――――アンティーカの白瀬咲耶が行方不明になった。


 そのニュースをスマホで見た途端、私……田中摩美々は心がズキンと痛むのを感じました。


 白瀬咲耶……間違いありません。
 王子さまのようにカッコよくて、いつも周りへの気遣いを忘れないアンティーカのアイドルです。その真面目さは一級品で、どんな言葉でも好意的にとらえちゃう優しい人です。
 プロデューサーも悪いことをした私を叱ってくれる優しい人ですが、咲耶も……いえ、アンティーカにいるみんなは本当に優しいです。いつもイタズラばかりで、悪い子な私を暖かく受け入れてくれますし、私もアンティーカにいるのは楽しいですよ。
 もちろん、何度怒られようともイタズラはやめませんけどね。イタズラでみんなが慌てる光景だって、私はとっても好きですし。


 でも、こんな不謹慎なニュースを聞いて、喜べるわけがありません。
 いくら私でも、こんな酷いことは論外です。公共のニュースで流れているので、嘘の可能性は低いですし、仮に嘘だったとしても私は本気で怒ります。
 そして、真夜中に流れてきた通知を思い出しました。私とアサシンさんを含めて、この聖杯戦争に生き残った主従はたった二十三組で、その裏では命を奪われた人が大勢いることになります。
 殺された主従の中に、咲耶も含まれている……そんな可能性が浮かびましたが、私には受け入れることができません。

「咲耶……何で、出てくれないのー? 私に、イタズラをする気なのー?」

 私はスマホで咲耶に連絡しますが、繋がりません。
 この世界にいる彼女が本物かどうかなんて、関係ないです。

「咲耶が、イタズラなんて……似合わないよー? イタズラはね、私の専売特許だよー?  咲耶が……私にイタズラするなんて、許さないよ? 全然面白くないしー……こんな酷いイタズラをするなんて、後で咲耶に仕返ししちゃうからねー?」

 呼び出し音が聞こえるだけで、私が望む声には繋がりません。

「……咲耶、早く出てよー? 私のイタズラに、怒っているなら……謝るよー? その後に……また、イタズラしちゃうけど、心から謝るよー?
 だから……早く、出なきゃ……ダメだよー?」

 咲耶が出てくれないせいで、私の声も震えます。
 スマホに合わせて、私の全身もプルプル振動しちゃいます。
 時間と共に、私の不安がどんどん煽られます。

「咲耶……咲耶……咲耶ー……早く、出てよー? これは、嘘じゃないんだよー?」

 私は呼びかけますが、やっぱり咲耶の声が聴けません。
 耐えられなくなった私は、通話を切ります。そして、インターネットを開いてみると……

「……ッ! どこも、咲耶がいなくなったニュースで……溢れてる……ッ!」

 SNSやたくさんのニュースサイトでは、咲耶が行方不明になったニュースがたくさん流れます。その全てで、咲耶のことを派手に取り上げていました。

 ――誘拐か? 失踪か? 白瀬咲耶の安否はいかに!?
 ――白瀬咲耶になにが!? 人気アイドルの抱える秘密を検証!
 ――まさか、咲耶は自殺したの!?
 ――咲耶……もしかして、アンティーカにいるのが嫌だったのかな?
「……なーんで、みんなは勝手なことばかり言うのですかー?」

 咲耶がいなくなったことを面白おかしく騒ぐメディアと、それに対して群がる無責任なコメントに……私の腸が煮えくり返りました。
 いつもの私を棚に上げていることは承知ですが、許せないものは許せません。

 ――咲耶がいなくなるなんてショック! 早く無事を聞きたい!
 ――咲耶さんのいないアンティーカなんて考えられない! 無事を祈ります!

