魔弾の射手
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『魔弾の射手』
焼き付いて離れない、鮮烈な出会いがある。
それは間違いなく、ちっぽけなこの身に
生きる意味を与えてくれた、何物にも代えがたい記憶であり
あの日々を地獄と形容することが許されるのなら
その出会いは確かに、私にとっての蜘蛛の糸であった。
たとえ糸を辿った先に待つのが辺獄だったとしても
その手を取ったことを、私は後悔していない。
*
先ほどまで己の咽喉に絡みついていた浅黒く太い指は、たった一発の銃声を最後に、徐々に弛緩し、呆気なく事切れてしまった。
「――………っぁ、う」
もぞもぞと、倒れこんできた男の下敷きになった身体を動かそうとする…が、薬漬けで朦朧とした意識とやせぎすの四肢は、脳からの指令を拒否するかのように言うことを聞いてはくれない。
少年は、顔にかかった己のブロンドのあわいから辛うじて動く翡翠の目を忙しなく動かして、銃声の主を探し――部屋の一点に、目を留めた。
果たして、そこには男が一人、佇んでいた。
「――………っぁ、う」
もぞもぞと、倒れこんできた男の下敷きになった身体を動かそうとする…が、薬漬けで朦朧とした意識とやせぎすの四肢は、脳からの指令を拒否するかのように言うことを聞いてはくれない。
少年は、顔にかかった己のブロンドのあわいから辛うじて動く翡翠の目を忙しなく動かして、銃声の主を探し――部屋の一点に、目を留めた。
果たして、そこには男が一人、佇んでいた。
死神かなと ふとそう思った。
不思議と、恐ろしいとは感じない。それどころかその死神の纏う雰囲気は、自身が今まで出会った誰よりも凪いでいて、穏やかな―――快いもののように感じられる。
「お前」
低く、落ち着いた声だ。ばさりと払われた外套からは、かすかに血の匂いがする。
「この娼館の子供か」
何を当たり前のことを。思わず口の端を吊り上げて、くふくふと笑う。あまり表情筋を動かせている気はしなかったが、久方ぶりに笑いたいという気持ちになったので笑ってみた。間違いなく今、死の淵に立たされているはずなのに笑いたくなるなど、おかしな話であるが。
「ぼくも、ころしますか」
男の問いには答えずに、そのまま質問を返す。辛うじて絞り出した声は大層か細くて、なんともみっともない。
「そとのさわぎも、あなたが…したんでしょう」
「―――……」
沈黙は肯定か。先ほどから何やら外が騒がしかったのは、朧げな意識の中でも何となく分かっていた。死神の足が、一歩、寝台へと近づく。透かし彫りの窓から差し込んできた月明かりが、死神の相貌をまろく照らし出した。東洋人特有の針葉を思わせる眦に黒檀の髪がさらさらと流れる。すっと通った鼻梁に横一線に走る傷が印象的な男だった。
「………」
男は何も言わない。無口な男だ。ただ、此方を品定めするように観察されていることだけは分かる。恐らく、彼は殺し屋だ。
つと、男に向かって手を伸ばす。
「おこしてください」
ややあって差し出された手をするりとつかむ。柳のようにしなやかに見えた手はしかし、しっかりとした体幹でもって矮躯を物言わぬ死体の下から引きずり出した。
「おしごとですか」
「………」
「この人に、用があるのですか」
「………」
語りかける声に返事はない。今日はなんだか口が良く回る。
「……この人の、おともだちが…今日はあと三人、いるはずです」
「…何?」
「それぞれお気に入りがいたはずなので…」
ジェニー、猫猫…あとは誰がお気に入りだったか。今日は確か、ここのフロアと真上の階が使われていた気がする。ああでも、この騒ぎに気付いているとしたらもう逃げ出している頃かもしれない。だとしたらどこを使うだろうか。彼らが良く使う部屋から逃げ道を考えるなら…
「…ここをでて、左手の突き当りに、非常階段が、あります。逃げ道に使うなら、多分…そこ」
男は柳眉を顰め、訝し気な視線を寄こしてくる。
「うそじゃ、ないです、えぇ。…僕もふしぎなんです。どうして、きょうはこんなに、」
気持ちが逸っているのだろうか。
それはきっと、目の前の非日常のせいだ。こんな汚らわしい場所には似つかわしくない、凪いだ海のような穏やかな雰囲気の人。けれど確かに、人殺しの目をした冷たい人。
…この人の目には一体、世界がどういう風に移っているのだろう。
「お前」
低く、落ち着いた声だ。ばさりと払われた外套からは、かすかに血の匂いがする。
「この娼館の子供か」
何を当たり前のことを。思わず口の端を吊り上げて、くふくふと笑う。あまり表情筋を動かせている気はしなかったが、久方ぶりに笑いたいという気持ちになったので笑ってみた。間違いなく今、死の淵に立たされているはずなのに笑いたくなるなど、おかしな話であるが。
「ぼくも、ころしますか」
男の問いには答えずに、そのまま質問を返す。辛うじて絞り出した声は大層か細くて、なんともみっともない。
「そとのさわぎも、あなたが…したんでしょう」
「―――……」
沈黙は肯定か。先ほどから何やら外が騒がしかったのは、朧げな意識の中でも何となく分かっていた。死神の足が、一歩、寝台へと近づく。透かし彫りの窓から差し込んできた月明かりが、死神の相貌をまろく照らし出した。東洋人特有の針葉を思わせる眦に黒檀の髪がさらさらと流れる。すっと通った鼻梁に横一線に走る傷が印象的な男だった。
「………」
男は何も言わない。無口な男だ。ただ、此方を品定めするように観察されていることだけは分かる。恐らく、彼は殺し屋だ。
つと、男に向かって手を伸ばす。
「おこしてください」
ややあって差し出された手をするりとつかむ。柳のようにしなやかに見えた手はしかし、しっかりとした体幹でもって矮躯を物言わぬ死体の下から引きずり出した。
「おしごとですか」
「………」
「この人に、用があるのですか」
「………」
語りかける声に返事はない。今日はなんだか口が良く回る。
「……この人の、おともだちが…今日はあと三人、いるはずです」
「…何?」
「それぞれお気に入りがいたはずなので…」
ジェニー、猫猫…あとは誰がお気に入りだったか。今日は確か、ここのフロアと真上の階が使われていた気がする。ああでも、この騒ぎに気付いているとしたらもう逃げ出している頃かもしれない。だとしたらどこを使うだろうか。彼らが良く使う部屋から逃げ道を考えるなら…
「…ここをでて、左手の突き当りに、非常階段が、あります。逃げ道に使うなら、多分…そこ」
男は柳眉を顰め、訝し気な視線を寄こしてくる。
「うそじゃ、ないです、えぇ。…僕もふしぎなんです。どうして、きょうはこんなに、」
気持ちが逸っているのだろうか。
