「イギリス内戦」とは、199[]年から三ヶ月ほど行われた、イギリスでの大規模反乱である。

勢力

【グレートブリテン及びアイルランド連合王国】 【コミンテルン】 【独立諸勢力】
グレートブリテン連合王国 グレートブリテン共産党(イギリス革命戦線) イギリス・ファシスト連盟
スコットランド・ヤード ソビエト連邦 イギリス・アナーキズム連盟
ロンドン市警察 ドイツ民主共和国(支援のみ) アイルランド自由軍
イギリス国民軍 フィリピン新人民軍(支援のみ) スコットランド独立軍団
ウェールズ軍

前史

議会政治、立憲主義の生誕地であるイギリスにおいて、社会主義、共産主義勢力はほとんど力を持てなかった。勿論労働者や貧困層の不満はあったが、そうした階級は労働党や自由党左派が拾い上げていたため、ほとんど票が集まることは無かった。それに共産党内部でも社民主義者やユーロ・コミュニスト派が台頭し始め、瓦解は時間の問題であった。コミンテルンに加盟していたグレートブリテン共産党はそうした内部抗争の最中、盟主ソ連邦に支援を依頼すると、モスクワは武力革命を提案した。

革命

北海の門番であるイギリスを破壊するため、武力闘争を唆したソ連軍は密かに武器弾薬を密輸、工作員の手引きによってグレートブリテン共産党の武装組織化を完了した。グレートブリテン共産党はイギリス革命戦線に名前を変え、ロンドンの占領を開始した。この時ビックベンの一部やロンドン橋を爆破し、最初のテロで無実の市民142名が死亡した。スコットランド・ヤードやロンドン市警察が応戦するも、軍用ライフルや銃火器で武装した党員や戦闘員に警棒、ハンドガンで敵うはずもなく、最初のテロから十一時間で全員が死亡した。この時、捕縛された警官は射殺されたとの疑惑があるが、まだ捜査は続いている。

相次ぐ独立

ロンドンでの混乱のさなか、英王室、政府の一部要人はルクセンブルク、オーストリアを経由しながらカナダに亡命し、抵抗を宣言した。ロイヤルネイビーも呼応しドーバーを拠点に残存ロンドン政府、イングランド民兵と共に抵抗運動に参加した。時を同じくし、英本土での混乱に好機と見たアイルランド自由軍がアイルランドで独立運動を展開、スコットランド、ウェールズでも同様の勢力が首都を占領した。革命戦線は英国の新政府を名乗り、各独立運動勢力へ「鎮圧」を開始、内戦の開始である。

革命戦線の電撃戦

基地に残留していた機甲兵器や航空機を鹵獲した革命戦線はウェールズ、スコットランドの独立軍へ侵攻を開始した。当初小銃で武装した程度だと目論んでいた独立運動家達は機械化された革命戦線に蹂躙され、一瞬で降伏した。独立運動に参加した兵士は革命戦線に合流するか、死を宣告された。しかし海軍が王立海軍は逃亡、もしくは自沈処分されていたため揃えることが出来ず、アイルランド攻撃は数回のダブリン空襲で中止を余儀なくされた。

ロンドン陥落

辛うじて残存していた南海岸のロンドン政府も、スコットランド、ウェールズを平定した革命戦線の波には耐えられず、ロンドンでの抵抗虚しく数日で陥落した。街の至る所に赤色旗が掲げられ、陥落同日庶民院議事堂でイギリス社会主義共和国連邦の成立が宣言された。(コミンテルン諸国以外の国家承認がなく、成立半年程で革命戦線が崩壊したため、当記事では今後も革命戦線の表記を使う。)

大粛清

ロンドンに残留していた政府関係者は「大法廷裁判」と呼ばれる共産党員による裁判を受けた。しかし弁護士や検事はおらず、ただ裁判長が罪状を読み上げ、死刑を宣告するのみの、ジャコバン式恐怖政治であった。これはグレートブリテン島に住む一般市民にも適用され、裁判委任状なるものを突きつけ、その場で射殺、撲殺される事が常習化された。犠牲者は確認されただけでも2万人を超える。

