<フェイズ・ノンナ


崇拝のきっかけは何だったのか、今ではもう思い出すことができない。
何故なら、カチューシャの一挙一動が、全て尊く崇拝対象たり得るから。
そして、カチューシャとの思い出は、その全てが人生全てを引っくり返すきっかけ足り得るからだ。

どれだけお傍に控えても、どれだけ無理難題を言われても、まるで嫌になることはない。
決して飽きることも惰性になることもない、永遠に続く仕えることへの至高の喜び。
当然のような顔をして隣に立っていながら、心の中ではその“当然”という名の奇跡に常に感謝している。

ノンナにとって、カチューシャは己の全てであった。

比喩ではない。本当に、全てだった。
おはようからおやすみまでカチューシャに捧げ、彼女を見守り続けてきた。
毎日だって食べられる、もとい、毎日だって飽きたりしない、おにぎりのような存在と言えるだろう。

彼女がおやすみのキスをしてくれるなら、どんな日だって耐えられる。
どんなことだって喜んで出来るし、全てを賭けるに相応しい主だと常日頃から感じていた。

もしカチューシャが死ねと言うのなら、命を投げ出すことも厭わない。
彼女のために死ねるのなら、これほど幸福なことはないだろう。
棺の中で眠る私に、優しく労いとおやすみのキスをしてくれるのなら、惨殺だって受け入れられる。

勿論、ただ盲目的なだけではない。
常にカチューシャのためを想い、彼女の成長を促してきた。
必要と判断すれば、カチューシャのため、彼女が望まぬことだってする。

彼女が雪を黒いと言えば、当然ノンナも黒いという。
だがしかし、それだけで終わるつもりはない。
雪は白いと理解してもらえるようにそれとなく裏で動くか、もしくは本当に雪を黒く作り変える。
そこまでして、初めて忠臣と言えよう。

コドモのような妄言を吐き、しかしそれを実現しようとオトナのように現実的に立ち回れる、オトナとコドモの狭間の王。
その王が立派な成果を上げる名君に成長するよう、泥を啜ろうが全てを賭けてサポートする。
忠臣とは、そういうものだ。


『――聞こえる? カチューシャよ!』

故に、戦闘の中断は当然。
名乗られずとも分かる、いつも鼓膜を幸せに震わせてくれる声。
それが聞こえてきたのだから。

『偉大なるカチューシャが命じるわ! 全員、争いを止めて中央の病院に集まりなさい!』

カチューシャの元に馳せ参じる。
目の前の羽虫を仕留めることより、己の安全の確保より、遥かに重要なことだ。
最低限後ろから撃たれても致命傷にはならぬよう姿勢を低くし、若干蛇行しながら廊下を駆け抜ける。

『これは、命令よ! 無視したら許さない――』

こうして駆けつけるのは、何も命令されたからではない。
勿論呼ばれたら駆けつけるのが日課とはいえ、状況が状況だ。
長い目で見てカチューシャのためになるなら、命令無視すら厭わない。

現に、カチューシャは、予想通りこの殲滅戦に反旗を翻しているようだった。

カチューシャの命令に従い、共に脱出の方法を考える。
それが出来れば、どれほど幸せだっただろうか。

だが、その道は、最初に切り捨てた。
相手は“国”だ。仮にこのクソッタレた首輪を外したところで、元の生活には戻れまい。
それどころか、命を狙われ、国を追われ、一生見えない首輪に苦しめられるだろう。
カチューシャが割り切って海外で余生を謳歌してくれるとも思えない。

カチューシャが、少なくとも命の心配のない暮らしに戻るには、勝たせてやるしかないのだ。

だから、争うなという命令は聞けない。
どれほど嫌われようと、その命令だけは聞くわけにはいかないのだ。
例え、おやすみのキスをしてもらえず、寂しく路傍で朽ち果てようと。


カチューシャさん?!」

遠くの方で、誰かが呼びかけるように叫んだ。
きっと近くで呼びかけを聞いていた、平和主義の者だろう。

病院は人が集まりやすい。
ノンナカチューシャ、それに先程襲撃した連中のように。

だからこそ、こんな近くで拡声器なんて使おうものなら、瞬く間に人が集まってしまうのだ。
無防備に背を向けてでも駆け出したのはそのためだ。
あまりに危険で無謀な行為。
選んだ道を違えている状況とはいえ、黙って見過ごせるはずがなかった。

『ミッ――』

ぱあん、と乾いた音が鳴った。
一瞬、大きく減速する。頭が真っ白になった。

「…………ッッ」

そして、急加速。
もはや後ろを気にする余裕などなかった。
否、気にするべきではなかったのだ、最初から。
例え頭部をぶち抜かれようと、真っ直ぐ最短距離で最速で駆けつけるべきだった。
ノンナの理想とする忠臣ならば、頭部を欠いてでも、主の元へ馳せ参じることができるのだから。
何も考えず、自分もそうなるべく行動すべきだったのだ。

『えーノンナさんへノンナさんへ!』

名指しでの呼びかけ。
どうやらカチューシャは、単に無防備な大声のせいで撃たれただけではないらしかった。

だがしかし、まあ――関係ない。
自分への怒りはとうに限界点を越えている。
撃たせた時点で、これ以上無いほど自分を責めていた。
今更己の罪が増えたところで、悠長に苦悩し足を止める理由にはならない。


カチューシャは預かった!』

声の主には心当たりがある。
カチューシャのサポートを的確におこなうため、戦車道チームの各主力選手のデータは頭に入っている。
声の主は角谷杏、名指しされるほど恨まれる覚えは無い。

正確に言えば、横柄な態度で日頃からカチューシャと二人恨みを買っていたかもしれないが、
少なくともノンナの知る角谷杏は、ソレを理由に凶行に走る人間ではなかったはずだ。
それに、万が一日頃の恨みを晴らす目的だとしたら、拡声器なんて危険な手段は使わないだろう。

そうなると、一番ありえる可能性は、殲滅戦に乗ったことがバレており、その恨みを買ったことだ。
大義を得た角谷杏ならば、多少の凶行はやりかねない。
それに、殺人者に対抗する過激派集団が結成されているのなら、拡声器で多少のリスクを冒せるのも分かる。
おそらくカチューシャは、ノンナの凶行を知る人間を含んだ過激派集団に襲われたのだ。

『さっさと来ないとどうなっても知らないよー!』

不幸中の幸い。どうやらカチューシャは、まだ生かされているらしい。
ならば、引くなどという選択肢は当然無い。

カチューシャに凶行が伝わることは出来れば避けたかったが、カチューシャの命とどちらが大切かなんて言うまでもない。
カチューシャに嫌われることでカチューシャの命が救われるのなら、いくらでも嫌われてやる。
敵意と侮蔑を持って頬を張られるなんて、考えただけでも恐ろしいが、それだって受け入れよう。
隣から失われる恐怖など、世界から失われる恐怖とは比べるまでもなかった。

まあ、なので、誰から伝わったのかなど、最早どうでもよかった。
強いて言うなら、それがサンダースのナオミであれば、多少楽に事が運ぶということくらいか。
わざわざカチューシャを人質に取り、そして危険分子であるノンナを名指しで処分しようということは、殲滅戦反対派だろう。
手段から見てかなりの過激派であると言えるが、故に殲滅戦に乗ってる人間からすればかなり厄介な部類だ。
行き先でナオミが潜伏しているのなら、それとなくコンタクトを取り挟撃すればいい。

『さあ、西住ちゃん!』

ナオミが潜伏続行を希望する場合、喋る間もなくこちらを殺しにくる恐れはある。
しかし、それなら初撃を避け、さっさと彼女の悪行をバラしてやればいい。
おそらく放送前には遭遇できる。
ならば、直後の放送で呼ばれる名を先手を取って挙げることで、説得力が出るはずだ。
そうなると、ナオミとしてはノンナと手を組む方が旨味があることになる。

『戦車道、やろうか!』

胸の中で、怒りが轟々と唸りあげる。
それでも冷静に判断しながら、ひたすらに駆け抜けた。

呼びかけが止まり、目指すべき方向性が不明瞭になる。
それでも大まかな方向は分かっているので、必死に足を動かした。

程なくして、目的の地へと辿り着く。
予想通り、声の主である角谷杏が、カチューシャの首に手を回していた。
分かりやすい人質だ。こめかみには、銃を突きつけられている。
下手に撃って死後硬直で引き金を引かれるわけにはいかない。狙撃は無理だ。



ナオミの狙撃を僅かに警戒していたが――しかし潜伏することなく、すぐさま二人の前へ飛び出した。
そして今になり、ようやく気付けた。ノンナの悪行を伝えた者は、ナオミではないと。

名指しされ、早く来ないと危害を加えると言わんばかりの口ぶり。
近辺にノンナが潜んでいると分かっていなければ、何の意味もない呼びかけだ。

つまり、大分前に別れたナオミではなく、先程取り逃した誰かにバラされたのだ。
姿を見られていないだろうという甘い考えが、判断を鈍らせた。
いや、ひょっとすると、カチューシャを案ずるあまり、情報を伝えた者などどうでもいいと考えていたからかもしれない。

とにかく、ナオミではない。
そう何丁も高射程の武器が支給されているとは思えないし、他の者にそれほど高精度な狙撃など出来ないだろう。
Ⅳ号砲手もその才能はありそうだったが、今しがた自分が殺してきたばかり。
狙撃の可能性もゼロではないが、しかし可能性は薄い。
そんな低い可能性を警戒しすぎて動けないのは愚の骨頂と言えよう。

「やあ、ギリギリだったねぇ」

にたりと杏が笑う。
ギリギリというのは、おそらく放送のことだろう。

放送が近い。それもノンナが飛び出した理由の一つだ。
人質を取って大々的に脅す行為は、歯向かわれた時に大々的に処刑するのとワンセットだ。
そうでなくては意味がないし、そうすることで二度目以降の強迫行為がしやすくなる。
殲滅戦を止める立場とは思えぬ外道な手だが、しかしこの女はやると、長年の勘が告げていた。

さて、ここで一つ問題だ。
この場において、大々的な処刑とは何か。
勿論、拡声器で聞こえるよう銃殺することだろう。
しかしそれだけでは甘い。音声だけでは、ブラフの可能性も残る。

ではどうするか。
答えは簡単。拡声器で聞こえるように銃殺し、そのうえ放送で名前を呼ばせる。
そうすれば、処刑されたと誰もが理解できるだろう。
放送をおこなう運営には、ブラフをする理由がないのだから。

つまり、放送が始まるまでがリミットだった。
だから飛び出した。
下手に隠れて安全を確保している間に、カチューシャを処分させるわけにはいかなかったから。

「Ублюдок(クソッタレ)」

しかし、まあ――それらは全部、ノンナの理性的な部分が無理矢理作ったロジックだ。
全て単なる後付に過ぎない。
実際は、ただ堪えられなかっただけ。

敬愛する人の体に、穴を開けられた。

飛び出してしまう理由はそれだけで十分だった。
カチューシャを救出する。まずはそれだ。
そして、あのクソ野郎をぶち殺す。
それ以外、もはや頭にはなかった。

「いやあ、まさか西住ちゃんより先に来ちゃうとはねー」

聞こえてきた声は小さく、また頭に血が登っていて今一識別出来ていなかったが、
やはり先程声を上げたのは西住みほらしかった。

杏としては、みほをぶつけたかったようだ。
みほが人質を取った上で無抵抗の相手を殺すことを是とするとは思えない。
本当にみほがこの場にいれば、有利になるのはノンナであろう。

