茹だるような熱気の街だった。
沙都子の知る夏よりも格段に気温が高く何よりじっとりしている。
降り注ぐ日光。
それを吸収して熱を蓄えたアスファルト。
おまけに忙しなく行き交う人込みの山──三拍子揃った最悪な環境。
これが外の世界。
これが──梨花の夢見た新天地。
額に浮かんだ汗を拭って、沙都子は呆れたようにため息をついた。
「私にはさっぱり理解できませんわ」
梨花が聞いたなら目を輝かせて羨ましがるだろう大都会。
その土を踏み続けてかれこれ一ヶ月。
それでもこんな場所を良い所だと感じたことは一度としてなかった。
こんな街の何がいいのか。
暑くてうるさくてやたらめったらに眩しいだけのごちゃごちゃした街並み。
それは沙都子にしてみれば下品にさえ感じられた。
旅行で一日二日訪れるだけならまだしも、此処で暮らしていこうなどと考えるならそいつはどうかしているとすら思う。
今でも沙都子には分からない。
梨花がどうしてあれほどまでに外の世界に行きたがったのか。
気心の知れた仲間と住み慣れた村を捨ててまで。
どうしてあの息が詰まりそうな学園に進む道を選んだのか。
分からないが梨花の意思はとても固く。
何度繰り返しても、何度繰り返しても。
梨花の『外に向かう意思』を変えさせることはできなかった。
(あなたが早く諦めてくれていたら、私がこんなところに来ることもありませんでしたのに)
生き方は人それぞれなのだからと諦められればどれほどよかったろう。
だがそれは
北条沙都子には選ぶことの出来ない選択肢でもあった。
両親との確執、叔父夫婦からの虐待、そして最愛の兄の失踪。
どれか一つでも思春期の子供にとっては一生モノの心の傷になるだろう不幸に連続して遭遇してきた沙都子。
そんな彼女がようやく行き着いた安住の地こそが
古手梨花と一緒に暮らす日常で。
それを手放すということが彼女にとってどんなに重く耐え難いことであるかは自明だった。
梨花と足並みを合わせようとはした。
お世辞にも学力の高い方ではない沙都子が格調高い難関校に合格出来たのはその努力の証である。
しかし沙都子の努力は所詮長い茨道のスタートラインに立つためだけのものだった。
一番大切なのはそこに立ってからだというとを思い知った時にはもう、彼女の幼い心は限界に達していた。
親友と一緒に居続けるためというモチベーションに背中を押されていたとはいえ、名門校への入学に成功するだけの学力はあったのだ。
もしかすると本当に、努力し続ければあの学園で親友と肩を並べ続けることも出来たのかもしれない。
実際繰り返した世界の中では梨花が沙都子のためにあれこれ世話を焼こうとしてくれたこともあった。
その手を取って真面目に頑張っていれば──魔女になんてならなくても。
また二人で笑い合える道に戻れていたのかも、しれない。
けど。
──けど、それでどうするんですの?
沙都子は頭が良くない。
というよりも、知能の偏りが酷い。
自分の興味のある分野ならともかくそうでないものに対してはそもそも学ぼうとすること自体苦痛に感じる。
邪道でならばいくらでも戦えるが、正攻法を求められると途端に粗が出る。
彼女にとってあの牢獄の中で努力を求められ続けていた時間は、海水に放り込まれた淡水魚の気持ちを知れるものだった。
ああ、でも。
それでも。
懸命に泳ぎ続けて塩の味に慣れさえすれば。
もしかしたら。
梨花と――。
……違う。
そうではない。
そうではないのだ。
話はそんな次元じゃない。
駄目だった。
沙都子にはまずあの世界が駄目だった。
雛見沢を出て変わっていく梨花。
取り巻きに囲まれて楽しそうに過ごす梨花の姿は沙都子の知っているものとは全然違うもので吐きそうにすらなった。
だってその姿は、沙都子が好きだった“仲間”の梨花ではなかったから。
消えていく。
たった一人の家族といってもいい親友の好きなところが。
日を重ね顔を合わせる度に消えていく。
久しぶりに仲間が集ったというのに退屈そうな表情をしている梨花の姿。
取ってつけたように“昔の自分”を演じてみせる姿。
それが嫌で。
嫌で、嫌で、嫌で。
嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で。
繰り返しの力に手を伸ばして──繰り返して。
それでも駄目で何度も試して。
そして……
そして。
北条沙都子は──神(タタリ)になった。
めでたしめでたしで終わった物語に唾を吐いて踏みにじって。
望む結末に辿り着くまで最愛の猫を囚え続ける黒幕になった。
その運命の末に沙都子は可能性とやらを見初められ此処にいる。
繰り返しによる因果の蓄積がこんな事態を生むというのは想定外だったが。
(まあ、これも考えようによってはそう悪くありませんわ。
界聖杯が手に入ればそれで私の長い旅も終わりですものね)
無限回繰り返す覚悟はあったが早く終わらせられるならそれに越したことはない。
梨花が外の世界など目指さず自分とずっと一緒に生きてくれる最高のカケラ。
