やがて来る、春の日までは

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『やがて来る、春の日までは』


「酷い寒さだな」
 寝所へと通された彼は、肩に積もった雪を払い落としながら、忌々しげに眉を顰め呟いた。
「ホントよ。あなたが来なかったらとっくに閉めてるところだわ」
 ほら、さっさと脱いで。乾かすから。部屋の主である娼婦は雪まみれの情人のコートを脱がしながらせっつく。端正な顔立ちにブロンドの髪と、それに映える翠の瞳が、割れた遮光瓶のようで美しい娼婦だった。
 慣れたものだと、娼婦…マリアは思う。彼がここに通うようになってから、まだたったの数か月しか経っていない。子供の頃から可愛がってもらったパトロンよりもずっと、ずっと浅い付き合いだ。マリアが特別淫蕩だとか、そういうことでは決してない。しかし彼と、営業を超えた逢瀬をこうして重ねることは、マリアの中で特別な意味を孕みつつあった。

 彼…ブランカと初めて出会ったのは、樹木もすっかり葉を落とした秋の終わり頃だったように記憶している。
 確か風の強い日だった。街を歩いていたら、強風にあおられて飛ばされてしまったマリアのストールを、偶然拾ったのが彼だったのだ。
 身を切るような冴え冴えとした風の中、日の光を呑むような黒い髪が、肌が、そして何よりもその黒の中に浮かぶ緋色の双眸が、印象的だったのをよく覚えている。
 出会いこそこんな一昔前のロマン小説だが、男女が出会って、親睦を深めたらすることは原始の時代から変わりはしないわけで。まぁ、つまり、そういうことだ。
 懇ろな仲になって数か月、気付けば季節はすっかり冬の様相を呈していた。
 災厄後、世界の冬は災厄以前に比べ格段に厳しくなったという。
 ホンコンHEAVENも例外に漏れず、冬の寒さは身を刺すように辛い。それに加え外は現在、降雪の真っ最中であった。

 コートを脱ぐのを手伝い、受け取ったコートを手近なコートハンガーにかけたところで、背後から覆い被さる様に抱きしめられる。
「…ちょ、やだ、ほんとに冷えてるわね」
 スーツ越しに伝わる体温は随分と心許ない。
 くるりと腕の中で身体の向きを変え、ブランカの頬を両の手で包み込んでやる。
「あぁ。だから君で暖まりに来た」
 目を細めて笑うブランカの掌が自分の手に重なり、すり、と撫ぜられる。褐色の肌は冷たさをこそ感じさせないが、荒れた唇に血の気はない。
「…ふぅん」
 頬を挟んだまま、頭一つ分高い位置にある顔をぐい、と手前に引き寄せて唇を合わせた。ブランカはされるがままに身体を折りそれに応える。
 乾燥した唇に紅が移る様子を目睫の間に見つめーー

「血の味」

 耳元で囁いた

「全身から女の匂いがするわ。大したことね。一体、何人の女の子の“相手”をしてからここに来たの?」

 あくまで睦言を囁くように頬を撫でさすりながら目の前の男を観察する。
 彼は、共寝をする女に向けるものではない、恐ろしく冷ややかな目で自分を射抜いていた。
「――それを知って、君はどうする?」
 低く紡がれた言葉は硬質で、首筋にナイフを当てられたかのようなヒヤリとした緊張感を孕んでいる。
「別に何も。貴方が何者だろうと私には関係ないもの」
 強がりでも何でもなかった。どうせ春を鬻ぐことでしか余喘を保つことのできぬ身。こんなものは駆け引きの延長、相手の心をかき乱してこそのココットだ。
 私の返答に暫し面食らったような顔をしていた彼はやおらに嘆息を零し、マリアの掌は引きはがされる。
「……君みたいな女が一番面倒だ」
「あら、吸血鬼みたいでステキね、とでも言えば良かったかしら」
 減らず口を、とごちる彼の手を再度取り、寝台へと導いてやる。そのまま肩を押してやれば、大人しく倒れこんだ。
 広い肩幅に、立派な上背の身体は、女一人が跨ったところでびくともしない。いまだ衣服に包まれた張りのある筋肉の蠕動を布越しに意識する。
「君のせいで萎えたんだけど」
「不貞腐れないでよ、すぐ元気になるわ」
 先ほどまでの抜き身の緊張感は解け、不機嫌に眉根を寄せた彼が今は大きな子供のように見える。
 美貌の娼婦は翡翠の瞳で微笑み、囁く。