だがしかし、これ以上事態がややこしくなることは避けたい。
早急に目の前の敵を倒し、カチューシャを救出し、傷の手当をしなくては。

「分かっていると思うけどさァ、下手なことすると大事な大事なカチューシャの頭が吹き飛ぶことになるよ」

今すぐ殺してやりたいが、隙がない。
背後に気配を感じるも、あちらから襲ってくる様子はなかった。

場の膠着。カチューシャの傷を見る限り、一分一秒が惜しい。
もしかすると、そうして焦って動くことを狙っているのかもしれないが。
しかし、どれだけ焦ろうと、動くわけにはいかない。
カチューシャを救える算段もないのに、軽率なことは出来ない。

「まあ、色々要求はあるんだけどさ、とりあえず放送が始まるし、それを聞こうよ」

狙いが読めない。
すぐさまこちらを襲ってくる様子はない。
とすると、やはり持久戦に持ち込みこちらが下手に動くのを待っているのだろうか。

「ああ、メモを取るなんて名目で荷物を漁るのは許さないよ」

どうやら放送を聞かねばならないので引き伸ばしているわけではないらしい。
隙を作ろうとしているのだろう。

むざむざ殺されてやるつもりはない。
杏の一挙一動に神経を集中させ、どんな動きにも対応できるよう身構える。
念の為、後ろも警戒はしているが、基本的に注視すべきは杏だ。

あまりに張り詰めすぎると精神を摩耗するが、そんなことは関係ない。
集中力を持続させるのはスナイパーの本分だ。
もっとも、さほど時間をかけるつもりはないのだが。

(大丈夫、隙は作れる)

怒りを抑え込め。冷静に対処しろ。感情は全て弾丸へ込めろ。
鈍い音が、口の中に響いた。
食いしばりすぎた奥歯が砕けたのだろう。
吐きかけても大した効果は期待できそうにないし、正直どうでもよかった。
飲み込むこともせず、喉すら鳴らさず機を窺う。

『生徒諸君。約束通り、放送の時間です』

ノンナの持つ、情報アドバンテージ。
その内一つが、五十鈴華の死亡と、武部沙織の生存だ。
五十鈴華の名前が呼ばれ動揺してくれれば良し。

ノンナと遭遇していることを聞き、二人の死を覚悟していて華の死に動揺しない恐れはある。
だが、それならそれで、武部沙織が呼ばれぬことは驚きだろう。
生きているのなら、助けねばと思うはずだ。
ノンナがそうだったように、動揺しないはずがない。
ましてや、ノンナと違い、殲滅戦に反対する者ならば。

『五十鈴華』

杏の顔から、表情が消える。
怒るでもない。悲しむでもない。
それらの感情を、意図して排するための、平静を装う顔。

覚悟していても、そう易易と割り切れるものではない。
ましてや彼女は、次期生徒会長だと聞く。
並の大洗生徒より、心に負うダメージは大きいだろう。

『近藤妙子』

杏の額に浮かんでいた汗が、瞳に向かって垂れていく。
その動きが、やけにスローモーションに見えた。

目に汗が入り、思わず杏が片目を閉じる。
その動きにつられ、銃を握る右腕が僅かに動いた。
そして、銃口が、カチューシャの頭部から逸れる。
仮に頭部を撃ち抜いた後、肉体の反応で引き金を引かれたとしても、これならば問題がない。
撃たれた衝撃で腕が更に動くことを考えると、今ならば、カチューシャを守ったまま撃ち抜ける。

つけいるべきは、今。

ノンナが、動く。
腰に差していたCz75に手をかける。
銃弾の温存など、当然考慮している場面などではない。
所持する最強のカードを切る。

諸般の事情で、銃の構えを取るのは慣れていた。
他の参加者と比べ、遥かに早く銃を構える事ができる。
目に汗が入り思わず目を瞑った杏が、体勢を立て直すよりも早く、だ。

『山郷あゆみ』

しかし――引き金は引かれなかった。
杏は、体勢を立て直そうとせず、即座に頭部と四肢を折りたたんでいた。

『園みどり子』

こうなった時、ノンナが迷わず撃ってくると分かっていたのだろう。
行動に、迷いがなかった。
結果、小さな体が、カチューシャの影に完全に隠れる。

『後藤モヨ子』

首に回していた腕を、どうやって即座にカチューシャの影に隠したのか。
また、あの小さなカチューシャの影に、どうやって全身を収めたのか。

答えは、簡単。
首に回していた腕で、カチューシャの体を突き飛ばせばいい。
そうすれば、ノンナから見たカチューシャの姿は大きくなり、相対的に隠れる面積も広くなる。

『カルパッチョ』

反射的に、両手を伸ばしカチューシャの体を受け止めようとする。
怪我をしたカチューシャを、地面とキスさせるわけにはいかない。
ほとんどヘッドスライディングのような形で、カチューシャの体を抱きとめる。

「カチュ――」

そして、思わずその名を呼んで、顔を覗き込み――見てしまった。
輝きを失い、酷く澱んでしまった目を。


――――――――そして、誰より大切な名前が呼ばれる。

「えっ……」

間の抜けた声だった。それしか発することが出来なかった。
頭から抜け落ちていた――ひょっとすると、考えないようにしていた――事実。
それがノンナから思考を奪う。

しかし、止まるのはノンナの時間のみ。
この機を黙って見過ごすほど、杏は甘い女ではない。

「今だよ福田ちゃん、撃て!」


ほとんど単なる反射であった。
真っ白な頭が、その言葉の意味を理解すると同時に、弾かれたように半回転する。
手にしたCz75を、己の命を狙っているであろう相手に無意識に掲げる。
体に染み付いた、単なる反射運動だ。

それがいけなかった。
振り返った先、名前を呼ばれた少女は、間の抜けた顔で突っ立っていた。
申し訳程度に銃を手にしてはいるものの、撃とうとする気配はない。

――謀られた。

そう理解するより先に、反射的に動いただけの体が引き金を引く。
その弾丸は、当然銃口の先――福田の体に吸い込まれていく。
本当に撃たねばならない者は、別にいるというのに。

「悪いねェ」

もう半回転し、再度杏と向き直ろうとして、背中に衝撃が走る。
つんのめるように吹き飛ばされながら、血を吹き出した自分の胸を見て理解する。
完全に隙を作られ、思考を奪われ、罠にはめられたのだと。

「二人とも、隊長のとこに行ってもらうよ」

カチューシャは、私と違い、行くのは天国だ。
だから、同じ場所には行けない。

そう反論することは、もう、出来なかった。

真っ白な頭で、それでもなんとか杏を殺してやろうと、振り返ったその瞬間。
お迎えにきた愛しい天使の愛の籠った唇でも、義憤に燃える復讐者の怒りが籠った拳でもなく、
純然たる殺意の籠った弾丸が、ノンナの右頬に突き刺さる。

.45ACP弾はそのままノンナの歯と上顎を破壊しながら突き進み、そして、ノンナの意識を完全に刈り取ったのだった。






 ☆  ★  ☆  ★  ☆






――――オトナになれない私の、我儘を一つ聞いてくれ。






 ☆  ★  ☆  ★  ☆







<フェイズ・エリカ>


甘っちょろいな、と心の中で自嘲する。
どう考えても二人で行動する方が生存率は上がるし、亡骸に縋り涙するなど後に回すべきことだ。
にも関わらず、あの子を残してきてしまった。

そういう甘さが、大嫌いなはずだった。
いや、甘さだけじゃない。
あの子の優しさや、理解の出来ない優先順位の付け方が、とにかく気に入らなかった。

今だけじゃない。黒森峰であの子がすごしていたときは、毎日のように腹を立てていた。
あの大事な決勝戦で、赤星小梅の救出を最優先にする姿が、ずっと理解できなかった。

なのに、今、何故だか甘っちょろい判断を下してしまった。
もしかすると、死体を見たことで、小梅のことを思い出したからかもしれない。
あの日のあれこれは、逸見エリカにとっても、大きなしこりとなっていたから。

別に、みほの行いが正しかったとは思っていない。
あそこで小梅を捨て置くべきだったという気持ちに嘘はない。
少なくとも滑落したのが自分だったら、助けてほしいなどと思わなかっただろうから。
それに――自分のせいで十連覇が途切れるなど、あってはならないことだ。
そんなことになろうものなら、二度と太陽の下を歩けないだろう。

それなのに歯を食いしばり太陽の下を歩き続けた小梅を、エリカは尊敬していた。
みほを恨んでいてもよさそうなものなのに、みほを庇って命を落とした姿については、一定の敬意を払っている。
だから、埋葬だってした。敬意を持って接するべき相手だと、思っていたから。

だからか分からないが、とにかく、まあ――多少甘い判断だとは思ったが、
後々に繋がるだろうと己に言い訳し、なまっちょろい言葉を口から吐き出してしまった。
きっと、大洗女子の西住みほにとって、あそこに転がっていた死体は、敬意を抱く大事な友人だっただろうから。

『―――――――――――生徒諸君』

小走りに移動していたその時、突然音声が響き渡った。
病院の正面玄関から飛び出していたが、半ば転ぶかのような形で慌ててUターンする。
今の音を誰かに聞かれたかもしれない。
そう思い、高鳴る胸を何とか落ち着かせようと肩で激しく息をしながら、周辺を見渡した。

『約束通り、放送の時間です。各自スマートフォンは故障していないですか?』

ここでようやく、音の発生源が己のスマートフォンであり、
そしてそれが定時放送であることに気が付いた。

「ちっ……まったく、なんでこのタイミングなのよ」

思わず舌打ちが飛び出す。
定期放送。一刻を争う場面とはいえ、決して無視は出来ない重大イベントだ。

本来であれば、メモなど仲間に任せて自分は行動できるのがチームの強みではあるのだが――
しかし、親友の亡骸に直面したみほに全てを任せられるほど、エリカは耄碌していなかった。
或いは、相手が味方であるとしても、死に直結することを委ねられないくらい、盲目になれなかった。

『それでは、禁止エリアを発表します』

音を出していて、なおかつそれに集中しないわけにはいかない状況。
奇襲をかけるなら今をおいて他ないだろう。
だがしかし、無視するわけにはいかない。

――殺し合いに勝つつもりの奴らだってメモを取るに決まっている
――壁を背にしているから、奇襲される可能性は低い。

心の中で必死に大丈夫である根拠を反芻しながら、必死に書き留めていく。
黒森峰に入った当初、あらゆる指導をひたすらメモに取っては感動していた日々のおかげで、
発言のほとんどを言葉尻もそのままに用紙に書き殴ることが出来た。

『西住まほ、赤星小梅』

この時までは。

「…………………………は?」

スマートフォンから流れる音が、耳から入って脳を介さず間抜けに開かれた口から出ていってしまう。
言葉の意味を咀嚼できない。
メモに目を落とす。
死んだ者として読み上げられた名前のリストである旨の走り書きが、メモにはしっかりと書き残されていた。

「隊、長……?」

言葉が漏れる。
胸の内に留めておけたら、現実から目を背けることが出来ていたら、どれほどよかっただろうか。

「嘘……」

嘘ではない。嘘を吐くメリットもない。
それに、直後に名前を呼ばれた小梅は、土気色をした人形のようになっていた。
少なくとも、一名分の名前は、死者のものが呼ばれている。
もっとも、生者の名前をわざわざ読み上げるなど、リスクに対して得るものがなさすぎるのだが。

