初期の異端一覧
■50年頃
- 魔術師シモン(シモン・マグス) (→シモン派、メナンドロス派、カルポクラテス派へ派生)
サマリアのギット村の魔術師。クラウディウス帝(41-54年)の時代、フィリポから洗礼を授かるが、按手の力を金銭で買おうとして使徒ペテロから叱責を受ける(使徒8:9-24)。その後、シモンはローマへ逃避して成功を収め、ティベル川の二つの橋の間に像を建てられた。その像には「聖なる神シモン(SIMONI DEO SANCTO)」と刻まれていたという。また、フェニキアのツロの娼婦ヘレネは、彼が輩出した第一のエンノイア(思考)であったという。あらゆる異端の第一号者、またグノーシス主義の開祖とも言われる。
■65年頃
- テブティス派 テブティス (→シモン派、クレオビオス派、ドシテウス派、ゴルタイウス派、マスボタイウス派へ派生)
主の兄弟ヤコブが殉教(62年)すると、主の従兄弟シメオンがエルサレム教会の2代目の司教に選出された。テブティスは自分が司教に選ばれなかったので、自らが属し、民の間に広まっていた七つの異端を利用して教会を汚し始めた。これらの異端から、シモン派、クレオビウス派、ドシテウス派、ゴルタイウス派、マスボタイウス派などが興った。さらにそれらから、メナンドロス派、マルキオン派、カルポクラテス派、ウァレンティノス派、バシリデス派、サトルニノス派が興った、という。
テブティス派から派生した魔術師シモンの教えを継承する異端。後にケルド派へ、そしてマルキオン派へと派生して行く。
詳細は不明。
サマリア出身のグノーシス主義者。オリゲネス『ケルソス駁論』によれば、その集団は30人にも満たなかったという。
詳細は不明。
詳細は不明。
■70年頃
- メナンドロス派 メナンドロス (→サトルニノス派、バシリデス派へ派生)
魔術師シモンの後継者。サマリアのカパラタエア村出身。アンティオキアで活動。自らを天のアイオーンから遣わされた救い主だと語った。天使たちでさえ、彼の魔術と洗礼に導かれなければ、永遠の不死(不老不死)になることはできない、と説いた。
■80年頃
- サトルニノス派 サトルニノス (→エンクラティタイ派へ派生)
メナンドロス派からの派生。アンティオキア出身。異端の学校をシリアに創設。結婚は堕落であると説いた。
アンティオキアの改宗者。ヨハネ黙示録2章6節にも言及される。ニコラオは使徒行伝6章5節に登場するステファノなどと共に使徒に任命された七人の執事の一人だったという。彼には美人の妻がおり、彼の嫉妬心を使徒たちから責められたので、自分の妻を引っぱり出して、彼女と寝たい者にそれを許した、という。彼は「肉を蔑視すべきである」と発言していた。彼を崇敬する一派はニコラオのこの言動を誤解して、性的放蕩を尽くした。しかし、ニコラオ自身は妻以外に触れることはなく、彼の娘たちも生涯処女で、一人息子も堕落しなかった。実際のところ、彼の言動の真意は情欲の放棄だった、という。あるいは、ニコラオ派は結婚を禁じていたのかも知れない。
■90年頃
- ケリントス派 ケリントス (→類似の異端 ネポス)
小アジアで活躍したグノーシス主義者。彼は『ヨハネ黙示録』を用いて、天使から啓示を受けたと言って預言した。彼はキリストの王国(千年王国)は地上に到来すると説いた。そして、キリストの王国は、千年間続く主との結婚の宴であり、信徒がその地上で肉欲を満たすこと(食事や同衾や饗宴)によって実現されると説いた。エイレナイオスは『異端駁論』の中で、ポリュカルポスの伝承を基にした物語を記した。使徒ヨハネがエフェソスで浴場に入る時、ケリントスが先に入っていたので、彼は浴場から飛び出した。ヨハネは、彼と同じ屋根の下にいるのも耐えられなかったため、その仲間に「さあ、逃げよう。浴場が崩れ落ちるぞ。真理の敵ケリントスが中にいるからだ」と言って、逃げるよう勧めたという。
