ヘブライ書3章2節におけるポイエオーの用法について
ヘブライ3:1-6 逐語訳と直訳
3:1
Ὅθεν, ἀδελφοὶ ἅγιοι, κλήσεως ἐπουρανίου μέτοχοι, κατανοήσατε τὸν Ἀπόστολον καὶ Ἀρχιερέα τῆς ὁμολογίας ἡμῶν Ἰησοῦν,
そこから(副)、 兄弟たちよ(名呼男複) 聖なる(者たち)よ(形呼男複)、招きの(名属女単) 天上の(形属女単) 共有(者たち)よ(形呼男複)、 あなた方は強く知れ(動命アオ能2複) その(冠対男単) 使徒を(名対男単) そして(接) 大祭司を(名対男単) その(冠属女単) 告白の(名属女単) 我々の(代名属1複) イエスを(名対男単)、
であるから、聖なる兄弟たち、天上の招きの共有者たちよ。我らの告白の使徒かつ大祭司であるイエスを見きわめよ。
3:2
πιστὸν ὄντα τῷ ποιήσαντι αὐτὸν, ὡς καὶ Μωϋσῆς ἐν [ὅλῳ] τῷ οἴκῳ αὐτοῦ.
誠実な(者)を(形対男単) ~である(者)を(分現能対男単) その(冠与男単) 作った(者)に(分アオ能与男単) 彼を(代名対男3単)、 ~と同じように(接) そして(接) モーセは(名主男単) 中に(前与) [全てに(形与男単)] その(冠与男単) 家に(名与男単) 彼の(代名属男3単).
彼を造られた方に誠実である者を。彼の家〈全体〉の中におけるモーセと同様に。
3:3
πλείονος γὰρ οὗτος δόξης παρὰ Μωϋσῆν ἠξίωται, καθ’ ὅσον πλείονα τιμὴν ἔχει τοῦ οἴκου ὁ κατασκευάσας αὐτόν.
より大きいの(比較形属女単) なぜなら(接) この者は(指示代主男単) 栄光の(名属女単)~より(前) モーセを(名対男単) 彼はすでにふさわしくされた(動直完了受3単)、下へ(前) ~という限り~そうである(関代対中単) より大きいを(形比較対女単) 栄誉を(名対女単) 彼は持っている(動直現能3単) その(冠属男単) 家の(名属男単) その(冠主男単) 建てた(者)は(分アオ能主男単) 彼を(代対男3単).
なぜなら、この方はモーセよりも大きな栄光にふさわしくされたからである。家よりも、それを建てた者(の方)が大きな栄誉を持っている以上、そうである。
3:4
πᾶς γὰρ οἶκος κατασκευάζεται ὑπό τινος, ὁ δὲ πάντα κατασκευάσας Θεός.
全ては(形主男単) なぜなら(接) 家は(名主男単) 彼は建てられている(動直現受3単) 下に(前) ある者の(不代属男単)、 その(冠主男単) しかし(接) 全て(のものたち)を(形対中複) 建てた(者)は(分アオ能主男単) 神は(名主男単).
というのは、全ての家は誰かによって建てられるが、その万物を建てた方は神なのである。
3:5
καὶ Μωϋσῆς μὲν πιστὸς ἐν ὅλῳ τῷ οἴκῳ αὐτοῦ ὡς θεράπων εἰς μαρτύριον τῶν λαληθησομένων,
そして(接) モーセは(名主男単)~であるが(接) 誠実な(者)は(形主男単) 中に(前) 全てに(形与男単) その(冠与男単) 家に(名与男単) 彼の(代名属男3単) ~と同じように(接) 仕える者は(名主男単) 中へ(前) 証明を(名対中単) その(冠属中複) 話されるだろう(事柄)(分未受属中複)
そして、モーセは彼の家全体の中において誠実であって、それは侍者として、(後に)語られる事柄の証の為であった。
※七十人訳民数記12:7の引用。
「我が侍者モーセは同様ではない。彼は、我が家全体の中で誠実である」。
3:6
Χριστὸς δὲ ὡς υἱὸς ἐπὶ τὸν οἶκον αὐτοῦ· οὗ οἶκός ἐσμεν ἡμεῖς, ἐὰν[※περ] τὴν παρρησίαν καὶ τὸ καύχημα τῆς ἐλπίδος 〈μέχρι τέλους βεβαίαν〉 κατάσχωμεν.
