▼前1世紀

前140年 ハスモン朝
シモン・マカバイ(ハスモン家)はローマと同盟を更新し、ユダヤは独立を得る。
前63年 ハスモン朝滅亡
ローマ将軍ポンペイウス、エルサレム占領。ユダヤは独立を失い、ローマの属州シリアに併合される
前47-前30年 クレオパトラ7世、プトレマイオス朝の王となる。
前47年 ユリウス・カエサル、アンティパテル(ヘロデ大王の父)をガリラヤの総督に任命する
前44年 ユリウス・カエサル、ローマ元老院で暗殺される
前40年 ヘロデ大王、ローマからユダヤ人の王に任命される(属国であり属州ではない)
前37年 ヘロデ大王、エルサレムを征服、王として統治
前36年 ヘロデ大王、妻マリアムネ1世の弟アリストブロス3世を暗殺
妻マリアムネはハスモン朝の血を引いていた。ヘロデはハスモン朝の血を引く者を根絶するため、次々に彼女の血族を殺害して行き、彼女自身も処刑する。
前31年 プトレマイオス王朝滅亡
オクタウィアヌスは、アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラ7世に勝利した。クレオパトラ7世自殺。
前30年 フィロン(前30-後40年)
アレクサンドリアのギリシャ哲学者。旧約聖書(七十人訳)を研究し、哲学的、寓意的に解釈した。後にキリスト教思想に影響を与えた。
前31年 ユダヤで大地震、クムラン教団は壊滅される
前29年 ヘロデ大王、妻マリアムネ1世を処刑
前28年 ヘロデ大王、妻マリアムネ1世の母アレクサンドラを処刑
前27-後14年 オクタヴィアヌス、アウグストゥスの称号を得て、初代ローマ皇帝に即位
前20年 ヘロデ大王、エルサレム神殿の大改修に着手
前7年 ヘロデ大王、自分の二人の息子を処刑する
ヘロデは、妻マリアムネ1世との間に生まれた自分の二人の王子アリストブロス4世とアレクサンドロスを処刑した。この出来事は、『マタイ福音書』の中で、ヘロデがメシアの誕生を恐れて二歳以下の幼児を虐殺した時期に近い。
前7年 アウグストゥスの勅令によるシリア全住民の人口調査
前4年 ヘロデ大王没、三人の息子が分割統治する
ガリラヤとペレアはヘロデ・アンティパスが統治(前4-後39年)、ユダヤ・エドム・サマリアはアルケラオスが統治(前4-後6年)、フィリッポスは北東部を統治(前4-後34年)
前4年頃? イエス誕生
イエス誕生の年は諸説ある。『マタイ福音書』ではイエスはヘロデ大王の治世時に生まれた。また『ルカ福音書』では、イエスの両親はキリニウス(クレニオ)がシリア総督であった時に住民登録が行われた為に故郷のベツレヘムに赴き、そこでイエスを産んでいる。ヘロデ大王の死は前4年、キリニウスの人口調査は後6年となり、9年の誤差がある(前7年のシリア住民の人口調査の勘違いか)。さらに、『ルカ福音書』ではティベリウス帝第15年の時、イエスは”およそ”30歳であった。これを逆算すると、イエス誕生は前2年となる。

▼1世紀

6年 アルケラオスはガリアへ追放され、ユダヤはローマの直轄地(属州)となる
6年 アウグストゥスの勅令により、シリア総督キリニウスによってユダヤ人の人口調査が実施される
6-15年 大祭司アンナス
6-10年 ユダヤ総督コポニウス
10-13年 ユダヤ総督アンピウィウス
13-15年 ユダヤ総督ルフス
14-37年 (第2代)ティベリウス帝
15-26年 ユダヤ総督グラトゥス
18-36年 カヤファ大祭司となる
26-36年 ユダヤ総督ポンテオ・ピラト
28年 洗礼者ヨハネの活動、イエス洗礼を受け宣教を開始する
30年頃? イエス・キリストの十字架刑、ガリラヤとエルサレムでの復活伝承、エルサレム教会成立
キリストの処刑日は、ニサンの月の14日(金曜日)であるが、これに当てはまる日として、30年4月3日と、33年4月1日がある(グレゴリオ暦換算)。このうち、実際に聖書と同じ天体現象が生じているのは33年である。
31年頃 ユダヤ系信者とギリシャ系信者との間で不和が生じる
直接的原因は相互扶助における不平等であった。しかし、根本的な不和の原因は、ユダヤ教の儀礼に関する見方の相違だったと考えられる。エルサレム教会は、七人のギリシャ系信者の代表(ステファノを含む)が援助を専任することに決定する。
32年頃 ステファノ殉教
ユダヤ教に忠実でないとして告発され、ギリシャ系信者の代表者の見せしめとして処刑された。
33年頃 エルサレム教会の迫害
ユダヤ教徒によるエルサレム教会に対する迫害が起きる。ギリシャ系信者は地方に散らされ、地方(サマリア、フェニキア、キプロス、アンティオキア)で宣教を広める。この頃、キリスト教徒は「クリスチャン」と呼ばれるようになる。
34年頃 サウロ(使徒パウロ)の回心
キリスト教徒を迫害していたユダヤ教徒サウロは回心した後、アンティオキア教会を宣教の拠点とした。
35年頃 教父アンティオキアのイグナティオス誕生(35-110年頃)
36年頃 異邦人コリネリウスの洗礼
使徒ペテロ、ヨッパでローマ軍の百人隊長コリネリウスに洗礼を授ける。これにより、異邦人への洗礼が承認される。
36-38年 ユダヤ総督マルケルス
37年 フラウィウス・ヨセフス誕生(37-100年頃)
ユダヤ人歴史家。『ユダヤ戦記』(80年頃)、『ユダヤ古代誌』(94年頃)
37-41年 (第3代)カリグラ帝
38-41年 ユダヤ総督マリルス
41-44年 ヘロデ・アグリッパ1世、ユダヤの王となる(属州から属国になる)
41-54年 (第4代)クラウディウス帝
44年 使徒ヤコブ、エルサレムで殉教
44年 使徒ペテロ投獄・脱出し、パレスチナで宣教する
44年 ヘロデ・アグリッパ1世没
カイサリアで観劇中、心臓から胃を貫く激痛が走り、その5日後に死亡した。
44-46年 ユダヤ総督ファドゥス(再び属州になる)
44-48年 ローマ帝国内で大飢饉が起きる
歴史家ヨセフスが報告しているこの飢饉は、使徒11:28でアガボが預言した飢饉に相当する。
46-48年 ユダヤ総督アレクサンドロス
47-59年 大祭司アナニア
48-93年頃 ヘロデ・アグリッパ2世、ユダヤを統治
ヘロデ王朝最後の王。但し、ユダヤはローマの直轄地となり、王の下に総督が置かれた。その為、王権は弱く、総督に気を遣わねばならなかった(59年頃、新任のユダヤ総督フェストゥスを訪問している)。成人すると、48年、エルサレム神殿の監督権を与えられた。
56年、使徒パウロがローマ軍に捕縛された時に開かれた法廷でパウロと対決している。66年、ユダヤ戦争時に蜂起したユダヤ人らに殺害された。
47年 使徒パウロの第一回宣教旅行
アンティオキア教会から、バルナバ、パウロ、マルコの三人で出発。途中でマルコは帰ってしまう(異邦人に割礼を施すか否かという問題における意見の相違が原因か)。
48-52年 ユダヤ総督クマヌス
48年 エルサレム使徒会議
異邦人に割礼を施すか否かという問題に関する会議。ヤコブ、ペテロ、ヨハネは、バルナバとパウロの意見に同意する。また、ヤコブ、ペテロ、ヨハネはユダヤ人に伝道し、バルナバとパウロは異邦人に伝道することが決定。さらに、パウロとバルナバはエルサレム教会を経済的に援助することで、エルサレム教会とアンティオキア教会の連帯が結ばれた。また、律法に関しては、①偶像に捧げられた肉、②血、③血抜きしていない肉 を食べないことと、④性的な不品行 さえ厳守すれば、異邦人の信仰は受け入れられると決定された。
49-52年 使徒パウロの第二回宣教旅行
バルナバはマルコも連れて行こうとしたが、パウロはこれを拒否し、単独で宣教旅行へ出かけた。代わりに、途中でテモテを同行者とした。今回は小アジアの後、マケドニア・アカイア州(フィリピ、テサロニケ、アテネ、コリント)を旅し、エフェソス、エルサレムを経てアンティオキアに戻っている。
50年頃 シモン・マグス(魔術師シモン)
あらゆる異端の父。フィリポから洗礼を受けるが、按手の力を金銭で買おうとして使徒ペテロから叱責される(使徒8:9-24)。その後ローマに逃亡し、神として祀られた。マルキオン派やグノーシス派の根源となった。
50-60年代 『マルコ福音書』
50/51年頃 使徒パウロ『第一テサロニケ書簡』
52-59年 ユダヤ総督フェリクス
53年 エウオティウス、アンティオキア司教(初代)就任(53-68年)
53-56年 使徒パウロの第三回宣教旅行
パウロの同行者はテトス、テモテ。エルサレム教会のための献金集めが目的の一つだった。エフェソスでは恐らく投獄され、その間に三通の書簡(ガラテア書、第一・二コリント書)を著した。またコリントに滞在している間に『ローマ書簡』を著している。各地の献金を携えてエルサレムへ戻ったが、ユダヤ人の暴徒に襲われ、ローマ軍に逮捕される。
53-54年頃 使徒パウロ『ガラテア書簡』
54-68年 (第5代)ネロ帝
55年頃 タキトゥス(55頃-120年頃)
ローマの歴史家。『年代記』(115年頃)
55-56年頃 使徒パウロ『第一・二コリント書簡』
56年頃 使徒パウロ『ローマ書簡』
58-63年 パルティア戦争(第四次)
58-59年 使徒パウロ、ローマへ護送される
総督フェリクスはパウロを二年間拘禁したままにし、後任のフェストゥスはパウロをローマに護送した。この時、新任のユダヤ総督フェストゥスを訪問したアグリッパ2世とも会談している。途中、クレタ島で遭難しつつ、ローマに到着。ローマでは軟禁状態だったので、二年間はローマで宣教したと云われる。
59-61年 ユダヤ総督フェストゥス
60年 ヒエラポリスのパピアス(60-135年)
ヒエラポリス司教。『主の言葉の解釈(パピアス断片)』(130年頃)
60-62年 使徒パウロ『フィレモン書簡』『フィリピ書簡』
60年頃 使徒パウロ、ローマで殉教
伝承では、ローマ市民だったため、十字架刑でなく斬首刑となった。
61-65年 ユダヤ総督アルビヌス
62年 ヴェスヴィオ火山による大地震
62年 主の兄弟ヤコブ(エルサレム教会初代司教)、エルサレムで殉教
大祭司アンナスの子アンナスによって、律法違反の罪で石打ち刑に処せられる。
62年 シメオン(ヨセフの弟クロパの子、イエスの従兄弟)、エルサレム司教(2代)就任(62年-107年頃)
120歳の時に殉教。
62年 アンニアヌス、アレクサンドリア司教(初代)就任(62-84年)
64年 ローマの大火
64年7月19日、ローマ市街の大競技場から火が出て、ローマ市一帯が大火事となった。ローマ市民の間では、実はネロ帝が放火したのではないかとの風評が広がった。こうした風評を消そうとして、ネロはキリスト教徒を反ローマと放火の罪で処刑したという。
65年頃 テブティス派、シモン派、クレオビウス派、ドシテウス派、ゴルタイウス派、マスボタイウス派などの異端が活動する。
65-70年 ユダヤ総督フロルス
66年 第一次ユダヤ戦争
66年5月、総督フロルスがエルサレム神殿から17タラントを押収し、抗議するユダヤ市民を虐殺したことで戦争が勃発した。6月、熱心党(ゼロータイ)は、マサダ要塞を占拠し、ユダヤ独立を宣言する。8月、反乱軍はアントニアの塔を制圧し、新ローマ派の元大祭司アナニアを殺害。これに対し、10月15,16日、ローマのシリア総督ケスティウス・ガルスは3万の軍隊を引き連れて進軍開始。11月17日にエルサレムを攻囲する。しかし、11月25日、ガルスの軍隊は不可解にも一時撤退する。
66年頃 エルサレム教会の信者たちは、ユダヤ戦争の戦乱から逃れるために、ヨルダン川の東北部にあるペレアの山地に移住する。
67年 5-6月、将軍ウェスパシアヌス、息子ティトゥスと共にガリラヤに侵攻開始
67年 ローマで使徒ペテロ殉教(逆さ十字架刑)
伝承では、ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教した。4世紀に、ペテロの墓地の上にサン・ピエトロ大聖堂が建てられた。
67年 リヌス、ローマ司教(初代)就任(67-76年頃)
68-69年 (第6代)ガルバ帝
68年 イグナティオス、アンティオキア司教(2代)就任(68-104年)
69年頃 スミルナのポリュカルポス(69頃-155年頃)
スミルナ司教。使徒ヨハネの弟子。主の目撃者でもある。殉教者。『ポリュカルポスの手紙』(155年頃)
69年 (第7代)オト帝
69年 (第8代)ウィテッリウス帝
69-79年 (第9代)ウェスパシアヌス帝
70年 ローマ軍、エルサレムを再び包囲し、エルサレム陥落
将軍ウェスパシアヌスは軍事作戦を息子ティトゥスに委ねる。4月3日~8月30日の間、ティトゥスはエルサレムに塁壁を築いて攻囲する。7月12日、エルサレム神殿の壁が破られる。8月30日、エルサレム神殿は陥落・炎上する。9月26日、エルサレム市陥落。ティトゥスは市内に入場し、凱旋帰国する。
70年 ユダヤ教指導者(ヨハナン・ベン・ザッカイ)はサンヘドリンをヤムニアに移転する
その後も、80年にガリラヤのウシャに、193年にガリラヤのディベリアに移転している。
70年頃 メナンドロス派の活動。
魔術師シモンの後継者。グノーシス主義者。
70-80年代 『ルカ福音書』『使徒行伝』
70-80年代 『ヨハネ福音書』(教会編集は2世紀前半、125年以前)
70-100年頃 『ヤコブ書簡』
70-80年 コロッセオ建設
70-72年 ユダヤ総督ケリアリス
72-75年 ユダヤ総督バッスス
73年 5月2日、マサダ要塞の陥落(第一次ユダヤ戦争終結)
ローマ軍に突破されると、籠城していたユダヤ人は全員自決した。
75-86年 ユダヤ総督サルウィエヌス
76年 アネンクレトス、ローマ司教(2代)就任(76-88年頃)
79年 8月24日、ヴェスビオ火山噴火、ポンペイ市埋没
79-81年 (第10代)ティトゥス帝
80年 ユダヤ教のサンヘドリン、ガリラヤのウシャに移転
80年頃 ヨセフス『ユダヤ戦記』
80年頃 サトルニヌス派の活動(グノーシス主義)
アンティオキア出身。メナンドロス派からの派生。シリアに異端の学校を創設。
80年頃 ニコラオ派の活動。
80-90年代 『マタイ福音書』
80-110年頃 『エフェソス書簡』『コロサイ書簡』
80-140年頃 『第二テサロニケ書簡』
81-96年 (第11代)ドミティアヌス帝
84年 アビリウス、アレクサンドリア司教(2代)就任(84-97年)
86年 ユダヤ総督シルウァ
86年 ユダヤ総督ロンギヌス
88年 クレメンス、ローマ司教(3代)就任(88-97年頃)
伝承ではフィリピ4:3の人物。『クレメンスの第一の手紙』の著者。
90年 ユダヤ教、ヤムニア会議で旧約聖書正典確定
90年頃 ケリントス派の活動
キリストの千年王国は地上に到来すると説いた異端。
94年頃 ヨセフス『ユダヤ古代誌』
95年頃 ドミティアヌス帝によるキリスト教迫害
この頃、使徒ヨハネ(別の長老ヨハネ?)はパトモス島に流刑にされ、『ヨハネ黙示録』を執筆する。
96年(ドミティアヌス帝第15年) フラウィア・ドメティラ(ローマの執政官フラウィウス・クレメンスの姪)、キリストを証してポンテイア島に流罪。
90年代半ば頃 『ヨハネ黙示録』
96年9月18日 ドミティアヌス帝暗殺
96-98年 (第12代)ネルウァ帝
ドミティアヌス帝迫害後、使徒ヨハネはエフェソスで暮らし、トラヤヌス帝の時代まで生きた。フィリポと四人の娘(預言者)、使徒ヨハネはアジア(エフェソス)にある墓に眠ると伝えられる。エウセビオスによれば、ヨハネの墓は二種類(使徒ヨハネと長老ヨハネのものが)あったという。
96年頃 ローマのクレメンス『クレメンスの第一の手紙』(使徒教父文書)
ローマ司教クレメンスからコリント教会に宛てた書簡。教会の分裂を戒める。教会のヒエラルキー(父→キリスト→使徒→司教→助祭)について論じていることから、初期カトリシズムの芽生えが見える。
97年 エウァレストス、ローマ司教(4代)就任(97-107年頃)
97年 ケルド、アレクサンドリア司教(3代)就任(97-110頃)
98-117年 (第13代)トラヤヌス帝
キリスト教を迫害した。イグナティオスはこの迫害で殉教している。トラヤヌス帝と小プリニウスの往復書簡から、当時の迫害の様子が伺える。
魔術師シモンの後継者(メナンドロス)、エビオン派、ケリントス(ケリントス派)、ニコラオ(ニコラオ派)などの異端が活発化する。
1世紀末~2世紀初め 『第一ペテロ書簡』『ヘブライ書簡』『第一・二・三ヨハネ書簡』

