「Расцветали яблони и груши(咲き誇る林檎と梨の花)」
「Поплыли туманы над рекой(川面にかかる朝靄)」
「Выходила на берег Катюша(若い
カチューシャは歩み行く)」
「На высокий берег на крутой(霧のかかる険しく高い河岸に)」
大洗磯前神社。
境内から町に降りる石畳の階段、その中腹で海を見ながら歌う彼女に、声を掛けるべきか掛けないべきか、少しだけ少女は迷った。
一つ。綺麗な声だったから。
自分ではとても出せない様な繊細で可憐な声は、まるで雪原に咲く一輪の花の様に凛と真っ直ぐに、
それでいて聖堂のステンドグラスの様に透き通っていた。
二つ。その人が他校の副隊長だったから。
泣く子も黙るプラウダ高校。ブリザードの異名を持つ彼女を恐れない人物など、そうそう居ない。
それこそサンダースのファイヤフライの狙撃手か、黒森峰の隊長くらいのものだ。
三つ。何より自分が臆病者だったから。
自分はそこまで自己主張が激しい方ではなかったし、そもそも目の前の人物が自分なんかと協力してくれるとは到底思わなかった。
しかしそれでも、と彼女は固くなった唾を飲み、覚悟を決める。
何事もクイック&アタック。戦車道や、バレーと同じ。人間関係も、ひたすらに前進あるのみなのだ。
「あのう……プラウダの、
ノンナさん……ですよね?」
恐る恐る声を掛けると、彼女は歌を止め、黒髪を翻しながら振り向く。
プラウダ高校、ブリザードのノンナ。話すのは勿論初めての事だった。
「ええ、そうですが」
そう言って頷くと、ノンナは少し考える様に目線を空に泳がせた。やがて何かを思い出したのか視線を戻すと、続ける。
「……確か、大洗の八九式」
「あ! はっ、はい!」
「準決勝」
「えっ?」
「多勢に無勢。にも関わらず、あの時のハンドルさばきは見事でした。……名前を伺っても?」
「あ、う……つ、通信手してました、こ、近藤妙子、です……」
妙子はもじもじと体を小刻みに動かしながら応える。対するノンナはそれを無表情でじっと見つめるものだから、堪らず目を滑らせた。
アニメで言う“目の中に渦”が描かれるような、居ても立っても居られない、そんな気恥ずかしさと緊張。
妙子は目をギュっと閉じ、そんな混乱から逃げる様に、いや、意を決したかの様に口を開いた。
「あ、あのっ!」
はい? ノンナは呟くと、小首を傾げる。妙子は拳を握ると、閉じた目を開いて、顔を上げた。
「ノンナさんさえ良ければ……その、私とチームを組んでもらえませんか!?
私、その……何にも役に立てないかもしれないけど……! 怖くって……!」
そこまで言葉を吐くと、妙子は再び視線を落とす。
断られるのは、なんとなく分かっていた。
噂でしか聞いた事はないし偏見もあるかもしれないが、彼女はプラウダの隊長――地吹雪のカチューシャ――に陶酔していると聞いていた。
ならばプラウダの生徒ならまだしも、彼女が他の学園の生徒と徒党を組むなど到底考えられない事なのだ。
「いいですよ」
それ故に、あっさりと耳に入ってきたその言葉は、妙子にとってあまりにも衝撃的で予想外だった。
想像すらしていなかった答え。あまりの事に理解が遅れ、妙子は円らな瞳でノンナと自分とを何度か見返す。
やがて自分なりに納得したのだろう、妙子は膝を曲げると―――持ち前のバネで、大きく飛び跳ねた。
「ほ、本当ですよね?」
「はい」
「ほ、本当に!!?」
「ええ」
「絶対の絶対に!!??」
「そうです」
「バレーの神様に誓って!?!?!?」
「誓っても構いませんよ」
ちっとも表情を変えないノンナに少し違和感を感じたものの、妙子は内心でガッツポーズを取る。
ノンナが入れば、百人力どころではない。一騎当千、否、一騎当万だ。ここまで心強い味方はいない。
「よかったあー……なんだか、ノンナさんって怖いイメージがあったので……」
