フィリピン内戦(1986-199X)
フィリピン内戦(1986-199X)とは、1986年からフィリピンで進行中の内戦。明確な停戦交渉は行われていないが、199X年で一時的に小康状態に陥ったことから、199X年年末に発表されたバンサモロ議会での「対反イスラーム防衛“努力”宣言」、および同時期に実行されたフィリピン共産党内の新人民軍クーデター(任意の名前の事件)とそれに続く党内粛清を基準として下記と区別される。
199X年初頭から激化したフィリピン内戦は
フィリピン内戦(199X)を参照。
フィリピン内戦(1986-199X) |
時 |
1986年2月22日~199X年X月X日 |
場所 |
フィリピン |
結果 |
ルソン島、ビサヤ諸島を領土とするフィリピン人民共和国の建国 |
ミンダナオ島、スールー諸島、パワラン島を領土とするバンサモロ・スールースルタン王国の事実上の独立 |
衝突した勢力 |
マルコス政権派 |
民主派(コラソン・アキノ派) |
フィリピン共産党 |
モロ民族解放戦線 |
スールー王国軍 |
フィリピン国家警察 |
マニラ司教座 |
ソビエト連邦(支援) |
モロ・イスラム解放戦線 |
ムスリム同胞団(支援) |
フィリピン陸軍(体制派) |
軍隊改革運動(ARM) |
バンサモロ議会 |
指揮官 |
フェルディナンド・マルコス♰ |
コラソン・アキノ(亡命) |
ホセ・マリア・シソン |
ヌル・ミスアリ |
ジャマルル・キラム3世 |
ファビアン・ベールNISA長官(亡命) |
フアン・ポンセ・エンリレ国防相♰ |
“将軍” |
サラマト・ハシム |
アグビムディン・キラム |
アントニオ・ソテロ空軍大佐♰ |
フィデル・ラモス参謀総長(亡命) |
アブドラガク・ジャンジャラーニ |
“ファッターフ・アル=イスラーム” |
アルテミオ・タディア陸軍准将♰ |
ハイメ・シン枢機卿♰ |
パロウク・フシン |
シャフィーク・アル=カジー |
被害者数 |
不明 |
不明 |
[任意の数] |
[任意の数] |
[任意の数] |
概要
フェルディナンド・マルコス大統領勢力とコラソン・アキノを大統領とする民主派勢力、そしてフィリピン共産党ならびにモロ民族解放戦線およびスールー王国軍、上記5勢力によるフィリピン国内での内戦である。199X年X月時点の報道によると、直接的な戦闘行為だけで約[任意の数]万人が死傷、ならびにフィリピン共産党政権およびモロ民族解放戦線-モロ・イスラム解放戦線間の抗争など政治的混乱によって約[任意の数]万人が別途死傷。[任意の数]万人以上が国内難民となっている。
また戦闘以外に政治システム全般の破綻や水道、衛生・医療システムの破壊により、マラリア・コレラなど感染症の蔓延も被害を広げている。反共主義を掲げてきたフェルディナンド・マルコス大統領側を最初期には
アメリカ合衆国、政権中期から末期にかけては日本連邦が、共産主義を掲げるフィリピン共産党をソ連が、モロ民族解放戦線などイスラーム過激派勢力をムスリム同胞団がそれぞれ支援する思想的な代理戦争という側面もある。犠牲者は199X年までのn+4年間で[任意の数]万人にまで増え、199X年に北ドイツ連邦と東ドイツ系メディアが相次いでフィリピン内戦における熾烈な戦闘と続く原理主義勢力同士の思想弾圧など相次ぐ人道危機に対する懸念を表明。次いで199X年西太平洋条約機構は「極東アジア地域における重大な人道危機である」として双方に即時の停戦を呼び掛けた。
