に気付いたのは私の方だった、ドスドスと遠くから足音がしている。彼女は私に意識を向けていてか、耳栓をしているせいか、直前までそれに気付けなかった。



これは、この脳波は。



「木下礼慈!?」



二メートルの大男は狂人のように乱暴な走り方でプールに現れると、糸遊兼雲をみつけるなり飛びかかった、押し倒し、馬乗りになって殴りつける。拳銃で頭部へ五発、スクランブルエッグのようにぐちゃぐちゃになっても尚、勢いは衰えることを知らない。もはや私の命令信号すら受けつけず、脊髄反射だけで殴れという命令を実行し続けている。



彼女は空になった拳銃を投げ捨て、頭と胸を守る。傀儡は脳のリミッターを無視して人体を動かせるから、あの一発一発がどれだけ重いことか。己の拳が砕け、骨がひび割れ、肉や腱が千切れようとお構いなしだ。



「や、やめなさい! その人は——」



キンっ、と何かが作動する音。防御に使っていた左腕を手刀にして木下礼慈の胸に突き立てる。



「ジョーカーだ」



派手な爆破音。はじけ飛んだ義手の金属片が肺を、心臓を、脊髄を貫いた。木下礼慈の背中はスイカのように弾ける。倒れかかってきた木下礼慈の死体を押しのけて、彼女は立ち上がる。



「……これ、使うとロックマンってバカにされるから、嫌なんだよ。知ってる? ロックマン」



手首から先は吹き飛び、肘から先が筒状に残され、煙をたなびかせている。穴の中から中敷きのような金属製のパーツを引き抜くと、剣鉈を筒に差し込んだ。



「ロックマンは知らないけれど。それは、ピーターパンのフック船長ね」



「ははは、そう来たか、良いね、フック船長」



青痣と切れた部分からの酷い出血。マスクを投げ捨てると、鼻血が中に溜まっていたようで、口元はおぞましいほど赤く染まっていた。



「待たせたね、やろうか」



「……ええ、ええ! もちろん!」



無邪気な子供は勢い良く駆け出す。軍人は投げ捨てた拳銃を拾い上げ、新しい弾倉を装填する。一歩目、二歩目——三歩目を踏み出す時には、膝が衝撃に耐えられず、派手に転んだ。問題ない、私は痛覚を知らない。立ち上がらず四つ足で駆ける。銃口が三度跳ねて、一発が左腕の肘を破壊する。問題ない、肘から上で這うように進む。飛びかかる、喉笛を狙う。剣鉈の切っ先が胸を貫き、人体として内蔵が機能していた部分の感覚が遠のいていく。ボタボタと、まだ少し温かい血液はこぼれ落ちていく。延命させ続けていた苗床は、今完全に死んでしまった。だが問題ない。問題ない。問題ない。



最後のこの瞬間、たった一つだけ言えたなら。



「糸遊兼雲、私を見て」



「ああ、見てる」



「ずっと……長い悪夢のようだった。でも、最後に看取ってくれるのがあなたでよかった、そう思えるわ」



「……ああ、私もそう思う」



45.ACP弾は、私の頭蓋を優しくかき回す。





(Track1/559: Dance With me OKAMOTO‘S)




後日譚、語るほどでもないエピローグ。



糸遊兼雲の活躍でラブマゲドンの魔物は殺害され、今回の騒動は一旦の解決となる。スナイパーあたるの存在によって、12月25日までは取り残された私たちは学校から出ることはできなかったけれど、それだけ。それでラブマゲドンの全行程は終了した。



彼女がラブマゲドンの魔物と死闘を繰り広げているころのこと。私はひたすら逃げ回って、イトーの用意した落とし穴やトラばさみなんかのトラップにゾンビたちを誘導、良いシーンで邪魔が入らないように頑張っていた。



ちゃんと頑張っていたのである、えへん。



イトーは、『理事長が格率補正を起こしたせいで、アメーバが突然変異として本来起こしえない極低確率の可能性を引き当ててラブマゲドンの魔物は発生してしまったんじゃあ……』などとぶつぶつ言っていたが、事後処理や報告書の内容までは私の知ったことでは無い。



終わったことだ。なんだって良いし、どうだって良い。



さておき、事件終結後からラブマゲドン脱出までの一週間の話をここでは後日譚としておこう。



学園敷地内のとあるカフェの一角、私はとある人物にこれまでの経緯を語って聞かせている。



「イトーの方は聞いた話だけれど、そんな感じだったみたい」



「仕事はきっちり功を奏していたようですね、ははは」



白河玲はやはり、感情のこもっていない乾いた声で笑う。一息つくとコーヒーの残りをすすり上げ、通りかかった店員におかわりを頼んでいた。私は猫舌で苦いのも苦手で、砂糖とミルクをいっぱい入れてチビチビ飲んでいたから、まだ半分も減っていない。



「泉崎先輩、何だかハキハキ喋れるようになりましたね」



「そう?」



「はい! 以前は途切れ途切れでたどたどしい、どこか危うくも幼くて儚げな感じで『こいつ、自称ゆるふわ小動物系って感じのクソメンヘラ女でマジきもいな』って思っていました!」