 もちろん、咲耶を心配するコメントも見かけますが、私の心はちっとも晴れませんよ。
 ファンのみんなは咲耶の無事を祈っているでしょうけど、同時に『最悪の可能性』だって考えています。だって、私がそうですから。


 お仕事の休憩中、何気なくインターネットを覗いたことを、ここまで後悔するなんて……思いませんでした。
 咲耶が行方不明になったと聞かされては、落ち着けるわけがありませんし。
 なんとなく、一人になっていましたけど……正解だったかもしれません。だって、いつもの私からは想像できないくらい、今の私は酷い顔になっていますから。

「……マスター、失礼します」

 そして、やっぱりアサシンさんが声をかけてくれます。
 顔を上げると、その整った面持ちが深刻な色で染まっていました。酷いニュースの直後なので、その意味も何となく察しちゃいます。

「あ、アサシンさんー……もしかして、これってイタズラ……ですよねー? 咲耶が、行方不明になるなんてー……」

 必死に、私はアサシンさんに尋ねます。
 この時まではまだ考えていました。もしかしたら、みんなが手の込んだイタズラをして、私をビックリさせるつもりだと。『イタズラ大成功!』な立て札と一緒に、咲耶が顔を見せてくれるって……希望を抱いていました。
 でも、アサシンさんの表情からは、そんな雰囲気は微塵も感じられません。

「いいえ、紛れもない事実です。あなたの友達の白瀬咲耶さんは……」
「……そんなはず、ありませんっ!」

 アサシンさんの言葉を遮るように、私は叫びました。
 私だって、らしくない声を出していることはわかっています。でも、アサシンさんの言葉を聞きたくありませんでした。

「……咲耶は、私とは違って、とっても真面目な子なんですよー? 真面目すぎてー なんでも一人で抱えちゃったり、本当は寂しがりやなことを隠しちゃうことが……難点ですけどー……
 それでも、本当に……素敵な子なんですー だから、行方をくらます……なんて……」

 私の僅かな希望すらも否定させないため、必死に言葉をつなぎます。
 だけど、アサシンさんの顔は全く変わりません。それが、私に対する答えでしょう。

「アサシンさん……今すぐ、咲耶を見つけてくださいー! これはマスターとして、私からの、命令ですー!」

 ただ、こんなニュースを認めたくなくて、私は必死に叫びました。
 だって、アンティーカは宇宙一ですから。ファンのみんなから拍手喝采を浴び続けましたし、ライブだって何度もアンコールを受けましたし。

 ーー……取り返しがつかなくなってからじゃ遅いんだよ

 いつかの感謝祭で、隠し事をしていた咲耶に向かって、三峰は悲しそうな顔で言いました。
 些細な誤解が積み重なって、私たちアンティーカの心がすれ違おうとした頃の話です。

 ーーみんなが……
 ーーアンティーカに戻ってこなかったとしても……

 ーー喜んで応援しなくちゃって……

 アンティーカのみんながバラバラになることを、咲耶は恐れていました。
 もちろん、それはただの勘違いで、私たち5人はまたすぐに絆を取り戻しています。
 感謝祭も大成功で、アンティーカがMVPとなりました。これからも、何があろうとも……私たちはいつつでひとつですから、お互いを信じて運命を切り開き続けると、誰もが信じていました。

「……マスター、その命令は不可能です。何故なら、咲耶さんはもう……」
「弱音なんて、聞きたくありませんーっ! アサシンさんは、私の自慢のサーヴァントですー! だって、とても頭がいいんですからー……! 早く、咲耶を……!」
「お褒め頂き、光栄です。ですが、マスターには知って頂きたいのです。咲耶さんの身に起きたことと、マスターに遺したであろうメッセージを」

 でも、アサシンさんの淡々とした声色に、私の言葉は止まります。
 静かに、それでいて悠然とした姿勢で、綺麗な瞳は緋色に輝いていました。
 怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えて……私は圧倒されます。

「……咲耶の、メッセージ……?」
「マスターが仕事をしている間、私はこの聖杯戦争のシステムや、この街で起きた事件について調査し……いくつかの情報を得ました。
 その全てを伝える場合、時間を頂くことになりますが……よろしいでしょうか?」

 アサシンさんがわざわざ念押ししてくる理由はわかります。
 きっと、私にとって望まない話をすることになり、聞いてしまえば絶対に傷付くと考えているのでしょう。
 でも、今の私は断りません。ただ、咲耶のことが知りたいですし、このまま何も聞けなかったらモヤモヤするだけです。