界聖杯でそれを創り出せるというのなら──沙都子は喜んで玉座を目指す。
雛見沢という小さな、とても小さな井戸。
沙都子にとっての井戸(せかい)に蓋をするために。
(幸い武器もすぐに手に入りましたし。あの薬もあればもっとよかったのですけど、それは高望みってものですわね)
そしてそのための場作りは既に始めていた。
サーヴァントである
蘆屋道満──『リンボ』には索敵と監視を命じ、沙都子自身は武器を求めた。
以前はまどろっこしい手を使って現金を調達しその金を裏社会の人間に渡す手間を踏まねばならなかったが此処ではその必要もない。
リンボを連れて適当な極道の屋敷を襲撃すれば得物を予備分まで含めて確保するのに十分とかからなかった。
沙都子は銃を扱える。
文字通り何年もの時間を費やして習得したその技術はもはや本場の訓練を多少受けた程度の人間では相手にもならない次元。
今となってはその腕前は師である園崎魅音をすら超えている。
まともな人間のマスターが相手ならば、これだけでも遅れを取ることはまずあるまい。
欲を言えばあの『悪魔の薬』も欲しかったが……サーヴァントという強大な戦力を得たことの引き換えに失ったのだと思えばまあ納得は出来た。
沙都子は今も懐に銃を忍ばせている。
銘柄はトカレフ。
オーソドックスながら最も手に馴染む一丁だ。
どれだけの時間を繰り返していようとあくまで沙都子の見た目は小学校高学年女子のそれ。
如何に今この街が物騒だとはいえ、女子小学生の帯銃を疑うほど奇矯な者は流石にいない。
そのため沙都子は大手を振って、武器を携帯しながら街を歩けていた。
もちろん闇雲に歩いているわけではない。
沙都子には明確な目的地がある。
そこに向かい、会ってみたい人間がいるのだ。
(皮下医院の院長先生……。そういえばえらく若い方でしたわね)
沙都子のしもべに曰く。
院を訪ねてきた医者は人間の身体をしていなかったという。
沙都子も院の児童として彼と対面し身体検査を受けた。
令呪を隠すために怪我をしたという建前で包帯を巻いていたため、マスターであることはバレていまい。
だがその一方で──沙都子の方も彼が聖杯戦争のマスターであるとは見抜けなかった。
若くて爽やかな印象のよく喋る医者。
沙都子が抱いた印象は精々そんなところだ。
しかしリンボの言葉は無視出来ない。
あのサーヴァントはどうにも信用ならない厭らしい男だが──彼の力と知見については沙都子も信頼している。
しかもただ強いわけではない。
策を弄して他人を陥れて殺す最悪という他ない『悪』。
自分に相応しいサーヴァントだと、沙都子は自嘲ではなくむしろ肯定的な心持ちでそう思った。
そんな能は確かな男が人に非ずと言った。
であれば、そうなのだろう。
『皮下医院』、
そしてその院長『
皮下真』。
多少調べた時点では特段怪しい点を見つけ出すことは出来なかった。
だが会ってみる価値はある。
そう思って沙都子はかの病院を目指していた。
(敵は二十組以上いるんですもの。馬鹿正直に全部と戦っていたらキリがありませんわ)
理想的なのは同盟を組めること。
条件付きでも構わないし最後の二組になるまで組もうと言うならそれでもいい。
どの道──利用するだけして、使えなくなったら捨ててやるつもりなのだから。
(最後に勝つためならどんな手でも使う。勝負事の基本でしてよ)
それは慣れ親しんだ
ルール。
いつの間にかつまらない大衆向けに塗り潰されてしまった部活の基本。
楽しかった時間を今も心の奥に残しているからこそ。
繰り返した時間に学び自身の下す祟りを先鋭化させ続けてきたからこそ。
ゲームの中身が笑顔溢れるものではなくなっても。
ゲームの名前が『戦争』に変わっても。
北条沙都子は優秀なプレイヤーであり続けられる。
“手段を選ばない”ことにかけての沙都子は一流以上だ。
そうでなくては、神など。
祟りなど。
――名乗れやしない。
▽ ▲
箱庭の中にずっといられればよかった。
でも世界と時間はそれを許してくれなくて。
少女は世界を鎖すことにした。
ただずっと遊んでいられればよかったのに。
それはどうしても叶わなかったから、だから。
だから。
【新宿区・大通り/一日目・午前】
【北条沙都子@ひぐらしのなく頃に業】
[状態]:健康
[令呪]:残り3画
[装備]:トカレフ@現実
[道具]:トカレフの予備弾薬
[所持金]:十数万円(極道の屋敷を襲撃した際に奪ったもの)
[思考・状況]
基本方針:理想のカケラに辿り着くため界聖杯を手に入れる。
1:最悪脱出出来るならそれでも構わないが、敵は積極的に排除したい。
2:皮下医院へ向かい、院長『皮下真』と接触する。
[備考]
※アルターエゴ(蘆屋道満)と合流するかどうかについては後の話にお任せします。
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最終更新:2021年08月15日 17:00