かぐわしき聖杯の檻。
 無垢な赤子の眠る籠。
 砂糖菓子のように甘く、純粋に、ただ何かを満たすという慈心のカタチ。

 これはただ、生まれてきただけだ。
 そして生まれた意味を果たすべく、手を伸ばした。
 世界の枝葉、その果てまで。
 視て、引き寄せて、放り込んで、閉じ込めた。
 白く四角い檻の中。甘い夢へと繋がる病室。すべての鼓動を繋ぐ棺。
 そして、今。彼の、彼女の、みんなの祈る籠の中に――地平線の果てより、ひとつの光が射し込んだ。


 ウルトラブルー・ランドスケープとの接続を切断。
 ムーンセル・オートマトンへの介入を終了。
 聖杯座標を隔離宙域32876号に再指定。以上により外部宙域からの干渉、抑止力の作用を遮断──完了。
 界基情報再照合。聖杯内界の霊的解析を開始──完了。
 界層深化処理に伴いサーヴァント喪失者XX名の令呪並びに付与魔術回路の回収を実行。
 対象を可能性喪失者と再定義。XX名全員の可能性剪定完了を確認。界層深化処理実行開始──全工程完了。

 ──残存主従数"二十三組"。

 現在時刻(午前零時)を以って、聖杯戦争の第二段階『本戦』への移行を完了する。
 並行宇宙からのマスター招来を中断。当界は残存二十三組の内から最終資格者、"世界樹の王(ニーズホッグ)"を選定するものとする。

 本戦への移行に際し、残存するマスター資格者二十三名に対し以下のように聖杯戦争総則のアップデートを告示する。



 これは、二十三体の"可能性の器"並びにその使役するサーヴァントにより行われる魔術儀式である。

 器たる存在の定義はサーヴァントを使役していることだが、サーヴァントを喪失した場合であっても、他の個体と再契約を締結することで器の資格を復元させることが出来る。

 最後まで器の資格を保った者が聖杯戦争の勝者"世界樹の王"と認定され、全能の願望器たる界聖杯を使用する権利を得る。

 界聖杯は勝者の願望を成就させ、元居た世界への帰還処理を行った時点で全エネルギーを使い果たし消滅する。


 ──八月一日午前零時、現刻をもって総則を以上の内容に更新。
 同時に、以下の条項を追加する。


 『聖杯戦争終了の条件が満たされた際、内界で生存している可能性喪失者についての―――』

◆◆


 とある日の、午前零時のことであった。
 さながらそれは、彼の、彼女の、それぞれの物語が始まった瞬間。
 かつて聖杯戦争の則と理が刻まれた瞬間そのままに、神託めいた唐突さで"可能性の器"達の脳裏へと響き渡った。

 開幕のその時を告げる、鐘の音が。

 星の始まりにも、或いは終わりにも聞こえる"音"。
 産声にも、或いは断末魔にも聞こえる、その音。
 それは言葉ではなかったが。されどそれを聞いた者は、誰もが皆一様に理解した。

 終わったのだと。
 そして、始まったのだと。
 地平線の果て、すべての願いが叶う世界樹に歩む彷徨が。
 今この時を以って、ようやく真に幕開けたのだと。

「ふあ〜あ……。
 ……まだ起きてんのかよ。早く寝ねえと背ぇ伸びねえぞ〜?」
「ねえらいだーくん。私たち、"残った"みたいだよ」
「あ?」

 ぼりぼりと、女の子が一人で住む部屋で取るにしてはあまりにもガサツで無遠慮な所作で頭を掻く少年。
 彼は、サーヴァントだった。サーヴァントなのに惰眠を貪るし、飯も食うし、用便にも行く。
 そんなあまりにも人間臭くそれでいて全ての行動が月並みな男だったが、それでもその霊基は無窮のものとして英霊の座に登録されている。

「マジかよ。そんなに時間経ったかあ?
 俺、召喚されてこの部屋をぶん取ってから何もしてねえ気がすんだけど」

 実際、彼の言うことは間違っていない。
 最初に召喚されてすぐ。この部屋の主だったマスターと戦って、そのサーヴァントを斬り殺して。
 頼みの綱を失って脱兎の如く逃げ出した敵の後釜に収まる形で、この主従は部屋の主となった。
 件のマスターが今何をしているのかは知らないし、二人揃って興味の一つも抱いちゃいない。
 戦利品として得たこの部屋で、ただのびのびと――何をするでもなく。
 こうして界聖杯からの通告を聞く日まで、熾烈だった"らしい"予選期間を生き延びた。

「二十三組。だって」

 私たち含めて、残ってる人たち。
 窓辺で月の光を浴びながらどこか遠くを見つめるマスターに、サーヴァントの少年は何と返せばいいのやら分からなかった。
 ただ。界聖杯から改めて通告があったというならば、まさか残りの主従の数を伝えただけで終わりではあるまい。
 少年はお世辞にも頭のいい英霊ではなかったが、そのくらいのことには察しが付いた。

「で? 界聖杯は他に何か言ってたのかよ」
「帰れないんだって」
「何だって?」
「だから、帰れないの」

 帰れない。
 少女は――神戸しおという名の、幼い彼女は確かにそう言った。
 それを受けてライダーのサーヴァント。真名をデンジという彼は、「そういうことか」と思った。
 考えてみればなるほど確かにありそうな話だ。
 界聖杯とは願いを叶える仕事を終えたら消滅する全能の願望器であって、それ以上でもそれ以下でもないのだから。

「誰かが願いを叶えた時まで生き残ってた、願いを叶える資格のないマスターはね。みんなこの世界と一緒に消えちゃうんだって」

 地平線の彼方に辿り着けなかった、割れた可能性(うつわ)の後片付けをする義理など。何処にもないのだ。



◆◆


 ――――『聖杯戦争終了の条件が満たされた際、内界で生存している可能性喪失者についての送還処理は行われない』
 ――――『全ての可能性喪失者は、界聖杯の崩壊と共に消滅する』


◆◆



 "櫻木真乃"は、普通の少女である。
 彼女はアイドルだ。彼女は、きっと学校のクラスメイトよりずっとたくさんの人間を笑顔にして生きている。
 その分心ない悪意と嘲笑に晒されることも人の何倍も多いが、それに挫けることなくステージの上で眩く輝き続けて生きている。

 けれど。ただ、それだけだ。
 人より少し眩しくて、幸せを振り撒いているだけ。
 ステージを降り、衣装を脱ぎ、仲間と別れたなら、そこにいるのは天使でも女神でもない。
 ただの、何処にでも居るような。どこまでもありふれた、何十億人かの地球人の一人。

『……ほんとに大丈夫ですか、真乃さん』
「……うん、大丈夫だよ。昨日は流石に、ちょっとびっくりしちゃったけど――」

 そんな真乃に突き付けられたのは、遠回しな死の警告。
 端から聖杯を手にして願いを叶えるために戦っている者ならば、それはきっと今更言われるまでもないことであったに違いない。
 願いを叶えられないのは死と同義。敗北して可能性を失い、聖杯の恩寵を取り零したのなら、もはや生き続ける意味などないと。
 そう割り切れるのだろう。しかし、しかしだ。
 生き残った二十三の器の中には、全能を望まず、戦いを拒む者も少なからず存在している。
 櫻木真乃もまた、その一人であった。

「(なんて……少し強がりすぎかな。
  結局昨日はあの後、ほとんど眠れなかったし……)」

 そういう者達にとって、昨日総則に追加された項は文字通り死の通告に等しかった。
 何故なら聖杯を望んでいない。勝者になる気がないのだ、彼女達は。
 椅子取りゲームの勝利条件は残り一つの玉座に座ることだけ。
 みんなで仲良しこよしの大団円で終われるゲームではないのだと、真乃もそのサーヴァントも理解はしていた。
 だが、それでも。
 こうして確たる現実として突き付けられれば――揺らぎもする。彼女はあくまで、泰平の現代を生きる一人の未成年でしかないのだから。

「(ひかるちゃんには、心配かけないようにしないと。
  とっても優しい子だから、きっと辛い気持ちにさせちゃうよね)」

 寝不足の脳に午前の強い日差しが容赦なく照りつける。
 正直まだ、完全に切り替えられてはいないけれど。
 まだ、不安を乗り越えるのには時間がかかるかもしれないけれど。
 せめてこの子には、私のサーヴァントに心配はかけないようにしようと、真乃がそう思った矢先だった。

『――心配かけたくないとか、そんなことは思わないでくださいね』

 心中の決意を言い当てられて、真乃は思わず歩く足を止めてしまう。
 その反応でもう、彼女のサーヴァント……"星奈ひかる"には全てが分かった。
 やっぱり、と思った。この人はきっとそういうことを考えるはずだと、此処までの付き合いで分かっていたからだ。

 真乃さんは、優しい人(マスター)だから。
 その信頼が、ひかるの頭に大事な大事な確信をくれた。

『私はサーヴァントで、真乃さんはマスターだけど。
 それでも……わたしたちは二人で一人なんですから。
 真乃さんばっかりつらい気持ちを抱え込んで我慢するなんて、そんなのはなしです!』
「……ひかるちゃん」

 思わず、念話も忘れて呟いてしまう。
 ひかるは見た目も声色も、真乃よりいくらか幼い。
 それでも。彼女は、サーヴァントなのだ。
 自分の人生を一度終えて、世界のひとつになった英霊。
 そんな彼女の言葉は、真乃の――今まさに一人我慢しようとしていた心に、一筋の流れ星のように素早く届いた。

「あはは……全部お見通しかあ。
 ごめんね、ひかるちゃん。うん……正直、まだちょっと怖い」

 死にたくない。消えたくない。
 その想いはアイドルだろうが一般人だろうが、みんなみんな共通のものだ。
 積み上げてきた過去も、これからあるはずだった未来も、ひょっとするとこの世界と一緒に泡と消えてしまうかもしれないのだから。

「でも、この世界にはきっと私以外にも居ると思うんだ。今、おんなじ気持ちになってる人たちが」

 ――さりとて。
 それでも、真乃は現実に堕さない。
 目先の死に怯えて本能に縋るのではなく、彼女は勇気を抱く。

「だったら私、そういう人たちと協力したい。
 私と、ひかるちゃんと……まだ顔も知らない人たち。
 みんなで力を合わせたら、きっと決められた未来だって変えられると思うの」
『えへへ……私もそう思います。おそろですね、わたしたち』

 そしてそんな彼女に、迷わず同意を返せるのが星奈ひかるというサーヴァントだ。
 星のプリキュア・キュアスター。勇気と輝きの象徴、人々の希望。
 有史以来一日も欠かすことなく常に空で輝き続ける光――その名を掲げる英霊が、目の前の眩しい勇気に微笑まない筈もなかった。

 きっと未来は変えられる。
 心を閉ざした弱気の闇が晴れていくのを感じながら、"この世界では"まだ営業を続けている通い慣れた事務所の方へと足を進め。
 そこで、ふと。
 聖杯戦争のこととはきっと関係ないだろうことをひとつ、考えた。

「(……プロデューサーさん、どうしてるのかな)」

 彼女をアイドルの道に導いてくれた恩人である、大切なプロデューサー
 真乃がこの世界の一員となった日には既に姿の見えなくなっていた彼は、今何をしているのだろう。
 彼には彼の人生があると分かってはいても、やはり心配になってしまう。

「(危ないことに巻き込まれてなきゃいいんだけど……)」

 だってこの世界は、とても危ないから。
 日常の一枚裏側で熾烈な戦争が繰り広げられる、とっても怖いところなんだから――。


◆◆


「先に言うべきじゃないんですかね、そういうのって」

 午前の日差しをカーテンで遮った部屋の中で、"七草にちか"は独りごちた。
 いや。独り――というのには語弊があるか。
 霊体化しているので姿こそ見えないものの、彼女のサーヴァントは今もこの部屋の中に居る。
 界聖杯によって魔術回路を付与されているとはいえ、その量は決して多くないのだ。
 彼女の使役する英霊はそう莫大な魔力消費を要求する人物ではなかったが、いつ何が起きるか分からないこの世界では、平時は可能な限り余計な消耗を避けておくに越したことはあるまい。

 そして。にちかは自分の顔に刻まれた血糊のような紅い紋様を、刻印を指でなぞる。
 自分が"器"であることを自覚してからというもの、すっかりこうして顔に触れるのが癖になってしまった。
 アイドルの命と言っても差し支えない顔。そこに顕れた、タトゥーと呼ぶにも悪趣味な御印。
 もっとも今はもうアイドルでも何でもない――否。アイドルを目指してすらいない身であるのだったが。

「わざと大事なとこだけ隠しておいて、頃合い見計らって実はこうでしたー! ……なんて。
 界聖杯って何かの偶然で生まれた現象らしいですけど、その割に随分人間臭いことすると思いません?」
「無我と無知は違う。界聖杯は前者ではあるものの、後者ではなかったということなんだろう」

 はあ、と溜め息混じりに語るにちかは、界聖杯から伝えられた新たな条項についてとはまた違う理由での困惑を覚えていた。

「(……なんでだろ。なんか、あんまり動揺してないなー)」

 聖杯戦争が終結すると同時に、願いを叶えられなかった"ただ生きているだけ"のマスターは全て模倣の世界と一緒に消滅する。
 それは即ち、勝つか負けるかではなく勝つか死か。
 デッド・オア・アライブの状況を突き付けられたのと全く同義の話なのだが――どうにも慌てふためく気になれない。
 自分でも不思議だった。物語のキャラクターじゃあるまいし、もっとずっと怖がって戸惑って然るべきだろうに。

「それで。どうするんだ、マスター」

 そんなにちかに、霊体化を解いたサーヴァント・メロウリンクが問いかける。
 少年期の名残を残した顔に嵌まった眼球、そこに永劫消えることのない深い哀しみを沈ませた男。
 年頃の少女の部屋には不釣り合いな哀愁と無骨さを持った彼の問い。その言わんとすることは無論、にちかにも伝わっている。

「身の振り方を決める頃合だろう、そろそろ。
 残ってる器の数が明かされた以上は他の連中も血眼になって敵を探し始めるはずだ」
「……分かってますよ、そんなの。
 でも分かってたからって、どうにかなるわけじゃないです。
 それを今此処で即決出来るほど、私人間やめてないですから」

 これからの聖杯戦争においては、聖杯を手に入れるという言葉の重みも変わってくる。
 今まではまだ、サーヴァントを失い聖杯に辿り着けなかったマスターも帰還出来るのではないかという可能性があった。
 だが、それは界聖杯によって直々に否定された。
 直接的に殺すか間接的に殺すかの違いでしかなく――結局、聖杯を追うというのは無数の屍を積み重ねてそれを足がかりに歩む所業となる。

 でも、事実上は聖杯を狙う以外の択などない。
 生きるか死ぬかのことだけを考えるなら、そうなる。
 垂らされた蜘蛛の糸が一人用なら、結局他の亡者を蹴落として上にあがるしかないのだ。

「……俺は単なる影法師だ。復讐に生きて、そして死んだ幻影だ。
 だから今を生きている人間にあれこれ訓示出来る身分じゃあない」
「……、何が言いたいんですか」
「ただ、"戦争"を経験した先人として言うならだ」

 その声にある重みは、並大抵のそれではなかった。
 地獄と呼べる世界を体験した人間だけが醸せる、重み。
 血と硝煙のむせ返るような匂いを、にちかは彼の居姿から確かに嗅ぎ取った。
 それは幻なれど。しかし確かに、メロウリンク・アリティの真実の一端に触れていた。

「――生きて帰る。そのために戦うことは、決して悪なんかじゃない」

 生きる。
 そのために殺す。そのために逃げて、そのために奪う。
 それは美徳ではないかもしれない。
 だが決して、悪徳ではないのも確かだ。
 聖杯戦争、これは文字通り生き死にを争う戦争なのだから。
 命を賭して願いを叶える覚悟なき者が戦いに身を躍らせる理由としては――生きたい。生きて帰りたい。それだけでも、きっと十二分であろう。