■120年頃
メナンドロス派からの派生。アレクサンドリアの最古のグノーシス主義者。ハドリアヌス帝(117-138年)とピウス帝(138-161年)の時代に活躍。異端の学校をエジプトに創設。彼は福音書の註解を24冊著した。自分のお抱えの預言者にバル・カバスとバル・コフを任命していた。彼は偶像への捧げ物を食べても、迫害の時に信仰を否認しても構わないと説いた。また、自分の教えを受ける信者には、五年間の守秘義務を命じた。彼の教説は、守秘義務を口実にして、師メナンドロスの教えを無限に拡大していったという。また、当時著名な作家だったアグリッパ・カストロは、彼の虚偽を暴露したと伝わる。
バシリデスと同時代人。メナンドロス系とは別の、グノーシス主義の父。彼も魔術師シモンの教えを説く。バシリデス派が守秘だったのとは異なり、シモンの魔術を公に伝えた。魔術、媚薬、夢をもたらすもの、介添えの悪霊(ダイモーン)などの猥雑な密儀を全て行わなければ、世界の支配者たち(アイオーンたち)から救われることはないと説いた。彼らの密儀が一般人のキリスト教に対する誤解を生じさせ、クリスチャンは近親相姦や汚れた食事をしていると非難されるようになったという。
■140年頃
シリア出身。ローマ第8代司教ヒュギヌス(136-140年)の時代にローマ教会で洗礼を受けた。しかし、異端の教えを密かに教え、教会から追放されたり戻ったりを繰り返したという。彼は、律法や預言者の教える旧約の神は、イエス・キリストの父なる神ではないと説いた。旧約の神は人に義を求めるが、キリストの父なる神は善だからである、と。マルキオンは彼の教えを継いだので、彼はマルキオン派の創始者だという。また、彼は元々はシモン派からの派生であったという。
■150年頃
- ウァレンティノス派 ウァレンティノス(110頃-160年頃) (→バルデサネス派へ派生)
黒海沿岸のシノペの司祭の子に生まれた。ローマ第8代司教ヒュギヌス(136-140年)の時代にローマに来た。アントニヌス・ピウス帝(138-161年)の時期に栄え、アニケトス司教(154-165年)の時代まで生きた。
小アジアで活躍したウァレンティノス派。入会者の儀式では、ある呪文(一部の者はヘブライ語で)を唱えて、これから入会の儀式で行うことは、天界での合一を模した霊的な結婚である、と告げる。そして、入会者を水に連れて行き、洗礼を施しながら、「全宇宙の知られざる父の名において、すべてのものの母である真理の名において、イエスの中に降りて来られた方の名において」と宣言する。
- マルキオン派 マルキオン (→アペレス派、ポティトス派、バシリスク派、スュネルス派、エンクラティス派へ派生)
ケルドの後継者。ポントス出身。旧約の創造主はキリストの父なる神ではないと説き、旧約の神とは別の偉大な神(キリストの父なる神)を信じるように説く。彼は反ユダヤ主義的立場から旧約聖書を否定し、十のパウロ文書とルカ福音書から成る『マルキオン聖書』を作成した。マルキオン派は内部分裂していた。アペレスは一なる原理を信奉し、旧約の預言は敵対者(悪霊)からのものであると説いた。また、ポティトスやバシリスクは二つなる原理を信奉し、スュネルスは三つの原理があると説いていた。神についての見解がばらばらであったが、アペレスは、真理(神について)は徹底的に議論する必要などなく、各自が信じたまま信じればよいのであって、キリストを信じて良い業を行う者はみな救われる、と説いた。マルキオン派の中にも殉教者は多く存在した。
■160年頃
- モンタノス派 モンタノス (マクシミラ派、テオドトス派、テミソン派、アレクサンドロス派、ミリティアデス派)