キリストは(名主男単) しかし(接) ~と同じように(接) 息子は(名主男) 上に(接) その(冠対男単) 家を(名対男単) 彼の(代属男3単)、この者の(関代属男単) 家は(名主男単) 我々は~である(動直現能1複) 我々は(代主1複)、もし(※本当に)~ならば(接) その(冠対女単) 全て言うことを(名対女単) そして(接) その(冠対中単) 誇りを(名対中単) その(冠属女単) 希望の(名属女単)<~まで(前) 最後(名属中単) 堅く(形対女単)> 我々は保持する(動アオ能1複)
だが一方、キリストは彼の家の上における息子として(誠実であって)、我々がこの方の家なのである。もし我々が〈本当に〉その鮮明さと希望の誇りとを〈最後まで堅く〉保つのであれば。
私訳(直訳)
「1 であるから、聖なる兄弟たち、天上の招きの共有者たちよ。我らの告白の使徒かつ大祭司であるイエスを見きわめよ。2 彼を造られた方に誠実である者を。彼の家〈全体〉の中におけるモーセと同様に。3 なぜなら、この方はモーセよりも大きな栄光にふさわしくされたからである。家よりも、それを建てた者(の方)が大きな栄誉を持っている以上、そうである。4 というのは、全ての家は誰かによって建てられるが、その万物を建てた方は神なのである。5 そして、モーセは彼の家全体の中において誠実であって、それは侍者として、(後に)語られる事柄の証の為であった。6 だが一方、キリストは彼の家の上における息子として(誠実であって)、我々がこの方の家なのである。もし我々が〈本当に〉その鮮明さと希望の誇りとを〈最後まで堅く〉保つならば」。
考察(語の意味)
ヘブライ3:2では、イエスのことを「彼を造った方(神)に誠実である者」と書いてある。ποιέω(ポイエオー)は「作る」という基本動詞。これを「立てる」とか「任命する」と訳すのはひねった解釈である。イエスが神に造られた方とするとまずいのでそうなったのだろうことは容易に考えつく。
諸訳を見ると、
ウルガタ訳は、fecit(作った)
ティンダル訳も、made(作った)
ルター訳も、gemacht(作った)
だが、
欽定訳は、appointed(任命した)になっている。
だからRSVも当然、appointed。
元凶は欽定訳なのだろうか?