両手を合わせて、妙子はにこりと笑う。
後半余計なことをまた言ったかと少し反省するが、目の前のノンナの表情はぴくりとも動いておらず、
少しだけ胸を撫で下ろす。怒らせたら二度と許してはくれなさそうだな、と内心苦笑した。
「よく言われますが……そんなにでしょうか? ……ああ、肩にゴミがついていますよ」
ゴミ? 妙子は呟き、ゴミを落とすべく肩を見る。
―――――――――――――――瞬間、空気が、揺れた。
すとん、とあまりにも今の状況から乖離した、不可解な音。同時に、胸に衝撃が走った。
少し強めに正面から叩かれるような、そんな衝撃だった。思わず、少しよろめく。
ばつん、と間抜けな音がして、赤い霧が胸元から吹き上がった。
「えっ」
妙子は素っ頓狂な声を上げ、ゆっくりと視線を落とす。
バレー用の白い体操服には、斜めに大きく赤い線が刻まれていた。
切れ目から見える肌も、その中の白い脂肪も、真っ赤に染まっている。
ぱっくりと開いた傷口から、ずるりと肉が、どろりと血が、溢れていた。
とん。
妙な音と、軽い衝撃。彼女の右肩を黒い線が通り過ぎる。
斬り口から滲む血液、切り離れる肉と皮膚。だらりとだらし無く落ちる布。
とん。右手首に、衝撃。体が左にがくりと傾く。
「あ、え? あ、やだ、血っ?」
堪らず傷口を抑えようとして、腕を動かそうとした。触れない事に気付く。否、触る感覚がない。
ふと、視線を落とす。右手首から先がない。
「あ、ぁ、ぁ。えっ、うで、わたしの、あれ?」
とん。左脇腹に軽い衝撃。体が左に傾く。
とん。右脇腹に強い衝撃。体が右に傾く。ぶりゅん、と嫌な音。圧力から開放された腸が次々に溢れる。
とん。右太腿を正面から。飛沫が上がり、片膝をつく。
とん、とん、とん。左アキレス腱、右脇、左手首。
「私の、あっ、血、えっ? いや、やだ、嫌だっ……なんで、ウソ、死んじゃ……えっ??」
漸くここで、痛みが押し寄せる。いや、痛みというよりもそれは熱に近かった。
セミロングの茶髪を乱しながら、妙子は大きく口から血を吐く。冗談みたいな量で、呼吸したくとも次から次に下から血が押し寄せる。
絶叫の代わりに、真っ赤な泡が口から吹き出た。ぼごぼごぼご、と馬鹿みたいな量のあぶくが口から溢れてゆく。
死ぬ。本能的に、且つ客観的に妙子はそれを理解した。
どずん。
大きな衝撃に、視線が下方に泳ぐ。体の中心を黒いナイフが深々と貫いていた。
自分が解体されつつある事実を認識すると同時に、臍のあたりに刺さっていたナイフが消え、視界がぐらりと傾いた。
血走った目玉で、右足を見る。膝から下が、無かった。
「ど う、 し、 て」
辛うじて聞き取ることが出来るレベルの音として発音出来た言葉に、解体作業がぴたりと止まる。
ごどり。バランスを失い頭から倒れた妙子は、合わぬ焦点の目玉をぐるりと回し、上を見上げた。
「どうして?」黒い髪が揺れていた。表情が、影で見えない。「要領を得ない質問ですね」
ただ、その黒い顔の中に、自分を見下す赤い二つの光があって。
「私が属するのは、同志カチューシャの膝元ただ一つ。
私が服するのは、同志カチューシャただ一人」
その世界を呪うような緋色の視線が、自分の何もかも、全てを見透かしている気がして。
「最初から、それ意外は何も信用してはいませんよ」
それだけが、こわかった。
砲撃。
砲撃の音がしました。
次に、視界に赤黒い飛沫が映り込みました。
ふわりと身体が浮かんだような気がしてつぎの瞬間、
不思議なことに瞬きをしたら平衡感覚と痛感がなくなっていたんです。
随分と、あたりの景色はゆっくりでした。
しかいがぐるりと反転して、まず見えたのは、じぶんの胸です。
真っ赤に染まった自分の胸です。
おなかの辺りからは、
わたしのないぞうが見えていました。
いたくもないのにちとか内臓がみえているのは、
なんだか少しへんですね。
よく考えてみれば、