「俺はマスターの選択に従うだけだ。だけど、そういう考え方もあるということは覚えておくといい」

 そう言い残して、再び霊体に戻るメロウリンク。
 「待っ――」と思わず声を出したが、続く言葉が思いつかず、途中でやめた。

「……言いたいことだけ言って消えないでくださいよ、はあ」

 何か考えるべきなのかとも思ったが、今のにちかはまだその領域にいない。
 残り二十三組だとか、聖杯戦争が終わった後の処理だとか、一度に告げられた情報の量がちょっと大きすぎる。
 自他共に認める凡人であるにちかには、それらを咀嚼するのにまだもう少し時間がかかりそうだった。

 ……気分転換にテレビを点ける。
 すると、近頃急速に名を上げているアイドルグループのCMが流れ出した。

 人気とは言っても、このグループはお世辞にも均整の取れた面々ではなかった。
 センターが、歌でも踊りでもルックスでも、そしてそれ以外の全てでも、完全に他のメンバーを食ってしまっているのだ。
 名前は、確か。星野アイ、だったっけ。

「……、」

 にちかはテレビを消した。
 それからすぐに顔を背けて、わざとらしいくらいに"今思い出した"感を出して、起きてからずっと閉めっぱなしだった部屋のカーテンを開けた。
 伸びをする。「ん〜」なんて声を漏らして、努めて何事もなかったみたいに振る舞う。

 取り繕うべき相手など、もういないというのに。
 ただ一人居るとすれば、それは。
 それは――


◆◆


「何見てるんです、さっきから」
「明日共演する子たちのライブ映像。なんかすごい急に決まってさ、びっくりしちゃったよね。
 普通こういうのって何週間も前から打ち合わせしてやるもんなんだけど」

 283プロ(あそこ)、今バタバタしてるみたいだから仕方ないのかな。
 そう言いながら、人気全盛のアイドルユニット『B小町』不動のセンター・"星野アイ"はスマートフォンの画面上で踊って歌う少女たちの姿をじっと見つめていた。

「すごいな、思ったよりちゃんとしてる。
 これならこっちの子たち押し負けちゃうかも。私を除いて」
「はははは。相変わらずなようで何よりっスよ、マスター」

 移動用のハイエース。
 そんな彼の生前を思えば実に"似合わない"車を運転しながら、ライダーのサーヴァント・殺島飛露鬼は紫煙を吐き出し笑った。
 なかなかどうして肝の据わった女だと思う。これでまだ二十歳だというのだから更に驚きだ。

 昨晩の通告については、アイも当然聞いている。
 聖杯戦争に敗れれば、この世界と共に消えることになるというその追加条項(アトダシ)に――しかしアイはこの通り、さして動じちゃいなかった。
 『どうせ私元の世界じゃ死んでるし、負けて消えても同じでしょ。痛くないぶん前のやつよりマシまである』、とのことだった。

「けどよォ〜……そこまで真剣(マジ)になる意味あるんですかね?
 此処はあくまで聖杯戦争のために模倣られた世界だ。
 マスターが勝つなり他の誰かが勝つなりすりゃ、影も形もなくなっちまう泡沫(ユメ)なんですよ?」
「うーん、ぶっちゃけ私もそう思うんだけどさ」

 殺島の言葉にアイは画面から顔を上げて言う。
 界聖杯内界(ここ)はいつか消える泡沫の世界。
 今此処にある質量も、此処で生きている命も全てが本物。
 けれどそこに未来(さき)だけがない。
 この戦いで誰が最後まで勝ち残るにせよ、今アイたちが生きている仮初めの世界に"その後"が与えられることは決してないのだ。

「アイドルってね、やっぱ嘘だらけなんだよ。
 ていうかもう全部嘘。ファンに本当の自分をさらけ出してる子なんてまず居ない」

 くるくるっ、と髪の毛先を弄びながら言うアイ。
 殺島も、本気でアイの行動の意義を問うているわけではなかった。
 これまでこの内界で共に過ごした時間の中で、殺島はアイの様々な姿を見てきた。
 それは眩しく輝いている姿であり、ファンには見せられない素の姿であり、家でのだらけた姿であり。
 その中で彼女の人となりは多少なりとも理解している。
 なのにわざわざ今更な質問を投げかけたのは……ひとえに、好奇心だったのかもしれない。

 星野アイ。その名の通り――星のような女。
 きらきら、きらきらと。
 彼女がそこにいるだけで、世界は輝きで染め上げられる。

「でもね、嘘をつくのって結構努力がいるんだよ」

 けれどアイは宝石ではない。
 彼女はガラスの石ころだ。
 とびきり形が良くて、何色にでも染まることの出来る石ころ。
 色を塗って輝きを付け足して、そうやって彼女は誰も敵わないダイヤモンドとしてステージの上に立っている。
 嘘つき。それも一朝一夕の苦し紛れじゃない、文字通り毎日のすべてを注いで鍛え上げられた――大嘘つき。

「私は聖杯で生き返るんだから、それまでの努力を欠かしちゃダメでしょ。
 何日か何週間かは分かんないけど、その後は今まで通りにB小町の最強センターなんだから」

 ちょうど、車はトンネルの中に入っていた。
 薄暗く染まった車内の中で、助手席に座るアイが殺島へと微笑む。
 その笑みに釣られて、殺島も思わず苦笑した。
 なるほど、確かに。こいつは真実(マジ)の偶像(アイドル)だ。

「(花奈が芸能界に入ってたら、アイみてぇな偶像(アイドル)にでもなってたのかね)」

 花奈。

 殺島飛露鬼の、この世で一番大切な娘。
 それでいて、彼が守れずその手から取り零してしまった命。
 極道(ヒトゴロシ)の自分が逢うにはあまりに眩しすぎる偶像。
 そのあったかもしれない未来を想い、殺島は肺の奥まで燻らせた紫煙をまた窓の外へと吐き出した。

 花奈はとびきり可愛い女の子だった。
 成長して社会に出れば、きっとこのアイにも劣らない美女になっていたことだろう。
 もしかしたら、あったのかもしれない。
 ステージの上で輝いて、誰かの【推しの子】になる――あの子の姿も、どこかの世界には。

「アイ」
「わぁいきなり呼び捨て」
「お前の双子(ガキ)は、どんな大人になんだろうなァ」


◆◆


 "田中一"は、ひどく没個性な男だった。
 百点満点で採点するなら五十点。酷い不細工というわけではないが、決して美麗な顔立ちをしているとは言えない容貌。
 しかしながら。その目には狂気があった、一線を超えた者特有のぎらぎらとした輝きがあった。
 そうだ。田中は既に、この内界で一線を超えている。
 人を殺した。この手で、他でもない自分の意思で、人を。

 界聖杯内界に存在する構造物や人間は、全て様々な並行宇宙の枝葉からコピーしてきた模倣品に過ぎない。
 だが、模倣とてそこには命がある。魂もある。故に田中はちゃんと人殺しなのだ。裁かれることが無くたって、その事実自体は永遠に残る。
 されど田中は、その罪を歓迎していた。
 ああ、そうじゃなくちゃな、と。自分の殺した女が、革命の犠牲者となった第一号が、命ある人間であったことに感謝すらしている。

 だって、作り物を壊しただけでは――変えられない。
 このしみったれた、カスほどの価値もない人生を揺るがせない。
 ちゃんと人間を殺せたことで、田中は一歩を踏み出せた。清々しさすら覚えながら、脳内に響いた啓示を反芻する。

「やれるもんだな、案外」

 残り、二十三体。
 それがこの世界に召喚された、"可能性の器(マスター)"達の生存状況であるらしい。
 言わずもがなその中には、今こうして生きている田中も含まれている。
 元の数字が幾つだったのかは分からないが、きっと相当な数が脱落していったのだろう。
 何も叶えることなく。負けて、死んだ。
 命があろうと敗北は死なのだ、この世界では。
 そのことを知った田中にはしかし、恐れも迷いもなかった。

 ――どうせやるなら、勝たなくちゃいけない。
 きっと界聖杯もそれを望んでいるはずだ。
 この聖杯戦争というゲームを勝ち抜いて、誰であろうと殺して、全能の願望器をその手に掴んでやる意思が田中には確かにあった。

 "覚悟"とはきっと違う、熱病のように一過性の――されど爆発のように激しく燃え盛る意思が。

「……なあ。聖杯戦争ってこういうもんなのか?」

 田中は不意に、宙へ浮かぶ紙切れへと話しかける。
 それは、一枚の写真だった。
 しかし普通の写真ではない。知らない誰かの手が写り込んでいるとか、被写体の首から上が消えているとか、そういう類の写真でもない。
 その写真からは、白髪の老人が生えていた。
 有名なホラー映画のワンシーン。テレビから這い出してくる、白装束の"アレ"のように。

「『わが息子』がきさまに寄り付かないことを憂いておるのか」
「いや……別にそこまで思い詰めてるわけじゃないけど」
「きさまの言わんとすることは分かる。
 だがそれも当然。『わが息子』は己の平穏を脅かされることをこの世の何よりも嫌うッ!
 そしてそれは英霊になった今でも――この先も永久に! 変わらぬのだッ!!」

 あの日。田中の中の何かが弾け、頭蓋にある地獄の釜が開いた日。
 マグマのように熱くドロドロな狂気が溢れ出し、人生の色が変わった日。
 そこで一度見て以降、田中は一度も自分のサーヴァントである"殺人鬼(アサシン)"と会っていなかった。
 だが、理由を聞けば納得だ。なるほど、確かに。
 今の自分は――平穏という言葉とは、最も遠い存在ではないか。

 田中はくぐもった笑い声を漏らした。
 誰が聞いても不気味以外の印象は抱けないだろう、病的な笑い声だった。
 その眼球は血走り、大きく見開かれ、口端から一滴の唾液が垂れる。
 右手の令呪を愛おしそうに撫でながら、田中は狂気に溺れ未来を夢見る。

 負けるわけがない。
 そう思えていた。
 このゲームには課金額の差などない。
 スタートの瞬間の当たり外れで全てが決まる、そういうゲームだ。
 そして田中が引いたのは、間違いなく大当たり。少なくとも彼にとっては、高潔な英雄などよりもずっと嬉しいサーヴァントだった。
 殺人鬼――日常に紛れ込む悪魔。価値のない日常を、脳が震えるような非日常に変えてくれる存在。


 皆殺しだ、誰が現れようと。
 何が起きようと、全員残さず殺してやる。
 全員殺して何もかも壊して、地平線の果てとやらにある景色を見たい。
 究極の快楽。究極の成功体験。それを味わうことが、これ以上ない究極の『田中革命』になるのだという確信がある。

 ひひ、と、そんな声を漏らして笑って。
 田中は、呟いた。

 ――負けて死ね。全員、俺たちに負けて死ねばいい。

 ガソリンのように燃え上がる狂気を抱き締めながら。
 握り締めた狂気の世界への入場券には、六発の弾丸が込められていた。


◆◆


 日常は、変わることなく動いている。
 それは決して、少女――"田中摩美々"にとっての本当の日常ではなかったが。
 この模倣世界・"界聖杯内界"で繰り広げられる営みが嘘偽りの産物というわけでもなかった。

「……これからどうしましょうねぇ、アサシンさん。今まで通りでいいんですかねぇ?」

 されど、それが真であるか偽であるかもいずれは関係なくなる。
 誰かが地平線の彼方に辿り着けば、そこに続く道程を踏破すれば、それで終わり。
 この世界は泡のように弾けて消える。摩美々も、聖杯を勝ち取れなかった他の器たちも――皆等しく消える。
 摩美々が己のサーヴァントである"アサシン"に問いを投げかけたのは、やはり界聖杯からの通達を聞いたからというのが大きかった。

 これから否応なしに盤面は動く。戦いは、加速する。
 その時果たして、自分はこの調子でいいのだろうかと――そう思った。
 そんな摩美々の問いに、暗殺者と呼ぶにはあまりに優美すぎる風貌と装いをした英霊は。
 持って生まれた美貌のそれと一切乖離することのない、よく通る美声で答えた。

「確かに、今後この戦いは激化の一途を辿っていくでしょう。
 必然、マスターや周囲の方々が戦火に巻き込まれる危険性もそれに伴って上がってしまうのは避けられません。
 無論、そうならないよう私も全力を尽くします」
「それもそうなんですけどー……」

 摩美々の言わんとすることを理解し、アサシン。"ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ"は小さく笑った。
 彼女は何も、自分やその周囲の人間の身に危険が降り掛かることを恐れて言ったわけではなかったのだ。
 彼女が心配しているのは、他でもないモリアーティのこと。
 戦うことの出来ない摩美々に代わって聖杯戦争に向き合わなければならない彼だが、英霊としての戦闘力だけで見るならばお世辞にも強いサーヴァントであるとは言い難い。
 天下無双の武人などにはまず及べず、魔術や呪詛に対する防御手段も持ち合わせていない。
 ウィリアムが敵対者として英霊と相対するのは引導を渡すその瞬間のみであるべきなのだが、残る主従の数が減れば減るほど、戦況が激しいものになっていけばいくほど、彼が他者に捕捉されるという可能性も増えてくる。

 摩美々は敏い少女だ。その可能性にいち早く気付き――だからこそ、その身を案じたのだろう。

「私の身を案じてくれているのであればご安心なく。
 むしろ私に言わせれば、此処からの方がやり易い」
「そうなんですかぁ? それはまた……どうして?」
「戦火の勢いが増すということはつまり、それを燃やす者が居るということですから」

 しかし、である。
 器の数が絞られ、尚且つより大きな火種が求められるようになったこの現状はむしろ"犯罪卿"にとっては好都合だった。
 今まで巧みに、或いはごくごく自然に街の喧騒の中に潜んでいた主従がとうとう行動を開始するのだ。
 火を起こす側であれ、起きた火に対処する側であれ、まず間違いなく何かしらの形で聖杯戦争と向き合わねばならなくなるのは間違いない。
 であれば、選別の機会も増えるというもの。
 界聖杯を取るに相応しい願いと、そうでない願い。そして――この地に在るべきでない願いの選別。
 界聖杯の獲得を望まないウィリアムは、聖杯の輝きではなくその行方にこそ目を光らせている。

「もう既に掴んでいる不穏な情報も幾つかあります。
 今後はその糸を手繰りつつ、着々と為すべきことを為しますよ」

 例えばそれは――此処数週間の間で女性の行方不明事案が急増している事実であり。
 例えばそれは――どこからともなく現れて凶行を繰り返す異常な子供達の集団であり。
 例えばそれは――患者の死亡率の上昇と、遺族の原因不明の死亡や失踪が相次いでいる病院であり。
 此処に挙げただけでもほんの一部。既に"犯罪卿"の蜘蛛糸は、この内界に十重二十重に張り巡らされている。

「……あは。余計な心配しちゃったみたいですねぇ、私」
「そんなことはありません。マスターが優しい人間であることが改めて確認出来ました」
「私の方は、実のところ……ぜんぜん心配してないんですよぉ。
 アサシンさんのこと、全部分かったわけじゃぜんぜんないですけど。
 マスターを狙われてあっさりおじゃん、なんてミスをするような人じゃないってことは、よ〜く分かりましたから」
「……ふ。ええ、勿論ですよ。そんな体たらくでは"モリアーティ"はやっていけませんから」

 摩美々がいたずらっぽく笑って、ウィリアムもそれに答えるように笑った。

 ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ
 犯罪卿。ライヘンバッハにて分かたれた悪。
 今、その隣には優秀な弟も、心優しい友人達も存在しないが。
 それでも彼の頭脳と鋼の意思は、依然変わることなく健在だった。


 ただ。
 そんな彼にも一つだけ、懸念があった。

 それはひょっとするとただの杞憂なのかもしれない。
 単独で長時間動き続けていたことによる、ある種の疲労が齎したものなのかもしれない。
 だが。確かにウィリアムは、違和感を感じていたのだ。
 誰かに視られているような。背中合わせの一枚向こうに、誰かが立っているような。
 そんな据わりの悪い、ひどく不快な感覚を――此処半月ほどに渡り、ずっと感じていた。