口語訳、新共同訳、新改訳などは「立てた」。
まず第一に、ポイエオー(ποιέω)は「作る、~する make,do」を意味する語であり、この語自体に「~を立てる、~を任命する」という意味はない。「AをBとする」という二重対格の文脈において「~を~とする、~となす」という意味になる。ここから「~として立てる(任命する)」と意訳され得る場合があるが、それは意訳であって、ポイエオーそのものに「立てる(任命する)」という意味はない。
また、セム語法では、「AをBとする」という文脈で、「ある者を祭司や指導者として制定する」という用い方でポイエオーを用いることがある。七十人訳では、サム一12:6、王一12:31、13:33等で、ヘブライ語asah(do,make)の訳語としてポイエオーが当てられている。しかし、この箇所でさえ、「任命した」というニュアンスは含意されるものの、語義そのものは「作る」である。
いずれにせよ、このセム語法が新約聖書において見られる箇所は、織田氏と岩隈氏の小辞典によれば、使徒2:36、マタイ4:19、マルコ3:14、ヘブ3:2が挙げられている。
使徒2:36「神はイエスを、主またキリスト【として立てた】」
マタイ4:19「(イエスが弟子たちを)人間の漁師【として立てる】」
マルコ3:14、16「(イエスは)十二人を【立てた】」
ヘブライ3:2「彼(御子)は彼を【立てた】方に忠実」
使徒2:36、マタイ4:19、においては、「~として立てた」と訳さずとも、「~とする」で意味が通じることなので、セム語法とは言い切れない。ヘブライ書3:2は、今論題になっている箇所である。マルコ3:14、16は、セム語法として最も適合する箇所である。私が調べた限り、新約中に明白にセム語法と見なせる箇所は、ここしか見いだせなかった。いずれにせよ、ここでも「任命する」という意味ではなく、「イエスが十二人を(使徒として)設けた(作った)」という意味である。
新約聖書ではポイエオーは551回程度登場する。私が調べた限り、「AがBを立てる(任命する)」という意訳が可能な聖書箇所は、マルコ3:14,16、ヨハネ6:15、使徒2:36、黙示録1:6、5:10、3:12くらいであった。これらは、王、祭司、使徒、王国、神の神殿の柱、といった立場に当てはまる。しかし、これも必ず「立てる」と訳さなければ意味が通らないような箇所ではない。大抵は「~とする」でこと足りる。また、この他にも、「AをBとする」という二重対格の構文はたくさん存在する。ヨハネ10:33では「(イエスが)自分を神とした」、19:7では「(イエスが)自分を神の子とした」、19:12では「(イエスが)自分を王となす」、使徒26:28「クリスチャンとする」、一コリ6:15「売春婦の肢体とする」、ヨハ一1:10、5:10「神を嘘つきとなす」等、他にも色々あるが、こうした例がセム語法に当てはまるという訳ではなく、通常のギリシャ語の用法である。
ちなみに、ヘブライ書において、ポイエオーは計18回用いられている。
1:2、1:3、3:2、6:3、7:27、8:5、8:9、10:7、10:9、10:36、11:28、12:13、12:27、13:17、13:19、13:21、13:21
1:2 神は彼(御子)によって、世界を【造った】
1:3 罪の清めを自ら【行った】
1:7 自分の天使たちを霊【とする者】
3:2 彼(御子)は彼を【造った方】(神)に忠実
6:3 神が許されるなら、それを【するだろう】
7:27 ただ一度限り【行った】
8:5 汝(モーセ)に示された型に従って【作りなさい】
8:9 エジプトより導き出した日に【なした】契約
10:7 神よ、汝の意志を【行う】ようにと
10:9 私はあなたの意志を【行う】為に来ました
10:36 神の意志を【行い】、約束を受け取る
11:28 信により、過越しを【なした】
12:13 真っすぐな道を【作りなさい】
12:27 揺るがされたものは【造られたもの(被造物)】
13:17 喜びをもってこれを【行う】
13:19 (祈りを)【すること】をお願いする
13:21 神の意志を【行う】ように・・・我々の内に【行って】下さる
この内、明白に「作った」の意味で用いているのは、
1:2 神は彼(御子)によって、世界を【造った】
8:5 汝(モーセ)に示された型に従って【作りなさい】
12:13 真っすぐな道を【作りなさい】
12:27 揺るがされたものは【造られたもの(被造物)】
であろう。
さらに、七十人訳(セプトゥアギンタ)の用例と比較しよう。
ヘブライ3:2の原文は以下の通りである。
πιστὸν ὄντα 【τῷ ποιήσαντι αὐτὸν】, ὡς καὶ Μωϋσῆς ἐν [ὅλῳ] τῷ οἴκῳ αὐτοῦ.
誠実な(者)を ~である(者)を 【その 造った(者)に 彼を】、 ~と同じように そして モーセは 中に [全てに] その 家に 彼の.