「……お願いしますー アサシンさん……」
「では、まずは一つ目から。
 この街に出没し、凶行を繰り返す異常な子供たちの集団……私は、そのメンバーと思われる少年と接触し、情報をいくつか得ました。
 彼ら、または彼女ら……でしょうか? 周囲の環境や人間関係に恵まれず、心が荒み、その鬱憤を晴らすために暴走し、街に混乱を招いているようです」

 アサシンさんの口から出てきたのは、物騒な話題でした。
 この聖杯戦争を煽ってくる人がいることを、アサシンさんは教えてくれました。例えば、顔にガムテープを貼って、好き勝手に暴れまわる子供たちの集団がいるみたいです。

「……よく、そんな人と話をしようと思いましたねー」
「これが私の仕事ですから。その程度のことで怯むようでしたら、マスターを守ることはできません。
 話を戻しましょう。彼らは圧倒的な人数で暴れていますが……マフィアのように統率されており、圧倒的な資金力や武器を有しています。だからこそ、この街の警察が包囲網を張ろうとも、彼らはそれを容易く打ち破れるでしょう」

 私は息を呑みます。
 話には聞きましたが、まさかそこまで危ない集団とは思いませんでした。

「……無敵の人じゃないですかー」
「マスターの時代では、そのような呼び名があるのですね。確かに、周囲を顧みずに暴走する様は、無敵にふさわしいでしょうか。
 そんな彼らを無敵にしている武器が、もう一つあります」

 そう言いながら、アサシンさんはポケットの中から包み紙を取り出します。
 細長くて、四角形……まるで、ガムみたいです。

「……それ、ガムじゃないですか?」
「マスターには、そう見えるでしょう。しかし、これは麻薬……イギリスと清王朝の間で、戦争の引き金にもなったアヘンと同等か、更に高い危険性を持つ種類になります」

 その瞬間、私の背筋が凍りつきました。
 麻薬……今の時代なら子供でも勉強する程に危険なもので、一度でも使ったら人生そのものが台無しになります。
 あと、アヘン戦争のことでしたら、私も学校で勉強しましたよ。確か、お茶の値段を不当に高くし続けた中国(当時は清王朝の時代でしたっけ?)に怒ったイギリスが、アヘンという麻薬を中国に輸出したせいで起きた戦争ですよね。
 アヘンの中毒性はとても高く、中国のあちこちで広まったせいで社会がメチャクチャになりました。国のお金(銀貨)もどんどんイギリスに取られて、焦った中国は実力行使でイギリス人を取り締まったせいで、反発したイギリスと戦争になったみたいです。
 でも、国としてのパワーはイギリスの方がずっと上で、中国は降伏するしかなくなりました。これが、アヘン戦争ですね。

「……この麻薬の詳しいメカニズムや、そして一体どういうルートで製造されているのかは調査中です。ですが、接触した少年の言動から察するに、人間の身体能力を飛躍的に向上させると考えられます。
 服用した少年少女は、未成年にも関わらず……屈強なマフィアを相手にできたようですから。もちろん、副作用や禁断症状も計り知れないですし、例の少年も本来なら保護が必要でしょうが……流石に、そこまでの余裕は今の私たちにはありません」
「……もしかして、咲耶は……そいつらに、襲われたんですかー?」
「可能性は高いです。しかも、現状では目撃例が極めて少ないことを考えると、証拠を残さない程に統率力に優れて、かつ大規模な拠点を持っているはずです。彼らが集団で動くのであれば、相応の建物も必要としますから。
 そして、白瀬咲耶さんが襲撃された以上、次はマスターも狙われるでしょう」
「……………………」

 そう語るアサシンさんからは、イヤなオーラが出ていました。まるで、小説に出てくる悪の大ボスで……”犯罪卿”と呼ぶにふさわしい邪悪さを感じます。
 私が狙われる動機自体はわかりますよ。私たちはアンティーカとして有名になり、TVや雑誌はもちろん、ツイスタでも話題になっています。咲耶が襲われたら、次は私がターゲットにされてもおかしくありません。
 でも、実際に受け入れることはできませんし、イヤな鼓動を鳴らしています。