しかし――――しかし、だ。
普通に考えれば事実と分かっていても、そう簡単に飲み込めない時というのはある。
今がそれだ。普通に考えれば分かることだとしても、普通に考えることができないくらい脳みそが麻痺している。

「そんな、はず……」

頭を回さなくてはいけない――
そう脳みそが電気信号を出しているのに、まともに頭が働かない。
思い浮かんだ事柄が、精査されずに空気に溶け出し消えていく。

何も考えられない。
あの放送が嘘であるという都合のいいロジックも。
聞き間違いだと己を納得させるための言い訳も。
何も。何も。

「だって……だって……隊長が、いないと、私……」

西住まほは、ただの人間だ。
特殊カーボンに身を包んだ不死身のサイボーグではない。
撃たれれば死ぬし、刺されれても死ぬ、ただの人だ。

それでも――西住まほが死ぬなんて、有り得ないはずのことだった。
少なくとも、エリカにとって、まほは不死身で、いつでも自分を導いてくれる存在だった。
彼女が死ぬ可能性からは、ずっと、目を背けていた。

なのに、これは、何なのだ。
迷走しながらも積み上げてきたものが、土台から一気に崩壊する。
いっそ狂ってしまいたかった。泣き出してしまいたかった。
最初に秋山優花里を襲った、あの時のように。

「…………ッ」

パン、と銃声が聞こえる。
頭を掻きむしっていた手に力が入り、戦車道の邪魔になるからと短く切られた手の爪が、グッと頭皮に食い込んだ。
汗なのか血液なのか分からないが、爪の先が、じっとりと湿っている。

「行かなきゃ……」

憧憬。思慕。敬愛。
西住まほへの感情と、その背中を追いかけることが、逸見エリカの土台だった。
その土台が脆くも崩れ去った今、それでもなお心が転落死しなかったのは、エリカの土台に、西住みほもいたからだ。
まほへのそれとは比べ物にならないくらい小さいし、黒い感情も混ざっているせいで不安定な土台だけれど、それでもそこにしがみついていた。

(止めるん、だものね……)

西住まほという土台と一緒に崩壊するほど、逸見エリカという存在は弱くはない。
だからといって、西住みほの土台を足場にどっしりと構えられるほど強くもない。

今動けたのは、半ばただの現実逃避だ。
約束に従い、銃声の方に足を動かす。
そうしていれば、まほの名前が呼ばれたという事実から、一時的にでも目を背けていられるから。

(行かなくちゃ……)

それでも足取りは重たい。
考えないようにしても、まほの亡霊が浮かんでは消えていく。

――今やっているドンパチを、本当に止められるの? 隊長ですら、できなかったのに?
――本当に、なんとかなるの? 隊長ですら、命を落としてしまったのに?

それでも、ゆっくりでも、足は動く。
今はもう、六時間ほど前の彼女とは違う。

「あ…………」

だから――だから彼女は、間に合った。
当初の目的にではないが、それでも確かに、エリカが折れなかったから、ソレは間に合ったのだ。

「――――ッ」

何を考えたのか、エリカ自身にもわからない。
あまりに多くの思考が脳内を駆け巡り、結果ほとんど真っ白な頭で引き金を引いた。
狙いだって、つけていたわけではない。
ほとんど反射的に、引き金を引いていた。

そしてエリカの放った弾丸は、アンチョビに向けて掲げられたS&W M500に(これはまったくの偶然なのだが)ピンポイントで吸い込まれた。
バチンと弾かれ、S&W M500が宙を舞う。
突然のことに、驚いたようにケイが振り向いた。


「う、動かないでッ」

慌てて銃口を向け直す。
苦々しそうなケイの肩越しに、ケイ以上にアンチョビが驚いているのが見えた。

「ケイ、お前……ッ!?」

どうやら、アンチョビは、ケイを盲信していたようだ。
突如銃を向けられ、そしてその銃が吹き飛んだ事実に、悲しそうに顔を歪めていた。

「くそっ何で……ああ、いや、エリカ、待ってくれ、私にも悪い所が多々あったんだ。ケイはついカッとなっただけかも――」

――ああ、クソ。都合のいい夢を見ている人間とは、客観的にはこう見えるのか。

「残念だけど、それはない。それはないのよ」

様々な思考が駆け巡り渋滞を起こすエリカの脳内に、そんな言葉が過ぎった。
自分も、未だまともに現実を受け入れきれていない。
まほの死も、あれだけ死者が出たことも、そして――――

「離れてなさい。そいつは……人殺しよ」

――陽気で気のいい人間というイメージだった目の前の人間が、赤星小梅を殺したということも。

「……千客万来ね」

自嘲気味に呟くケイの口端は、歪に釣り上がっていた。
自嘲しているようにも見えるし、挑発をしているようにも見える。


「撃たないの?」

カタカタと震える銃口に、ケイは気付いているのだろうか。
ケイとは少し距離がある。
毅然としていれば、きっと震えは気付かれないはずだ。

「待て、撃つな、私なら大丈夫だから」

アンチョビが声を上げる。
その目は、動揺の色こそ滲んでいるが、現実逃避をしている者のソレではない。
かつて森の中を彷徨った時のエリカの目とは違う。

「私はケイにも死んでほしくないし、お前にだって人殺しになってほしくないんだ!」

愚かで、稚拙で、反吐が出そうになるけど、それでも確固たる意思が込められている。
もっとも、みほのものと比べれば、ちっぽけなものだけれども。

「そいつはッッ!」

だから、思わず、大声を張り上げる。
一歩を踏み出そうとした足を、アンチョビは思わず引っ込める。
刺激したら不味いと思ったのだろう。
だとすると、エリカにとって好都合だ。

「あの子を……赤星小梅を殺してンのよ!」

そう、それは、変えようのない事実。
今のケイが何を思っているのかなど、エリカには知る由もないし、それが邪悪な企みでない保証なんてどこにもない。
むしろ、何かを企んでいると考える方が自然だ。

「……本当、なのか?」

信じられないと言わんばかりに、アンチョビが目を見開いた。
信じられないような出来事がとっくに多発しているこの状況でも、ケイが人を殺すなど信じられない。
そんな気持ちも、分からないわけではなかった。
ケイがアンチョビに銃を向けている姿を見たときは、己の目を疑ったものだ。

「……そうね。その通りよ」

ゆっくりと、ケイがこちらに顔を向ける。
いつの間にかぐっしょりと濡れた掌で、しっかりと64式7.62mm小銃のグリップを握り直す。

「エリカ……貴女、みほと一緒なのね……」

何故それを、と思わず言葉が飛び出そうになる。
脊髄反射で言葉に出さず、ぐっと押し止められた自分を褒めてやりたい。
目撃者がみほなのだから、みほと一緒で居ることなどバレて当然なのだ。
過剰な動揺で付け入る隙を与えてはいけない。

「だとしたら、何だって言うのよ」

そう、銃を突きつけかろうじて主導権を握れてはいるが、
そんなもの吹けば飛ぶようなものであることは分かっている。
付け入る隙が一つでもあれば、瞬く間に主導権など奪われるだろう。

銃を突きつけるメリットは、生殺与奪の権利を握れることにある。
だがしかし、今のエリカに、ケイを殺すつもりはない。
みほと誓った約束が、最期まで気高くあったであろう敬愛する人の存在が、
そしてかつての暗い森と今しがたの会敵時に引き金を引けてしまったという事実が、
『殺さずに事態を収束しなくてはいけない』と、エリカに強く思わせていた。

私は、アンタとは、違う。もう、そっち側には、行かない――――

エリカに殺意がないことは、とうに伝わっているだろう。
殺すつもりなら、とっくに撃っているはずだ。
過剰に恐れる必要が、ケイにはない。

「私があの娘を殺したあと、みほは立ち直ったのかしら」

とはいえ――安心というわけにもいくまい。
怒りのあまり、“つい”引き金を引いてしまうということはありえる。
実際先程も、咄嗟に撃ってしまったのだ。

あの時点で弾丸がケイに当たらず、
またそのまま暴走出来ないほどエリカのネジがしっかり締まっていたことは、
ケイにとって幸運だったと言えよう。

「てっきりあのまま自殺でもしちゃうんじゃないかと思ったわ」

思わず顔が熱くなる。
歯がすり減るほど食い縛り、湧き上がる衝動を抑え込む。

冷静になれ、エリカ。相手をよく見ろ。冷や汗もかき、余裕がない状態じゃないか――――

そう、ケイだって、余裕はない。
銃を突きつけられている以上、先手を取るのは難しい。

「……黙って」

だが、だからこその口撃。
エリカが怒りに任せて適当に引き金を引けば、それが開戦の合図になるだろう。
怒りに任せてぶっ放して当たるとは思わないし、庇おうと飛び込んできたアンチョビに当たろうものなら最悪だ。
それに、撃った結果に驚いたり反動に手こずっている間に、銃を拾ったケイが撃ってくるかもしれない。

少なくともケイは人一人を仕留めた程度には銃に慣れてきているし、殺す覚悟もしているのだ。
引き金を引いてきた相手にはなんの躊躇もしないだろう。
もしも引き金を引いてしまい、殺し合いが勃発したら、怒りに任せて自分はケイを容赦なく殺せるだろうか。

「あら、問答無用ってことかしら」
「よせ、ケイ! エリカも落ち着いてくれ」

狙いはエリカには分からない。
分からないが――少なくとも、ケイだって何らかの意図があって口を開いているのは確かだ。
怒らせたいのか、心を折りたいのか、はたまた単なる嫌がらせかは分からない。
隙を作りたいのか、殺害のための心理的ハードルを下げるためなのか、
はたまたアンチョビを巻き込むためか、それすらも分からない。

だがとにかく、ケイは一方的に銃を突きつけられた状況を打破しようとしている。
今この時点で有利なのは間違いないのだ、何にせよ、このまま乗せられるわけにはいかない。

「ああ、問答はみほと済ませているし、やっても意味がないことを知ってるのね。だとすると、これもみほの指示なのかしら」
「黙れって言ってるでしょう!!」

怒るな。いや、怒ってもいいが、冷静さだけは失うな。
どんな状況であれ、感情に任せて暴走すれば破滅が待っている。
隊長の教え――ああ、もう二度と、教われない。教われないのだ――そう、隊長の教えを思い出せ。
あの人はいつだって冷静で、安い挑発に乗り負けを呼び込むような人間ではなかった。
よしんば挑発に乗るとしても、それは小賢しい策を捻じ伏せられる時だけだ。
それは“挑発に乗った”のではなく“挑戦を受けた”であり、まぁとにかく愚行ではない。
まあ純粋に強すぎるので挑発に乗って問題なかっただけかもしれないが、とにかく自分にその腕はない。
戦車道でならいざ知らず、白兵戦ともなれば尚更だ。
つまり自分は勝算がある状況以外で挑発に乗るなんてことできるはずが――――


「貴女の愛する西住まほについて喋りたい、と言っても?」

にたり、とケイが笑うのが見えた。
それを最後に、頭の中が白んでいく。
口論を聞きかねたアンチョビが今にも間に割ってきそうだ、早くなんとかしないといけない。
なのにどんどん頭は白くなり、怒りが沸々と湧いてくる。

――クソ、お前が、人を殺した、それもウチの赤星を殺したお前が、隊長を語ろうとするなんて、お前、クソ、お前――――

西住まほになりたかった。でもなれなかった。
西住みほになりたかった。でもなれなかった。
逸見エリカとして、何になれるのか。何になりたいのか。

まだはっきりとは分からない。
だけど、あの二人のようになりたかったはずなのに。

「おい、落ち着け! 銃なんて向けなくても話し合いはできるだろ! ケイも煽るようなことを言うな!」

頭が真っ白になって、引き金を弾いてしまうような人間だった。
頭を黒い考えに塗りつぶされて、首を締めてしまうような人間だった。
そんな自分を変えたかった。変わったはずだった。
変わって、自分の道を歩んで、逸見エリカとして誇れる自分になろうと思っていた。

「――――西住まほを殺したの、私よ」

なのに、嗚呼、嗚呼、隊長、私、私は――――






 ☆  ★  ☆  ★  ☆






オトナになっただけさ。オトナに、なっただけさ――――オトナになんて、ならなくていいのに。






 ☆  ★  ☆  ★  ☆






<フェイズ・福田>


疑問を抱いてはいけない。
ただ真っ直ぐに突撃し、隊長のために戦う。

そう思っていたはずなのに、すでに引き金にかけた指には力が入らなくなっていた。

無防備に背を向け駆け出すノンナの背中に向けて引き金を引く。
ただそれだけだというのに。
もう人質すらなくなったのに、引き金が重い。

(どう、すれば……!)

