街、時の流れ、人◆Ok1sMSayUQ
岡崎朋也と立華奏の間には、沈黙の時間が漂っていた。
お互いに何を話すでもなく歩き続けているだけである。
奏には最初からその気がないのか、まるで朋也のことなどいないかのように振る舞っている。
事実、軽く息が切れるくらいの駆け足で奏は進んでいる。
本人は平気そうだったが、ここ数年怠惰な学生生活にどっぷりと漬かってきた朋也にはそういうわけにはいかなかった。
乳酸が溜まり始めた足の筋肉が悲鳴を……とまではいかなくとも、痛みを訴えだしていたし、心臓の鼓動も二倍速にはなっている。
たかが数年、されど数年の重みを感じさせられた瞬間だった。まだ体感として十分少々しか動いていないのに。
当たり前だと納得する一方で、悔しいと感じてしまっている自分も発見して、朋也は深い溜息を吐き出し、渋面を作った。
あんなことにさえならなければ。
それが現在を変えられるわけがないと分かっていながら、朋也は己の過去を思い出さずにはいられなかった。
些細なことから起こったいつものケンカ。仕事仕事で全く自分を省みず、
一度として部活の試合も見に来てくれなかった父親に対する不満の爆発だった。
朋也が部活動を、
バスケットボールを始めたのは、父親に振り向いて欲しいという気持ちがあったからだった。
家は父子家庭で、経済的に苦しいことは分かっていた。だから父親に暇がないことも理屈では分かっていた。
それでも、理屈は理屈でしかない。たった二人の親子の情を、絆を確かめたかった。
少しでもいい、見てさえくれれば。自分だって頑張っていると、認めてさえくれれば。
よくやったな。頑張ってるじゃないか。その一言があれば、家族だとまた思えるようになるだろうから。
練習に没頭した。バスケそのものが楽しかったのもあるし、上手くなれば目立つ。目立てば、父親の目にも留まる。
次第に朋也はエースとまで呼ばれる存在になり、大会でも上々の成績を残し、スポーツ特待生として進路を決めるまでに至った。
だが、父親からは何の反応もなかった。試合に勝ったときも、推薦を取ったときでさえ、仕事で家にはいなかった。
何も見てやしない。あの男は、最初から自分など見てもいない。
いや、こんな奴さえ生まれてこなければとすら思っているのかもしれない。
だってそうだろう。
自分が生まれたことが原因で、母は体調を崩し、世を去ったらしかったのだから。
それはただの想像に過ぎなかった。だが、想像は恐怖へと変貌した。
自分は、父親にすら存在を望まれていないのではないかという恐怖だった。
誰にも必要とされない。それはずっと一人だった朋也には重たすぎる事柄で、不満という形でしか爆発させることができなかった。
ケンカは争いに発展した。エスカレートした挙句、体を強く打ち付けた。
やがてそれは非常に深い傷だと分かり――右腕が上がらなくなって、バスケができなくなった。
ずっと放置した挙句に、父親がくれたものは朋也の三年間を台無しにするというものだった。
慰める言葉もなく、怪我に対する謝罪の言葉もなく、代わりに寄越したのは、他人同然の父親の姿だった。
朋也くん、とまるで友人かなにかのように扱い、同じ家にいてでさえ余所余所しい態度しか示さない。
常にこちらの機嫌を伺い、申し訳なさそうに生活費を渡してくる父親の姿に、朋也は逃げたのだと感想を結んだ。
そうして、全てがバカバカしくなった。
今までをなかったことにしようとしている父親も、必死にやってきた挙句に全てを失った自分も。
頑張ったって、報われない。誰も自分を見てくれない。世の中は……他人に無関心だ。
世の中に見切りをつけ、適当に、流すように、朋也は人生を過ごすようになった。
進路のことで何度呼び出されようが、気にかけることもしなかった。
所詮自分の人生など。