見えるはずのない位置なのに
どこからどうしてかなわたしじぶんをみていました。
しかいがまた少しか たむきます。
こんどはう えに。
わたしはそこで、みぎかたからうえが
ないじ ぶんをみたのです。
でもあたまとクビはかわ
みたいなもの でつながっています。
うで がちゅう、に、まってい ます。
そこ で わたし
はよ うやく きづ
きま し た。
ああ、 そう か 。
わ たし しんじゃ ったんだ って。
何もかもが、そこで終わっていた。
ノンナはナイフを背後に隠すと、草むらに弾かれて飛んでいった死体を黙って見下ろす。肩から上の損傷が激しい。
辺りには噎せ返るほどの血の匂いと、夥しい飛沫。
茂みの草木は最初からその色であったかのように、ぬらぬらと赤黒く染まっていた。
ノンナは自分の様子を見た。服はすっかり血で染まっている。
ひとごろし。
そんな言葉がよく知っている人の声で、誰の口からも叫ばれてないのに、聞こえた気がした。
……撃ったのは、無論、自分ではない。
「悪いね、横取りっぽくなった。代わりと言っちゃなんだけど、そいつの支給品はくれてやるよ」
ノンナは声のする方を見上げた。神社に向かう苔の生えた白御影の階段の上から、女が顔を覗かせている。
黒い襟に、カーキ色の軍服。肩には黒い円状のベースに大きな白い星。
すっと伸びたスレンダーな体に、灰がかった栗色の髪の毛。そして、両頬にはそばかす。
チューインガムを膨らませながら気怠げにこちらを見下ろしていたのは、いつか練習試合をしたサンダース大学付属高校の狙撃手だった。
「途中からずっとこちらを狙っていましたね? サンダースのファイヤフライ」
言いながら、ノンナは自然な動作で
ナオミの方へ体を向ける。あくまでも自然に、且つ、いつでも臨戦態勢に入れる様に。
膨らんだガムを弾くと、ナオミは表情だけで嗤った。好戦的な笑みが六割、苦笑いが四割だった。
「やっぱり気付かれてた? 五分五分だとは思ってたけど……訊いていい? どうして気付けた?」
肩を竦め、ナオミはライフルを肩に下げながら階段を降りる。石畳がこつ、こつ、と音を上げた。
近づくにつれ、ノンナはじりりと後退り、後ろ向きのまま階段を降りてゆく。
間合いを探るように、或いは、何かから逃げるように。
警戒は、決して解かない。敵の敵は味方、そんな理屈が通用するような甘いもの世界ではない事をノンナは知っていた。
腰を低くし、何時でも獲物を抜けるよう、右手を背後に回す。
認識を違えてはいけない。ここは殺戮の舞台で、互いに『狩り』をする立場。何時でも戦闘になってもおかしくはないのだ。
「просто(簡単です)。
スコープで狙うなら、太陽の反射は気にすべきですよ。扱うのが初めてでその腕は素直に驚きますが」
ノンナの声に、ナオミは足を止めて、ああ、と納得したように小さく呟く。
茂みの中から狙っていて、何故ノンナが大洗の生徒を盾に頑なにこちらへ体を見せないのかと不思議には思っていた。
しかし成程、レンズが反射していたのか。馬鹿らしい初歩的なミスだ、とナオミは頭を掻き、再び足を進める。
「成程、次から気をつけよう。因みに、初めてじゃない。
実弾じゃないけど、一応うちの高校に射撃場みたいなものがあるんでね。
……ああ、やっぱり外してるな。頭の芯を狙ったつもりだったんだけど」
二人が石畳を降りきると、ナオミは脇の茂みに吹き飛んだ俯せの死体を覗き込む。
肉が吹き飛んでいたのは、右肩辺りから下顎にかけてだった。頭は無傷で、首の皮一枚で胴体と繋がっている。
「軌道が下に逸れるな、この銃は。それに風の影響も想像よりも受けやすい。
戦車とは、やはりだいぶ勝手が違う。機銃には近いかもしれないが」
ノンナはナオミの余りにも無防備な背中に思わずたじろいだ。どういう風の吹き回しか。
大洗の生徒を撃ち抜いた以上は“乗っている”側のはず。ならば、何故こうもこちらへ無警戒で背を向けることが出来る?
