深い深いまどろみの底で、見た夢。
それは、決して開けてはならない、パンドラの箱…
それは、決して開けてはならない、パンドラの箱…
一人の少女が、悠久の時を眠る。
初雪のように白い肌に咲き誇るは、薔薇のように美しい唇。
少女には恐らく感情というものはない。眠ってはいるのだが、目を覚ましたとて、美の権化がただ在るだけだという印象を与える。
あまりの美しさに、そっと触れようと手を伸ばす。
決して遠くはない距離にいる少女に触れるには、少しの時があれば十分だろう。
しかし、あまりにも遠い。あまりにも永い。
その時間さえ愛おしく思えるほどの美しさ…
そして、指先が少女の面を捉えた刹那…
初雪のように白い肌に咲き誇るは、薔薇のように美しい唇。
少女には恐らく感情というものはない。眠ってはいるのだが、目を覚ましたとて、美の権化がただ在るだけだという印象を与える。
あまりの美しさに、そっと触れようと手を伸ばす。
決して遠くはない距離にいる少女に触れるには、少しの時があれば十分だろう。
しかし、あまりにも遠い。あまりにも永い。
その時間さえ愛おしく思えるほどの美しさ…
そして、指先が少女の面を捉えた刹那…
世界が、崩壊した。
ディヴィッド・リマーはそこで目を覚ました。
「クソ…!またあの夢かよ…!」
デイヴは忌々しそうに頭を掻き、水を飲もうと立ち上がる。
汗をびっしょりとかいた所為で、ひどく喉が渇いていた。
寝台にはシーツもなく、あちこち綿のはみ出たマットが剥きだしになっている。作業着と黄ばんだ下着を一緒くたに丸めたのが枕代わりであるらしかった。
床には空き瓶と空き缶が散乱し、部屋に据付と思わしき冷蔵庫は開け放しで、乱暴に放り込まれたビール缶に、バスケットシューズが覗いて見えた。
これが、ディヴィッド・リマーの住処。唯一、誰にも気を使わずとも過ごすことのできる場所だった。
お世辞にも清潔であるとは言い難い水道水を、一気に飲み干してから、時計を見る。
ひどく不快な気持ちで、すっかり目も覚めてしまった。
「…半端な時間だな」
昨日、いつ床に着いたのかはよく覚えていない。
確か、いつもどおり正午に起き、大家の催促を逃れてパチンコ屋へ出かけた。
負けも勝ちもせず夜になって、行きつけのバーでカードに興じ、負けが込んできて、店主に追加の酒を頼んだら店から追い出された。
その後の記憶はぼやけて、なにやら悪態を付いていたかもしれず、通行人に絡んでいたかもしれない。
酔いが回りすぎて、デイヴィッドは自分が何を言ったのかさえ覚えていなかった。
時間は九時半。但し夜のほうだ。
この感じだと、ほぼ丸一日寝ていたようだ。
「まあ、構わねえさ」
玄関には大家の書置きがあったが、それを丸めて捨て、デイヴはいつものように夜の街へと繰り出して行った。
「クソ…!またあの夢かよ…!」
デイヴは忌々しそうに頭を掻き、水を飲もうと立ち上がる。
汗をびっしょりとかいた所為で、ひどく喉が渇いていた。
寝台にはシーツもなく、あちこち綿のはみ出たマットが剥きだしになっている。作業着と黄ばんだ下着を一緒くたに丸めたのが枕代わりであるらしかった。
床には空き瓶と空き缶が散乱し、部屋に据付と思わしき冷蔵庫は開け放しで、乱暴に放り込まれたビール缶に、バスケットシューズが覗いて見えた。
これが、ディヴィッド・リマーの住処。唯一、誰にも気を使わずとも過ごすことのできる場所だった。
お世辞にも清潔であるとは言い難い水道水を、一気に飲み干してから、時計を見る。
ひどく不快な気持ちで、すっかり目も覚めてしまった。
「…半端な時間だな」
昨日、いつ床に着いたのかはよく覚えていない。
確か、いつもどおり正午に起き、大家の催促を逃れてパチンコ屋へ出かけた。
負けも勝ちもせず夜になって、行きつけのバーでカードに興じ、負けが込んできて、店主に追加の酒を頼んだら店から追い出された。
その後の記憶はぼやけて、なにやら悪態を付いていたかもしれず、通行人に絡んでいたかもしれない。
酔いが回りすぎて、デイヴィッドは自分が何を言ったのかさえ覚えていなかった。
