時は遡る。
 そこは、摩天楼の頂点だった。
 しかしその実、教師が生徒を導く教室のようでもある。
 悪として生き道を作った者、あるがまま邪悪として世界に蔓延った者が、これから覚醒しようとしている悪の幼体を肥え太らせる学び舎。

 得難い時間であったと、教鞭を執った魔王はそう思う。
 狡知の極みに達したこの身、この脳髄でさえ十全には読み切れない、まさに混沌を極めた地獄の釜だった。

 好敵手を得もした。決着の一手が落ちる前に、相手は席を立ち去ってしまったが。
 その名残惜しさを引きずる暇もないほど、そこからの時の流れは激動だった。
 そしてとうとう、悪の大蜘蛛はそれを悟った。
 怖じることなく、臆することなく。
 さてこの時が来たか、思ったよりも早かったなと笑って――彼は暗い方へと足を向けた。


「……あんた、それ本気で言ってんのか?」


 怪訝とした声。
 純白の髪は神々しく、傷付いた肌すら今やある種の"貫禄"に繋がっている。
 彼こそが大蜘蛛が見出した生徒。育て導くべき、闇の極星。
 いずれ必ず、この身が果たせなかった大願をすら遂げてみせるだろうと……一目見た瞬間に確信させた、次代の魔王となり得る器。
 振り返ることなく窓の外から、今やすっかり慣れ親しんだ東京の街並みを見下ろして。

「酔狂で言うには不謹慎だろう。これでも紳士だ、ジョークの使い所は弁えているつもりだよ」
「だったらそっちの方がよっぽど正気を疑うぜ。ボケるのはせめて還暦してからにしてくれ」
「至って本気、そして正気さ。
 正気でない者が居るとすれば、それは君だ――君の闇を見出したのは他でもないこの私だが、今では見る目がなかったと自分の耄碌を悔やんでいる」
「酔っ払ってんのか。戯言はいいぜ、こっちが求めてるのは説明だ」
「想像以上だった。全てが」

 最初に出会った時は、荒削りだが見どころのある原石……その程度だった。
 それがたったの一月で、破滅の未来を背負い振るう悪の救世主に進化した。
 追い詰められた強敵、現実こそが彼を此処まで育て上げた。
 否、彼の中に眠る可能性の全てを開花させた。

 強いて、それを招いた要因を挙げるならば。
 堕天の月、神戸しおという競合相手を早い段階で得られたこと。
 ライダー・ビッグマムがあの場で強襲を仕掛けてくれたこと。
 "焦り"と"苛立ち"が、彼を育てた。
 彼を、完成へ限りなく近付けてくれた。
 故にこそ老蜘蛛は悟ったのだ。終局的犯罪、その完成を。

「私は恐らく今宵でこの界聖杯を去る。最後の策を君に伝えよう」

 そう、生徒とはいつか巣立っていくもの。
 結末は決まっているのだ。


◆◆


 解き放たれた"崩壊"が、東京スカイツリーの残骸を文字通り粉微塵にして消し飛ばした。
 女王、そして連合──今此処に再び相対する。
 天を衝くような巨体が轟音を鳴らしながら、文字通り草の根一本残らない更地と化した地面へ着地した。
 空へと逃れて避けた"崩壊"は、しかし逆に言えば恐るべきビッグ・マムに回避を選ばせたということでもある。
 彼ら四皇はしばしば遊ぶ。敵の攻撃を敢えて受け、その上で磨り潰す趣向を好む。
 だが、リンリンは今それをしなかった。
 それは彼女の前に立ちはだかるちっぽけな悪の連合が、この怪物女王にとって立派な"敵(ヴィラン)"と看做されていることを意味している。

「不躾な訪問になって申し訳ありませんな、ビッグ・マム。
 しかし先ほどはこちらも貴女がたにずいぶんと振り回された。お互い様ということで、何卒ご勘弁いただきたい」
「蜘蛛野郎ォ……! つくづくおれをイラつかせるね、お前らは……!!」
「ははは。その様子を見るに、"善"の蜘蛛(わたし)には大層手こずらされたようだ」

 悪の蜘蛛、もしくは老いたる蜘蛛(オールド・スパイダー)。
 その痩躯を見下ろしながら、リンリンは青筋を浮かべるでもなく歯を剥いた。

「だが死んだぜ」

 善の蜘蛛。もう一人のジェームズ・モリアーティ
 犯罪卿を名乗ってこの街に巣を張り、分不相応な目的に向けてその頭脳と辣腕を振るい続けた男だった。
 彼に手こずらされたこと、その存在を脳の片隅に置き続けねばならなかったこと──それはリンリンも認めざるを得ない。
 しかし、彼はもう居ない。
 四皇を前にしても臆さず怯まず、笑みを浮かべ続けたあの美顔も。
 底知れない叡智を滲ませていた緋色の瞳も、全て全て海賊同盟の配下が消し去った。

「お前らは大したもんさ。狡知に長けた野郎はこの世にごまんと居るが、圧倒的な暴力の前にそれを貫ける奴はそう居ねェ……」

 シャーロット・リンリンを騙すだけならば。
 やり込めるだけならば、出来る者はまだ居るだろう。
 しかしその先に待つのは彼女という名の暴力による圧倒的な蹂躙だ。
 だが、この地に巣を張った二匹の蜘蛛はそれをさせずに事を進め続けた。
 善の蜘蛛は少女達を自分に可能な最大限の範囲で守り抜き、悪の蜘蛛は四皇二騎の急な投下という考えられる限り最悪の奇襲攻撃までもを捌いてのけた。

 ──見事。
 リンリンは彼らに対しての賛辞と評価を惜しまない。

「──それでも、死ぬのさ。何故だか分かるか?」

 だとしても。
 その命は、皇帝によって摘み取られる。
 手ずからか、手駒の手によってかを問う意味はそう大きくないだろう。
 重要なのは善の蜘蛛でさえ、犯罪卿でさえ死の運命からは逃れられなかったということ。

「格が違うのさ。お前らがどれだけ手間暇かけて巣を作ろうが、おれ達はそれを片手で引きちぎる。
 罠があるなら踏み潰す。同士討ちを狙ってくるならそいつごと引き裂いて前に進んでやる。
 どんなに危険な毒蜘蛛でも──真上から落ちてくる革靴の底には敵わねェ」

 そして、今。
 悪の蜘蛛は自ら、皇帝の前へと。
 自分へ振り下ろされる靴底の前へと、むざむざその姿を現してしまった。
 ならばその好機を、降って沸いた発散の機会を手放すリンリンではない。

「今おれの心は踊ってるよ。どう殺してやろうか、ずぅっと考えてたのさ。
 死ぬ寸前まで恐怖を与えて、矜持をすり潰して……少しずつ魂を吸い上げてカラカラにしてやるのもいいね。
 このおれに楯突き、あまつさえ指を落とされる屈辱を味わせてくれたんだ! そのくらいは覚悟の上だろう……!?」
「無論。しかし我々にそうまで仰るのだ、当然貴女も覚悟されているのでしょうな。ビッグ・マム」

 眼鏡の奥の眼光が、翡翠の輝きを放つ。
 この皇帝に刃向かい、それを後悔しながら惨死していった者はそれこそ山のように居るだろう。
 しかし、悪の蜘蛛に……善の蜘蛛をして知略で互角と言わしめた大蜘蛛に、覚悟の有無を問うのは愚問もいいところ。
 故に彼は、問いに答えるのではなく逆に問い返す。
 女王を、試す。
 貴女の方こそ本当に覚悟はおありなのか、と。

「ふんぞり返ったその玉座から、一度ならず二度までも蹴落とされるのです。
 忌まわしい土の味をもう一度味わう覚悟はおありですかな?」
「相変わらず、口の減らねえガキ共だ」

 リンリンは、知っている。
 年端もいかない、足元で蠢くばかりだと思っていたガキ共に蹴落とされる屈辱を。
 自分達に届く筈もないと思っていたその手によって玉座を追われる口惜しさを。
 知っているからこそ笑った。射殺すような眼光に、食い殺すような殺意を載せて蜘蛛の挑発に応えた。
 こいつらは必ず殺す。一人残らず、皇帝の威信に懸けて排除する。

 そうと決まればもはや、言葉は不要だった。
 地に再び降り立ち、炎剣を地面へと突き立てる。
 ぼこぼこと、まるで煮え滾るマグマのように沸騰する大地。
 それは滅ぼされ死んだ土に、地母神が新たな命を吹き込む様子にも似ていた。

「おい、死柄木のツレのガキ! お前もよ、出し惜しみしてられる状況じゃねェってことは分かってんだろう!?」
「……っ」

 神をも恐れぬ、を地で行く発展途上の悪。
 ある愛の終わりが産み落とした、砂糖菓子の夢を見る少女。
 それが神戸しお。しかしそんな彼女ですら、女王の眼光に射抜かれては緊張を隠せない。
 デンジが彼女を庇うように前へ出るが、リンリンは彼を見てなどいなかった。
 彼女に屈辱を味わせたのは、チェンソーの少年ではない。
 彼の内側に、いや奥底に眠る、地獄の果てからやって来る救世主(ヒーロー)のみだ。