▼2世紀

100年頃 ユスティノス誕生(100頃-165年頃)
パレスチナ出身。プラトン哲学を学ぶ。150年頃、ローマにキリスト教哲学学校を開設。主著『第一弁明』(150-155年頃)、『第二弁明』(150-155年頃)、『ユダヤ人トリュフォンとの対話』(150-160年)
106/107年 エルサレム教会司教シメオン、殉教
トラヤヌス帝時の迫害で、執政官アッティクスの時(106/107年)、エルサレム司教のシメオンは殉教する(120歳)。ユダヤ人キリスト教徒の教会史家ヘゲシッポス(110-180年)の見解によれば、シメオンの死により、主イエスを直に知る使徒や司教らが途絶えたことで、以後、純潔な教会の中に背教や異端が入り込むようになった。但し、使徒の直弟子・主の目撃者であるポリュカルポスはまだ生きていた。
107年 ユストス、エルサレム司教(3代)就任(107-?)
107年 アレクサンドロス、ローマ司教(5代)就任(107-115年頃)
110年 プリムス、アレクサンドリア司教(4代)就任(110-121年)
110-180年 ユダヤ人キリスト教徒の教会史家ヘゲッシポス(ヘゲッシプス)
110年頃 アンティオキアのイグナティオス、ローマで殉教
112年 プリニウス『トラヤヌス帝と小プリニウスの往復書簡』
この書簡の中で、ビチニアの総督プリニウスがトラヤヌス帝に宛ててクリスチャンの扱いについて尋ねている箇所がある。①キリスト教は「伝染病」のように広まっている。②信者は定期的に集会を開いていた。③逮捕されたクリスチャンは、皇帝の彫像に香を焚き、葡萄酒をもって礼拝をささげ、キリストを否定することで許された。④脅しても頑な者は処刑したが、キリスト教徒であることを否定する者は釈放した。⑤キリスト教徒をあえて探し出すようなことはしないが、もし告発された者がいたら捕らえて尋問し、棄教を強要する。
114年 ヘロス(ヘロン) 、アンティオキア司教(3代)就任(114-126年)
115年頃 タキトゥス『年代記』
115年頃 『イグナティオスの手紙』(使徒教父文書)
アンティオキア教会2代目司教のイグナティオスの手紙。エフェソス教会、マグネシア教会、トラレス教会、ローマ教会、フィラデルフィア教会、スミルナ教会、ポリュカルポスへ、の七書簡。いずれも、一人の司教の下に、複数の長老団(司祭団)と、複数の執事(助祭)たちを置く公同(カトリック)の教会運営を説く。
115年 クシストス、ローマ司教(6代)就任(115-125年頃)
115-117年 ユダヤの反乱(キトス戦争)
第一次ユダヤ戦争後、ローマの重税に苦しむユダヤ人の不満が爆発し、ユダヤ一帯で反乱が勃発。
117-138年 ハドリアヌス帝
120年頃 バシリデス(120-145年頃)、バシリデス派の活動
メナンドロス派から派生したアレクサンドリア最古のグノーシス主義。
120年頃 カルポクラテス派の活動
バシリデスと同時代のグノーシス主義。彼らの密儀がキリスト教に誤解を与え、キリスト教が一般人に非難されることに繋がったという。
121年 ユストス、アレクサンドリア司教(5代)就任(121-131年)
122年 ハドリアヌスの長城、建設開始
125年 テレスフォロス、ローマ司教(7代)就任(125-136年頃)
殉教。
127年 コルネリウス、アンティオキア司教(4代)就任(127-151年)
130年 ハドリアヌス帝のユダヤ視察
エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改名。ローマ式の街に整備し、ユダヤ教徒に割礼を禁じる。
130年頃 パピアス『主の言葉の解釈(パピアス断片)』(使徒教父文書)
130年頃 『アキュラ訳旧約聖書』
130頃 リヨンの教父エイレナイオス誕生(130/40頃-200年頃)
小アジアのスミュルナ出身、後にガリアへ行きリヨンの司教となる。後にローマの司教となる(177/78年)。主著『異端反駁』(全五巻、180-185年)、『使徒たちの使信の説明』
131年 エウメネス、アレクサンドリア司教(6代)就任(131-144年)
132-35年 バル・コクバによる第二次ユダヤ戦争
バル・コクバとラビ・アキバ主導にユダヤ人の反乱が起きる。ローマ軍によりエルサレム陥落し、ユダヤ人は追放され、立ち入り禁止となる。ユダヤ属州の名は「シリア・パレスティーナ」に変更された。
135年頃 グノーシス主義が盛んになる
135年 ユダス、エルサレム司教(15代)を務め終える(?-135年)
エルサレム教会の司教は、初代~15代までの期間は、ハドリアヌス帝の包囲まで(135年)。16代のマルコは、最初の無割礼(異邦人)の司教となった。
136年 ヒュギヌス、ローマ司教(8代)就任(136-140年頃)
136年 ユダヤ人最後の砦ベティル陥落(第二次ユダヤ戦争終結)
バル・コクバは戦死、ラビ・アキバは処刑される。
138-161年 アントニヌス・ピウス帝
140-180年頃 牧会書簡(『第一・第二ティモテオス書簡』『ティトス書簡』)
140年以前 『バルナバの手紙』(使徒教父文書)
140年頃 『ヘルマスの牧者』(使徒教父文書)
140年頃 ケルド派の活動
律法や預言者の教える旧約の神は、イエス・キリストの父なる神ではないと説いた。マルキオンは彼の教えを継承した。
140年 ピウス、ローマ司教(9代)就任(140-154年頃)
144年 マルキオン派、教会から破門される
144年 マルクス、アレクサンドリア司教(7代)就任(144-154年)
150年頃 ウァレンティノス派(110-160頃)、マルクス派の活動
グノーシス主義。反宇宙的二元論(旧約の神は悪、新約の神は善)、仮現論(イエスの人性を否定。イエスは肉体を身に着けた霊者)など。
150年頃 マルキオン派、ローマで活動する
マルキオンが最初に聖書正典を作成した。しかし、マルキオン派は後に異端として排除された。正統派を自負する教会が正典を作りはじめたのも、マルキオン派に対抗する必要が生じたためであった。『マルキオン聖書』は、ルカ福音書、パウロ文書(ガラティア書、第一・第二コリントス書、ローマ書、第一・第二テサロニケ書、ラオディケイア(エフェソス)書、コロサイ書、フィリピ書、フィレモン書)のみを採用している。
150年頃 アレクサンドリアのクレメンス(150頃‐215年以前)
主著『ギリシア人への勧告』(190年頃)、『教育者』(全三巻、190-195年)、『ストロマテイス』(全八巻、190-210年)、『救われる富者は誰か』(190-210年)
150年頃 『十二使徒の教訓(ディダケー)』(使徒教父文書)
150年頃 『クレメンスの第二の手紙』(使徒教父文書)
2世紀半ば 『第二ペテロ書簡』
150年頃 リヨンのエイレナイオス『異端駁論』
150年頃 ユスティノス、ローマにキリスト教哲学学校を開設。
150-155年頃 ユスティノス『第一弁明』『第二弁明』
150-160年 ユスティノス『ユダヤ人トリュフォンとの対話』
151年 エロス、アンティオキア司教(5代)就任(151-169年)
154年 アニケトス、ローマ司教(10代)就任(154-165年頃)
154年 ケラディオン、アレクサンドリア司教(8代)就任(154-167年)
155年頃 『ポリュカルポス書簡』(使徒教父文書)
155年頃 スミュルナのポリュカルポス、ローマで殉教
160年頃 モンタノス派、フリギアで活動
プリシキラとマクシミラという二人の預言者を連れ歩き、異言による恍惚状態に陥って終末論的な預言をした。フリギヤの小さな村に新しいエルサレムが到来すると説いた。
160?-220?年 教父テルトゥリアヌス
カルタゴ出身、最初のラテン教父。三位一体論の最初の理論家。主著『護教論』、『マルキオン反駁』等。
161-180年 マルクス・アウレリウス帝
キリスト教を迫害した。ユスティノスはこの迫害で殉教している。
161-169年 ルキウス・ウェルス帝(共同統治)
165年 ソテル、ローマ司教(11代)就任(165-174年頃)
165年頃 ユスティノス、ローマで殉教
167年 アグリッピヌス、アレクサンドリア司教(9代)就任(167-179年)
169年 テオフィロス、アンティオキア司教(6代)就任(169-181年)
著書『アウトリュコスへ送る』『ヘルゲモネス異端駁論』等
170年頃 エビオン派の活動
70年エルサレム陥落の前にペレアの山地に逃げたユダヤ人エルサレム教会の脈絡から生まれた派。キリストの処女降誕を否定し、キリストはマリアとヨセフの性交によって人間として生まれ、律法の遵守によって神から義とみなされたと説いた。
170年頃 タティアノス(タティアノス派)(120-173年頃)
シリアの護教家。ユスティノスの弟子。後にグノーシス派に背教し、172年頃、エンクラティス教団の異端を形成。男女の結婚を否定した。主著『ギリシア人の言葉』(152-153年頃)、『ディア・テッサロン』(四福音書を合成して独自にまとめた福音書)。
170-210年頃 ムラトリ断片(最古の新約聖書正典目録)
170頃-235年 ローマのヒッポリュトス
174年 エレウテルス、ローマ司教(12代)就任(174-190年頃)
178年 哲学者ケルソス『真正な教え』
キリスト教を批判する書簡。主な主張は、①無知なのに高慢②父祖伝来の習慣を破壊する③受肉の教義は不合理④誰も軍務に就かなくなれば帝国は滅びる
179年 ユリアヌス、アレクサンドリア司教(10代)就任(179-189年)
180-192年 コンモドゥス帝
180-185年 エイレナイオス『異端反駁』
181年 マクシミヌス、アンティオキア司教(7代)就任(181-192年)
185年頃 教父オリゲネス誕生(185-254年頃)
アレクサンドリア出身。教理学校設立。司教に追放されカイサレアで教理学校を開く。デキウス帝の迫害で牢死。主著『諸原理について』(220-30年)、六欄対訳聖書『ヘクサプラ』(218年着手)、『創世記講話』等。