やり直せるはずも、作ってゆけるわけもないと考えている朋也にとって、教師の言葉など煩わしいものでしかなかった。
適当に友達と時間を潰し、駄弁っているだけで良かった。
捨てられた人生。どう使おうが、自分の勝手だ。
そうして高校三年の節目を迎えたこの時期に、今度は殺し合いというわけだった。
「なぁ、おい」
疲労感は、茫洋と現在も漂っている自分の姿と合わせて、やがて行き所のない怒りとなった。
ひたすらに先を急ごうとする奏も苛立ちの対象になっていた。
奏は振り向かない。そのことが、さらに朋也を苛立たせた。
「おい!」
怒りに任せて詰め寄り、肩を掴んで振り向かせる。
……が、力が強すぎた。
奏の体格が小さかったのが災いした。ぐいと強引に引き寄せられる形となってしまい、奏の体が朋也へと倒れこんでくる。
当然そんなことを予想できるはずもなく、傾いた体を受け止めきることができず、奏共々地面を転がる羽目になった。
仰向けになった朋也に対し、覆い被さるようにする奏。
体が密着してしまい、想像外の柔らかさを味わうことになった朋也は一気に毒気を抜かれてしまった。
残ったものは、女の子と密着しているという羞恥心である。
「……」
「……悪い」
それを言うのが精一杯だった。
しかも奏は意識しているのかしてないのか、胸を押し付けている。
幸いにして大きさはそれほどでもなかったため、男の本能が目を覚ますことはなかったものの、
何やらばつの悪くなる気分であるのは変わらなかった。
「ごめんなさい」
「は?」
唐突に繰り出された謝罪に、朋也は裏返った声を出してしまう。
謝られる理由が分からず目をしばたかせていると「気付かなかった」と奏の手が朋也の胸に添えられた。
疲れているということを察してくれたのだろう。……もっとも、今はただ疲れているだけではなかったのだが。
悟られないように無表情を装いつつ、「あ、ああ」と返した。
完全に怒りは消えうせてしまっていた。こうなってしまうとどうして怒っていたのだろうとすら考える始末であり、
朋也は自らの短気さに恥ずかしさを覚える。無論別種の恥ずかしさもそこに含まれている。
「と、とりあえずどいてくれ」
あ、と口を開けた奏は初めて気付いたといった様子だった。
変化は些細なもので、密着していなければ気付かなかったであろうが、それでもこの姿は朋也に新鮮な印象を抱かせた。
ただ無表情で他人のことなど考えもしていないと思っていただけの少女も、実は普通の少女ではないかという印象だった。
変化には乏しいが、何も自分達と変わらない普通の人間――
そんなことを考えている間に、奏は朋也から離れ、手を差し出してくれていた。
「悪い」
「気にしないで」
手を取る。多少気まずい気持ちもあったが、奏は気にしていないようだった。
いかに無表情とはいえ、セクハラまがいの事態になって少々怒っていると思ったのだが……
まあ、もういいことだろうと朋也は思った。気にしたところで仕方がない。
立ち上がり、改めて奏と向き合う。奏は息一つ乱さず、相変わらずの姿だった。
「ああ、その、なんだ」
仕切り直しはしたものの、感情に任せて呼び止めたに過ぎない朋也は会話を続ける要素がなかった。
さりとて、なんでもなかった、などと言うわけにもいかず、答えを探す時間がしばらく続く。
奏はそれを不審がることもなく、朋也が答えを出すまで待ってくれるようだった。
時折、周囲に誰かいないかと視線を動かしているようだったが、この心の広さがありがたかった。
「……お前さ、探してる奴とかいないのか」
だが、結局口から出てきたのはありきたりの言葉だった。
自らを怠惰な人生の中にうずめ、関わりあうことを遠ざけてきた……
いや、生きることを諦めてきた朋也にとって、対話は苦痛であり、糧になるようなものではなかったからだ。
「探す?」
「いや、その……友達とかさ」
