麻酔が消えて目を覚ました時、時計は6時半を回っていた。
 スマートフォンのルールブックには、開始時刻は6時と記されている。
 あんなことがあったのに、こんな状況に及んでもなお、呑気なものだと我ながら思った。
 それでも、呑気なままではいられないと、何となくそれだけを思って、彼女は立ち上がり歩き始めた。
 穏やかな風と、柔らかな日差し。
 夏の残り香が微かに浮かぶ、ぬるま湯のような暖かな外気。
 幻のようにぼやけた視界を、覚束ない足取りで、ふらふらと歩く。
 寝ぼけているのなら、それでもいい。それくらいの方が言い訳にもなる。
 あるいはいっそ、夢心地のまま、再びまどろみへ落ちていったら。
 夢とうつつの境目が、融け合い曖昧になったようなこの世界に、染み込み消えてゆくのだとしたら。

「――子!? 麻子!?」

 何だろう。誰の声だろう。
 ぼんやりとした視界の向こうに、見覚えのある影がある。
 霞を通したような声は、どこかで聞いたような気がする。

「麻子、ちょっとあんた何してるの!?」

 駆け寄ってくる両腕に、両の肩を、支えられた。
 ふらふらと倒れそうな体を、無理やりにしゃきりと起こされた。
 焦点も定められない瞳で、誰かの顔を、どうにか見やる。
 明るい髪色、明るい目の色。辛気臭い己とは、正反対の顔色が、こちらを覗き込んでいる。
 しっかりしろと、話を聞けと、心配そうな表情で、一人の少女が問いかけてくる。

「ねぇ、麻子ったら!」
「―――」

 この顔は、あれだ。友達の顔だ。
 武部沙織という名前の、腐れ縁の幼なじみだ。
 寝ぼけ眼をこする自分を、たびたび無理やりに叩き起こして、学校へ引きずっていった顔だ。
 気だるげに日陰で過ごす自分を、そんなんじゃ駄目だと揺り動かして、日向へと誘っていった姿だ。
 忌々しい朝日のような彼女。
 暖かい陽気を振りまいた彼女。
 ああだこうだと口うるさい、鬱陶しいお節介焼きの女で。
 きっとあるいは、自分にとって、大事な存在だったかもしれない、女。

「……ッ!?」

 その瞬間。
 温もりが、消えた。
 赤い何かがフラッシュバックし、視界と体温を奪い尽くした。

「やめろっ!」

 悲鳴のような声を上げ、沙織の体を突き飛ばす。
 一層覚束なくなった足で、一歩二歩と、逃げるように下がる。
 寒い。体がとても冷たい。己が両手を引き戻し、無理やり温めるように、肩を抱く。
 がちがちと歯を鳴らしながら、がたがたと震わせる両足では、大した距離も稼げない。

「麻子……? ねぇ、麻子!? あんた一体……っ!?」
「駄目だ……沙織、来るんじゃないッ!」

 ああ、そうだ。やめてくれ。
 これ以上近付かないでくれ。
 お前が一歩近づくたびに、あの光景が蘇ってくる。
 お前が一声かけるたびに、あの顔が浮かび上がってくる。

「来るな……私なんかといたら、お前――!」

 いけない。そうだ、駄目なんだ。
 お前のような奴がこれ以上、自分に近づいてはいけないんだ。
 自分なんかに近寄ってしまえば、また同じような景色になる。
 自分なんかが求めてしまえば、また同じようなことが起きる。
 だから近づいてほしくない。だから触れてなんかほしくない。
 お願いだからこれ以上、自分に寄りつかないで――

「――えぇいっ!」

 ばしゃん、と。
 音が、鳴った気がした。
 体温とは違う冷たさが、主に顔に広がった気がした。
 拍子抜けするような気配と共に、思考が無理やりに打ち切られる。
 一瞬前の動揺が、まるで嘘であったかのように、すうっと彼方へと消えていく。
 ぱちぱちと、まぶたを動かした。指先で触れたのは、水気だった。
 揺れ動く視点が定まって、ようやくまっすぐ前を向き、しかと確かめた沙織の顔は、いつもの膨れっ面だった。

「……落ち着いた?」

 咎めるような棘を感じる。
 それでも、これくらいの声音であれば、本気で怒っているわけではないのだと、己は十分に理解している。
 沈黙を肯定と受け止めたのか、ふうと溜息をつくと同時に、その顔は呆れたようなものに変わった。
 自分が観念した後の沙織は、決まっていつもこの顔だ。
 そしてそれを見届けた後で、ようやく彼女の右手の方に、水筒が握られていることに気がついた。
 蓋が開き、口が濡れている理由は、問うまでもなく明白だった。