「(……私の"仕事"に気付いている者が居る。
  もしそうだとしたら、それは――)」

 一体、何者だ? ウィリアムの聡明な頭脳を以ってしても、手持ちの情報と感覚だけでは、それを看破することは出来なかった。


 ――界聖杯内界。東京の都には蜘蛛の糸が張り巡らされている。
 だが、その全てが善を愛し悪を挫く義賊によって張られたものとは限らない。
 善を愛する蜘蛛が居るならば、悪を愛する蜘蛛も居る。
 悪を挫く蜘蛛が居るならば、善を挫く蜘蛛も居る。
 これはつまり、ただそれだけの話なのだ。


◆◆


 繁華街の大通りを、フード姿の青年が歩いていた。
 東京は世界でも有数の大都会である。故に当然、毎日そこを様々な種類の人間が行き交う。
 これは何も人種や年代の話をしているのではなく、人間の性質を見た場合でもそうだ。
 変人奇人、狂人。そうした人間までもが当然のような顔をして行き交う現代の魔都。正気と狂気の交差点。

「(あのジジイ、本当にやる気あるんだろうな)」

 フード姿であることに加えて、俯き加減の角度で歩いていること。
 その二つが相俟って行き交うほとんどの人間は気付きもしなかったろうが、青年の様相は相当に異様なものだった。
 目元に刻まれた色濃い隈。口元にまで及ぶ、皮膚病に起因するだろう引っ掻き傷。
 そして何より。その双眸に宿る、深く、深い、妄執と憎悪の暗澹。
 それは間違いなく、市井に生きる只人が持つ類のものではなかったが……その異様さに気付く者は此処には居ない。


 界聖杯からの通告。
 青年……"死柄木弔"にとってそれは動揺に値する出来事ではなかった。
 むしろ死柄木にとって大きかったのは、残る器の数が二十三体にまで減っている事実の方。

 彼のサーヴァントは、元の世界で師と仰いだ大悪をすら彷彿とさせる犯罪の王であった。
 真の名をジェームズ・モリアーティ。かのシャーロック・ホームズをして、宿敵と言わしめた魔人。
 学のない死柄木では、その名が持つ重さと大きさは理解出来ない。
 伝説の探偵をして宿敵と言わしめたその偉大さがまるで伝わらない。
 彼は紛うことなき悪であり。悪の未来を形作る、類稀なる禍つ星だったが――しかし。
 知略を弄する類の悪(ヴィラン)ではない死柄木には、かの犯罪紳士が張り巡らせる蜘蛛の糸を知覚することは不可能であった。

「(手に入らなかったとしても、こっちはドクターのプランに戻るだけって算段だったんだが……引き下がれない状況になっちまった)」

 死柄木にとって聖杯は、ただの手段の一つでしかない。
 力を手に入れるための手段。全てを破壊出来るカードの中の一枚。
 だから最悪、聖杯を手に入れられなくとも元の世界に帰って"ドクター"の力に頼ればいいと思っていた。
 だが、その甘い考えは他ならぬ界聖杯の言によって否定された。
 この聖杯戦争に勝利しなければ、そもそも元の世界に帰れない。死柄木が全て壊すと誓った腐った世界の、空気すら二度と吸うこと能わないのだ。

 聖杯を手に入れられなければすべて無駄。
 元の世界に取り残してきた連合の連中も、全員頭を失って彷徨うだけのちっぽけな烏合の衆に成り果てる。
 そしてそれを捕まえたヒーロー共は笑うのだ。
 悪が栄える日は決して来ないと、知った風な顔と口で。吐き気のするような――あの笑顔で。

 許せない。
 ああ――それだけは、決して。
 だからこそ死柄木弔は、敵連合の長たる魔王の器は拳を握るのだ。
 彼の願いは全ての破壊。自分と志を同じくした仲間は別腹としても、それ以外の連中は許容出来ない。
 我が物顔で英雄を名乗り社会を席巻し、その実見て見ぬ振りをし続けた紛い物。彼らが守る、無知な群衆。
 その全てを、死柄木は呪う。その全てを、死柄木は破壊する。
 二人の大悪からお墨付きを貰った、無上の憎悪を燃料にして。

 死柄木弔は突き進む。
 先代(オール・フォー・ワン)が進んだ道を、彼の目指す滅びの未来を。
 似て非なる犯罪王(モリアーティ)の数式と共に歩みながら、目指す。

「……、」

 ――それはそれとして。
 彼のサーヴァントたる犯罪の王、教授と呼ばれた男は。
 数日前に、死柄木に対してとある言葉を伝えていた。

 それは死柄木にとっては理解不能な言葉であり。
 それでいて、爺の戯言と聞き流すことの出来ない奇妙な重みを孕んでもいる言葉だった。

『"まだ"頭の片隅に置いておくだけでいいとは思うんだがね。
 この街に糸を張っている蜘蛛は私一匹じゃあないらしい』

 蜘蛛。
 それはモリアーティを指し示す言葉であり、彼の所業を暗示する言葉でもある。
 巣を貼り、絡め取り、身動き取れなくなった時点で初めて主犯として嗤う彼にはまこと相応しい名であった。
 だが。この界聖杯を巡る戦いの中に――もう一匹別な"蜘蛛"があるという。

『どうも年季は浅そうだが……しかしなかなかどうして腕が立つようだ』
『素性は? アンタならすぐに割り出せんだろ、そういうの』
『いや、実のところ問題はそこでネ。チョロチョロと動き回っているのは分かるのだが、その尻尾がまるで掴めない。
 足跡を残さないように徹底していると言うべきか――或いは、あちらはあちらで既に蜘蛛(わたし)に気付いているかだ』

 そう言ってニヤリと笑うモリアーティに嘆息して、死柄木はそこで話を打ち切った。
 実際、本当に情報が掴めない状況が続いているのだろう。彼もそれ以上"蜘蛛"について言及してくることはなかった。

「あんな悪党がもう一人居るってんなら、いよいよホームズが必要だろ」

 そんな益体もないことを呟きながら、死柄木は都会の雑踏にその気配を溶かしていった。
 自分が何の気無しに呟いた一言が真相の一端を掠めていたことには、ついぞ気付くことなく。


◆◆


 道を歩いていて、フード姿の青年とすれ違った。
 その時"飛騨しょうこ"は、思わず足を止めて振り向いてしまった。
 けれどもちろん、そこにあった後ろ姿はしょうこの知る人物のものではない。
 背丈も、雰囲気も、どれもまるで違う。はは、と、しょうこは思わず苦笑した。

「なんか未練がましいなあ、私」

 あの子がこんなところに居るわけもないし、居ない方が良いに決まっている。
 それにしてもだ。背丈も雰囲気も全然違うのに、フード姿だというただそれだけのことで結びつけてしまった自分の頭に呆れた。
 お互い運命にはなれないと頭では分かっているつもりなのだけど、どうも自分の脳味噌は案外未練がましい構造をしているのかもしれない。
 だから一瞬とはいえ反応してしまったのだろうと自己完結して、また歩みを再開したしょうこ。

『マスター。さっきのは知り合い?』
「(まさか。似た格好をしてる子が居てさ、つい振り返っちゃっただけだよ)」

 律儀に念話で問いかけてくるアーチャーのサーヴァント……ガンヴォルトに対し、しょうこはそう返す。

『それって、前に君が言ってた――』
「(うん。最後には違うって分かったんだけどね、運命の王子様かもって思えた子)」

 とはいえ。ある意味、運命の一つではあったのかもしれない。
 もしも彼と出会うことがなければ、しょうこは少なくとも命を落とすことはなかったろう。
 そしてそれはきっと、手を汚させてしまったさとうにとっても幸いであったに違いない。
 昔ならいざ知らず、現代の日本で健康な女子高生が失踪したとなれば確実に騒がれる。警察も本気になって捜査するだろう。
 死んでしまった、殺されてしまったしょうこには推測するだけしか出来ないけれど。
 恐らくさとうは――"しおちゃん"と一緒に暮らすあの部屋を出なければならなくなったのではないか。

 ほんとに、何もかも噛み合わなかったんだなあ。

 念話ではなく、自分の頭の中だけでしょうこは自嘲するように呟いた。
 自分は死んで、さとうは愛する日常を崩されて。あの少年がどうなったかは分からないけど、とにかく誰も彼もが損をする形になってしまった。
 それでも、悪いことをしたとは思っていない。
 自分の言葉は届かなかったけれど。結局、さとうにとっての"その他大勢"以上の存在にはなれなかったけれど。
 だとしても――ああやって文字通り命を懸けて親友と向き合えたことは、しょうこにとっては後悔のない、自分に誇れる選択だった。

「(それにしてもさ。私たち、案外生き残れたね)」
『案外って言い草は心外だな。……でも、確かにほぼ戦わずに此処まで来られたね』

 予選期間にしょうこ達が経験した戦いは、わずか二度だ。
 しかも二回とも相手側の撤退という形で終わっているため、実際に主従を脱落させたことは未だ無い。
 生き残るまで何度となく戦わねばならないのだろうと思っていたしょうこにとっては、拍子抜けするほど安穏とした予選だった。

 残り二十三組。地平線の彼方へ歩む旅路も、終わりが見えてきた。
 一体どれだけの器が篩に掛けられたのかは定かじゃないが、目指す最果てが大分迫ってきたことには違いないだろう。
 聖杯を手に入れる。そして願いを叶える。
 自分には、やりたいことが――やらねばならないことがあるのだ。
 だから、そのために。飛騨しょうこは、他人の未来を奪う。

「(そういえばさ、聞いてもいい?)」
『常識の範囲内でなら構わないよ』
「(アーチャー、言ってたよね。"僕にだって願いはある"って)」

 それって、なに?
 しょうこがそう問うと、数秒だけ時間が空いた。
 けれどそれは答えるべきか迷っている沈黙ではなく、何かを追想しているような。
 思いがけず脳の奥から溢れてきた大切な記憶を噛み締めているような、そんな沈黙に感じられた。

『(声を聞きたいんだ。もう一度だけ)』

 それで、ボクは救われる。
 そう答えたアーチャーに、しょうこはくすりと笑って。

「(そっか。なんか分かっちゃったかも。私があなたのマスターになった理由)」

 ひとり、納得した。
 もう一度。そう、もう一度でいいのだ。
 まあ実際にはきっと、一度だけなんかじゃ気が収まらないだろうけど。
 もう一度だけ――会いたい。そして、話がしたい。声が、聞きたい。

 死がふたりを分かつとも。

 分かたれたものを繋ぐ奇跡が、そんな砂糖菓子のように甘い話があるのなら。
 それに縋るのはきっと、悪いことなんかじゃない。少なくともしょうこは、そう思っていた。


◆◆


 残り二十三組―――それが、"神戸あさひ"の脳に送り込まれた情報のすべて。
 彼にとって大切なのはあくまでそこだけだった。
 あさひはまだ生きている。一度だって死んじゃいない。
 あの炎に包まれたマンションの中さえ切り抜けた。悪魔のような女との攻防でさえ死ななかった。
 ただそれは、死ななかっただけだ。
 死ななかっただけ。だから今の彼は、ただ生きているだけの哀れな子どもでしかない。

 命よりもたいせつなもの。
 そういうものが確かにこの世にはあって、あさひにもそれがあった。
 それを。あさひは、救えなかった。取り戻せなかった。

「聖杯を獲得出来なかったら、この世界と一緒に消えることになる。
 ……それがなんだっていうんだ。願いが叶わないなら、俺にとっては死んだも同じなんだよ」

 あさひの世界には月がない。
 かつてはあったし手が届いた。
 でも、最後にあさひが見た月は。
 昏く淀んだ、悪魔のような何かに取り憑かれてしまっていた。
 それを取り除くことがあさひの願いであり、その願いを叶えることは彼にとって、命を懸けても惜しくないほど大切なことだった。

 太陽よりもずっと眩しく輝く月。
 最愛の妹――神戸しお
 彼女を真に取り戻すために、あさひは戦わなければならない。
 たとえ敗北の代償が消滅(死)だとしても、そうなることを恐れてぶるぶる震えて蹲っている場合ではないのだ。

「しおのいない世界に、意味なんてないんだ」

 しおが居て、母が居て、自分が居る世界。
 それがあさひの理想の世界であって、どれが欠けても駄目なのだ。
 それを取り戻すためならば。もう一度家族三人で笑って歩き出すためならば。

 神戸あさひ(じぶん)は、何だって出来る。何だってやれる。
 もう、人を殴ることにすら躊躇していたあさひは居ない。

「(……とはいえ。俺に出来ることが一体どれだけあるのかは、分からないけど)」

 意気込みなら、言われるまでもなく十二分にある。
 自分はこの聖杯戦争にすべてを懸けているつもりだ。
 けれど、聖杯戦争とはサーヴァントという超常の存在同士の戦いがデフォルト。
 故にあさひに何か出来ることがあるのかというと、目下そういうものは特になかった。
 強いて言うなら、こうして生きていることが仕事。
 その状況に不甲斐なさと焦りを抱いていないと言えば嘘になるが――


「余計なこと考えんなよ? 世の中には適材適所ってもんがあんだぜ」

 そんなあさひの心を見透かしたみたいに、彼のサーヴァントが現れた。
 サーヴァント、アヴェンジャー。真名をデッドプール
 月たる少女を失い、失意のままに界聖杯内界に召喚された彼の傍に唯一立っていてくれた存在。
 神戸あさひが聖杯を手に入れる上で必要不可欠な、世界でたった一人の味方(ヒーロー)。見た目は、とても英雄のそれではないけれど。
 ちなみに、霊体化すらしていなかった。
 思わずあさひは周囲を確認するが、幸い、虚空から奇矯な風体の男が現れるという超常現象を目撃してしまった人間は居ないようである。

「……分かってるよ、そんなこと。
 俺は所詮、人間相手じゃなきゃ何も出来ないガキだ」
「人間もバケモン揃いだぜ、此処は。
 金属バットで何発頭ぶん殴ってもケロッとしてるような奴が平然と彷徨いてるマッポーだ」

 あさひの前に現れてしおを奪った、女の姿をした悪魔。
 あれは、まだ人間だった。殴れば傷付く、そういう存在だった。
 だからビルから飛び降りて、そのまま死んだ。少なくとも肉体は。
 でもこの地には、それで傷付かない、死なないような人間(バケモノ)が平然と跋扈している。

「まあでも、お前に出来ることも一つはある。一応な」
「……なんだそれ。もったいぶるなよ、アヴェンジャー」
「釣れない坊っちゃんだねぇ。出されたクイズには何でもいいから答えるのが万国共通のマナーだぜ」
「……、……生きていること。か?」

 ため息交じりに答えるあさひ。
 それに対し、デッドプールは指でバツを作り、「ブブ〜〜」とおちょくるような声を出した。
 お前な、と口を開きかけるあさひだったが。
 そんな彼に、デッドプールは言う。

「お前がお前で居ることだ。
 それさえ出来るなら、俺ちゃんがお前にハッピーエンドを持って帰って来てやるぜ」

 重要なのは折れないことと曲がらないこと。
 地平線の彼方に辿り着くのは、確かにそれ自体がそもそも大変に難儀なことであるが。
 結局なところ一番大事なのはそこだ。己を偽らず、それでいて生き抜くこと。
 それだけ出来れば、どんなに無能だろうと"勝てるマスター"に分類される。

 あくまでデッドプールがそう言っているだけだったが。
 それでも、彼の言葉を聞いたあさひは――

「……そうだな。そうかもしれない」

 確かに。
 それでいて、ずいぶんと久しぶりに。

「ありがとう、デッドプール

 少しだけでも、微笑んだのだ。


◆◆


 界聖杯を奪い合う、地平線の果てへ辿り着くための聖杯戦争は既に佳境に入っている。
 世界線の垣根を無視して集められた無数の器達も、今となっては二十とわずかしか残っていない。
 にも関わらずだ。本人の意思を無視して強制的に聖杯戦争に参加させている故か、未だに聖杯ではなく帰還だけを望む者が少なからず居た。 
 "幽谷霧子"もまた、その一人である。彼女は非道の限りを尽くし、是が非でも叶えたい願いというものに覚えがない。
 願うのは聖杯ではなく、帰還。
 とはいえどうやって帰る気なのか、その具体的な方針すら未だに定められていない――霧子はそんな器であった。