罠か、誘いか、違う別の理由か。
音もなく、ノンナは背のナイフの柄に手を掛ける。喉の奥がごくりと鳴った。
……何を考えているかなど、想像するだけ無駄だ。ならば、やってしまうか?
恐らくこの先でも五本の指に入るであろう障害。今、此処で処分してしまうべきではないか?
そこまで考えたが、それを見透かすように、或いは偶然そうなったのか、ナオミがノンナへと振り向く。
「プラウダの副隊長、感謝するよ。お陰様で銃の癖は解った。
……これで後戻りも出来ない。覚悟も、決まった」
覚悟。
その一言に、ノンナははっとした。
……覚悟、と言ったか。声に出さないよう、喉の奥で反芻し、ちらりとナオミの拳を見る。固く握られた拳は、肉が白く変色していた。
それは、本当に微小な動きだった。目を凝らしてもなお注視しなければ判らないくらいの、ごくごく小さな揺れ。
それが恐怖による震えなのだと予想するには、目の前のナオミの顔の青白さを見れば十分過ぎた。
撃ったのは、銃の癖把握や調整の為などではない。あくまでも“そちらがおまけ”なのだ。
自分を後戻りできなくする為。矢面に立つ覚悟を腹に据える為。故にナオミは敢えて少女を撃ったのだ。
「……練習試合の事を、覚えていますか?」
尋ねながら、ノンナはナイフの柄から手を離す。罠ではなく、相手にこちらを狩る気配もない事が分かったからだ。
仮に襲ってきたとしても、動揺がある分こちらに分がある。
ならば、競り負けは無い。確実に、刺せる。ノンナにはその確信があった。
「ああ。いい戦いだったな」
ナオミが言う。
「その続き、やりましょうか?」
ノンナが返した。
「その後ろに隠してる、黒いナイフでか?」
ナオミが嗤った。思わず、ノンナは息を飲みぎくりとする。
目前のそれは、凍て付いたバイカル湖の様に、暗く冷めた笑みだった。
ひゅん、と風を切る音。
瞬きをするよりも遥かに早く、髪が風に揺れるよりも更に早く、陽に煌めく光の軌跡がナオミの懐からノンナへと走った。
初動が遅れたのは意外にもノンナだった。
体が動かない。コンマ一秒にも見たぬ世界の中で、その異変に気付く。
首元に迫るナオミの狂刃を見ながら、しかしノンナの身体は強張っていた。
初手を見透かされた動揺も少なからずあったが、まさか先程まで震えていた人間が、自分から勝負を仕掛けてくるとは思わなかったからだ。
目前約10センチメートル。被刃まで約半秒。肉迫する明白な殺意に対して、ノンナは蛇に睨まれた赤子の様に成す術がなかった。
ナイフの抜刀、懐の銃での応戦、バックステップでの回避。その全てが間に合う距離ではない。
故に。
「……!?」
故に、ノンナは素手を使わざるを得なかった。
死の予感を感じ極限まで伸びた体感時間の中で、ノンナは無意識にそれを選択していたのだ。
何をするでもなく中空を彷徨っていた左腕を、ただ、素直に上へ上げた。
ナオミは右利きである。
右から外弧を描いたナイフは、ノンナの左の首元を着地点として正確、且つ無慈悲に放たれていた。
一撃必殺の刃。その筈だった。
しかし何の偶然か、それとも直感による必然か。ノンナの上がった左手が、ナオミのナイフの軌跡と合致し、刃の腹を寸でのところで弾く。
弾かれたナイフは、軌道をずらし虚しく空を切った。
ノンナの揺れた前髪を幾分か奪うには至ったが、しかし彼女の命までは届かない。
ナオミの双眸が、動揺に見開かれた。
結果的に、ノンナの半ば自棄かと思われた判断は功を奏す。
弾かれたナイフに、今度はナオミが体を強張らせる番だった。
まぐれでもこの一撃が躱されるは思っていなかった事と、
更にノンナの左手があまりに正確且つ無駄がない動きであったが故に、ナオミはそれを必然の事であると錯覚した。
即ち、ノンナが自分より遥か格上の相手であると、瞬間的にだが思わざるを得なかったのだ。
―――あの距離で、コイツはこの一撃を軽くいなすのか?