「――呼べよ、今此処に。あのチェンソー野郎を!」

 悪鬼の始祖を、その存在ごとこの世界から消し去った悪魔の中の悪魔。
 ビッグ・マムの小指を切り落とし、無法な来訪の"ケジメ"を取らせた因縁の相手。
 リンリンの中では、死柄木や蜘蛛と同じくらいに殺してやりたくて仕方のない相手だった。
 だから名指しする。呼ばないのなら、それでも構わない。どの道――出さねばならない状況になるのは見えている。

「……だとさ。どうすんだ?」
「らいだーくんは、それでいい?」
「ああ。まあお呼びがかかってるってんなら、逆らう理由もねえしな。
 ヒーロー野郎と揉めたせいで身体中痛えし、素直に任せちまえよ」
「ん、わかった。今呼ぶね、おばあちゃん。ちょっとまってて」
「ママママ物分かりの良いガキだ! この小指のことがなかったらよ、可愛がってやっても良かったんだけどねェ!!」

 あの時は、死柄木の求めに応じて"彼"を呼んだ。
 けれど今回は違う。それでいい? というその短い問いかけは、彼らの間の"つながり"が濃くなった象徴のようで。
 そんなしおの確認に、デンジは別段渋ることもなく頷く。
 それを受けてしおは自分の令呪にそっと触れ、目を瞑った。
 そして、口を開く。デンジの中で眠る、否見守る"彼"に助けを求めるために。


「たすけて、ポチタくん」


 ――風が、吹いた。
 ぶうん、と、音が鳴った。
 朝焼けの東京、荒野と化した都市の墓場にヒーローが立つ。
 彼が居なくては、この戦いは始まらない。
 シャーロット・リンリンと敵連合、その因縁を清算するには不十分だ。
 故にリンリンはその無愛想な面影を見て、待ちに待ったとばかりに破顔した。

 獲物を前にした猛禽類のような、怖気が立つほど獰猛な微笑み(SMILE)だった。


「さあ、役者が揃ったね」


 蜘蛛。
 彼が育てた、破壊の寵児。
 地獄のヒーロー。
 そして皇帝、怒り狂うビッグ・マム。
 再戦の舞台は整った。
 空が瞬く。光が煌めく。天へ浮上する女王の姿は、まるで神罰を下しに現れた神のよう。
 只今より、解き放たれる。
 君臨者の皮を脱ぎ捨て、挑戦者へと戻り。
 そして再び、敢えて焼き直すように玉座へ座り直した女王の力――その全てが、文字通りの"全力"が。

「待ちわびたぜ、だが殺すにはいい日だ! 一人残らずブチ殺してやるから、臆せずしてかかってきなァ!!」
「言われなくてもそのつもりだよ。おばあちゃん」

 轟く雷霆は、彼女が王者である証拠。
 天霆の轟く地平に、敵はなく――そう豪語する女王の傲慢さの顕れだ。
 それに、次の魔王はもはや眉根ひとつ動かしはしない。

「とむらくんっ、ポチタくんっ」
「なるだけ離れてろ。おまえも大事な戦力さ」
「……がんばってね。私、見てるからっ」
「そりゃあいい。観衆が居て強くなるってのは、何もヒーローの特権じゃねえからな」

 こんなものはもう、見飽きた。老害の振り翳す虚仮威し、旧時代の象徴よ。
 今までご苦労。もはやおまえに用はない。
 皇帝なき地平に君臨する"新時代"が、その治世に因縁を渡してやろう。

「――行くぜビッグ・マム、この世の何より屈辱的な最期をくれてやる。挑んでやるから、受けて立ちやがれ」

 開戦。
 銅鑼の代わりに、大地を深く抉る落雷が着弾して。
 それを以って四皇ビッグ・マムと敵連合の再戦の火蓋は、切って落とされた。


◆◆


 天満大自在天神。
 この国で振るうに相応しい、雷霆の御業。
 空から落ちて地に迸る雷の絨毯爆撃を、正面から切り裂き走るのはチェンソーの悪魔。
 継国縁壱、そしてベルゼバブ。雷を斬れる存在は決して皆無ではないが、この怪人もまたその一角だった。
 チェーンを伸ばし、空に浮かぶホーミーズ・ゼウスに絡めることで自身を天まで到達させる。
 此処までものの数秒。驚くほどの速さで玉座に迫ったその早業も、しかしリンリンにとっては予想の範疇。

「正面突破のつもりか。舐められたもんだねェ……!」

 拘束され藻掻くゼウスを助けるでもなく、彼から。
 そして彼の代わりに生み出した、同じく雷のホーミーズであるヘラからも。
 雷を吸い上げて、自らの右拳に灯す。
 そうまですれば、シャーロット・リンリンの剛拳に宿る雷の火力は既に宝具の真名解放にすら届く。

「頭が高ェぞ若造――這い蹲って頭を垂れな!」

 雷拳とチェンソー、二つの凶器が真っ向から激突する。
 壮絶なまでの音響を撒き散らしながら、鎬と肉体を削り合う両者。
 だが、その拮抗は決して長く続かなかった。

 チェンソーの悪魔。
 彼もまた、英霊としては最強クラスの剛力を有するサーヴァントだ。
 しかし上には上が居る。ビッグ・マムはまさにその典型例であった。
 女性でありながら、もうひとりの四皇……最強生物カイドウと正面から殴り合える規格外の怪力。
 それを前にしては、さしものチェンソーもすぐに限界が訪れる。
 徐々に押し退けられていく彼の姿にリンリンは笑みを浮かべ、雷の全てを込めて眼前のヒーローを地へ叩き落とした。

「"雷"!!
 "霆"!!」

 一直線に地面へ墜落し、クレーターを作りながら全身を強打するチェンソー。
 並の英霊であればこれだけで消滅していてもおかしくない一撃だったが、本気のリンリンがそんな慢心をするわけはなく。
 すぐさま彼女は、プロメテウスにより炎を降り注がせて火葬とも呼ぶべき追い打ちを決行する。
 その上でスルトを握り締め、完全に焼き払うべく咆哮しながら墜ちてやるのだ。

「"天耀焔剣(レーギャルン)"――!!」

 そして、着弾。
 かつて此処に聳え立っていたスカイツリーに匹敵するほど天高い、炎風の壁を余波として生み出しながら。
 戦略兵器の投下ですら喩えとしては不適当、そう呼べるほどの破壊を大地へ刻む。
 死んだか。リンリンは此処で初めてそう期待したが、すぐにそれを否定する音が響いた。

 ――ぶうん。チェンソーの駆動する音、救世主の心臓が動いている証。

 瞬時に敵の生存を悟り身を引いた女王は、その判断が正しかったことを知ることとなる。
 炎熱地獄の中から立ち上がったチェンソーマンが、袈裟懸け一閃。
 リンリンの心臓を両断するべく、視界が機能しない状態とは思えないほど正確で鋭利な斬撃を放っていたのだ。

「当たり前のように、おれの身体を斬れる前提で話を進めやがって……!」

 彼女はこれを、スルトの刀身で受け止めて防御。
 お返しとばかりに刀身を伝わせて炎を走らせ、直接その身を焼きにかかる。
 しかしたかが炎、たかが熱。
 かつて地獄で、ある山の破局噴火から生まれた悪魔を。
 あの炎熱の権化のような悪魔を殺し、喰らって消し去った彼にとっては――恐るるに足らない。

 前進する、チェンソーの悪魔。
 全身を燃やされながら、焼き焦がされながら、歩みを一時たりとて止めない。
 自らの死を毛ほども恐れない、まさに悪魔/ヒーローと呼ぶに相応しい姿。
 彼の強襲と時を同じくして、熱風の壁を当然のように乗り越えながら戦場に乱入を果たした者がもう一人。

「未来の魔王を除け者にすんなよ。寂しいだろうが」

 無論、その無法の代償は大きい。
 全身を焼き焦がされ、身体は半ば消し炭。
 それでも、前もって服用していた"地獄への回数券"が彼を超人に変えてくれる。
 焼けた皮膚はすぐさま再生し、焦げた細胞も異常な回復力で元の形を取り戻す。
 そうして迫った死柄木の魔手が、旧時代の皇帝へ向けて振るわれるが。
 相手は恐るべきビッグ・マム。たかが触れれば即死の攻撃程度で容易く殺せるのならば、彼女は猛者ひしめく大海賊時代に何十年と君臨していない。

「ヘルメス」

 リンリンの羽根付き帽子、黒羽のホーミーズの名が呼ばれる。
 知と計略の神の名を与えられたホーミーズは、その名に相応しくこの上ない最適のタイミングで空から矢を降り注がせた。
 量産されたベルゼバブの翅、それは一発一発が容易く肉を抉り骨を砕き、当たりが悪ければ手足を引き千切る魔弾に他ならない。
 それが空から、魔力に物を言わせて無数に――黒い雨と化して襲いかかる。