「【彼を造った方に】誠実である者を。彼の家(全体)の中におけるモーセと同様に」。
イザヤ17:7(七十人訳)
τῇ ἡμέρᾳ ἐκείνῃ πεποιθὼς ἔσται ἄνθρωπος ἐπὶ 【τῷ ποιήσαντι αὐτόν】, οἱ δὲ ὀφθαλμοὶ αὐτοῦ εἰς τὸν ἅγιον τοῦ ᾿Ισραὴλ ἐμβλέψονται,
その それ 日 信頼すること するだろう 人は 上に 【その 造った方に 彼を】 、その しかし 両目は 彼 中へ その 聖なる その イスラエル 見つめるであろう
「その日、人は【彼を造った方に】対して信頼を置くであろう。しかし、彼の目はイスラエルの聖なる方を見つめるだろう」。
詩篇149:2(七十人訳)
εὐφρανθήτω Ισραηλ ἐπὶ 【τῷ ποιήσαντι αὐτόν】,
καὶ υἱοὶ Σιων ἀγαλλιάσθωσαν ἐπὶ τῷ βασιλεῖ αὐτῶν·
喜べ イスラエル 上に 【その 造った方に 彼を】,
そして 子らは シオンの 歓喜せよ 上に 王を 彼らの.
イスラエルは、【彼を造った方に】対して喜べ。
また、シオンの子らは、彼らの王に対して歓喜せよ。
このように、ヘブ3:2、イザ17:7、詩149:2は、同じ語句を用いている。
考察(聖句)
ヘブライ3:1-6は、「聖なる兄弟たち、天上の招きの共有者たち」に向けて、「使徒かつ大祭司であるイエス」とモーセを比較し、イエスがより偉大であり、そのイエスを「見きめる」ことによって、モーセの時代のイスラエルが、エクレシア(真のイスラエル)に取って替わられたことを論じている。
まず2節で、そのイエスとは、「彼を造られた方に誠実である者」と呼ばれている。「彼」とは勿論、神のことである。ここで、イエスは「神に造られた」と述べている。この点が我々の論点であるが、今はとにかく全体の釈義を進める。著者は、「我らの告白の使徒かつ大祭司であるイエスを見きわめよ(κατανοήσατε 強く+知れ)」と述べた後に、そのイエスとは「彼を造られた方に誠実である者」なのだと断言している。そして、その後に、「彼の家〈全体〉の中におけるモーセと同様に」そうしなさい、と述べている。ここで、イエスとモーセが対比されているのは、著者がユダヤ人信徒に向けて語っているからである。つまり、『あなた方が敬っているモーセと同様な仕方で、イエスのことも敬いなさい』と言っている。そして、そのイエスとは、すなわち「彼を造られた方に誠実である者」のことであるのだが、モーセも同様に、「彼を造られた方に誠実である者」という点は同じだと述べている。
しかし、イエスとモーセには相違点がある。それは、モーセが「彼の家〈全体〉の中において」誠実だった点である。それが相違点であることは、この時点で著者は明らかにしていないが、読み進めて行くと、この点の相違が重要であることが分かっていくような文章の構成になっている。
さて、この「彼の家」とは何だろうか。「彼の家」は明確に「神の家」のことである。「モーセと同様に」というのだから、この「彼の家」はイスラエルを指すことは理解されるであろう。しかし、写本によって「全体」が付与されている写本と、そうでない写本がある。単数の「彼の家」が原典であったとすれば、その「彼の家」はモーセのユダヤ教時代のイスラエルを意味することになる。つまり、モーセはイスラエルの「中に」(内部に)に居ながら、神に誠実に仕えたという意味となる。一方、「彼の家全体」が原典であったとすれば、その「彼の家全体」はイスラエル全体を意味することになるであろう。恐らく、後代の修正者が、5節でモーセは彼の家全体で仕えていると述べているので、ここも「彼の家全体」と修正したのであろう。だから恐らく、原典は「彼の家」であったと思われる。
「彼の家」という表現は、ヘブライ10章21節にも登場する。もっとも、ここでは「神の家(τὸν οἶκον τοῦ Θεοῦ)」である。そこでは「また、神の家の上に大いなる祭司を(持っている)」と、イエスのことを指して述べているから、この聖句は我々の箇所と対応している、と言える。
