アンダードッグ◆Ok1sMSayUQ
二木佳奈多は、世間一般からは優等生と呼ばれる存在だった。
品行方正にして剛健質実。さらに良家の子女という立場であり、それに相応しい作法や知識を身につけていた。
学業では常に上位の成績。運動能力も男子にも劣らず、模範の上を行く学生として君臨していた。
しかし、佳奈多は負け犬だった。
良家の子女としての矜持が自身を高めたのではなく、恐怖と暴力が常に佳奈多を動かしていた。
失敗すれば、殴られた。意にそぐわぬ行動を取れば、叩かれた。
身体的暴力に留まらず、精神的な暴力も受けた。
『お家』の名にふさわしくないこと。少しでもその名を汚すと判断されたことは、徹底的に糾弾された。
能無し。クズ。とんだ恥さらし。その程度ならまだいい方で、ひどいときにはそれこそ『お家』の存在を疑うような言葉さえ飛んできた。
そこに愛情はなかった。地位と名誉にしがみつき、体面のみを重んじる人間のエゴだけがあった。
それには、慣れた。いや慣れなければならなかった。そうしなければ潰されていた。恐怖に屈した。
現状に抗うよりも、現状に従う方を選んだ。幼かった佳奈多にとって、殴られることも、認めてくれないことも苦痛に過ぎた。
だから必死になった。自己保身のため、ヤクタタズなんかと呼ばれないために、努力を繰り返した。
『お家』の犬に成り下がったのだった。人間であることを捨て、従順に振る舞う哀れな犬だった。
負け犬はまず手始めに妹を切り捨てた。常に妹と対比して上を行く行動を取り、相対的に妹の価値を下げ続けた。
これ見よがしに妹との差を突きつけたこともあった。少なくとも、自分の方がマシだ。その事実を認識させるためだけに、家族との絆を切り捨てたのだ。
反吐が出るほど自らに虫唾が走った。恐怖から逃れたい一心で、犬は家族にさえ噛み付いた。噛み殺そうとした。
飼い主の『お家』はそんな見世物を見て笑い、満足し、犬を優等種だと認めるようになった。妹は、クズだと言われるようになった。
犬はその事実に安心し、安堵し、嫌気が差した。自らの分の暴力を受け続ける妹を見て、誰かがなじってくれないかと願った。
誰でもいい。このねじれ曲がった現実を否定して欲しかった。家族同士でこんなことをするのは間違っていると言って欲しかった。
その言葉さえあれば、立ち上がる気になったかもしれなかったのに。
けれどもそれは受け身の、自分から行動を起こす気もない、負け犬の言葉だった。自分自身に嫌気が差しながらも、暴力の恐怖に怯えるだけだった。
そしてそんな自分を眺めて、ああ、哀れだな、と自己陶酔さえしていた。最後に、こう思うのだ。
でもあそこで苛められている妹よりはマシよね、と。
最低の、クズだった。
妹はやがて、理不尽な暴力に対する恨みつらみを自分に向けてくるようになった。
やたらと反抗するようになり、食って掛かるようにもなってきた。優等種と認められていた自分には対応は容易いことだった。
適当にあしらい、その度にクズだという事実を押し付けてやった。
妹に、或いは暴力が溢れる世界に、或いは自分自身に。
恨みは深くなった。佳奈多だけではなく、『お家』にも反抗することが多くなった。
これ見よがしに嫌味を言ったり、隠しもせず皮肉を言い連ねたりした。
ただの開き直りに過ぎなかった。どうせ暴力を振るわれるなら、少しでも恨みを発散させたいとでも考えたのだろう。
いかにも劣等種らしい行動、馬鹿げた行いだったが、それは佳奈多の憧れたものだった。
事実を糾弾し、臆面もなく間違っていると言い張り、恐怖を恐怖で支配することを当たり前としてきた世界を壊そうとしている。
たとえそれが開き直り、逃避の末に生じた行動だとしても、佳奈多には、負け犬には想像すらできないことだった。
羨ましかった。同時に、惨めになった。そしてそれでいいと思い始めた。
本来こうされるべきだった。正しい主張をした人間が救われ、人を貶める行動に加担した自分は罰されるべきなのだ。