「王だと? その二つ名は、お前みてえな若造には想像も出来ねェほど重いんだ。
 身の程を知って朽ち果てなァ……"千変万化(カラーズ)"――!!」
「そのでけえ図体で重さの何たるかを説かれてもな。八つ当たりにしか見えねえぜ、老害……!」

 死の天蓋、黒々と取り囲む。
 飛来する黒羽に撃ち抜かれ、死柄木の脇腹が吹き飛んだ。
 如何にクーポンの効果による超人化を果たしているとはいえ、槍衾にされれば恐らく死の運命を免れないだろう。
 そして更に――羽と羽との間を繋ぐのは、ヘラの雷だった。
 ベルゼバブ及び縁壱との戦闘で披露した合体/合神戦法。稲妻を纏う羽は、一撃掠めただけでも体内を焼き焦がす殺傷兵器に他ならない。

「――ち、ィィイイイ……!」

 骨身まで焦がすような熱に、思わず噛み締めた奥歯が砕けた。
 油断をしたつもりはない。勝ちは決まった戦だが、消化試合だとまで驕ったつもりはない。
 それでも尚足りなかったとそう確信させる、身を裂く熱と痛み。
 咽ぶ魔王を見下ろしながら、更にリンリンは止まらない。

「来なァヘルメス! ヘラ! おれの翼となりやがれ!!」
『了解、ママ~~!』

 合神を果たした、雷と黒羽のホーミーズ。
 それをリンリンはあろうことか、自身の背中に装備したではないか。
 これによって誕生するのは、挑む者達にとっての悪夢。
 怪物シャーロット・リンリンは事此処に至って遂に、空を舞うための翼を手に入れた。
 雷翼を背負い、手には炎剣を握り。
 万物万象、森羅万象をその気まぐれで弄ぶ恐るべき女王が破壊の掌の届く範囲の外まで一瞬で離脱を果たす。

 そして放たれるのは"輝輝光煌(シャイニー)"、円周上に放たれて射程圏内の全てを切り刻む帯電鋼弾の釣瓶撃ち。 
 対地上制圧に特化した"千変万化(カラーズ)"とは異なり、こっちはより殺傷能力に秀でた範囲攻撃となる。
 これをチェンソーマンは切り裂き、落とし、強引に足を進めることで対処。
 一方の死柄木も羽を片っ端から手で触れ、致命的な負傷だけは避けながら戦線を維持する離れ業を成し遂げていたが――

 しかし、無論。
 ただ持ち堪えるだけが精々の烏合が相手ならば、ビッグ・マムは更に上の圧政を敷いて踏み潰すだけである。

「そォらどうした小僧ども!? 威勢良く吠えてみせたんだ、おれに寒気の一つくらいは覚えさせてみせろよ!!」

 ゼウスの雷に、背中の雷翼から追加の電力を供給。
 生前の裏切りの代償に自我を剥奪された哀れなホーミーズが、母の意向のままに過剰出力(オーバーヒート)を実現させる。
 母に逆らった者の末路だ。魂レベルで悲鳴をあげながら、一本の巨大な柱と化した雷霆が地へと落ちる。
 そしてそのまま――核爆発さながらに、スカイツリー跡地一帯を呑み込む"大放電"を引き起こした。


「――"万々雷(シャイニー・ママラガン)"~~~~!!!!」


 対城宝具の炸裂に匹敵する、大火力。
 地上を蹂躙しながら天空で笑うリンリンの姿は、まさに悪夢そのもの。
 ベルゼバブの混沌に身を焼かれ、継国縁壱の剣閃に肉を裂かれて彼女は少なからず消耗している。
 だが、それ以上に戦いの中で得たものは大きすぎた。
 新たなホーミーズを得て、何よりかつてないほどギアの上がった今の彼女の強さは――間違いなく過去最高。
 生前に玉座を追われた時のそれよりも、明らかに上を行くベストコンディション。
 君臨する絶望の母はいざ、自身の神威が焼き払った地表を愉しげに見下ろし……

「……! ハ~ハハハハ! そりゃ来るか、良いねェ!!」

 土煙の帯を切り裂いて現れた悪魔の姿を視界に収め、受けて立つぞと迎撃に移行した。
 雷翼を通じて電気を全身へと宿し、髪の毛すら蒼雷の鬣に変えて剛笑する姿はまるで"雷神"。
 恨み骨髄に怒りを燃やし、炎の化身と化しながら敵船を追いかけた逸話とはまた趣の違った鬼婆の姿。
 更に最悪なのは、背中のヘルメスを介して"ヘラ"と"スルト"、雷と炎剣の間にすら橋渡しを成し遂げてしまったことだった。

『ああああもう、暑苦しいわね! 全然タイプじゃないわ、貴方の頼みじゃなかったら絶対お断りよヘルメス!!』
『それは此方の台詞だ、毛羽立った醜女が。黒羽の口利きがなければ、骨身も残さず焼き払っている』
『ははっ……なんとか仲良くやってくれ。俺達のマムのためなんだ』

 これにて成立するは、燃える雷/感電する炎。
 雷剣スルトの誕生を以って、迫る地獄の殺意を迎え撃つ。
 火花が散る、それと同時にチェンソーの全身を駆け抜ける電気。
 打ち合うだけでも身体を削る雷剣は、しかし炎(スルト)の性質も当然有しているのだから熱でもチェンソーマンを苛み焦がす。

 それでも――止まらない。
 それが地獄のヒーロー。
 刃音響かせて、文字通り地獄の果てまででも追いかけて殺す無情の悪鬼。
 雷と炎の両方に同時に苛まれながら、音を遥かに超えた速度で連撃を放ってリンリンを責め立てる。
 リンリンには、その速度に応じるだけの機敏さはない。
 にも関わらず防御のラインを硬く保てている理由は、それだけ素の剛力と振るう火力の激しさが群を抜いているためだった。

「(――どうする? この野郎は次に何をしてくる!?)」

 高揚の中で、リンリンは考える。
 圧倒的強者である彼女が戦いの中で熟考するなど、そうそうあることではないが。
 ベルゼバブによって挑む者としての側面を呼び起こされた今の彼女は、チェンソーの悪魔が……そして。
 彼という逸材を擁して再び自分の前に立った"連合"の次なる動きに対して、何とか当たりを付けてやろうと目論んでいた。

「(こいつらの腹積もりとして、おれを殺すのは死柄木のガキにしたい筈。
  そうでなくても、空中戦じゃおれが圧倒的有利……となりゃ取る手は決まってるねェ)」

 死柄木が如何に覚醒し、"跳ねた"と言っても彼はあくまで人間だ。
 翼がないのだから空は飛べない、このチェンソーマンのように自力で同じ視座まで上がってくることも出来ない。
 となれば、考えは読める。
 翼を装備して自由自在に空を舞う自分を地に落としたいと――そう考えるのが道理だろう。


「そうはいかねェさ、落ちるのは今回もてめえの方だチェンソー野郎!
 ヘルメス! プロメテウス! アレをやるぞ、準備しなァ!!」


 させるかよ(・・・・・)と、リンリンはそう喝破する。
 地に落ちるのは王ではなく、身の程知らずに挑んできた側だ。
 太陽に向かって飛んだ蝋の翼が溶け落ち、愚者が墜ちて死ぬように。
 いつだって身の丈に合わない夢を見た者の末路は決まっている。
 本当に夢見た場所まで辿り着ける人間が、どれほど限られた存在であるかを――シャーロット・リンリンは知っている。

 ヘルメスの羽を背負う、プロメテウス。
 ベルゼバブをして全力でなければ迎撃不可能と、そう認識した一撃がその準備を整える。
 黒き鞘に納められる紅き剣――ヘルメスがリンリンへの飛行能力付与のために大部分のリソースを使っている都合、あの時ほどの威力ではないが。
 それでも、英霊の数騎なら纏めて消し飛ばせるレベルの熱量を一点に収束させた。

 翼をはためかせ更に上昇し、逃さぬと追い縋るチェンソーマンに向けて。
 ビッグ・マムは彼というイカロスを地に落とす、奈落を拓く流星を降らせた。

「――"玄"! "神"! "斬"!」

 玄神斬(プロデウスザン)――骨身も残さず焼き尽くさんと、走るその大斬撃は。
 確かにチェンソーの悪魔の肉体を捉え、全てを焼き溶かしながら地へ墜落させた。
 だがしかし、この時リンリンが浮かべた表情は会心のそれではなく。
 むしろ起こった事象に驚愕しているような、そんな顔であった。

「……ゼウスッ!?」

 地に落ちていくチェンソーマン。
 そのシルエットに引きずられるように……いや、事実として引きずられながら。
 猛烈な速度で地に向かい落ちていく、自身の下僕(ゼウス)の姿を見たからだ。
 自我を奪われ、感情を失い呆けたような目をした雷雲。
 そこに巻き付いているチェーンを見るなり、リンリンはすぐさま彼の意図に気が付いた。