カチューシャが、角谷杏に撃たれた。
その事実が、福田の動揺を誘った。
そして、福田以上に動揺したノンナの姿が、後ろから撃つことを躊躇わせる。

(と、とにかく追わなくては……!)

ノンナが殺し合いに乗っているのは、もう間違いないだろう。
しかし、ノンナカチューシャを心配していることも、また事実。

だからどうだというつもりはない。
敬愛する西絹代の仇を討つため、ノンナを撃たねばならないことに変わりはない。
しかしながら、福田の脳裏に、先程からとある人物の顔がちらついている。

カチューシャ。この凄惨な殲滅戦で、最初に自分の心を掬い上げてくれた、カリスマに満ちた王。

その光は、絹代の発するそれとは比べるまでもない。
だがしかし、確かに心の隅に、今でも残り続けている。

そんな彼女を撃ったのか。それも、仲間であったはずのお前が。

嗚呼、今思えば、自分の背中を押したことも、おかしかったのだ。
拍子抜けし、毒気を抜かれ、それでも怒りの炎を絶やさぬため、深く考えずに駆け出した。
本当は、あそこで行くことを許してくれた人間が、あのカチューシャと上手くやれるか、考えるべきだったのに。

仲間を撃つなんて悪辣な行為、許すことができなかった。許してはいけないと思った。
正体が判明しているだけ、正体の分からぬ絹代殺害犯よりも、憎く思ったかもしれない。
勿論それは、今この時、限られた瞬間ではあるのだけど。それでも。

――溢れ出した怒りの矛先が、定まった。

ノンナは殺す。だが今ではない。
まずは何より角谷杏だ。あの女を殺さねばならない。
そのためなら、カチューシャ救出の名目で共闘出来るノンナを撃っている場合ではない。
まずは追いつき、角谷杏に怒りを込めた弾丸を叩き込み、それから、それから――――

「どうして……」

体格の差であろうか、追いつくのに、少々時間を食った。
それに、肩で息をする自分と違い、同じ距離を自分以上に全力疾走したはずのノンナは、まるで呼吸を乱していない。
手傷を負った様子もなく、別段大きく何かが変わったようには思えない。

故に、恐ろしい。
その背中からは確かに殺意が溢れているのに、動きに微塵も出ていない。

静かに怒りの炎が揺らめく。
猛吹雪はまだ吹かない。
静かに、ただ、静かに怒りが揺らめいている。

福田は、もうこれ以上一歩も近付ける気がしなかった。
銃を構えて刺激をすることすら憚られた。
率直に言って、格が違う。
同じ土俵で共闘など、出来るはずがなかった。

「いやあ、まさか西住ちゃんより先に来ちゃうとはねー」

へらりと笑う角谷杏は、手にした拳銃をカチューシャへと突きつけている。
杏の腕を首に巻かれ、頭を垂れるカチューシャの表情は、窺い知ることが出来ない。

下手に杏を殺害すれば、筋肉の硬直などにより引き金が引かれ、カチューシャの頭部が撃たれかねない。
飛びかかって拳銃を引き離そうにも、引き金を引く速さに勝れる人類などいないだろう。
さすがのノンナとて、今の状況では手出しが出来ないと見える。

故にノンナは、静かに怒りの炎を燃やし、憎い相手を見つめ、
カチューシャの身の安全を保証しながら杏を殺す算段をつけているのだろう。
背中しか見えていないが、それでも杏を睨みつけ意識を逸らさないであろうことは、想像に難くない。

そして、そんなことを知ってか知らずか、拳銃を突きつけている杏は、これまで以上にいやらしい笑みを浮かべていた。

「分かっていると思うけどさァ、下手なことすると大事な大事なカチューシャの頭が吹き飛ぶことになるよ」

すでに体に穴が空き、血が吹き出ているのが見える。
殲滅戦開始直後、自分の心を救ってくれた強くて堂々とした姿が思い出された。
今ではすっかりその面影も消えている。

「まあ、色々要求はあるんだけどさ、とりあえず放送が始まるし、それを聞こうよ」

放送。そういえば、そんなものもあった。
考えることを放棄しようとした結果、そんな大事なことすら頭から抜けていたとは。

「ああ、メモを取るなんて名目で荷物を漁るのは許さないよ」

ガキン、と言う音が聞こえたような気がした。
ノンナの背中しか見えていないし、その表情は未だ分からない。
それに、距離もあるので、きっと幻聴だろう。

だが、何故だろうか。
“それ”はノンナが歯を食いしばりへし折った音だろうと、福田は確信していた。

『生徒諸君。約束通り、放送の時間です』

各々の端末から、放送が開始される。
福田は思わずスマートフォンを取り出すと、その画面へと目をやった。

『各自スマートフォンは故障していないですか?』

それから、ちらりと、二体の悪鬼が相対する空間へと目をやった。
ただじっと相手だけを見、機をうかがっているようだった。

――この場に混ざれる気がしない。

ぶわりと脂汗が出る。
仮に今自分が銃口を向けたところで、即反応され返り討ちにされるだろう。
少なくとも杏の位置からは、ノンナと一緒に福田を視界に捉えられる。
視界から外れようと動こうとすれば、即座に福田の命が吹き飛ぶことは、想像に難くない。
そして動かぬ骸となった福田を尻目に、場は大きく動いて、杏とノンナの凄惨な殺し合いが始まるのだ。

『次に、死者の発表をします。死者は計13名』

ほんの僅かに、杏が表情を歪める。
ノンナとて表に出してはいないが、少なからず思うところはあるだろう。

『五十鈴華』

杏の顔から、表情が消える。
怒るでもない。悲しむでもない。
それらの感情を、意図して排するための、平静を装う顔。

つけ入るならばここだろう。
そうは思っても、福田はもう動けない。
結局どうすべきなのか、うだうだと考えてしまい、挙げ句放送の内容にも逐一心を痛めている。
動くとしたら、ノンナだろう。

『近藤妙子』

ノンナが、動く。
腰に差していたCz75をすばやく構えた。
一方で福田は、手にしたM2カービンを、掲げることすら出来ないでいる。

『山郷あゆみ』

しかし――Cz75の引き金は引かれなかった。
杏は、このタイミングで、仕掛けてくると読んでいた。
読んだところで、撃ち合いでは決して勝てない。
だから杏は、カチューシャを利用したのだ。

『後藤モヨ子』

甲羅に籠る亀のように、四肢を折りたたみ、杏がカチューシャの影に隠れる。
亀同様、無理矢理縮こまったこともあり、すぐには動けず無防備になる。
だがしかし――ノンナには、カチューシャという甲羅は決して破壊できない。

『カルパッチョ』

突き飛ばされたカチューシャの体を、ノンナが受け止める。
これで、杏を守る盾はなくなった。

撃つなら、今だ。
そして、撃つなら、他の誰でもなく、福田だ。

頭のどこかで分かっていたが、しかし、それでも腕は動かない。
目の前で繰り広げられる攻防に、判断力と体がまるでついていかない。


そして、更に、理解を越えることが起きた。
呼ばれる、尊敬した王の名前。
あれ、では、目の前の、倒れ伏した、生きて人質になっているはずのお方は――――

「今だよ福田ちゃん、撃て!」

その言葉を叫ばれても、体は動かなかった。
反射的に銃を構えることも出来ず、ぽかんと口を半開きにする。

気が付いた時には、こちらを向いたノンナの手により、9mm弾を撃ち込まれていた。
ごぷ、と口から血を吐いて、仰向けに吹き飛ばされる。

視界の片隅で、杏の放った弾丸が、ノンナの体に撃ち込まれるのが見えた。
それでもノンナは、自分と違い、簡単には倒れ付していないのだが。

――ああ、ああ、なんて情けない。疑問を抱かずとにかくやると決めていたのに、結果がこのザマなんて。

文字通り、地に足が着いてなかったのだろう。
だからこんな簡単に倒れてしまったのだ。
ノンナと比べて、気合が足りない。根性が足りない。覚悟も足りない。実力も足りない。
足りない、足りない、何もかもが、足りなかった。

――そう言うな。私は、そうやって色々と考えてくれる所が、大好きだぞ。

嗚呼。幻聴が聞こえる。
都合のいい言葉が、大切で尊敬している人の声で。

――福田なら、色々と知恵を絞って、我が知波単に新たな風を吹かせてくれると期待していたが……

期待に応えることが出来なかった。
それは、誰より自分が分かっている。
結局こうして、何も出来ずに野垂れ死のうというのだから。

――まあ、そうすぐに出来るものではないか。私にだって、結局出来なかったんだしな。

それでも、だ。
悪戯に拙い突撃を行って、下手に考えて足を止め、結果として知波単学園の全滅を招いてしまった。
それは、かつて自分が面目に関わると具申したことだったのに。


――ですが、結局、考えすぎたせいで、こんなことになってしまいました。いっそ、何も考えずに突撃していたら。

目が霞む。口から吐き出す血液の暖かさも、段々感じられなくなってきた。
それでも愚直に手を伸ばす。霞む視界に映る、撃つと決めていたM2カービンへと。

――いいんだ、福田。もう、いいんだよ。

思えば福田は、ずっと流され続けてきた。
恐怖に支配されるがままに銃を向け、救ってくれた人に従うままに再度銃を向け。
地に足をつけず、大切な人との再会はもう叶わないと心のどこかで分かっていてなお、恩人にまた銃を向け。
仇を討たねばならぬという義務感に責め立てられるままに、下手人かどうかも分からぬ者にも銃を向け。
挙げ句途中で銃を下ろし、肝心な時に銃を向けることができない。

そしてとうとう、その手が再びM2カービンを掴むことはなかった。
代わりに、大好きだった先輩が、優しくその手を握ってくれる。

――先輩の意を汲み、その誇りと伝統を受け継いでいくのが知波単学園だ。福田が色々考えてくれたことも、無駄ではないさ。

都合のいい幻影だと分かっている。
だが、もう、それでもよかった。

――それじゃあ、行こうか。福田が生前世話になったお礼を言いにいかないとな。

光の向こうに、小さな暴君の姿が見える。
その横で、同じく小さな東洋の魔女が、ボールを片手に何やら暴君を勧誘しているようだった。
そしてもう一人、大きなボールを二つぶら下げた少女が、二人の小柄な少女のやり取りを楽しそうに眺めている。

――どうした、福田。

――アンチョビ殿が、少し、気がかりであります。姿も見えませんし……

何も成せない、何も掴めない、実に無様な最期だろう。
でも、だからこそ、彼女は幸せな幻影を見ることが出来たのかもしれない。
ずっと感情に振り回されてきた彼女だからこそ、最期のときも、想うがままに、大切な人の幻想を見れたのかもしれない。

――大丈夫さ、きっと。私達よりずっと強いし、あの優しさと愚直さは、知波単の見習うべき姿とも言えるしな。

――それを言うなら、隊長こそ、知波単学園の理想の体現者と言えるのであります。

――はは、嬉しいな。でもまあ、私よりもっと理想に近い人もいたよ。こんな場所なのに。

――その人が、心配ではないでありますか? ここで、待っていた方がいいのでは……

もう、福田の瞳は何も映してはいない。
虚空を見つめるその目に、もはや光は宿っていない。

――ああ、その心配はないよ。彼女はここに来ないと信じているしな。

――そ、そうでありますか……そうですよね……理想の体現者であれば、私と違い、こんな早くにこんな所には……

――ああっ、待て、早とちりをするな。言っておくが、福田のことを信用してなかったとかではだな……っ!