185年 ナルキッスス、エルサレム司教(30代)就任(185-211年)
189年 デメトリウス、アレクサンドリア司教(11代)就任(189-232年)
190年 ウィクトル、ローマ司教(13代)就任(190-199年)
190年 テオドトス派の活動
キリストの神性を否定し、無神論的に単なる人間であったと説く。彼の弟子たちは幾何学や哲学を研究し、聖書の写本を改竄した。一種の高等批評の先駆け。
190-210年 アレクサンドリアのクレメンス『ストロマテイス』
192年 セラピオン、アンティオキア司教(8代)就任(192-203年)
193年 ペルティナクス帝
193年 ディディウス・ユリアヌス帝
193年 ユダヤ教のサンヘドリン、ガリラヤのティベリアに移転する
193-211年 セプティミウス・セウェルス帝
キリスト教を迫害した。宗教混交主義を推進し、あらゆる宗教と哲学を太陽神崇拝に統一した。ユダヤ教とキリスト教はこれに反対したので、これらに改宗することを禁止し、違反者は処刑された。
197年 テルトゥリアヌス『護教論』
198-217年 カラカラ帝(セウェルスと共同統治)
199年 ゼフュリヌス、ローマ司教(14代)就任(199頃-217年)
2世紀末~3世紀始め 『ディオグネートスへの書簡』(使徒教父文書)

▼3世紀

3世紀初期 ローマのカタコンベ(地下墓地)にキリスト教壁画登場
200年頃 使徒信条
200頃-258年 ラテン教父キプリアヌス
246年頃クリスチャンとなり、249年カルタゴ司教となる。テルトゥリアヌスの影響が強い。棄教者の復帰問題や、カトリック教会の統一を論じ、「教会の外に救いなし」という言葉を残す。
200/2年 アレクサンドリアのクレメンス『ストロマテイス』
204/5年 プロティノス、エジプトで誕生(新プラトン主義創設者)
207年 テルトゥリアヌス『ヴァレンティノス派反論』
207-212年 テルトゥリアヌス『マルキオン反論』第一~第五巻
209-211年 ゲタ帝(セウェルスと共同統治)
211年 アスクレピアデス、アンティオキア司教(9代)就任(211-216年)
213年 アレクサンドロス、エルサレム司教(34代)就任(213-251年)
216年 フィレトス、アンティオキア司教(10代)就任(216-232年)
217-218年 マクリヌスとディアドゥメニアヌス帝
217年 カリストス、ローマ司教(15代)就任(217-222年頃)
218年 オリゲネス、六欄対訳聖書『ヘクサプラ』の編集に着手
『ヘクサプラ』は、①ヘブライ語、②ヘブライ語の発音表記、③アキュラ訳、④シュンマコス訳、⑤セプトゥアギンタ(七十人訳)、⑥テオドティオン訳の六欄対照聖書のこと。
218-222年 ヘリオガバルス帝
220年頃 サベリオス(?-260年頃)、サベリオス主義を唱道。
様態論(父と子と聖霊は唯一の神の様態(人格)が変化したもの)を説く。
220-230年 オリゲネス『諸原理について』
222-235年 アレクサンデル・セウェルス帝
222年 ウルバヌス、ローマ司教(16代)就任(222-230年頃)
224-651年 ササン朝ペルシア
国教はゾロアスター教、3世紀に聖典『アヴェスター』が編纂される。
225年頃 アルテモン派の活動
キリストは人間として生まれたが、洗礼を受けたことで聖霊を受けて、神の養子となった、と説いた(養子説)。
230年 ポンティアヌス、ローマ司教(17代)就任(230-235年)
232年 ヘラクレス、アレクサンドリア司教(12代)就任(232-248年)
232年 ゼベンヌス、アンティオキア司教(11代)就任(232-240年)
235年頃 ドゥラ・エウロポス(シリア東部)で現在最古の教会堂が発見されている
235-238年 マクシミヌス・トラクス帝
235年 アンテロス、ローマ司教(18代)就任(235-236年)
236年 ファビアヌス、ローマ司教(19代)就任(236-250年)
238年 ゴルディアヌス1世帝
238年 ゴルディアヌス2世帝
238年 プピエヌス帝
238年 バルビヌス帝
238-244年 ゴルディアヌス3世帝
240年 バビュラス、アンティオキア司教(12代)就任(240-252年)
240年頃 ベリュルス派の活動
アラビアのボストラの司教。キリストは天にいる時は、固有の様態や神性を有していたのではなく、父なる神に内在していた、と説いた。
242年 マニ(216-275年頃)、マニ教を創設する。
244-249年 ピリップス・アラブスとピリップス2世帝
246-48年 オリゲネス『ケルソス反駁』
248年 ディオニュシウス、アレクサンドリア司教(13代)就任(248-265年)
249年 キプリアヌス、カルタゴ司教となる。
デキウス帝の迫害で棄教したクリスチャンの復帰問題が生じた。キプリアヌスは、証明書を他から入手して回避した者には恩赦を与え、偶像崇拝を行った者には悔い改めを要求するなど、一定の規則を定めた。
249-251年 デキウスとエトルスクス・デキウス帝
250年 デキウス帝によるキリスト教の迫害
ローマの神々への崇拝を義務化した。礼拝に参加した者には証明書を与え、証明書を持たない者は反逆者とみなされた。殺害でなく棄教を主目的としていた為、長期間の拷問も行われた。
250年頃 ノウァトス(ノウァティアヌス)派
デキウス帝の迫害の際の棄教者の教会復帰を認めるか否かの問題で、非妥協の厳格主義を説いた。
250年頃 ネポスとコラキオン
キリストの千年王国は地上に到来すると説いた。その点の主張は、ケリントス派と類似している。
250-325年 ラクタンティウス
北アフリカ出身の護教家。251年 コルネリウス、ローマ司教(20代)就任(251-253年)
251年 マザバネス、エルサレム司教(35代)就任(251頃-265年)
251年 ホスティリアヌス帝
251年 キプリアヌス『背教者について』『カトリック教会の一致について』
251-253年 トレボニアヌス・ガッルスとウォルシアヌス帝
252年 カルタゴ会議
幼児洗礼を承認
252年 ファビウス、アンティオキア司教(13代)就任(252-255年)
北アフリカ出身の護教家。
253年 アエミリアヌス帝
253年 ルキウス、ローマ司教(21代)就任(253-254年)
253-260年 ウァレリアヌス帝
253-268年 ガッリエヌスとサロニヌス帝
254年頃 オリゲネス殉教
デキウス帝の迫害下で殉教。
254年 ステファヌス、ローマ司教(22代)就任(254-257年)
256年頃 アレイオス(アリウス)、リビュアにて誕生(256-336年)
アンティオキアに赴き、ルキアノスの下で学んだ。ペトロスがアレクサンドリア司教だった時代(300-11)、アレクサンドリアに居り、リュコポリスのメレティオスによって助祭、司祭となる(メレティオス派)。その後、ペトロスの後継者アキラス(312-13)によって正統派へ。次代のアレクサンドロス(313-28)により小教区バウカリスの司牧に就任。しかし、アレイオスの教説(御子は被造物で御父に劣る神である)に、幾人かの聖職者から嫌疑がかけられる。そして、アレクサンドロス司教に報告がなされ、会議が開かれた後、追放の身となる(318年頃)。この事件が、後にニケア公会議(325年)にまで発展する。
256年 デメトリアヌス、アンティオキア司教(14代)就任(256-260年)
257年 クシストス、ローマ司教(23代)就任(257-258年)
259年 ディオニュシウス、ローマ司教(24代)就任(259-268年)
260年頃 サベリオス没
260年 サモサタのパウロ、アンティオキア司教(15代)就任(260-268年)
265年 ヒュメナイウス、エルサレム司教(36代)就任(356-298年)
263頃-339年 カイサリアのエウセビオス
カイサリア出身、パンフィロスに師事、オリゲネス神学を学ぶ。主著『教会史』(320年)。ニカイア公会議ではアレイオス派を擁護。
265年 マクシムス、アレクサンドリア司教(14代)就任(265-282年)
267年 パルミラ王国、女王ゼノビアの実権
268年 サモサタのパウロ(アルテモン派の再興)
アンティオキア司教。彼はアルテモンの教え(養子説)を再興し、268年に破門された。
268-270年 クラウディウス・ゴティクス帝
269年 フィリックス、ローマ司教(25代)就任(269-274年)
269年 ドムヌス、アンティオキア司教(16代)就任(269-273年)
270年 クィンティッルス帝
270-275年 アウレリアヌス帝
273年 ティマイウス、アンティオキア司教(17代)就任(273-279年)
274年 パルミラ王国、ローマ帝国に征服され滅亡
275-276年 タキトゥス帝
275年 エウテュキアヌス、ローマ司教(26代)就任(275-283年)
276年 フロリアヌス帝
276-282年 プロブス帝
277年 キュリロス、アンティオキア司教(18代)就任(277-279年)
282-283年 カルス帝
283-285年 カリヌス帝
283-284年 ヌメリアヌス帝(カリヌスと共同統治)
283年 ガイウス、ローマ司教(27代)就任(283-296年)
283年 テオナス、アレクサンドリア司教(15代)就任(283-300年)
284-305年 ディオクレティアヌス帝(東方正帝)
285年頃 アントニオス、エジプトの砂漠で修道生活に入る
修道院の起源と伝えられる。彼の生涯はアタナシオス著『アントニオス伝』に記されている。
286-311年 マクシミアヌス帝(西方正帝)
292?-346?年 エジプトの修道士パコミウス
293年 ローマ帝国、四分割(テトラルキア)
295年頃 アレクサンドリアのアタナシオス誕生(295-373年)
296年 マルケリヌス、ローマ司教(28代)就任(296-304年)
298年 ザブダス、エルサレム司教(37代)就任(298-300年)