199X年X月時点ではフィリピン共産党の武装組織である新人民軍の長官“将軍”率いる「フィリピン人民共和国」(以下北フィリピン)がルソン島の首都マニラおよびパラワン島を除くビサヤ諸島以北を、モロ民族解放戦線などイスラム教徒ミンダナオ自治地域議会とスールー王国復古派が綿密な協力関係を構築した後の諸イスラム過激派勢力によって構成される「バンサモロ・スールースルタン王国独立運動全モロ民族統一暫定自治政府」(以下南フィリピン)はパラワン島とスールー諸島およびミンダナオ島のダバオなど南部地域を実効支配している。北フィリピンはソ連や日本の支援を受けたマルコス政権や民主派勢力の武装を拿捕し運用。レイテ島からミンダナオ島に対する砲撃を実行している。対する南フィリピンはムスリム同胞団からの資金援助を受けて購入したロケット砲や民主派勢力側のフィリピン空軍から拿捕したF-4B戦闘機などを運用するなどで対抗しつつある。
背景
マルコス政権
1965年に就任したフェルディナンド・マルコス大統領は、
エドゥサ革命
詳細は「エドゥサ革命」を参照
1980年代のフィリピンでは、1983年のベニグノ・アキノ暗殺に伴う政治的不信からマルコス政権の打倒を望む声が高まっていた。マルコスはこれに対して1985年、ベニグノ・アキノ暗殺事件の容疑者として起訴された国軍参謀総長ファビアン・ベール大将に対する無罪判決を打ち出す。マニラ市民は裁判の公平性を疑い、マルコス政権の下で行われていた汚職や腐敗した政治に対する批判が相次いだ。
ただしファビアン・ベールに対しては参謀総長の任務を解かれ、フィリピンにおける諜報機関であるNSIAの長官としてのポストを割り当てられた。続く国軍参謀総長にはフィデル・ラモスが就任した。
1986年初頭、マルコスは国内外からの追及と不満を解消するために人気がいまだ残っているにもかかわらず大統領選挙を行うことを発表する。ベニグノ・アキノの妻であり自身も政治家であるコラソン・アキノは自身もマルコス現職大統領に対する対抗馬として立候補。フィリピン全土を回って反マルコス運動とマルコス長期政権の打倒を市民たちに呼びかけ、大きな支持を得た。
1986年2月7日、フィリピン大統領選挙が開催される。開票の結果、民間の選挙監視団体である「自由選挙のための全国運動」や公式な投票立会人らが「最終的な得票数ではコラソン・アキノが約80万票差で勝利した」と示したものの、マルコスの影響下にあった政府系の中央選挙管理委員会の公式記録においては「マルコスが160万票の差で勝利した」と記載され、マルコス政権側からもマルコス勝利として報道された。
マルコスによるあからさまな開票操作は、コラソン・アキノら民主派勢力の代表となる野党連合のみならず、フィリピンに大きな影響力を持つカトリック教会や日本連邦政府からも非難を浴びる事となった。カトリック教会、マニラ司教座のハイメ・シン枢機卿からの支持を得たコラソン・アキノと支持者たちは「大統領選挙においては明らかな不正選挙が行われた」として、この選挙結果を受け入れず抗議を行った。多くの国民が貧富の差を超えて同調。フィリピン国内各地では反マルコスデモが沸き起こり、マニラでは100万人がエドゥサ大通りを埋めた。
これに賛同するフィリピン国軍内部の改革派将校団、「軍隊改革運動」はマラカニアン宮殿に対する軍事クーデターを画策するも、マルコス政権側の諜報機関によってこの企みを看破された。特に計画者のうちサウリト・アロミン少佐とエドガルド・ドロマル少佐の2名には逮捕状が出され、国内指名手配がなされることとなる。