それはきっと、目の前の非日常のせいだ。こんな汚らわしい場所には似つかわしくない、凪いだ海のような穏やかな雰囲気の人。けれど確かに、人殺しの目をした冷たい人。
…この人の目には一体、世界がどういう風に移っているのだろう。
「外へでるのなら、僕も、つれていってくれませんか」
気付いた時には、唇からそんな言葉がまろび出ていた。
「僕を、連れていってくれませんか。…あなたといっしょに」
「…ここから逃げたいのなら好きにすればいい。」
ふるふると首を振る。
「…ちがう。ちがうんです。命が惜しくていってるわけじゃ、ない、ただ、」
ただ、貴方の見る世界が知りたいと思っただけ。
自分は、物心ついた頃からずっとこの世界にいた。求められるままに身を明け渡し、春を鬻ぐことでしか余勢を保つことのできない肉欲の世界だ。泥濘へ沈むに任せた日々の中でただ漠然と“死にたくないから生きていた”意志も無ければ選択の余地もない日々。…自分はきっと、心のどこかでは変革を求めていたのだと思う。ただし、その願いはひどく他力本願なもので、言うなれば、『王子様がいつか自分を助けに来てくれる』などといったお伽噺のような、身も蓋も無い願いに等しかったのだけれど。身勝手な願いだ。高慢な願いだ。しかしそれが今、目の前の非日常によって実現するかもしれないのだ。地獄に垂れてきた蜘蛛の糸の話をしたのは誰であったか。少年の翡翠の瞳は、今爛々と目の前の男を見据えていた。
「…つまりお前は、人殺しに身を堕としても構わないと。…そういうのだな」
「あなたが、おしえてくれるのならば、人殺しでも、なんでも。」
「…ふむ、」
数秒の沈黙。しばらく逡巡した後に、男が、口を開いた。
「ではこうしよう。連れて行ってほしいというお前の願いは…良いだろう。叶えてやる。」
だが、と、男は一拍の間を置く。
「お前を使うかはまた別だ。言われたことを只こなす傀儡など、育てる意味はない。」
妙なことを言う。命令に忠実であればこそではないのか。疑問にこそ思ったが、あえて口出しはしなかった。そう語る男の顔がやけに思い詰めていたからだ。
こくこくと、首を縦に振り了承を示した。
「つかえなかったら、あなたの地下夫人(あいじん)にでもしてください」
「馬鹿なことを。私は男娼を拾いに来たわけではない。男娼のお前は置いていけ。ここに。今日限りで捨ててしまえ。…これから先、お前が尽くしていかなければならないのは男の身体ではない。」
男が、血の香りのする外套を脱ぎ、むき出しの矮躯をすっぽりと包み込んだ。次いでふわりと感じた浮遊感。横抱きにされたのだということが分かった。男の香だろう白檀の匂いが鼻腔をくすぐる。こちらを見つめる男の瞳と視線がかち合い、開く唇を目で追いかけた。
「人ならざる道、黒社会だ。」
「…では、あなたのことは、なんとお呼びすれば」
ぼくは、と開きかけた唇が男の人差し指によって静止される。言わなくていいということだろうか。
「シゥロン」
そう男は名乗った。意味を聞けば、暁と龍で暁(シゥ)龍(ロン)だと教えてくれた。
暁の龍。少年にとってこの男は正しく、長い夜を終わらせた暁光そのものであった。
「僕を、連れていってくれませんか。…あなたといっしょに」
「…ここから逃げたいのなら好きにすればいい。」
ふるふると首を振る。
「…ちがう。ちがうんです。命が惜しくていってるわけじゃ、ない、ただ、」
ただ、貴方の見る世界が知りたいと思っただけ。
自分は、物心ついた頃からずっとこの世界にいた。求められるままに身を明け渡し、春を鬻ぐことでしか余勢を保つことのできない肉欲の世界だ。泥濘へ沈むに任せた日々の中でただ漠然と“死にたくないから生きていた”意志も無ければ選択の余地もない日々。…自分はきっと、心のどこかでは変革を求めていたのだと思う。ただし、その願いはひどく他力本願なもので、言うなれば、『王子様がいつか自分を助けに来てくれる』などといったお伽噺のような、身も蓋も無い願いに等しかったのだけれど。身勝手な願いだ。高慢な願いだ。しかしそれが今、目の前の非日常によって実現するかもしれないのだ。地獄に垂れてきた蜘蛛の糸の話をしたのは誰であったか。少年の翡翠の瞳は、今爛々と目の前の男を見据えていた。
「…つまりお前は、人殺しに身を堕としても構わないと。…そういうのだな」
「あなたが、おしえてくれるのならば、人殺しでも、なんでも。」
「…ふむ、」
数秒の沈黙。しばらく逡巡した後に、男が、口を開いた。
「ではこうしよう。連れて行ってほしいというお前の願いは…良いだろう。叶えてやる。」
だが、と、男は一拍の間を置く。
「お前を使うかはまた別だ。言われたことを只こなす傀儡など、育てる意味はない。」
妙なことを言う。命令に忠実であればこそではないのか。疑問にこそ思ったが、あえて口出しはしなかった。そう語る男の顔がやけに思い詰めていたからだ。
こくこくと、首を縦に振り了承を示した。
「つかえなかったら、あなたの地下夫人(あいじん)にでもしてください」
「馬鹿なことを。私は男娼を拾いに来たわけではない。男娼のお前は置いていけ。ここに。今日限りで捨ててしまえ。…これから先、お前が尽くしていかなければならないのは男の身体ではない。」
男が、血の香りのする外套を脱ぎ、むき出しの矮躯をすっぽりと包み込んだ。次いでふわりと感じた浮遊感。横抱きにされたのだということが分かった。男の香だろう白檀の匂いが鼻腔をくすぐる。こちらを見つめる男の瞳と視線がかち合い、開く唇を目で追いかけた。
「人ならざる道、黒社会だ。」
「…では、あなたのことは、なんとお呼びすれば」
ぼくは、と開きかけた唇が男の人差し指によって静止される。言わなくていいということだろうか。
「シゥロン」
そう男は名乗った。意味を聞けば、暁と龍で暁(シゥ)龍(ロン)だと教えてくれた。
暁の龍。少年にとってこの男は正しく、長い夜を終わらせた暁光そのものであった。
*
(ここは…)
目を覚まして最初に見たのは、見慣れない天井だった。窓際に設えられた寝台の上で、朱色の窓枠から差し込んでくる明るい陽光に目を細める。
「目を覚ましたか」
枕元からした声に視線をやれば、あの夜の男…暁龍が煙管をふかしながら、椅子に腰かけている。起き上がろうとすれば「楽に」と手の平で肩を押し返され、再度枕に沈んだ。暁龍が枕元の呼び鈴を引く。部屋の扉が控えめに叩かれる音がして、膳を持った使用人が入室してきた。使用人は黙々とベッドテーブルに食事の支度をすると、一礼して退出していった。「食べなさい」と暁龍に促され、おずおずと匙を取る。薬膳粥に普洱茶というシンプルなメニューだ。「ありがとう、ございます。」と礼を言い、口に運ぶ。じくじくとした熱が舌に伝わってきて、はぁと熱い吐息を漏らした。胃に染み入るような温かさが、心地いい。自分でも気づかないうちに身体は相当エネルギーを欲していたようで、匙はせっせと粥を口に運び続け、一息つく頃には半分ほどを胃におさめていた。