死へと続く道を、大切な人と歩く。
きっと行き先は、地獄と天国で分かれてしまうのだけれど。

――んん? どうした、福田。突然嬉しそうに笑って……

――不思議であります。一人じゃないというだけで、この道を進むのが、怖くなくなっています。

最初はあれほど怖かったのに。
きっと絹代が傍にいれば、迷走することもなかったのだろう。
ひょっとすると、怖さを取り除き救ってくれたカチューシャの言うことを聞けていたら、或いは。

――ふむ、なるほど。ならば、更に怖くなる魔法の言葉を教えよう!

――おお、な、なんでありますかっ!?

――それはなァ……

まあ、それらは全て、意味のない仮定なのだが。
結局の所、福田は何一つ成せずに死んだ。その一点のみが真実。

――『突撃』だ!

――おお! 確かに何だか怖くなくなってきたのであります!

――さあ、あの光に向かって……真っ直ぐに、突撃だ!!

――はいっ!

こうして、どちらかというと愚かな一団・知波単学園は、この特殊殲滅戦において、何かを成すこともなく、あっさりと全滅した。
キルスコア、ゼロ。他者に与えたダメージもゼロ。生み出したものもゼロである。
にも関わらず――知波単学園生徒の亡骸は、両者共に、不思議と笑顔だったという。






 ☆  ★  ☆  ★  ☆






少しずつ、私達はオトナになって、今でも自分を曝け出せるか――――?






 ☆  ★  ☆  ★  ☆






<フェイズ・杏>


ぷぅ、と息を吐く。
体は僅かに震えている。

しかし、問題はない。
震えていても、正確に撃つことが出来た。
震えていても、躊躇わず撃つことが出来た。

眼下には、血塗れの顔見知りが二人。
いや、『二人』でなく、もはや『二つ』といったところか。
二人の体が倒れ伏した後、死を知らせるブザーが、すでに二回鳴っている。

顔面を撃ったノンナはともかく、福田は死に損なっている可能性があったが、しかし軽く頭を振って否定する。
この短い間隔で二人の死亡通知がきた。
目の前の二人のもので間違いないだろう。
その状況で、「念のため」程度のことに、貴重な弾丸を消費するわけにはいかない。

そもそもあの怪我だ、仮に生きていたとしても、放っておけば死ぬだろう。
武器を回収しようとした時に一矢報いにくる可能性は勿論あるが、その矢に射られる可能性は恐ろしく低い。
何せ銃は手から取り落としている。他にも銃を持っている可能性があるノンナと違い、福田の銃はこれだけだ。

それでも慎重に、顔が向いている方とは逆からゆっくり回り込む。
銃口の先は、福田の頭部だ。
いつ動いても撃ち抜けるようにしていたが、しかし――福田は、ピクリとも動かなかった。

「……ごめんね。謝って許してもらえるとは思ってないけどさ」

ゆっくりと引き金に添えた人差し指に力を込め、しかし引ききる前にその手を引っ込めた。
きっともう、福田は死んでいるのだろう。
その亡骸を、過剰に損壊することもない。
何故か妙に安らかな顔をしているし、頭部は砕かずこのまま放っておいてやるのが人情だ。

「必要だから、踏み台にしちゃったよ」

だから――だから、敢えてだ。
敢えて、ナイフを握る。
ノンナに殺された』などという他人事でなく、『自分のせいで命を落とした』と実感が抱けるように。

「……後悔はしてないよ。しんどいけどね」

安らかな死に顔から目を背け、薄い胸元へ刃先を当てる。
それから、力を入れて、押し込んだ。

ずぶり、と刃先が福田の柔肌へと突き刺さる。
別段抵抗される様子はない。本当に死んでいるのだろう。

ナイフを捻る。不快な抵抗感が、刃越しに伝わってきた。
これが、肉を裂く感触か。銃で殺すのとは大違いだ。

――銃弾が切れて刃物通しの殺し合いに発展したら、人を殺した経験がある方が圧倒的に有利だね、こりゃ。

わざとらしく口を嘲笑に形作り、吐き出しそうな胃液を飲み込んだ。
そして、もう一捻り加える。
嫌悪するような感触に慣れ、いざと言う時躊躇わぬように。

(……西住ちゃんは、来なかった……)

ナイフを引き抜き、福田の衣服――血に染まっていない、希少部位だ――で拭う。
それから、辺りを見回してみる。
誰かが潜んでいるような様子はない。

とはいえ、だ。
声が聞こえる距離に居た西住みほが、あの西住みほが、カチューシャを見捨てて逃げ出したとは思えない。

(罠であろうが、あれを聴いたらすっ飛んでくるような娘だもんねえ、西住ちゃんは)

だから、わざわざ名指しで呼んだのだけど。

(そうすると、まあ――行くべきは、あっちかな)

みほがこちらに向かっていたという前提で考えると、可能性は二つ。
詳細な場所を伝えてないのでこの近辺をうろついているが会えてないだけか、
こちらに来ている場合ではないような事態に巻き込まれたか、だ。

先程まで派手に銃声を響かせていたのだ、前者の可能性は低いだろう。
みほ一人なら銃声の方に来たであろうし、可能性があるとすれば、同行者がおり、銃声の方に行くことを拒絶したかだ。
怯えて嫌がる相手を無視してこちらに来られないのも、みほらしいと言える。

後者の可能性についてだが、戦闘になっている可能性は低いであろうと予想している。
この近辺で聞こえた銃声で、自分のものでないものは一つ。
銃の弾丸が残ってる内から、殺した手応えを味わうはめになるうえに射程の短いナイフを使う理由も思いつかない。
しかしながら、死亡を知らせるブザーは鳴っていない。

そうなると、現在も戦闘の真っ只中という可能性は低いのではないだろうか。
あるとすれば、銃を向けられて脅されている真っ只中とか、撃たれて放置され死にゆく状態かだ。
そちらの場合、誰相手に、という問題が生じる。
拡声器の声を聞いて集まった者を狩りにきた人物にか? そんな人物が、さっさと殺さず時間を浪費するだろうか?

まあ、どれだけ考えても可能性はゼロではないのだが、敢えてその可能性は捨て置くことにした。
仮にその状況だったとして、今から駆けつけて助けてやるなんて、ほぼ不可能に近いのだから。
ならば、そんな可能性について考えていても仕方がない。

では、追うべき可能性――戦闘以外でありえそうな『こちらに来ている場合ではなくなる事態』とは何か。
それは、武部沙織と五十鈴華と遭遇した可能性だ。
もっとも片方は、すでにただの肉塊になってしまっているけど。

ケイの話によると、二人は病院の中で襲われた。
みほの声が聞こえた方向も、病院の方向からだ。
こちらに向かう途中で、惨撃の現場を目にしたとしてもおかしくない。

(うん、聞き間違いじゃない。やっぱり呼ばれてないね)

死者の一覧を、念の為スマートフォンで確認する。
確かに、五十鈴華の四文字は赤く染まっている。
一方で、武部沙織の四文字は、角谷杏の三文字同様、別段色味に変化がない。

ノンナによって、華は殺された。だが、どうやら、沙織は生き延びているらしい。
どういう流れでそうなったのかは分からないが、そうとなれば、やることは一つ。
まずは華の遺体がある場所に向かう、だ。

(西住ちゃんがそこで足止め喰ってる可能性は大きいし、そうじゃなくても行かない理由はないよね)

みほが頭抜けているだけで、沙織とて大洗女子への貢献度は非常に大きい。
合流できるなら、合流しておきたい存在だ。
華によって逃されており、とうに居なくなっている可能性はあるが、
カチューシャの呼びかけでノンナが中断したケースなら、今でも華の亡骸の傍にいるだろう。
割り切って移動が出来るタイプには思えない。

(……こうなってくると、集合について決めておかなくてよかったね)

もし、みほと沙織の二人が揃っていたら、その時点で、アンチョビのことを切らなければならなくなる。
あの二人は、大洗の面々の中でも、助ける義務がある指折りの存在なのだから。

(……悪いね、ちょび)

チャット機能やGPS機能を使えば、合流自体は容易い。
だがしかし、そんな容易い合流など、実現するとは思っていなかった。

すでに杏は、アンチョビと半ば道を違えた。
そしてそのアンチョビの傍には、ケイがいる。
ケイは明確に杏から距離を置こうとしていた。
その状況で、どちらが打ち込んだか分からないチャットの文字を盲信し、呼ばれた場所に行けるだろうか?

答えはノーだ。
ケイがこちらを始末しにくる可能性がある以上、そんなリスクは冒せない。
ましてやケイは、GPSに映らないのだ。
一方的に居場所を握られた状態で、どこから撃たれるかも分からない待ち合わせ場所にノコノコ行く馬鹿はいまい。

(ちょびのこと、本気で守ってやりたい気持ちはあったんだけどさ)

自分にない強さを持つアンチョビのことを尊敬していたし、好意だって抱いていた。
どこまでも甘いだけの理想論だが、それでも前を見て理想を語るアンチョビの目が好きだった。
汚れていない、コドモのような純粋な瞳。
いつからか杏が失くした、いや、ひょっとすると最初から持っていなかったかもしれない瞳の輝き。
それを持つアンチョビのことを、愛おしく思っていた。

だから、カチューシャに腹が立った。
その瞳から輝きを奪うだけなら、まだいい。
現実は理想だけで生き抜けない。アンチョビだっていつかは現実を知っただろう。

だが、アンチョビの瞳から光を奪ったくせに、正義の味方ヅラをする所は、どうしても許せなかった。

まあ、結局の所、同族嫌悪なのだと思う。
皆のためとして大義名分を掲げ、そのためなら邪魔な者や弱い者を虐げる。
自分もカチューシャもソレであると、杏は思っていた。

それならばいっそ、明確な悪者である方が、よほど可愛げがあろう。
だから杏は、自分のことを正しいなんて思っていない。
必要とあらば正義ヅラを浮かべて相手を煽れるが、正しい道を歩んでいるなんて、思っちゃいない。

(……私はもう、ちょびみたいにはなれないんだよ)

明確な殺意を持って、カチューシャを殺した。
ノンナも手にかけ、福田だって死に追いやった。
客観的に見て、許されざる悪だろう。

それでもいい。
自分は、大洗の会長だ。皆を守る義務があるのだ。
そのためなら、悪だろうとなんだろうとなってやる。
末路はきっと、カチューシャのように、無様で惨めな死であろうけど。