対して2月22日には、軍隊改革運動と共に選挙結果に反対するフアン・ポンセ・エンリレ国防相やフィデル・ラモス参謀総長らが決起し国防省のあるキャンプ・アギナルドに篭城するなど、マルコス体制を支えてきた軍の高官たちが離反。フィリピン国内は内戦の様相を呈してくる。
これに対してマルコス政権は他国へ亡命することもなく日本連邦からの後ろ盾を頼みとして政権の維持をもくろみ、ファビアン・ベールら諜報組織NSIAと国軍派将校によるデモ隊や軍内反乱勢力の打破を目的とした発砲の許可を出す。
内戦へ
- 1986年2月22日 - エドゥサ革命。マルコス政権派将校がデモ隊に発砲。フィリピン内戦開始
- 1986年2月24日 - マニラ司教座、ハイメ・シン枢機卿とリカルド・ヴィダル枢機卿ら「フィリピンカトリック司教会議」がマルコス政権派によるデモ隊への発砲を正式に非難。
- 1986年2月25日 - フィデル・ラモスら民主派将校団がケソンシティを拠点にコラソン・アキノ大統領の支持を表明。国軍同士の交戦が開始
- 198[任意]年[任意]月[任意]日 - フィリピン共産党が武装蜂起。ネグロス島などビサヤ諸島を中心として対マルコス政権派闘争を開始
- 198[任意]年[任意]月[任意]日 - モロ民族解放戦線が武装蜂起。先に武力闘争を行っていたモロ・イスラム解放戦線ならびにアブ・サヤフに続いた形である。
- 1989年8月1日 - モロ民族解放戦線がコタバトを中心に住民投票を開始(範囲は西ミサミス州、バシラン州、コタバト州、ダバオ・デル・スル州、ラナオ・デル・ノルテ州、ラナオ・デル・スル州、マギンダナオ州、パラワン州、南コタバト州、スルタン・クダラット州、スールー州、タウィタウィ州、サンボアンガ・デル・ノルテ州、サンボアンガ・デル・スル州の14州、コタバト、ダピタン、ディポログ、ゼネラル・サントス、イリガン、マラウィ、パガディアン、プエルト・プリンセサ、サンボアンガの9市)
- 1989年8月7日 - 上記14州9市で「イスラム教徒ミンダナオ自治地域」が発足。
- 1989年9月28日 - マラカニアン宮殿陥落。フェルディナンド・マルコスおよびイメルダ・マルコス銃殺
ミンダナオ島の西半分を実効支配したモロ民族解放戦線らイスラーム過激派勢力はマルコス政権とのトリポリ合意を曲解した形で従い、モロ民族の自治独立に関する住民投票を開始。不思議と圧倒的に高い投票率で受けた賛成によって可決され、独立が実行されることとなった。
同時期、マニラ司教座などキリスト教原理主義民兵の支援を受けた民主派勢力がマニラへ侵攻。マラカニアン宮殿を陥落させフェルディナンド・マルコスらを殺害する。
天変地異
- 1990年7月16日 - 当時共産党軍と民主派勢力が対峙していたバギオ市でマグニチュード7.8の大地震が発生。周辺各地で数千人規模の死傷者を出す。
- 1991年6月7日-6月15日 - ピナツボ火山が大噴火。民主派勢力が占領しており航空機運用の一大拠点であったクラークフィールド空軍基地ならびにスービック軍港に甚大な被害が及び、民主派勢力側の運用可能兵力が一気に下落。また各地での税収において危機に陥る
マルコス政権派残党の掃討もまだ終えていない1990年夏、民主派勢力と新人民軍はバギオなどルソン島北部の山岳地帯をめぐってゲリラ戦を行っていた。ちょうどこの時バギオ大地震が発生し、建物の倒壊や土砂崩れなどで数千万人規模の死傷者が双方に発生する。
また翌年1991年からはピナツボ火山の噴火が始まり、噴出された火山灰や軽石など降下物で1000名以上の死傷者が出ている。このピナツボ火山の噴火による農作物や建物への影響は計り知れず、その後の食料・経済危機によっても共産党に加入する農民や失業者の数が増したともいわれる。
