・暇つぶしのために乗っ取ってみる。短い乱文。
恋人とのいざこざで精神を病んでいた女友達曰く、
「だめになっちゃった時は私、夜中にふらっと外へ出ちゃうみたいなの。大抵記憶がなくて、気がついたら近所のスーパーの前とか、ドラッグストアの前とかにいて。しかも決まって裸足で。すごくふわふわとしてるの。すっきりしてるの。その前にあった嫌なことなんてどうでもよくなってて、好きな歌を歌いながら家まで帰るのよ。知ってる?裸足で歩くのって気持ちいいんだから」
そんなに重い症状とはいえないが、いわゆる躁鬱なのだろう。鬱状態で抑圧された精神が裸足で外を出歩くというある種の「解放」によって軽い躁状態へと裏返るのだ。
当時の僕はそう冷静に結論づけた。今もその考えは変わっていないが。
(日本が先進国で良かったな)
ひんやりとした感触、夜のアスファルト。ぺたぺたと歩けばなるほど、確かに彼女の言ったように心地よかった。このために、この感触のために国土交通省は地面をアスファルトで覆おうとやっきになっているんじゃなかろうか。だとしたら、彼女や僕は誰よりもその恩恵を享受しているわけだ。
夜中でも明々としているコンビニを視界の先に見つけて僕は足を止めた。流石に変な目で見られるかも知れない。
立ち止まっていると、足下のアスファルトが急速に冷たさを失って僕の体温になっていく。どこに立っているか分からなくなる。悲しくないわけがなかった。
彼女がいなくなった日だった。
@チャッピー
背筋をしゃんと伸ばして生きるのは難しい
ずるばっかりしてきたから
余計にこたえるんだ
@チャッピー
親父とは結構仲が良かった。小さい時は週末よく一緒に出かけたものだ。僕は水族館がお気に入りで、両手の指で足りないくらいには行ったと思う。
水族館までは親父が車を運転して、僕はいつも後部座席に座った。親父はヘビースモーカーで、僕はタバコの臭いが嫌いだった。特に親父の吸っていたタバコはきつい物だったのか、胃がむかむかしてひどく気持ち悪くなった。親父のタバコの煙から少しでも逃れようと、僕は後部座席の左側を指定席にしていた。
ひとり暮らしをしてからもう水族館に行くこともなくなった。もうそんな年でもない。
ふと、すれ違った歩きタバコの煙にひどい嫌悪感を覚えて振り返る。どこの誰ともしらない後ろ姿。吐きそうな感覚がだけが胃に残る。
——今頃どうしてるかな。
タバコの残り香のように、そんな思いも僕の中にしばらく留まって、なんでもない目的に流されてかすれて消えた。
@チャッピー
ドーナツショップは日曜の昼下がりで少し込んでいて、シナモンのきいたオールドファッションを買いに来た僕は列の最後尾に並んだ。
店内は暖房が効きすぎていて、僕の前に並んでいた女性がうざったそうに上着を脱いだ。ちらりと、イルカのピアスが揺れる。
よく知っているイルカだった。
「やあ」
と僕は彼女に言った。彼女は少しだけ僕の顔を眺めて、「久しぶり」と言った。意外なほどあっさりとした「久しぶり」だった。
「何してるの?」
「あなたと同じだと思うけど」
言外の意味が音もなく砕けるのを見届けてから、僕は「そうだね」と言った。
あるいは「何を買うの?」とか訊いても良かったかも知れない。でも「シナモンのきいたオールドファッション」と言われたら僕はどう返したらいいのかわからなかった。「僕もだよ」とでも言えばいいのだろうか?もちろんそんなこと無理だ。「シナモンのきいたオールドファッション」については僕よりも彼女の方が先なのだ。
「ここ、暑くない?」
と僕の格好を見て彼女が訊いた。
「寒いのは苦手だけど、暑いのは嫌いじゃないから」
わざわざ言う必要もないようなことだったが、彼女は「知ってる」とも「そうだったね」とも言わなかった。「そう」と小さく漏らしただけだった。
レジが二ついっぺんに空いた。僕はクリームのたっぷり入ったドーナツとチョコレートのかかったものを頼んだ。彼女の方をちらりと見ると、さっき脱いだ上着を着直しているところだった。「ここで」と僕は店員に告げた。
紙袋を抱えた彼女が僕の持ったトレイを見て「それじゃあ」と言った。僕は彼女の耳元で揺れるイルカに向かって「じゃあね」と言った。
@チャッピー