ノンナの無意識での行動だと知り得ないナオミがそう思ってしまうには、この一合は十分過ぎる接触であり、仕方の無い事である。
誰もその誤解に関しては、ナオミを責める事は出来ない。
故に力の差を感じた彼女は堪らず、バックステップで距離をとった。
確かに彼女の判断が誤解でなく正しかったのであれば、その判断は正解だっただろう。
しかし、事実はそうではない。この瞬間、ナオミは敵を討つ最大のチャンスを失った。
一方ノンナはここで漸く我に返り、背のナイフを抜く。
僅か二秒に満たない攻防は、ここで終わりを迎えたのだ。
「……オンタリオ 1-18」
額に浮かんだ汗を拭いながら、ナオミは言った。
ノンナは一瞬何の事かと思うが、直ぐに相手の視線から自らのナイフの事だと気付く。
「光を反射しない黒い刀身、黒いグリップ。夜襲に適した有名なナイフだ。刀身が長いから、ナイフというより刀みたいなもんだけど。
それ、知ってるよ。アメリカのだから。……怖いね。一撃当たれば弾け飛ぶ。でも」
ナオミは嗤う。そう、よく知っているからこそ、弱点も解る。
「これも知ってるよ。そのナイフじゃそう長くは保たない。私の方が有利だ」
ナイフを構えながら、ナオミはゆっくりと後退った。
「Баллисти́ческий нож(スペツナズ・ナイフ)。
ソビエトのナイフですか。そうですね、起動力の分、そちらに軍配が上がりそうです」
黒い刀身をくるくると翻しながら、しかしノンナはナオミの口上に眉一つ動かさずに応える。
その応対に、ナオミの構えるナイフの切っ先が僅かに揺れる。
スペツナズ・ナイフ。刀身を射出する機構があるショートナイフだ。
ナオミはそれがロシアのナイフだとは知らなかったが、しかし射出ギミックは奥の手として考えていた。
あちらの銃が何なのか判明していない上、手の内が知られている。
その事実は、実力が劣っていると思い込んでいたナオミにとって戦力を削ぐには十分だった。
僅かに迷う様に溜息を吐くと、ナオミはナイフを構える手を下げる。ノンナは眉を顰めた。
「来ないのですか?」
小首を傾げながら、ノンナは訊く。先程のような油断がないよう、ナイフは下げない。
「やめた。殺される気はないし、殺す気も失せた」
ナオミは口角を上げると、ナイフを懐に仕舞う。ノンナは唇を僅かに尖らせ、目を細めた。
「分かりませんね」ナイフを下げないまま、ノンナは続ける。「ならば狙撃手が前線へのこのこと出てきた理由は何ですか?」
その問にナオミは少し何かを考えるように中空を見上げると、やがて納得したように頷き、口を開いた。
「実力の近いアンタなら、組んでもいいって思っただけさ。
でも無理っぽかったから、さ。……私が死体見てる時、後ろから狙ってただろ?」
「……ばれてましたか」
ノンナは表情筋の裏側で苦笑する。そこまで殺気立っていただろうか。
「半分、勘だけど。
戦車乗ってて最高にハイな時って、狙われてるとかこっち見てるって何となく分かったりするヤツ? あるよね。なんか、そんな感じ」
ナオミはぶっきらぼうに言うと、髪を搔き上げ、続ける。
「……撃つまでの時間、頭ん中でよく考えたんだけどね、どうにも解らなかった。
だけど、銃を構えてる私が居たのも本当だった」
急に何の話だ? ノンナは僅かに眉を寄せ、そう思った。
それが今必要な話とは思えなかったし、何より目の前のサンダースの狙撃手が、
そんな事を意味無く語り出すタイプの人間にはとても見えなかったからだ。
「どっちだ? そう思った。
アンタを見つけた瞬間に隠れて銃を構えた私? それとも、引き金を引きたくない私?