その様子を、紫煙を燻らせつつ眺めていた暁龍は、食べながらで構わない、との前置きの後、ぽつりぽつりと話し始めた。
「まず、私の所属から明らかにしていこうか―――私は…三合会(トライアド)の暗殺部隊の人間だ。」
匙の手を留め、暁龍の顔を思わず見やる。
三合会。ここ天堂(ティントン)の黒社会においてその名を知らぬものはいない犯罪結社の総称である。そのシノギは多岐にわたり、賭博、薬物、人身売買、売春と枚挙に暇はない。
「といっても…立場的には客分のような扱いにはなるのだがな。…我々の部隊は、どこか特定の香主(ボス)の元に就いているわけではなく、この三合会全体において不都合な人物や出来事に対処することを目的として創設された。…まだできて日は浅いがな。黒社会におけるありとあらゆる汚れ役を担う凶手集団、それが我々だ。」
「…じゃあ、昨日のあれは」
「ディオゲネス・クラブの会員専用サロンがあるから潰して来いと、上からの命令があった。ついでに会員も可能な限り始末して来いとな。三合会の進出にも、天堂の発展にも、連中はもう不要だと思われているのだろうよ。」
目を覚まして最初に見たのは、見慣れない天井だった。窓際に設えられた寝台の上で、朱色の窓枠から差し込んでくる明るい陽光に目を細める。
「目を覚ましたか」
枕元からした声に視線をやれば、あの夜の男…暁龍が煙管をふかしながら、椅子に腰かけている。起き上がろうとすれば「楽に」と手の平で肩を押し返され、再度枕に沈んだ。暁龍が枕元の呼び鈴を引く。部屋の扉が控えめに叩かれる音がして、膳を持った使用人が入室してきた。使用人は黙々とベッドテーブルに食事の支度をすると、一礼して退出していった。「食べなさい」と暁龍に促され、おずおずと匙を取る。薬膳粥に普洱茶というシンプルなメニューだ。「ありがとう、ございます。」と礼を言い、口に運ぶ。じくじくとした熱が舌に伝わってきて、はぁと熱い吐息を漏らした。胃に染み入るような温かさが、心地いい。自分でも気づかないうちに身体は相当エネルギーを欲していたようで、匙はせっせと粥を口に運び続け、一息つく頃には半分ほどを胃におさめていた。
その様子を、紫煙を燻らせつつ眺めていた暁龍は、食べながらで構わない、との前置きの後、ぽつりぽつりと話し始めた。
「まず、私の所属から明らかにしていこうか―――私は…三合会(トライアド)の暗殺部隊の人間だ。」
匙の手を留め、暁龍の顔を思わず見やる。
三合会。ここ天堂(ティントン)の黒社会においてその名を知らぬものはいない犯罪結社の総称である。そのシノギは多岐にわたり、賭博、薬物、人身売買、売春と枚挙に暇はない。
「といっても…立場的には客分のような扱いにはなるのだがな。…我々の部隊は、どこか特定の香主(ボス)の元に就いているわけではなく、この三合会全体において不都合な人物や出来事に対処することを目的として創設された。…まだできて日は浅いがな。黒社会におけるありとあらゆる汚れ役を担う凶手集団、それが我々だ。」
「…じゃあ、昨日のあれは」
「ディオゲネス・クラブの会員専用サロンがあるから潰して来いと、上からの命令があった。ついでに会員も可能な限り始末して来いとな。三合会の進出にも、天堂の発展にも、連中はもう不要だと思われているのだろうよ。」
天堂。公的な文書においてはそう呼称されるこの国は、旧名をホンコンという。数十年前、人口の増加によって流入してくる移民の規制を目的に一時的な封鎖を敷いたこの国は、母体である大陸の国家とは分断された形で独自の経済・行政を発達させていった。その発展を影ながら支えてきたのが、ディオゲネス・クラブと呼ばれる資本家交流会であった。彼らは華僑やマカオの富豪を積極的に受け入れることでその経済力を高めていった。これが天堂草創期の話である。その後、大陸とは全く異なった発展を遂げた天堂は大規模な都市建築計画を立案、封鎖状態を解除し、雇用の促進を行っていった。この計画は当初、天堂を観光都市、わけても高級人工リゾートとして再開発してく計画であったが、労働者の仮宿泊施設や風俗店の乱立によって、天堂は都市計画の大半を終える頃には、高級リゾートとしての側面と、薄汚い歓楽街の二面性を併せ持つ堕落と退廃の街へと、変貌を遂げるに至ったのである。
三合会は、その歓楽街での利益を求めて大陸からやってきた勢力であり、都市の発展が粗方落ち着いてきた今、その利権を食い荒らす三合会とそれを快く思わないディオゲネス・クラブとの対立が激化しつつあるのが天堂の現状であった。
三合会は、その歓楽街での利益を求めて大陸からやってきた勢力であり、都市の発展が粗方落ち着いてきた今、その利権を食い荒らす三合会とそれを快く思わないディオゲネス・クラブとの対立が激化しつつあるのが天堂の現状であった。
―――つまりは抗争に巻き込まれたのか。なるほど、と一人納得する。
暁龍はちらりと粗方からになった皿を見、話の切れ目としたのか、カン、と灰皿に煙管の中身を空けると立ち上がった。
「…食事ももう終わるな。医者を待たせてある。暫くしたら使用人に呼びに来させよう。」
また後で。暁龍はそう言い残すと、踵を返し部屋から退出していってしまった。一人残された部屋には、静寂がより色濃く落ちる。窓から差し込む陽光の眩しさに再び目を細め、首をすくめた。
真っ直ぐな光は、こんなにも眩しかっただろうか。
暁龍はちらりと粗方からになった皿を見、話の切れ目としたのか、カン、と灰皿に煙管の中身を空けると立ち上がった。
「…食事ももう終わるな。医者を待たせてある。暫くしたら使用人に呼びに来させよう。」
また後で。暁龍はそう言い残すと、踵を返し部屋から退出していってしまった。一人残された部屋には、静寂がより色濃く落ちる。窓から差し込む陽光の眩しさに再び目を細め、首をすくめた。
真っ直ぐな光は、こんなにも眩しかっただろうか。
*
「一般的な生活を送れる程度までの機能回復が、最優先事項になるでしょうな。」
診察に訪れた医者は、そう言って神妙な顔をしていた。
検査の結果、どうやら己の身体は、視力の極端な低下に加え、発育不全を起こしていることが判明らしい。視力に関しては最新のサイバーウェアを導入し、視力補助を行う必要があったし、まずもっての大前提として、発育不全を起こした身体は平均的な健康状態に持っていく必要があった。それらを改善しない限り仕事はおろか、日常生活すらままならないと言われてしまえば、もうどうしようもない。医者が帰った後も、暁龍は何やら考え込んだようすで方々と連絡を取り、結局その日はそれ以降一度も、暁龍と言葉を交わすことはできなかった。