「…………それで、咲耶は……咲耶は、どうなったの……ですかー?」

 そして、一番気がかりなことをアサシンさんに聞きました。
 その質問は無意味で、答えだってわかり切っています。アサシンさんの表情だって、冷たくて暗いまま。
 ですが、藁のような希望にだって、私は縋りたいです。きっと、大丈夫だって。

「咲耶さんは、この聖杯戦争にて命を落としました。遺体も、私たちの手に届くことはないでしょう」

 そう、アサシンさんが口にした瞬間、私の心がバラバラになりそうでした。
 足が震えて、視界が揺らぎます。胸がざわめいて、呼吸だって安定しません。
 予想はしていましたが、やっぱり聞きたくありませんでした。だって、私にとって大切な人と再会する希望は……永遠に失われましたから。

 すると、私の頭の中で、咲耶との思い出が一気に爆発します。
 私のイタズラに笑ってくれる咲耶。
 とある冬の日、雪に滑って転んじゃった私のことを秘密にしてくれる咲耶。
 私たちアンティーカがいなくなるかもしれない可能性に怯えるけど、悲しみと恐怖を隠してくれた咲耶。
 アンティーカ5人で揃って、たくさんのライブを成功させて心から喜んだ咲耶。
 そのすべてが、走馬灯のように私の中で湧きあがりました。

 ずっと続くと思っていた5人の物語は、こんなにも唐突に終わりを迎えます。
 もう、アンティーカは5人ではいられません。5人で回すことができた運命の鍵も、5人で開くことができた扉も……すべてがぶち壊されました。
 その瞬間、私の心に刻まれたヒビの中から、どす黒い煙がモクモクと昇ってくるのを感じます。

「…………どこに、いるのですか?」

 気が付くと、私はアサシンさんにそう聞いていました。
 私の口から出てきたとは思えないほど、鋭くて冷たい声です。でも、私は納得していますよ?
 だって、今の私は……心の底から怒っていますから。

「咲耶を、殺した奴は……どこにいるのですか?」
「残念ですが、それにはお答えできません。隠しているのではなく、彼らの動向が予測できない以上、現時点では明確な居場所を特定できないのです。
 私が接触した少年も、既に移動しているでしょう」

 私の怒りを前にしても、アサシンさんは表情を変えません。
 その態度に、私はもっとイライラします。もちろん、アサシンさんは冷静でとても頭がいい人ですが、今ばかりは私の感情を蔑ろにしているように見えました。
 悔しくて、悲しくて、咲耶を殺した奴が野放しになっていることが許せなくて……私は拳を握り締めます。

「私も、マスターと同じ気持ちです。マスターの為、そして咲耶さんの無念を晴らすためにも……犯人を葬るべきと考えています。
 ですが、確実に成功させるには、マスターとの更なる契約が必要です」
「……今更、何が必要なのですかー?」
「まず、今後の行動ですね。
 咲耶さんの命を奪った相手……それはマスターとサーヴァントだけではなく、多数の尖兵が含まれています。故に、実際に主従を発見しても、兵力ではこちらがあまりにも不利です。
 なので、まずは私たちも同盟相手を見つける必要があります」
「同盟相手って……まさか、283プロのアイドルって言うんじゃないでしょうねー?」
「そうであれば、連携も取りやすいでしょう。ですが、彼女たちがこの世界に実在するか、不確定です。
 何よりも、それはマスターにとって望まない選択だと思いますが?」

 やっぱり、アサシンさんは何でもお見通しですね。
 私や咲耶が巻き込まれていたように、他の283プロのアイドルやプロデューサーがいる可能性だってありますが、それは他のみんなが危険にさらされていることになります。
 もちろん、みんなには会いたいですけど……その舞台は、こんな世界じゃありません。私が安心してみんなにイタズラができるような、平和で楽しい世界です。

「ただ、私の方でも調査を続ける予定です。マスターと縁の深い人物が、他にも関与していることは充分に考えられます……それも、再現されたNPCではなく、マスターが知る正真正銘のご本人でしょう」
「そんなこと、考えたくもありません……」
「えぇ、それは充分にご承知です。ですが、可能性の一つとしては考える必要はあります。
聖杯は、マスターたちに対する明確な悪意があって……この聖杯戦争に巻き込んだことを」

