それは獅子の名を持たず、虎の貌を持たず ◆Sick/MS5Jw
「―――それじゃあ、駄目だよ」
ごぉん、ごぉん、と。
重く、低い音の中で、少女は骸を見下ろしている。
ひどく悲しい顔をして、ひどく清々しげな口調で、手には血に濡れた凶器を下げて。
少女は骸に、笑っている。
◆◆◆
ごぉん、ごぉん、と。
重く低い音が、どこかから響いていた。
空調の音だろうか。
それとも他に、何かの機械が動いているのだろうか。
誰もいない工場の中で、律儀にネジやボルトや板金を生産し続けるベルトコンベアを、私は想像する。
ごぉん、ごぉん、と。
それは点検する人もなく、受け皿が山盛りになって溢れても、ただひたすらにネジをばらまき続けるのだ。
まるで、それだけが自分の生まれてきた意味だと、無言で主張するように。
機械油に塗れて、それはただ自らを律しながら、そこに在る。
在って、止め処なくネジを吐き出しながら、ごぉん、ごぉん、と音を立てているのだ。
それはどこか、とても気高いもののように思えた。
「……でね、お兄ぃってばさ、サイアクなんだよ!」
夢想を破るような、甲高い声が私を現実に引戻していた。
もっとも現実の光景も、空想とあまり変わらない。
高い天井と、無闇に広い面積。
明かり取りの小さな窓から漏れる光だけが照らす、薄暗く埃っぽい空間。
港に面した倉庫街の内のひとつ、コンテナのうず高く並べられた倉庫の中に、私たちはいた。
「ね、聞いてる?」
「うん。サイアクなんでしょう?」
目の前でふてくされたような顔をしているのは、木田恵美梨。
当てもなく港をふらついていた私をこの倉庫に引っ張り込んだ女の子だった。
先程から何が楽しいのか、同じようにこの殺し合いに巻き込まれたという兄のことを悪し様に語り続けている。
いや、そうではない。楽しいわけもない。
彼女はただ不安を紛らわそうとしているだけなのだろう。
小刻みに動く膝や、視線や、指先が、内心の緊張を顕著に示していた。
私の頷きに勢いを得たのか、恵美梨の言葉は堰を切ったように続く。
「そうなんだよ! 変態だし。スケベだし。ちはやちゃんのお兄ちゃんとは大違い」
「うちのお兄ちゃんもエッチですよ」
ちはや。
呼ばれたのは、私の名前だ。
香月ちはや。
香月恭介の妹であるという証。
大切で、いとおしい、私の枷。
「だけどね、アタシのお兄ぃはそういうんじゃないの! ホントにバカでヘンタイなの!」
「ふぅん」
適当に相槌を打ちながら、私はずっと考えていた。
あの船でのこと、この殺し合いのこと。
ひどく現実的という言葉から遠い二つのこと。
ごぉん、ごぉん、と音がする。
繰り返し打ち寄せる波のような、パイプから響くエンジン音のような、重く低い音。
薄暗い空間に響く音は、まだバシリスク号に乗っているような、そんな錯覚を引き起こす。
悪夢が続いていることに、違いはなかった。
今にして思えば、志乃さんがあんなことになったのは、前兆だったのかもしれない。
お前たちにはこんな殺し合いが待っているぞ、と。
すぐに始まるぞ、心構えをしておけよ、と。
親切な誰かの、とびきり悪質なお節介。
「いっつもウジウジして頼りにならないし。
こんなときこそ役に立ってもらわなきゃならないのにさ」
あるいは、スタートのピストルが鳴る前の、アナウンス。
オン・ユア・マーク。位置について。
「アタシがこうやって隠れてるんだから、さっさと捜しにこいっつーの!
グズグズしてんだから、いつもいつも!」
立ち上がって、ほんの二歩。
からんと乾いた、軽い音。
うん、これなら私でも、大丈夫。
「でも……でもさ。もしも……もしもだけど、ホントに今すぐ助けに来てくれたら。
ちょっと、カッコいいとか……思っちゃうかもね」
ゲット・レディ。
「あ、ちょっとだけだよ! ほんのちょっと! 所詮お兄ぃだし! キホンカッコ悪いし!」
用意、
「え……?」
どん。
ごり、という音がした。
木田恵美梨の右の足首が、私の振り下ろした
鉄パイプの下で、砕けて潰れる音だった。
手首が痺れるような、衝撃。
ぽかんとした顔が、目の前にあった。
何が起こったのか、分かっていないようだった。
教えてあげなければ、ずっとそのまま固まっていそうな、顔。
あなたの足首、折れましたよ。とっても、痛いですよ。
だけど、そんな心配はなかった。
ぶわりと、恵美梨の額とこめかみとに、汗が浮かんだ。
そうして、まるでそれが合図だったみたいに、顔色が、変わった。
一瞬遅れて、表情が。それから、搾り出すみたいな、声が出た。
「ぁ……ぇ、ぁ、」
感覚のバケツリレー。
その終わりにようやく痛みを認識して、
悲鳴が、上がった。
ねえ、と。
私は祈るように、懇願するように恵美梨を見つめる。
戦って。
意思を見せて。
あなたの大好きなお兄さんのために。
お兄さんを大好きなあなたのために。
戦って。
爪と牙とを、私に見せて。
そうしたら。
逃げないなら。
戦うなら。
一緒にいてあげる。
今のことを謝って、大切な人を一緒に捜そうって。
どっちかの大切な人が見つかって、どうしたって殺し合わなきゃいけないそれまでは、
助け合って、生き抜こうって。
そういう風に、言えるから。
立ち上がってみせてよ。
ほら。
「ぁ……ゃあ……」
だけど。
「ぃや……いやああ……」
やっぱり。
「……たす、たすけて……」
そうやって、泣いて逃げるだけなんだね。
ずるずると、潰れた足を引きずって。
四つん這いのまま、私の方を見ることすらなく。
「たす、け……おニぃ……、セン、パ……」
―――ああ。
ああ、なるほど、と口に出して呟いて、私は手の中の凶器を握り直す。
この子は、駄目だ。
ただ路傍に佇んで、哀れを誘って誰かの恵みを乞うだけの、誰かの足をひっぱるだけの、代物だ。
怯えて。逃げて。醜く。愚かに。
だから。
「ぁ……」
何の躊躇いもなく、私は凶器を振り下ろす。
軽い衝撃と、ほんの少しの血と、崩れる身体と、小さな声。
これじゃ、死なない。
全然、死なない。
だから、何度も何度も、振り下ろす。
手が痺れて、息が上がって、ひと休みして、もう一度。
それを、三回も続ける頃には。
恵美梨はもう、動かなくなっていた。
「……それじゃあ、駄目だよ」
ごぉん、ごぉん、という音の他には何も聞こえなくなった薄暗がりの中で、
すっかり拡がった血溜まりに足を踏み入れて、私は恵美梨に語りかける。
それは、答え合わせみたいなものだった。
間違えた命の、答え合わせ。
「最後に縋るものが、いくつもあるなんて」
気づくのが遅いんだ。
こんな、日常の外側にいて。
「それじゃ、戦えないよ」
戦えない。
たったひとつを、選ばなきゃ。
到底、戦えない。
私たちの敵は、世界の、全部なんだから。
【時間:1日目午後1時ごろ】
【場所:G-7 港湾倉庫】
香月ちはや
【持ち物:鉄パイプ、水・食料一日分】
【状況:健康】
木田恵美梨
【持ち物:不明支給品、水・食料一日分】
【状況:死亡】
最終更新:2011年08月30日 18:27