それでも、己の命と守らねばいけない命、どちらを選ぶのかは、決まっていた。

だから、アンチョビの語る理想が叶うなら、それでもいい。
むしろ、そうであってくれた方が、杏だって嬉しかった。

『お前……お前、何やってるんだよォ!』

でも、そんな無謀な夢に殉死出来るほど、無責任な立場ではない。
そんな大それた夢を成し遂げられる力が、自分にあるとも思えない。

『分かってないなら教えとくけどさ、もう、犠牲ゼロなんて無理な所に来ちゃったんだよ』

コドモのままではいられない。
もう、自分は、皆を導くオトナでなくてはいけないのだ。

後悔はない。する資格もない。
この身を引き裂かれても、前に進まなくてはならない。

『でも、何も殺すことないじゃないか!』

必死に訴えてくる、アンチョビの顔が脳裏をよぎる。
駄々をこねるコドモのような、くしゃくしゃの泣き顔。
きっと本当に、心から、殺さなくてもよかったと思っていたのだろう。

(私もそう思うよ、ちょび)

別に、カチューシャを殺す必要なんてなかった。
適当に足でもぶち抜いて、動けなくするだけでもよかった。
むしろ、ノンナへの餌として、人質として使うなら、生かしておいた方がいい。
それは分かっていた。分かっていたのだ。

『……あのさ、じゃあ逆に聞くんだけど』

人なんて殺したくない。それは本心だ。
カチューシャのことだって、憎悪していたわけじゃない。
だけど、きっと――

『生かしておく理由、あった?』

――――きっと私は、カチューシャのことを、殺したかったのだと思う。

『相手はあのブリザードのノンナ。伝え聞く話だけでも、かなり強いってことが分かる』

心を殺し、泥を啜り、オトナになったとしても、心が無敵になるわけじゃない。
むしろ逆だろう。
オトナになればなるほど全能感を失って、自分を無敵と思えなくなり、仕方なく折り合いをつけるのだ。

でも、そうして飲み込んだ負の感情は、どこかに消え去るわけではない。
無理矢理飲み込んだソレは、腹の奥底に溜まっていく。
オトナだから吐き出せずに痩せ我慢しているだけで、飲み込んだだけで消化できるようなものでは決してない。

『倒すなら、不意をつくしかないだろうね。不死身のバケモンってわけではないだろうし、それなら勝ち目がある』

お腹の中に渦巻く不快感を黙って堪え続けるのが、オトナなのかもしれないけれど。
だけどそんなことすら出来ない弱い人間がほとんだ。
爆発させるわけにはいかないが、しかし溜め込み続けられない。
それを吐き出すために、オトナはお酒を飲むのだろう。

別に、アルコールが特効薬などと思っているわけではない。
人によっては、何か別のものがその役目を果たすのだと思う。
重要なのは、“腹に溜め込んだものを吐き出しても許される場”なのかどうかだ。
“遠慮なく吐き出すための大義名分”と言い換えてもいいかもしれない。

酔っているから。無礼講だから。そういう場だから。
そんな「普段は押し込めているものを吐き出していい」という大義名分が、“みっともない姿”を誘うのだろう。

『そうなると、こちらから先手を取ることになるわけだけど、そんなこと、カチューシャが許すと思う?』

あの時の自分もそうだったのだろう。杏はぼんやりそんなことを考える。
カチューシャを処分すべき大義名分が浮かんできた。結果、我慢できなかった。
我慢しなくていい状況になってしまったから、コドモのように、ムカつくヤツに一撃入れてしまった。

さっき起こったのはそれだけのことだ。
後からどれだけロジックで取り繕おうと、その事実は覆せない。
それでもその事実に蓋をして、大義名分の鎧に身を包み、また辛い道へ舞い戻る。
それがオトナになるということだ。責任を背負う立場になるということだ。
一時的にコドモのように暴れても、決してコドモには戻れない。
戻ることなど、許されない。

『大体さ、ちょびだって、カチューシャとは意見が合わなかったじゃん。酷いことだって散々言われてたよね』

それに、何より、自分の中に眠る我儘なコドモの部分は、そんなに綺麗なものではない。
アンチョビのように、世界丸ごと愛せるような、そんなキラキラしたものではない。
自分の手の届く半径数メートルの世界が傷つけられることが許せない、そんな醜いものだ。

そんな醜い感情を、そのまま無責任に喚き散らすわけにはいくまい。
よしんばそうしたとしても、それでは世界は何も変わらない。
世界を変えられるのは、冷静に盤面を見つめ、嫌なことでも飲み込めるオトナだ。
そういうオトナが、果てない我慢の果てに、どうしても譲れないたった一つの我儘を叶える事ができるのだ。

『それ、でも……生きててほしいだろっ……』

残念ながら、アンチョビほどキラキラした夢を、胸には抱くことはできない。
だから、手の届く範囲だけでも守りたいという強い想いのためだけに動く。
そうしなくてはいけないのだ。せめてそのささやかな我儘くらいは叶えるために。

『私はっ……お前にも、カチューシャにも、生きててほしかったんだよ! 友達だろォ!』

――私も、お前には生きていてほしかったよ、ちょび。お前のことは、大事な友達だと思っているから。

『生かす理由!? 殺さない理由!? 友達だからだ! それだけでいいじゃないかよォ!』

――ああ、そうだな。そうなればよかったな。だけどさ、ちょび。ルール上皆で生き残ることが難しいとか、そういう以前の問題なんだよ。

『……お前はいいヤツだよ、ちょび』

――誰も彼もと仲良しこよしをやって、ずっと友達でいられるほど、私達はもう無邪気なコドモじゃないんだよ。

『だけど悪いね、私はその信念に、殉じてやることができない』

杏は、オトナであり続けてきた。
コドモのように感情のまま動いてしまう河嶋桃の保護者のような存在として、
大好きな彼女を守るため、彼女に出来ないことは常にやってあげてきた。

その過程で嫌な想いを沢山したし、嫌な想いも沢山飲み込んだ。
サポートも、謝罪も、裏工作も、彼女のコドモじみた願望を叶えるために、沢山やった。
上っ面だけの仲良しこよしも、打算まみれの協調も、沢山あったんだ。

だからかもしれない。
幼馴染の二人はともかく、他の者に関しては、心の底から友達と呼べる関係とは思えなかった。
勿論戦車道を一緒にやってる仲間達のことは好きだが、それは『廃校回避』という目的に向かった仕事仲間に対するソレだ。
それに、今だって、大洗の皆のことは、『守らなきゃいけない、自分の学校の生徒』として認識している。
アンチョビの言う『友達だから殺したくない』という感情とは、異なっていた。

『優勝目指すわけでもないし、チームを解散するつもりもないんだけどさ』

だから、ああは言ったが、逃げられる覚悟はしていた。
下手に合流しようとして、ケイと二人で襲いかかられても、おかしくないと思っている。
きっと、かつて自分があの役人に抱いたような感情を、アンチョビは自分に抱いているだろう。

仕方がないの五文字を掲げ、目的のために冷酷な判断を下せるオトナ。
心を痛めているかどうかなど、関係ない。
人の心など、見えるわけがないのだから。

『だけどノンナはここで殺す。これは規定事項なんだよね』

不思議と、アンチョビに拒絶される未来を思うと、胸が締め付けられた。
はっきり言って、優先度は、大洗の生徒と比べるまでもない程度なのに。

いや――ひょっとすると、だからかもしれない。

大洗の皆のように、守ってやる必要がない。
桃や柚子のように、幸せにしてやる必要もない。

一切の責任を負わず、我儘も言える等身大のコドモとして接することが出来たからこそ、
アンチョビは、杏にとって、特別だったのかもしれない。

『だから――邪魔になるなら、カチューシャみたいに黙ってもらうことになるよ』

だからといって、方針を変えるわけにはいかない。
何も気負わず接することが出来るアンチョビのことをどう思っていようと、この場での方針には関係ない。
桃や柚子、みほのことは守らなくてはいけないし、守りたいと思っている。
だから、そのためなら、アンチョビにだって銃を向ける。
向けることが、出来てしまった。

『今の私のやり方に文句があるなら、後で聞くよ。終わってからね』

アンチョビにも、銃を向けることが出来た。
今思えば、それが大きな転機だったと思う。
大事な友達にだって銃を向けることが出来るのだ。
ならば、思い入れの薄い人間に、向けられない道理などない。

ましてや怒りを抱いたカチューシャなんかは、容赦なく撃てた。
それは、分かる。心のどこかで、撃てて当然だなと思っている。
例え後から震えたとしても、怒りに任せれば、人は銃を撃てるものだから。

故にノンナのことも、撃てるだろうと確信していた。
仇であるうえに、カチューシャと違いこの殲滅戦において仲間だったわけでもない。
しかも向こうも殺意を向けてくるとなれば、躊躇う理由はないだろう。
もっとも、アンチョビならば、それでも撃ちたくないと駄々をこねて躊躇するかもしれないが。

『こっちとしても、そろそろ襲撃に備えないといけないし』

だから追い払った。銃を向けて心を折って。
殲滅戦に乗ったノンナを前にしても、コドモの我儘を喚いていた可能性が高いから。
その隙を見逃してくれる相手には思えなかったし、アンチョビを守る自信もなかった。

(……守る、ねぇ)

自分の思考を整理するために、移動しながらあれこれと考えていたが、矛盾の数々に苦笑いする。

長々と説明付をしてきたが、こんなものは全て後付けだ。
そんな複雑に考えたうえで行動していたわけではない。
全部終わってから、「こうだったのだろう」と考察するしかできないのだ。

そして、自分の無意識下の願いとか、行動基盤であるだとか、そういったものを推察する。
その結果を踏まえて、一人あれこれ考えられる時間に今後の方針を考える。
ただそれだけだ。こんな思考は、ただの移動の暇つぶしだ。

『それとも、一緒に戦ってくれるのかな?』

思った。アンチョビの語るコドモの理想論のように、皆を守れればよかったんだけど、と。
思った。アンチョビのことを助けてやりたいという気持ちは、本物だったんだけどな、と。
思った。背中を預けて、共に戦いたかったよ、と。

『う、うう……』

だけど、知ってたよ。ちょびは、そんなこと、出来ないだろうって。
知ってたよ。知ってたんだ。ちょびは優しすぎるし、現実に耐えきれず、俯いてしまうって。
だから。

(――――もう、終わりなんだよ、ちょび)

袂を分かつのは寂しくもあり、悲しくもある。
だがしかし、とっくに切り替えを完了した自分がいることに、杏は気付いていた。
終わったことを嘆いていても仕方がない。そう割り切って、悲しさを追いやることが出来る。
こうしてごちゃごちゃと終わったことを考えるのも、捨て去る前にちょっぴり感傷に浸るだけの行為に過ぎない。
大掃除中に懐かしいものをついつい手にとってしまうのと同じ。
手にとってしまうからと言って、捨てることを止めたりはしない。

(……あそこかな)

だから、異臭の立ち込める、ドアの開け放たれた病室の前に来た時には、アンチョビのことは頭から消え去っていた。
『悲しいが、もう今更どうにもならないこと』ではなく、『これからの立ち回り次第で大きく変わってくること』と向き合う。
その切り替えが、オトナとして責任を背負う者には欠かせない。