次の日、朝早くに暁龍からの呼び出しがかかった。私室に入ると、彼は窓の外を眺めながら紫煙を燻らせていた。声をかけても返事はなく、此方を見ようともしない。何か、途方もない思案に暮れているような沈黙が重くのしかかり、重くなる気分に頭を垂れた時だった。
「お前は施設で過ごした方がいい」
頭を、鈍器で殴られたような衝撃。なんで、どうして、そんなの、分かりきっている。
自分が使えないからだ。
「役に立たないから、ですか」
「そうではない。…お前にはまず、日常生活を送ることのできる環境が必要だからだ。それはここではないし、仕事をする上では…そんなお前を守るものは何もない。」
つまり役に立たないからではないのか。ずるい。そんなの卑怯だ。自分は生き延びたいから貴方についていった訳ではない。傍においてくれないのなら、選択した意味がない。腹の中に渦巻いていた哀しみが、徐々に怒りへと変わっていく。
「…よく、わかりました。ならいいです。…お世話になりました」
それ以上何の言葉も聞きたくなくて、会釈をして暁龍の部屋を出る。与えられた二階の居室へは戻りたくなかった。ふと、玄関の方に目線が吸い寄せられる。
「…別に、いいよね」
誰にともなくそう呟く。その足取りはそのまま誘われる様に暁龍の屋敷の門をくぐり、着の身着のまま夕闇に染まる街へと繰り出していった。
診察に訪れた医者は、そう言って神妙な顔をしていた。
検査の結果、どうやら己の身体は、視力の極端な低下に加え、発育不全を起こしていることが判明らしい。視力に関しては最新のサイバーウェアを導入し、視力補助を行う必要があったし、まずもっての大前提として、発育不全を起こした身体は平均的な健康状態に持っていく必要があった。それらを改善しない限り仕事はおろか、日常生活すらままならないと言われてしまえば、もうどうしようもない。医者が帰った後も、暁龍は何やら考え込んだようすで方々と連絡を取り、結局その日はそれ以降一度も、暁龍と言葉を交わすことはできなかった。
次の日、朝早くに暁龍からの呼び出しがかかった。私室に入ると、彼は窓の外を眺めながら紫煙を燻らせていた。声をかけても返事はなく、此方を見ようともしない。何か、途方もない思案に暮れているような沈黙が重くのしかかり、重くなる気分に頭を垂れた時だった。
「お前は施設で過ごした方がいい」
頭を、鈍器で殴られたような衝撃。なんで、どうして、そんなの、分かりきっている。
自分が使えないからだ。
「役に立たないから、ですか」
「そうではない。…お前にはまず、日常生活を送ることのできる環境が必要だからだ。それはここではないし、仕事をする上では…そんなお前を守るものは何もない。」
つまり役に立たないからではないのか。ずるい。そんなの卑怯だ。自分は生き延びたいから貴方についていった訳ではない。傍においてくれないのなら、選択した意味がない。腹の中に渦巻いていた哀しみが、徐々に怒りへと変わっていく。
「…よく、わかりました。ならいいです。…お世話になりました」
それ以上何の言葉も聞きたくなくて、会釈をして暁龍の部屋を出る。与えられた二階の居室へは戻りたくなかった。ふと、玄関の方に目線が吸い寄せられる。
「…別に、いいよね」
誰にともなくそう呟く。その足取りはそのまま誘われる様に暁龍の屋敷の門をくぐり、着の身着のまま夕闇に染まる街へと繰り出していった。
別にいいよね。ここにいられないのなら。いなくなっても、構わないよね。
*
日のすっかり落ちた歓楽街は、けばけばしいネオンや下品な客引き、猥雑なホログラム広告に溢れている。正直な話、娼館からも滅多に出たことのない身からすると、歓楽街の人ごみは恐ろしい以外の何物でもなかったが、今はただ、遠くに行きたかった。人ごみから逃れる為に、大通りを壁伝いに進み裏路地へと滑り込む。衝動のままに、脚を動かし出鱈目に進む。頭の中では何度も、暁龍の言葉を反芻していた。
(手を放すつもりだったのなら、最初から掴まなければよかったのに。)
(まさかこんなに欠陥品だとは思っていなかったのでしょう。ええ、それは僕も一緒です。)
けど、けれど、初めて出会ったあの時から、どうしようもなく貴方に惹かれてしまった。
「そばにいられなきゃ、意味がない」
じわりと目頭が熱くなる。視界の中でネオンが滲む。屋敷を出てから止まることを忘れていた脚は、ここでようやくその速度を緩め、とうとうしゃがみ込んでしまった。
(お屋敷、どうなってるかな…僕がいないこと、ばれちゃってるよね)
まさか探しに出てくれている、なんてことはあるまい。一瞬よぎった甘い考えに思わず苦笑する。そんなはずはない。むしろいない方が好都合なのだから。膝を抱える手に一層の力がこもる。
「お嬢ちゃん、一人?」
前方から、声がかかった。ゆるゆると顔を持ち上げれば目の前には男が三人。路地裏に落ちた影で顔はよく言えないが、此方を伺う爛々とした瞳からは、ある種馴染んだ雰囲気を感じ取れる。これは好奇と、欲望の目だ。
「なん、ですか」
つっかえながらも、辛うじて声を絞り出す。
「あれ、君もしかして男かぁ。」
男の一人が意外そうな顔をする。すると、横から他の男が口を挟んできた。
「…でも上玉だぜ。性別に糸目つけない奴になら高値で売れる。」
ゾッとした。人身売買のブローカーか、それに近しいものに捕まったのだと、ここでようやく理解する。感情に任せてこんな人気のないところまで来てしまった自分の軽率さを後悔したところで、もう遅い。とっさに走って逃げようと試みるも、疲労困憊の脚はあっという間にもつれ、転倒してしまった。
「あっっ‼」
「は、何やってんだよ鈍くせぇなぁ…おいお前、押さえとけ。」
リーダーと思しき男が支持すると、さっと後ろに回った男達に二人がかりで腕を押さえつけられた。とっさに抵抗を試みるも、「大人しくしてろ!」と横面をしたたかに打ち据えられて怯んでしまった。何をされるか分からない恐怖に身体が硬直する。
リーダーと思しき男はそんな様子を鼻で笑うと、懐から何かを取り出した。
「…今大人しくさせるから、お前らちゃんと固定しとけよ。」
ぎくり、と男の手元に視線が釘付けになる。男の手には、注射器が握られていた。瞬間、娼館での記憶がフラッシュバックする。大きな手に押さえつけられて、鋭い針が腕に迫る光景。皮膚を突き破って流し込まれるよくわからないモノ。頭の中をぐちゃぐちゃにかきまわされる感覚が大嫌いだった。きっとあの薬もその類だ。歯の根からガチガチと音が鳴る。
「あ…ぁ…嫌…いやぁ…」