▼4世紀

300年 ペテロ、アレクサンドリア司教(16代)就任(300-311年)
301年 アルメニア王国、初のキリスト教を国教とする
301年 ヘルモン、エルサレム司教(38代)就任(301-314年)
303-13年 ディオクレティアヌス帝による迫害
303年、皇帝は自らをユピテル神になぞらえ、皇帝崇拝と改宗を強制した。書物は焼却され、教会は破壊され、財産は没収された。また、コロッセオで見せしめの処刑がなされた。313年、コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認するまで、迫害の余波は続いた。最後の大迫害とも呼ばれる。
303-311年 ガレリウス主導のキリスト教迫害
ガレリウスは東方の正帝になった後も、キリスト教迫害を続けた。エジプトや小アジアで多数の殉教者が出る。
304-313年 『神的教理』(全七巻)
305-311年 ガレリウス帝(東方皇帝)
305-306年 コンスタンティウス・クロルス帝(西方皇帝)
306-312年 マクセンティウス帝(西方皇帝)
308-324年 リキニウス帝(東方皇帝)
306-337年 コンスタンティヌス1世帝(306-312年西方副帝、312-324年西方正帝、324-337年全ローマ皇帝)
死の床でエウセビオスにより洗礼を受けた。313年、ミラノ勅令を出してキリスト教を公認し、325年、ニカイア公会議を主催した。公会議ではアタナシオス派が勝利したが、彼自身はエウセビオスから洗礼を受けている故、アレイオス派を信じていた可能性が高いだろう。
311?年 アキラス、アレクサンドリア司教(17代)就任(311?-312年)
313年 コンスタンティヌス帝、ミラノ勅令を布告し、キリスト教が公認される
伝説によれば、312年、西方皇帝マクセンティウスとのミルウィウス橋の戦いの前に、光輝く十字架と「汝これにて勝て」という文字が空に現れたのを見たため、十字架を旗印(キリストを意味するΧとΡの組み文字)として戦いに勝利した。これをきっかけにキリスト教に信仰を持ったという。313年、ミラノ勅令を出し、キリスト教は公認され、ディオクレティヌス帝から続いた迫害の波は止んだ。しかし、彼がキリスト教を公認したのは、政治的な戦略だった可能性が高い。
313年 アレクサンドロス、アレクサンドリア司教(18代)就任(313-326年)
アレイオス派への論駁、ニカイア公会議にて活躍。
315-367年 ポワティエのヒラリウス
318年頃 エジプトの修道士パコミウス、最初の共同制の修道院を創立する
318年頃 アレクサンドロスは教会会議を開き、アレイオスとその支持者(アレイオス派)を追放する
318年頃 アレイオス書簡集『ニコメディアのエウセビオスへの手紙』
アレイオスらは他の司教の支援を求めパレスティナへ旅する。その旅の途中でニコメディアのエウセビオスへ支援を求める手紙を書き送る。
319年 アレクサンドリアのアレクサンドロス『すべての司教への手紙』
各地の司教に、アレイオスを拒み、ニコメディアのエウセビオスの介入を退けるよう要請した。
320年頃 アレイオス書簡集『アレクサンドレイアのアレクサンドロスへの手紙』
ビテュニアの教会会議でアレイオスの教説の正当性が認められ、アレイオスはアレクサンドロスに自らの正当性を書き送る。
320年 カエサリアのエウセビオス『教会史』
325年 アンティオキアで教会会議開催
議長ホシウス。アレクサンドロスの考えに近い見解が宣言される。この会議でカイサリアのエウセビオス、ラオディキアのテオドトス、ネロニアスのナルキッソスの三司教が断罪されるが、最終的判断は公会議に持ち越される。
325年 (第1回)第一ニカイア公会議(5月23-6月30日)
250-300名程参加。ニカイア信条、復活祭の日付を確定、アレイオス派の排斥。アタナシオス派とアレイオス派が対立していた。御父と御子は「同質(ホモウーシオス)」か「相似(ホモイウーシオス)」かの論争の末、アレクサンドロスとアタナシオスが中心となってアレイオス派を排斥、ニカイア信条を採択した。
325年 カエサリアのエウセビオス『教区の信徒への手紙』
エウセビオスは公会議の出席中に、自分の教区に、自らの信条について手紙を書き送った。
327年11月 コンスタンティヌス帝、アレイオス召喚
エウセビオスに説得させられた皇帝は、アレイオスを呼び出し、ニカイア信条に抵触しない信仰告白をさせることによって、アレイオスを復権させようとした。
327/334年頃 アレイオス書簡集『コンスタンティヌス帝への手紙』
327年 グルジア、キリスト教を国教とする
328年 皇帝、アレクサンドロスにアレイオスの復権を要求
しかし、アレクサンドロスは応じぬまま死去(4月17日)。アタナシオスがアレクサンドリア司教の後継者となる。
328年 アタナシオス、アレクサンドリア司教(19代)に就任(328-373年)
正統信仰の父とも呼ばれる。アタナシオス派。生涯5回も追放の身となる。第一回追放:テュロス教会会議にて。335年7月11日-37年11月22日。第二回追放:アンティオキア教会会議にて。339年4月16日-346年10月21日。第三回追放:コンスタンティウス帝2世より。359年2月9日~62年2月21日。第四回追放:ユリアヌス帝により。362年10月24日~63年9月5日。第五回追放:ウァレンス帝により。365年10月5日~66年1月31日。
329-389年 ネジアンゾスのグレゴリオス(カッパドキア三教父の一人)
330年 アンティオキア教会会議
エウスタティオスはカエサリアのエウセビオスを、ニカイア信条を歪めたとして非難するが、エウセビオスの方はエウスタティオスをサベリオス主義者として非難する。教会会議の末、エウスタティオスは罷免される。
330年頃 カイサリアの大バシレイオス(カッパドキアの三教父の一人)誕生(330-379年)
330年 コンスタンティヌス帝、首都をローマからビザンティウムに移し、コンスタンティノポリスと改名
335年 テュロス教会会議
議長カエサリアのエウセビオス。アタナシオスは罷免(第一回追放:335年7月11日-37年11月22日)され、アレイオスの復権が宣言される。
335-37年頃 アタナシオス『言の受肉』
335頃-394年 ニュッサのグレゴリオス(カッパドキア三教父の一人)
336年 アレイオス没。コンスタンティノポリスにて急死
337年(5月22日)コンスタンティヌス帝没
337-340年 コンスタンティヌス2世帝(1世の長男)
アレイオス派
337-361年 コンスタンティウス2世帝(1世の次男)
339年 アンティオキア教会会議
ニコメディアのエウセビオスらのアレイオス派に罷免される。ローマへ逃れる(第二回追放:339年4月16日-346年10月21日)。
339-397年 ミラノ司教アンブロシウス
339/40年 カエサリアのエウセビオス没
344/49-407年 ヨハネス・クリュソストモス
コンスタンティノポリス総主教、金口イオアン
347頃-420年 ラテン教父ヒエロニムス
ヘブライ語修得し、オリゲネス『ヘクサプラ』を使い、旧約聖書ラテン語訳を完成した。
350年頃 エチオピア、キリスト教を国教とする
354-430年 ヒッポのアウグスティヌス
354-420年 ペラギウス
ペラギウス主義として異端とされた(人は自由意志の行使によって功徳を積むことによって救いに至れる、贖罪論否定、幼児洗礼否定)、ブリタニア出身の修道士、アウグスティヌスと対立。
356年 アントニオス没(251/52年生)
357年頃 アタナシオス『アントニオス伝』
358年 ユダヤ教サンヘドリンの解散・消滅
359年 アタナシオス三回目追放(コンスタンティウス帝2世による)
359年2月9日~62年2月21日まで
361-363年 ユリアヌス帝
361-363年 ユリアヌス帝、キリスト教の優遇政策を解除する
ユリアヌスは異教の復興を目指した。キリスト教の異端(アリウス派等)に恩赦を与え、ユダヤ教のエルサレム神殿の再建許可を出し、ローマ宗教の祭儀の整備をすることで、表立った迫害はしなかったが、キリスト教の内部対立を意図的に煽った。そのため、後代にキリスト教会から「背教者」と呼ばれた。
362年 アタナシオス四回目追放(ユリアヌス帝による)
362年10月24日~63年9月5日まで
363-364年 ヨウィアヌス帝
アタナシオス派
364-375年 ウァレンティニアヌス1世帝(西方皇帝)
364-378年 ウァレンス(東方皇帝)
365年 アタナシオス五回目追放(ウァレンス帝による)
365年10月5日~66年1月31日まで。エジプトの砂漠に逃れ、隠修士のもとに滞在。
370年 大バシレイオス、カッパドキアのカイサレア司教に就任
アリウス派。
373年(5月2日)アタナシオス没
375-383年 グラティアヌス帝(西方皇帝)
375-392年 ウァレンティニアヌス2世帝(グラティアヌスと共同統治)
アリウス派。
375年 ゲルマン人の大移動のはじまり(~568年)
フン族が東ゴートを支配、西ゴートが移動を開始
379年 大バシレイオス没
379-395年 テオドシウス1世(全ローマ皇帝)
380年 テッサロニキ勅令
皇帝は、アタナシウス派(三位一体)を信仰しない者は異端と認定するとの勅令を出した。
381年 (第2回)第一コンスタンティノポリス公会議
マケドニウス派(聖霊の神性否定)排斥。アレイオス派、サベリウス主義、アポリナリオス主義排斥。ニカイア・コンスタンティノポリス信条。
三位一体派のテオドシウス帝が主催。議長アジアンゾスのグレゴリオス。カッパドキアの三教父の反駁により、三位一体説とニカイア信条の修正版が採択される。
382年 ヒエロニムス、『ウルガタ訳聖書』翻訳開始
383-408年 アルカディウス帝(東ローマ皇帝)
386年 アウグスティヌス、マニ教からキリスト教に改宗する
392年 テオドシウス1世帝、キリスト教を国教とする
393-423年 ホノリウス帝(西ローマ皇帝)
395年 テオドシウス帝の死後、ローマ帝国東西に分裂する
395年 アウグスティヌス『告白』
396年 アウグスティヌス、ヒッポの司教となる
397年 カルタゴ会議
聖書正典が確立
398年 ヨハネ・クリュソストモス、コンスタンティノポリス大主教となる