結局、解ったのは考えるのは性に合わないって事だけ。
だから撃った。撃って、決めたんだ。決めたかった。決めなきゃいけなかった。
いつもと同じように、ただ、一撃で大破出来る様に標的を撃った。それだけ。スナイパーの私はそれが仕事だから」
一体全体、なんだってこんな事を、敵にぺらぺらと喋っている?
当然の疑問が、頭の中を形の無い白濁とした煙となってぐるぐると回る。饒舌な自分に、ナオミ自身が一番動揺していた。
答えはいくら考えても見当もつかなかったが、それを吐露する事で少しだけ肩の荷が下りたように感じる自分に、ナオミは気付く。
そこで漸く解るのだから、どうしようもない。
詰まる所が、正当化したかっただけなのだ。自分の罪を、自分の所業を。
刃を振り撃鉄を弾く事で誤魔化していた事が、武器を下ろした途端に露見する。
だから、話すしかなかった。武器を下げてしまった時点で、捌け口は文字通り口しかなかったのだ。
「私はサンダースの皆と自分が生き残る為に戦う事にしたわ。私が居るくらいだし、きっと隊長や
アリサも居る。
皆には生き残ってもらいたい。何に、変えても。
でも、この
ルールじゃどう見繕っても……誰かが、こうするしかない。なら、私がやるのが適任だ。そう思った。
例え、それが戦車道から外れる事だとしても。例え、それをチームメイトが咎めても。
ブリザード。アンタも、そう思ったからそうしてるんだろう? あのチビっ子隊長の為に」
そんな自分が心底不快だ。ナオミはそう思った。このザマでは、目の前の人間に劣る筈だ。劣って当然だ。
「……貴女の実力は認めますが、百歩譲っても、同志カチューシャをそのように侮辱する人間はこちらから協力など願い下げですね。
同志カチューシャは背が低くなどありません。周りが無駄に高いだけです」
ノンナは淡々と告げる。ナオミは額に浮かんだ冷や汗を拭うと、弱々しく笑った。
強がっているのが滲み出ているのが誰の目にも解るような、酷く滑稽な笑みだった。
「そう言うなよ、つれないな。射撃で引き分けた仲だろ?
……ま、聞いてみたかっただけさ。
それに、血で濡れまくったその格好じゃ目立ちすぎる。私は目立ちたくはないんでね。言葉を返すけど、こっちからも願い下げ」
深く息を吸うと、ナオミは肺に詰まった空気を全て吐き出すように、静かに息を吐いた。
緩い空気が抜けていき、冷静になっていく様な錯覚。そうだ、それでいい。
「貴女も私の首を狙っていましたよね?」
「首を一撃、直ぐに離れれば最低限しか返り血はない。やるならスマートに、だ。
私は“ゲームに勝つ為”のメンバーを探してチームを作りたい。
その為には、誰にも怪しまれたくない。“嘘”を吐いて弾除けを作る為にも。
ブリザード、お前は怪しまれにようにする気はないのか?」
ノンナは表情筋一つ動かさないまま、かぶりを振る。ほんの僅かな迷いすらない即答だった。
「私には分かりません。見つけた人間は全員その場で始末すればいいだけでは?