「……、」

 日は高い。
 燦々と降り注ぐ陽光が季節を感じさせ、霧子の白い肌を優しく暖めてくれている。
 人の気分を晴らし、幸福感を与えてくれるものであるはずの快晴模様。
 それに一抹の寂しさを感じるようになったのは、この世界に来てからのことだった。

 霧子の召喚したサーヴァントは、強い。
 クラスはセイバー。七つのクラスの中でも最優と呼ばれるそれ。
 武術の心得などなく、また戦いの世界に興味も縁もない霧子には他者の強さを推し測る能力などなかったが。
 それでも、彼がとても強い――自分では想像も出来ないほどの修練を積んできた存在なのだということは分かった。
 その名を黒死牟。人ではなく、鬼。人に笑顔を与えるアイドルが召喚するにはあまりにも似合わない、血腥くて悍ましい英霊(ばけもの)である。

「(セイバーさんは……いつから、お日さまを見てないんだろ……)」

 霧子は、彼に対してそんなことを考える。
 黒死牟は太陽に拒絶されている。陽の光を浴びれば死ぬのだと、そう聞いていた。
 それはとても寂しいことだと、霧子は思った。
 彼は暖かい世界を知らないし、そこに入れないのだ。
 どんなにお日さまが眩しくても、彼はそれを見られない。
 彼の世界は肌寒くて暗い夜だけで――最初からそうだったのか、何かがあってそうなったのか。霧子は、知らない。

 黒死牟は、罪に穢れた存在だ。
 妄執のままに数百年を彷徨い、ついぞ何も得ることのなかった鬼。
 焦熱地獄の底から現世に再びまろび出ても尚、その異形の六眼に写るのはただ一人だけ。
 人に笑顔を与えるのが仕事のアイドルとは似ても似つかない、笑顔を奪い糧にするだけの悪鬼。

 その彼にすら優しさと眩しさを向けるこの少女は、一体何であるのか。
 答えなど決まりきっている。幽谷霧子は人間で、それ以上でも以下でもない。
 太陽のような――ただの人間。
 それが彼女の真実だ。


「(あの人にとって、わたしが……いいマスターなのかは、分からないけど……)」

 多分そうではないのだろうと、霧子も分かっている。
 分かっているけれど、それでも霧子は彼のことを自分が生きるための道具として見たくはなかった。
 だってそれでは、あまりに寂しすぎるから。
 せっかくあの人は、わたしの剣(セイバー)として遠い世界からやって来てくれたのに。

「(少しでも……黒死牟さんの中に"わたし"が残ったら、いいな……)」

 彼が当たれない太陽の光の下を、幽谷霧子は歩いていく。
 この世界が終わるその時も、もう遠いところではないのだろう。
 器は残り二十三体。故に残る主従の数も、二十三組。
 霧子にはそれが多いのか少ないのかすらピンと来なかったが、此処に来て界聖杯から直々に数が明示された意味は分かった。
 終わりが近いのだ。地平線の彼方は、もうすぐそこにある。

 それは霧子にとって、元の世界に帰れるかどうかの分水嶺が近付いているということでもある。
 可能性を失った器は帰れない。この世界と共に消えてなくなる。
 そのことに対する恐怖は、もちろんあった。
 霧子は自分の実質的な死や、元ある日常に戻れないことに対して何の恐怖も覚えないような超人ではない。

 ――それでも。銀の太陽は、その在り方を失わない。
 人も鬼も平等に照らす優しいお日さま。それが、幽谷霧子なのだから。


◆◆


「やっぱりな。そんな旨い話はねェんだ世の中には」

 嘆息しながら、聖杯戦争のマスターの中でも最も時代に合わない身なりをしているだろう男。
 "光月おでん"は公園のベンチにどっかりと座り、近隣のコンビニエンスストアで購入したおでんを頬張りながらそう言った。

 おでんは、役割を与えられることなくこの内界に放り出されたマスターの一人である。
 社会的身分がない状態で、尚且つ此処の時代にはまるで見合わない装い。
 同じ境遇にある他のマスターに比べても、間違いなく最も寝食の確保が困難であろう男。
 しかしながら故郷『ワノ国』始まって以来きっての変人大名であるおでんに言わせれば、その辺りのことは全く問題ではなかった。

 このおでんだって、あくまで正当に金を払って購入したものだ。
 力仕事の出来る人手を欲しがっていた老人に手を貸してやり、その報酬として金を貰った。
 そういう人助けの仕事を、おでんはこの世界における自分の日常にしていた。
 金は入るし、腹も膨れる。最初は現代のシステムに多少難儀したが、銭湯に行って身体を洗うことも覚えた。
 ロールがなくとも生きられる。それしき何ということもない。
 おでんにとって真に問題なのは、この"聖杯戦争"という大戦(おおいくさ)のことのみであった。

「お前はどう思う、縁壱。
 おれはどうも受け入れられねェ。勝たなきゃ皆死ぬなんて、そんな手前勝手な話はないだろうが。
 そもそも呼んだのは界聖杯の方だ。誰も好き好んでこんな所に来たわけじゃねェのによ」
『概ね同意見だ。恐らく無我に等しいモノなのだろうが、ならば仕方ないと済ませられる所業でもない』

 おでんの目的は界聖杯の見極めだ。
 真贋ではない。善悪の方である。
 これが果たして、人を導く善いものなのか。それとも悪いものなのか。
 それを見抜くことがおでんの方針の全てであって、彼は聖杯を手に入れる気もなければ、脱出の糸口を探し回る気もない。

 光月おでんは死者である。
 本来ならば、英霊になって召喚されるべき存在なのだ。
 なのに何の因果か今はマスターとして、この界聖杯内界にのさばっている。
 死者は死者。生き汚く足掻いて生者の邪魔をするというのは、おでんの志に反する思想であった。

「また、黒に傾いちまったな」

 碁盤の石は、今のところは黒優勢だ。
 界聖杯は確かに、何の陰謀も関与していないクリーンな願望器であるのだろう。
 だが、それは聖杯が善なるものであるという証明ではない。
 無垢とは、時にどんな悪意にも勝る残酷である。
 もしも界聖杯がそういうものであるのだとしたら――その時光月おでんは、躊躇なく界聖杯を斬る。

 それで何が起きるのかは分からない。
 それでも斬る。やると決めたら必ずやる。
 それが光月おでんだ。それが、ワノ国にかの者ありと謳われた侍だ。
 その生き様にこそ。海賊も、侍も、無辜の民も、皆惚れ込んだのだ。

「残りは二十三、多いようだがすぐに減るだろう。
 俺とお前なら遅れを取りはしねェと思うが……」
『それは過信だ、おでん。人の才覚を侮るべきではない』

 彼のサーヴァント。
 魔境と呼ぶ他ない海を知るおでんですら、剣の怪物だと確信する他なかった神域の剣士。
 継国縁壱が、おでんの言に異を唱える。その声音はいつものように静粛を纏っていたが、そこには鋼のような重みがあった。

『この世にはいつだとて、過去(われら)を上回る才覚の持ち主が産声を上げているのだ。
 まして界聖杯が世の垣根をすら超えて"器"を募っているというのならば尚のこと』
「……ああ、そうだな。世界ってのはいつだってこっちの予想を平然と超えてきやがるからな」

 おでんは知っている。自分の常識を超えた存在というのを、いくつも見てきた。
 それは白い髭の大海賊であり。後に海賊王と呼ばれる男であり。そして、龍に化ける怪物だった。
 最後の一戦は形こそ騙し討ちに終わったものの、たった一撃刻んだだけで実質勝っていたなどと嘯くつもりはない。
 あのまま何の横槍も入ることなく戦いが続いていたとして、それで自分がアレを倒せていたかと問われると、正直なところ自信はなかった。
 おでんの知る世界ですらそうなのだ。
 ならば縁壱の言う通り、数多の世界が交差するこの内界は――死者の想像など軽く飛び越えてくる、とんでもない大魔境なのだろう。

「だがそれでもだ。おれとお前なら必ず勝つ」
『……その根拠は何だ』
「お前の剣は馬鹿げて鋭い。覇気も使わねェでおれと打ち合える時点で異常だ。
 そしておれはあの海で、これ以上ないってくらいのすげェ奴らを山ほど見てきた。
 そんな俺らがこうして比翼を組んでるんだ。これで負けると思うなんざ玉ナシだぞ」

 縁壱の剣は言わずもがなだ。
 たとえ物珍しげな付加効果が無くとも、彼の振るう刃はそれそのものが万の神秘に匹敵する絶技である。
 そしておでん。彼の剣は、マスターの身でありながらサーヴァントの肉を斬れる。
 武装色の覇気。流桜。自然(ロギア)の力を持つ能力者ですら形あるものとして斬る極意。
 それに依り成る、ワノ国に名高き"おでん二刀流"――神秘の垣根をすら超えて、おでんは英霊を斬れるのだ。

『不思議なものだ』

 おでんの言葉を聞いて、縁壱は小さくそう言った。
 その声音は呆れているようでもあり、しかし同時に何かを感じ入っているようでもあった。

『お前の言葉には、何か目に見えない力があるのかもしれない』

 ――おれとお前なら必ず勝てる。
 その言葉に、らしくもなく"納得"を覚えてしまった縁壱。
 だからこそ彼は、そんな言葉を口にした。


◆◆


 東京都内、皮下医院。
 その院長たる男、"皮下真"は肩書きに見合わぬ若さを持った青年だった。
 女性受けするだろう甘いマスク。軽薄ながらも人々の心を容易く開かせる明るく誠実な人柄。
 この病院の評判は押し並べていい。身勝手で独り善がりなクレームが集まりがちなインターネット上のレビューでも評判は大層良かった。
 しかしそんな病院にでも、死者は出る。
 こればかりは生き物としてもうどうしようもない活動限界だ。人の過失が一切関与しなくても、人間は死ぬ。
 故に本来、全ての患者を救えと求めるのは門外漢の傲慢な無理難題以外の何物でもないのだが……少なくともこの病院においては、少し違った。

「"葉桜"の量産は極めて順調だ。質は悪いが鉄砲玉にはなる。
 俺も捨てたもんじゃねえな〜全く。俺の肉体と多少の設備さえありゃ、こんな異世界でも超人軍団を作れちまうんだからさ」

 皮下医院には、その院長には裏の顔がある。
 自然死でない死者が居る。そもそも死んでいない死者が、居るのだ。
 彼ら彼女らは生きている。此処ではない異空間で、人間の規格を超えさせられた肉体で戦いの時を待っている。
 それが"葉桜"。皮下医院院長にして聖杯戦争のマスター、界聖杯内界に残存する二十三の器の一つ。
 皮下真という怪物が百年余りの生涯を費やして生み出した、禁忌の生体科学であった。

「十五……いや、六だったか? もう分かんねえな、数えるのも途中で止めちまった。
 死んでいった連中も気の毒だ。あんたみたいな怪物が混ざってるとは、流石に聞いてなかったろうに」

 界聖杯を巡る戦いにおいて、最も多くの敵を潰した英霊。
 それは、最強の生物と呼ばれたモノであった。
 超人魔人の犇めく乱世の海を生き、幾度も敗北し、時に無様すら晒しながら、さりとてその世界における究極の一であり続けた怪物。
 カイドウ。皮下医院に潜む化物が、聖杯獲得のビジネスパートナーとして連れる鬼。

『この戦争を終わらせる手段は間に合ってる。
 だが課題もある。お前の魔力じゃおれの"鬼ヶ島"を賄えねェ』
「無茶言うなよ。あんたを使役出来てる時点で、俺は相当な優良株だぜ」
『そこに異論を唱えたつもりはねェよ。だが不足があるのは事実だろう』

 その声は虚空から響いているが、しかしカイドウは霊体化などしていない。
 真の意味で、彼はこの場所になど居ないのだ。
 カイドウが住まうのは異界。彼の宝具である、鬼の住まう島。
 普段はそこでふんぞり返り、気紛れと悪酔いで現世に出ては英霊を虐殺する。
 まさに天災のような男であったが、素面の彼は打って変わって理知的で真面目な男だった。
 彼には、見えているのだ。自分が聖杯戦争の勝者となる確実なプランが、既にその脳裏に浮かんでいる。
 強さで名を上げるのは簡単だとしても。強さ一つで君臨し続けることは、簡単ではないということなのだろう。

『今の調子で魔力を集めろ。準備が出来次第、"界聖杯(ユグドラシル)"を獲りに行く』

 皮下真は、誰よりも近くでこの怪物を見てきた。

『"世界樹の王"になるのはおれだ』

 だからこそ、その言葉が単なる阿呆の大言壮語でないと理解出来る。
 カイドウはいつだとて常に本気だ。そして、その本気を蜃気楼に終わらせない力を彼は持っている。

 この男は、最強の生物だ。間違いなく、界聖杯を巡る戦いに喚ばれた中でもハイエンドの一角。
 十六の英霊を殺し、その上で傷一つ負っていない――皮下の知る"怪物一家"以上の化け物。

 故に皮下は、今最も地平線の向こう側に近い器は自分であると自負していた。
 頑然とした事実としてだ。自分の目にはもう、界聖杯の輝きが見えている。

「分かってるさ……おっと。
 そろそろ孤児院の健康診断に行かないといけない時間だ。
 悪いなカイドウさん、ちょっくら医者(おもて)の仕事をしてくるぜ」
『ウォロロロロ……お前が医者ってのは、何度聞いても不謹慎な話だな。シーザーの野郎を思い出す』
「誰だよ。つーか失礼だな、俺はこれでもかれこれ百年近く医者やってんだぞ?」

 軽口を叩きながら、表の仕事の一環をこなすための準備をする皮下。
 病院の院長という立場は、今の自分たちが向き合うべき課題をこなす上で非常に都合が良かった。
 このロールは大事にしなければならない。だから皮下は、少なくとも表面上は真面目な医者をする。

「(ずっと医者って言っていいのかは定かじゃねえけどなあ。
  でも……人を診る仕事は、マジで長くやってるな)」

 皮下真は外道である。
 人の命を何とも思わず、不要になれば簡単に切り捨てる。そうでなくとも気紛れに切り捨てる。
 百年以上変わらない外見で世にのさばりながら、ただの一度も報いを受けずに生きてきた化物。
 そんな彼が聖杯に願うのは、ただひとつだ。
 それは彼の悪行に満ちた生涯には似合わない、願いであった。

「(悪いな。出来れば俺の理想は、あんたの居る世界(ところ)で叶えてみせたかった)」

 桜が見たいのだ。
 人の苦悩も格差も争いも、全てを解決させられる美しい桜が見たい。
 世界中に咲き誇る、満開の桜。
 昼も夜も関係なく咲き続けるそれが見たくて、皮下真は――"川下真"は。ずっと非道を働き続けてきたのだから。

「(だけど……まあ、良いだろ。
  俺が次にあんたのところに帰ったなら、そこにあるのは俺たちの理想郷だ)」

 儚く、永く、悠久を生き続ける夜桜。
 誰より永く咲き続けながら、しかして蕾の名を持った皮肉な女。
 今は此処にない、声も聞こえないその輪郭を脳の奥で象りながら……人間(ばけもの)は、一人笑った。


◆◆


 退屈な街だと、"北条沙都子"は常にそう思いながら内界での時間を過ごしていた。
 東京。日本一の大都会。それは、沙都子の生きていた昭和の時代でもそうだった。
 だがいざ実際にそこに住んでみると、ただやたらめったらに騒がしく人が多いだけとしか感じられなかった。
 これならば、あの村の方がずっといい。雛見沢と興宮、足を伸ばしても鹿骨市。
 そこまでの狭い、閉ざされた世界だけで生きていた時の方が……やっぱりずっと幸せだった。