時間は九時半。但し夜のほうだ。
この感じだと、ほぼ丸一日寝ていたようだ。
「まあ、構わねえさ」
玄関には大家の書置きがあったが、それを丸めて捨て、デイヴはいつものように夜の街へと繰り出して行った。
フィリア・シュードは戸惑っていた。
仕事で新たな人材が必要となり、その処遇を上から任されたので、自らが適任と判断した旧友を誘うことに決めた。そう、ここまでは良かった。
「何でこんなに臭うかな…デイヴ、君は本当にこんなところに住んでいるの…?」
現在フィリアがいる場所、それは人類が火星開拓のために築き上げた簡易居住惑星であった。
火星軌道と木星軌道の間には小惑星帯が存在し、そこには岩石をくりぬいて作られた安価な居住小惑星が無数にひしめき合っている。
進宇宙歴102年…
度重なる紛争や、人口爆発、食糧問題…これらの出来事を解決しようと、人類は新たなる希望を火星に抱き、テラ・フォーミングを計画してから102年…
その中で、テラ・フォーミングに携わる労働者、技術者達が、作業効率を上昇させ、また自らの住居とする為地球及び火星軌道上に幾つかのコロニー群を形成していた。
進宇宙歴102年現在では、テラ・フォーミングも終了し、そういったコロニー群も一段落ついてはいた。
しかし、かつては食糧の自給が困難で地球からの輸入に頼らざるを得ず、長らく地球の圧政下にあり、人々の地球に対する不満や不信感は頂点に達していた。
そんな中、デイヴが居住しているのは、テラ・フォーミングの為の仮住居であるコロニー建造の、そのまた仮住居であったのだった。
軌道が不安定で行き来も不便であるから、これら簡易居住小惑星の地価は地球・火星間の小惑星やコロニーに比べて数千分の一である。
フィリアが訪れたのも、何々番小惑星と呼ばれる名も無き居住小惑星の一つであった。
農業区画から垂れ流されるリンと流れの停滞とで富栄養化現象が発生し、居住区画の川は緑色に濁っている。
鼻にさわる臭気は、そこと、天井の大型空調機から発せられるかび臭い空気が原因であると思われた。
路肩にぽつぽつ坐っている乞食も月の大都市で見られるそれが上品に思えるほど薄汚く、立ち並んだ粗末な作りの建物からは、酔っ払いの怒鳴り声や夫婦喧嘩と思われる金きり声が響いてくる。
フィリアは自分が通行人にじろじろ見られているのを感じた。
染みが無く糊の利いた服を着ているのがフィリアだけであったこともあるが、路地の物売りの中年女性たちはフィリアを見てひそひそ囁き合い、軽蔑の言葉を漏らしている。
労働者ふうの男が馴れ馴れしくフィリアの肩を抱いて、卑猥なことをささやきながら皺だらけの紙幣をフィリアの手に押し付けた。
見当違いも甚だしい。フィリアは男の手を払って歩き出した。
後ろから怒鳴り声が聞こえたが、フィリアがある事実を告げてしまうとすぐ静かになり、少し遅れて、先ほど囁き合っていた中年女性たちが大笑いするのが聞こえた。
フィリアは小さな下宿屋の前で立ち止まった。携帯端末を操作して住所が間違っていないのを確認し、それからインターフォンを押した。
しばらく経つと、中年と熟年の中間ほどの年齢と思わしき女主人が出てきて、胡散臭そうな目つきでフィリアを眺めた。
フィリアは女主人に事情を話しながら携帯端末に映る顔写真を見せたが、彼女はのらりくらりとフィリアの質問をはぐらかし、相変わらず疑りの目でフィリアを見ていた。
フィリアはこのままでは埒があかないと考えて、女主人の手に幾枚か紙幣を握らせた。
その途端に彼女は打ち解けたと見え、フィリアを家の中に通し、「デイヴィッド・リマー」と表札に書かれた部屋に案内した。
部屋の主は居なかったが、どんな人物がここに暮らしているのかは容易に想像できる有様であった。
女主人の話によれば、デイヴィッド・リマーはここ数ヶ月ずっと働いていないらしかった。
朝から晩まで酒場や賭場へ通い、そうでなければ部屋で何もせずに飲んだくれているそうである。
部屋の使い方が汚いやら家賃の支払いが三ヶ月も滞っているやらと、女主人がいらぬことまで愚痴り始めたので、フィリアは暇を告げて逃げるように下宿屋を立ち去った。