無論、妹の行動は上手くいくはずもない。あまりに反抗し過ぎたため、妹は別の家に預けられることになった。
事実上の隔離だった。捨てられたのだった。けれども、そこに、優越感を感じることはなかった。
羨ましかった。自由を手にすることのできた妹が。
反抗すらしなかった自分は、良家という監獄の中で、地位と名誉という餌を貰って生き延びるだけの飼い犬だった。
そんな飼い犬を外から見て、もっと罵倒して欲しかった。哀れで、無様で、いい気味だと笑ってもらいたかった。
それが佳奈多の希望となった。反抗し、本当の自由を手に入れた妹は、ありえたかもしれない未来だった。
妹は、正しい存在だった。
姉は、悪い存在だった。
だから、自分は妹を守らなくてはならない。
そこに愛情はなく、思いやりはなく、自己犠牲の精神もなく。
自罰の意識と責任感によってのみ動かされる人生が、始まったのだった。
* * *
「……ふん、いい加減お前との言い争いにも疲れてきた」
「あら、もうへばったの? 根性ないわね」
「無駄な体力を使いたくないだけだ」
そう言うと、直井文人は帽子を目深に被り直し、寮生会室にある、一際大きなリクライニング式の椅子に腰掛ける。
足を組み、ふんぞり返るようにして座る姿は傲慢さよりも意地っ張りな子供という印象を佳奈多に抱かせた。
「僕の命は音無さんのためにある」
「何それ、気持ち悪いくらい信頼してるのね」
「お前の言葉と一緒にするな」
不意に覗かせた鋭い牙に、一瞬気圧される。
立ち入ることも許さない静謐に踏み込んでしまったことを自覚して、佳奈多は黙って壁に体を預けた。
信頼という言葉では飽き足らない、もっと深い関係。それこそただの人間関係を越えた、
魂まで繋がるなにかの存在を感知して、これ以上の挑発は危険だと考えたからだった。
「それに」
続きがあった。
「誰かのために命を尽くすことは、そんなに考えられないことか」
見定める視線と一緒に投げかけられた言葉に、佳奈多はふと親近感のようなものを抱いていた。
理由はどうあれ、この男は自らを犠牲にして、自ら以外のなにかに尽くす人生を選んでいる。
それで自分の魂が慰められ、救済されるのであれば、我が身を犠牲にすることも是とする人間の心がそこにあった。
他者などには分かろうはずもない、刻苦が報われる瞬間。自分だけが感じ得る、願いが実現する瞬間を追い求める。
形こそ違えど、それは佳奈多と同質のものだった。直井はそれを敏感に察知し、見込み通りの女かどうか確かめようとしている。
ならば取り繕ったり、誤魔化している暇はないだろうと考えた佳奈多は静かに首を振った。
何よりも、勘定されるのが気に入らなかったのもあった。
「ならいい。僕は、そういうことだ」
直井はそれで、これから先をどうするつもりか伝えたようだった。
男にありがちな、格好をつけた、感じ取ってもらうことを前提にした言葉だった。
ただ、佳奈多には言いたいことの詳細までが分かってしまっていた。
この男は音無という人物以外に対してまるで拘りがない――つまり、死のうが殺されようがどうでもいいと言っていた。
必要ないと思えば全てを切り捨てられる、冷酷にして合理的な考え方が見て取れる。
この言い様と態度は直井の言っていた『音無』に関係するのかと思ったが、こちらを見るのもやめている直井に踏み込める隙間はなさそうだった。
どだい、知ったところで理解する気も起きないし、するつもりもない。
直井同様、二木佳奈多という人間も他者のために突き動かされる人生を送っているのだから。
だから、他人のことを知ったところで、意味などなかった。
「音無って人、探すの?」
「まあ、様子見だ」
「いつまでもここにいる気はない、と」
「分かっているなら聞くな」
「確認よ」
嫌味ったらしい女だ、と付け加えた直井にそれはこちらもだと返したくなった佳奈多だったが、口論をしている暇はない。