「(ルチーアよりは、流石にマシですけれど)」

 北条沙都子の全てが狂ったのは、唯一無二の親友が外の世界を渇望したところから始まった。
 全寮制のお嬢様学校。そこが如何に住みにくく息苦しい場所であるかを、自分を姉のように可愛がってくれる年上の友人から聞いていたのもある。
 それでも沙都子は付いて行った。親友が、梨花が行くのならばと努力した。
 けれどそこが沙都子の限界。叶えたくもない夢をなんとか叶えた後も努力し続けることは、彼女には耐えられなかった。

 そして全ては狂い始めた。
 すれ違いと、疑心と、膨らみ続ける望郷の念。
 感じていた友情はいつしか憎しみに変わり。
 愛するが故の狂気が、沙都子を神の座へと辿り着かせた。
 奇しくもそれは、かつて古手梨花がそうしていたように。
 偉大なる社の神、その大源に触れて――北条沙都子は、"繰り返す者"となったのだ。

「リンボさん。いらっしゃいまして?」
『――ええ、お傍に。拙僧に何か御用でも?』

 だが運命とは数奇なもの。
 沙都子はそれでも、雛見沢から引き離される運命にあった。
 エウアの声も力も届かない異界、界聖杯内界。
 今の彼女はそこで全能の願望器を求めて争う、"可能性の器"の一体として生きることを余儀なくされている。

「昨晩、界聖杯からお知らせが届きましたの。
 残りの器は私を含めて二十三体。聖杯に至れなかった器は、最後にはこの世界と一緒に無くなってしまうそうですわ」
『そうでしょうなァ。界聖杯は無我にして無欲。善にも悪にも染まることのない永遠の中庸。
 "己を使わせる"という目的を果たすためだけに駆動している存在なれば。
 その存在意義が果たされた後のことを想う機能なぞ、搭載されている訳もありますまい』
「察しが付いていたのならどうして私に言いませんの?」

 沙都子にとって界聖杯は、"あってもなくても構わないもの"なのだ。
 沙都子にはエウアの力がある。聖杯に頼らずとも、それで繰り返し続ければ彼女の目的を果たす上では事足りる。
 仮に手に入れられれば道中の手間は省けるかもしれないが、"絶対"の決意を持つ沙都子にとってその差異はひどく微細なものだった。
 少なくともだ。雛見沢に帰れないまま、この退屈な異郷と心中することになるかもしれないリスクと比べれば――決して釣り合わない。

「……まあ、いいですわ。
 どの道此処に喚ばれた時点で私、運命の一本道に立たされていたようですし」

 これで、皆殺し以外の帰り道はなくなった。
 しかしそれを億劫に思う気持ちはあっても、躊躇う気持ちはない。
 何故なら既に殺している。愛する仲間を殺し、狂気の淵に立たせ、自分の夢(エゴ)を叶えるために大団円を蹴り捨てた殺人鬼。
 この世界には惨劇の運命を確定させられる悪魔の薬は無いが、それでも彼女の進む道は変わらない。

 それが北条沙都子の今の姿だ。
 古手梨花と、彼女と過ごす時間。
 そこに懸ける狂気のような、されど嘘偽りのない愛。
 最後に理想の世界へ行き着けるなら、その過程で幾ら殺しても沙都子の心は痛まない。

「ただし、リンボさん。私をおちょくるような真似は金輪際お控え下さいまし」
『ンン、これは失礼。以後はこのリンボ、改めましょう』

 そのお詫びというわけではありませぬが――と。
 言うなり、リンボが霊体化を解いて沙都子の眼前に傅いた。
 歪む口角は三日月を象って。粘っこい笑みを浮かべながら、彼は伝えた。

『先程、この院に医者が訪れておりましたな』
「……ええ。定期的な健康診断ということでしたけれど――あの方が何か?」
『あれは人ではありませぬ。少なくとも拙僧の眼には、人の肉体とは写りませんでした』
「……、へえ。そうですの」

 沙都子は、両親を亡くした孤児という役割を与えられている。
 となれば叔父か叔母にでも扶養されるのかと思ったが、それはなかった。
 都内の児童養護施設で暮らす、親の居ない子ども。
 正直な話、沙都子としては利用価値のある叔父に扶養されている設定の方がありがたかったのだが――

「それは、良いことを聞きましたわ」

 縁とは、思いがけないところに転がっているものだ。
 物語の魔女のような艶やかさと少女の愛らしさを同居させた笑みが沙都子の貌に浮かぶ。
 その双眸は――血のように紅く、紅く染まっていた。


◆◆


 残存主従数・二十三組。
 その伝達はどこまでも血の通わない、冷淡な情報となって器たちの元に届けられた。
 当然、"古手梨花"とて例外ではない。彼女もまた、本戦の開始まで勇士犇めく蠱毒の宴を生き延びた優秀な器の一つであるのだから。

 しかしながら、梨花の表情は決して明るくはなかった。
 それもその筈、当然だろう。自分が生きて帰る道は聖杯を手に入れる以外にはないのだと、界聖杯から直々にそう言い渡されたのである。
 元より聖杯を手に入れなければならないかもしれないという思いはあった。
 古手梨花が求めるのは幸せな未来。かつて一度確かに勝ち取った、誰も欠けることのない大団円。
 そこにもう一度辿り着けるのだとしたら。梨花はきっと、奇跡にだって手を伸ばしただろう。

 ただ……今では、"聖杯を手に入れる"ことの意味も大きく変わってしまっている。
 願いを叶えられるのは一人だけ。生きて帰れるのも、一人だけ。
 誰かの願いを一つ叶えるために生まれてきた現象は、あぶれた願いとその器たちを救わない。

「最悪ね。生きて帰りたいなら、誰かの命を踏み台にしろっていうの……?」

 梨花は過去に一度、人を殺したことがある。
 それは現実の世界ではなかったのかもしれない。
 梨花のことを慮ったお節介で優しい神様が据えた、ちょっとしたお灸。一時の夢だったのかもしれない。
 真実を知る術はもう何処にもない。オヤシロさまは眠り、その残滓さえ梨花の許を去った。
 だが。

 梨花は、それを自分の罪だと認識していた。
 自分が勝ち取った理想の世界に帰るために、自分の母親を殺したと。
 理想の世界で生きるために、罪のない世界を切り捨てたのだと。

 そして今、彼女はもう一度それを求められている。
 否――一度なんてものではない。
 何度でもだ。自分が使役している以外のサーヴァントがこの内界から完全に消え去るまで、何度でもそれをさせられる。
 それが元の世界に帰るための条件。まさしく、悪い夢のような話だった。

「ええ、お世辞にも褒められたやり方じゃないわね。
 全能だか何だか知らないけど、呆れた無責任ぶりだわ」
「……セイバー」

 梨花の言葉に呼応するように、傍らの英霊が嘆息した。
 新免武蔵守藤原玄信。通りの良い名で呼ぶならば――宮本武蔵
 古手梨花のサーヴァントは、大袈裟でなく日本人なら誰でも知っているだろう知名度を持つ大剣豪であった。
 史実と違い何故か女性であるという不可解な点はあったものの、一度でも彼女の戦う姿を見れば、誰もが武蔵の名を疑えなくなるに違いない。

「でもね梨花ちゃん。今君と私が居る此処は、その無責任な理の内側よ」
「っ……」
「どれだけ悩んでも頑張っても、もしかしたらそれには何の意味もないかもしれない。
 結局未来は一本道で、片っ端から戦いを挑んで生き残る方が早いかもしれない。
 それを踏まえて聞くから、君の言葉で答えてほしい」

 故に、だ。
 彼女とならきっと出来るだろうと梨花は思う。
 出会った英霊を片っ端から斬り、倒し、殺し。
 そうやって最後の一騎に残り、聖杯を手に入れて元の世界に帰る"正攻法"での突破も。
 まだ剣を振るう武蔵の姿を見たことはないが、それでも彼女と一緒に過ごし、その強さの片鱗に触れてきた梨花にはそう確信出来た。

 武蔵の方も、多分そのことを分かった上で。
 彼女は仮初めのマスターへと問いかける。

「――梨花ちゃんは、どうしたい?」
「わたし、は……」

 それはとても大切で、だからこそとても大変な質問だったが。
 梨花が答えを出すまでには、あまり時間は掛からなかった。

「私は、帰りたい。生きて帰って、今度こそ皆で幸せになれるカケラを見たいのよ」

 そのためならば、だ。
 最終的には誰かを犠牲にすることだってきっと出来る。
 何しろ一回やっているのだ。二度目、三度目が出来ないなんて道理はない。
 投げられた賽を叩き割って、六の面だけを拾い上げる行いもきっと梨花には出来る。選べる。

「……でも。
 選ぶのは、まだ先にさせてほしいの」
「それはちょっと悠長な話じゃない? でも一応理由を聞いておこうかしら」
「昔――うんと学んだのですよ。何か物事を決める時には、短気が一番良くないって」

 それは、古手梨花が百年の旅の中で学んだ集積の一つだ。
 一時の感情に身を任せて下す決断は確かに強いが、その実脆い。
 疑心暗鬼に囚われることのない身である梨花がそれを思い知る場面はそうなかったが。
 だからこそこの時、梨花は勇気ある"先延ばし"を選ぶことが出来た。
 確たる自分の言葉――自分の答えとして。

「だからセイバーには、もう少しだけボクに付き合ってほしいのですよ。にぱー」
「しょうがないなあ――ふふ。でもまあ、そういうのもありか!」

 にぱー、と。
 いつもの調子で微笑む梨花の頭をわしゃわしゃと撫で、困ったような笑顔で武蔵は評を下した。
 百点満点ではないけれど及第点。落第と切り捨てるまではいかない、まずまずの答え。

 それでもだ。それは確かに、建前も虚飾もない"古手梨花"の本心からの言葉だったから。
 武蔵は最後までこの少女の剣士で居ようと、改めて胸に誓った。
 古手梨花の聖杯戦争がどんな形であれ幕を閉じるまで――天元の花は、彼女の傍らに咲き続ける。

 ……時折。
 自分が見届けられなかった"あの子"の旅路(いま)に、想いを馳せながら。


◆◆


 その男の名を語ることに意味はない。
 無論彼とて一般的な家庭に生まれた一人の人間なのだから、当然それ自体はある。
 けれど、重要なのは彼の人間としての名前などではなく。
 彼が、誰かの"プロデューサー"であること。もとい、あった、ということだった。

 脳内に躍る新たな情報。
 界聖杯を手に入れられなかった者の末路。
 男は只人である。決して、類稀な才覚を秘めた超人などではない。
 だからこそ彼の脳内にも他の多数のマスターたちと同様に、追加された件の条項が深く突き刺さっていた。
 彼が他と少しだけ違ったのは。その存在感を確かに認識しながらも、歩みを止めなかったこと。

 ――人でなし、なんだろうな。俺は。

 それは決して的外れな自虐などではなかった。
 男が召喚し、己のしもべとしている英霊。
 武人の技と人外の膂力を兼ね備え、修羅の形相で敵を殴殺する人喰い鬼。
 猗窩座は、既に何騎かの英霊を蹴散らしている。
 更に言うならば。英霊だけでなくマスターについても殺し、屠り、時には喰らって糧にさえしてきた。

 もしも彼が他人の犠牲を物ともしない異常者であるか、或いは殺人の責任をサーヴァントに転嫁出来る屑だったならば。
 きっと彼にとってこの聖杯戦争は、もっとずっと楽なものになっていただろう。
 だが違った。男は、あまりにも真面目だった。
 彼は忘れられない。散っていった者達の顔を、その肉が喰らわれる瞬間の音を、一つとして忘れることが出来ない。

 全て背負ったまま――すまない、許してくれ、ごめんなさい、と。
 心の中で手を合わせて詫びながら、血だらけになりながら茨の道を突き進む。
 あまりにも不器用であまりにも苦痛を伴うその生き様の中で、何度思ったことか分からない。


 ああ、いっそ。
 鬼になれたなら、俺はどれほど楽なのだろう。――と。


 界聖杯に与えられた役割は完全に放棄していた。
 何もそれは、聖杯戦争を進める上でその方が都合が良かったからというだけではない。
 元の世界と同じ職業、同じ職場。そこに顔を出すのが、どうしようもなく恐ろしく思えたのだ。
 もうこの手は、この身体は、血に汚れている。罪に穢れている。
 たとえ仮初めだろうと。全てを果たすまでは、帰るべきではないのだと。
 自分の役割を知ってすぐにそう悟った。それから今まで、プロデューサーだった男はずっと聖杯戦争のためだけに日々と時間を費やしている。

 ――にちかは、こんな気持ちだったんだな。
 ――ずっと、ずっと。

 終わらない、終わらない。
 何度倒しても終わらない。
 終わりが見えない。いや、昨晩ようやく少しだけ見えてきた。
 でも同時に理解出来てしまったのだ。此処から先は、今まで歩いてきた道のりよりもずっと長くて険しいのだと。

「ランサー。念のため言っておくが、俺たちの指針は今後も一切変えない」

 にちかはどれほど歩いたのだろう。
 合わない靴を履いて、どれほど。

 七草にちかを幸せに出来なかった男もまた、今は合わない靴を履いている。
 善良でまっすぐな男では咎人の茨道はとても歩めないから、自分の履くべきでない靴を履いて、痛みに耐えながら歩いているのだ。
 今度は自分の番。自分がこの苦しみを味わって、そして乗り越える番。
 なのだから、歩みは止められない。"優勝"以外に、未来はないのだ。

 男は。中途半端な逃げ道を奪い、只人の自分の行き先を一つだけに限定してくれた界聖杯に――感謝の念をすら、抱いていた。

「優勝するんだ。俺たちが」

 ランサーは、鬼は、ただ一言。
 分かった、とだけ答える。
 それ以上の問答は不要であると思っていたし、相手の側もそう考えているだろうことを確信さえしていた。

 猗窩座の目から見たこの男は、ひどく惨めで、みすぼらしい人間だった。
 強くないのに強い者の道を歩く。滑稽なほど不格好に、それらしくあろうとする。

 或いは、だからこそ――なのだろう。
 猗窩座は今、鬼舞辻無惨の走狗であった時とは確実に違う情を寄る辺にして戦っていた。
 上弦の参たる猗窩座は死んだ。役立たずの狛犬は救いと共に地獄に堕ちた。
 此処に居るのはただの影法師。猗窩座であって、狛治であって、そのどちらでもない残響。

 鬼になりたくとも決してなれない惨めな男のために。
 人喰いの鬼、赦されざる地獄の住人は、ただ拳を振るうのだ。


◆◆


 ――生きている。

 生き残った。それが、"七草にちか"が最初に抱いた感情だった。
 残りのマスターの数が二十三人まで減少した旨を告げる界聖杯からの神託。
 それを受け取った途端、にちかは思わず自分の手を確認してしまった。
 それでも、ちゃんとそこには令呪のきらめきがある。
 七草にちかが聖杯戦争に列席する資格を持つ"可能性の器"であることを証明する三画の刻印は、変わらずそこにあった。

「良……かった〜〜……」

 思わず、そんな脱力するような声を漏らしてしまった。
 無論、にちかの元にも聖杯戦争に追加されたルールについての情報は届けられている。
 もしかすると自分の反応は不謹慎ってやつなのかもしれないとは思ったが、それでも。
 それでもにちかは安堵した。
 自分がまだ生きていることと、可能性とやらを失っていないこと。
 その二つの事実を噛み締めて、思わず床にへたり込んでしまったほどだった。

 自分がサーヴァントにおんぶに抱っこの、お世辞にも役に立っているとは言い難い有様なのは承知している。
 七草にちかはたぶん、とても使えないマスターだ。
 無能、と言っても間違いではないとすら思っている。
 絶対に勝ってやると誓った舞台で惨めに負けて、そのまま此処まで転がってきた石ころ。

「ひとまずは此処まで生き残れたな。でも油断は禁物だぞ、マスター」
「あ……分かってますよ、ちゃんと。
 分かってるんですけど、なんかこう、気が抜けちゃって……」
「気持ちは分かるよ。俺も君を無事に此処まで導けてホッとしてる」