「……やあ」

具体的な場所は聞いていなかったが、しかし予想より早く“現場”に辿りついた。
遠くからも分かる、血の赤と鼻をつく臭い。
恐れずそこに足を踏み入れれば、会わねばならぬと思っていた少女の影。

「ここにいたんだ、西住ちゃん」

名前を呼ばれ、弾かれたように西住みほがこちらを向く。
それまでは、腕の中で倒れる誰かに、ずっと声をかけていたようだ。

「……ひどいねえ」

この言葉は、偽らざる本心である。
部屋の中の有様も、無残に命を落とした五十鈴華の亡骸も、そして虫の息で抱かれる武部沙織も。
全部が全部、胸糞の悪くなる話だった。

「あ、あの……会長……」
「ねえ西住ちゃん」

かぶせ気味に発言する。
当然、みほからすれば聞きたいことがいっぱいだろう。
とはいえ、今の時点でみほに主導権を握らせるわけにはいかない。

「これでも医者の家系だからさ、重傷者に対する応急手当なら、自信があるんだよねぇ」

嘘である。
こんな見るからに全身にダメージが入り、ぐったりとしている人間など、どうすればいいか分からない。
というか、そもそも別に親族が医者などという事実はない。

「私なら、武部ちゃんを救ってあげられる」

どうすればいいか分からないからこそ、堂々と嘘をつく。
一緒になってオタオタしたって、何の解決にもならないのだ。
ならば、こうして堂々としていればいい。例えそれが嘘であっても。

「でも、タダってわけにはいかない」

にたり、と笑う。
ひと目見て分かった。沙織は、きっと助からない。
にも関わらずにたりと笑みが浮かぶのは、きっと労せずみほをチームに入れられるから。
そして、その消えかけている命を、利用できると思ったからだ。

「私と組んでよ」

勿論、延命できるならそれに越したことはない。
出来れば死なせたくないというのもあるが、何より瀕死の状態で手元に置くだけである程度みほをコントロール出来るようになる。

「こんな場だからさァ、そういう見返りでもなきゃ、力は貸してあげられないんだよねぇ」

それに、知ってるのだ。こうなれば、みほは頷くしかないと。
これまでも散々、こうして利用してきたのだから。






 ☆  ★  ☆  ★  ☆






オトナになるってかなしいことなの――――






 ☆  ★  ☆  ★  ☆






<フェイズ・沙織>


全身が焼けるように痛い。
どれだけのたうち回ろうと、痛みはまるで収まらない。

痛みが限界を何度も飛び越え、その度に体が反射的に異常な動きを行う。
その光景は、水を垂らしたストローの袋の物真似のように見えていたかもしれない。
とにかく無茶苦茶な動きで、痛みのままでのたうち回り続けていた。

床をひっかき爪が剥がれる。
指先に走る激痛で、更にのたうち回る。
吹き出した血は身体を濡らし、一層痛みを強める。

あまりの激痛に涙が溢れる。
まるでガソリンでも流しているかのように、雫の経路に沿って灼熱の痛みが駆け抜けた。

口からも、ごぼごぼと泡や吐瀉物が吐き出される。
暴れる際に舌を噛み切り溢れ出した血が、口元を焼き尽くす。

結果、ものの数分で、意識を手放すこととなった。

だが――幸か不幸か、彼女は意識を取り戻した。
きっかけは、飛び散った五十鈴華の鮮血が、白目を剥いた沙織の眼球に降り注いだこと。
降り注ぐスプリンクラーより遥かに微量な液体であるが、
しかしその飛沫はそれまでとは比べ物にならぬ激痛を呼び起こし、沙織の意識を覚醒させた。
最低最悪でタチの悪い“友情が生んだ奇跡”と言えよう。

再び不細工な踊りが始まり、沙織は激痛の海へと再度投げ出された。

口からは、もはや透明な液体と化した吐瀉物が鮮血と共に撒き散らされる。
下の口からも堪らず尿が溢れ出し、下着から染み出し太腿を濡らしていた。
それら全ての体液が激痛を増す要素となるが、沙織の意思ではどうにもできない。
もたらされた激痛により体のコントロールを失い、更に痛みが増えるように動いてしまう。
反射運動で暴れて再度舌を噛み、歯を砕き、更なる激痛を呼び寄せた。

ケイが脱出した割れた窓と、ノンナが開け放ったままにした扉のおかげで、ガスそのものはかなり薄まっている。
しかしながら、沙織の肌に付着したガスの成分は、こびり付いて離れなかった。
扉が開け放たれているため、床は濡れてこそいるが、水は別に張っていない。
それでも雨の中で悶えた時と変わらぬ激痛が、そこにはあった。

そんな沙織が再度電池の切れた玩具のようになれるまで、十分近い時間を要した。
たった十分の出来事だが、しかしそれは沙織にとって永遠とも思えるような時間である。

喉に詰まった吐瀉物により呼吸は止まり、舌を噛み切り出血も多く、そのまま安らかに死を迎えるだけの身。

だと言うのに、沙織は三度、意識を取り戻すことになる。
西住みほが善意で掛けた冷水が、文字通りの呼び水となって。
再び、タチの悪い“友情が生んだ奇跡”によって、現世へと呼び戻される。

――殺して。

ずっとそう思いながらのたうち回っていた。
それほどまでに、与えられた苦痛は大きかった。
血を流しすぎたし、最早助からないであろう。
ならば、楽にしてほしかった。
なのに。

「み……り…………」

夢を見た。
両親や友達に囲まれた、幸せな夢。
その夢の中には、みほや華と共に、親友の冷泉麻子の姿があった。

――私も、麻子のこと絶対に守るからっ! 絶対に、絶っ対にいい仲間見つけてこようねー!

嗚呼、ごめんね、麻子。
私、約束、守れそうにないや。
私が死んだら、麻子も、張り合いがないって思うかな。
あんまり気に病まないでね。
でもやっぱり、寂しいから、ちょっとは悲しんでよね。
嗚呼、痛い、暴れる気力も残ってないのに、まだ痛いよ。
ねえ、お願い、痛いのはやだから、私を、私を――――

「どうしたの、沙織さん、沙織さん!」

必死に呼びかけてくれる、優しい友達。
信じ切ることが出来なかった、大好きな友達。
約束を破り一人残してしまう、大切な友達。

皆の顔が、次々と浮かんでは消える。
嗚呼、本当に、辛いのに。
もう、元には戻れないし、嫌になっているのに。
痛くて痛くてたまらなくて、早く終わりにしてほしいのに。
なのに、なのに――――


(死にたく……ない……よ……)


ズタズタに避けた唇は、上手く震えてくれない。
言葉を出すことが出来ない。
目と目で通じ合えるだなんて冗談めかして言ったこともあったけど、
失明をして濁った眼ではそれすらできない。

そして、また、銃声が響いた。

怖かった。一人ぼっちが。
寂しかった。一人激痛の中で死んでいくのは。
だからみほに、手を握ってほしかった。
もうどうしようもないくらい激痛を受けているから、手を握られても今更変わらないだろう。

痛みなんて気にならない。
ただ、傍にいるよと、大好きだよと、手を握って言ってほしかった。

「そうだ、エリカさん……」

だが――無情にも気配は遠ざかる。
一時的に様子を見に立っただけなのだが、目が見えぬ沙織にそれは分からない。
只々、みほが離れていってしまうことに、恐怖と絶望を感じるだけだ。

(待って……待ってよ、みぽりん……)

この覚醒は、タチは悪くても“友情が生んだ奇跡”である。
死に瀕した重病患者が家族の声で一瞬だけ意識を取り戻すような、そんな奇跡。
或いは、孤独な寝たきり患者より、沢山の友人がお見舞いに来る寝たきり患者の方が長生きする類の話に出てくる絆が生んだ奇跡。

(おいて、いかないで……)

とにかく、まあ――沙織の命を繋いでいたのは、友人からの想いであり、また友人への想いである。
それが途切れたと感じた時、沙織の意識は、急速に薄れていった。

(ひとりぼっちは……やだ……よぅ……)

死にたくなかった。一人になりたくはなかった。
沢山の笑顔に囲まれて、ヨボヨボになるまで楽しく生きて、沢山の人に見守られて死にたかった。

そんなささやかな願いを持つ普通の女の子である沙織は、誰にもその死を悟られず、ひっそりと、孤独の中で静かに息を引き取った。






 ☆  ★  ☆  ★  ☆






孤独は好きじゃない。孤独は嫌いだよ。孤独にはなりたくない。孤独には――――






 ☆  ★  ☆  ★  ☆






<フェイズ・プラウダ戦鬼>


幸せな夢を見た。
カチューシャを肩に乗せ、クラーラと並び、ゆっくりと帰路に着く夢。
沈む夕日に照らされたカチューシャの顔を見られないのは残念だが、しかしカチューシャを乗せる役目をクラーラに譲るつもりはなかった。
カチューシャが何かを叫び、クラーラが微笑みを浮かべる。
言葉は聞こえていないが、それでもノンナの心は暖かくなっていった。

幸せで、暖かな夢だった。
このまま目覚めなければ、きっと、幸せだっただろう。

「ぁ……」

だが――激痛により、幸せな夢より呼び戻される。
幸せとは程遠い、悪霧のような現実に。

(カ、チューシャ…………)

目が霞む。全身、とりわけ顔面の痛みが酷い。
それでもなお、指先に力を入れる。

(カチュー……シャ……)

意識を手放してもおかしくない痛みの末、再び現世に舞い戻った。
舞い戻ってしまった。
地獄から這い上がってでも守り抜きたかった人は、もうこの世にはいないというのに。

(ああ……ああ……)

よたよたと、立ち上がる。
直後、ぐらりと視界が歪んだ。

べちゃり、と倒れた。
すぐ傍にあった福田の体から流れた血が、派手な飛沫を立てた。

(私は、貴女を……)

重力に逆らえない。
それでも、足首を掴む死神を振り切るように、地面を這う。

(守る……と……誓ったのに……)

指先に力を込める。激痛だ。
だが、動く。

何とか体を地面に這わせる。激痛だ。はみ出た内臓が引きずられる。
だが、動ける。

こうして移動した所で、最早意味などなにもない。失ったものは、戻らない。
だとしても、動かねばならぬ。

「……Я сожалею」

どのくらい時間がかかっただろう。
痛みを無視して這いずったのだ、ひょっとすると、数分のことかもしれない。
意識を無理矢理刈り取られ時が飛んだような感覚もあったので、ひょっとすると、数時間経ったかもしれない。

まあ、いずれにせよ――――ノンナは、カチューシャの元に、ようやく辿り着くことができた。

そっと髪の毛に手を触れる。
あれほど艷やかな髪は、血で汚れべたついていた。

髪を除け、その顔を見る。
強い意思に満ちていた瞳は、すっかり濁り虚空を無為に見つめていた。

その頬に触れる。
嫌なことを全て忘れさせてくれるような柔らかな弾力は失われ、すでに固くなり始めていた。

カチューシャ……」

口から漏れ出した愛しい人の名。
それと一緒に、生きる気力も漏れ出してしまう。
体に力が入らない。
瞳から、涙がこぼれた。

――――そして、激痛。

思わず顔をしかめる。
それから、ようやく、自分の状態に気付いた。

顔面を撃たれた。なのに自分は、こうして生きている。

そっと、自信の頬に触れる。
涙が触れて激痛が走った頬のあたりに、大きな穴が空いていた。
それを認識するより早く、指先がえぐれた肉にあたり、激痛が走った。

思わず悲鳴をあげた。あげたはずだった。
しかし聞こえるのは、間の抜けた空気の音だけ。

「……ッ」

振り向きざまに頬を撃たれた。
右頬から侵入した45ACP弾は舌の上部や歯を破壊しながら口内を貫通。
上顎を破壊し、そのまま左頬から飛び出したようだ。

当然、激痛。
かろうじて繋がっていた舌も、カチューシャの名を呼んだ際に、大きく裂けてしまったらしい。
血が止まらないし、悲鳴をあげようにも舌はぷらぷらと揺れるだけで声にならない。