チームなど私には不要。そうすれば、格好など別段どうでも良いと思いますが?」
ナオミは目を丸くすると、半秒遅れて哄笑した。目尻に浮かぶ涙を指ですくうと、ふう、と溜め息を一つ。
「……成程、さすが。
質問、一つ、いい? ……私を殺す?」
無言。
ナオミは訊くと、ノンナは手を顎に当てて暫く沈黙した。
迷いというよりも、利と損を秤に掛けて計算しているような、そんな薄気味悪さすら感じるのっぺりとした機械的な無言だった。
「……いいえ、やめておきましょう。
命を狙われた事は癪ではありますが、お互い狩る立場であれば、むざむざこんな序盤で潰し合う必要も無いでしょう?」
「はは。同感だ」
ノンナはナイフを背の鞘に収めると、鼻からゆっくりと息を吐く。緊張の糸が切れた瞬間だった。
「貴女だから、そうしました。
一体この期に及んで何を迷っているのかはさっぱり判りませんが、正直に言って、貴女が相手では流石に五体満足でいられる自信はありません。
私は貴女を認めているんです、ナオミさん。あなたの狙いと読み、天性の勘は本当に素晴らしい。
ファイヤフライの照準の合わせ難さ、煙による連射弊害。それらをものともしない腕には驚きました」
予想外の言葉に、ナオミは思わず面を喰らった表情をノンナに向ける。
「へえ」ナオミは素直に笑った。力は無かったが、今度は自然な笑みだった。「ノンナ、だったよね?」
「はい」
ノンナが頷く。
「ノンナ。私も認めてるよ、アンタのこと。
私はスナイパー。行進間射撃はちょっと苦手なんだ。だから、準決勝のあの雪原での戦闘は素直に舌を巻いた」
ノンナの表情が和らぐ。ナオミは頬を掻いた。どうにも調子が狂う。
つい先程まで殺しあっていた筈の人間とは思えない会話に、二人は表情だけで苦笑し合った。けれども、不思議と不快ではない。
「ありがとうございます」
「どうも」
ふと、ナオミは空を見上げた。境内へ向かう階段の左右の木々に切り取られて、突き抜けるような清々しい青空が広がっている。
「……こういう出会い方しなけりゃ、いい仲になれたかもね」
ナオミは空を見上げたままぽつりと呟いた。
「そうかも、しれませんね」
ノンナは含みのある声で応える。
「これ、やるよ」
ナオミは顔を下げると、上着の胸ポケットからそれを放り、踵を返した。
ノンナは難なくそれを右手でキャッチすると、正体を確認すべく掌を広げる。
「ガム、ですか?」
くしゃくしゃの銀紙を開くと、いかにもアメリカらしい体に悪そうな蛍光ピンクの丸い粒。
ノンナはそれを食べる事無く丁寧に包みに戻すと、視線を上げた。
背を向け石階段を登るナオミは、右手でこちらへひらひらと手を振っている。
「ああ。噛むと集中できて命中率上がる気がするんだよ、ソレ」
「願掛けですか? 私はあまりしませんが。プラシーボの類では?」
「かもね。ま、受け取っといてくれ。……何か、何でもいいから、生きてる人間に残しときたかったんだんだと思う。
もう、いつ死ぬか分からないから。お互いに、だけどね」
ナオミは吐き捨てるように言うと、そのまま振り返らずに階段を登ってゆく。
ノンナは冷静に間合いを図る。辛く見繕っても、ナイフでの突進もライフルでの一撃も間に合いそうにはない距離だ。
こちらの銃なら殺せるとノンナは確信したが、両手はそれを拒む様に全く力が入らなかった。
「意外ですね」
原因不明の石化魔法に興の削がれたノンナが言うと、ナオミは足を止め、振り向く。
大きな水色の風船が顔の前に膨らんでいた。
「ロマンチストなところが意外だと言ったんです」
少しだけ、笑う。
ぱちん、と風船が割れる音。
情けない顔になったナオミは、ポケットに手を突っ込んで再び階段へ足を進めた。
「まだ覚悟が足りないのかもな」ナオミは空を見上げて、小さく呟く。「少し、甘いみたいだ」