すると、奏はうつむき、やがてゆっくりと首を振った。
「分からない」
友達がいないのか、と思った朋也の考えは意外な返答によって打ち消された。
いないではなく、分からない。無表情の奥にある琥珀色の瞳には、少しの困惑が含まれていた。
「分からない?」
「そうとしか、言えない」
それは隠し事をしているというより、どう言葉にしていいのか分かっていないという風だった。
見た目通りの口下手だとするなら、単に言葉にしづらいだけなのか。
それともあの不可思議な能力と彼女の人間関係には何か関わりでもあるのか。
詮索する権利も資格もない朋也には推し量るのが精一杯だった。
ただ、彼女もやはり普通の人間だという感慨が朋也の中にはあった。
そして、どこか孤独な存在だということも。
けれども決定的な違いがあった。
「だからまずAngel Playerを探す。そして、わたしを止める」
「……そうか」
やれることからやる。目的がはっきりと決まっている奏に対して、自分はどうなのだろう。
特にこれといった目的もなく、ただ父親を嫌悪するばかりで、漂うことしかしてこなかった自分は。
今だって、友人である春原陽平や他の知り合いを探すこともなく、漫然とついていっているだけだ。
同じ人間でも、こうも違う。
怠惰に生きている人間と、何かを成し遂げようとする人間。
一体どうして、こうなってしまったのか。
もしあのとき間違っていなければ……こうして斜に構えた生き方をしなくても良かったのだろうか。
いや、と朋也は思った。結局過去のことしか考えず、父親を憎んでいる時点で別の道に進めようはずがない。
所詮はその程度の人間だということだ。いつもの感想を結んで、朋也は溜息を吐き出した。
「あなたは?」
「あ?」
「あなたは、わたしについて来てていいの?」
「それは……」
友達を探さないのは、自分の怠惰さだけではない。
現実と直面するのも怖かったし、それで何になるという諦めが潜んでいたからだ。
「いいだろ、そんなの。俺の勝手だ」
「そう」
そんな自分に苛立った挙句、ぶつける形で言葉を返した朋也に、奏は涼しい表情で応じた。
何か見抜かれてしまっているような気分になり、ばつの悪い表情を浮かべるしかなかった。
本当に、自分は何をしているのか。
考えることを遠ざけてきた頭には、今の状況は苦痛に過ぎた。
「不思議な人」
「は?」
「わたしと一緒に来たいなんて」
そんなんじゃない。言おうとした朋也は、しかし理由を言い出せる自信もなく、無言を返事にするしかなかった。
だが奏はそんな心境を分かっているのかいないのか、僅かな微笑を寄越し、くるりと翻った。
もう先に進むつもりのようだった。長髪を靡かせ、ふわりと揺らすその姿は、天使を朋也に想起させる。
天使。ふと思いついたその単語は、ひどく彼女に似合っているように思えた。
人と同じ姿をしながら、どこか人と隔離された存在――
ぐーっ。
「……」
「……」
奏の足が止まる。朋也の足も、止まった。
明らかに自分のものではなかった。音は、奏から聞こえていた。
「……」
「腹、減ったのか」
「……」
こくり。
ややあって頷いた奏の姿を見た瞬間、先程までのイメージは消失した。
もしかすると、どこか先を急いでいたのも空腹が絡んでいたからではないだろうか。
そう考えると置き去りにされていたような気分が霧散し、代わって笑いが飛び出す始末だった。
とんだ道化だった。勝手に奏に苛立ち、勝手に浮き沈みして……
巻き起こった笑いに、奏が眉間に皺を寄せて振り向いた。
違う。自分に対する失笑なのだが、やはり説明できるものではなく、すまんと言うしかなかった。
バカバカしい。こうまで冷静にいられないバカさ加減に笑うしかなかったのだ。
頭を冷やす時間が、必要だった。
「メシ、食いに行こうぜ」
* * *
そうして、とりあえず食料を調達することにしたのだった。