もう長くはないだろうと、ノンナ自身思っている。
顔面を撃たれ、胸も撃ち抜かれ、薄汚い地面に寝っ転がってしまったのだ。
仮に今病院に担ぎ込まれても、助からないのではないか。

カチューシャ……私は……)

にも関わらず即死をしなかった。
ノンナは、生きている。まだ、生きているのだ。

(まだ……そちらには……行けません……)

使い勝手のいい道具は、あらかた持っていかれたようだ。
だがしかし、かさばるからだろう、いくつか残されてはいる。

まだ、生きているし、出来ることが、ある。

アキに支給されていたFM mle1915軽機関銃ををひっつかむ。
故障が多くまともに使えはしないであろうが、打撃武器に使えるだろうと持ち歩いていた。
この銃がまともに使えないことを知っていたのか、はたまた添付の説明書を読み無能さを理解したのか、
それともあの体格では持ち運びが厳しいと判断したのか――

とにかく、唯一残されていたそれを支えにし、やっとの思いで立ち上がる。
拳銃よりも大きな癖に、杖としてくらいしか役に立たないでくのぼう。
まったく、残されたこいつは、今の自分に相応しい――そんなことを、自嘲気味に考える。
皮肉めいた笑みを浮かべようにも、上顎が破壊されていて浮かべることはできなかった。

(もう少し……待っていてください……)

体は震える。死期が迫る。
それでも立ち上がったのは、大切な人を守るためではない。
大切な人を守る忠臣にはなれず、ただのでくのぼうと化したノンナの胸に、もはや大義なんてものはない。

胸にあるのは、純然たる殺意のみ。

大切な人のために、現実を見据えたオトナとして手を汚すことに、もう意味はない。
だからこれは、コドモの我儘だ。
どうにもならない、やっても仕方がない、誰も望んでない――――そんなまともな意見に中指を突き立てる、コドモの癇癪だ。

だとしても、もう我慢などできそうにない。
死が確約された今、我慢する理由もない。
溢れ出したこの想いはもう止められない。

――――カチューシャを殺したクソ野郎に、死の鉄槌を。

体はふらつく。力など残っていない。
守るべき人も戦うモチベーションもない。
何もない。何もかも失くしてしまった。
だからこそ――己の命も後先も周囲も顧みず、ただ殺意のみで動ける。

(仇の首を手土産に、後から、私も行きますから……)

王を守る戦鬼は、恨みにまみれた悪鬼として、生きる屍の幽鬼として、もう少しだけ、この舞台にしがみつく。






 ☆  ★  ☆  ★  ☆






ネバーランドはどこにもない。
でも私達は、オトナになれない。






【福田 死亡】
【武部沙織 死亡】

【残り 23人】



【D-4/病院】

【☆西住みほ @†ボコさんチーム†】
[状態]勇気+ 顔面の腫れ 奥歯が1本折れている
[装備]パンツァージャケット スタームルガーMkⅠ(装弾数10/10、予備弾丸【20発】) 九五式軍刀 M34白燐弾×2
[道具]基本支給品一式(乾パン入りの缶1つ消費) S&W M36の予備弾丸15発 彫刻刀セット(三角刀抜き)不明支給品(その他)
[思考・状況]
基本行動方針:みんなともう一度、笑いながら戦車道をする
1:沙織さんを助けなきゃ……!
2:か、会長……?!
3:ケイさんを止める。絶対に
4:可能な限り犠牲を出さない方法を考える
[備考]
沙織の死に気がついていません。


【☆角谷杏 @チーム杏ちょび】
[状態]高揚 覚悟完了
[装備]タンクジャケット コルトM1917(ハーフムーンクリップ使用での装弾3:予備弾18) APS (装弾数20/20:予備弾倉×3)
    オンタリオ 1-18 Military Machete Cz75(装弾数:13/15+1発 予備弾倉2) 杏の不明支給品(ナイフ)
[道具]基本支給品一式(杏、カチューシャノンナの所有していたものを背嚢2つに詰めている)
    干し芋(私物として持ち込んだもの、何袋か残ってる) 人事権 M2カービン(装弾数:5/30発 予備弾倉3)
    M7A2催涙手榴弾 7/10 広報権 カチューシャの不明支給品(ナイフ・その他) 福田の不明支給品(ナイフ・その他) 
    近藤妙子の不明支給品(ナイフ) アキの不明支給品(銃・ナイフ・その他)
[思考・状況]
基本行動方針:少しでも多く、少しでも自分の中で優先度の高い人間を生き残らせる
1:西住ちゃんと大きなグループを作る。崩壊するようならなるべく西住ちゃんを助ける。
2:西住ちゃんが受け入れてくれないならかーしまたちを探すか
3:ちょびは……
[備考]
沙織の死による死亡通知音を、ノンナの死による死亡通知だと思っています。

※スプリンクラーと火災報知器は、追撃者の足音等が聞こえなくなると困るため、
 最初の逃走時にケイが病院内のポンプ制御盤を操作し停止してました。

【D-4/病院周辺】

【アンチョビ @チーム杏ちょび】
[状態]大きな不安と劣等感は健在、それを覆い隠すよう勇気と決意を絞り出している
[装備]タンクジャケット+マント ベレッタM950(装弾数:9/9発:予備弾10) 不明支給品-ナイフ
[道具]基本支給品一式 髑髏マークの付いた空瓶
[思考・状況]
基本行動方針:皆で帰って笑ってパスタを食べるぞ。そのためなら、何だってしてやる!!
1:誰も死んでほしくなんてない、何とかみんなで脱出がしたい
2:例え手を汚していたとしても、説得して一緒に手を取り脱出したい(特にアンツィオの面々)
3:杏の考え方は分からない。分からないけど、杏とだって、笑って一緒にパスタを食べたい!
4:まずはこの場をなんとしてでも収める

【ケイ @フリー】
[状態]脇腹に刺し傷(止血済み)疲労小 少し催涙弾を吸ったような…
[装備]パンツァージャケット M1918トレンチナイフ
[道具]基本支給品一式 不明支給品-は S&W M36(装弾数5/5) 医療道具 ファーストエイドセット
[思考・状況]
基本行動方針:生きて帰る
1:正々堂々としていない戦いをする。まずはこの場を切り抜ける。
2:迷いを断ち切る意味も込めて、できれば二人共殺しておきたい。
3:アンジーはやばい。関わらないようにし、勝手にどこかで死んでもらう。
4:西住みほの名で不安定なチームを作りたかったけど……もうそんな場合でもないわね
5:自分は、甘かった。今後は状況に応じて合理的な選択をする。
[備考]
やや離れた位置にS&W M500(装弾数:5/5発 予備弾丸【12発】)が落ちています。

逸見エリカ@†ボコさんチーム†】
[状態]勇気+ 背に火傷 精神疲労(中) 頬から首筋にかけて傷 怒りと悲しみ
[装備] 64式7.62mm小銃(装弾数:12/20発 予備弾倉×1パック【20発】) M1918 Mark1トレンチナイフ(ブーツに鞘ごと装着している)
[道具]基本支給品一式 不明支給品(その他)
[思考・状況]
基本行動方針:……それでもやっぱり、隊長のところへ行きたい
1:??????
2:死にたくない。殺したくない。戦いたくない。
3:みほと共に、市街地に抜ける。当面は彼女の副隊長として振る舞う。
[備考]
血の滲むパンツァージャケット(小梅の死体に巻いてある)は、剥ぎ取るのもなんだか申し訳なかったので、そのまま埋めました。



【D-04/病院周辺(上記3人とは離れた位置)】
ノンナ @フリー】
[状態]瀕死 憤怒 血塗れ 四肢に細かい傷 背中から右胸を銃弾が貫通 右頬から左頬にかけても貫通し、歯も顎も吹き飛び出血多量
[装備]軍服 FM mle1915軽機関銃(装弾数20/20)
[道具]基本支給品一式 
[思考・状況]
基本行動方針:やろうぶっころしてやる
1:角谷杏を地獄に突き落とす

[装備説明]
  • Cz75
 206mm・1000g・.9mm口径・9x19mmパラベラム弾・装弾15+1発。
 1975年、外貨獲得の目的で民間用にチェコスロバキアで発売。
 命中精度の高さや握りやすい銃把、スチール材削り出しの仕上げの高さなどから、
 粗悪な銃の多かった旧東側諸国の銃としては異例の評価を得ており、『世界最高のコンバットセミオートピストル』とも評されている。
 ブローニング型ショートリコイル作動方式にダブルアクションを採用しており、マニュアルセーフティはコックアンドロック方式。
 命中精度は高いが、同時にお値段もやや高い。
 また、噛合わせ部分に異物が侵入した場合に除去されにくく回転不良を招きやすいこと、スライドの指掛け部が狭く操作ミスを起こしやすいことなどが短所として挙げられる。

  • FM mle1915軽機関銃
 470mm(銃身長。全長は1.143mm)・9.07kg・8mm口径・ 8mmx50R弾・装弾20発。
 フランス製の軽機関銃。十分に手入れされた状態でも連続射撃は300発ほどが限度で、汚れていれば100発程度で射撃が行えなくなる圧倒的低スペック。
 なんならマシンガンなのに三発撃つと機能停止することも。バネの弱さから装弾不良が頻発するため、少しでもこれを避けるべく20発まで装填せずに射撃を行っていたとか。
 右側面は残弾数を確認する為に大きく切り開かれていたが、泥や水が入り込んで不良を招く原因となっており、非常に扱いが面倒な一品。弾倉も薄くて壊れやすい。
 また過熱しやすく、可動式銃身の放熱フィンが膨脹し、放熱筒の内面に干渉して作動不良を引き起こすなどの問題もあり、冷却には0分以上掛かる模様。  
 以上のように利便性に難がある上に、命中精度にも問題があり、軽量化による反動が凄まじく、100m以上の距離で正確な射撃を行うことは非常に困難であり、400m以上での射撃は不可能に近いとされた。
 アメリカ陸軍における正式名称は『M1915自動小銃 ショーシャ』だが、様々な蔑称が呼ばれていた。
 マシンガン不足で悩んでたアメリカに供与した所、あまりの無能具合に焦ったアメリカが独自開発を急がせたという輝かしい功績を持つ。
 これを捨てずに持ち歩いてたノンナはすごいよ。



登場順
Back Name Next
049:大人になんてなるもんか 福田 GAME OVER
049:大人になんてなるもんか 角谷杏 -:命と感情のやり取り
049:大人になんてなるもんか アンチョビ -:命と感情のやり取り
049:大人になんてなるもんか 武部沙織 GAME OVER
049:大人になんてなるもんか ケイ -:命と感情のやり取り
049:大人になんてなるもんか ノンナ -:命と感情のやり取り
049:大人になんてなるもんか 逸見エリカ -:命と感情のやり取り
049:大人になんてなるもんか 西住みほ -:命と感情のやり取り

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最終更新:2023年10月05日 19:23