 そんな敗残者に、負け犬に。
 飛ぶことをやめたイカロスに、もう一度空を目指させた男が居る。
 それこそが彼女のサーヴァント。ライダー、アシュレイ・ホライゾン
 その名の通り灰と光の境界線を体現する在り方を見つけ、天翔の末路を克服したもう一人のイカロス。

 もしも自分が出会ったのが彼でなかったらどうなっていたかは、あまり考えたくなかった。
 そもそも生き残れていたのかも分からない。
 途中でストレスを溜めて爆発させて、勝手に主従を空中分解させてしまっていた可能性さえある。
 アシュレイのおかげで、にちかは"希望"を見た。辿り着きたい、また挑みたい"未来"を見た。
 強くて優しい、兄のようでも父のようでもある人。敗れて地に落ちたにちかにとって、アシュレイの印象はそんなところであった。

「けど、敢えて不安にするようなことを言わせてもらうぞ」

 アシュレイは、にちかに対してそう続ける。
 そうだ。七草にちかは確かに、熾烈な予選を生き抜いた。
 だが――それはこの界聖杯を巡る戦いの中では、あくまでも一区切り付いただけに過ぎない。

「本戦は多分、今まで俺たちが経験してきた戦いとは比べ物にならないほど過酷なものになると思った方がいい。
 俺もサーヴァントとして全力を尽くすけど、君も覚悟は決めておいてくれ。
 絶望に心が砕けそうになったらすぐ俺に言うんだ。転ぶのは慣れてるから、起こし方も人よりは心得てる」
「……至れり尽くせりですね、ライダーさんは」
「笑うなよ。本気で言ってるんだぞ、これで一応」
「知ってます。ライダーさんは、私の"先輩"ですもんね」

 蝋の翼での飛び方を知っている、先人。
 にちかは笑って、アシュレイもそれに応えるように頬を緩めた。
 アシュレイは思う。この子は、自分で思っているよりもずっと大きな可能性を秘めた女の子だと。
 可能性の器とはよく言ったものだ。もしも彼女が本当に何の輝きも秘めていない石だったなら、そもそも此処に呼ばれることすらなかったに違いない。

 サーヴァントの役割だとかを抜きにして、アシュレイは純粋に、にちかを帰してやりたいと思う。
 七草にちかは、戦いの中なんかで死ぬべき人間ではない。
 夢を叶えてステージで輝き、夢の果てまで飛んで、飛んで。
 年を重ねて、大切な人を得て、穏やかで幸福な終わりを迎えるべき人間だ。
 自分は良いマスターを得たなと、お世辞でも何でもなく、アシュレイはそう感じていた。

「(……とはいえ、問題がこの先なのは本当だ。
  戦いの激しさという意味でも、それ以外の意味でも――今までと同じ感覚では挑めないな)」

 自分の弱さをこの世の誰よりよく知っている身だ。
 誓って、予選だからと手を抜いたことはない。意識を緩めたこともない。
 しかし恐らく、この先の戦いはどんどん激しさを増し、東京は魔界の様相を呈していく筈だ。
 予選とは段違いの規模、頻度。そしておまけに、マスター達の戦う意思をより強める燃料まで供給されてしまった始末。

「(界聖杯についても……注視していく必要があるな。
  マスターを元の世界に帰すために戦うことに異議はないが、戦いを降りた器たちまで踏み潰すとなれば話は別だ)」

 車輪(うんめい)で轢き潰すように、戦いを降りた器達を犠牲にするのは、アシュレイの信条に反する。
 そんな犠牲を払って帰したとしたら、きっとにちかの心にも傷が残ってしまうだろう。
 だからそこについても考えて、ともすればにちかに選んでもらう必要もあるかもしれない。
 自分はあくまでもサーヴァント。願いを抱く器は、彼女の方であるのだから。


◆◆


 もしも鬼舞辻無惨という鬼が、昔話に出てくるようなステレオタイプな悪鬼であったならば。
 きっと彼を根源とした悲劇の渦は千年も続かなかったろうし、あれほど多くの犠牲が出ることもなかったろう。
 一人の心なき男から始まった紅蓮の物語が世代を超えて引き伸ばされ続けたのは、ひとえに始祖たるその男が"それらしくなかった"からだ。

 戦いを望まず、致命的な状況と悟ればすぐさま逃亡する。
 その後百年単位で姿を隠し、自分の首に刃が届く未来を徹底して回避する。
 物語の中の鬼では決してあり得ないだろう、あまりにも姑息な手口。突出した生存への欲求。
 無惨に自らを誇示したいという欲望は一切ない。数多の鬼を生みつつ、平然と人に擬態して人間社会に溶け込んで生きる。
 千年に渡り、死の間際まで続けたその生き方は――阿鼻地獄の苦悶を超えて現世に顕れた今も何ら変わってなどいなかった。

「しかし、松坂さんも大変ですな。太陽光を浴びられぬ病とは、実に難儀なことだ」
「こればかりは生まれ持ったものですから。
 外まで送ることは出来ませんが、どうぞお気を付けて。近頃この街は何かと物騒ですからね」
「ご配慮感謝します。いやあ、それにしても松坂さんは立派なお方だ。
 こうまで"出来た"人はなかなか居りませんぞ。うちのせがれにも見習ってほしいものです」

 鬼舞辻無惨はサーヴァントである。故に当然、界聖杯からの役割など与えられるはずもない。
 だが彼には幸い、人に擬態する能力があった。
 サーヴァントとなっても変わらず引き継がれていたそれを使わぬ手はない。

 それに限らず、人外の力は使いようだ。
 資産家を狙って喰い殺し、財産を奪って糧にした。
 その金を使ってある程度箔の付く豪奢な家を買い、資産家という身分の体裁を整えた。
 昔取った杵柄だ。少なくとも現時点では、松坂という苗字の優秀な資産家という彼の身分を疑った者は一人も居ない。
 客人として訪れていた都議会議員の老人が帰っていくのを見届けてから、無惨は柔らかな笑みを消した。

「あの時代からおよそ百年か。何とも生きにくく、窮屈な時代になったものだ」

 人類は、大正の時代からでは考えられないほどの進化を遂げている。
 そのことを無惨は今日の日まで内界で過ごした時間の中で、事あるごとに実感してきた。
 この時代は生きにくい。生前幾度となく行ってきた"社会的身分の獲得"も、昔に比べて驚くほど面倒だし手間が掛かった。
 もしもマスターさえまともな人間であったなら、英霊の無惨がわざわざ知恵を使う必要はなかったのだろうが。

 生憎と――鬼舞辻無惨をこの地に喚び出した"女"は、あまりに醜悪で奇怪な狂人だった。


「(鬼舞辻くん、そろそろ此処から出してくれないかなぁ)」

 間延びした声。甘い甘い、聞く者の耳に必ず残る声。
 一度聞いたら纏わり付いて離れない。煮立てた糖蜜のようにくどく、粘っこく、不快な声。
 声の主である女は異様な風体をしていた。包帯があちこちに巻かれ、ガーゼや絆創膏も目立つ痛ましい姿。
 そしてその目には、一目で分かる狂気が巣食っている。
 普通の人間ではあり得ない深さが、眼窩の中に茫洋と広がっていた。

「(愛したことのない人。愛されたことのない人。
  誰にも理解されなかった人。鬼舞辻無惨くん。
  とっても可愛くて、とっても可哀想な、私のサーヴァント)」

 鬼舞辻無惨は、確かに元々は人間だった存在だ。
 故に彼を評して、人間の延長線と呼ぶことも一応は可能である。
 しかしそれが出来る人間は稀有だ。少なくとも無惨の生前には、一人として居なかった。
 誰もが無惨を嫌悪した。誰もがその所業と存在に不快感を覚えた。

 だがこの女だけは違う。
 彼の千年の中でついぞ一度も現れなかった例外。
 鬼舞辻無惨を受け止め、理解し、その上で愛する女。

「(いつでも待ってる。寂しくなったら私のところに来て?
  世界の誰があなたを否定しようと、存在してはいけないと罵ろうと。
  私だけは……あなたのどんなところでも受け止めて、愛してあげるから)」
『黙れ』

 ――鬼舞辻無惨には、決して理解することの出来ない存在。

 地下室の壁に、無惨の肉で拘束されながらも。
 女はいつでも笑っていた。くすくす、けらけらと笑っていた。
 無惨がいつか自分を切り捨て、殺そうとしていることなど明らかだというのに。
 そんなことはどうでもいいとばかりに、彼女はただ無惨のことを愛し続けている。

 愛を知らない哀しい人。
 彼女にとって無惨はそういう生き物なのだ。
 だから女は無惨を愛する。無惨のすべてを受け入れると囁く。

 今日も、明日も、明後日も――きっとこの世界が終わるまで、ずっと。


◆◆


『――そういう家がねぇ、北九州のどこかにあるらしいんですよねぇ……』

 イヤホンに繋いだスマホから流れてくる怪談ツイキャスを聞きながら、私こと"紙越空魚"は大学のキャンバスを一人歩いていた。
 実話怪談は私の娯楽の少ない人生において数少ないライフワークの一つだ。
 掲示板や投稿サイトに綴られたネットロアから某出版社のものを初めとした物理書籍まで手広く嗜む。
 音楽性というか怪談に対して求めているものの違いを感じることもままあるが、それでもそういうものに触れている時は心が落ち着く。

 ……いやまあ、流石に"裏世界"の存在が頻繁に此方へ干渉してくるようになってからはさしもの私も少しだけ及び腰になってたけど。
 でもこの世界に来てからはまた以前のように、暇を見つけては怪奇の世界に没頭するようになった気がする。
 重ねて言うが、そうしていると落ち着けるからだ。直視しなければならない現実を、少しでも遠ざけられるからだ。

「でも流石に、今日は全然集中出来ないな……」

 ツイキャスのアプリを落として、私は誰にも聞こえないような小声でそう言って嘆息した。
 面倒なことになった。というかもっと直球に言おう。めちゃくちゃ、まずいことになった。

 聖杯戦争――私が居るこの異界、もとい〈界聖杯内界〉で静かに進んでいる傍迷惑な儀式。
 私だって何も、そうなる可能性を考えてなかったわけじゃない。
 もしかしたら生還の席は一人分しか用意されていないかもしれないと思ってたし、その時は心を鬼にする覚悟も決めていたつもりだ。
 でもそれは、あくまで"つもり"だった。散々人でなしだとかヤバいとか言われてきた私だけど、やっぱり所詮は普通の人間だったらしい。

「(まだ決めつけるのは早計かもしれないけど……本当に殺さなきゃいけないかもなのか。これ)」

 見ず知らずの他人の命を守るために自分のそれを諦められるような聖人君子になったつもりはない。
 私は私の命が可愛いし、"誰かのため"に仲良しこよしで共倒れなんて断固御免だ。
 そうしなきゃいけないっていうのなら、私はそうする。たぶん、できる。

 ……今はまだ、そう思えている。
 一度もその状況に立ったことがないからだ。
 誰かの命を奪う状況を、経験したことがない。
 だから好き勝手言える、イメージ出来る。
 でもそれがイメージじゃなく実体験として自分の身に舞い降りたなら、本当に私は――初志を貫徹出来るのか。
 そこについては流石にちょっと、自信がなかった。

 ぐるぐる、ぐるぐると頭の中で思考が回る。

 この一年くらいで何度も何度もこういう感覚になった。
 あいつのせいだ。仁科鳥子。私の前に突然現れて、私の世界に突然踏み込んできて、いつの間にかなくてはならない存在になってた女。
 鳥子が未練がましく昔の女を追っかけてるのにもやもやした。
 その女の件が一段落つくなりいきなり距離感がアホかってくらい近くなった頃などは、何をされても動揺して心臓がばくばくした。
 いつも、いつもだ。いつもあいつが、私の頭の中に居た。
 ――私が頑張って足を伸ばし、手を伸ばせば届くところに、居てくれてた。

「おう、マスター。頼まれてたヤツだが、ようやく手に入ったぞ」

 でも今は違う。
 今の日常には、あのむかつくほどの美人は何処にも居なくて。
 代わりにサーヴァントが居る。魔力を持たず、令呪も通じず、念話も霊体化出来ない異例づくめのサーヴァント。
 本当の名前……"真名"は伏黒甚爾というらしい。私がアパートの部屋に戻ると、アサシンはこう言ってテーブルの上を指し示した。
 そこにあった、見慣れた形状。新聞紙に包まれてはいるけれど見間違えるはずもないシルエット

「それにしても、お前本当に堅気か?」
「自分ではそう思ってます。多少荒事は経験してきましたけど」
「"扱い慣れてる"って理由でマカロフを名指しで注文(オーダー)してくるような奴はな、世間一般には堅気って言わねえんだよ」

 実銃――マカロフ。
 銃も色々持ったし撃ったけど、やっぱりこれが一番手に馴染む。
 新聞紙の包装を外して、グリップを握って壁に向ける。
 この世界に放り込まれてから一ヶ月近くもの間、私はどこにでも居るごくごく普通の女子大生として過ごしてきたけど。

「(――ああ、思い出した)」

 それも、そろそろ終わりだ。
 アサシンの実力を疑っているわけではないが、いつまでも彼に頼り切ってはいられない。
 私も私で元の世界に帰るために、あれこれ調べて動いて回らなければ。

 そう、"元の世界に帰るために"。
 どんな道を辿るにせよ、最終的にその目的だけは絶対遂げられるように。
 アサシンにマカロフを注文したのは、その過程で何か危険な状況になった時のことを考えての備えだった。
 流石にサーヴァント相手の武装としてアテにしてるわけじゃないけど、少なくとも相手が人間なら、銃はとても大きなアドバンテージだ。

「(……待ってろよ鳥子。
  私は絶対、こんなつまんない青空の下なんかじゃ死なないからな)」

 もう一度、あの底知れない青空の世界へ行くために。
 この世でたった一人の共犯者と秘密の冒険をするために。
 私は、マカロフのグリップを力強く握り締めた。心の中の恐怖を握り潰すみたいに、とにかく力を込めた。


◆◆ 


「あー……なんか全然実感ないなあ。
 一応覚悟はしてたのに、結局一回も戦わずに此処まで来ちゃった」

 "仁科鳥子"にとっての聖杯戦争という単語は、未だにどこか絵空事のような響きを持っていた。
 鳥子がサーヴァントである少女、アビゲイル・ウィリアムズと共に過ごした一ヶ月弱の時間は非常に安穏としたものだった。
 戦いの気配なんて感じたこともないし、普段と変わったことと言えば外出の時多少周りの様子に気を配らなければならなかったくらいのもの。
 それどころか、裏世界(あちら)からの干渉がぱったり途絶えている辺り、ひょっとすると普段の日常よりも平和な時間ですらあったかもしれない。

 鳥子の、透明な手。
 裏世界の存在に深く干渉したことで変容した美しい指先。
 もしかしたらこの手でなら、サーヴァントの霊核にすら触れるのかもしれない。
 そこまで考えたところでこめかみの辺りがずきんと痛んだ。
 何か思い出しそうになったような。でも、おそらく思い出さない方がいいような。
 そんな奇妙な感覚を覚えつつ、鳥子はベッドの上に自分の身体を投げ出す。
 すると、すうすうと気持ち良さそうに寝息を立てているアビゲイルの隣に寝転ぶ形になった。

「(……さっき見た夢。あれ、アビーちゃんの記憶なのかな)」

 マスターらしいことは何もしていないし、アビゲイルに対してサーヴァントらしいことを求めた試しもない。
 それでも一応は器の一体だ。美しい金髪が覆う頭部の内側には、聖杯戦争についての基本的知識が手抜かりなくインストールされていた。
 故に鳥子は知っている。マスターとサーヴァントの間には霊的な繋がりがあるため、時折相手の記憶を夢に見ることがあるのだと。