デイヴが入り浸る界隈を訪ね歩いて、そのたびにいやらしい言葉を浴びせられながらもフィリアは根気強く彼を捜し続けた。
一見して余所者と判るフィリアがからかわれないでいるためには、会話を交わすごとに財布を軽くしなければならなかった。
さて、幾分かの時間と金を使い知り得た情報を元に、フィリアが辿り着いたのは、とある賭博場だった。
ふーっと深呼吸をし、扉に手をかける。先ほどの住民達からの態度にはもうだいぶ慣れてはいたが、やはり気持の良いものではない。
意を決して開けた扉の先は、大乱闘の真っ只中であった。
その中心にいる人物…よく見知った顔の男を見て、フィリアは溜息をつく。
「るせえっつてんだよ!俺はイカサマなんざしてねえ!」
叫ぶ旧友、デイヴとそれを取り囲む男達。なんだか大変な場所に居合わせてしまったらしい。
殴る、殴られるの乱闘が続き、やがて床に打ち伏せられるデイヴ。多勢に無勢だ。
「このアル中が!調子に乗ってんじゃ…」
毛むくじゃらの大男が酒瓶を振りかざす。
「ねえぞ!」
ヒュン!フィリアは考えるより先に体が動いてしまっていた。
ありったけの力を振り絞り、デイヴを抱え、そのまま共に横転する。
「なんだあ?」
虚しく空を切った酒瓶の割れる音と、男達の疑問の声。
フィリア・シュードは、美女と見紛う外見を持ちながらも、いざという時の度胸と瞬発力についてはまさに天賦の才を持つ男であった。
「フィリア…?」
途端に怪訝そうな表情になるデイヴ。
「何でお前が…」
「危ない所だったね」
薄く苦笑いをしながらデイヴに言う。
「久し振り、デイヴ」
「クソ!なんだってんだよ!邪魔しようってんならてめえも容赦しねえぞ!」
男達が激昂する。
やれやれ、フィリアは思う。どうしたものか…金で大人しく引き下がりそうな雰囲気ではない。
となれば、道は一つだ。
「話は後で!逃げるよ!」
言い終わらないうちに、フィリアはデイヴの手をとり、全速力で駆けだす。
男達が何か叫びながら追ってくるが、さすがに自らの界隈、周辺を知り尽くしたデイヴの案内でなんとか逃げおおせた。
息を荒くしながら、床に座り込む二人。その場所は、とある廃工場だった。
「で?何でお前がこんなとこにいるんだよ」
尋ねるデイヴ。その息はまだ荒い。
「うん、単刀直入に言うよ」
疲れた表情のフィリア。長ったらしい前置きや、久闊を叙そうといった考えはもう無いらしい。
「実は、第七次調査団として火星に派遣されることになったんだけれど、MSパイロットの枠が一つ空いているんだ」
「テラ・フォーミングはもう終了したんだろ? 何でわざわざ調査団なんか送るんだよ?」
パイロット枠の件には触れず、デイヴは思いついた疑問を口にする。
「そういった視察も火星開発公社(ウチ)の仕事だからね。そのために連邦から資金援助も受けてるし。まあ、ほかにも色々と事情がね。だからさ――」
「悪いが、他を当たってくれ」
即答のデイヴ。そして続ける。
「俺にそんな大層なご大役、向いてねえよ」
「デイヴ!」
フィリアが叫ぶ。
「…しかしフィリアはメカニックチーフで参加するわけか。まあ、なんだ。お前も相当に出世したな。たしか引き抜かれたんだろう? 連邦にいたころより給料だって――」
「デイヴ! 四方山はもう止めようよ。僕は、君を誘いに来たんだ」
デイヴは口を噤んだ。フィリアの様子が思いのほか真剣味を帯び始めてきたからである。
「君は、今のままの境遇で本当にいいの! 軍を抜けて、こんな辺境で夢も希望もない人生を続けるの! ここは空気も悪いし、人間だってみんな性根が薄汚い。
こんな、食べるために生きるのか生きるために食べるのか定まらないところにいれば、いつかきっと、デイヴは駄目になる!」
「もう充分駄目人間さ」
「だったら、これから立ち直ろうよ! 飲酒と放蕩と伊達気取りなんてすっぱり止めて、もっと、地に足付けて将来を考えることにしよう!」
「今の時代、地球は立ち入り禁止だぜ」
「だから、火星に行こうと言ってるんだよ! 火星には大地があるし、安定した職だってある!