つづく3節では、「なぜなら、この方(イエス)はモーセよりも大きな栄光にふさわしくされたからである」と述べる。2節では、モーセにおけると同様に、イエスを見きわめよ、ということだったが、3節は、「なぜなら~からである(γὰρ)」という文なので、そうするべき理由を述べている。すなわち、そうするべき理由とは、「彼を造られた方」である神が、イエスをモーセよりも大きな栄光を受けるにふさしい者と見なされたからである。イエスよりモーセの方が偉大であるから、モーセを敬うのと同じように、いやそれ以上に、イエスを敬うべき、ということ。
しかし、イエスがモーセよりも偉大なものとされたなどと、なぜ言えるのだろうか。著者はつづけて論じ、「家よりも、それを建てた者(の方)が大きな栄誉を持っている以上、そうである」と述べる。「家」というのは、勿論、一般的な家も含んで述べているが、ここでは特に「彼の家」(イスラエル)についての話を展開している。つまり、「彼の家」(イスラエル)よりも、その「彼の家」(イスラエル)を建てた者の方が偉大である、ということ。「その限りにおいてはそうである、~以上そうである(ὅσον)」という表現は、その原則が適応される範囲に限って、その一般原則が当てはまるということである。つまり、一般的に、家そのものよりも、その家を建てた者の方が上の立場にいる。それは自明の事である。それと同じように、イスラエルという家を建てる点においても、それを建てた者の方が偉大なのだ、ということ。
確かに、家よりもそれを建てる者の方が偉い。しかし、では、イスラエルを建てたのは誰なのだろうか。つづく4節で著者は、「というのは、全ての家は誰かによって建てられるが」と、一般原則の事実を述べてから、「その万物(全てのもの)を建てた方は神である」という真理を述べる。ここでの「全ての家」は、イスラエルのことのみを指しているとは言えない。この「全ての家」には冠詞が付与されていない為、「家全体」とも「全ての家」とも取れるが、いずれにせよ、冠詞がないということは不特定の家を指している。つまり、この「全ての家」は「万物」と等しい。すなわち、あらゆる家というものは、誰かしらによって建てられるのだが、そうしたものも含めて、全てのもの(万物)を建てた方は「神」なのである、と著者は述べている。 そして、当然のことながら、この万物(全ての家)の中には、「彼の家」(イスラエル)も入っている。
しかし、万物を建てた方は神であるとしても、それがどのように御子と関連付けられるのだろうか。単に神が万物を建てた方だと述べただけでは、イエスがモーセよりも大きな栄光を受けるにふさわしくされた理由の根拠とはならない。なぜなら、2節では、「彼を造った方」は神であるので、その神に造られたという点においては、イエスもモーセも同じであり、イエスの方が偉大である根拠とはならないからである。読者の視点はここで一旦、立ち止まってしまうと思う。つまり、著者はイエスが万物を建てた神だと言いたいのだろうか。
しかし、著者は、ここでは明示されていない、当時のクリスチャンの読者には自明であった理解を、もう一つの根拠としているのである。すなわちそれは、著者がすでにへブライ1章2節において明示している理解である。そこには「神は御子を、万物の相続人として定め、この方を通して、世界(アイオーン)をも造られた」とある。さらに、1章10-12節では、詩篇102篇25-27節を引用し、御子は万物を造った永遠の方であると述べている。つまり、”神は御子によって万物を造った”と、著者も当時の読者も明確に認識していると言えるのである。
さらに、1章6-8節では、詩編8章5-6節を引用し、神が万物をイエスの足下に服せしめたことを述べている。そして、1章10節では、「万物は神の故に、また神によって存在する」と述べつつ、「その神は、多くの子らを救済すべき指導者(=キリスト)を完成」させるという意志を持っていたことを説明している。つまり、著者は、神は御子によって万物を創造したのだから、その御子を万物の足下に服させることによって、多くの子らを救うことを目的としている、と考えている。その話の流れで、我々の箇所(3章1-6節)がある。