「何してんだい愚図の間抜け! 早く戻って来――」

 叫ぶリンリンだが、ゼウスとて当然戻ろうとはしているのだ。
 にも関わらず落ち続けているということは、つまり戻る以上の力で地面に引かれているということであり。
 やがてゼウスは、奈落に向かい燃え盛る流星の内側へと呑み込まれた。
 そしてチェンソー共々墜ちていく、死出の星と化して潰えていく。
 燃え盛るチェンソーマンが墜落し、大爆発を引き起こしたその跡には……もはや全能神の名を冠したホーミーズの姿は欠片ほども残っていなかった。


「……やってくれたねェ。
 あの鋼翼野郎といいてめえらといい、揃いも揃って海賊から奪い取りやがって……」

 青筋を立てながら、地に沈んだチェンソーの悪魔を睥睨するリンリン。
 彼女の怒りを更に掻き立てたのは、いつそこまで近付いたのか、爆心地でエンジンスターターを引く紳士の姿だった。
 ジェームズ・モリアーティ。老いたる蜘蛛。犯罪卿なき地平にて、なおも蔓延り続けるもう一匹の犯罪卿(クモ)。
 ぶうん、と。音が響くなり――間違いなく完膚なきまでに、体内の器官を一つ残らず焼き尽くされた筈のチェンソーマンが再動する。

 不死身。
 その性質を此処で初めて、シャーロット・リンリンは理解した。
 地獄のヒーローに死はない。彼はあらゆる悪魔の恨みを買い、想像を絶する回数殺されるが。
 しかし何度でも何度でも、エンジンスターターを吹かして起き上がる。
 そのデタラメさを指して、支配の悪魔は"無敵"と評したのだ。

「第一幕はこれで十分でしょう。無事、我ら連合は貴女の手駒を一つ奪った」
「無様な負け惜しみだね、だが蜘蛛(おまえ)らしい。
 そっちの頭はおれの土俵に上がれもしなかったってのに、小手先の戦果で勝ち誇ってんだ。実に蜘蛛らしい、曲がり腐った性根じゃねェかよ」
「そう受け取っていただいても結構。ですが第二幕の終わる時、貴女は既に嘲笑を浮かべる余裕さえ失っていることでしょう」

 確かに。
 リンリンの言うことは、紛うことなき正論である。
 今、モリアーティが称した"第一幕"は彼女とチェンソーマンの一騎討ちと言って差し支えなかった。
 連合の王死柄木弔は空を舞う女王の戦場に一切噛めず、ただその全身を痛め付けられるだけの結果となった。

 だが、当然――彼らもそれは承知している。
 理解している、分かっている。
 そしてその上で、学んでいる。
 どうすれば手が届くか。どう手を伸ばすべきか?
 そんな煩悶の成果が牙を剥き、女王の喉元へ届くか否かは賽の目次第。

「……おい、チェンソー野郎。考えがある。次はそれを試すぞ」

 賽は今、再び投げられた。


◆◆


 開幕の口火を切ったのは、モリアーティによる対空射撃の連打だった。
 鉄の棺桶ライヘンバッハ、その内側から吐き出される鉄風雷火の大瀑布。
 それは見るも壮観な火力に物を言わせた正面攻勢であったが、しかしこのレベルの戦闘に持ち込むにしてはいささか心許ない。
 実際、リンリンはこれをホーミーズすら使わずに片手で群がる蠅のように振り払ってみせる。
 そして返礼のために地に向け放ったのは、背に装備した黒羽による一斉掃射だった。

「言葉の意味は分かるね? チェンソー君。
 言わずとも分かると思うが、この戦いにおける核は君だ」

 チェンソーマンは答えない。
 チェンソーマンは、喋らない。
 しかし彼は黒羽のほとんどにその電動刃で対処しており、結果としてモリアーティと死柄木が受ける損害は最小に留められていた。
 それは、彼が"連合の一員"……ライダー・デンジの延長線として此処にいることの証だ。

「彼を助けてやってくれたまえ。それがきっと、君の大切に思う少年の未来にも繋がるだろうから」

 その言葉にも、彼は何も返さない。
 頷くことすら、ない。
 だがそれでも、モリアーティは彼という奇怪な存在の一端を既に掴んでいた。
 ポチタ。神戸しおからそう呼称される彼は──恐らく"少年(デンジ)の味方"だ。
 そして彼に今かけた言葉にも、嘘はない。
 何故ならこの目で見ているから。チェンソーの少年が、あの小さな少女と絆を育んできた光景を。
 デンジにとって既に、神戸しおは捨てることのできない日常の一ピースと化している。
 であればその未来を保証することは即ち、彼を大切に思うこの悪魔にとっての幸いを意味する。

 たとえ年端もいかない幼子が相手であろうとも。
 自分に真っ向から弓を引き、その命を狙った相手を──ビッグ・マムが見逃す筈などないのだから。
 故に戦う理由は十分。勝つことで保証できる未来は、値千金にして不可欠。
 蜘蛛は念入りにチェンソーの悪魔の背中を押して、彼の翔び立つ背中を見送った。

「死なねえ敵ってのはこれまた厄介だね。だがある意味じゃ丁度良くもあるか……!
 お前の手足を引きちぎって、戦う力と気力を全部奪い取った上で永遠に飼ってやりたくなったよ!」

 ゼウスによる広範囲への雷撃を失ったところで、まだまだリンリンの手札は無数にある。
 プロメテウスによって繰り出す、天上から地上へと降り注ぐ炎……"天上の火(ヘブンリーファイヤー)"で迎え撃たんとしたリンリンの眉が、しかしまたしても驚きに顰まった。
 懲りずに空を舞う自分へ向かってくる、チェンソーの悪魔。
 その肩に、先ほどは確かに居なかった筈のもう一人が乗っていた。
 胴体にチェーンを数箇所貫通させ、それをチェンソーの肉体に結び付けることによって振り落とされる危険を低減。
 クーポンによる肉体の強化がなければ、まず間違いなく失血か内臓の損傷で死に至っているだろう無茶──いやそうでなくても、普通の人間ならば肉と骨を裂かれる苦痛に耐えられないだろう。

 にも関わらず彼は、それを笑みさえ浮かべながら決行に移した。
 今自分が蹴落とそうとしている皇帝と、ちゃんと正面から殴り合うそのためだけに。
 戦いの土俵に上がれたとはいえ、上空の風圧やリンリンの放つ攻撃の熱、衝撃、その全てが想像を絶する苦痛となって自分を襲うことになると分かっていながらそれを受け入れこの空に立った。
 勝因どころか、死因になる可能性すらあるのに。
 それでも──物怖じ一つすることなく、魔王は女王の統べる領域へと踏み込んできたのだ。

「……イカれてんねェ」
「あんたにだけは言われたくねえよ、もう完全に絵本の中の怪物じゃねえか」
「ママママ! 殺したくなるほど生意気な小僧だが、そのイカれた顔は悪くねェ!
 お望み通り相手してやるよ王様気取り──井の外の世界ってのを見せてやる!!」

 歓喜と戦意で、炎剣の刀身が爆裂する。
 炎の熱気もさることながら、それに混ざって吹き荒れる雷が強烈だった。
 命を失わずにいることが難しいような最前線で、それでも死柄木は手を伸ばす。
 そして自身の頭蓋と首に迫っていた二枚の黒羽を、その右手で粉微塵に崩壊させ。
 彼は──満足げに微笑んだ。

「なんだ。ちゃんと壊せるじゃないか」

 ベルゼバブの模倣でしかないヘルメスの黒羽にならば、彼の崩壊は通用する。
 それが分かっただけでも値千金だ。
 これで、自分が壊せないものはこの戦場に一つとして存在しないことが証明された。
 満足げに、安心したように、死柄木は引き裂くように歯を剥いてチェンソーの悪魔へと呟いた。

「羽は俺が壊す。子分どももだ。
 お前はババア本体を殺すか、地べたに落とせ」

 全身を焼き焦がされながら。
 人体模型然とした、焼死体もかくやの姿になりさらばえながら、それでも次代の魔王は止まらない。
 その手は触れた全てを崩し。貪欲に、そして冷静に自身が崩せる限りの攻撃を崩していく。
 彼に出来ない部分はチェンソーの彼の出番だ。炎であろうが、雷であろうが、この悪魔はその全てを電刃音と共に斬殺する。

 斬殺、斬殺斬殺斬殺斬殺斬殺斬殺斬殺斬殺斬殺斬殺斬殺――
 炎を、雷を、黒羽を、熱波を、斬撃を、衝撃を、全てを殺し突破する死の暴風。
 大立ち回りのツケとして同乗者の身体は毎秒挽き肉同然に破壊されていたが、それに再生を追いつかせることで強引に生命活動を続行し戦いに臨んでいる。
 天性のセンス。後先を捨てた戦い、殺し合いに対する無二の適性。
 鬼気のままに伸ばした手は、リンリンですら掠めることさえ許されない必殺必滅の毒手だ。
 彼女の剣で切断される可能性など欠片ほども恐れていない、ただ殺すことだけを考えた極狭の視野だからこそ実現可能な恐るべき"詰め"。
 チッ、と舌打ちを鳴らして距離を取り――リンリンはスルトの刀身にプロメテウスの火を纏わせる。