 イヤすぎる可能性ですけど、私はちゃんと受け入れるべきでしょう。
 ここで認めなければ、どこかにいるかもしれない283プロのみんなと向き合えないかもしれません。
 もしかしたら、私がきちんとその可能性を考えていれば、咲耶が殺されることだって……なかったかもしれませんから。

「そして、ここから本題に入ります……咲耶さんが遺したであろう、メッセージを手に入れました」

 すると、アサシンさんは懐から一枚の封筒を取り出し、私に差し出します。
 ドクン! と私の胸が高鳴り、封筒に触れた指先がプルプルと震えました。
 ……この中に、咲耶のメッセージが書かれている? アサシンさんの言葉に、私は戸惑いました。

「……ど、どうやって……これを……?」
「早朝に、私はある学生寮を突き止めて、とある部屋を捜索しました。私の手にかかれば、証拠を残さずに侵入することは難しくありません。
 もちろん、原文そのものを持ち出すことは、後々になって悪影響を及ぼすので、筆跡を含めて写し程度になりますが……咲耶さんのメッセージであることは確かです。
 これだけは、マスターにお渡しするべきと思って」
「……この中に、咲耶の……」

 私はすぐに封筒を開いて、中の手紙を取り出しました。
 広げると、そこには確かに咲耶の字があります。厳密には、アサシンさんのコピーでしょうけど、まるでコピー機のように正確です。
 几帳面で実直な咲耶の性格を現したように、文字も綺麗に整っていました。

 そして、手紙を通じて……咲耶の声が聞こえてきます。
 手紙を見られた頃には、白瀬咲耶はもうこの世にいません。その時が来ても、後悔しないように……手紙を書いてくれたみたいです。
 手紙に書かれていた、咲耶が選んだ道……誰一人の犠牲を出さないよう、この聖杯戦争を止めるために戦ったのだと、私はすぐに気づきました。だって、咲耶は……いつだってみんなの幸せを願う程に、いい子ですから。
 きっと、咲耶は後悔しなかったはずです。自分の心にうそをつかず、最期まで自分に正直でいましたから。
 その証拠に、手紙にはたくさんの感謝と幸福が詰め込まれていました。咲耶のご両親とプロデューサー、そして私を含めたアンティーカのみんな……もしかしたら、世界中に生きる全ての人にも向けられているかもしれません。
 たくさんの幸せをもらったことに対する感謝と、戦いを内緒にしたままお別れが訪れたことへの謝罪、それからまたすぐに感謝が書かれていました。


 手紙の後半に入ると、咲耶の願いが読めます。
 そこには、私たち283プロの人間……アンティーカの仲間が読めば、すぐにわかる内容が書かれていました。
 何があっても、みんなが待っている283プロに帰れますようにと、咲耶は願いました。
 私たちが間違えて、誰かを傷付けたとしても咲耶はそれを許してくれます。
 例え世界中から責められても、咲耶は絶対に許してくれます。
 だから、自分を責めたり、傷付けたりする必要なんてないと、咲耶は願いました。
 そして、私たちの幸せこそが、咲耶の願いだと……そう、締めくくられました。
 白瀬咲耶の名前と共に。

「……咲耶」

 手紙を読み終わった瞬間、無意識のうちに私は名前を呼びました。
 もちろん、手紙の主はそれに答えてくれることはありません。この声を聞いてくれるのはアサシンさんだけです。

「咲耶……咲耶……咲耶ぁ……咲耶ぁ……ッ!」

 でも、私は咲耶の名前を呼び続けます。
 彼女の名前を口にするたびに、胸の奥から熱いものがこみ上げて、瞳から小さな雫が零れ落ちました。
 咲耶の優しさと願いを受け止めることができましたが、私は苦しいです。
 世の中には、こんなにも悲しいことがあるなんて、私は知りませんでした。

「咲耶……! 咲耶……! 咲耶ぁ……ッ! 咲耶ぁ……ッ!」

 すぐに耐えられなくなって、ひたすら咲耶の名前を呼び続けます。
 その度に、私の目から涙がとめどなく溢れてきますが、止めることができません。
 いくら、咲耶が私たちの幸せを願っていても、こんなのは辛すぎます。
 かえって、悲しい気持ちが湧きあがるだけでした。

 ーー私……今度こそ、約束するよ……! 