その理解の妥当性を示す他の根拠は、4節における「神」には冠詞が付いていないことが挙げられる。冠詞が付いていない場合、その名詞は特定の神を表すのではなく、神という性質を表す。すなわち、「その万物を建てた方は神(の性質を持っている)」と解釈べきなのである。だから著者は、「その万物を建てた方」とは、第一義には御父(神)のことを指しているが、御子イエスのことも暗に示唆しており、その御子は神の性質を持っているということを、ここで明らかにしていると言えるであろう。そして、神(御父)は、その御子によって、万物を創造したと著者は考えている、と見なせる。 とはいえ、ここでは、第一義的にはやはり御父(神)のことを指しているし、著者も読者がこれを読む時に、御父(神)のことを想像するだろうことを、念頭に置いて書いている。なぜなら、この点の解説はつづく5-6節において完成する構成になっているからである。
5、6節は、「そして(καὶ)」から始まる長い一つの文である。さらに、ここではμὲν+δὲ(一方は~、他方は~)という構文によって、モーセとイエスを明確に対比している。まず、「そして、モーセは彼の家全体の中において誠実」であったとある。「彼の家全体」は、すなわちイスラエル全体のことであった。しかし、モーセは、2節においては「彼の家」(イスラエル)において誠実であったと書かれていたが、この5節では「彼の家全体」(イスラエル全体)において誠実であったとなっている。これはどういうことか。
文脈を考えれば、前節(4節)で、神が万物(全ての家)を建てた方であることが示されているので、モーセは「彼の家」(イスラエル)だけでなく、「彼の家全体」(万物)においても誠実であったという意味になる。
実はこの部分、七十人訳の民数記12章7節を引用している。すなわちそこでは、「我が侍者モーセは同様ではない。彼は、我が家全体の中で誠実である」と記されている。当然、ユダヤ教においては、神の家とはイスラエルのことであって、異邦人を含む世界は神の家から疎外される対象であった。しかし、ヘブライ書の著者は、この書簡全体で一貫して、ユダヤ教を克服し、ユダヤ教に替わるキリスト教の優位性を示そうとしている。それを示すために、あらゆる比喩を用いているのである。だから、我々の箇所においても、モーセは地上的な国家である「神の家」(イスラエル)だけに誠実に仕えていたのではなく、実は、「神の家全体」(=万物)、つまりユダヤ人だけでなく異邦人にも及ぶ、万物を包含する全地球的な(そこに天使も含めるなら天上的な)イスラエルにも誠実に仕えていたのだ、ということを、この結論部分で明らかにしようとしていると言える。
著者がそれを明らかにしようとしている根拠はつづく言葉にある。5節はつづけて、「それは侍者として、(後に)語られる事柄の証の為であった」と述べる。つまり、モーセが「彼の家全体」に誠実であったのは、「(後に)語られる事柄の証の為」だったとある。この「語られる事柄」は未来時称の分詞であり、直訳は「語られるであろう事柄」となる。つまり、モーセは直接的に「彼の家全体」と関わって奉仕したという訳ではなく、将来語られ、後に実現することになっているメシアの到来を預言的に証し、福音の到来を予告することで、間接的に「彼の家全体」、つまり異邦人を含む全被造物、つまり万物に対しても、神に「侍者」として仕えていたのだ、ということになる。
一方、イエス・キリストの方はどうであろうか。6節では、「だが一方、キリストは彼の家の上における息子として(誠実)」であったと述べる。ここで、まず、モーセに関しては前置詞エン(ἐν)を用いて、神の家の「中で」誠実であると述べているのに対し、イエスについては前置詞エピ(ἐπὶ)を用いて、神の家の「上で」誠実であると述べている。この「中で」と「上に」は対比的に用いられている。もう一つは、モーセは神に対して「侍者」としてであるのに対し、イエスは「息子(御子)」とする点である。これは、モーセは神による神の家全体の内部(中)において仕えているに過ぎないのに対し、イエスは神の創造に用いられた神性を持つ存在として、万物を建てた方なので、神の家(イスラエル)の上に君臨する方である、ということを意味する。