「舐められたもんだねおれも……! ンな苦し紛れの無茶苦茶で、四皇(おれ)が落とせるかよアホンダラァ!!」

 ただでさえ、スルトの熱量はプロメテウスのそれを凌駕しているというのに。
 そこに先代の炎を付与することによって、プロメテウスの拡散性を彼の熱に追加する。
 結果起こるのは、大熱波の爆発的な周囲への噴射だ。
 空間が融けていると錯覚するほどの陽炎を揺らめかせながら、咆哮と共に魔王への火葬を用立てる。


「"火(カー)"・"無(ネー)"・"消(ション)"――――!!」


 その大熱波は、地獄への回数券を服用して超人になったからと言って人間の身で凌げるものではない。 
 それどころか禁断の二枚服用(ギメ)をしていたとしても、まず間違いなく生き永らえることは不可能だろう。
 筋肉を骨を内臓を、跡形も残さず吹き飛ばす大熱量の前では"超再生"も形無しだ。
 よって死柄木弔は此処で詰み、連合は王を欠いて崩壊する――かに思われた。

 しかしながら、それをさせないのが魔王の乗騎。チェンソーの悪魔は、瞬時にして博打に打って出る。
 無理矢理に死柄木を引き剥がし、チェーンを繋いだ状態で後方へと蹴り落としたのだ。
 当然、反動はでかい。内臓が潰れ、死柄木は血反吐を吐く。
 筋肉の断裂はショック死しても不思議ではない苦痛を彼にもたらしていたが、その分得られるものも大きかった。
 彼の意図は、ビッグ・マムに対する一撃必殺のリーサルウェポンとなり得る死柄木を確殺圏内から逃がすこと。

 チェンソーマンは全身に熱を浴び、早くも二度目の死に限りなく近付いたが。
 命ある限り、その残量に関わらず疾走を続けるのが彼というヒーローだ。
 大技の後、一瞬の隙を晒した女王へ四方八方からチェーンを襲いかからせる。
 ビッグ・マムの眉間に皺が寄る。彼女は既に、このチェーンの硬さについて知っているからだ。

「だ~、か~、ら~、よォ~……!」

 そう、知っている。
 ならば、これは彼女にとって浅知恵だった。
 ヘルメスの羽根を撒き散らし、それでチェーンの軌道を反らす。
 拘束を免れながら、真下――自分に向かわなかった一本のチェーンによって、超高速で自身の元まで引き上げられ迫ってくる魔王に向けて降下する。

「考えが甘ェっつってんだよォ! "天上のボンボン"……!!」

 天を目指して翔ぶのなら、焼かれて落ちろと。
 傲慢な女王の決定が、火球の群れとなって死柄木を襲った。
 迫ってくる明確な死。視野が鮮明化する、体感時間が引き伸ばされる。
 ギガントマキアとの戦いの時ですら、こうも色濃い死を感じたことはなかった。
 あの災害のような怪物を、全てにおいて上回る正真正銘の"怪物"――四皇。
 彼女が繰り出すあらゆる死、あらゆる障害は、経験不足の魔王にとってこの世の何より有意義な教材になる。

「甘え、のは……! てめえの方もだろ、クソババア……!!」

 チェーンは真上へと引き上げられている。
 かと言って無策で上がれば出来上がるのは骨身まで焼き尽くされた焼死体だ。
 では、どうするか。答えは一つしかない。引かれていくチェーンを、クーポンにより強化された膂力に任せて操縦する。
 縦横無尽に自らの手で動かし、動体視力と直感に任せて火球を回避、ないし当たる位置を調整することで強引に生を繋いでいく。

 そうして一定の間合いまで登った頃には、顔面の半分が見るも無残に焼け爛れている有様だったが。
 掠りでもすれば値千金、必殺の魔手を間近で振るえる機会にありつけるだけでもお釣りが来る。
 苦々しげな顔をしながら、リンリンは炎剣により直接処断しようとするが――

「っ……本当に鬱陶しい野郎だね、お前はア!」

 スルトの刀身を、チェーンが絡め取る。
 強制的に始まる鍔迫り合い、剣とチェンソーの削り合い。
 そう、これは削り合いだ。何故なら――

『グ……!?』

 チェンソーマンは、ただの足止めではなくこの瞬間も攻撃のみを考えている。
 チェンソーと鉄剣が正面から激突すれば、常に回転を続ける刃は容易く鉄の刀身を叩き折るだろう。
 それと同じで、この悪魔は燃え滾るマムの炎剣を削り、物理的に破壊しようと目論んでいた。

 ゼウスの次はスルトを。
 雷の次は、炎剣を。
 指を一本一本、丁寧に削ぎ落としていくように。
 女王の手駒を削る手を、この状況で打ってきた。
 死柄木への迎撃を万全に行わせないようにしつつ、その実皇帝殺しに着々と近付いていく異常なまでの手腕の良さ。
 悪魔(モノ)を殺すということ、その一つの形。
 必ず殺すという意志が、騒音掻き鳴らす刃と化してシャーロット・リンリンへ襲いかかる。

「――ッ!」

 喉元へと迫る、滅びの手。
 背筋が粟立つ。間近まで迫る髑髏の幻影を、確かにこの時リンリンは幻視した。
 だが跳ね除ける。そんなものに奪われる皇帝(おれ)かよと笑い飛ばし、怒りのままに叫んだ。

「邪、魔、だァ~~~~~~!!」
「――――がッ……!?」

 皇帝の壁、未だ厚し。
 文字通りに蹴落とされ、地まで逆戻りさせられる魔王。

 死の運命を蹴り飛ばし、次に見据えるのはチェンソーマン。
 黒い稲妻を迸らせ、力任せに魔力を集中させてチェーンを引き千切る。
 素手ならば無理でも、炎剣にあらん限りの魔力を込めれば不可能は可能となる。
 これぞシャーロット・リンリン、ナチュラルボーンデストロイヤー。
 彼女の前で不可能という概念ほど、意味を成さないものもない――が。
 それは魑魅魍魎がひしめく地獄で今も昔も恐れられ続けている、チェンソーの彼にしたって同じことだ。

「チィイイイイ……!」

 引き千切られたなら次を用立てる。
 次も無駄ならその次を。
 そうやって、力ずくで――翼を生やし空に君臨し続ける女王を地面まで引きずり落とす。
 リンリンも暫くは抗戦していたが、それも位置エネルギーと爆発的な推進力で真下へ誘ってくるチェンソーマンの前には及べない。

 ややあって、夜の墨田区に衝撃が炸裂した。
 轟音、隕石の墜落を思わせる震動と粉塵。
 それが晴れた時、そこにいるのは未だ削り合いを続けているリンリンとチェンソーの悪魔。
 リンリンが熱でチェーンを劣化させ、剛力で引きちぎって離脱するが。
 空には逃さない。それだけはさせじと、チェンソーマンの目にも留まらぬ連撃が邪魔をするし。

 彼のに比べれば雀の涙であるとしても、モリアーティによる援護射撃もそこに追い打ちをかける。
 翼を執拗に狙う砲撃に、ヘラの耳障りな悲鳴があがった。
 煩わしげにそれを振り払うリンリンへ、迫るのは崩壊の右腕だ。

 大地に触れた手が、崩壊を拡散させ再びの大破壊に発展させる。
 こればかりは、肉を斬らせて骨を断つ――とはいかない。
 人間の身でありながら、リンリンは間違いなく彼の手にこそ最大の意識を割いて警戒するのを余儀なくされていた。
 地面を強く打ち据えて飛び上がり、どうにか巻き込まれるのだけは避ける。
 しかし引き続き、彼女を空へ逃さないための包囲網は継続していて――

『ま、ママ! 痛いわ、このままじゃ千切れちゃう!!』
『これは、ちょっとマズいな――』
「ごちゃごちゃうるせェぞお前ら! 悲鳴あげてる暇があったら魔力を練りな!!」

 背中の翼に複雑にチェーンが絡み付いて、跳躍以上の離脱を許さない。
 痛みに叫喚する翼を一喝しながら、リンリンは炎剣を振り翳すが。
 度重なる打ち合いの中で、一瞬ながら剣の構えがブレたのをチェンソーは見逃さなかった。
 その空隙を縫うように走るチェンソー。その刃身が、袈裟懸けに母の巨体を斬り付ける。

「ぐッ……! ハ~ハハハハ……なかなか効くねェ……! ――だが!!」

 白目を剥いて喀血するが、こんなものではリンリンは止まらない。
 返す刀で、その剛腕がチェンソーマンの首根っこを掴んだ。
 そのまま、まるで玩具の人形のように軽々と持ち上げて――地面へ、頭から叩き付ける。
 壮絶な轟音と共に報復を終えたなら、次に見るべきは迫る崩壊の手の方で。