マニラ占領
- 199X年[任意]月[任意]日 - フィリピン共産党の大攻勢。民主派勢力は本拠地であったケソンシティを失陥しレガスピ方面に退却
- 199X年[任意]月[任意]日 - マニラ司教座およびキリスト教原理主義民兵との戦闘(マニラの戦い(199X))。フィリピン共産党がマニラを占領
- 199X年[任意]月[任意]日 - マラカニアン宮殿でフィリピン人民共和国の建国を宣言。
- 199X年[任意]月[任意]日 - レガスピ陥落。コラソン・アキノら民主派首脳部がアメリカ合衆国へ亡命する
分派「スールー王国」
198X年、スールー諸島・パラワン島並びにサンボアンガ半島を領土としてスールー王国の復古をもくろむ武装組織が勢力を伸張。イスラム教徒ミンダナオ自治地域においてスールー王国の独立を求める運動が勃発する。もとより仲の悪かったヌル・ミスアリらモロ民族解放戦線とサラマト・ハシムらモロ・イスラム解放戦線との武力衝突に乗じてサンボアンガ半島での実効支配を広げていったスールー王国軍は、同じく民主派・共産勢力との最前線であったパラワン島の航空基地を奪取しスールー王国陸軍としての地位を見せつける。
ヌル・ミスアリらモロ民族解放戦線はスールー王国軍との対共産連帯を模索。スールー王国スルターン、ジャマルル・キラム3世はイスラム教徒ミンダナオ自治地域議会との事実上の立憲君主制ともいえる構造を提案し、イスラム教徒ミンダナオ自治地域議会とこれに参加する武装勢力はスールー王国との強固な連携達成に同意した。
以後、イスラム教徒ミンダナオ自治地域議会はスールー王国の実効支配地域を含めて全モロ民族統一暫定自治政府と呼称されるようになる。
残敵掃討
199X年より、南北フィリピンは相互に自国領域内の反対勢力の粛正に取り掛かる。南フィリピン側のモロ民族解放戦線はモロ・イスラム解放戦線に対する攻撃でこれを下し、アブ・サヤフなど各種イスラム系武装勢力と共にモロ民族独立の保持による全モロ民族統一暫定自治政府内での政党化路線に向かうこととなった。同時にシャリーアに基づいた敵対勢力の構成員の処刑も頻発するようになっていく。
対して北フィリピンではすでに形骸化していたフィリピン共産党組織に対し、新人民軍を率いていた“将軍”が軍事クーデターを実行。旧来の党幹部の粛正をはじめとする反動勢力の銃殺を行いつつ、先軍主義的な共産運動の開始を宣言する。
結果
199X年、ミンダナオ島内におけるマルコス政権派拠点を完全に失陥させて[任意の年]から継続されてきた北ボルネオ紛争をイスラーム勢力側の勝利で収めた南フィリピンは今後の戦争計画を対北部戦線に注力することを決定。北フィリピンなどの反イスラーム勢力を念頭に置いた対反イスラーム勢力防衛“努力”宣言を発表し、暗にジハードであると仄めかしつつ北フィリピンに対する敵対的関係を露わにした。
それと同時期、同じくルソン島におけるマルコス政権派・民主派勢力を放逐して権力地盤を整えた北フィリピンでは、当時形骸化しつつあったフィリピン共産党に対し武装組織である新人民軍が党内クーデターを敢行。新人民軍の“将軍”が政権を握り、旧来の党幹部を粛正していった。これによって新規に制定された「全人民国内政治大綱」においてはマルコス政権とモロ民族解放戦線との間におけるトリポリ合意を破棄し、ミンダナオ島におけるムスリム自治を認めることなく唯物論に則った武力排除を行うという過激な宣言が盛り込まれ、南フィリピンと北フィリピン間の間の緊張は極めて深刻な問題となりつつも相互の小康状態が継続されている。
最終更新:2021年03月18日 19:28