「(裏世界みたいに綺麗で――だけど底知れない景色)」

 裏世界の景色ではなかったと思う。
 でも、鳥子が垣間見たその世界はとても綺麗だった。
 けれど、覗き込みすぎると吸い込まれてしまいそうなそんな恐怖がいつも隣人として在るような。
 そんな、裏世界によく似た景色の中を――旅しているのだ、夢の中の"誰か"は。

 どこまでも、どこまでも。
 いつ終わるとも知れない旅をしながら景色を見ている。
 心の中に、満たされることのない空白を飼いながら。
 誰かが居るような、でも絶対に誰も居ない空白を隣に感じながら。
 何か、或いは誰かの名前を、静かに呟こうとして。

 そこで、目が覚める。そんな――どこか不思議で、物寂しい夢。

「……行きたいなあ、裏世界」

 彼女の小さな友人が聞いたら心底げんなりした顔で眉を顰めそうなことを言いながら鳥子は窓の外を見た。

 天気は晴れ模様。でも雲間から覗く空の青は、あの秘密の場所の深蒼には遠く及ばない。
 何も鳥子は、恐ろしい思いがしたくて裏世界に行きたいわけではない。
 裏世界に行ったまま帰ってこない、かつての友人を探したいわけでもない。
 もっとずっと単純で、純粋な理由だ。
 空魚と――たぶん人生で初めて、友情以上の感情を抱いた人と。
 一緒に裏世界に行って、バカみたいにはしゃぎながら、夕方になるまで遊びたい。

 そうしてくたくたになりながら元の世界に戻って、打ち上げをして、小言を言われて。
 家に帰って、次の冒険に想いを馳せながら眠りに落ちる。
 そんな日常が、あんな夢を見たせいかどうしようもなく恋しかった。

「帰れるのかなー……私。
 でも、帰らないとなあ。は〜、どうしよ……」

 状況はほとんど八方塞がり。
 余程どうしようもない状況じゃない限り誰かを殺すことはしたくない――間接的にであってもだ。
 けれどだからと言って他に帰る手段のアテがあるわけでもなく、そのことが鳥子に悩ましい溜め息を誘発させた。

「(こういう時の空魚、決断力あって頼りになるんだよな〜……はあ。この街に空魚が居てくれたらな――)」

 それが無い物ねだりだということは分かっているけれど、どうしてもそんな荒唐無稽なことを空想せずにはいられない。
 横で眠るサーヴァントの幼い金髪を指で梳いてやりながら、鳥子は「最近溜め息増えたなあ」と独り言を零すのであった。


◆◆


 癒やしの否定者──"リップ"に特段感傷はなかった。
 ようやく此処まで来たという感慨もなければ、自分以外の器の願望どころか命をも踏み台にしなければならないことへの葛藤もない。
 特に後者だ。他人を犠牲にする覚悟など、今更固め直すまでもなくずっとある。
 目的を達成する、願いを叶える。その為ならばどれだけの人間を犠牲にしようと構わないと、リップはずっとそういう気構えで戦い続けてきた。
 今更見ず知らずの他人の犠牲をちらつかされたところで、それを理由に戦いの手を鈍らせる彼ではない。

「結局……何だったんだ? こいつら」

 そんな彼は今、ビルとビルの間に挟まれた狭い裏路地の中に佇んでいた。
 それだけならば甘いマスクの持ち主であることも相俟って絵になる光景だが、それを台無しにする不純物が彼の足元に二つ転がっている。
 子供の死体だった。恐らくは中学生、高く見積もっても高校生くらいであろう少年二人。
 殺したのは他でもないリップその人であったが、しかし彼から仕掛けて無益な殺人を行ったわけではない。

 逆だ。
 滞在先のホテルを出、偵察を兼ねて歩いていたところを突然襲われたのである。リップが、だ。
 ただ確かに予想だにしない展開ではあったものの、それしきのことで不覚を取るほど彼は弱くない。
 順当に返り討ちにし、手間なく無駄なく頸動脈を切り裂き──殺害。
 その結果が眼下二つの死体なのだが、彼らを無傷で殺し返したリップの胸に残ったのは据わりの悪い疑問だった。

「(ポイントがどうとか言ってたが……異能を持ってる感じはなかったな。
  耐久も見た目と大して乖離してなかった。ただの人間──だった)」

 死して尚握り締めたままの刃物を見る。
 この国では持ち運びするだけで犯罪になる大振りのナイフだ。
 凶器としては強力だが、リップのような戦闘者を殺傷するには役者が足りなすぎる。

「(俺をピンポイントで狙って来た時点で聖杯戦争と無関係ってことはあり得ない。
  相手を選ぶって頭はなかったようだが、どこぞの誰かが糸引いて駒にしてんだろうな)」

 死体の顔面に乱雑に巻かれたガムテープを剥がしてみたが、その下から出てきた顔面もやはり普通の子供のそれだった。
 令呪の刻印ももちろんない。となると考えられるのは、何処かに彼らを誑かした元締めが居る可能性だ。
 マスターの力でかサーヴァントの力でかは知らないが、この内界の住人……NPCを使ってマスター狩りに勤しんでいる輩が居るらしい。
 さしずめあの奇妙なガムテープは、"そいつ"の手の者であることを示すシンボルマークと言ったところなのではないか。

しかし何にせよ、自分達が今拠点にしている場所は割れていると考えるべきだろう。
 今から新たに拠点を探すのは手間だし時間のロスだが、いざという時の安全には代えられない。
 十中八九敵にバレている拠点に平気で身を置き続けられるほど、リップは聖杯戦争の競合相手達のことを侮ってはいなかった。

「シュヴィには……黙っておくか。あいつは殺しを嫌がるからな」

 独り言のように呟いて、リップは自分のサーヴァントに想いを馳せる。


 クラス・アーチャー。真名を、シュヴィ・ドーラ
 厳密には本来の名前はまた別にあるのだというが、彼女はあくまでも"シュヴィ"と呼んでほしいと言う。
 リップも別段そこで意地を張るつもりはなく、素直にその名で呼ぶことにしていた。

 ──シュヴィは、神殺しの逸話を持つサーヴァントだ。
 正確には彼女がそれを完遂したわけではなく、彼女の同族達が成し遂げたのだというが、そこに至るまでのきっかけを作ったのがシュヴィであるのは事実である。
 神に人生を狂わされた男が、神を殺した少女を召喚した。
 まさに神の気まぐれのような運命のいたずら。リップが不可能だとし、選ばなかった道を歩み切った英霊。
 彼女が時折自分を通して他の"誰か"の面影を見ていることに、リップは気が付いていた。

「……夢を見るのはやめろ。俺は、お前の思うような人間じゃない」

 リップが人を殺すのを嫌がるのも、恐らくはその一環なのだろう。
 だがリップはその感傷には付き合えない。彼女の追憶には寄り添ってやれない。

 だから──殺す。
 願いのために、全てが崩れた最初のあの日をやり直すために、殺す。
 自分の敵を何もかも殺し尽くしてでも、自分達の"終戦"を実現させてみせる。
 英霊などという"武器"の心に絆されて道を曲げるなど、あり得ない。


 ……そう強く心に誓っていても。
 背後の死体へ一度だけ振り向き、彼女の顔を思い出してしまう。
 どれだけ罪を重ねても、どれだけ極悪人を気取っても。つまるところリップは、そういう人間なのだった。


◆◆


 その少年は、異様な風体をしていた。
 薄汚れた衣服。美少年の容貌と相反するプリーツスカート。
 極めつけに、頭部に乱雑に巻き付けられたガムテープ。
 怪人――と言う他ない姿形。そんな少年に臆することなく近付いて声を掛けるのは、黒髮の美しい少女だった。

「こんなところに居たのね、ガムテ」
「ん? あぁ、舞踏鳥(プリマ)か」

 ガムテ、そして舞踏鳥。
 コードネームで呼び合うのは非合法の組織にあっては何ら珍しいことではないが、二人の見た目はどこからどう見ても未成年なのが奇怪だった。
 しかし彼らは、大人の奸計に道具役として起用された可哀想な少年兵ではない。
 大人の犠牲者であるという点においての間違いこそないものの、利用されている存在かと問われれば間違いなくその答えは否だ。
 彼らは大人によって心を、未来を割られ、そうして生まれた鬼子たち。

 ――"割れた子供達(グラス・チルドレン)"。ガムテと呼ばれた少年が率いる、子供だけの殺し屋集団。

「残り二十三組だってさ。オレも含めて」
「……そう。ずいぶん進んだのね」
「オレらも大分殺したしな〜! あのババアの手を借りたことが何回かあったのは癪だけどさ」

 この世界においての"割れた子供達"は、ガムテの居た世界のそれに比べれば脅威度で数段劣る。

 理由は単純。
 ガムテを初めとする極道を超人たらしめる麻薬――"地獄への回数券"の残量だ。
 どんな凡人が使おうと、即座に格闘技の全米チャンプ級以上の力を獲得するに到れる改造薬物。
 元の世界ではそれが潤沢にあった。けれどこの世界では残量が限られている上、補充することが叶わない。
 となれば"割れた子供達"も、人並みと然程変わらない武装しただけの少年犯罪者集団に成りさらばえる。

 ただ一点。躊躇と容赦を知らない殺意を持っていることを除いては。

「サーヴァントってのは真実(マジ)の超常(バケモン)だ。
 極道を星の数ほど殺してきた忍者共ですら、奴らに比べりゃずっと人間らしい」

 しかしそれだけで十分だった。
 彼らが彼らであるための要素はそれだけでいい。
 壊れた心は殺意を生む。不遇な幼少期に極度の絶望というシリアルキラーの定番製造レシピを踏んで生まれた忌み子の群れ。
 事実として。ガムテ達は幾つもの主従を脱落させてきたし、その中には英霊を殺すことなくマスターを屠って趨勢を決めた戦いもあった。
 恐るべき"割れた子供達"は未だ健在。麻薬(ヤク)の力が無くたって、ドス黒い殺意がそれを穴埋めしてくれる。

「それでも、勝つのは貴方でしょう」

 とはいえ犠牲は現に出ている。
 今日だって"マスターと思しき男"を殺すために出した子供達が二人物言わぬ死体になって見つかった。
 いや。それ以前の話だ――この世界の子供達は、所詮模倣世界の中の存在に他ならない。

 ガムテが勝利すれば、それに呼応してこの世界は消える。
 此処でガムテと共に戦った子供達は皆、存在も魂も微塵すら残らず消え果てるのだ。
 そのことをガムテはきちんと理解していたし、共有してもいた。
 だが、それでも。各々の殺意に従い動く"割れた子供達"は、今日もその顔にガムテープを巻きつけている。

「私たちにとってこの世界は夢幻(ウタカタ)。
 それでも皆信じてる。ガムテ、貴方の勝利を」

 ガムテは――英雄だった。
 子供達の英雄。心の割れた子供達のヒーローであり、象徴。
 だからこそそこにはカリスマが宿る。こいつのために生きて死んでやるという、想いが宿る。

「貴方は聖杯を手に入れる。そして、あのババアに引導を渡すのよ」
「分かってるさ、大丈夫だよ言われるまでもない。
 勝つのはオレ達で、負けるのはオレ達以外の全員だ」

 それは、あのババア――ライダーも例外ではない。
 シャーロット・リンリン。巨大な母(ビッグ・マム)の異名を持つ化物。

 リンリンは最強の破壊兵器だ。ガムテが知る限り、あれ以上に強い生命体は存在しない。
 彼の極めた極道技巧を完璧に決めたとしても、あの化物には通用しないだろう。
 だがガムテが壊す存在の中には、シャーロット・リンリンも確かに含まれている。
 リンリンは母だ。自分の機嫌と価値観で子供を壊す、最悪の毒親(オトナ)だ。

「アイツで慣れておかないと。化物殺すのに、さ」

 されど、ガムテにとって彼女はあくまでただの通過点でしかなかった。
 ガムテが本当に殺したい、殺すべき相手は別に居る。
 子供を蔑ろにする卑劣な大人の一人にして、自分がこの手で滅ぼすべき忌まわしき実父。 
 それでいて――化物。ガムテの語彙力と価値観ではそうとしか言い表すことの出来ない、生涯を賭してでも殺さねばならない男。

 ――輝村極道。


 "割れた子供達"は止まらない。
 業病のように深く根付いた殺意と憎しみ。
 それだけを武器に駆ける子供達を統べるのは、殺人の王子様(プリンス・オブ・マーダー)たるガムテ。"輝村照"。
 世界にただ四人しか居ない最強の海賊にして最悪の母、それを従えて。

 "ガムテ"は、征く。
 ガムテは、殺す。
 地平線の果てへの道を併走する全ての命を、その研ぎ澄まされた殺意で殺し尽くす。


◆◆


「概ね、予想通りの展開だな。
 至極順当に勝ち残れた、というところか」

 界聖杯からの通知――それを受け取った器達の反応は様々であった。
 喜ぶ者、嘆く者、迷う者。だがこの少年は、そのいずれにも該当しない。
 ただ当然のこととして。予想を外れない順当な帰結として、それを受け止めた。
 もしかすると、彼を指して驕っていると指差す者も存在するかもしれない。
 だが、そういうわけでは決してなかった。彼は聖杯戦争のことを何一つ軽んじることないままで、それでも己は生き残ると確信していたのだ。

「とはいえ、これまでの戦いが前哨戦なのは明らかだ。
 真の魔境、激戦はこの先。二十二の器達との鬩ぎ合いに他なるまい」

 青年の名は、"峰津院大和"といった。
 理路整然とした口調は老成しているとすら言えるそれだが、その顔立ちは印象に反してまだ若い。
 十代半ば程度であろう、あどけなさを幾らか残した顔立ち。しかしその中で、確たる意思と叡智を灯す双眸の深みだけが浮いている。

 ――聖杯戦争においての主役はあくまでサーヴァント。
 マスターとはその手綱を引き、戦いの行方を固唾を呑んで見守る立場だ。
 無論場合に応じては敵のマスターと主同士で戦うことも、魔術を使ってサーヴァントの支援をすることもあるだろう。
 だが、戦闘の主軸になるのが英霊であるという点においてはほぼ例外はない筈である……普通ならば。
 その点、大和は間違いなく普通のマスターなどではなかった。英霊の格にも依るだろうが、彼はともすればサーヴァントとすら張り合える。それだけの力と技術を持っている、規格外の器の一つである。

「可能性は低いとは思うが。ともすれば、君を脅かす存在すら居るかもしれないな。ランサー」
「抜かせ。軽弾みな侮辱は身を滅ぼすぞ、羽虫よ」

 そしてその峰津院大和が召喚したサーヴァントもまた、冗談のような強さを持つ規格外であった。
 流石に本戦である。強大なサーヴァントは何体も残っており、中には文字通り聖杯戦争を終わらせる武力を持つ者も居る。
 大和のサーヴァント……ランサー・"ベルゼバブ"は間違いなくその一角に分類される存在だ。
 各種能力値(ステータス)、スキル、宝具、どれを取ってもおよそ隙というものが見当たらない。

 並の英霊ならば鎧袖一触に蹴散らし、そうでなくとも相対した全ての存在に死を想起させる。
 それだけの力と技を併せ持った、強大なる戦闘者。
 空の彼方から飛来したインベーダーの司令官にして、敗北の味を知るからこそ勝利に向けて立ち上がり続けた怪物。

「予選期間――だったか。
 その間に何度かサーヴァントを殺したが、誰一人として余を驚かす者はなかった」
「そこについては異議はない。君にしてみればさぞかし退屈な戦いだったろう」
「羽虫の頭でも理解出来ているようで何よりだ。
 聖杯戦争は、余を混ぜる戦としては程度が低すぎる。児戯に等しい」

 事実、予選期間の間にベルゼバブを本気にさせた英霊は存在しなかった。
 一人として、だ。全てが、この怪物を前にしては同じだった。
 刺さりもしない剣、当たりもしない技。それらを得意気な顔で振り回し、最後はベルゼバブに蹂躙されて消えるだけ。
 実につまらない、歯応えのない戦い。故にベルゼバブはこれから始まる本戦にも何ら期待を抱いていなかったが――