こんなことなら感情に任せて飛び出すんじゃなかった。彼のことだ、きっと何か考え合ってのことなのだと、素直に受け止めるべきだった。それが出来なかったのは自分が子供だったからだ。今一度、後ろから頭をがしりと掴まれ、地面に額を打ち付ける。頭の中に、その様子を客観的に眺めている自分がいる。“諦め”という二文字が頭をよぎり、心が遠のいていく感覚がして、身体から力が抜けていった。
(手を放すつもりだったのなら、最初から掴まなければよかったのに。)
(まさかこんなに欠陥品だとは思っていなかったのでしょう。ええ、それは僕も一緒です。)
けど、けれど、初めて出会ったあの時から、どうしようもなく貴方に惹かれてしまった。
「そばにいられなきゃ、意味がない」
じわりと目頭が熱くなる。視界の中でネオンが滲む。屋敷を出てから止まることを忘れていた脚は、ここでようやくその速度を緩め、とうとうしゃがみ込んでしまった。
(お屋敷、どうなってるかな…僕がいないこと、ばれちゃってるよね)
まさか探しに出てくれている、なんてことはあるまい。一瞬よぎった甘い考えに思わず苦笑する。そんなはずはない。むしろいない方が好都合なのだから。膝を抱える手に一層の力がこもる。
「お嬢ちゃん、一人?」
前方から、声がかかった。ゆるゆると顔を持ち上げれば目の前には男が三人。路地裏に落ちた影で顔はよく言えないが、此方を伺う爛々とした瞳からは、ある種馴染んだ雰囲気を感じ取れる。これは好奇と、欲望の目だ。
「なん、ですか」
つっかえながらも、辛うじて声を絞り出す。
「あれ、君もしかして男かぁ。」
男の一人が意外そうな顔をする。すると、横から他の男が口を挟んできた。
「…でも上玉だぜ。性別に糸目つけない奴になら高値で売れる。」
ゾッとした。人身売買のブローカーか、それに近しいものに捕まったのだと、ここでようやく理解する。感情に任せてこんな人気のないところまで来てしまった自分の軽率さを後悔したところで、もう遅い。とっさに走って逃げようと試みるも、疲労困憊の脚はあっという間にもつれ、転倒してしまった。
「あっっ‼」
「は、何やってんだよ鈍くせぇなぁ…おいお前、押さえとけ。」
リーダーと思しき男が支持すると、さっと後ろに回った男達に二人がかりで腕を押さえつけられた。とっさに抵抗を試みるも、「大人しくしてろ!」と横面をしたたかに打ち据えられて怯んでしまった。何をされるか分からない恐怖に身体が硬直する。
リーダーと思しき男はそんな様子を鼻で笑うと、懐から何かを取り出した。
「…今大人しくさせるから、お前らちゃんと固定しとけよ。」
ぎくり、と男の手元に視線が釘付けになる。男の手には、注射器が握られていた。瞬間、娼館での記憶がフラッシュバックする。大きな手に押さえつけられて、鋭い針が腕に迫る光景。皮膚を突き破って流し込まれるよくわからないモノ。頭の中をぐちゃぐちゃにかきまわされる感覚が大嫌いだった。きっとあの薬もその類だ。歯の根からガチガチと音が鳴る。
「あ…ぁ…嫌…いやぁ…」
こんなことなら感情に任せて飛び出すんじゃなかった。彼のことだ、きっと何か考え合ってのことなのだと、素直に受け止めるべきだった。それが出来なかったのは自分が子供だったからだ。今一度、後ろから頭をがしりと掴まれ、地面に額を打ち付ける。頭の中に、その様子を客観的に眺めている自分がいる。“諦め”という二文字が頭をよぎり、心が遠のいていく感覚がして、身体から力が抜けていった。
「そこまでにしてもらおうか。」
凛とした声が、路地裏に響き渡った。その声に、遠くへいっていた感情が強引に引き戻される。そんなはずはない。まさか、そんな都合のいいこと、あるわけがない。
「んだテメェ…?おい、騒がれると面倒だ。片づけとけ。」
リーダーの指示に、男の一人が離れていく。拘束がほんの少しだけ緩くなったが、しかし依然として体格差のある男性にマウントを取られている状況では、体を動かすことは叶わない。
「おにいさーん、ここはひとつ、見なかったことにしてもらえませんかねぇ。」
シャン、と金属の擦れる音がした。男たちの中にはナイフを所持している者もいたから、おそらく、それで黙らせようとしているのだろう。
「その子の保護者だ。大人しく開放してくれれば、手荒なことはしない。」
突然の闖入者の発言に、男たちはゲラゲラと下品な笑い声を立てる。
「はぁ?あんた、状況分かって言ってる?」
「オニイサンこそ、回れ右してさっさと帰んなよ。痛い目見たくなきゃさぁ。」
「んだテメェ…?おい、騒がれると面倒だ。片づけとけ。」
リーダーの指示に、男の一人が離れていく。拘束がほんの少しだけ緩くなったが、しかし依然として体格差のある男性にマウントを取られている状況では、体を動かすことは叶わない。
「おにいさーん、ここはひとつ、見なかったことにしてもらえませんかねぇ。」
シャン、と金属の擦れる音がした。男たちの中にはナイフを所持している者もいたから、おそらく、それで黙らせようとしているのだろう。
「その子の保護者だ。大人しく開放してくれれば、手荒なことはしない。」
突然の闖入者の発言に、男たちはゲラゲラと下品な笑い声を立てる。
「はぁ?あんた、状況分かって言ってる?」
「オニイサンこそ、回れ右してさっさと帰んなよ。痛い目見たくなきゃさぁ。」
―――瞬間、風が一陣巻き起こった。
次いで土嚢を落とした時のような重い音と土埃。頭上を何かが靡いていった影を地面に捉える。あっと思った瞬間にはごきりと嫌な音がして、腕の拘束が緩み、何かが足元に倒れたのが分かった。静寂の訪れに恐る恐る面を上げる。
「…どうして」
月明かりを背に立つ暁龍は、まさしく死神のようにも見えて。
「生憎と職業柄、人探しは得意でな。」
立て。と腕を引かれ、よろよろと立ち上がった。途中脚がもつれて倒れこみそうになり、暁龍に抱き留められる。長袍に焚き染められた白檀の香りに、張り詰めていた緊張が解けてゆく。…そういえば三人組はどうなったのだろう。ぐるりと周囲を見渡して、「ひっ…」と息をのんだ。皆、首が折れていた。あの一瞬の間に三人の男を組み伏せたというのか。いやそれよりも、この、目の前の男はこうも簡単に人の命を摘み取れる力を持っているのだという、その事実に愕然とした。こちらの動揺を感じ取ったのであろう暁龍が、口を開いた。
「…お前が望む私の世界とは、こういう世界だ。道を外れ命を摘み取る。他でもない他人の、利己的な目的のために。自分では全く手を汚そうともしない人間たちの下について、恨みばかりをいたずらに買う。…そんなものに、誰が好き好んでなりたいと思う。したいと、思う。」
月明かりの逆光で表情は上手く分からない。だが抱き留められた手に力がこもっているのが分かる。