調査団が解散した後のポストは僕が用意するし、君の借金だって、僕が立て替えるから、昔みたいに、僕と一緒にがんばろうよ!」
お前はなぜそうまでするんだ、という藪蛇を突っつくような言葉は飲み込んだ。デイヴィッドにはその理由を三つも四つも挙げることが出来るのである。
彼は他人の性情に深く立ち入りたくなかった。
真実であるとか、理想であるとかはぜいたく品で、物事を深く考えずにだらだらと上辺だけの人付き合いをしながら、残りの人生を死ぬほど退屈に暮らしたいと願っていた。
「返事は、早めにしないと駄目か?」
「出来れば、今日中にして。早くしないと、火星の位置が変わってシャトルじゃ行けなくなっちゃうから」
「それに」
フィリアは思いついたように言い、かすかに笑う。
「さっきの騒ぎで、君もここに居づらくなったでしょう?」
「…わかったよ。行くよ。行けばいいんだろ。ったく、お前にはかなわねえよ、フィリア」
デイヴィッドは観念した。どのみち、下宿にも財布にも金が無い一文無しの彼には、強情を張るという選択肢は無いのである。
「デイヴ、ありがとう!」
フィリアはぱっと咲くような笑顔を見せて、心底嬉しげに今後の計画をあれこれと語り始めた。
仕事で新たな人材が必要となり、その処遇を上から任されたので、自らが適任と判断した旧友を誘うことに決めた。そう、ここまでは良かった。
「何でこんなに臭うかな…デイヴ、君は本当にこんなところに住んでいるの…?」
現在フィリアがいる場所、それは人類が火星開拓のために築き上げた簡易居住惑星であった。
火星軌道と木星軌道の間には小惑星帯が存在し、そこには岩石をくりぬいて作られた安価な居住小惑星が無数にひしめき合っている。
進宇宙歴102年…
度重なる紛争や、人口爆発、食糧問題…これらの出来事を解決しようと、人類は新たなる希望を火星に抱き、テラ・フォーミングを計画してから102年…
その中で、テラ・フォーミングに携わる労働者、技術者達が、作業効率を上昇させ、また自らの住居とする為地球及び火星軌道上に幾つかのコロニー群を形成していた。
進宇宙歴102年現在では、テラ・フォーミングも終了し、そういったコロニー群も一段落ついてはいた。
しかし、かつては食糧の自給が困難で地球からの輸入に頼らざるを得ず、長らく地球の圧政下にあり、人々の地球に対する不満や不信感は頂点に達していた。
そんな中、デイヴが居住しているのは、テラ・フォーミングの為の仮住居であるコロニー建造の、そのまた仮住居であったのだった。
軌道が不安定で行き来も不便であるから、これら簡易居住小惑星の地価は地球・火星間の小惑星やコロニーに比べて数千分の一である。
フィリアが訪れたのも、何々番小惑星と呼ばれる名も無き居住小惑星の一つであった。
農業区画から垂れ流されるリンと流れの停滞とで富栄養化現象が発生し、居住区画の川は緑色に濁っている。
鼻にさわる臭気は、そこと、天井の大型空調機から発せられるかび臭い空気が原因であると思われた。
路肩にぽつぽつ坐っている乞食も月の大都市で見られるそれが上品に思えるほど薄汚く、立ち並んだ粗末な作りの建物からは、酔っ払いの怒鳴り声や夫婦喧嘩と思われる金きり声が響いてくる。
フィリアは自分が通行人にじろじろ見られているのを感じた。
染みが無く糊の利いた服を着ているのがフィリアだけであったこともあるが、路地の物売りの中年女性たちはフィリアを見てひそひそ囁き合い、軽蔑の言葉を漏らしている。
