アットウィキロゴ
 

救い


旧約聖書

新約聖書

  • キリストの名の故にすべての人から憎しみを受けるが、終わりまで忍耐した人が救われる(マタイ10:22,24:13)
  • 人には不可能でも、神には可能である(マタイ19:25,マルコ10:27,ルカ18:27)
  • 大患難では、その日が短くされなければ、肉なる者は誰も救われない(マタイ24:22,マルコ13:20)
  • 信じて、バプテスマを受ける者は救われる(マルコ16:16)
  • 救いは罪の赦しによって成される(ルカ1:77)
  • 福音を聞いても、そののち悪魔がやってきて心からみ言葉を取り去される人は、信じて救われることはない(ルカ8:12)
  • ただ信仰を示すなら救われる(ルカ8:50)
  • 救われる者は少ない。狭き門(戸口)を通って入るため、努力せよ。入ろうと努めながら、入れない者が多い(ルカ13:23,マタイ7:13,14)
  • 人の子(イエス・キリスト)は、失われたもの(アブラハムの子孫)を救うために来た(ルカ19:9,10,使徒13:26)
  • 神はご自分の御子を世に遣わした。それは彼が世を裁くためでなく、世が彼を通して救われるためである(ヨハネ3:17)
  • 救いはユダヤ人から起こる(ヨハネ4:22)
  • キリストは戸口。この戸口を通って入る者は救われる(ヨハネ10:9)
  • 主の名を呼び求める者はみな救われる(使徒2:21)
  • 人々に救いを与え得る名は、イエス・キリスト以外にない(使徒4:12)
  • モーセの割礼を受けなくても救われる(使徒15:1)
  • 救いはユダヤ人だけでなく、異邦人にも及ぶ(使徒15:47)
  • 救われるために何をすればいいか。主イエスを信じて頼るなら、救われる(使徒16:31)
  • 多くのユダヤ人が救いを受け入れなかったので、救いは異邦人に送り出された(使徒28:28)
  • 福音はユダヤ人を初め、ギリシャ人とっても救いの為の神の力である(ローマ1:16)
  • 我々はキリストの血により義と宣言されたのだから、この方を通して憤りから救われるはず(ローマ5:9)
  • 我々が敵であった時から御子の死を通して神と和解したのであれば、御子の命によって救われるはず(ローマ5:10)
  • 我々は、神の子の栄光ある自由(贖いによって自分の体から解放されること)を持つという希望のもとに救われた。だが、その希望はまだ実現して(見えるものとはなって)はない(ローマ8:18-25)
  • イスラエルの子らの数は海の砂のようでも、救われるのは残りの者である(ローマ9:27)
  • 我々は無知による神への熱心さを示しているユダヤ人が救われる為に、心からの善意と祈願を捧げる(ローマ10:1,2)
  • イエスは主であると告白し、神は彼を死人の中から甦えらせたと心の中で信じるなら、あなたは救われる(ローマ10:9,10)
  • 主の名を呼び求める者はみな救われる(ローマ10:13)
  • ユダヤ人が道を踏み外したことで、異邦人にも救いがもたらされた。それはイスラエル人に妬みを起こさせるためであり、彼らは全く倒れてしまったわけではない。イスラエル人の過ちと欠けることが異邦人の富となったのであれば、彼らは満ちる(ローマ11:11,12)
  • イスラエルはみな救われる(ローマ11:26)
  • 我々の救いは、我々が信者になった時よりも近づいている(ローマ13:11)
  • 磔柱についての話は、滅びる人々にとっては愚かだが、救われる人々にとっては神の力である(コリ一1:18)
  • 兄弟と呼ばれる不道徳な人を肉の滅びの為にサタンに引き渡し、こうして主の日に霊が救われるようにする(コリ一5:5)
  • 使徒パウロはすべての事においてすべての人を喜ばせ、自分の益でなく多くの人の益を求めるのは、こうして彼らが救われるため(コリ一10:32,33)
  • 私(使徒パウロ)が宣明した福音の言葉をしっかりと守るなら救われる(コリ一15:2)
  • 救われる人々と滅びる人々がいる(コリ二2:15)
  • 各人の業が燃え尽きるなら、その人は損失を被ることになるが、その人自身は火をくぐるようにして救われる(コリ二3:15)
  • 今は救いが受け入れられる救いの日である(コリ二6:2)
  • 救いが生じるには、世の悲しみでなく、神の御心に添う悲しみによる悔い改めが必要である(コリ二7:10)
  • 救いは神の恵みによる。我々が罪過によって死んでいた時に、キリストと共に生かして下さったからである(エペ2:5)
  • 我々は、神の恵みによって救われている。それは我々によるのではなく、神の賜物である(エペソ2:8)
  • 救いと、救いの希望は兜である(エペ6:17,テサ一5:8)
  • 教会が敵対者(迫害者)に怖じけず、一致団結して福音信仰の為に奮闘することは救いの証拠である(フィリ1:27,28)
  • 恐れおののきをもって自分の救いを達成する必要がある(フィリ2:12)
  • ユダヤ人は異邦人が救われる為に我々が語りかけるのを妨害しようとしている(テサ一2:16)
  • 神は我々を(裁きの)憤りにではなく、我らの主イエス・キリストを通して救いを得られるよう定めて下さった(テサ一5:8)
  • 真理への愛を受け入れず、救われようとしなかった人々を、神は偽りを信じるようにされ滅ぼされる(テサ二2:10)
  • 神は、我々を霊によって聖なる者とすることにより、救いの為に初めから選び出された(テサ二2:13)
  • 救いと召命は、我々の業によるのではなく、神ご自身の目的と恵みとによる(テモ一1:9)
  • すべての人(又はあらゆる人)が救われることが神のみ旨である(テモ一2:4)
  • 聖なる書物(聖書)は、あなたをキリスト・イエスの信仰によって救いに至らせることができる(テモ二3:15)
  • 救いはすべての人(又はあらゆる人)にもたらされる(テトス2:11)
  • この偉大な救いをないがしろにするなら(裁きを)逃れることはできない。なぜならこの救いは、まず主によって語られ、それを聞いた人々が確かなものとして我々に示し、それだけでなく、神もしるしと不思議と力あるみ業によって証し、さらに聖霊の賜物によって証しているから(ヘブ2:3,4)
  • キリストは救いの導師(君、代理者)である(ヘブ2:10)
  • キリストは、彼に聞き従うすべての人に対し、救済の根拠である(ヘブ5:9)
  • 一度聖霊に預かった者が、その後もしも離脱するなら、再び新しくして悔い改めに至ることはあり得ないが、聖者たちの為にこれまで奉仕してきた働きと、今も示している神への愛があるならば、救いに関わるものとして確信される(ヘブ6:4-10)
  • 罪人を信仰に立ち返らせる人は、その人の魂を死から救う(ヤコブ5:20)
  • 救いは、終わりの時期に顕現されるよう備えられている(ペテ一1:5)
  • 信仰の究極目的は、魂の救いを得ること(ペテ一1:9)
  • 救いに関する探究と調査が、恵みを預言した預言者たちによって行われた(ペテ一1:10)
  • 水のバプテスマ(洗礼)を通して救われる。それは肉の汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めるためのものである(ペテ一3:21)
  • 義人はかろうじて救われる。ならば、不敬虔な罪人が救われることはあり得ない(ペテ一4:18)
  • 混合なき純粋な神のみ言葉を慕い、それによって成長して、救いに至るべき(ペテ二2:2)
  • (ユダヤ人と異邦人は)共に救いにあずかる者である(ユダ1:3)
  • 疑いを抱く人を火の中からつかみ出して救いなさい(ユダ1:23)
  • 救いは、御座に座す我らの神と、子羊とによる(黙7:10)
  • 全地を惑わす悪魔サタンが地に投げ落とされる時、救いは実現した(黙12:10)