壁から体を離し、直井の腰掛けている椅子に近づきながら、佳奈多はある提案を持ちかけた。
「なら、共闘してみない? 私は妹のために、あなたは音無って人のために。二人で探すの」
「冗談だろう。僕がお前如きと組むとでも思ったのか」
「じゃあ聞くわ。この島で行動するにあたって、必要なものは?」
「……支配力だ」
悪くない答えではあった。そう、同じ人間が集まって争うとして、決定打となるのは支配力だ。
武器の強さ、身体的強さ、精神的強さ、頭脳の良さ。その頂点に立っていれば勝つのは必然である。
ここから先どうするにしろ、支配権を握っていればこれほど有利なこともない。
「でもそれだけじゃ勝てない。一番強いのは数よ」
「数の暴力か」
せせら笑った直井は、しかし馬鹿にしているようでもなさそうだ。
有用なのは認めているが、それが一番に優れた支配力だと認めてはいなさそうだった。
一握りの有用な人間さえいれば、場を制圧するのには足りる、と歪んだ口元が言っていた。
「馴れ合うって意味じゃない。必要なのは、信頼」
また信頼か、と呆れとも非難ともつかぬ溜息が返ってくる。
本当にこの男は他者を見下している。気に入らない。
だがもっと気に入らないのは、そんな男を説得しようとしている我が身の姿だった。
苛立ちが増してくるのを水面下で隠しつつ、佳奈多は直井の言葉を待った。
「説明してみろ」
食いついてきた。
ここまで話しているのだ。今更気にならない、で話を終わらせる気はないのだろう。
ここぞとばかりに、佳奈多は小馬鹿にする口ぶりで話し始める。
「サルでも理解できるように懇切丁寧に説明するから、よく聞くのね」
「……口の減らない女だ」
「どうも。それで、どうして信頼が必要か、って話だけど、考えてみなさい。まず一人だとできることは限られる」
「例えば」
「睡眠が一番大きいわね。いつどこで襲われるか分からない、って状況であなた寝られる?」
「……」
即座に直井は反論の口を開きかけたが、すぐに閉じた。何か思うところがあるのだろうか。
しきりに首輪をさすっては感触を確かめている。
「普通は寝られないね。それで」
「その点、二人いれば交代で見張って寝られる。荷物を入手したときでも負担は半分」
「寝込みをそいつが襲ったら」
「だから、そうさせないために信用が必要なの。味方に加えるほうがメリットは大きいのよ」
「有用性がいまいち理解できないね」
「そう、じゃあ理解させてあげる。そうね、例えば、パーティを組んでいる連中に遭遇したとしましょう。
奴らは襲ってきた。武器は拳銃一丁。弾数はそれほど多くない。対する敵はそれぞれに武器を持っている。さあどう勝つ?」
「何かしら罠に引っ掛けないと勝算は薄いな」
「ではその罠を作るための時間は? 手間は? どうするの?」
「……そういう意味の仲間か」
「やっと分かった? 単独でいるより、味方につけた方が得なのよ」
「ふん、少しは考えているようだな。能無しではなさそうだ」
1対多数を考えるより、2対多数の方が僅かながら勝算は高い。
それだけではない。他者と遭遇するときでも、一人でいるより二人でいる方が警戒心は薄らぐ。
なぜなら、誰かと一緒にいるということは、少なくともその連れに対する敵対心はない、
つまり味方にできるかもしれないという打算を生まれさせるからだ。
警戒心、敵対心はこちら側にとってはマイナスしか生まない。いかにそれを少なくできるかが鍵なのだ。
「ではその味方はどうする。まさか、もっと加えるなんて言うんじゃないだろうな」
「まさか。加えても、後一人が限界ね」
「一人?」
「三すくみ、ってやつよ。互いが互いを監視することで、裏切りを発生させにくくするの」
「はっ、結局のところ裏切りを視野に入れてるんじゃないか」
「リスクを低く抑えることと、リスクを考えないということは違うのよ」
信頼、とは無条件に相手を野放しにすることではない。