「本番はこれからだ。軽弾みな浅慮は身を滅ぼすぞ、ランサー」
「……貴様は、余が下した命令を忘れ果てたのか?」

 大和は、そうは思っていなかった。
 確かに此処までの戦いは芥子粒を磨り潰すような、手応えのない"圧倒"ばかりであった。
 しかし此処からは本戦だ。形はどうあれ、予選期間を生き抜いた幸運と能力の持ち主だけが残っている。
 となれば、居たとしても何らおかしくはない。
 この絶対的な"強者"に並ぶ未知の強豪。純粋な強さでは対応の出来ない奇怪な力。
 我らの足元を掬ってくる、埒外の存在が居たとしても――何も不思議なことではないのだ。ベルゼバブとは違い、大和はこう考えていた。

 そして、その上で。
 大和は疑わない――最終的な勝者が、自分となることを。

「(見果てぬ地平線の彼方。
  そこに辿り着き、界聖杯に触れるのは私だ)」

 ともすれば、その道中で予想外の事態にも出くわそう。
 痛い目を見ることもあろう。その可能性までもを否定するほど、大和は愚かな人間ではない。
 しかしそれらは全て超えていくべきものであり、超えられる程度の障害でしかないのだ。
 なればこそ。最終的な勝者となるのがこの己――峰津院大和であることを、どうして疑う必要があろうか。

 恐るべき星の民を従える、恐るべき少年。
 聖杯戦争中最大級の武力を持つ、恐るべき主従。
 その勝利への方程式を崩せる者が現れるのか否か――その答えは、未だ導かれていない。


◆◆


 帰宅して扉を開く。以前はあんなにも楽しみで仕方なかった瞬間が、今は何の価値も持っていない。
 お城の扉とは違う扉。開けば漂ってくるのは甘い砂糖の香りではなく、じっとりとした血の臭い。
 薄暗い部屋の中にあの子の姿などあるべくもなく、"松坂さとう"は色のない表情のまま鞄を置いた。

「(……しおちゃんと一緒に過ごすためとはいえ、やっぱり堪えるな)」

 聖杯を手に入れて、しおちゃんと永遠に過ごせるよう祈る。
 それはさとうにとって、人を殺す価値のある願いだった。
 これまでに二人。聖杯戦争で間接的に殺した人間を含めればその数倍。
 それだけの人数を殺してきたさとうだが、何も彼女は素面の状態で目障りな相手をすぐさま殺すメンタリティをしているわけではない。
 仮にそうなったとしても自責の念と後悔に狂うことはないだろうが――意味がないなら、わざわざ殺人なんて真似はしないのだ。

 松坂さとうの殺人はその全てが愛するものの維持に行き着く。
 愛してるから、愛されてるから。だからそれを脅かす者を、そうする必要があるなら殺す。
 そのスタンスについては、元の世界で甘い日々を過ごしていた頃から変わっていない。

 愛を偽らない限り。やっちゃいけないことなんて、この世にありはしないのだから。

「(聖杯を手に入れたら、まずは何をしよう。
  海にも行きたいし、今まで連れて行ってあげられなかったいろんなところに一緒に行きたいな。
  うんと遊んで、美味しいもの食べさせてあげて、それで……)」

 さとうにとって、天使の居ない世界はひどく苦い。
 界聖杯内界は彼女を苦みで苛むだけの、生き地獄のような世界だった。
 ともすれば気が狂いそうな此処で、唯一さとうを癒してくれるのは思い出と空想。
 旅行を明日に控えた小学生のように、願いが叶った世界の幸福を空想する。
 そうしていると、微かな甘さが舌先に触れて。さとうに歩く力と小さな希望を与えてくれた。

 ――界聖杯さえ手に入れば。
 そしたら、もう何も恐れることはない。
 私たちのハッピーシュガーライフは永遠で、他の誰にも脅かされることなんてなくて。
 私はあの子と永遠に、いつまでも一緒に暮らすことが出来る。

 "めでたしめでたし"だ。
 さとうがどれだけ頑張っても、決して辿り着けなかったハッピーエンド。
 それを実現させてくれる奇跡が、この苦くて痛い地平線の果てにあるという。
 ならどんなに辛くても足を止めることは出来なかった。
 悪魔に魂を売ってでも、その奇跡を手に入れる。
 苦しみながら、もがきながら、それでも彼女の意思は揺れない。
 崩れることのない、角砂糖のような愛。天使にふれた記憶を閉じ込めた幸福の密室。

「叶うといいねえ、その願いが」

 人の心を見透かしたように軽薄な声が鳴る。
 念話を使わずにわざわざ肉声で話しかけてくるのは、愛を嘯く穢れた鬼。
 薄闇の中に胡座をかいて、コールタールのようにどろりとした笑顔を浮かべている。
 それを一瞥だけして、さとうは「これからは索敵に出なくていいから」と鬼……童磨へ言った。

「ん? いいのかい、それで。
 今まではサーヴァントの索敵も"狩り"もほぼ俺に一任していたろう。
 戦いの頻度が減って、聖杯への道程が遠のいてしまうかもしれないぞ」
「あなたは確かに強力なサーヴァントだけど、その分弱点も多い。
 そんなあなたを本戦まで生き残ってきた連中に無策にぶつけるのは危険だと思ったの」
「ああ、なるほど。さとうちゃんは頭が良いねえ。
 聖杯戦争は英霊犇めく蠱毒の壺。人間の鬼狩りを相手にするのと一緒に考えるべきではないか」

 童磨のただただ不快な語りに付き合ってやる気などさとうには毛頭なかった。
 今後の指針だけを手短に伝えて、それで会話はすっぱり打ち切る。
 こんな男に命運を委ねなければならない現状には反吐が出そうだったが、聖杯のためだと自らに言い聞かせて我慢をする。
 何せたちの悪いことに実力だけは確かなのだ、この悪鬼(キャスター)は。
 致命的な弱点と取り回しの悪さを抱えてはいるものの、動かし方さえ間違えなければ童磨は相当強力な武器(どうぐ)になる。

 ――嫌いなものを扱うのには慣れている。

「(それが私たちの幸せの役に立つなら)」

 あの子に執着する弱い彼。薄汚い欲望のために近付いてきた先生。
 私に愛を偽らせた後輩。間違った愛で今の私を作った、叔母さん。
 全部使ってきた。全部、利用してきた。
 今回も同じだ。この薄汚い鬼も、私たちの幸せのために使ってみせる。

「最後まで一緒に頑張ろうね、さとうちゃん。
 たったひとつの"愛"を知った俺たちが、他の願いに負ける筈なんてないからな」

 勝つのは、私だ。
 その目に、深い決意と殺意を灯して。
 誓いの言葉の聞こえない部屋の中で、砂糖少女は夢を編む。


◆◆


 とっても甘いのと、とっても苦いのがある。
 そう、大好きな人が言っていたのを思い出す。

「夢を見たよ」

 いつの間にか時刻は夜になっていた。
 太陽は隠れて月が出て、空にはお星さまが煌めいている。
 お城で一人きりの時に見たテレビ番組で言っていたこと。
 都会の空と田舎の空では、星の見え方が全然違うらしい。
 都会は明るすぎるから、夜空までぼうっと明るくなってしまって、それで輝きの小さな星は隠されてしまうんだとか。

「夢〜? なんだ、俺の記憶でも見たのかよ?」
「うん。らいだーくんの好きな人の夢」
「……あ〜……」

 マジか。なんてもの見てんだこのガキ、と。
 そう言いたげに言葉を詰まらせて、"らいだーくん"ことデンジは頭をぼりぼり掻いた。

「きれいな人だね。マキマさんって」
「……、まあな。メチャクチャ美人だった」
「いまも好きなの?」
「好きだよ」

 マキマ。デンジに人間としての人生を与えてくれた女は、しかし彼のことを真に慮ってなどいなかった。
 彼女が見ていたのはあくまでもデンジの中に居る存在。
 デンジという個人のことは、ただの一度として見てくれなかった。
 そのことをデンジは知っている。知った上で、それでもまだ。
 英霊になった今でさえも――マキマのことを好きでいる。馬鹿な奴だと笑われても不思議ではないが、しおの感想は違った。

「愛してるんだね」
「からかうなよ」
「からかってなんかないよ。
 らいだーくんの愛は、すごくすてきなものだと思う」

 臆面もなく言って、しおはくすりと笑った。

「いっしょだね、私たち」

 かつて少女は天使だった。
 少年は一匹の犬だった。
 少女は愛を知って、天使の羽を失った。
 少年も愛を知って、一人の人間になった。

「大好きな人とひとつになって、ここにいるんだもん」
「意味合いが違くねえかあ〜?」

 ……口ではそう言ったが、それとは裏腹に奇妙な納得を覚えてもいた。

 神戸しお
 この少女は、デンジの目からするとはっきり言って"厄ネタ"以外の何物でもなかった。
 元々女運が壊滅的に悪いデンジである。出会った女に片っ端から何らかの形で殺されそうになった輝かしい経歴を持つ、デンジである。
 いざサーヴァントとして召喚されてみれば、マスターとして立っていたのは嬉しそうに心中の話をする八歳児。
 俺は死後もヤバい女としか縁がねえのかと、自分の運命にかなり真剣な疑いの眼差しを向けたりもしたが――

「(ああ、なるほどなあ……そういうことなのか、これ)」

 言われてみれば確かに。
 "それ"は、自分としおの間に存在する明確な"共通点"だった。

 形は違えど、経緯は違えど。
 相互間の感情が双方向かどうかの違いもあれど。
 愛するものと一つになったという一点では、神戸しおデンジは同じ経験を経ている。
 しおは自由落下の果て。デンジは唯一無二の殺人手段で。
 愛するひとが自分の中で生きているという、一つの悟りへと至った。
 本当にそれがこの主従が成立した理由なのか、界聖杯は黙して語らないが。
 運命というものの実在を信じるならば、なかなかどうして納得の行く理屈である。

「ねえ、らいだーくん。
 ポチタくんじゃなくて、"らいだーくん"」
「何だよ」
「今のらいだーくんって、どっち?」

 にこにこと人懐っこく笑う瞳、深海の蒼。
 天使の微笑みは人の心を狂わせる。
 翼を失って地に堕ちた天使を堕天使というならば、今のしおはまさにそれだった。

 堕ちたとて、天使は天使なのだ。
 翼がなくても、聖なるものを持っていなくても。
 その微笑みは――甘い毒。

デンジくん? それとも、チェンソーマン?」

 わざわざポチタではなく、デンジと呼んだのはつまりそういうことだろう。
 神戸しおデンジの生前を知っている。夢を通じて見て、理解している。
 デンジの愛した女(あくま)が、デンジの中に居るポチタ/チェンソーマンだけを見ていたことを。
 全てを奪われ、失意に沈み、みすぼらしい野良犬のようになったデンジは、しかし。
 自分もまた、チェンソーマンになれることを知った。
 人々の喝采、応援の声。今までの終わりきった人生の中で一度として受けたことのない祝福と期待。

 それを受けて――願ったのだ。そして叶った。
 だからデンジはただのみっともない犬としてではなく、確たる彼として此処に居る。
 英霊デンジの霊基は確かに真なるチェンソーの悪魔、ポチタの心臓を搭載するための器だが。
 それでも彼は確かに、人類史の欠片の一つとして世界に記録されるに至ったのだ。

「……意味の分かんねえ質問止めろよな。
 お前はどっちがいいんだよ、しお」
「私はね、デンジくんで居てほしいよ。
 チェンソーマンじゃなくて、デンジくんがいい」

 その理由が、デンジには分かる。
 しおは聖杯戦争からの脱出など目指していない。
 戦いをしたくないだとか、命を奪いたくないだとか、そんなことは微塵も思っていないと知っているから。

「"みんな"のヒーローはいらないの」

 神戸しおは界聖杯を求めている。
 彼女は堕ちたとて天使。奇跡を起こす資格の正当保有者。
 あの日永遠になった愛に、もう一度形を与えること。
 それが彼女の願いで。そしてそのために手を汚す覚悟を、しおは最初から持っていた。

デンジくんは、私だけのチェンソーでいて」

 彼女が欲しいのはヒーローじゃない。
 みんなを助けるヒーローでは奇跡を起こせない。
 だから、武器がいい。しおはそう思った。

「私のために、全部壊してね」

 全部だよ、全部。
 その言葉に、一切の嘘偽りはないのだ。
 全てのサーヴァントを殺す。必要ならマスターだって例外ではない。
 奇跡に向けて歩む天使の前に群れなす悪魔を皆殺す。
 そのための武器が必要だった。チェンソーマンではなく、チェンソーが。

「……それは分かったけどよ。
 あのさあ、これ前から聞きたかったんだけどさ」
「? なに?」
「お前、怖いとか――殺したくないとか。そういう感覚ってねえの?」

 俺が言えたことではねえな、と心の中でそう思いながら問うと。
 それに対してしおは、きょとんとした顔をして。

「ないよ? なんで?」

 そうとだけ答えた。
 それで、デンジは改めて理解する。
 ああ、こいつは。
 イカれちまってんだ、と。






◆◆



 ――――ガチャリ。



◆◆







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07:死がふたりを分かつとも 神戸しお 001:Crime Ballet
ライダー(デンジ)
61:ひかるがサーヴァント!? 守りたい人のために! 櫻木真乃 002:わたしたちの願い! 守りたい人のために☆
アーチャー(星奈ひかる)
44:VANITY GIRL 七草にちか(弓) 014:近似値
アーチャー(メロウリンク=アリティ)
146:星野アイ&ライダー 星野アイ 002:わたしたちの願い! 守りたい人のために☆
ライダー(殺島飛露鬼)
126:田中&アサシン 田中一 011:オール・アロング・ザ・ウォッチタワー
アサシン(吉良吉影) 009:This Game
70:Catch Me If You Can 田中摩美々 008:咲耶はいい子
アサシン(ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ) 005:TWISTED HEART
09:死柄木弔&アーチャー 死柄木弔 001:Crime Ballet
アーチャー(ジェームズ・モリアーティ)
155:足りない忘却の雫 飛騨しょうこ 017:月だけが聞いている
アーチャー(ガンヴォルト(オルタ))
45:神戸あさひ&アヴェンジャー 神戸あさひ 003:サムライハート(Some Like It HURT)
アヴェンジャー(デッドプール)
52:幽・幽・月・下 幽谷霧子 007:きりさんぽ
セイバー(黒死牟)
01:光月おでん&セイバー 光月おでん 003:サムライハート(Some Like It HURT)
セイバー(継国縁壱)
42:皮下真&ライダー 皮下真 007:きりさんぽ
ライダー(カイドウ)
02:北条沙都子&アルターエゴ 北条沙都子 010:『You』
アルターエゴ(蘆屋道満) 009:This Game
133:古手梨花&セイバー 古手梨花 021:一人は星を見た。一人は泥を見た
セイバー(宮本武蔵) 026:侍ちっく☆はぁと
21:プロデューサー&ランサー プロデューサー 004:ある少女のエピローグ
ランサー(猗窩座)
132:石と砂の境界線 七草にちか(騎) 006:スロウダウナー
ライダー(アシュレイ・ホライゾン)
152:愛を知らぬ、哀しき 本名不明(松坂さとうの叔母) 016:鬼殺の流
バーサーカー(鬼舞辻無惨)
10:紙越空魚&アサシン 紙越空魚 015:かごめかごめ
アサシン(伏黒甚爾) 015:かごめかごめ
38:仁科鳥子&フォーリナー 仁科鳥子 009:This Game
フォーリナー(アビゲイル・ウィリアムズ)
60:不治&アーチャー リップ 013:不治の治
アーチャー(シュヴィ・ドーラ)
112:ガムテ&ライダー 輝村照(ガムテ) 004:ある少女のエピローグ
ライダー(ビッグマム(シャーロット・リンリン))
28:どうして大地は赤いのか 峰津院大和 012:終末数え唄
ランサー(ベルゼバブ)
06:死がふたりを分かつまで 松坂さとう 017:月だけが聞いている
キャスター(童磨)

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最終更新:2023年03月11日 01:45