まとめ

救いは、御座に座す我らの神と、子羊とによる。

救いはユダヤ人から起こる。そして、人々に救いを与え得る名は、イエス・キリスト以外にはない。キリストは救いの導師(君、代理者)である。キリストは戸口であり、この戸口を通って入る者だけが救われるのである。彼は、失われたもの(アブラハムの子孫)を救う為に来られた。しかし、多くのユダヤ人が救いを受け入れず、道を踏み外したので、救いは異邦人にも送り出された。イエスラル人で救われるのは残りの民である。彼らの多くは、使徒たちが異邦人が救われるために語りかけるのを妨害するからである。したがって、救いはユダヤ人だけでなく、異邦人にも及ぶ。福音は、ユダヤ人を初めとして、ギリシャ人にとっても救いの為の神の力であり、ユダヤ人と異邦人は共に救いにあずかる者なのである。したがって、モーセの割礼を受けなくとも救われる。しかしこれは、イスラエル人が全く倒されてしまったことを意味しない。むしろそれはイスラエル人に妬みを起こさせる為であった。イスラエル人の過ちと欠けることが異邦人の富となったのであれば、まして彼らは満ち、イスラエルはみな救われることになろう。それゆえ、使徒パウロがしたように、我々も知識によらない神への熱心さを示しているイスラエル人が救われるようにと、心からの善意と祈願とを捧げるべきである。