▼5世紀

405年頃 ヒエロニムス、ラテン語訳『ウルガタ訳聖書』完成
408-450年 テオドシウス2世(東ローマ皇帝)
411年 カルタゴ会議
ドナトゥス派を異端宣告
413/26年 アウグスティヌス『神の国』
415-711年 西ゴート王国
スペイン。初めアレイオス派。589年、レカレド王はカトリックに改宗。
421年 コンスタンティウス3世(西ローマ皇帝ホノリウスと共同統治)
423-425年 ヨハンネス(西ローマ皇帝)
424-455年 ウァレンティニアヌス3世(西ローマ皇帝)
435-534年 ヴァンダル王国
北アフリカ。アレイオス派。カトリック教徒は迫害される。
431年 (第3回)エフェソス公会議
ペラギウス派・ネストリウス派の排斥。マリアは「神の母」。
434年 アッティラがフン族の王として即位
436年 アッティラがブルグンド王国に侵攻
440-461年 レオ一世、ローマ教皇在位年
443-534年 ブルグンド王国
445年頃 アッティラが単独で王となる
448年 コンスタンティノポリス地方会議
単性論派のエウティケス破門となる。
449年 エフェソス強盗会議
アレクサンドリア総主教ディオスオコロスが皇帝の許可を得て開催。エウティケス(単性論)排斥を撤回。
449-829年 アングロ=サクソン人の七王国
グレートブリテン島。
450-457年 マルキアヌス(東ローマ皇帝)
450年 教皇レオ、ローマ教会の最高権威を主張
451年 (第4回)カルケドン公会議
キリスト単性論排斥、カルケドン信条。非カルケドン派はカトリックから離反する。
455年 ペトロニウス・マクシムス帝(西ローマ皇帝)
455-456年 アウィトゥス帝(西ローマ皇帝)
457-461年 マヨリアヌス帝(西ローマ皇帝)
461-465年 リウィウス・セウェルス帝(西ローマ皇帝)
467-472年 アンテミウス帝(西ローマ皇帝)
472年 オリュブリウス帝(西ローマ皇帝)
473-474年 グリュケリウス帝(西ローマ皇帝)
474-475年 ユリウス・ネポス帝(西ローマ皇帝)
475-476年 ロムルス・アウグストゥルス帝(西ローマ皇帝)
476年 西ローマ帝国滅亡
480頃-547年 ヌルシアのベネディクトゥス
481-751年 フランク王国(メロヴィング朝)
クローヴィス1世即位
493-555年 東ゴート王国
イタリア征服。アレイオス派。
496/98年 クローヴィス1世洗礼を受ける、フランク族はキリスト教化する
5世紀 カトリック五本山成立・・・ローマ教会、コンスタンティノープル教会、アンティオキア教会(シリア)、エルサレム教会(ユダヤ)、アレクサンドリア教会(エジプト)

▼6世紀

504?-604年 グレゴリウス1世
525年 ボエティウス、東ゴート王国のテオドリック王に処刑される。
処刑前、獄中で『哲学の慰め』を執筆。
529年 ベネディクトゥス、モンテ・カッシーノ(伊)に修道院ベネディクト会設立
西方教会初の修道院。『会則』を定める。
553年 (第5回)第二コンスタンティノポリス公会議
ユスティアヌス帝は単性論に理解を示すようローマ教皇を促すが、ウィギリウス教皇はこれを拒否したため、単性論を反駁した三つの著作を排斥した(三章書問題)。単性論派と正統派の調停が試みられるが決裂する。オリゲネスを異端と宣告。
568-774年 ランゴバルド王国(ロンゴバルド王国)
イタリア半島。
589年 西ゴート王国のレカレド王、カトリックに改宗する
589年 トレド公会議
フィリオクエ(聖霊は父と子から出る)が成文化される。
590-604年 教皇グレゴリウス1世在位年

▼7世紀

622年 イスラム教開祖ムハンマド、メディナに遷る(ヒジュラ暦元年)
635年 ネストリウス派宣教師、中国の唐を訪問(景教)
637年 イスラム、エルサレム征服
651年 クルアーン(コーラン)編纂
680-81年 (第6回)第三コンスタンティノポリス公会議
ホノリウス1世は生前、両性論と単性論を調停する為に「単意論」を説いた。単意論は、子の内に神の意志のみを認める考えであるが、レオ2世は単意論を排斥し、すでに死去しているホノリウス1世をも破門した。
単意論排斥→その後、東方のマロン派は単意論を信奉した。

▼8世紀

711年 西ゴート王国消滅
ムーア人、イベリア半島をイスラム教支配下に。
726年 東ローマ皇帝レオーン3世、聖像廃止に取り掛かる
730年 東ローマ皇帝レオーン3世、聖像禁止令を発布。
732年 トゥール・ポワティエ間の戦い
カール・マルテル、イスラム勢力を撃退、イスラムのヨーロッパ進出を阻止する。
736年 中国の景教が日本に伝わる
751年 ピピン3世即位(カロリング朝)
754年 イエリア公会議
コンスタンティノス5世主催、聖像擁護派を排斥、聖像破壊運動(イコノクラスム)を推進する。
756年 教皇領を寄進
フランク国王ピピンが国土を教皇に提供、「教皇領」のはじまり。
768年 カール1世、フランク王となる
787年 (第7回)第二ニカイア公会議
726年、東ローマ皇帝レオーン3世は聖像廃止に取り掛かり、730年に聖像禁止令を発布。レオーン3世の子、コンスタンティノス5世は754年、イエリア公会議で聖像擁護派を排斥し、聖像破壊運動(イコノクラスム)を推進した。そこで、聖像擁護派だった皇后エイレーネーの働きで第二ニカイア会議が開かれ、聖像破壊主義者は排斥。聖像(イコン)の使用が認められる。

▼9世紀

800年 カール大帝の戴冠
教皇レオ3世から戴冠を受け、西ローマ皇帝として即位。
843年 ヴェルダン条約
東・中・西フランクの3王国に分割。
855年 プリュム条約
中フランク王国を3つに分割。
863年 ラテラノ教会会議
前総主教イグナティオスとローマ教皇ニコラウス1世、コンスタンティノポリス総主教フォティオス1世の廃位を宣言。
867年 教会会議、フィリオクエ問題勃発
フォティオス1世の反撃で、ローマ教皇ニコラウス1世を破門。破門の理由は、フィリオクエ問題(聖霊は父のみからか、父と子からか)。カトリック側がニカイア・コンスタンティノポリス信条を改ざんしたため。
869-70年 (第8回)第三コンスタンティノポリス公会議
フィリオクエ問題。コンスタンティノポリス総主教フォティオス1世追放。五大総主教のランク付け(ローマ教会→コンスタンティノポリス教会→アレクサンドリア教会→アンティオキア教会→エルサレム教会)。「フィリオクエ問題」は未解決のまま残る。
870年 メルセン条約
879-880年 コンスタンティノポリス教会会議
ローマ教皇の特使、フォティオス1世の総主教再任を認める。
880年 ロシアにキエフ公国成立
895年頃 カイロ写本(ヘブライ語聖書写本)
現存する最古のマソラ本文。預言書のみ現存。

▼10世紀

910年 クリューニーの修道院、ブルゴーニュ(仏)
911年 東フランク王国でカロリング朝が断絶
925/30年 アレッポ写本
マソラ本文の写本。モーセ五書のほとんどが欠損。
962-1806年 神聖ローマ帝国
東フランク王国、オットー1世、神聖ローマ帝国皇帝となる。
987-1328年 フランス・カペー朝の成立
西フランク王国でカロリング朝が断絶
988年 キエフ大公ウラジーミル1世洗礼
989年 キエフ公国のウラジミール1世、ギリシア正教を国教とする

▼11世紀

1008年 レニングラード写本の作成
現存する最古の完全なヘブライ語聖書の写本
1020年 クリュニー修道院の改革
独身制、世俗領主からの独立、聖職売買の禁止、皇帝による聖職者任命を否定
1046年 スートリ教会会議
1054年 西方教会と東方教会の断絶(大シスマ)、(西方教会)ローマ・カトリック教会、(東方教会)ギリシア正教会
1073年 教皇グレゴリウス7世、教会改革
1076,1077-78年 アンセルムス、『モノロギオン』『プロスロギオン』執筆
後に、神の実在論を巡って「普遍論争」へと発展する。
1077年 カノッサの屈辱
皇帝ハインリヒ4世、教皇に破門の赦しを請う。
1085年 教皇グレゴリウス7世、憤死
1095年3月 東ローマ皇帝、西ローマ皇帝に対セルジューク朝の救援を求む
東ローマ皇帝アレクシオス1世は、西ローマ教皇ウルバヌス2世に、対セルジューク朝戦への援助を求めた。西ローマ教皇は、この戦いに救援を送ることで、東ローマ帝国に対して優位に立てると考え、救援を約束した。
1095年11月28日 クレルモン教会会議
ウルバヌス2世は、フランス東部のクレルモンで宗教会議を開催した。この会議の最後に群衆の前で大演説を行い、イスラム教徒の手から聖地エルサレムを奪回しようと訴えた。群衆はこの呼びかけに「神のみ旨だ!」(Deus vult)と応えた。また教皇は、十字軍に参加する者には免罪が与えられるとした。これにより、貧しい多くの人々は十字軍に参加することを決意した。また、十字軍参加によって一獲千金を狙う動機もあった。
1096-99年 第一回十字軍
1096年4月12日 民衆十字軍、進軍開始
1096年8月 正規の十字軍の進軍開始
1096年12月 十字軍本隊、コンスタンティノポリス到着
1097年5月14日~6月19日 十字軍、ニカイア攻囲戦
1097年7月1日 十字軍、ドリュラエウムの戦い
1098年 十字軍、エデッサ伯国成立
1097年10月20日~1098年6月28日 十字軍、アンティオキア攻囲戦
1098年6月15日 十字軍、ロンギヌスの槍(聖槍)を発見する。
1098年 シトー修道会設立、シトー(仏)
1098年11月~12月 十字軍、マアッラ攻囲戦
1099年1月~5月13日 十字軍、アルカ攻囲戦
1099年6月7日~7月15日 十字軍、エルサレム攻囲戦
1099年7月15日-1291年5月18日 エルサレム王国成立
1099年8月5日 十字軍、東方教会が守っていた聖遺物「真の十字架」を手に入れる。
1099年8月12日 十字軍、アスカロンの戦い
1100年 初代エルサレム王、ボードゥアン1世即位
11世紀末 スコラ哲学が盛んになる