「おれを誰だと思ってやがる!? おれは……"ビッグ・マム"だぞ!!」

 触れれば終わる?
 ああ、ならば触れなきゃいいだけだな、と。
 神をも恐れぬ渾身の一撃。武装色で硬化させた拳で、王を僭称する青年を殴り飛ばす。
 全身の骨を砕きながら吹き飛ばし、今度は鎖に絡め取られた雷翼を分離させた。

「このおれと同じ土俵で戦いたいって!? そうかいそうかい、そうまで言うなら受けてやるよ!」

 しかしそれは、ヘルメスとヘラの合神ホーミーズを完全に自由にするということ。
 空を埋め尽くすように展開された雷羽の総数は、膨大な魔力に物を言わせて生み出しているだけあり数百は下らない。

 ――そうだ。

 これこそが、四皇ビッグ・マムを、天候を操る女を相手取るその意味。
 彼女の前では全てが下僕となり。彼女に挑めば、この世の全てが敵になる。
 胴の傷から少なくない出血を垂れ流しながら、それでもまるで弱った素振りは見せずに君臨し続けるその巨体。
 雷と炎と、世界を焼く者の名を与えられた剣と。それらの間に橋渡しをする、心優しい黒羽のホーミーズを携えて。
 威風堂々、地に立つ。地獄の悪魔も裸足で逃げ出す、暴力と威厳を武器にして。


「来いや青二才がァ……! 格の違いってもんを見せてやるよ……!!」


 ――いざ、空の百花が繚乱へと至った。

 花が咲く、雷鳴の花が。
 黒い桜吹雪が、地に落ちる。
 本来ならあの忌々しい鋼翼や、ちょこまかと煩い侍を確実に潰すために用いたかった技だが。
 目障りに視界で蠢くこの"連合"を確実に掃除し、霊地平定の祝い酒の代わりにするために用いるのも悪くはない。


「芸がねえな。似たようなのをさっき見たぜ」

 恐るべき、死の洪水。
 しかし、やるべきことは変わらない。
 最初から何一つとして変わってなどいない。
 降り注ぐそれを、むしろ歓迎するように見つめ。
 微塵の恐れもなく、両腕を振るって粉砕しながら突き進む死柄木。

「合わせろチェンソー。気に食わねえが共同作業だ、長引かせれば長引かせただけこっちが不利になんだろ」

 そう呼びかけ、この逆境すら快進撃のための狼煙にせんと。
 魔王と呼ばれる者に相応しい不敵さで言う彼だったが――
 チェンソーに迎撃を任せる筈だった翼は、されど食い止められることなく彼の土手っ腹に風穴を開けた。

「――は? おい、てめえ……」

 眉根を寄せる死柄木だったが、視線を向けた先で何が起きたのかをすぐに理解する。
 チェンソーの悪魔は、チェンソーマンは、こと殺すということに関してはこの聖杯戦争でも最上の能力を有する怪物だ。
 何しろ令呪の消費を前提にしなければ引っ張り出すことすら叶わない"奥の手"。
 現界の上で必要となる条件は重いが、その分一度出てくれば四皇級の実力者ですら対処に難儀する。
 それほどまでの存在だが――しかし、今の彼はあくまでもサーヴァントというシステムに依存し、何とか現界を保っているだけの微かな存在である。

 骨まで焼滅させる大熱波ならば耐えよう。
 巨人すら投げ飛ばし殺す剛力の一撃を受けようが、問題なく戦闘を継続させよう。
 それでも……要石。
 彼、そして彼が愛する少年の戦う理由である――マスター。
 そこを直接狙われれば、さしもの彼も戦線の維持はしきれない。

「ママママ……! ガキ共の仇討ちに来たんだね、あいつらしいもんだ……おい! おれの足手まといにだけはなんじゃねェぞ!?」

 そうだ。
 この戦いには、ビッグ・マムと敵連合の全面戦争には……もう一人、欠かすことの出来ない役者が居る。

 連合(かれら)に仲間を殺され。
 連合(かれら)に絆を踏み躙られた、少年王。
 今はもう滅び去った、心の割れた子供達の楽園にて王子と呼ばれた殺し屋が。
 顔にガムテープ巻き付けて、隻腕に殺意と使命を載せて、逆襲(ヴェンデッタ)果たさんとやって来た"彼"が居なくては。
 全ての因縁を清算する、決着させるための戦いなど――出来るわけもない。

「分かってんだろうね――――ガムテェ!」

 殺しの王子様(プリンス・オブ・マーダー)、ガムテ。
 彼の到着を以って、遂に本当の意味での全面戦争がその幕を開けた。


◆◆


 ――――ずっと、この瞬間(とき)を待っていた。


◆◆


 仕事は、確実に遂げられる筈だった。
 まずは第一歩だ。戦況を見守る神戸しお、"あいつ"が訣別した妹。
 その首を刺し、一撃で命脈を断ち切ってあの"チェンソー頭"を消滅させる。
 事実、途中までは完璧だった。しおは振り向きすらしなかったし、確実に殺せる筈だった。
 それが叶わなかった理由は、チェンソーの悪魔が彼に向けて飛ばしたチェーンがナイフの刀身を砕きお釈迦に変えてしまったことだ。

 ――チッ。この距離でも届くのかよ、反則野郎(チート)が。

 毒づきながら、しかし深追いはしない。
 事実、ガムテが身を引いた一秒後には彼の身体があった地点を駆け付けた悪魔のチェンソーが一閃していた。
 人間の身で受け止められる一撃ではない。ガムテの身のこなしと、天性のセンスがなければ今の一瞬で死んでいただろうことは確実である。
 チェンソーマンは確実にガムテを屠るべく足を進めようとするが、それはリンリンが許さない。
 無数の黒羽が、しお諸共彼を槍衾に包まんと乱射されたのだ。
 当然こうなれば、如何にチェンソーマンと言えども守護(まもり)のために足を止めるのを余儀なくされる。

「……来たんだ、ガムテくん」
「ああ、来たぜ。つーかあれだけ生意気(ナマ)かまされといてよ、極道(オレ)が黙って泣き寝入りするわけねえだろうがァ」

 九死に一生を得たしおが、ガムテに対して話しかける。
 それに対してガムテは、今殺そうとした相手に対して向けるとは思えないような、どこか気安さすら滲んだ口調で応えた。
 役者は、全て揃っている。己が殺すべき者、殺すと決めているが今はまだその時ではない者。
 ガムテにとっての"敵"だけが、この地獄絵図めいた戦場に雁首揃えて立っていた。

「じゃあ、もうこうしておはなしできるのもさいご?」
「そうだな。オレはお前も、お前の兄貴分気取ってるあの白髪野郎も全員此処でブッ殺す。
 一人だって逃がしはしね~……もう、誰一人としてな。お前らの聖杯戦争は此処で終わりだ」
「……ん、わかった。でも、ひとつだけ聞いてもいい?」
「質問次第だな。で、何~?」

 これから始まる殺し合いに、神戸しおが噛める余地はない。
 彼女もクーポンの影響下にはあるものの、所詮はそれだけだ。
 今は亡き割戦隊(ワレンジャー)にすらその戦闘能力は遠く及ばず、サーヴァント同士の戦いに割って入るなど自殺行為以外の何物でもない。
 彼女自身、そのことは分かっている。そして身の丈に合わない背伸びをするつもりもなかった。

 だが、ひとつだけ。
 これが"さいご"になるなら、ひとつだけ聞いておきたいことがあったのだ。

「お兄ちゃん、あれからどうなったの?」
「あさひ? 死んだよ」

 兄、神戸あさひの行方。
 別に家族の情が湧いたわけではない。
 ただの、興味本位だ。此処を逃せばずっと分からないままかもしれないと、そう思ったから聞いてみたというだけ。
 それに対してガムテが返した答えは、感傷も何もないごくごく簡素なものだったが。
 その答えを聞いたしおは、少しだけ――ほんの少しだけ、"自分"に驚きを覚えた。

「……そっか。死んじゃったんだ、お兄ちゃん」

 兄(あのひと)は、もう神戸しおにとってどうでもいいものの筈だった。
 それは今も変わっていないし、きっとこれから先変わることもないという確信がある。
 だけどガムテの口から聞かされた兄の顛末、彼があの戦いの後で命を落としたという事実を聞いて。
 しおは、ほんの少しだけれど……何か失ったような、そんな心の欠落を感じたのだ。

「涙くらい浮かべろよ。あいつも浮かばれねえな」
「あはは、いいの。お兄ちゃん、どんな風にしんじゃったのかはわかんないけど……」

 ――その空白はきっと、すぐに埋まるだろう。
 ――神戸あさひは、神戸しおにとって必要な存在ではもはやないから。
 ――死をもってしても、彼は彼女にとっての癒えない傷にはなれない。
 ――兄妹の道は分かたれたまま、ひとつの終わりを迎えた。
 ――だけど。それでも。