一応持ち物の中には支給品としてパンが含まれていたのだが、見た目にも非常食といった質素なパンだったし、
美味しそうにも感じられなかったので別の場所でもう少しマシなものを食べよう、という結論に達していた。
どだい、奏の探し物は全く手がかりがない状態だった。無理に捜索を続けるよりも一度仕切り直したほうが良い。
腹が減っては戦はできぬ。
とはいっても、流石に材料から揃えて調理を行うほどの手間暇をかける時間はなかったのでインスタント食品を調達することにする。
奏はどうか分からないが、朋也は料理ができなかったからだ。
そのことを奏に尋ねてみると、ふるふると首を振られた。どうやら彼女もできないらしい。
女性は料理ができるもの、とどこか無条件に考えていた朋也は珍しく感じたが、すぐに偏見だと思い直す。
料理ができない人間なんて無数にいる。自分が狭い見識の中で生きてきただけだった。
ここに来てからというもの、自らの小ささを思い知らされるばかりだと内心嘆息しながら、
手近にあったコンビニを見つけて入ることにしたのだった。
自動ドアが開いたことから、電気は通っているらしかった。店内には明かりが点いていなかったが、スイッチを押せば点くだろう。
だが昼とはいえ、明かりを点ければ発見されやすくなる恐れがある。
いの一番に襲われた経験がある朋也は他者との接触に慎重になっている気持ちがあったし、奏もその気はないようだった。
というより、空腹感が先立っているのかもしれない。傍目にも分かる早い足取りで食品棚へと突き進んでゆく。
無表情・無口なくせに行動は分かりやすいのはことみと比べてありがたいことかもしれない。
ことみは行動も不可解な部分があったからだ。
失礼なことを考えているなと思いながら、朋也も奏の後に続く。
朋也は特に空腹というわけではなかったのだが、小腹は空いている状況だった。
軽く菓子パンか惣菜パンでもつまもうかとして、奏がとある棚の前に体を止めていることに気付いた。
前進しようとしている体勢のまま、顔だけが棚に釘付けになっている。
通り過ぎるつもりが予想外のものを発見して硬直していると表現するのが相応しかった。
一体何があるのかと気になった朋也は、一旦目当ての棚に行くのをやめにして奏の横から覗き込む。
「……麻婆豆腐?」
奏の視線の先にあったものは、どこにでもありそうなインスタント麻婆豆腐である。
レンジで三分。簡単お手軽! の文字がでかでかと躍っている。ご飯に盛り付ければさぞ美味しいだろう。
再び奏の顔を窺う。相変わらず目は釘付けである。
全く揺らいでいないその様は、ショーケースの中にある玩具を見る子供の目だった。
「食べたいのか」
こくり。
即答だった。
「食べればいいじゃん」
「……分からない」
「なにが」
「作り方」
「はぁ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう朋也。
それもそうだった。朋也でさえインスタント食品くらいの作り方は知っている。
目の前の立華奏なる少女はそれさえ分からないのだという。
どこのお嬢様だ。ある意味ことみ以上の逸材だと寧ろ感心した気持ちすら覚えた。
「読めば分かるって」
「そうなの?」
「そうなんだよ」
パッケージを取り、裏を奏に見せる。
おぉ、と物珍しそうな顔と驚きを滲ませた表情になっていた。
こいつは食べ物を調理された形でしか見てないのか。どんなお嬢様だ。深遠の令嬢か。
舐めるようにパッケージを見回す奏の瞳は輝いている。
まるで子供だ。こうなるとあの余所余所しさもただの人見知りのようにしか思えなくなり、
朋也は奏という少女をどう思ったらいいものか判断に迷った。
本当に、箱庭の世界で暮らしていたとしか思えない。
こんな人間と出会った試しもなければ人付き合いだって疎かにしてきた我が身にとって、これは重大な問題だった。