国粋主義パルチザンの出現

地下でレジスタンス活動をしていたのは政府軍や市民だけでなく、反共主義を掲げるイギリス・ファシスト連盟も参加していた。大法廷裁判に手間を取られた革命戦線の隙をつき、ファシスト連盟はロンドンで大攻勢に出た。治安維持はおろか、完全なロンドン支配すら落ち着いていなかった革命戦線は不意をつかれた形となり、ウェールズ海岸に張りつけていた機甲軍も間に合わず、郊外で遂に敗北した。

革命戦線の誤算

カナダで用意を整えたイギリス政府軍がアイルランドに上陸、ロイヤルネイビーと連携しアイルランドを奪還、グレートブリテン島を射程に収めた。革命戦線は機甲軍や航空機で再度ブリテン島に攻撃を仕掛けようとするも、ここで燃料備蓄が底をついた。革命戦線は正規軍並の武装から、単なるテロリストの寄せ集めに戻ってしまった。

反撃開始

イギリス政府軍はラジオでブリテン島で抵抗する全市民に演説し、抵抗運動の継続と帰還への用意を呼びかけた。それを聞き付けたロンドン・レジスタンスは一斉に蜂起を開始、革命戦線、国粋主義者へ攻撃を開始した。同日政府軍は革命戦線、ファシスト連盟に「宣戦を布告」した。

リバプール上陸作戦

イングランド北西部に狙いを定めた政府軍はリバプールへ上陸を開始、リバプール市民と共に革命戦線を打破した。これは政府側の革命戦線への最初の勝利であった。これにより橋頭堡を確保した政府軍は革命戦線が瓦解するロンドンに向け進撃を開始した。

ロンドン入城

リバプール陥落後、ロンドン・レジスタンスは革命戦線を遂に追い払い、郊外の国粋主義者に攻勢を開始した。士気の弱かったイギリス・ファシスト連盟はここで降伏し、政府軍の到着を待つこととなった。そして政府軍は遂にロンドンへ入城、イングランドを革命戦線から解放した。

ソ連軍の介入

北に兵を進める頃、ソ連軍が介入を宣言、レニングラードからソ連赤色海軍が抜錨、グレートブリテン島東海岸に接近した。ロイヤルネイビーはこれを捕捉し撃滅、艦隊の七割が戦闘不能になる代償を負ったがソ連海軍全艦を撃破した。しかしこれは陽動であり、スコットランド北部に革命戦線への援軍が上陸した。

スコットランド攻勢

革命戦線と赤軍はロンドン入城直後の政府軍目掛けてイングランドに大攻勢を仕掛けた。コミンテルンの大規模な援助を受けた革命戦線は一時戦線を前進させたが、元々は泡沫政党であった革命戦線は既に限界を迎えていた。その後政府軍の反撃に対応しきれず、遂に最後の拠点、エディンバラに後退することとなる。

革命戦線の降伏

革命戦線はエディンバラで必死の抵抗を続けようとしたが、市民がそれを許すはずもなく、ボロボロの革命戦線が到達した時点で武装した市民が襲撃、戦線幹部が殺害、拘束され、到達した政府軍に降伏することとなった。大規模支援を行っていたドイツ民主共和国ではこの降伏の余波で革命が起き、社会主義政権が崩壊した。

その後

拘束されていた革命戦線幹部も反逆罪で処刑され、グレートブリテン共産党は即日解散命令が下された。内戦の爪痕は未だに色濃く残っており、イギリスのGDPはソ連やアメリカ等の大国では最下位である。ソ連や大ドイツ国の脅威、未だ残る革命戦線の残渣は英国を蝕み続けている。

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最終更新:2021年03月18日 19:06