「……大事な飲み水だろ、それ」
「いーの。水道は一応通ってるから」
「何で知ってる」
「それは、その……始まった頃に、ちょっと使って……」 

 ああ、これだ。このやり取りだ。
 基本沙織が手綱を握って、たまに図星を突かれると、こんな困った顔をされる。
 これが武部沙織という少女と、自分とのいつものやり取りだ。
 そんな慣れ親しんだ行為に対して、不安が消えたわけではない。
 それでも、今は同じくらい、安堵の気持ちが浮かんでいる。
 こんな状況だからこそ、この小うるさい腐れ縁との会話に、心地よさを感じるのかもしれない。
 表情こそ変えていなかったものの、誰もいない大洗の町で、冷泉麻子は確かに思った。


 工具や機械部品が並ぶ、恐らくは建築用品の店。
 古ぼけた建物のその奥には、これまた古ぼけた和室があった。
 商業スペースと生活スペースが、一本に繋がったその店を、ひとまずの隠れ場所として、麻子は拝借することにした。
 そこに至るまでの間も、沙織はナチュラルに手を背にやって、麻子を後ろから支えていた。
 自分もキツい状況だろうに、他人に甲斐甲斐しく世話を焼く姿を見ると、何でこいつがモテないのだろうと、時々思うことがある。
 もっとも大体の場合、世話焼きすぎて、よく口うるさくなることを思い出して、だから逃げられるのかと納得するのだが。

「そど子はな、アレで結構良い奴だったんだ」

 畳の上に座りながら、呟くように麻子が言う。
 沙織に語りかけるよりは、胸の中に溜まったものを、独白として吐き出すような。
 自分の頭の中の事柄を、一つ一つ紐解くような、そんな気配の口ぶりだった。

「まぁ、悪い人は風紀委員になれないんじゃないかな」
「ギャーギャーとうるさいことがほとんどだけど、アイツなりに学校のことを、良くしようとしてたんだと思う」

 うるさいのは麻子が悪いんじゃないの。
 いつもだったらもう一言、そんな返事が返ってきたのかもしれない。
 それをぐっと堪えているのは、やはり沙織が麻子に対して、気を使っているからなのだろうか。

「だから、アイツの声が聞こえなくなった時、柄にもなく、寂しいって思った」

 一度だけ、叱られる側の麻子の方が、園みどり子を叱ったことがある。
 通称そど子は、大洗女子学園が廃校になった時、いわゆる燃え尽き症候群に陥ってしまった。
 使命感の矛先を失ったことで、他に何をすればいいんだと、捨て鉢になり荒れたことがあったのだ。
 その時、放っておいてもよかった彼女を、再び元の風紀委員へと、引き戻したのが麻子だった。
 結局のところ、喧嘩仲であっても、そど子は良きそど子であってほしいと、彼女はそう思っていたのだ。

「そしてとうとう、声どころじゃなく、本当にいなくなってしまった」

 体育座りの形になり、ぎゅっと、麻子は膝を抱える。
 あの時は、昔のようなそど子が見たいと願えば、手を伸ばし届く場所にいた。
 しかし、あの惨劇の只中にあったそど子は、もはやどれだけ手を伸ばしても、届かない場所へといってしまった。
 何かの間違いであってほしい。夢なら醒めてほしいとは思う。
 それでも、どれだけ願っても、そど子と言葉を交わすどころか、姿を見ることも叶わないことを、麻子は痛感してしまっている。
 死に別れてしまった人間とは、二度と会うことができないことを、彼女ははっきりと理解してしまっている。

「何でだろうな……お母さんも、お父さんも、みんなみんな私を置いて、先に逝ってしまうんだ」

 冷泉麻子は、己が両親を、事故によって喪っていた。
 この殲滅戦に巻き込まれるまでもなく、人間の死というものに、とっくの昔に触れていたのだ。
 それが慣れに繋がるかというと、そんなことは断じてない。
 むしろ一度味わった悲嘆は、より生々しい実感を伴い、彼女の心を締め付けている。
 父と母がそうなのだから、そど子とも同じように会えないのだと、まざまざと思い知らされてしまう。

「むしろ私が、近づく人を、不幸せにしてしまうのかもしれない」
「だから私も、おんなじように、死んじゃうんだって思った?」

 そしてそれが、先ほど外で、麻子が取り乱した理由だ。
 いたわるような沙織の問いかけに、無言で小さく、こくりと頷く。
 母に死なれた。父に死なれた。祖母は体を悪くしている。
 その上今回はとうとう、そど子まで命を落としてしまった。
 結局のところ、原因はむしろ、自分の方にあるのではないか。
 他ならぬ麻子自身が不幸を振りまき、彼女が愛した人々を、死へ追いやってしまっているのではないか。
 死ねよ、死んでしまえよと。
 誰彼も不幸にする疫病神は、誰も巻き添えにすることなく、独りで息絶えてしまえよと。
 突拍子もない話だとしても、聡明な彼女らしからぬことでも、どうしても、そんな風に思ってしまう。
 それほどまでに、今回の件は、麻子の心を強く激しく、残酷なまでに揺さぶっていた。