「過去にもあった。身寄りのない子供を上から押し付けられて、殺し屋に育てろと。言われるがままに育ててきたが…結局、皆駄目だった。…何故だかわかるか」
言葉を返せない。
「彼等には選択の意志がなかったからだ。言われたことを只こなす忠実な殺し屋ならすぐに出来た。だが、それまでだ。」
何のために人を殺めるのか。それは逆らえば命がないから?命令に従っていれば自分が生きながらえるから?よく分からない。考えがまとまらない。けれど、彼が苦しんでいるということは分かる。なら自分は、自分の想いは、こう伝えるべきだ。
「…ぼくは、僕はあなたを、置いていきません。あなたに、ついていきたいこの気持ちは…僕の、選択です。」
そうだ。掬い出してくれたのはあなた。けれどその手を取ったのは他でもない、自分だ。選択しろというのならどうか、僕の伸ばした手を拒まないでほしい。
「…その目はどうにもいけないな。絆されそうになる。」
「…え、うわ…!」
身体の浮き上がる感覚に抱き上げられたのだと分かった。月光の影になっていた表情がようやく光の下に照らされる。僅かばかり眦を下げた表情には、憑き物が落ちたような穏やかさが見て取れた。静謐な夜の海に暁光が射したような、そんな表情だ。
「…そういえば、お前に…名前を付けてなかったな」
「え…?――あ。」
名前。そうか。あの時捨てたままだったのだっけ。
「好きに名乗るといい。」
帰ろう、と歩き出す暁龍の肩口に頭を埋める。ああやっぱり、この人の腕の中はひどく落ち着く。名前なんてなんでもいいと思ったけれども、どうせ名乗るなら好きになれる名前がいい。
「…なら、貴方が付けてください。」
貴方と同じ、龍のつく名前がいいです。かっこいい名前に、してくださいね。
「…どうして」
月明かりを背に立つ暁龍は、まさしく死神のようにも見えて。
「生憎と職業柄、人探しは得意でな。」
立て。と腕を引かれ、よろよろと立ち上がった。途中脚がもつれて倒れこみそうになり、暁龍に抱き留められる。長袍に焚き染められた白檀の香りに、張り詰めていた緊張が解けてゆく。…そういえば三人組はどうなったのだろう。ぐるりと周囲を見渡して、「ひっ…」と息をのんだ。皆、首が折れていた。あの一瞬の間に三人の男を組み伏せたというのか。いやそれよりも、この、目の前の男はこうも簡単に人の命を摘み取れる力を持っているのだという、その事実に愕然とした。こちらの動揺を感じ取ったのであろう暁龍が、口を開いた。
「…お前が望む私の世界とは、こういう世界だ。道を外れ命を摘み取る。他でもない他人の、利己的な目的のために。自分では全く手を汚そうともしない人間たちの下について、恨みばかりをいたずらに買う。…そんなものに、誰が好き好んでなりたいと思う。したいと、思う。」
月明かりの逆光で表情は上手く分からない。だが抱き留められた手に力がこもっているのが分かる。
「過去にもあった。身寄りのない子供を上から押し付けられて、殺し屋に育てろと。言われるがままに育ててきたが…結局、皆駄目だった。…何故だかわかるか」
言葉を返せない。
「彼等には選択の意志がなかったからだ。言われたことを只こなす忠実な殺し屋ならすぐに出来た。だが、それまでだ。」
何のために人を殺めるのか。それは逆らえば命がないから?命令に従っていれば自分が生きながらえるから?よく分からない。考えがまとまらない。けれど、彼が苦しんでいるということは分かる。なら自分は、自分の想いは、こう伝えるべきだ。
「…ぼくは、僕はあなたを、置いていきません。あなたに、ついていきたいこの気持ちは…僕の、選択です。」
そうだ。掬い出してくれたのはあなた。けれどその手を取ったのは他でもない、自分だ。選択しろというのならどうか、僕の伸ばした手を拒まないでほしい。
「…その目はどうにもいけないな。絆されそうになる。」
「…え、うわ…!」
身体の浮き上がる感覚に抱き上げられたのだと分かった。月光の影になっていた表情がようやく光の下に照らされる。僅かばかり眦を下げた表情には、憑き物が落ちたような穏やかさが見て取れた。静謐な夜の海に暁光が射したような、そんな表情だ。
「…そういえば、お前に…名前を付けてなかったな」
「え…?――あ。」
名前。そうか。あの時捨てたままだったのだっけ。
「好きに名乗るといい。」
帰ろう、と歩き出す暁龍の肩口に頭を埋める。ああやっぱり、この人の腕の中はひどく落ち着く。名前なんてなんでもいいと思ったけれども、どうせ名乗るなら好きになれる名前がいい。
「…なら、貴方が付けてください。」
貴方と同じ、龍のつく名前がいいです。かっこいい名前に、してくださいね。
*
♪黄金(こがね) まばゆき 鞍置きわたし
駒のひずめの音高し
魂込めし 業物にない
幾年 共に鍛えたる
駒のひずめの音高し
魂込めし 業物にない
幾年 共に鍛えたる
腕の力競いてみん
いざや友よ 連れだちて
空は緑 気は澄みて
獲物は山に 野に満てり
ララララ・・・
いざや友よ 連れだちて
空は緑 気は澄みて
獲物は山に 野に満てり
ララララ・・・
『―――魔弾の射手、か』
青年が耳にはめたインカムから、落ち着いたテノールが滑り込んでくる。
「…そんな名前でしたっけ?大哥(ダイゴー)のレコードを聴いて覚えただけなので。」
これしか覚えてないんです。青年がくつくつと立てた笑い声がエレベーターの中で反響する。美しい青年だった。少し癖のあるブロンドに、眼光鋭い翡翠の瞳は西洋人のそれだが、纏う衣服は長袍という奇妙ないでたちのその青年はしかし、一見すれば不釣り合いにも感じかねない自身の風体を完全に封殺するエキゾチックな魅力をたたえている。
青年の声は、インカムの声の主には余程上機嫌に聞こえたのだろう。仕事中だぞと叱責が飛び、それに対して青年は「はいはい」と返事をする。
「―――もうすぐ最上階です。」
『手筈は分かっているな…鳳龍(フォンロン)。終わり次第報告を。』
「是、暁龍大哥。…仰せのままに。」
鳳龍と呼ばれた青年は、右肩にかけた得物を掴みなおし、さて、と気を引き締める。階層ランプは依然するすると上昇を続けている。十五階、二十階、二十二階、二十三階‥‥
ポン、とエレベーターの上昇が止まる。最上階、二十四階への到着の合図だ。
エレベーターの扉が開くと同時に一斉に集まった視線に向かって、鳳龍は口を開いた。
「つかぬことをお伺いしますが」
それは世間話をするような語調であった。
「この中にO型の方はいらっしゃいますか?」