労働者ふうの男が馴れ馴れしくフィリアの肩を抱いて、卑猥なことをささやきながら皺だらけの紙幣をフィリアの手に押し付けた。
見当違いも甚だしい。フィリアは男の手を払って歩き出した。
後ろから怒鳴り声が聞こえたが、フィリアがある事実を告げてしまうとすぐ静かになり、少し遅れて、先ほど囁き合っていた中年女性たちが大笑いするのが聞こえた。
フィリアは小さな下宿屋の前で立ち止まった。携帯端末を操作して住所が間違っていないのを確認し、それからインターフォンを押した。
しばらく経つと、中年と熟年の中間ほどの年齢と思わしき女主人が出てきて、胡散臭そうな目つきでフィリアを眺めた。
フィリアは女主人に事情を話しながら携帯端末に映る顔写真を見せたが、彼女はのらりくらりとフィリアの質問をはぐらかし、相変わらず疑りの目でフィリアを見ていた。
フィリアはこのままでは埒があかないと考えて、女主人の手に幾枚か紙幣を握らせた。
その途端に彼女は打ち解けたと見え、フィリアを家の中に通し、「デイヴィッド・リマー」と表札に書かれた部屋に案内した。
部屋の主は居なかったが、どんな人物がここに暮らしているのかは容易に想像できる有様であった。
女主人の話によれば、デイヴィッド・リマーはここ数ヶ月ずっと働いていないらしかった。
朝から晩まで酒場や賭場へ通い、そうでなければ部屋で何もせずに飲んだくれているそうである。
部屋の使い方が汚いやら家賃の支払いが三ヶ月も滞っているやらと、女主人がいらぬことまで愚痴り始めたので、フィリアは暇を告げて逃げるように下宿屋を立ち去った。
デイヴが入り浸る界隈を訪ね歩いて、そのたびにいやらしい言葉を浴びせられながらもフィリアは根気強く彼を捜し続けた。
一見して余所者と判るフィリアがからかわれないでいるためには、会話を交わすごとに財布を軽くしなければならなかった。
さて、幾分かの時間と金を使い知り得た情報を元に、フィリアが辿り着いたのは、とある賭博場だった。
ふーっと深呼吸をし、扉に手をかける。先ほどの住民達からの態度にはもうだいぶ慣れてはいたが、やはり気持の良いものではない。
意を決して開けた扉の先は、大乱闘の真っ只中であった。
その中心にいる人物…よく見知った顔の男を見て、フィリアは溜息をつく。
「るせえっつてんだよ!俺はイカサマなんざしてねえ!」
叫ぶ旧友、デイヴとそれを取り囲む男達。なんだか大変な場所に居合わせてしまったらしい。
殴る、殴られるの乱闘が続き、やがて床に打ち伏せられるデイヴ。多勢に無勢だ。
「このアル中が!調子に乗ってんじゃ…」
毛むくじゃらの大男が酒瓶を振りかざす。
「ねえぞ!」
ヒュン!フィリアは考えるより先に体が動いてしまっていた。
ありったけの力を振り絞り、デイヴを抱え、そのまま共に横転する。
「なんだあ?」
虚しく空を切った酒瓶の割れる音と、男達の疑問の声。
フィリア・シュードは、美女と見紛う外見を持ちながらも、いざという時の度胸と瞬発力についてはまさに天賦の才を持つ男であった。
「フィリア…?」
途端に怪訝そうな表情になるデイヴ。
「何でお前が…」
「危ない所だったね」
薄く苦笑いをしながらデイヴに言う。
「久し振り、デイヴ」
「クソ!なんだってんだよ!邪魔しようってんならてめえも容赦しねえぞ!」
男達が激昂する。
やれやれ、フィリアは思う。どうしたものか…金で大人しく引き下がりそうな雰囲気ではない。
となれば、道は一つだ。