互いを知り、自らに有用な部分だけを押さえて使うためのものだ。
馴れ合いにさせないことで、程よい緊張感を生まれさせるという副次作用もある。
「随分と慎重なんだな」
「そうね。私の勝利が確定するまでは、死ねないわ」
直井はやけに突っかかってくるが、一言言及するのみでそれ以上の挑発も追い討ちもしてこなかった。
というより、何かを確かめたがっているようにも思えた。
勘違いであることを承知の上で、佳奈多は尋ねてみることにした。
隠し事があるというのが気に入らないのがひとつ。情報を得たいというのがひとつだった。
まだ右も左も分からない状況では、僅かな知識の差が明暗を分けることもある。
「さっきからやけに私を臆病者呼ばわりしてるけど?」
「いや……一つ聞くぞ。お前、死んだことはあるか」
「は?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまっていたが、深く被った帽子の奥から見える、視線の真剣さはふざけているものではなかった。
確かに、死んでいると言えば死んでいる。二木佳奈多という人間は、負け犬の体を成した死人だ。
恐怖と暴力に従って生きるだけの、醜い屍……だが、そんなことをこの男が知っているはずがない。
動揺は見せず、ありのままを佳奈多は答えることにした。「死んでるわけがないじゃない」と。
「……そうか。まあ、そういうことになる、か」
「何? 何なの?」
「教える義理はないね」
直井はそう言うと、椅子から立ち上がって荷物を手に取った。
この男は、自分の知らない何かを知っている。そして先ほどの質問を通して一先ずの答えを見つけ、納得を得た。
その正体は不明のままだったが、まあいいと佳奈多は疑問を仕舞いこんだ。
今現在重要なのは、この男が組んでくれるかどうか、だ。
呼び止めようとしたところで、見計らったように直井が振り向いていた。
「さっさと行くぞ。ここに引き篭もってる意味はないんだ」
「……命令しないで欲しいわね」
「神の言うことだ。従っていればいい」
取り敢えずは話を飲んでくれたようだったが、高圧的な態度は相変わらずだった。
意地がそうさせているのか、それともこれは下に見られないための演技なのか。
恐らく、両方なのだろうと結論して、佳奈多は直井の後に続いた。
「言っておくが」
寮生会室の扉の取っ手を掴むと同時、直井が声を発していた。
「僕はお前が嫌いだよ。いかにも高慢ちきで、気位の高い奴だ」
「あら奇遇ね。全く同じ感想よ、私も」
「だが、その頭の良さは信用してやる。それに……何やら一物抱え込んでいるようだしな」
その瞬間、ニヤと笑った表情を佳奈多は見逃さなかった。
勘付いている。正確とまではいかなくとも、二木という名前が持つ重圧の影を。
言葉の端々から、態度から、表情から。
佳奈多自身が直井の性格をすぐに理解したように、この男もまた、理解している。
類稀な洞察力にゾクリとしたものを感じながらも、佳奈多は直井を見返した。
「どうだか」
表情は変えなかった。つもりだった。
それでも、無意識に体に力を入れてしまっていた。
暴力の象徴。己が身に持つ、虐待の傷跡を、隠すように。
「安心しろ。僕も、そういうのは分かるさ」
本当か嘘か、どちらともつかぬ声色を残して、直井は外へ出ていた。
「僕は一度、家のせいで死んでるからな」
「え?」
「喋り過ぎた。この話題は気に入らない。行くぞ」
「……」
呟きに含まれた、死んだ、という言葉の中身。
不明瞭なままの言葉に、気味の悪さと居心地の悪さを感じながら、佳奈多も寮生会室の扉をくぐった。
【時間:1日目午後2時ごろ】
【場所:E-6 学校】
二木佳奈多
【持ち物:大辞林、水・食料一日分】
【状況:健康】
直井文人
【持ち物:マスク・ザ・斉藤の仮面、水・食料一日分】
【状況:健康】
最終更新:2011年09月03日 10:36