「冬の夜は長いもの…じっくり、話し合いましょう?」

*

 肌を合わせることは、捕食と何ら変わりないのさ。
 アヤカシの存在は、今でこそ多くの人間の知るところとはなっているが、一昔前までは…それこそ、災厄の起こる以前には…アヤカシの実態はひどく不明瞭なものだった。そう考えると、今がどれだけ神秘から遠ざかった時代なのかが分かるだろう?
 じきに人は、夜の闇を恐れなくなる。
 …難しいかな?君は既に災厄以後の人間だから、そう思うのかもしれないな。
 で、なんだっけ、あぁそう。捕食の話。
 こう見えても俺は随分な長生きでね。災厄前の世界だって知っている。日本に居たこともあるって言ったら驚くかな?あの頃は…そう、どう生きていたんだったか…
 いずれにしても、今よりリスキーだったのは確かだ。
 今のご時世、人ひとり消えたところで大した騒ぎにはならないだろう?それは目の前に人の命より優先したい欲望がごろごろ転がっているからだ。人の脆さは変わらないのに、欲望ばかりがいたずらに育っていく。おかしな話だがな。
 だからかな。今の人間はとかく欲望に弱い。いい顔をして近づけば懐に潜り込むことは容易だ。
 そうして手中に収めた相手を掌で転がしてやれば、じきに身も心も捧げるようになる。貴方なしじゃ生きられない、なんてくらいまで嵌らせたら最高だな。心酔してる奴ほど餌や…手駒としての価値は上がる。
 勘違いしないでくれ。こういうことをしているのは俺だけじゃない。
 今言ったようなことはすべて…程度の差はあれアヤカシも…何なら人間だってしていることだよ。結局は皆、誰かの手のひらで踊らされているだけなのかも…なんてな。
 …まぁ、強いて人間とアヤカシを区別するのだとしたら…そうだな…人は、流動的な存在で、アヤカシは固定的な存在、ってところじゃないか?
 人の生は短い。川を流れる水のように過ぎ去り、遡ることは決してない。それに対してアヤカシは…うん、その川底に打ち付けられた杭とでもいおうか。水底に穿たれている限りは、流れに交わることはない。
 過ぎていくんだ。何もかもが。自分を置き去りにして。

 …何?…まさか。悲しい話をしているわけじゃない。

 けど、あぁ、そうだな…もし俺が、君をここから連れ出して、その美しさを永遠のものにしてやると言ったら…君はどうする?

 ここで君を永遠のものにすると言ったら…手を取ってくれるのかな。

 マリア。

 なぁ、どうする?

*

 2月も中頃に差し掛かり、だんだんと寒さも和らいできた頃、HEAVENに再び雪が降った。
 空調を効かせた室内であっても、窓辺に近寄れば外からの染み入る様な冷気に身が震える。マリアは窓辺に腰掛け、雪の降り積もる街を見下ろしていた。

 彼がここを訪れなくなって二た月が過ぎようとしている。


 あの日、マリアは差し出された手を拒んだ。彼と悠久を生きることを望まなかった。
 自分の返事に、彼はどんな表情をしていただろう。泣いていた?それとも安心した顔をしていただろうか?

「そうか」

 そう一言呟いて、彼はそれっきり姿を現さなくなった。
 あの問いにどんな意図があったのだろうと、最近はそればかり考えて――マリアは、ある結論にたどり着いた。
 彼は、道連れが欲しかったのかもしれない。
 どこへとも知れない深淵に連れ立つ、伴侶を欲していたのではないか、と。
 己が何をしているのか、何をしようとしているのかについて、彼はついぞ詳らかにすることはなかったが、それでも分かる。
 孤独は、人を狂わせる。

「私が拒んだから、見限られたのかしら」
 ならどうして殺さなかったのだろう。情けなど、彼らしくもない。
「縁が切れた、と思っているのでしょうね」
 でも、と唇だけを動かし、優しく自身の腹を撫でた。

「マリア、入るわよ…って、貴方ねぇ!そんな寒いところにいちゃダメじゃない!体が冷えるでしょう!」
 ノックと共に室内に入ってきたアンナの呆れ声で、マリアは現実に引き戻される。
「身重の身体なんだからもっと気を遣ってちょうだい。私が旦那様に叱られるわ」
 旦那様、とはここ最近のパトロンを指す。…アンナには、腹の子はパトロンとの子供だと言ってあった。
「…えぇ、ごめんなさいアンナ。もうベッドに入ろうかと思ってたところよ」

 すくっと立ちあがり、窓辺から離れ一歩踏み出そうとして、立ち止まる。

 振り返り、つと窓の外を見やったが、フレームの向こうの白銀の街が、望む姿を映し出すことはない。おそらくは、もう二度と。

 でも、それでも

「…いつか絶対に、繋がる時が来るわ」

 それまでは抱いていよう。貴方のいた冬の日を。この子を。

 やがて来る、春の日までは。

*

 ええと、熱烈なお誘いをありがとう。
 貴方、私のこと結構好きだったのね?ちょっと感動。
 けど…そうね、貴方がどれくらいの時を過ごしてきたのかは分からないけれど…貴方と同じくらい生きれたとして、その時の私は…私のままなのかしら?

 私はね、短い一生の、ほんの一咲きの春に、貴方の側に居られれば、満足よ。

 短い一生を使って…貴方と出会って…そうやって積み重ねた日々で、

 貴方を、愛したいの


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