突然の闖入者である鳳龍に集まった視線には、戸惑いと怯えの表情が見て取れる。当然だ。この部屋はビルの最上階に位置する所謂支配人室で、エレベーターを出てすぐ外が部屋と直結する特殊な作りになっている。エレベーターで最上階フロアへ行くには、従業員の承認が必要になるプログラムも設定してあるので、原則としてこのフロアに来られるのは従業員、もしくは許可を得た来客のみである。
であるからして、つまり、それ以外のものが訪れるとするならば、そいつはまず間違いなく―――……
鳳龍はなおも続ける。よくよく見れば、彼の足元には、何かが蟠っていた。
「…この人。早く治療してあげてください。色々吐いてもらうまでに…随分、手荒に扱ってしまったので。」
蟠る何かを鳳龍は無造作に箱の外に放り出す。どしゃり、と土嚢を放り投げた時のような音が響くが、エレベーターとフロアの境を横断するように横たわるそれは勿論、土嚢などではない。果たしてそれは、中年男であった。顔はパンパンに腫れあがり、抜歯でもされたのか、口内からがふがふと血を吐いている。…よく見れば両手の爪も無い。フロアの男たちには、その中年男に見覚えがあった。確か、先月用心棒として雇った…
「た、たすけて」
中年男は小さく呟いた。
その声でようやく我に返ったのか、フロアの男たちは弾かれた様に動き出し、鳳龍を睨み据える。
「テメェッッ!!!!三合会か!!!!」
部屋の奥、重厚なオークの机に座る老人を守るようにして、男たちが一斉に銃を抜き放った。が、彼等が引き金を引くより速く、撃鉄を起こすより速く、鳳龍は外套の影から肩にかけていた得物を―アサルトライフルだった―を抜き放ち、フロア全体にめがけて一斉掃射する。マズルフラッシュが瞬き、彼らの身体が歪に踊る。瞬間、頽れた男たちの挟間から垣間見えたおびえた老人と、鳳龍の視線がかち合った。
「あなたを随分探したんですよ」
鳳龍の銃声が止み、その声が室内によく通るようになる頃には、その空間にはもはや鳳龍と老人を除き、生きている者は存在しなくなっていた。鳳龍はつかつかと、氷の微笑を張り付かせながら、枯れ木のような老人にゆったりとした足取りで近づいていく。
「まさかトーキョーまで逃げ延びていたなんて思いませんでした。その様子だと…ふむ、随分甘い蜜を吸わせてもらっていたみたいですね。」
重厚なオークの机で怯える老人に、まるで品定めをするかのような不躾な視線を投げる。仕立てのいいテーラースーツだ。ぐるりと見渡した室内の内装もシックに統一され、品のいいファブリックが目を引く。
「ど、どこの構成員だ?香主は?いくら積まれたか知らないが、か、金ならその倍は出す。だ、だから…」
「見逃してくれって?」
老人の言葉尻を捉える形で鳳龍が言葉を引き継ぐ。三日月のように弧を描く口角とは対照的に、その瞳はひどく冷たい。
「違うんですよねぇ…お金じゃないんですよ。残念ながら、私の行動原理は貴方がたとは違うんです。…違うということはつまり、お金だとか、権力だとか、そんなモノしか後ろ盾のない貴方のみっともない命乞いは…」
ゆったりと腕を持ち上げアサルトライフルの照準を老人に合わせる。
「全くもって、無意味なものなのです。」
月の女神もかくや、という微笑を浮かべながら、美貌の殺し屋は引きがねに手をかけた。
青年が耳にはめたインカムから、落ち着いたテノールが滑り込んでくる。
「…そんな名前でしたっけ?大哥(ダイゴー)のレコードを聴いて覚えただけなので。」
これしか覚えてないんです。青年がくつくつと立てた笑い声がエレベーターの中で反響する。美しい青年だった。少し癖のあるブロンドに、眼光鋭い翡翠の瞳は西洋人のそれだが、纏う衣服は長袍という奇妙ないでたちのその青年はしかし、一見すれば不釣り合いにも感じかねない自身の風体を完全に封殺するエキゾチックな魅力をたたえている。
青年の声は、インカムの声の主には余程上機嫌に聞こえたのだろう。仕事中だぞと叱責が飛び、それに対して青年は「はいはい」と返事をする。
「―――もうすぐ最上階です。」
『手筈は分かっているな…鳳龍(フォンロン)。終わり次第報告を。』
「是、暁龍大哥。…仰せのままに。」
鳳龍と呼ばれた青年は、右肩にかけた得物を掴みなおし、さて、と気を引き締める。階層ランプは依然するすると上昇を続けている。十五階、二十階、二十二階、二十三階‥‥
ポン、とエレベーターの上昇が止まる。最上階、二十四階への到着の合図だ。
エレベーターの扉が開くと同時に一斉に集まった視線に向かって、鳳龍は口を開いた。
「つかぬことをお伺いしますが」
それは世間話をするような語調であった。
「この中にO型の方はいらっしゃいますか?」
突然の闖入者である鳳龍に集まった視線には、戸惑いと怯えの表情が見て取れる。当然だ。この部屋はビルの最上階に位置する所謂支配人室で、エレベーターを出てすぐ外が部屋と直結する特殊な作りになっている。エレベーターで最上階フロアへ行くには、従業員の承認が必要になるプログラムも設定してあるので、原則としてこのフロアに来られるのは従業員、もしくは許可を得た来客のみである。
であるからして、つまり、それ以外のものが訪れるとするならば、そいつはまず間違いなく―――……
鳳龍はなおも続ける。よくよく見れば、彼の足元には、何かが蟠っていた。
「…この人。早く治療してあげてください。色々吐いてもらうまでに…随分、手荒に扱ってしまったので。」
蟠る何かを鳳龍は無造作に箱の外に放り出す。どしゃり、と土嚢を放り投げた時のような音が響くが、エレベーターとフロアの境を横断するように横たわるそれは勿論、土嚢などではない。果たしてそれは、中年男であった。顔はパンパンに腫れあがり、抜歯でもされたのか、口内からがふがふと血を吐いている。…よく見れば両手の爪も無い。フロアの男たちには、その中年男に見覚えがあった。確か、先月用心棒として雇った…
「た、たすけて」
中年男は小さく呟いた。
その声でようやく我に返ったのか、フロアの男たちは弾かれた様に動き出し、鳳龍を睨み据える。
「テメェッッ!!!!三合会か!!!!」
部屋の奥、重厚なオークの机に座る老人を守るようにして、男たちが一斉に銃を抜き放った。が、彼等が引き金を引くより速く、撃鉄を起こすより速く、鳳龍は外套の影から肩にかけていた得物を―アサルトライフルだった―を抜き放ち、フロア全体にめがけて一斉掃射する。マズルフラッシュが瞬き、彼らの身体が歪に踊る。瞬間、頽れた男たちの挟間から垣間見えたおびえた老人と、鳳龍の視線がかち合った。
「あなたを随分探したんですよ」
鳳龍の銃声が止み、その声が室内によく通るようになる頃には、その空間にはもはや鳳龍と老人を除き、生きている者は存在しなくなっていた。鳳龍はつかつかと、氷の微笑を張り付かせながら、枯れ木のような老人にゆったりとした足取りで近づいていく。