すべての人(又はあらゆる人)が救われることが神のみ旨である。神がご自分の御子を世に遣わしたのは、彼が世を裁く為ではなく、世が彼を通して救われるためである。それで、そのみ旨は果たされ、救いはすべての人(又はあらゆる人)にもたらされる。しかしこれは、キリストが”彼に聞き従う”すべての人に対する救いの根拠である、という意味である。主の名を呼び求める者はすべて救われるのである。また、救われる人々と滅びる人々がいるからである。磔柱についての話は、滅びる人々にとっては愚かだが、救われる人々にとっては神の力である。だから神は、真理への愛を受け入れず、救われようとしなかった人々を、偽りを信じるようにされて滅ぼされる。このように、義人がかろうじて救われるのであれば、不敬虔な罪人が救われることがあるだろうか。事実、この偉大な救いをないがしろにするなら(裁きを)逃れることはできない。なぜならこの救いは、まず主によって語られ、それを聞いた人々が確かなものとして我々に示し、それだけでなく、神ご自身もしるしと不思議と力あるみ業によって証し、さらには聖霊の賜物によって証しているからである。

救いは、人には不可能でも神には可能である。それは神ご自身の恵みによる。救いは我々の業によるのではなく、罪の赦しによって成される神の賜物である。なぜなら、神は我々が罪過にあって死んでいた最中に、キリストと共に生かして下さったからである。また神は、我々を霊により聖なる者とすることによって、救いの為に初めから選び出されたからである。神は我々を(裁きの)憤りにではなく、我らの主イエス・キリストを通して救いを得られるように定めてくださったのである。我々はキリストの血によって義と宣言されたのだから、キリストを通して憤りから救われる。また、我々が神の敵であった時から、御子の死を通して神と和解したのであれば、御子の命によって救われる。

したがって、イエスは主であると告白し、神は彼を死人の中から甦えらせたと心の中で信じるならあなたは救われる。それには、世の悲しみではなく、神の御心に添う悲しみによる悔い改めが必要である。そしてさらに、主イエスをただ信じて頼り、水のバプテスマを受ける者は救われる。それは肉の汚れを除くことではなく、神に明らかな良心を願い求める為に必要なものだからである。さらに、使徒パウロが宣明したその福音の言葉をしっかりと守るなら救われる。この信仰の究極目的は、魂の救いを得ることだからである。その救いは、終わりの時期に顕現されるよう備えられている。すなわち、全地を惑わす悪魔サタンが地に投げ落とされる時に実現する。我々は、神の子の栄光ある自由(贖いによって自分の体から解放される)というこの希望のもとに救われた。だが、その希望はまだ実現して(見えるものとはなって)はいない。だから信じる者は、キリストの名の故にすべての人の憎しみを受けるが、終わりまで忍耐した人が救われるのである。

しかし、一度聖霊に与った者が、その後もしも離脱するなら、再び新しくして悔い改めに至ることはあり得ない。とはいえ、聖者たちの為にこれまで奉仕してきた働きと、今も示している神への愛があるならば、救いに関わるものとして確信される。だから、恐れおののきをもって自分の救いを達成する必要がある。

教会が敵対者に怖けず、一致団結して福音信仰の為に奮闘するなら、それは救いの証拠となる。とはいえ、各々の建て上げる業が燃え尽きるなら、その人は損失を被ることになるが、その人自身は火をくぐるようにして救われることになろう。もし疑いを抱く人がいるなら、火の中からつかみ出してその人を救うべきである。罪人を信仰に立ち返らせる人は、その人の魂を死から救うからである。また、兄弟である人で不道徳な人がいたら、その人を肉の滅びためにサタンに引き渡し、こうして主の日に彼の霊が救われるようにしなくてはいけない。だから、我々は、狭き門(戸口)を通って入る為に努力する必要がある。入ろうと努めながら、入れない者が多いからである。事実、大患難では、その日が短くされなければ、肉なる者は誰も救われないであろう。とはいえ、我々の救いは、我々が信じた時よりも近づいている。だからこの救いと、救いの希望は兜(思考を守るもの)となる。

この救いに関する探究と調査が、恵みを預言した預言者たちによって行われた。それ故、聖なる書物(聖書)は、あなたをキリスト・イエスの信仰によって救いに至らせることができる。だから、混合なき純粋な神のみ言葉を慕い求め、それによって成長して、救いに至るべきである。今こそが、救いが受け入れられる救いの日だからである。
最終更新:2017年07月24日 20:22