 ーーみんなを信じてーー頼りにするって

 ある日、咲耶は私たちアンティーカに約束をしてくれました。
 咲耶が私たちを信じて頼ってくれるように、私たちも咲耶を信じて頼りにすることを。
 でも、その約束は永遠に裏切られました。
 私は咲耶を信じて、楽しくイタズラをして、いっぱい困らせながらも助け合いたかったです。
 いったい、どんな気持ちで咲耶はこの手紙を書いて、気持ちを遺してくれたのでしょう。
 私たちは咲耶のことを考えていました。
 でも、私たちアンティーカのことを大事にしてくれたのも、咲耶でした。その優しさで、アンティーカはもちろんファンのみんなにも楽しさを届けてくれました。

「マスター……今は、思いっきり泣いてください。周りでしたら、私が見張っていますから」

 いつもながら、アサシンさんは落ち着いた声で告げますが、確かな温かさを感じました。
 その思いやりに甘えて、私はたくさん泣きました。この悲しみを洗い流すことはできなくとも、せめて咲耶のかわりに、私が泣いてあげるべきと思って。
 だって、咲耶はもう二度と泣くことができませんし、永遠に笑うことができませんから。

「咲耶ーーーーッ!」

 ただ、咲耶の名前を叫びながら、私は思いっきり泣きました。
 いっぱい泣いて、咲耶に私の声が届くように。
 私たちを気遣ってくれた咲耶はいい子ですから、その優しさを忘れないためにも……今だけは泣くことしかできませんでした。


 ◆


 最初から、僕はこの結果を予想していた。
 偽造とはいえ、白瀬咲耶さんの手紙を見せたら、マスターは心の底から悲しんで涙を流すと。
 できることなら、マスターの涙を見たくないけど、いずれは知られてしまう。特にマスターの時代では、スマートフォンと呼ばれる端末のおかげで情報収集が容易となり、どんな事件でも瞬時に把握できた。
 もちろん、一度でも世間に広まれば偽造または改ざんはほぼ不可能だ。また、警察からの事情聴取も考えれば、後回しにするのは得策じゃない。
 せめて、誰かに余計なことを聞かれる前に、僕の口からすべてを明かすしかなかった。


 マスターは今、洗面所で顔を洗い流してから、仕事に取りかかっている。
 不幸中の幸いなことは、今日は午前中で仕事が終わり、そこまで長引かないことだ。今のマスターに長時間労働をさせては、心身に悪影響が出てしまう。
 また、休憩時間であることも相まって、マスターの涙に気付いた者は誰もいない。流石に、咲耶さんのニュースはスタッフ間でも広まっていて、マスターの今後の対応について話し合う動きは出ている。


 僕も今後の動向について真剣に考えるべきだ。
 マスターだけではない。他の283プロダクションアイドルや、プロデューサーを守らなければいけない状況は必ず訪れる。
 咲耶さんが犠牲になった今、彼及び彼女たちは確実に東京のどこかにいる前提で動くべきだ。
 無論、状況に応じてプランの変更も考慮すべきだろう。
 僕のマスターである田中摩美々の生還こそが最優先で、『全ての同盟者であったマスター』の暗殺を視野に入れることに変わりはない。だが、同盟者の中に『283プロダクションのアイドルであるマスター』が含まれていた場合、彼女らを暗殺するのか?
 いいや、それではマスターだけを生還させても、その後にマスター自らが命を絶ってしまう。マスターの願いは、自分を叱ってくれるみんながいる世界への帰還であって、それを僕自身が潰すなど契約違反だ。


 他マスター暗殺のプランを忘れるつもりはない。
 だが、『聖杯を破壊する隙の発見』と『悪党(ヴィラン)による聖杯の悪用の阻止』を、尚更優先するべきだろう。困難であることは承知だが、マスターの契約を確実に果たすには必要だ。


 ーーこの世で取り返しの付かない事なんて、一つもねぇんだよ!!