フリギヤ付近のミュシアのアルダバウ村で活動。プリスキラとマクシミラという二人の女預言者を引き連れ、恍惚状態で異言を語りながら預言して廻った。プリスキラは預言活動の為に夫を捨てたのに関わらず、処女と呼ばれていた。二人の女預言者は精神に異常をきたして自殺したという。彼らの預言の支持者にテオドトスがいる。結婚の解消(預言活動に専念する為に離婚すること)を教え、断食の法を作り、フリギヤの小さな町のペプザとテュミオンをエルサレムと改名し、そこに新しいエルサレムが到来すると説いた。そこに各地の人々を集め、献金を取り立てて、捧げ物という名目で物品を受け取り、自分の宣教者たちに給料を支払った。ヒエラポリスのアポリナリウスはモンタノス派を反駁した。ガラテアの教会は影響を受けて分裂した。
■165年頃
マルキオン派の派生。一なる原理を説き、旧約の預言は敵対者(悪霊)からのものであると説いた。
マルキオン派の派生。二なる原理を説く。
マルキオン派の派生。二なる原理を説く。
マルキオン派の派生。三なる原理を説く。
■170年頃
- タティアノス派 タティアノス(エンクラティタイ(エンクラテイス)、セウェルス)
エンクラティタイは独身を守り、肉や酒を遠ざけた禁欲者集団であった。彼らの教えの唱道者がタティアノスであった。彼はユスティノスの学生だったが、172年頃、独自の学校を開いた。サトルニノス、マルキオン、ウァレンティノスの影響を受け、目に見えぬアイオーンを説き、男女の結婚を否定し、アダム(最初の男性)の救いを否認した。彼は『ディア・テッサロン(四つを介して)』を著し、四福音書を合成して新たな福音書をまとめた。他にも多くの文書を著したが、『ギリシア人への言葉』では、モーセや旧約の預言者がギリシア人より古く優れていることを説いた。
厳格な禁欲主義者で、肉を断ち、パンと水のみで生活した。しかし、闘技場の試練に遭った時、肉を断つことは躓きの元であると悟った。その後、殉教した。
モンタノス派。
モンタノス派。モンタノスに追従した二人の女預言者。アイシャドーを塗り、化粧に夢中だったという。
モンタノス派。多額の金銭を支払って殉教を免れたことがあった。それなのに、使徒パウロの真似をして公同書簡を著した。
モンタノス派。殉教者を名乗り、女預言者(マクシミラかプリスキラ)と共に貧しい人々から献金を取立てた。そのことでエフェソスの執政官に捕まったが、主の御名を語って放免されたという。
イエスは、マリアとヨセフの性交によって生まれ、律法の遵守によって義とされた貧しい普通の人間だったと説いた。他の同類のグループは、処女による降誕は否定しなかったが、イエスが神として先在したロゴス、ソフィアであることを告白しなかった。そして、両者とも、キリストへの信仰だけでは救われず、モーセの律法の遵守を強調した。彼らはパウロ書簡を否定し、パウロを律法の背教者とみなした。福音書は『へブル人への福音書』のみを用いた。スュンマクス(シュンマコス)は、オリゲネスの六欄対訳聖書『ヘクラプラ』で参照される七十人訳の翻訳者の一人であるが、彼もエビオン派で、彼は自著の註解書の中で『マタイ福音書』を批判していたという。ユリアナという女性は彼の弟子で、オリゲネスにその註解書を手渡したという。
■180年頃
タティアノスの支持者による一派。旧約聖書と福音書を採用するが、使徒行伝とパウロ書簡を否定した。
ローマで活動。教会の長老であった。
ローマで活動。教会の長老であったが、フロリノスと共に背教した。
■190年頃
シリアのエデッサ出身。25歳の時、エデッサの司教ヒュスタスペスの説教を聴いて洗礼を受けた。シリア語で著書を著しモンタノス派などを論駁した。そのうち『運命について』はギリシャ語に翻訳された。彼は最初ウァレンティノス派に属しており、ウァレンティノス派をも告発したが、その教えを完全に払拭はできていなかった。