頭を悩ませていると、くいくいと袖を引っ張られた。
「食べていい?」
「食べりゃいいんじゃないか……」
何故許可を求めるのか。好きにすればいいだろうに。
たたた、とコンビニのレジの奥にある調理場……の、レンジ目掛けて突進する奏の姿を眺めながら、
朋也は何度目かも分からぬ溜息を吐き出した。
いそいそとパッケージから本体を取り出し、うきうきとした仕草……かどうかは分からないが、体を揺らしながらレンジに突っ込む奏。
どうやらレンジの使い方まで分からない、なんて事態にはなりそうにはない。
妙なもんだな、と朋也はふと違和感のようなものを抱いた。
インスタント食品でさえ作れないくせにレンジは手馴れた手つきで扱っていたり、コンビニの内部構造を把握していたりする。
まるで特定の知識だけが欠け落ちているような、そんな感覚がある。
「……まさかな」
箱庭の世界の住人、という言葉が現実味を帯びてきたような気がして、振り払うために声を出した。
しかもその内容は、不思議な能力を使って敵と戦い続ける戦士などといったものだから飛躍にも程がある。
世間知らずのお嬢様の方がまだ納得がいく。だから朋也は、奏はお嬢様なのだと思うことにした。
それよりこちらも食料を確保しておこうと思考を切り替え、朋也はパン棚へと向かう。
ちらと見てみれば、レンジの中身をじーっと眺めている奏の姿がある。
「好きなのか」
「……」
「麻婆豆腐」
こくり。
らしかった。
「そうみたい」
「みたい?」
「教えてくれた人がいた」
「何だよそりゃ」
「わたし、それまで麻婆豆腐が好きだなんて、気付かなかった」
「はぁ」
「鈍いのかも」
「そりゃあな……」
「今まで、やるべきことしかやってこなかったから……」
最後の言葉は、意外な重みを伴って朋也の胸に落ちた。
今まで。だとするなら過去の彼女は、一辺倒な思考しか持ち得ない、偏屈な人間だったのだろうか。
何かに身を捧げるあまり、周り全てが見えなくなってしまっていた人間だったのだろうか。
何かに身を捧げる。浮かんだ言葉は、そのまま朋也へと返ってきた。
そうして、未来も家族も失った。全てが無駄になったという今だけを残して……
「今はどうなんだよ」
自分でもわけのわからない質問だと思いながらも、内奥から湧き出る不可思議な熱情を抑えきれず、
ありのままに言葉を続けてしまっていた。
「今は、もっと他に好きなものがあるのか」
「……多分」
少し俯き加減に、躊躇うように。しかしはっきりと、奏は言葉にしていた。
「まだ本当にそうなのか、分からないけど。でも、麻婆豆腐は好き。とっても。これだけは確か」
「だろうな」
それは見ていれば分かる。
だから、答えはもう出ているも同然だった。
今は変えられる。少なくとも、彼女は変えている。
だったら、自分の今は? 自問してみて、答えはすぐには出なかった。
出るわけがなかった。諦めに浸ってきたそれまでの自分がいたからだ。
ただ、と朋也は思う。この少女と一緒にいれば、多少なりとも答えは見えてくるのではないだろうか。
茫漠と漂っているよりは、きっと。
ちんっ、と甲高い音が鳴り、麻婆豆腐の完成を奏に伝えた。
聞くやいなやレンジから麻婆豆腐のパックを取り出す。が、熱かったのか、掴んだ瞬間ぶんぶんと手を振っていた。
なんとも微笑ましい光景だと思いながら、朋也も焼きそばパンを一つ手に取る。
そういえばこれは無銭飲食になるのだろうかとふと思った朋也だったが、緊急事態ゆえ見逃してくれるだろう。たぶん。
最後の晩餐にだけはならないようにしよう、と念じてから奏の方に向かうと、
麻婆豆腐のパックをつまんだまま立ち往生する奏がいた。
「何やってんだ」
「……盛り付けられない」
器がないとのことだった。
ちょいちょい、とおでん用の器を示してやる。