 咲耶さんの手紙に涙を流すマスターを見て、不意に思い出したのは……最大の宿敵にして友達の言葉。
 すべての人の悪意を集約させた僕と一騎打ちをしても、彼は……シャーリーは僕に手を伸ばし、そして最後まで共にいてくれた。
 きっと、咲耶さんもマスターたちと共にいたかったはずだ。何度間違えることがあっても、それを受け止めて、共に歩もうとしたはずだ。
 それでも、願いは叶わないと知ったからこそ、遺されたマスターたちの幸せを願った。崩落するタワーブリッジの上で、シャーリーだけでも生きて還ってくれることを、かつて僕が願ったように。

「……マスター」

 やがて、仕事が一段落した頃、私はマスターに声をかけます。
 表向きでは平静を装っていますが、やはり精神的には消耗を感じます。それでも、仕事を乗り越えてくれたので、やはりマスターは強いお方ですね。

「先ほど伝えた、更なる契約はもう一つあります……それは、何があろうともマスターは戦線に出ないことを、マスター自身が誓ってほしいのです。
 あらゆる状況に限らず、です」
「……当たり前じゃないですかー? どうして、今更……?」
「今後、咲耶さんの命を奪ったマスターを発見し、激突する機会は訪れるかもしれません。
 ですが、同盟者と共闘し、相手マスター及びサーヴァントに重傷を負わせたとしても……絶対に、復讐をしようとは考えないでください。
 例え、瀕死の重傷を負ったとしても、マスターの命を奪うだけでしたら、容易いでしょうから」

 これは、マスターの復讐は僕が代行するという意思表示だ。
 咲耶さんの願いを知っても、マスターの中から怒りと憎しみが消えていない。何らかのきっかけで、燻っていた感情が爆発すれば、必ず報復に走ろうとするはずだ。
 僕自身、憎悪に溺れて平静を失った人間はいくらでも見てきた。犯罪卿であった僕を恨んだ人間は星の数ほどいたが、マスターが彼らと同じ道を選ぶことは充分に考えられる。
 咲耶さんの願いを果たすのであれば、少なくともマスターの手を緋色に汚してはいけない。

「……わかりましたぁ。咲耶の仇、絶対に取ってくださいねー……アサシンさん」
「えぇ。感謝いたします、マスター。
 では、改めて……そのご依頼ーーこのウィリアム・ジェームズ・モリアーティが確かにお引き受けいたしましょう」

 そうして、かつて犯罪卿として多くの恨みを受け止めた僕……ウィリアム・ジェームズ・モリアーティは、改めてマスターと契約を交わした。


【渋谷区のどこか/一日目・午前】


【田中摩美々@アイドルマスター シャイニーカラーズ】
[状態]:健康、咲耶を失った深い悲しみ、咲耶を殺した相手に対する怒り
[装備]:なし
[道具]:白瀬咲耶の遺言(コピー)
[所持金]:現代の東京を散策しても不自由しない程度(拠出金:田中家の財力)
[思考・状況]
基本方針:私のイタズラを受け入れてくれるみんながいる世界に帰りたい。
1:アサシンさんと一緒に今後のことを考える。
2:咲耶を殺した奴を絶対に許さない。


【アサシン(ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ)@憂国のモリアーティ】
[状態]:健康
[装備]:現代服(拠出金:マスターの自費)
[道具]:ヘルズ・クーポン(少量)
[所持金]:現代の東京を散策しても不自由しない程度(拠出金:田中家の財力)
[思考・状況]
基本方針:聖杯の悪用をもくろむ主従を討伐しつつ、聖杯戦争を望まない主従が複数組残存している状況に持って行く。
1:『彼(ヒーロー)』が残した現代という時代を守り、マスターを望む世界に生還させる。その為に盤面を整える。
2:白瀬咲耶さんの願いを叶えるため、マスターには復讐に関与させない。
3:マスターの代わりに白瀬咲耶さんの仇を取る為にも、同盟者は確実に見つける。
4:"もう一匹の蜘蛛(ジェームズ・モリアーティ)"に対する警戒と嫌悪。


時系列順


投下順



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OP:SWEET HURT 田中摩美々 020:283プロダクションの醜聞
005:TWISTED HEART アサシン(ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ)

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最終更新:2021年08月15日 15:44