「まさかトーキョーまで逃げ延びていたなんて思いませんでした。その様子だと…ふむ、随分甘い蜜を吸わせてもらっていたみたいですね。」
重厚なオークの机で怯える老人に、まるで品定めをするかのような不躾な視線を投げる。仕立てのいいテーラースーツだ。ぐるりと見渡した室内の内装もシックに統一され、品のいいファブリックが目を引く。
「ど、どこの構成員だ?香主は?いくら積まれたか知らないが、か、金ならその倍は出す。だ、だから…」
「見逃してくれって?」
老人の言葉尻を捉える形で鳳龍が言葉を引き継ぐ。三日月のように弧を描く口角とは対照的に、その瞳はひどく冷たい。
「違うんですよねぇ…お金じゃないんですよ。残念ながら、私の行動原理は貴方がたとは違うんです。…違うということはつまり、お金だとか、権力だとか、そんなモノしか後ろ盾のない貴方のみっともない命乞いは…」
ゆったりと腕を持ち上げアサルトライフルの照準を老人に合わせる。
「全くもって、無意味なものなのです。」
月の女神もかくや、という微笑を浮かべながら、美貌の殺し屋は引きがねに手をかけた。
*
「―――あー、あー…大哥、暁龍大哥、聞こえますか?」
『―――聞こえている。状況を説明しろ。』
「万事つつがなく、完了いたしました。今回の件で、ディオゲネス・クラブの残党狩りは大方済んだものと思われます。…あの老獪、天堂から逃げ出して何をするかと思えば日系ヤクザと手を組もうとしていたんですよ。笑っちゃいますね。」
大人しく隠居していれば見逃されたものを。ことに人の欲とは底なしである。
通信を繋ぎながらふと、ビルの最上階、全面ガラス張りの窓の外に視線を移す。高層階から眺めるトーキョーの夜景はまるで満艦飾の様相を呈している。美しいが、歪な街だ。この眩さと闇の濃さはあらゆるものを覆い隠してしまう。
眩しげに目を細めた鳳龍の頭の中で、再びかの旋律が泡沫のように浮かんでは消えてゆく。擦り切れたレコード盤から流れる、ノイズ交じりのクワイアが酷く懐かしく想えて、今一度唇を開いた。
『―――聞こえている。状況を説明しろ。』
「万事つつがなく、完了いたしました。今回の件で、ディオゲネス・クラブの残党狩りは大方済んだものと思われます。…あの老獪、天堂から逃げ出して何をするかと思えば日系ヤクザと手を組もうとしていたんですよ。笑っちゃいますね。」
大人しく隠居していれば見逃されたものを。ことに人の欲とは底なしである。
通信を繋ぎながらふと、ビルの最上階、全面ガラス張りの窓の外に視線を移す。高層階から眺めるトーキョーの夜景はまるで満艦飾の様相を呈している。美しいが、歪な街だ。この眩さと闇の濃さはあらゆるものを覆い隠してしまう。
眩しげに目を細めた鳳龍の頭の中で、再びかの旋律が泡沫のように浮かんでは消えてゆく。擦り切れたレコード盤から流れる、ノイズ交じりのクワイアが酷く懐かしく想えて、今一度唇を開いた。
♪女神ディアナは夜の闇を明るくする術を知り
昼間でも彼女のかげは涼しく さわやか
血生臭いおおかみや
強欲に緑の田畑を掘り荒らす いのししをたおすこと
これぞ王者の喜び 男子のあこがれ
昼間でも彼女のかげは涼しく さわやか
血生臭いおおかみや
強欲に緑の田畑を掘り荒らす いのししをたおすこと
これぞ王者の喜び 男子のあこがれ
翡翠の双眸に、トーキョーの夜景を写しながら、独り、歌う。音程のみを合わせたそっけない旋律の観客は、インカム越しの死神ただ一人。
「これぞ王者の喜び…男子のあこがれ…ふふふ、ねぇ、大哥。」
問いかける声は密やかに、内緒話をするかのようにひそめられる。
「憶えていますか?私の約束。」
“貴方を置いていかない”あの未熟な誓いから十数年。多くの技術を身につけた。多くの人を、殺した。生殺与奪の駆け引きの中で、ただがむしゃらに己の選択を信じて、追いかけてきたのだ。彼と、彼の見る世界を見てみたいという一心から。
―――まぁ、いざ同じ目線まで追い付いてみたら、完全にまるきり大哥の見ていた世界と同じ、という風にはいきませんでしたが。
当然と言えば当然だった。育った環境も違えば価値観も、考え方も違うのだから。
けれど、でも、暁龍と違うということは、鳳龍自身の中に新たな標を見出すことにも繋がった。
「…私はね、大哥。あなたの魔弾でありたいと思うのです。」
悪魔の鋳造した必中の魔弾はいかな獲物をも仕留めることが出来たという。引き金を引くのは射手で、仕留めるのは魔弾。
『―――ふ、お前が魔弾だというのなら、最後の一発は私の手に余ることになるな』
インカムから漏れるかすかな微笑。魔弾の最後の一発は、悪魔の望む箇所へ命中すると言われていたのだったか。
「おや、選択の余地は大事、なのですよね。」
「これぞ王者の喜び…男子のあこがれ…ふふふ、ねぇ、大哥。」
問いかける声は密やかに、内緒話をするかのようにひそめられる。
「憶えていますか?私の約束。」
“貴方を置いていかない”あの未熟な誓いから十数年。多くの技術を身につけた。多くの人を、殺した。生殺与奪の駆け引きの中で、ただがむしゃらに己の選択を信じて、追いかけてきたのだ。彼と、彼の見る世界を見てみたいという一心から。
―――まぁ、いざ同じ目線まで追い付いてみたら、完全にまるきり大哥の見ていた世界と同じ、という風にはいきませんでしたが。
当然と言えば当然だった。育った環境も違えば価値観も、考え方も違うのだから。
けれど、でも、暁龍と違うということは、鳳龍自身の中に新たな標を見出すことにも繋がった。
「…私はね、大哥。あなたの魔弾でありたいと思うのです。」
悪魔の鋳造した必中の魔弾はいかな獲物をも仕留めることが出来たという。引き金を引くのは射手で、仕留めるのは魔弾。
『―――ふ、お前が魔弾だというのなら、最後の一発は私の手に余ることになるな』
インカムから漏れるかすかな微笑。魔弾の最後の一発は、悪魔の望む箇所へ命中すると言われていたのだったか。
「おや、選択の余地は大事、なのですよね。」
そう教えてくれたのは、貴方でしょう?
『―――ああそうだとも。…ならば私の魔弾。早く帰ってきなさい。』
「ええ、ええ。仰せのままに。我が射手の御為ならば。」
夜景に背を向け出口を目指す。エレベーターの扉が開き、乗り込んで直ぐに地上階のボタンを押し込んだ。扉が閉じたその後には、一切の静寂が部屋を支配し、あとはもう、蹴落とされた敗者の物言わぬ死体が、沈黙をおとすのみであった。
「ええ、ええ。仰せのままに。我が射手の御為ならば。」
夜景に背を向け出口を目指す。エレベーターの扉が開き、乗り込んで直ぐに地上階のボタンを押し込んだ。扉が閉じたその後には、一切の静寂が部屋を支配し、あとはもう、蹴落とされた敗者の物言わぬ死体が、沈黙をおとすのみであった。