 あの戦いの中、あの一瞬。
 ほんのわずかではあったけれど、道を分かたれた彼らがきょうだいとしての会話を出来たこと。
 それぞれの心を通わせることが、出来たこと。それは、きっと……

「ほんのちょっとだけ、最後に見たお兄ちゃんは好きだったから」
「そうかよ。天国(アッチ)であいつも泣いてんじゃね? あいつ、見るからに涙脆そうだったし」

 一足先にこの界聖杯を去った彼にとって、ひとつの救いにはなったろう。
 手を取り合うことは出来なくても、通じ合うことは出来た。
 いつかの病室で途切れた筈の絆が、あの一瞬だけは確かに再び触れ合ったのだ。
 そして兄の死は、違う道を歩む家族の心にも伝わった。
 一時とはいえ、ほんのわずかな瞬間とはいえ。
 「その時」、彼らは確かに"神戸"の家族だったのだ。

「じゃあな。全員殺したら、最後はお前だ」
「うん、ばいばい。ガムテくんが勝てたら、またおはなししてあげる」
「客寄せ女(キャバジョー)みてえなこと言うんじゃねーよ。愛しのさとちゃんが泣くぜ」

 神戸あさひの心は、割れていた。
 ガムテは今でもそう思っている。
 しかしその死には、確かに一抹の救いがあったこと。
 彼の妹に対する想いは、ほんの微塵とはいえ彼女に伝わっていたこと――その事実は。
 あまりにも多くのものを失い、今復讐のため戦火に飛び込まんとしている王子の耳にはどう響いただろう。
 心の割れた子供達の王子であり、象徴(リーダー)であった彼の耳には、どう。

 ……答えは、彼にしか分からない。
 そしてきっと、答えが彼の口から紡がれることもない。
 王子は失ったもの、去っていったものを振り返ることなく。
 彼らの重さ、その全てを背負って走るだけだ。
 いつかその命が終わり、微塵と化して地獄に落ちるまで。

 ネバーランドの少年王は、ただ走り。
 そして、ただ殺すのだ。
 彼はそれしか知らないから。
 それ以外、幸せになる手段(すべ)を持たないから。


「……行くぜ、死柄木弔


 地を蹴る。
 そして、風になる。
 握るのは懐から取り出したもう一振りのアーミーナイフ。
 そこに魂が入り込み、それは英霊をすら殺傷し得る"兵器"に変わる。
 これで準備は万端。魑魅魍魎が跋扈する全面戦争の中を、殺し屋ガムテは標的めがけて一直線に疾走した。


「このオレが! 今此処でッ! てめえを――――ブッ殺す!!」


◆◆


 一筋の風が、走る。
 死柄木は迫るガムテの凶刃を、目視してから身を屈めて避けた。
 続く一歩で間合いを詰めて右手を伸ばし、ガムテもまたそれを躱す。
 それを繰り返す構図はごく単純なものだったが、その死で死を切り抜ける独楽回しは際限なく速度を上げていく。

 しかし、両者の立場には明確な差があった。
 急所と部位切断さえ避ければ必ず巻き返せる死柄木と、反面一撃でも受ければその時点で死が確定するガムテ。
 誰がどう見ても前者に分がある状況でありながら、戦況の優劣は意外にもすぐさま現れ始める。

 死柄木の回避が、ガムテの刺突の速度に追い付かなくなり始めたのだ。
 その理由は明らかだ。センスだけで戦っている人間と、センスと場数を併せ持っている人間の差。
 数週間に及ぶギガントマキアとの戦い、そしてこの聖杯戦争で経験した幾つかの戦場。
 それらのみを寄る辺にしている死柄木に比べて、ガムテは数倍、数十倍……いや数百倍もの鉄火場を経験している。

 こと殺し合いの土俵において――殺し屋ガムテは死柄木弔の遙か先を行く。
 そしてそこに、黒く深く燃え上がる復讐心を加算すれば。
 彼の強さの次元は、先ほど新宿で一瞬矛を交えた時のそれとは比較にならない。
 両眼を潰して視界を奪いながら、喉元を一撃して即殺を狙うガムテ。
 対する死柄木は、視界を潰された中で音だけを頼りに蹴りを放って迎撃を仕掛ける。
 ……が、それもやはり空を切った。

「(鈍重(トロ)いぜ、魔王ごっこのクソ野郎が)」

 返す刀で切り刻む、刃の先端が頸動脈を引き裂いて大量出血を引き起こさせた。
 殺すまでには至らないが、しかし十分牙城は崩せている。
 鈍重(トロ)い。そして稚拙(シャバ)い。獣のような疾い身のこなしには最初こそ面食らったが、それも今なら視える。
 そう――今のオレなら、視える。

 ……ガムテには未来がある。
 掴まなければならない未来。そして、掴みたい未来がある。
 だから明日を捨てる二枚服用は出来ない。
 だがそれでも、今の彼のパフォーマンスはあらゆる点で新宿で見せたそれを超えていた。
 "暴走族神"殺島飛露鬼と戦っていた時のものよりも、更に上。
 その速度と動きの冴えは、もはや本職(サーヴァント)の領域に足を踏み入れてさえいる。

「当たるかよ。一発だって喰らってやんねー」
「……、……!」
「お前の全部、オレが此処で否定する。
 お前には何も成し遂げさせねえ。徹底的に、このオレが奪い尽くす。
 絶望に挑んで死んだあいつらの為にも、お前に特大の絶望ぶつけて完全否定してやる」

 視界が再生した死柄木が、地に手を着いて崩壊を伝播させる。
 死の大波濤はしかし、ガムテにとって既に既知の概念だ。
 知っているのならば、対応できる。
 八艘飛び宛らに相手の身体を踏み台にして跳躍し、滞空したまま滅多刺しの刺突を放って死柄木を血達磨に変える。
 鬱陶しげに振るわれる右腕を叩き割って、崩壊が収まった丁度その瞬間に地面まで戻り、心臓狙いでナイフを突き出す。

 幸いにして、外れた――が。
 それならそれでも構わない。

 どうせ死ぬまで殺すのだ(・・・・・・・・・・・)
 一度や二度、三度や四度……いいや何度だって構わない。
 死から逃れたければ好きにしろ、助かりたければ好きにしろ。
 それも含めて、殺してやる。
 お前が本当に死ぬその時まで、何度だって殺してやると。
 ガムテは冷たく、昏く燃え上がる殺意を瞳に宿しながら、何百もの刺突で仇敵にそう告げていた。

「オレがお前の絶望だ」

 ……死柄木がガムテに対し、攻めあぐねている理由。
 それは皮肉にも、彼が戦闘慣れしてきたことにあった。
 今の彼は、ガムテほどの使い手が相手でもその動きを目で追える領域にまで成長している。
 だからこそ分かるのだ。もしもタイミングを誤れば、崩壊が届くよりも先に自分の手が切り落とされると。

 ――地獄への回数券は、部位の欠損までは補えない。
 切り落とされた腕や足は、二度と治らない。
 その弱点が、"手"を介して個性を発動させねばならない死柄木の足を引く。

「逃げてもいいぜ? すぐに追い付いて殺すけど」

 であれば、取るべき選択肢は一つだ。
 自分の命を刈り取りに来るその刃に、死柄木は驚異的な反射神経で手を合わせる。
 とはいえ指先が軽く刀身を掠めるだけが精々。
 死柄木弔の"個性"の恐ろしいところは、これだけでも直撃と同じだけの成果を確約出来る点にある。

 刀身が崩れる。
 崩壊は柄にまで伝わって、ガムテの得物を塵に変える。
 次の得物も無論備えてはいるだろうが、そもそも抜かせなければいい話だ。
 前に踏み込んで、満を持して凶手を振るう――絶望とやらを壊すために。

「甘ぇんだよ、バァカ」

 そんな死柄木の顎を、ガムテの爪先が蹴り飛ばした。
 人体の急所を確実に打ち据える蹴撃に、ほんのコンマ数秒の時間ながら死柄木の脳が震える。
 眩んだ視界に紛れながら、悠々とガムテは三本目のナイフを抜刀。
 まだホーミーズ化は済ませられていないが、それでも"人間"相手なら十分だ。
 旋風と化したガムテが、一瞬の勝機を逃した魔王を見るも無惨に切り刻んだ。

「凶器(どうぐ)壊せばえ~ん僕ちん戦えまちぇ~~んとか泣くとでも思ったか?
 殺し屋名乗って極道張ってんなら――徒手空拳(まるごし)鍛えてんのは当然だろォが。素人と一緒にしてんじゃねえぞ」

 ……全ての勝機を、無慈悲に奪う。
 奪った上で、実感させる。
 自分は喧嘩を売ってはいけない相手に、喧嘩を売ったのだと。
 決して奪ってはならない相手から、奪ったのだと。
 骨の髄まで教え込んで、後悔させて、絶望に喘がせる。
 そうして魔王を奴隷に変えて、笑いながら刺し殺してやる。
 有言を実行で貫き続けるガムテとは裏腹に、虫の息と化しつつある魔王は静かだった。