モンタノス運動の指導者の一人。恍惚状態に陥って預言を語った。
- テオドトス派 靴直しのテオドトス (アスクレピオドトス派、両替商のテオドトス派へ派生)
ローマ司教ゼフュリヌス(199頃-217年)の時に活躍。キリストの神性を否定し、キリストは単なる人間だと説いた。ローマ司教ウィクトル(190-199年)により破門される。アスクレピオドトスや両替商のデオドトスは彼の弟子であった。
■200年頃
プロクルス派 プロクルス
フリギヤの異端(モンタノス派)の指導者。
■210年頃
靴直しのテオドトスの弟子。
靴直しのテオドトスの弟子。彼らは聖書を改竄し、写本に手を加えた。また、ユークリッド幾何学やアリストテレス哲学を熱心に研究し、三段論法を用いて聖書を高等批評した。
靴直しのテオドトスの弟子であるアスクレピオドトスと両替商のテオドトスに説得させられ、彼らがから毎月150デナリの給料をもらって、この異端の監督となった。しかし度々、主の幻を見て、天使たちから夜通し鞭打たれた後、ゼフュリヌス司教の下にひざまずき懺悔したという。
■220年頃
ウァレンティノス派を奉じていたが、オリゲネスに論駁されて悔い改めた。オリゲネスの弟子であり友人となった。そして、正統教会の執事となった。
北アフリカのキレナイカ出身。様態論(父と子と聖霊は唯一の神の様態(人格)が変化したもの)を説く。ローマ司教ゼフュリヌス(199頃-217年)の時、ローマで教えたが、神学者ヒッポリュトス(従属説論者)に批判されたことで、カリストス司教(217-222年)の時に破門された。リビヤのペンタポリスの首都プトレマイスで、サベリウス主義が盛んになったので、ディオニュシウス司教(259-268年)は彼を論駁した。
■225年頃
アルテモン派 アルテモン(アルテマス) (→サモサタのパウロが再興)
イエスは単なる人間であったが、神の霊の力を受けて、神の養子となったと説いた(養子説)。使徒時代からローマ司教ウィクトル(190-199年)までこの教えは受け継がれてきたと主張した。しかし、ウィクトルは同じくキリストの神性を否定したテオドトスを破門している。
■240年頃
アラビアのボストラの司教。キリストは天にいる時は、その方固有の様態で先在していたわけでも、固有の神性をもっていたわけでもなく、その方の中に宿った父(の神性)だけをもっていた、と説いた。教会会議が開かれ(オリゲネスも出席)、彼の考えの誤謬は正されたという。
ペルシア人。マニ教の開祖。242年3月20日、ペルシア王シャプール一世の即位式の日にクテシフォンで説教を開始。275年頃バラム一世により投獄されて死んだ。ゾロアスター教を基に、キリスト教や仏教やグノーシス主義を取り込んだ宗教。
■250年頃
251年ローマ教会の対立教皇となる。主著『三位一体論』『ユダヤ人の食物について』。デキウス帝の迫害(249-250年)の際の棄教者の教会復帰を認めるか否かの問題で、ノウァトスは非妥協の厳格主義の立場を取った。
エジプトの司教。キリストの王国は地上に到来すると説いた。『ヨハネ黙示録』から根拠を得て、自説を『寓意論者たちへの反論』に著した。ディオニュシウスは『約束について』で彼に反論している。ケリントス派と類似している。
ネポスの教えの指導者。
■260年頃
260-268年までアンティオキア司教を務める。264-266年の間に彼の教えを審理するために、三回の教会会議が開かれ、268年に破門された。彼はアルテモンの教えを再興し、イエスは単なる人間であったが、神の霊の力を受けて、神の養子となったと説いた(養子説)。
最終更新:2017年06月10日 23:03