しかし、モーセの方は「彼の家全体」と述べているのに対し、イエスの方は「彼の家」となっているのはなぜか。ここまでの話の流れを掴むなら理解できる。「彼の家全体」とは、イスラエル全体、つまり万物のことであった。それは、ユダヤ人の国家だけに留まらず、万物を包含する、異邦人世界をも含んだ全地球的(さらに御子はあらゆる天使の上に高められている故に、天上的)なイスラエル、つまりエクレシア(教会)のことを指している。モーセは単にユダヤ教の枠内で仕えていたわけではない、ということを示すため、「彼の家全体」となっているのである。一方、イエスについては、その観点での説明はすでに終わっていて、単に「彼の家」(イスラエル)と述べる。もちろん、このイスラエルも、エクレシアのことを指しており、当然、ユダヤ人だけでなく異邦人をも含むイスラエルのことである。なぜなら、6節の後半で「我々」(クリスチャン)が「この方の家」だと言っていることからして、それはエクレシアとしてのイスラエルのことだと理解できよう。
さらに、御子は「息子」と述べられているのは、4節に対応する答えとしてある。つまり、「万物(全ての家)を建てた方は神」(4節)であったが、御子はその方の息子である、ということ。御子もモーセと同様に、「彼を造られた方」(2節)の下にいて、その神に誠実な者であるけれども、神はその御子(息子)によって万物を造られたのであるから、御子は万物に対しては上にいる存在である。したがって、モーセはその万物の中にあって奉仕していたのだから、イエスはモーセよりもはるかに偉大であるということである。
そして、モーセは単にユダヤ教的、地上的なイスラエルに仕えていただけではなく、将来のことを預言的に証することで、キリストが万物の上から治める天上的なイスラエルにも仕えていた、ということである。
さて、つづく6節の後半では、「我々がこの方の家である」と述べている。すなわち、「この方の家」とは、万物を包含するイスラエルのことであって、1節の「聖なる兄弟たち」「天上の招きの共有者(仲間)たち」のことである。彼らは、イエス・キリストに信頼を置くことによって、ユダヤ教的・地上的なイスラエルから離脱し、キリストを頭とする天上的なイスラエルの中に入っている。それはエクレシア(教会、天のエルサレム)とも呼ばれるものである。すなわち、我々の箇所の全体で、著者が最も言いたいことは、モーセを指導者とする地上的な神の家の時代はもう終わったので、それより偉大なキリストを指導者、使徒、大祭司とする、天上的な神の家へと進もうではないか、ということである。
しかし、誰もが自動的に、この神の家に入れるわけではない。また、すでにそこに入っているからといって、惰性でいてよいものでもない。そこに入るのは、「もし我々が〈本当に〉その鮮明さと希望の誇りとを〈最後まで堅く〉保つならば」という条件付きなのである。〈 〉の部分は、写本によっては、挿入されて補われている部分であるが、いずれにせよ福音の鮮明な希望を「保つ」ことが必要なのである。
結論。著者は、イエスのことを、万物(全ての家)を建てた神の息子だと認識している。イエスとモーセはどちらも「彼に造られた方」であるが、イエスは神の「息子」として最初に造られた(生まれた)方であって、神から直接造られた唯一の方である。そして神はその御子によって、万物(全ての家)を造られたのである。したがって、御子は神の家(イスラエル)の上にいる方である。それに対し、モーセは神が御子によって建てた万物、つまり神の家(イスラエル)の中に属しているゆえに、モーセもイエスに服する存在であり、こうして万物が御子に服せしめられることが、神の意志である。
最終更新:2017年07月23日 04:59