奏は頷いた。
「……」
そして、朋也をじっと見ていた。
「何だよっ」
「手」
「塞がってるから俺に取れと」
こくり。
お前どんだけ麻婆豆腐手放したくないんだと突っ込みたくなった朋也だったが、
純真無垢な表情かつ期待の視線を含ませた奏に見られては抵抗という選択肢は即座に消え失せた。
「ったく……」
仕方ないな、と付け加えてから、おでん用の器を取り、台の上に置いてやる。
待ちかねていたようにパックが破られ、ほかほかとした湯気を上げながら麻婆豆腐が注がれてゆく。
肉と葱と豆腐が程よく混ざったとろりとした液体は美味しそうだ。
特有の香辛料の匂いもそれに拍車をかけている。
「米はいいのか」
こくり。
既にプラスチックのスプーンを用意している奏。
もはや準備万端といった様子である。
「……」
「……」
そのまま微動だにしない。
「いや食べていいから」
「そう?」
「そうなんだよ」
「いただきます」
「いただきます」
何とも妙な間だったと思いながら、それぞれの食事が始まった。
朋也の焼きそばパンは、流石にコンビニの量産品だからか味としては可もなく不可もなく、といったところで、
味付けは購買で買うものよりも濃いものだった。
一方の奏はというと、静かに、しかしとても美味しそうに麻婆豆腐を頬張っている。
スプーンが口に運ばれるたびに無表情が少しだけ綻んでいる。市販品でこれだけ幸せになれるのは余程のマーボーマニアなのか、
それとも貧相な食生活でも送ってきたのか。
多分前者だろうと思いながら、朋也は幸せそうな奏の表情を眺めていた。
「どうしたの」
じっと見られていることに気付いたらしい奏が尋ねてくる。
「いや、随分美味しそうに食べるなと思って」
「そう?」
「そうなんだよ」
「でも、美味しい」
「だろうよ」
「あなたはそうじゃない?」
「なんで」
「あんまり美味しくなさそうな顔」
確かにその通りだったが、それを奏に見抜かれると思わなかった朋也は意外な気分になった。
多分、困惑した表情でも浮かべていたのだろう。奏は反応しない朋也に首を傾げ、ややあってからスプーンを差し出した。
スプーンの上には、麻婆豆腐が一口分。
「美味しい」
くれる、ということだった。
不憫にでも思ったのか。なんとなく抵抗感を覚えた朋也は好きなものでも持ってこようかと考えた。
が、思いつかない。自分の好物が何であるのか。
荒んだ生活を送ってきた朋也には、好き嫌いを持てるだけの時間さえなかった。
「美味しい」
ずい、と差し出される。猛烈なプッシュである。
別に麻婆豆腐が嫌いなわけではない、が、施しを与えられているようで抵抗感があった。
「間接キスになるぞ」
「?」
「いや首を傾げられても」
「いらない?」
「……いただきます」
諦めるしかないと思った朋也は、素直に従うことにした。
ぱくりと一口。レンジによって十分暖められていた麻婆豆腐は微妙な甘辛さと相まって舌を潤す。
市販品侮りがたし。焼きそばパンよりはまともな味だった。
「美味しい?」
「……おう」
だから、つい同意してしまっていた。
「うん」
同意が得られたことが嬉しかったのか、奏が口元を緩ませていた。
それは、今まで朋也が見た中では一番の笑顔のように思われて、ドキリとさせられてしまう。
こんな表情もできるのかと驚きを感じる一方で、可愛いと受け止めている自分がいることにも気付いた朋也は、慌てて目を逸らした。
朋也の内心の照れに気付いているのか、いないのか、再び麻婆豆腐を咀嚼する奏は、やっぱり幸せそうだった。
【時間:1日目午後14時30分ごろ】
【場所:F-08】
岡崎朋也
【持ち物:
日本刀、水・食料一日分】
【状況:負傷(切り傷・治療済)】
立華奏
【持ち物:不明、水・食料一日分】
【状況:幸せ……】
最終更新:2011年09月03日 11:26