▼12世紀

1101年 1101年の十字軍(臆病者の十字軍)
1102年 十字軍、トリポリ伯国建国
1113年 聖ヨハネ騎士団設立
1117年頃 アベラール、教え子エロイーズと出会う
アベラールはエロイーズの家庭教師をして恋に落ちるが、父親の反対を受け去勢させられる。アベラールは普遍論争において唯名論を唱え、異端宣告を受けた。
1119年 キリストの貧しき騎士団(テンプル騎士団)設立
1122年 ヴォルムス協約
神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世、ローマ教皇カリクトゥス2世と叙任権に関して協約を結ぶ。叙任権は教会に与えられる。
1123年 (第9回)第一ラテラノ公会議
西方における最初の公会議。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世以来、叙任権闘争が生じていたが、1122年、ドイツのヴォルムスで成された協約によって、「聖職者の叙任権は教会にあり、皇帝は世俗の権威の任命権のみ」と定められた。ラテラノ公会議では、このヴォルムス協約が確認され、正式に承認された。
ヴォルムス協約確認、叙任権闘争終結、聖職売買禁止の再確認、十字軍参加者に対する部分免償の実施、十字軍参加者の家族と財産の保護を徹底、叙階や叙任に関する権限の確認。
1128年 テンプル騎士団、フランスのトロア教会会議で、教皇ホノリウス2世の認可を得る。
1139年 (第10回)第二ラテラノ公会議
ローマ教皇ホノリウス2世の死後、後継者を巡って対立が生じた。フランス側はインノケンティウス2世を、ローマ側はアナクレトゥス2世を擁立した。アナクレトゥス2世の死後、インノケンティウス2世は、事態を清算するために公会議を開いた。アナクレトゥス2世を支持した司教・枢機卿の罷免。
1140年頃 南フランク王国(フランス)にカタリ派が起こる
1143年 ポルトガル王国成立
1147-1148年 第二回十字軍
1147年 テンプル騎士団、ルイ7世からパリに領地をもらい、支部を建設
王室の財宝や通貨の保管を任される。
1147年 ヴェンド十字軍(北方十字軍)
1148/50年 ペトルス・ロンバルドゥス、『命題集』
神学の教科書になる。
1150頃-1125年 コンピエーニュのロスケリヌス
神学者。普遍論争における唯名論の創始者。三神論を主張し、異端とされた。
1153年 テンプル騎士団、アスカロンの包囲戦でイスラム軍に勝利
1160年 テンプル騎士団、トマールのキリスト教修道院を建設
レコンキスタでの活躍をポルトガル初代王(アフォンソ・エンリケス)に認められたため。
1170年 オックスフォード大学創設
1171年 テンプル騎士団、トマールにアルモウロール城を建設
1173年 テンプル騎士団、モンジザールの戦いで勝利
1177年 ワルドー派が結成される
1179年 (第11回)第三ラテラノ公会議
神聖ローマ皇帝赤髭王フリードリヒ1世は、アレクサンデル3世が教皇となることに反対し、対立教皇としてウィクトル4世、パスカリス3世、カリストゥス3世を立てた。しかし、1177年にヴェネツィア条約が結ばれ、アレクサンデル3世が教皇となった。対立教皇が乱立する混乱を収拾すべく公会議が招集され、コンクラーベは投票者の三分の二以上の賛成を必要とすると改定した。
コンクラーベ改正(投票者の三分の二以上の多数決)、ワルドー派は、信徒による説教を許可してくれるよう申請したが、拒否される。カタリ派排斥。カタリ派討伐の兵を「十字軍」と認める→後のアルビジョワ十字軍。司教の複数教区掛け持ち禁止、など。
1182年頃 ワルドー派、リヨン大司教に破門される
1184年 ワルドー派、教皇ルキウス3世に異端宣告を受ける
1187年 サラディン、エルサレムを占領(エルサレム王国滅亡)
1189-1192年 第三回十字軍
1191年 テンプル騎士団、アルスフの戦いで勝利
1198-1216年 教皇インノケンティウス三世在位、ローマ教皇の絶頂期
1199年 ドイツ騎士団設立

▼13世紀

1202-1204年 第四回十字軍、コンスタンティノポリス奪還
1204-61年 コンスタンティノポリス・ラテン帝国
1206年 聖ドミニコ、トゥールーズ(仏)にドミニコ会を創立
1209年 アッシジの聖フランシスコ、フランシスコ会設立
1209-1229年 アルビジョワ十字軍
南フランスの異端カタリ派討伐のために十字軍が派遣される。50年間に100万人が虐殺される。
1210年 フランシスコ会、教皇インノケンティウス3世に認可される
1215年 (第12回)第四ラテラノ公会議
聖体の「全実体変化(transsubstantiatio)」の宣言…化体説、ミサの際、パンと葡萄酒がキリストの実際の体と血に変化する。フリードリヒ2世を神聖ローマ皇帝として承認。
1217年 ドミニコ会、教皇ホノリウス3世に認可される
1218-1221年 第五回十字軍
1226年 カルメル会、カルメル山(パレスチナ)に設立
1228-29年 第六回十字軍
1245年 (第13回)リヨン公会議
教会を迫害したとして、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を破門。
1248-49年 第七回十字軍
1251年 羊飼い十字軍(第一回)
スペインのトゥドラを襲い、ユダヤ人が虐殺される。
1253年 聖クララ、女性初の会則が認可される
1265-74年 トマス・アクィナス『神学大全』
1270年 第八回十字軍
1271-72年 第九回十字軍
1274年 (第14回)第二リヨン公会議
東ローマ帝国の使節も招待した。また、モンゴル帝国の皇帝クビライも出席した。
以後6年間の十分の一税は十字軍の資金に充てる。東西教会の和解として、西方教会の首位権を認める代わりに、フィリオクエ問題について東方教会の伝統を認めると合意したが、見せ掛けだけの和解だった。コンクラーベでは、教皇没後すぐに選出をはじめ、決定するまで枢機卿たちは外界から遮断される。ハプスブルク家のルドルフ1世にドイツ王の権威を認める(大空位時代終結)。
1285-1347年 オッカムのウィリアム
神学者。唯名論派。論理における節約の原理(オッカムの剃刀)を提唱。異端とされる。
1299年 オスマン・トルコ帝国建国

▼14世紀

1303年 アナーニ事件
フィリップ4世教会に課税を命じるが教皇ボニファティウス8世は反対する。フィリップ4世は三部会を召集し、教皇のいるアナーニ市を急襲し、教皇を殴打する。
1307年10月13日 フィリップ4世、テンプル騎士団に冤罪を負わせて修道院を襲撃
フランス王フィリップ4世は財政難の解決のために、テンプル騎士団の富の収奪を狙い、虚偽の訴えにより迫害する。団員は一斉に逮捕され、拷問を伴う異端審問を受け、127もの虚偽の罪を訴えられる(キリストの否定、男色行為など)。罪を無理矢理白状させられた一部の団員らは、バフォメット崇拝(=マホメット、イスラム教の信仰を取り入れていた?)を認めたという。これが不吉な日、13日の金曜日の起源となる。
1308-77年 教皇のバビロン捕囚
フィリップ4世の要請を受けて教皇クレメンス5世は教皇庁をアヴィニョンに移転する。
1311-12年 ヴィエンヌ公会議
1308年、ローマ教皇はフランスの要請を受けて、アヴィニョンに教皇庁を移転した(教皇のバビロン捕囚)。そのため、教皇に対するフランス王フィリップ4世の影響力が強い状態だった。フィリップ4世は、テンプル騎士団の財産に目をつけていた。1307年、フィリップ4世は、テンプル騎士団に冤罪を負わせて修道院を襲撃し、逮捕した。クレメンス5世はこれに反対することができず、公会議でテンプル騎士団を有罪とし、解散させた(修道会の財産は聖ヨハネ騎士団に相続された)。
1311-12年 (第15回)ヴィエンヌ公会議、テンプル騎士団解散命令
1314年 テンプル騎士団総長の処刑
テンプル騎士団総長(グランド・マスター)ジャック・ド・モレーと他代表者、合計69名がシテ島にて火あぶりの処刑となる。
1314年頃 ダンテ『神曲』完成
1317年 テンプル騎士団、キリスト騎士団に改名
ポルトガル・トマールの地の残存勢力は、ポルトガル王ディニス1世の保護を得て、「キリスト騎士団」に改名。トマールのキリスト教修道院を総本部とする。
1320-21年 羊飼い十字軍(第二回)
スペインのトゥドラを襲い、ユダヤ人が虐殺される。
1326年 オッカムのウィリアム、異端宣告を受ける
普遍論争で唯名論を説いた(オッカムの剃刀)為。
1330年 カタリ派の最期の信者が火刑となり、カタリ派全滅
1337年-1453年 百年戦争
1347年 疫病の流行
1378年 教会分裂(シスマ)
ローマのウルバヌス6世と、フランスのクレメンス7世、二人の教皇が並立する。
1384年 ジョン・ウィクリフ、英語訳聖書を翻訳

▼15世紀

1409年 ピサ公会議
二人の教皇(ローマ教皇グレゴリウス12世とアヴィニョン教皇ベネティクトゥス13世)を罷免し、新たな教皇(アレクサンデル5世)を選任するも、二人の教皇は納得せず、教皇が三人になる。
1414-18年 (第16回)コンスタンツ公会議
1378年、ローマのウルバヌス6世とフランスのクレメンス7世が、共に教皇権を主張し、二人の教皇が並立する事態(シスマ)となった。1409年、ピサ公会議で二人の教皇(当時はローマ教皇グレゴリウス12世とアヴィニョン教皇ベネティクトゥス13世)を罷免し、新たにアレクサンデル5世を擁立した。しかし、二人は退位しなかった為、教皇が三人並立状態となった。アレクサンドル5世は翌年に急死し、ヨハネス23世が選出された。皇帝は公会議を招集するが、ヨハネス23世は逃亡してしまう。そこで、教皇さえも公会議の決定に従うべきとする「公会議主義」の考えで会議を続行し、新たにマルティヌス5世を教皇として立てた。こうしてシスマ(教皇分裂)は終結した。
シスマ終結(教皇統一)。公会議を定期的に開催すること。ジョン・ウィクリフ、ヤン・フス排斥。
1415年 ヤン・フス、異端宣告を受け火刑
1419-34年 フスの処刑に民衆が怒り、ボヘミアでフス戦争勃発
1428年 スイス、ヴァレー州における異端審問
記録に残る最古の魔女狩り
1429年 フランスでジャンヌ・ダルク火刑
1431-49年 (第17回)バーゼル公会議、フェラーラ・フィレンツェ公会議
バーゼル(スイス)1431~、フェラーラ(イタリア)1437~、フィレンツェ(イタリア)1439~、ローマ1443~
バーゼル公会議が教皇派と公会議派に分裂し、教皇派はイタリアに会議を移転し、公会議派はバーゼルに留まった。公会議派は対立教皇としてフェリクス5世を立てた。教皇派はフェラーラで会議を続けたが、財政難と疫病が流行した為、フィレンツェに移動した。 フィリオクエ問題は、「父から子を通して」とすることで、一応の決着がつく。しかし、東西教会の一致の促進には至らなかった。教皇首位説(公会議が分裂した為)。
1438年 フランス王シャルル7世、ブルージュの国体勅諚
教会は国家に独立しておらず、国家に従属すべきとの理論。
1448年 ロシア正教会成立
1450年 グーテンベルク、活版印刷を発明
1453年 ビザンティン帝国、オスマン帝国により滅亡
1455年 『グーテンベルク聖書』の印刷
グーテンベルグ、ラテン語訳ウルガタ聖書『グーテンベルク聖書(42行聖書)』を印刷する。
1479年 スペイン王国成立
1483-1546年 マルティン・ルター、ドイツにて生まれる
1484-1531年 ツウィングリ、スイスにて生まれる
1487年 ドミニコ会士ハインリヒ・クラーメル著『魔女に与える鉄槌』
魔女狩りのバイブルとして愛読された。
1492年 イベリア半島のイスラム領土、グラナダ王国のみになる
1492年 コロンブス、アメリカ大陸発見
1495-98年 レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』制作