「………」

 沙織からの返事は、ない。
 馬鹿なことを言うんじゃないと、頑と否定することもない。
 お互いに目線を合わせることなく、故に沙織がどんな顔をしているかも知らず、一秒また一秒と沈黙が続く。

「……もうっ」

 ややあって、その後。
 ぽんっ――と柔らかな両手が、麻子の両肩に添えられた。
 視線を上げると、真剣な顔で、沙織の両目が彼女を見ていた。

「シャキッとしなさいよ、まったく。悲しいって思うのは悪くないけど、あんたまだ生きてるんでしょ?」
「沙織……」
「あんたまで死んで、お父さんもお母さんも、そど子先輩にしたって、麻子が自分のせいで死んじゃったって思って、それで誰か救われる? 嬉しい?」

 誰かの死を悼み悲しむのは、それは人として当然の思いだ。
 誰だって、自分に無関心でいられるよりは、悲しんで涙してくれた方が、まだマシな気持ちになるだろう。
 しかしそれが原因で、目を塞ぎ歩みを止めたことで、その人までもが不幸に遭えば、話はまるきり変わってくる。
 そうなれば、こみ上げるものは、自責だ。
 自分が死んだばっかりに、自分が悲しませたばっかりに、生きている人の足を引っ張り、諸共に命を落とさせてしまった。
 そんな風に思わせてしまえば、今度こそ誰も報われない。誰一人救われないままに、死者を貶めることになってしまう。
 沙織が言っていることは、そういうことだ。

「なんて……あんたのおばぁがここにいたら、そんな風に言うのかもね」

 上手く言葉にはできないけれど。まとめられるほど、武部沙織は、人間が出来ていないけれど。
 それでもそう思ってくれる人は、まだこの世の中にはいるだろうと、苦笑気味に、沙織は言った。
 そしてそれが、祖母だけでなく、彼女の思いであることも、冷泉麻子は知っていた。

「……生きてて、いいのか……私はまだ、ここにいていいのか……?」
「当たり前でしょ。麻子が死んだら、私も毎朝、張り合いなくなっちゃうんだから」

 言いながら、沙織の両手に力がこもる。
 小柄な麻子の体を引き寄せ、ぐいっと胸元に抱き止める。
 無駄に大きな胸のせいで、沙織の顔は、麻子には見えない。
 このハグは単純に麻子のことを、なだめるためのものかもしれない――けれどあるいは、それと同時に、自分の見せたくなかった顔を、隠したかったのかもしれない。
 優しく明るく笑っていると、そう思わせなければ、嘘になるから。
 手のひらが震えている理由を、悟られてしまっては、嘘になるから。

「……っ……!」

 どこかで水道をひねった理由が、今ようやく分かった気がする。
 沙織が拭いたかったものは、洗い流したかったものは、つまるところ、そういうものだ。
 自分だって苦しいだろうに、何もかも吐き出したいだろうに、それでもお前はそうやって、人のことばかり気にかけるのか。
 泣いている誰かを抱きしめるために、自分が流したい涙を、そうやって胸の奥で押しとどめるのか。
 卑怯だ。お前は本当に卑怯だ。

「やだなぁ、もう……我慢しようって決めてたのに……なんか馬鹿らしく、なっちゃうじゃん」

 冷泉麻子は涙を流した。
 お互い様だと言わんばかりに、わんわんと大声を上げて泣いた。
 大丈夫だ。今はこれでいい。
 らしくない自分を晒しても、みっともない自分を曝け出しても、全て終わったその時には、いつもの自分に戻るから。
 大切を喪った悲しみも、大切を守れなかった後悔も、全て洗い流すと決めた。
 そして大切な親友が、静かにすすり泣く声も、一声残さず聞き届けようと、固く心に誓っていた。




【C-4・商店街の建築資材屋/一日目・朝】

【冷泉麻子@フリー】
[状態]健康、深い悲しみ、号泣
[装備]大洗女子学園の制服
[道具]基本支給品一式、不明支給品(ナイフ、銃器、その他アイテム)
[思考・状況]
基本行動方針:みんなで学園艦に帰りたい
1:今は泣く。思いっきり泣く。立ち上がって前に進むためにも
2:沙織や仲間達を死なせたくない
[備考]
※水道が生きていることを把握しました

【武部沙織@フリー】
[状態]健康、悲しみと恐怖、落涙
[装備]大洗女子学園の制服
[道具]基本支給品一式、不明支給品(ナイフ、銃器、その他アイテム)
[思考・状況]
基本行動方針:みんなで学園艦に帰りたい
1:麻子が泣き止むまで傍にいる。それまでには自分も、気持ちを切り替えたい
2:麻子や仲間達を死なせたくない
3:麻子とチームを組みたい
[備考]
※水道が生きていることを把握しました






登場順
Back Name Next
- 冷泉麻子 019:二本の矢
- 武部沙織 019:二本の矢

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2016年08月16日 12:44