 彼はまだ絶望していない。
 していないが、この状況を訝ってはいる。
 どういうことだと、そう疑義の念を募らせていた。


「(なんで、ジジイはこっちに加勢してこない?)」

 自身の新たな教師であり、この戦いを"節目"だと語ったジェームズ・モリアーティ
 彼は今、チェンソーの悪魔と共に四皇ビッグ・マムとの交戦に興じていた。
 マスター相手にこうまで苦戦させられている自分が悪いと言われれば反論の余地はないが、それにしてもこれが危険な状況であると分かっていないとは思えない。
 加勢の一つ、援護射撃の一つでもあればまだ状況は変わるというのに――一向にあの老蜘蛛がそうする気配はなかった。

 以前の死柄木ならば、不快感を募らせて直に真意を糺していたかもしれない。
 だが、今の彼は違う。疑問は抱きながらも、自分の頭で考えていた。
 蜘蛛は何故、糸を差し伸べて来ないのか。
 情けない話だが、このまま正面勝負を続けていればこっちが殺される可能性が高いのは否めない。
 だというのに、こちらを救援する以上に優先する用があっちの戦場にはあるというのか。
 否、……それとも。

「――ははっ。本当にイラつかせるジジイだぜ」

 この煩悶も含めて、奴の蜘蛛の巣の上なのか。
 蜘蛛の真意を読み取れるほど、死柄木弔は聡明な男ではない。
 だから敢えて糸から外れようとはせず、巣の形を読もうとはせず。
 糸に絡まりながら、踊り続けることを決めた。
 何、簡単だ。そう難しい話でもない。要するに、死ななければいいだけのことなのだから。

「うし。それじゃ続けようぜ、絶望くん」

 ――お望み通り、殺し合ってやろう。
 絶望を名乗る殺し屋と、血肉に塗れながら踊り狂おう。
 死柄木は全ての疑いを脳裏から排除して、狂気の笑みを浮かべながらガムテの死風へと突撃した。


◆◆


 自分がどれほどの無理難題を押し付けていたのかを、ジェームズ・モリアーティは事この時に至って実感していた。

 暴れ狂う鬼母の猛威は、サーヴァントの次元を超えている。
 神獣神霊の類にすら匹敵するだろう破壊力とタフネス、技の幅。
 あの身体に傷を刻んだ者達はどれほど規格外なのかと、気の遠くなる思いにすらなった。
 あれは鉄の風船だ。少なくともモリアーティの手持ちの火力では、最低でも宝具を発動しなければ話にもならないだろう。
 現に先ほどから彼が行っている砲撃・射撃の類は何の効果も生むことなく、目眩ましと牽制程度の役割しか果たせずにいた。

「――"威国"ゥ!」

 炎剣を使い、放つのは燃える大斬撃。
 モリアーティ達が到着した時には既にスカイツリーは跡形もなく消し飛んでいたが、どの道彼の寿命は短かったに違いないとこれを見れば分かる。
 こんなもの、当たればどんな高層建築物でも耐えられはしないだろう。
 鉄筋の一本でも残せたなら大したものだと、そう褒め称えられるレベルだ。

 そして、そんな規格外の怪物と間近で切り結んでいるチェンソーの彼もまた凄まじい奮戦だった。
 退かない、怖じない。常に最前線をキープしながら、殺意の音響を撒き散らして壮絶に切り結ぶ。
 リンリンの右腕に雷が宿り、そのまま"雷霆"と化してチェンソーマンを打ち据えるが。
 素の耐久力だけでそれを凌ぎ切り、逆に女王の脇腹を抉り斬る。
 鮮血を散らしながら、しかし女王もタダでは済まさない。
 皇帝の身体に傷をつけたのだ――そんな狼藉者は処刑と相場が決まっている。

「刃母の炎ィィィ――!!」

 焼き切る一撃で叩き伏せ、ギロリとその眼球がモリアーティの方を向く。
 数多くの修羅場、鉄火場を切り抜けてきた犯罪界のナポレオンですら寒気を禁じ得ない殺気……これが四皇。
 格の違いを感じながらも、しかし迎撃以外に取れる手はない。

「やれやれ。不退転、などという柄ではないのだが」

 ライベンバッハが火を吹く。嵐を鳴らす。
 皮膚を破くのは無理でも、眼球や口内に打ち込めば多少のダメージにはなるだろうと踏んでのことだった。
 しかしリンリンは、モリアーティの生半な攻撃に対しては回避しようとすらしない。
 それどころか、逆に仕掛ける。爆風を切り裂きながら、その巨体に見合わない速度で一気に距離を詰めて――

「ハ~~~ハハハハハ!」
「ごは、ッ……!!」
「ママママ……! ようやくてめえのムカつくツラが歪むのを見れたよ! いやあ、満足だ満足だ!!」

 一撃。黒化した拳が振るわれた。
 防御はした筈だった。
 にも関わらず、全身の骨が砕け散るかのような強烈な衝撃が駆け抜け蜘蛛は血を吐く。
 意識が飛びかける。ただの一撃でこれとは、どれほど出鱈目な女なのか。
 しかし悲観する暇はない。至近距離で炎剣が振り上げられ、皇帝を虚仮にした犯罪人に対する処刑の刃が落ちてくる。

「(……! これは――もう一撃は、止められないな)」

 緊急離脱の砲撃で、何とか事なきは得た。
 が、ライベンバッハは既に半壊状態に陥っている。
 たった二度の無茶でこの有様とは、全く笑えない話だった。

 幸い、それ以上の追撃はない。
 復帰したチェンソーマンが、またあの苛烈な攻めでリンリンに押し迫ってくれたためだ。
 彼ならば、ともすれば単身で女王を削り切れるだろうか。
 皇帝を蹴落とし、敵連合のために地平を切り拓いてくれるだろうか――

「(いいや、流石にそう上手くは行くまい。
  あのご老人は紛れもなく傑物だ。皇帝を名乗るだけのことはある)」

 その楽観的な考えを、モリアーティはにべもなく自ら否定する。
 あり得ない。そう容易く、あの怪物を蹴落とせるとは思えない。
 そしてその予想は、彼の見上げる前ですぐさま的中する。
 チェンソーマンを蹴り飛ばして強引に距離を取らせたリンリンが、おもむろに自身の握る炎剣を放り投げたためだった。

「なかなか大したもんだが、いい加減にガキの悪足掻きに付き合うのも飽きてきた。
 此処らで綺麗さっぱり終わらせちまおうじゃねェか――なァ!? お前らァ!!」

 スルト、プロメテウス。
 そしてヘラ、ヘルメス。
 四体のホーミーズが、空に飛んでいく。
 ヘルメスの仲介により成立する、ホーミーズ達の大合体。
 皇帝剣ナポレオンが健在だった頃、彼らは鳴光剣(メーザーサーベル)という合体形態を有していたが。
 出力でナポレオンを凌駕するスルトと、ホーミーズの連携を劇的に向上させられるヘルメスが加わった今可能となる合体はその比でなかった。


 ――立ち上がる。
 母の魔力を、魂を、余すところなくふんだんに注がれた傑作四体。
 素体はプロメテウス。炉心はヘラ。
 外殻はヘルメス。そして剣は、スルト。
 リンリンの背丈をすら凌駕する巨体が、立ち上がった。

「……流石にこれは、笑うしかないネ」

 乾いた笑いが溢れる。
 此処までか。此処まで、この女王はやってのけるのかと。
 そう思わずにはいられない悪夢が今、モリアーティ達のことを見下ろしていた。

 "それ"は、巨人だった。
 煌々と燃え盛る全身を、蜃気楼のように揺らめかせる。
 炎の、巨人だった。
 巨剣を携えて立ち上がり、外敵の撃滅のためにその熱量の全てを使う――女王の近衛。
 あるいは――巨人の王。
 そう呼ぶに相応しいものが今、足掻き続ける"新時代"の導き手達を屠り去るべく満を持してその姿を現したのだ。


「――――"巨人王(ゲッテルデメルング)"」


 神の名を冠する三体と。
 神代の終わりを冠する一体。
 それらが束ねられた合体形態、神々の黄昏(ゲッテルデメルング)を冠する巨人王。
 全てを滅ぼす最大の死を前にして、ジェームズ・モリアーティは静かに悟った。


「(……いやはや。我が事ながら、こうまで嵌ると自惚れの一つもしたくなってくる)」

 やはり、自分の見立ては正しかった。
 あの時閃いた未来/描き出した方程式は、正鵠を射ていた。
 この巨人を見て、遂にそれは確信へと至った。

「さて。では、そろそろコインを投げようか」

 ……蜘蛛の中には。
 我が子を産むなり、己の血肉を最初の餌として与える種類が存在する。
 であれば、これもきっとそう逸出したことではないのだろう。
 或いは誰かを育て、導くと決めたその時点で。
 こうなることは決まっていたのかもしれない。

「――死ぬには良い朝だ。さあ、今こそ方程式の解を導き出そう」


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最終更新:2023年01月25日 15:11