▼16世紀

1506-16年 ツヴィングリ、グラールスでの司教時代
1508-12年 ミケランジェロ、システィナ礼拝堂壁画制作
1509-1564年 ジャン・カルヴァン、フランスにて生まれる
1511年 西インド諸島の先住民虐殺に対する抗議
1511年 ピサ公会議
教皇ユリウス2世が中々公会議を開かないため、公会議主義者が教皇なしで公会議を開いた。教皇はこれを無効にするため、第5ラテラノ公会議を開いた。
1511年 エラスムス『痴愚神礼讃』
1512年 ルター、聖書学の講義を開く
1512年 (第18回)第五ラテラノ公会議
ユリウス2世が中々公会議を開かないので、1511年、教皇なしでピサ公会議を開催する。これを無効にするため、教皇はやむやむ正規の公会議を開く。 公益質屋(モンテ・ディ・ピエタ)が公認される。(ユダヤ人が高利貸付をして民衆を苦しめたので、教会が低利貸付を始めていた)。教会の独立と司教の権威を確認(1438年、フランス王シャルル7世が公布した「ブルージュの国体勅諚」を排斥…教会は国家に独立しておらず、国家に従属すべきとの理論)。対オスマン帝国戦争の承認。当初は教会改革が目的だったが達成できず、ルターの宗教改革を招くことになる。
1515年 ツヴィングリ、バーゼルにいるエラスムスを訪問
1515年9月 マリニャーノの戦い
フランス・フランソワ1世VSカトリック教会(スイス傭兵隊)
1516年3月 エラスムス、『ギリシア語新約聖書原典』(テクストゥス・レセプトゥス)出版
1516年5月 エラスムス『キリスト教君主教育』
反戦思想を説く
1516-1518年2月 ツヴィングリ、アインジーデルンで説教時代
ルターより前にツヴィングリ自身が福音を発見したと供述
1517年9月4日 ルター『スコラ神学を反駁する討論』(97条の提題)
1517年10月31日 マルティン・ルター、ヴィッテンベルク城教会の扉に『贖宥の効力を明らかにするための討論』(95カ条の提題)を貼り付ける
1518年 教皇レオ10世、贖宥券(免罪符)発布
1518年2月 ツヴィングリ、チューリヒに転任
1518年5月 ルター、ハイデンベルクへ旅
1518年6月 ルター、九五箇条提題の『解説』
1518年10月 アウグスブルクにて枢機卿カエタヌスによるルターの審問
1519年1月 神聖ローマ皇帝マクシミーリアーン死去
1519-56年 カール5世、神聖ローマ皇帝即位
1519年1月2日-31年 ツヴィングリ、ウルガタ訳でなくギリシャ語原典から連続講解をはじめる
1519年7月 ルター、ライプツィヒ論争(エックとの討論会)
1519年 ペスト流行
1520年 ツヴィングリ、ペストに罹る(年内は療養)
『ペストの詩』著
1520年5月 ルター『善行論』
1520年6月15日 教皇レオ10世、「主よ、立ち上がり給え」の大勅書
教皇によるルターに対する破門警告書、ルターに出頭し、贖宥を果たすよう命じる。
1520年 ルター、宗教改革の三大文書発表
『キリスト教界の改善に関してドイツのキリスト者貴族に宛てて』(8月)、『教会のバビロン捕囚について―マルティン・ルターの序曲』(10月)、『キリスト者の自由について』(11月)
1520年10月10日 ルターの下に破門警告書が届く
1520年12月10日 ルター、教皇からの破門警告書を皆の前で焼き捨てる
1521年1月3日 教皇、『ローマ教皇にふさわしく』発令、ルター破門
1521年 西インド諸島からメキシコに進出
1521年4月 ルター、ヴォルムス帝国会議に召喚
自説の撤回を要求され拒否。帝国追放処となる。
1521年5月 ルター、ザクセン選帝侯が密かに送った騎士団によってヴァルトブルクの古城に匿われる
城内に籠り、ドイツ語訳『新約聖書』(ルター訳聖書、9月聖書)を書く。
1522年2月 急進派カールシュタットによる聖像破壊運動
1522年3月 ツヴィングリ、ソーセージ事件
1522年3月23日 ツヴィングリ『食物の選択と自由』の説教
1522年8月 ツヴィングリ、コンスタンツ司教宛に書いた『最初にして最後の弁明の書』発表
1522年9月 ルター、ドイツ語新約聖書(9月聖書)出版
1523年 スイス、再洗礼派(アナバプテスト派)起こる
1523年 ミュンツァー、聖霊主義を唱えて農民らを扇動し、同盟を結成する
1523年1月29日 ツヴィングリ、第一回チューリヒ討論会、『六七箇条の提題』
1523年6月 チューリヒ、聖母マリア、聖画像、聖遺物、ステンドグラス、オルガンの廃止
1523年6月22日 「預言塾」と農村部の司教たちは十分の一税の即時撤廃を要求
1523年6月24日 ツヴィングリ『神の義と人間の義』の説教
十分の一税の擁護
1523年10月 第二回チューリヒ討論会
1523年12月 チューリヒ、修道院制度の廃止
1524年3月 チューリヒ、ミサ廃絶。福音主義の聖晩餐の導入(3/13)
1524年6月23日-1525年6月 ドイツ農民戦争勃発
1524年 エラスムス『自由意志論』を刊行
1525年1月 チューリヒ、救貧法
修道院から没収した資産を貧しい人に配分する制度
1525-29年 ツヴィングリ、ドイツ語訳『チューリヒ聖書』(新約)
1525年1月 ルター『天来の預言者らを騙す、聖像とサクラメントについて』
カールシュタットを反駁
1525年 ルター、『奴隷意志論』により、エラスムスと自由意志論争を起こす。
1525年 ティンダル、聖書を英語に翻訳
1525年3月 ツヴィングリ『真の宗教と偽りの宗教』
1525年5月 ツヴィングリ『洗礼論』
1525年5月 ルター、『農民の殺人・強盗団に抗して』刊行
ルターは農民戦争において諸侯側に味方する。
1525年5月27日 ミュンツァー斬首刑
1525年5月 チューリヒ、婚姻裁判所設置
1525年6月 ドイツ農民戦争終結
1525年6月 チューリヒ、大聖堂教会付属の教職養成学校(カロリーヌム)開校
1525年6月13日 ルター、元修道女カタリーナ・フォン・ボラと結婚
1525年7月 ルター『農民に対するきびしい小著についての書簡』
1525年秋 ルター、エラスムスと対決
エラスムス『自由意志論』、ルター『奴隷意志論』
1526年5月 バーデン討論
原初のスイス盟約共同体はツヴィングリの福音主義に反対。カトリック側の使者ヨーハン・エック、福音派側エコランパーディウス。チューリヒ異端宣告。
1526年 第一回シュパイエル国会、ウォルムス勅令の実施を延期する
1527年 デンマーク、スウェーデン、ルター主義改革を決定
1528年1月 ベルン(スイス)も福音主義導入
1529年2月 バーゼル(スイス)でもミサ廃止、聖像破壊
エコランパーディウスが中心人物
1529年6月 第一カッペル戦役
福音主義(キリスト教都市同盟)VSカトリック(キリスト教連合)のスイス内戦。戦闘直前に和議(第一カッペルの和議)。バーゼル討論での異端宣告は事実上否決となり、州ごとにカトリックか福音主義かを選べるようになる(属地主義)。
1529年10月 マールブルク会談(ルターとツヴィングリ)
ツヴィングリ側がカトリックに対抗する同盟を求めるも、聖餐論の見解が対立し決裂。合意点は「マールブルク条項」作成。ルター側=共在説、ツヴィングリ側=象徴説。
1529年 ルター派、神聖ローマ皇帝カール5世に「抗議書(プロテスタンティオ)」を送る。そのため新教徒はプロテスタント(抗議者)と呼ばれるようになる
1530年6月25日 アウクスブルク国会で新・旧教の和解決裂、ルター派「アウクスブルク信仰告白」の提出
1531年 ツヴィングリ、ドイツ語訳『チューリヒ聖書』(旧約)完成
1531年2月 シュマルカルデン同盟
ルター派による反皇帝同盟
1531年8月 ツヴィングリ『キリスト教信仰の解明』
1531年 ベルン提唱でカトリック諸州に対する経済封鎖を行う
1531年10月 第二カッペル戦役
ツヴィングリ戦死。その後ベルンを中心とした福音主義軍が勝利。
1532年 インカ帝国征服、ペルー副王領
1534年 ドイツ語訳旧約聖書(ルター訳)完成
1534年 イグナティオ・デ・ロヨラ、イエズス会設立
1534年 カルヴァン、スイスのバーゼルに亡命
1534年 イングランド国教会(英国国教会)設立
ヘンリー8世、妻キャサリンとの離婚を認めない教皇パウルス3世と対立し、カトリック離脱した。
1536年 カルヴァン『キリスト教綱要』
1536-41年 ミケランジェロ、システィナ礼拝堂壁画『最後の審判』製作
1537年2月 シュマルカルデン会議
1539年 ニュルンベルク同盟
カトリック諸侯の同盟成立
1540年 イエズス会、教皇パウルス3世に認可される
1541-64年 カルヴァン、ジュネーブで神権政治
1545-63年 (第19回)トリエント公会議
宗教改革に対抗するカトリック側の教理の確認と自己改革(対抗宗教改革) 。開催年、1545-47、1551、1562-63年。
ニカイア・コンスタンティノポリス信条の再確認。第二正典が正式に承認される(ルターが第二聖典を省いた為)。聖書と聖伝が教えの拠り所(ルターは聖書のみと主張していた)。ラテン語訳『ウルガータ訳聖書』が唯一の公認聖書(ルターは聖書を母国語に翻訳すべきと主張していた)。救いは神の恩寵と人間の協働による(ルターは救いは恩寵のみと主張していた)。七つの秘跡(サクラメント)を再承認(洗礼・堅信・聖体・赦し・病者の塗油・叙階・結婚)。聖体の実体変化(化体説)を再主張。司教の定住、養成施設の充実(聖職者の世俗化を防止する対策)。今後、免罪符(贖宥状)の販売を禁止(但し効果や意義は保たれる)。聖人や聖遺物への崇敬、煉獄、諸聖人の通効など、伝統的教義は依然として有効と確認。禁書目録を作成(~1966年廃止)。
1546年2月18日 マルティン・ルター没(63歳)
1546年2月22日 ルター、ヴィッテンベルク城教会に埋葬
1546年7月10日-1547年5月23日 シュマルカルデン戦争
シュマルカルデン同盟軍(ルター派)とローマ皇帝カール5世率いるカトリック軍の戦争。同盟側の敗北。
1549年 イエズス会のフランシスコ・ザビエル、日本に宣教
1554年 イギリス、女王メアリー1世、プロテスタント弾圧(流血のメアリ)
1555年9月25日 アウクスブルク和議
ルター派プロテスタント領主が認められる。
1558年 イギリス、エリザベス女王即位
1560年 ジョン・ノックス、スコットランドで宗教改革、カルヴァン主義の長老派(プレスビテリアン)が国教となる
1562-98年 ユグノー戦争、フランスのカルヴァン派(ユグノー)とカトリックの対決
1563年 ヨーハン・ヴァイヤー著『悪霊の幻惑』
魔女狩りに反対した最初期の人物
1564年5月27日 カルヴァン没
1566年 オランダ独立戦争
1567年 イギリスのカルヴァン派、ピューリタン(清教徒)が起こる
1572年 フランス、プロテスタント虐殺事件(サン・バルテルミの虐殺)
1577年 ルター派、和協信条
1579年 オランダ、カルヴァン主義(ゴイセン)を国教とする
1581年 オレンジ公ウィリアムによるオランダ独立宣言
1582年 教皇グレゴリウス13世、グレゴリオ暦公布
1582-90年 日本から天正少年使節団がローマに赴く
伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ
1593年 アビラのテレサと十字架のヨハネ、跣足カルメル会創設
カルメル会の改革として、カルメル会から独立する
1598年 ナントの勅令
フランスでユグノーの信仰の自由が認められる、ユグノー戦争終結