舌を打つと、ナオミは自虐する様に肩を落とす。ノンナはそれを黙って見送る。
ポケットに手を入れとぼとぼと歩く後ろ姿は、背を丸めていることを加味しても、ノンナの眼にはいつもの彼女より少し小さく映った。
「せいぜい頑張りなよ。生きてたら、お互いまた会うこともあるだろ。ま、次に会ったら容赦しないけどね、ノンナ」
「こちらの台詞です、ナオミさん」
旋風が吹いた。
少しだけ、鼻腔につんと磯の匂い。湿気は無く、爽やかな海沿いの朝の風だった。
ナオミが階段を上りきり向こう側に姿を消すと、ノンナは後ろを振り返り視線を上げる。
道路の向こう側、家と家の隙間、低い堤防の向こうには、海が広がっていた。エキシビジョンで、ニーナとアリーナのKVⅡが横転した場所だ。
今、地に足をつき立っているこの石畳も、戦車で無理して降りた場所。
最早遠い記憶の様になってしまった勝負を思い出す様に眼を閉じると、ノンナはポケットからガムを取り出す。
銀紙を開いて、口の中に放る。ガムなど滅多に食べないし食べたい気分でもなかったが、本当にただ、何となく。
奥歯で噛むと、シロップをこれでもかと濃縮して煮詰めた様な不気味な甘さが口の中に広がり、思わずノンナは目を開く。
これも、予想外。着色料過多なだけで、ナオミが噛むならてっきりミントか何かだと思っていたノンナは、苦い笑いを心中で浮かべて空を見上げた。
青。その中に座す白銀の太陽が、いたく眩しい。
「本当、甘過ぎますね」
碌に味を確かめずにガムを吐き捨てると、ノンナは空に向かって呟く。
透き通る朝の空気を震わせて、しかしその独り言は海風に消えて、どこか遠くに流されていった。
恨めしいくらいに甘ったるい匂いも、一度彼女が呼吸をすると、二度としなかった。
耳には、さざ波の音。黒髪を風に流し、真っ赤な血塗れの石畳に立つ彼女は、蒼く澄んだ空を仰ぐ。
名残惜しむように、いつまでも、いつまでも。
【C-6・神社/一日目・朝】
【ノンナ @フリー】
[状態]健康・血塗れ
[装備]軍服 オンタリオ 1-18 Military Machete 不明支給品(銃)
[道具]基本支給品一式 不明支給品(その他)
[思考・状況]
基本行動方針:同志カチューシャの為、邪魔者は消す
1:死者の支給品を奪い移動する
【ナオミ @フリー】
[状態]健康
[装備]軍服 M1903A4/M73スコープ付 (装弾4:予備弾10) スペツナズ・ナイフ
[道具]基本支給品一式 不明支給品(その他) チューインガム(残り10粒)
[思考・状況]
基本行動方針:サンダースの仲間を優勝させるため、自分が悪役となり参加者を狩る
1:チームを組めるまともそうな人間を探す。基本ステルスで、チームを隠れ蓑にして上手く参加者を狩りたい
[装備説明]
- オンタリオ 1-18 Military Machete
590mm・580 g。アメリカ産片刃ミリタリーマチェット。黒いカーボンの刃は光反射防止のパウダーが焼付けしてある。
刃こぼれは早く、斬るというより叩き切るイメージ。また重量と長さがあるため非常に疲れやすい。
ロシア産両刃ダガー。刀身中央部に軽量化の穴が空いている。
円筒形の鞘は金属製で頑丈に作られており、装着したままでも警棒のように使用できる。
ボタンを押すことで刀身を前方に射出することができる。
有効射程は5m程度、射出された刀身の飛翔速度は時速60km。
1115mm・ 3.9kg・装弾5(.30-06スプリングフィールド弾)。
アメリカボルトアクション式ライフル。M1903A3の改造版で狙撃用2.2倍スコープ付き。
【近藤妙子 死亡】
【残り 38人】
登場順
最終更新:2016年08月16日 12:45