「そう? だとしたら変わるきっかけはイトーとあなたのおかげ、どうもありがとう」



「ははは、そういうの、マジで要らないんで」



白河玲はあからさまに拗ねた態度を取って声色を落とす。最近、この小生意気な後輩の扱いにも慣れてきた。見慣れてくれば、案外可愛いものである。



「で、糸遊先輩とはその後どうなのですか?」



「それが、どうもこうも無い」



私はてっきり、無言のうちに承諾してくれたものだと思っていたが。あの夜(OKAMOTO‘Sのハーフムーンを流していたころだ)、イトーに告白した返事は、なんと『保留中』なのだ。先日、彼女の部屋に泊めてもらった時に問いただして発覚した。



「うわぁ、糸遊兼雲最低ですね。ファンやめます」



「ありえない、本当に。あの時の私の思い切りを返してほしい」



「そうだ、糸遊先輩呼び出しましょうよ、今ここではっきり言わせましょう」



「良いね、仕事用の番号で呼び出して差し上げて」



似た者同士で悪巧みも上等。根底の性質に邪悪を抱えているのもお互い様。どうしようもなく最低なほど、お互いを嫌いあっているけれど。私達はこの後もちょこちょこ集まっては、お互いの近況や、糸遊兼雲について話したり話さなかったりするようになるのだけれど。それはまた別の機会に。



「糸遊兼雲様。さきほど、陸佐から直々にお呼び出しの連絡があったはずなのですが、お返事がございませんでしたので、お電話差し上げました……はい、場所は学園敷地内のカフェテリアです。GPSで座標を送ります。はい、ではまた後ほど。失礼します…………今すぐ来るって言ってましたよ、ちょろいですね~」



およそ十分、糸遊兼雲一等陸士は、私がコーヒーを飲み切る前に到着した。



「い、糸遊兼雲一等陸士ただいま参上いたし……あれ!? 陸佐は!?」



「遅い、糸遊兼雲一等陸士」



「遅いですよ、糸遊兼雲一等陸士、ははは」



「え、なんで君たち……? あ、ああああああ————————!!」



騙したな君たち!? と絶叫がカフェにこだまする。機嫌が悪い時に無理矢理抱き上げられた飼い猫のように喚く糸遊兼雲一等陸士をなだめ、一杯飲んで興奮が落ち着くのを待って話を始める。



「陸上自衛隊普通科魔人中隊所属、糸遊兼雲一等陸士、今日呼んだのは、他でもありません。泉崎先輩に対して保留にしている案件がありますよね?」



「う……」



苦虫を嚙み潰したような顔で、私から目を背ける。糸遊兼雲一等陸士はこんなでかい図体で、博愛主義者で、平和と平等を重んじる聖人志向で、尚且つあれ程の戦闘技能を持ちながら。



恋愛に関しては、筋金入りのド素人なのである。



「何を怖がっているんですか。陸上自衛隊普通科魔人中隊所属、糸遊兼雲一等陸士の万藩儿縁起体系・手引足抜繙自在鉄之帳をもってすれば。如何なる人間関係も、文字通り自在じゃあないですか」



「そう、陸上自衛隊普通科魔人中隊所属、糸遊兼雲一等陸士の万藩儿縁起体系・手引足抜繙自在鉄之帳があれば簡単」



「待って、何の罰ゲームなの」



「え? 陸上自衛隊普通科魔人中隊所属、糸遊兼雲一等陸士の万藩儿縁起体系・手引足抜繙自在鉄之帳でも解決できないほどの問題ですか?」



「早くして、陸上自衛隊普通科魔人中隊所属、糸遊兼雲一等陸士の万藩儿縁起体系・手引足抜繙自在鉄之帳があるでしょ」



「い、言いたいだけでしょ君たち!?」



「「陸上自衛隊普通科魔人中隊所属、糸遊兼雲一等陸士の万藩儿縁起体系・手引足抜繙自在鉄之帳」」



「おい白河!!! ここねも!!!!」



一度落ち着いた興奮は一瞬で再沸騰。熟れた林檎のように顔を真っ赤にして喚き散らすが。このくだりを先にやりだしたのはイトーの方なので、因果応報である。



「イトーがさっさと返事くれれば済む」



「んぐぅ~~~~~~~~~!」



冷や汗なのか、コーヒーを一気飲みしてかいた汗なのか(本人の前で言ったことはないけれど、イトーはかなり汗っかきである)。冬だというのに滝のような汗を顔に浮かべて、御手洗に席を立ち、顔を洗って戻ってきた。相変わらず顔は、熟れた林檎のように真っ赤であったけれど。私の前に立ち、おもむろに両腕を広げると。



「ここね! おいで!!」



私は犬か何かだと思われているのかもしれない。



「飼い犬ですかね———あ」



まぁ、なんだって良いし、どうだって良い。



私は飼い犬の様に駆けて、真っ赤になったイトーを抱きしめる。熱くなった身体、速まる鼓動が私の中に響いてくる。



「イトー、お返事は?」



「き、君さえ良ければ……その、これからも君の騎士様でい続けるよ……!」



「だから、なに? 比喩を使わないで、はっきり言って」



「わ、私も愛してるよ! ここね!!!」





「ありがとう、私も愛してるわ、イトー」



ありきたりで興ざめで。幸せなだけで語り終わってしまった、私たちの後日譚もここまで。



決して変化を望まない生卵。それが私の在り方だったけれど。どうあったって登場人物を変化させるのが物語というもので。



ならば泉崎ここねも、ヒヨコくらいにはなれただろうか。
最終更新:2018年12月10日 00:57