▼17世紀

1604年 アルミニウス論争が起こる
1611年 イギリス、ジェームズ王欽定訳聖書が完成
1618-48年 三十年戦争
ボヘミアでカトリックとプロテスタントの戦争勃発
1618-19年 ドルト会議
プロテスタント(オランダ改革派)の教会会議。アルミニウス主義(万人救済説)排斥。
1620年 ピルグリム・ファーザーズ、メイフラワー号でアメリカ大陸へ移住
ピューリタン会衆派
1624年 ヤーコプ・メーベ、聖霊以外必要ないと説く
1626年 サン・ピエトロ大聖堂(二代目)完成
1633年 ガリレオ・ガリレイ、地動説による異端審問を受ける
1642-49年 イギリス、清教徒革命(ピューリタン革命)
1643年 ニューイングランド植民地連合の結成
1643-49年 ウェストミンスター会議
プロテスタント(改革派)の教会会議。「ウェストミンスター信仰告白」(1646年)、「ウェストミンスター大教理問答」(1647年
)「ウェストミンスター小教理問答」(1647年)
1648年 ウェストファリア条約(三十年戦争の講和条約)
ドイツでカルヴァン派容認
1649年 イギリス、クロムウェルによりチャールズ一世処刑
1649年 イギリス、ジョージ・フォックスによりクエーカー派が起こる
1653-58年 独立派クロムウェル、独裁の神聖政治
1660年 イギリス、チャールズ二世即位、王政復古
1662年 クウェーカー法成立
5万人以上のクウェーカーが集会すれば処罰されることに
1667年 ジョン・ミルトン『失楽園』
1681年 ウィリアム・ペン、ペルシルヴァニア建設
クウェーカー教徒のウィリアム・ペン、1万ポンドと引き換えにチャールズ二世からアメリカ大陸に植民地をつくる特許状を得て、ペルンシルヴァニアを建設
1685年 ルイ十四世、フォンテンブロー勅令
ナントの勅令が廃止され、再びプロテスタント禁令となる。
1685-1750年 ドイツ、ヨハン・セバスチャン・バッハ生まれる
1688年 イギリスの「名誉革命」
ジェームズ2世はフランスに逃亡し、オレンジ公ウィリアム3世即位。
1689年 イギリス、ピューリタン信仰の自由が認められる

▼18世紀

1701年 プロイセン公国成立
1707年 グレート・ブリテン王国成立(イングランドとスコットランドが併合される)
1740年 ジョン・ウィスレーにより、メソジスト派誕生
1755年 アメリカ独立戦争勃発
1776年 アメリカ独立宣言(アメリカ合衆国成立)
1781年 哲学者カント『純粋理性批判』著わす
1785年 アメリカ、政教分離法、宗教税禁止法
1789-99年 フランス革命、カトリック教会迫害、クリュニー修道院破壊
1789年 アメリカ合衆国憲法の制定、初代大統領ジョージ・ワシントン就任

▼19世紀

1804年 ナポレオン1世、フランス皇帝即位
1804年 アメリカでユニテリアン主義が起こる
1806年 神聖ローマ帝国崩壊
1830年 アメリカ、ジョセフ・スミスがモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)設立
1833年 ギリシャ正教会独立
1837年 ギュツラフ、シンガポールで初の日本語訳聖書を刊行
1839-42年 アヘン戦争(清VS英国)
1846-78年 教皇ピウス9世即位
1854年 ローマ教皇ピウス9世、聖母マリアの無原罪懐胎を宣言
1856年 シナイ写本発見
1859年 チャールズ・ダーヴィン『種の起源』発表
1860年 ブルガリア正教会独立
1860年頃 アメリカ、セブンスデー・アドベンティスト教会設立
1861年 イタリア王国成立、教皇領北部が接収される
1861-65年 アメリカ、南北戦争勃発
1867年 カール・マルクス『資本論』
1869-70年 (第20回)第一バチカン公会議
近代思想否定。「デイ・フィリウス」…極端な合理主義を否定。「パストール・エテルヌス」…教皇首位権、教皇不可謬説(一定の条件下での教皇の発言に誤りはない)。教皇無謬説を否定した一部の司祭たちが教会から分離し、「復古カトリック教会」を創立した。
1870-1929年 「バチカンの囚人」、イタリア半島は統一されたが、教皇庁は政府と断交しつづける
1873-80年 文化闘争、ドイツ帝国宰相ビスマルク、帝国統一強化のため、カトリック教会を弾圧
1879年 セルビア正教会独立
1884年 イギリス、『改訂訳聖書』(RV)刊行
1884年 アメリカ、チャールズ・テイズ・ラッセル、ものみの塔聖書冊子協会(後のエホバの証人)を設立
1884-1976年 ドイツ、神学者ルドルフ・カール・ブルトマン誕生
1885年 ルーマニア正教会独立
1886-1968年 スイス、神学者カール・バルト誕生
1888年 哲学者ニーチェ『アンチ・キリスト』著わす
1895年 根本主義(ファンダメンタリズム)、五つの根本的教理を宣言

▼20世紀

1901年 『アメリカ標準訳聖書』(ASV)刊行
1904年 ペンテコステ派誕生
1904年 マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』著わす
1905年 アインシュタイン「相対性理論」発表
1906年 ロサンゼルス・アズーサ通り、大規模なリバイバル
1937年 ビブリア・ヘブライカの初版(BHK、ヘブライ語聖書底本)
1910年 フロイト『精神分析』
1910年 エキュメニズム、スコットランドで「エディンバラ世界宣教会議」開催
1910-1997年 マザー・テレサ誕生
1914-18年 サラエヴォ事件、第一次世界大戦勃発
1915年 フサイン=マクマホン協定
イギリス政府は、オスマン帝国との戦争(第一次世界大戦)に協力することを条件に、アラブ人の独立を承認するという契約。
1917年 バルフォア宣言
ユダヤ人にパレスチナの国家建設の支援を約束した。
1917年 ポルトガル大統領が「キリスト騎士団」(旧テンプル騎士団)のグランド・マスターとなる
1919年 ドイツ、ワイマール憲法の公布
1920-1946年 国際連盟設立
1922年 イギリス、国際連盟によりパレスチナの委任統治権が認められる
1922年 ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)成立
1922年 カール・バルト『ローマ書』(第二版)
1923年 オスマン帝国滅亡、トルコ共和国誕生
1923年 新正統主義、メイチェン論争(根本主義VS自由主義神学)
1925年 イタリアでムッソリーニの独裁支配開始
1929年 バチカン市国成立
教皇ピウス11世とムッソリーニ首相、「ラテラノ条約」締結、教皇領を放棄する代わりにバチカンは独立国家となる。
1929年 世界恐慌はじまる
1932-68年 カール・バルト『教会教義学』(未完)
1933年 ナチス・ドイツによる迫害がはじまる
1934年 カール・バルトら、「バルメン宣言」(ナチス・ドイツに反対する)
1937年 日本聖書協会設立
1939-45年 ドイツがポーランド侵攻、第二次世界大戦勃発
1945年 国際連合成立
1945年 エジプトでグノーシス主義文書『ナグ・ハマディ写本』発見
1946年 東西冷戦始まる
1947年 クムラン洞窟で『死海文書』発見
1948年 イスラエル建国
1948-49年 第一次中東戦争
1948年 北大西洋条約機構(NATO)発足
1948年 大韓民国、日本から独立
1950-53年 朝鮮戦争
1951年 『改訂標準訳聖書』(RSV)刊行
1954年 韓国、文鮮明により統一協会(現在の世界平和統一家庭連合)設立
1955年 日本聖書協会より『口語訳聖書』出版
1956-57年 第二次中東戦争
1962年 キューバ危機
1962-65年 (第21回)第二バチカン公会議
教会の現代化(アジョルナメント)で世界と教会の一致をはかる。 四つの憲章『典礼憲章』『神の啓示に関する教義憲章』『教会憲章』『現代世界憲章』。礼拝において自国語を用いる自由を認める。信徒の聖書研究が推奨される。エキュメニズムの推進。
1963年 キング牧師の演説
ワシントンD.C.で「私には夢がある」の演説、黒人差別に対する抗議。
1963年 ケネディ大統領暗殺
1965-1975年 ベトナム戦争
1965年 ローマ教皇とギリシア正教会総主教が和解、相互破門を取り消す
1966年 『エルサレム聖書』(TJB)刊行
1966年 カトリック教会、禁書目録の廃止
1967年 第三次中東戦争
1967年 欧州共同体(EU)発足
1969年 アポロ11号、人類初の月面着陸成功
1970年 ラテン・アメリカ神学者グスタボ・グティエレス『解放の神学』著わす
1970年 第一回世界宗教者平和会議、京都で開催
1973年 第四次中東戦争
1973年 第一次オイルショック
1977年 ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア(BHS、ヘブライ語聖書底本)
1978年 第二次オイルショック
1978-2005年 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世
1979-89年 ソ連のアフガニスタン侵攻
1980年 イギリス宗教哲学者、ジョン・ハーウッド・ヒック、宗教多元主義を提唱
1987年 日本聖書協会より『新共同訳聖書』出版
1989年 アメリカとソ連の冷戦終結、ベルリンの壁崩壊
1990年 東西ドイツ統一
1991年 湾岸戦争
1991年 ソ連崩壊、ロシア共和国成立、ロシア正教会復活
1992年 欧州連合(EU)発足
1992年12月7日 ローマ・カトリック教会、『カトリック教会のカテキズム』を発表
1992年 ローマ教皇、ガリレオ・ガリレイの異端宣告を撤回する
1994年 ルワンダで大量虐殺発生
1995年 日本、オウム真理教による地下鉄サリン事件
1996年 ローマ教皇、進化論を認める
1997年 ローマ教皇、ユダヤ人迫害を謝罪する
1999年10月31日 ローマ・カトリックとルーテル世界連盟による「義認の教理に関する共同宣言」

▼21世紀

2001年 アメリカ、9.11、同時多発テロ発生
2003-2011年 イラク戦争
2004年 ユダヤ教サンヘドリン、ティベリウスで復活
2005-2013年 ローマ教皇ベネディクト16世
2006年 ダン・ブラウン著『ダ・ヴィンチ・コード』が流行
2009年 ローマ教皇、地球外生命体の存在を認める
2011年 ローマ教皇により「宗教者サミット」開催、あらゆる宗教の指導者が集まり平和を祈る
2011年 日本、3.11東日本大震災発生
2013年 ローマ教皇ベネディクト16世が生前退位し、初の南米出身の教皇フランシスコが即位
2014年 イスラム国(IS)の勢力拡大、アメリカ空爆開始
2015年 パリ同時テロ発生、欧州での難民問題が深刻化
2015年 アメリカ最高裁が同性婚を認め、アメリカ全域で同性婚が合法化される
2016年 分裂後初、ローマ教皇とロシア正教会総主教の会談が実現


最終更新:2017年06月11日 02:43