「話は後で!逃げるよ!」
言い終わらないうちに、フィリアはデイヴの手をとり、全速力で駆けだす。
男達が何か叫びながら追ってくるが、さすがに自らの界隈、周辺を知り尽くしたデイヴの案内でなんとか逃げおおせた。
息を荒くしながら、床に座り込む二人。その場所は、とある廃工場だった。
「で?何でお前がこんなとこにいるんだよ」
尋ねるデイヴ。その息はまだ荒い。
「うん、単刀直入に言うよ」
疲れた表情のフィリア。長ったらしい前置きや、久闊を叙そうといった考えはもう無いらしい。
「実は、第七次調査団として火星に派遣されることになったんだけれど、MSパイロットの枠が一つ空いているんだ」
「テラ・フォーミングはもう終了したんだろ? 何でわざわざ調査団なんか送るんだよ?」
パイロット枠の件には触れず、デイヴは思いついた疑問を口にする。
「そういった視察も火星開発公社(ウチ)の仕事だからね。そのために連邦から資金援助も受けてるし。まあ、ほかにも色々と事情がね。だからさ――」
「悪いが、他を当たってくれ」
即答のデイヴ。そして続ける。
「俺にそんな大層なご大役、向いてねえよ」
「デイヴ!」
フィリアが叫ぶ。
「…しかしフィリアはメカニックチーフで参加するわけか。まあ、なんだ。お前も相当に出世したな。たしか引き抜かれたんだろう? 連邦にいたころより給料だって――」
「デイヴ! 四方山はもう止めようよ。僕は、君を誘いに来たんだ」
デイヴは口を噤んだ。フィリアの様子が思いのほか真剣味を帯び始めてきたからである。
「君は、今のままの境遇で本当にいいの! 軍を抜けて、こんな辺境で夢も希望もない人生を続けるの! ここは空気も悪いし、人間だってみんな性根が薄汚い。
こんな、食べるために生きるのか生きるために食べるのか定まらないところにいれば、いつかきっと、デイヴは駄目になる!」
「もう充分駄目人間さ」
「だったら、これから立ち直ろうよ! 飲酒と放蕩と伊達気取りなんてすっぱり止めて、もっと、地に足付けて将来を考えることにしよう!」
「今の時代、地球は立ち入り禁止だぜ」
「だから、火星に行こうと言ってるんだよ! 火星には大地があるし、安定した職だってある!
調査団が解散した後のポストは僕が用意するし、君の借金だって、僕が立て替えるから、昔みたいに、僕と一緒にがんばろうよ!」
お前はなぜそうまでするんだ、という藪蛇を突っつくような言葉は飲み込んだ。デイヴィッドにはその理由を三つも四つも挙げることが出来るのである。
彼は他人の性情に深く立ち入りたくなかった。
真実であるとか、理想であるとかはぜいたく品で、物事を深く考えずにだらだらと上辺だけの人付き合いをしながら、残りの人生を死ぬほど退屈に暮らしたいと願っていた。
「返事は、早めにしないと駄目か?」
「出来れば、今日中にして。早くしないと、火星の位置が変わってシャトルじゃ行けなくなっちゃうから」
「それに」
フィリアは思いついたように言い、かすかに笑う。
「さっきの騒ぎで、君もここに居づらくなったでしょう?」
「…わかったよ。行くよ。行けばいいんだろ。ったく、お前にはかなわねえよ、フィリア」
デイヴィッドは観念した。どのみち、下宿にも財布にも金が無い一文無しの彼には、強情を張るという選択肢は無いのである。
「デイヴ、ありがとう!」
フィリアはぱっと咲くような笑顔を見せて、心底嬉しげに今後の計画をあれこれと語り始めた。
一話 終 二話に続く